コーチングの効果がない理由

コーチングというと、もっとも効果が上がる指導教育法として定着しているが、実際に導入した企業では、思ったほどの効果がないという課題に遭遇している。コーチングという手法が開発されて提唱されたのは、そんなに古くない。米国で1992年から始まり、日本に紹介されたのは1997年頃だと言われている。当初、それまでのティーチング型の指導教育の効果が芳しくなかったことから、急速に普及した。そして、ある程度の教育効果が認められたことから、多くの企業において採用すると共に、コーチングのセミナーが各地で開催されるに至っている。

コーチングとは、受講者への傾聴と共感を基本にして、さらには適切な質問をすることで受講者の自らの気付きや学びを啓発する指導手法である。なんのことはない、カウンセリングの方法を指導教育に転用しただけである。このコーチングをする際に大事な事は、受講者をけっして否定しないという点である。寛容と受容を基本として、受講者の欠点やマイナス面を指摘して、それを否定することを避けるのを原則とする。こうして、これは効果があるに違いないと認知され、コーチングはもてはやされたのである。ところが、特定の社員や職員には効果がある程度あるものの、大半の者にはまったく効果が上がらないという現実に突き当ったのである。

何故コーチングが大半の者に対して効果が上がらないのかというと、コーチングをする側の問題と受講者側の問題の両方が存在する。まずコーチングを受ける側の問題としてあげられるのは、メンタルモデルが固定化してしまっているということである。別の言葉で言い換えると、指導される人に低劣なドミナントストーリーが存在していて、他の考え方を受け容れることが出来なくなっているのである。養老猛さんが主張した『バカの壁』である。この低劣なメンタルモデルが脳に固着してしまうと、正しい考え方を聞いてもすべて素通りさせてしまうから、指導教育の効果がまったくないのである。

コーチングする側にも問題がある。コーチングの指導技能のレベルが低いということもあるが、それ以上にコーチングする人の自己マスタリーが確立されていないという問題がある。効果を発揮するコーチングをする人は、真の自己確立、つまりはアイデンテティーの確立がされていないと、コーチングの受講者の心を開くことが出来ない。そうでないと相手を否定しまうからである。コーチングをしながら、相手を自分の思うままに支配し制御したがるのである。そうなると相手は、心を閉ざし自分の低劣なメンタルモデルに固執して、一切耳を貸さなくなるのである。

コーチングをする際に留意しなければならないのは、傾聴と共感である。さらに、まずは受講者の悪い点や至らない点をまるごと受容し寛容の態度で接することである。つまり、一切否定しないで、まずは相手のマイナスの自己に寄り添うのである。言い換えると、相手の低劣なドミナントストーリーに共感する必要があるのだ。一般的なコーチはこれが出来ないのである。さらに、コーチがする質問の仕方が稚拙なのである。あくまでも指導するのではなく、本人が自ら気付けるように適切な質問をするだけである。あくまでも、本人が自分の悪い点を発見して、自ら変化したいと思うような質問をするだけなのである。この技術が不足しているのだ。

このようにコーチングする人のレベルが何故低いのかというと、根本的に言えば自分自身もまた低劣なメンタルモデルしか持っていないからである。自分中心で、自己利益だけを求めがちで、損得での判断で行動し、自分の名誉や地位に固執し、相手を尊厳する気持ちがないのだ。そんな人間を誰が信頼し、自分を解放するのか、あり得ないことである。こんなコーチングをする人だけだから、効果が上がらないのであろう。コーチングをする人は、全体最適と関係性を重視するような高潔な価値観を持つ必要があると思われる。つまり、システム思考を身に付けなければ、コーチングの効果が上がらないと言えよう。

 

※『イスキアの郷しらかわ』では、効果の高いコーチングの研修を開催しています。古くて低劣なドミナントストーリーやメンタルモデルを手放させるやり方、新たな高邁なメンタルモデルやオルタナティブストーリーを確立する仕方、自己マスタリーの研修、システム思考の学び、こういう内容で自己変革を起こす研修を行っています。先ずは問い合わせからお願いします。

スペシャリストからセネラリストへ

明治維新以降に近代教育を日本が取り入れてからというもの、各分野におけるスペシャリストを養成する機運が高まった。それは分業制や専門性を要求される産業やアカデミーにおいて、必然的に起きたことでもある。例えば、生産工場においては企画、デザイン、部品調達、旋盤、研磨、検査などのスペシャリストが養成された。効率とコスト削減、そして品質向上の為には、それぞれの専門家を養成することが、企業にとって一番好都合だったのであろう。

また、アカデミーの世界でも一部門に秀でた専門家が続々と輩出した。各研究部門において、専門の研究に専念することで、大きな学術的成果がもたらされた。医学界と医療分野はその傾向が顕著であった。最初はせいぜい内科・外科・精神科などの診療科目しかなかったのに、今は同じ外科でも、脳外科・上部消化管外科・心臓血管外科・乳腺外科・移植外科など実に多岐多彩に渡って、細分化されている。その中でもさらに肝臓専門・胃専門・膵臓専門などスペシャリストがいる。

それぞれ医療界のスペシャリストとして、優秀な頭脳と技能、そして経験を身に付けたドクターは、どのような患者さんの難しい診断・治療も可能になったかというと、実はそうではないことを医療界は認識することになった。医療のスペシャリストがそれぞれの分野において診断できない場合は違う分野の医療スペシャリストと連携して確定診断を行うことになる。しかし、残念なことに医療のスペシャリストどうしの連携だけでは、確定診断が難しい症例が極端に増加してしまったのである。故に、必然的に総合診療科が出来るとか、または統合医療という分野が発生して、診断と治療を行うようになったのである。言わば医療のゼネラリストである。

工場の生産現場や販売・営業部門においても、同じようなことが起き始めたのである。各工程や各部門において、スペシャリストが最善の生産工程を実施しているにも関わらず、不良品や返品が出てしまっているのだ。さらには、スペシャリストがそれぞれの専門性の発揮をしているにも関わらず、デザインの陳腐化やヒット商品が出ないという事態が起きているのである。これだけ優秀なスペシャリストを集めているのに、まったく成果が上がらないらしいのである。そこで生まれたのが、すべての部門に精通して管理できるゼネラリストと呼べるようなチームリーダーが必要になったのである。

どうしてスペシャリストだけでなくゼネラリストが社会全般に必要になったかというと、それは人間社会の仕組みや存在そのものが、『システム』だと気付いてきたからである。人間そのものもまた、システムである。60兆個もある細胞がそれぞれ自己組織性を持っていることが判明した。つまり、細胞ひとつひとつがあたかも意思を持っているかのように、人間全体の最適化を目指して活動しているのである。そして、細胞たちはネットワークを組んでいて、それぞれが協力しあいながら、しかも自己犠牲を顧みず全体に貢献しているのである。

これは、細胞だけでなく人体の各臓器や各組織が同じようにネットワークを持っていて、全体最適の為に協力し合っていることが、最先端の医学で判明したのである。つまり、人体は脳が各臓器や各細胞に指令を送っているのではなく、それぞれが主体性と自発性を持って活動していることが解明されたのである。完全なシステムである人体が、どこかの各細胞や各臓器が誤作動を起こせば、それが人間全体に及ぶということである。精神的に大きいストレスやプレッシャーがシステムにエラーを起こし、各臓器に及んで疾病などを起こすということが解ったのである。だから、人間全体を診る総合診療科や統合医療が必要になり、ゼネラリストが求められたと言えよう。

企業や工場、学校、家庭も『システム』である。その構成要素である各部門や人間が、ネットワーク(関係性)を豊かにして、全体最適を目指していればエラーである問題は起きない。スペシャリストだけでなくゼネラリストがシステム内に存在して、各部門や人間のネットワークを上手く調整して、全体最適に向かうようにマネジメントしていけば、システムは機能する。各部門や各人間も、主体性や自発性、そして責任性を持てる。そうすれば、システムは上手く回っていくから問題は起きないのである。これからの時代は、社会全般において、スペシャリストだけでなくゼネラリストが必要となってくると確信している。

 

※イスキアの郷しらかわでは、ゼネラリストのチームリーダー養成講座の研修を承っています。これからのチームリーダーは、チーム全体を俯瞰して、主体性・自発性・自主性・責任性を自ら発揮するチーム員を育てる技量・人間性が必要です。医療機関でも、このようなゼネラリストの管理者(看護師・医師・事務員・パラメディカル)が必須です。どのような研修なのか、是非問い合わせください。

新しい子どもたち2~教育のイノベーション~

不登校や引きこもりにある若者たちを「新しい子どもたち」と定義して、社会を変革するきっかけになるというブログを書き記した。字数の関係で、どのようにして社会を変革するのか具体的な道筋を示さなかったので、改めて述べてみたい。まず、社会を変革するにはいろんな方法が考えられる。政治・行政・市民活動等によって社会の改革がされてきた歴史がある。社会全体の価値観や生き方そのものを変えるには、やはり教育から変える必要があろう。教育界におけるイノベーションを起こさなければならないと考えている。

イノベーションというと、日本語では「技術革新」と一般的に訳されている。企業における新商品の開発、または革新的な品質・性能の向上に用いられている。しかし、本来この「イノベーション」という語句の意味は、単なる技術革新だけではない。イノベーションが初めて提唱されたのは今から80年前のことであり、オーストリアのシュンペーターという人物が発表した語句である。彼は、今までの企業経営や製品開発ではいずれ行き詰るから、イノベーションを継続的に実施しなければならないと提唱した。その手法として、『創造的破壊』と『統合』が必須であると説いたのである。

さて、教育界におけるイノベーションについて具体的に述べてみたい。現在の教育界に存在している価値観とは、客観的合理性の追求であり、能力至上主義である。明治維新以降の近代教育に欧米から導入して、日本の近代的発展に寄与した。ところが、この客観的合理性の教育が自分中心で利己主義の人間を育成したばかりでなく、主体性、自発性、自主性、責任性の欠落した人間を大量に生み出したのである。さらには、行き過ぎた競争主義の導入が、教育環境を悪化させ、教師と生徒児童、子どもどうし、教師と保護者などの関係性を希薄化もしくは劣悪化させてしまったのである。だから、教育界にいじめやパワハラ、モラハラ、アカハラが起きてしまったのである。

本来、お互いの人間関係が豊かで良好であり、お互いに支え合う学校というコミュニティが存在するなら、いじめなどの問題は起きないし、指導死などというとんでもない事故も存在しえない。生徒児童どうしがお互いに慈しみ合うような関係にあるなら、不登校や引きこもりなどの問題は起きない。それぞれの関係性が悪いから、学校の在り方そのものに問題があり、不登校という形で問題が顕在化しているのである。とすれば、教育界に蔓延る間違った価値観そのものを一度破壊して、新しい価値観を導入すべきであろう。その価値観とは、全体最適と関係性重視の哲学である。

オランダの小学校では、システム思考の学びをしているという。この世はシステムであるから、そのシステムの原則に則った生き方をすることを指導しているのである。そのシステム思考の原則が、全体最適と関係性重視の価値観である。MIT(マサーチューセッツ工科大学)の上級講師であるピーター・センゲ氏が『学習する組織』という著作で説き、全世界に広がりを見せている理論である。大企業の役員は、システム思考の価値観学習に本気で取り組んでいる。システム思考しか、企業内の問題を解決し、企業が生き残る方法はないと確信しているからである。

教育界に蔓延っている古い価値観である、客観的合理性重視主義、言い換えるとニュートン以来の要素還元主義では、問題は解決出来ないばかりか、益々問題が先鋭化するばかりであろう。不登校・いじめ・指導死などの問題は、益々増大化・先鋭化するばかりである。このような低劣化してしまった価値観を手放して、新しい価値観であるシステム思考を教育界に導入すべきと考えている。オランダばかりでなく、他の欧米諸国もこのシステム思考に注目していて、学校教育と社員教育に導入しようと計画している。

何故、このシステム思考が青少年の健全育成に有効かというと、宇宙の仕組み、地球の仕組み、自然界の仕組み、人体の仕組み、社会の仕組みなどすべての万物がシステム思考によって成り立っているからである。量子力学や宇宙物理学、または分子生物学、最先端の脳科学で明らかになっているように、すべてのものは実体として存在せず、関係性によって存在しているからである。しかも、それらの構成要素は、自己組織性を持っていて、全体の為に働いているのである。つまり全体最適と関係性重視のシステムとして機能しているのである。このシステム思考を教えた子どもたちは、生き生きとして自ら学習する。子どもたちは、本能によってシステム思考が正しいと認識し、全体最適と関係性重視の生き方を志向するのである。教育界の古い価値観をぶち壊し、システム思考という正しい価値観を導入するイノベーションを起こそうではないか。

 

※イスキアの郷しらかわでは、このシステム思考の学習をしています。ピーター・センゲ氏が説いたシステム思考、自己マスタリー、メンタルモデルなどの学びをしています。ピータ・センゲ氏が説いているのは、非常に難しく理解しにくい学説です。イスキアの郷しらかわでは、子どもでも理解しやすいようにストーリー性のある優しい言語で説明しています。是非、研修会としてもご利用ください。

新しい子どもたち~不登校児が社会を変える~

不登校の子どもたちは、学校生活に馴染めない子ども、または学校に不適応の子どもたちだという認識の人が多いに違いない。つまり、学校に行く子どもが正常であり、行けない子どもはイレギュラーだという考え方が支配的だということだ。本当にそうなのであろうか。不登校の子どもというのは学校における落ちこぼれだということを表だって言う人は少ない。しかし、教育関係者の殆どがそう思っているのではないかと推測できる。でも、これが間違っているとしたらどうだろうか。

不登校になるきっかけは、学校における子どもどうしのいじめ、教師による不適切な指導、部活などにおける人間関係悪化や不振、成績不振や学業の不適応等様々である。そして、不登校になるのは、心の優しい子どもたちが多い。つまり、どちらかというと繊細な気持の子どもであろう。心が強ければ学校に行けるのに、行けないというのは弱い心を持つからだと、教師の保護者も思ってしまうことが多い。そして、学校に無理しても行かなくてもいいと思い込んでしまう保護者が多い状況にある。

不登校や引きこもりの原因を子育ての失敗や本人気質・性格、またはメンタルの障害だと思い込んでしまっている人は多いであろう。精神医療に携わる医師やカウンセラーでさえも、そんなふうに認識している人は少なくない。だから、日本の社会では不登校・引きこもりが少なくならないし、増加しているのである。そんなとんでもない偏見に対して、実際に不登校や引きこもりを支援している方たちは、違和感を覚えている。どこがどのように違うのかということは明らかに出来ないものの、何となく子どもたちに原因があるのではなく、不登校・引きこもりの本当の原因は他にあるのではないかと感じている。

不登校を引き起こすのは、学校や社会の在り方が本来の理想と違っていて、間違った方向に進んでいるからではないかと見ている児童精神科医がいる。それも、今から20年以上も前から、社会に対して警告を発している。その代表的な精神科医は、崎尾英子先生である。また、児童精神科医で人格障害の権威として著名な岡田尊司先生である。崎尾先生は国立小児病院の医長をされていて、NHKラジオの不登校の保護者相談をされていた。ベイトソンとギリガンの研究では第一人者で「愛という勇気」という大作の翻訳もされている。残念ながら、鬼籍に入られてしまったと聞いている。岡田尊司先生は、あまりにも有名なので説明は不要であろう。

今の世の中は、非常に生きづらい。学校という環境も過ごしづらいし、職場に居場所がないと思っている人は少なくない。そして、地域や社会でも生きづらいし、家庭の中にも安心して生きられる場所がないのである。それは何故かというと、人間本来の生き方に反した社会であるからだと、崎尾先生や岡田先生は喝破されている。人間とは、本来はお互いに尊敬しあい、そして支え合って生きものである。過剰に競い合ったり、相手を蹴落としたりして、自分だけの利益や地位・名誉を求めるような社会であってはならない。ところが、学校、職場、地域社会は、身勝手で自己中心的な人間ばかりである。自分さえ良ければと思い、他人に対して思いやりや慈愛を注ぐことをしない世の中なのである。

不登校や引きこもりに陥っている子どもや若者は、そんな世の中に違和感を覚えているし、そんな環境に自分の身を置きたくないと思うのは当然だろう。不登校や引きこもりの人は、『新しい子どもたち』だと崎尾英子先生は考えていたと思われる。つまり、現代の生き方の誤謬に気付いて、人間本来の生き方を人々に考え直すきっかけを与えてくれているのではないかと考えたのである。不登校や引きこもりという現象は、特異なものではなく、起こるべくして起きたものであると考えていらしたと思われる。不登校という子どもたちが、我々大人に自分たちの間違いに気付けと警告を発してくれている主張されていた。

不登校や引きこもりを完全に解決するには、社会全体の価値観、または生きるうえで必要な思想・哲学を正しくするしかない。自己最適だけを目指し、関係性をないがしろにしてしまうような考え方と生き方は間違っている。社会の全体最適(全体幸福)を目指す生き方を誰もが志し、お互いの関係性を豊かにすることを常に志向する生き方を目指すべきである。地域、職場、学校、家庭も間違った価値観で進んでいるから、不登校や引きこもりという形で我々に間違いに気付いてほしいという悲痛な叫びをあげていると見るべきなのである。この『新しい子どもたち』に寄り添い、否定せずに耳を傾けて、望ましい社会に変えていく使命が我々にあるのだ。

知識教育から智慧の教育へ

日本の高等教育を見直そうという機運が盛り上がっている。今までは、知識偏重の教育であったが、それでは主体性や創造性といった、社会に貢献するうえで必須な能力が育たないからだという。今更そんなことを気付いたのかい、と呆れる一方であるが、どんなふうに教育を変えていくのか、お手並み拝見といきたい。明治維新以降、欧米の列強に負けじと、それまで綿々と続いてきた智慧の教育を切り捨ててしまい、近代教育を導入して、富国強兵の為に必要な知識や技能を修得する教育を始めたのである。そして、その傾向は、戦後に益々強くなり、人間として最も大切な思想哲学さえも切り捨ててしまったのである。それなのに、どのような手法で、知識から智慧の教育を展開しようとするのか、今の文科省のキャリア官僚が主導してそれを行なうならば、非常に難しいだろうと言わざるを得ない。

何故ならば、文科省のキャリア官僚を含めた行政マンたちが、今までの教育の間違いにまったく気付いていないからである。さらに、自分たちも近代教育を受けてきた当の本人であるし、高等教育までも受けているから、知識偏重の教育こそが必要だと信じて疑わないからである。ましてや、今の教育制度における過度の競争を勝ち抜いてきたのがキャリア官僚なのだから、知識を沢山身につけた者が勝ち組だという固定観念に捉われているのは間違いない。それをいまさら知識偏重教育を否定して、主体性や創造性を身につける教育をしようとしても、どうしていいのか解らないのは当然である。自分でも主体性や創造性を持ち得てないのだから、それを教育する手段なんて思いつかないのは当然である。

そもそも「ゆとり教育」として数年前に掲げた教育方針が間違っていたからと、以前の詰め込み教育に逆戻りしてしまったばかりなのである。あのゆとり教育が何故失敗したのか、本当の理由を知ろうともせず、ただ単に教育水準が低下したからという理由だけで、方針をいとも簡単に変更したのである。文科省のお役人たちが、知識教育から智慧の教育に変更するやり方を考え出せるとは思えないのである。さらに、こういう知識教育から智慧の教育にシフトする方法を、文科省のお役人だけでは考えられないから、外部の教育制度審議会に諮るだろうと思われる。その審議会委員のメンバーもまた、大学教授とか青少年教育の専門家であり、近代教育の弊害をまともに引き受けてきた人たちなのである。やはり、主体性や自発性を持たない人なのだから、それらを身につける方法などを、考え出せるとは到底思えないのである。

それでは何故、近代教育というものが主体性・自発性・責任性・創造性を育てることが出来なかったのであろうか。江戸時代以前の庶民や武士たちは、主体性・自発性・創造性を豊かに発揮していた。ところが、明治以降近代教育の制度を取り入れてから、知識偏重の教育になったせいもあり、主体性・自発性を発揮できる人間を育てることが出来なくなってしまったのである。ましてや、近代教育は要素還元主義が基本である。つまり、物事や事象を、一つ一つの要素に細分化して考えるという手法を取り入れたのである。当然、全体を見るということを観点がなくなったし、物事や事象を細かく分析して、客観性を持って批評的・批判的に観察するということしか出来なくなったのである。学校教育において、徹底して客観的なものの観方を叩き込まれたのだから、主体性を持てないのは当然である。

だから、近代教育、とりわけ優秀な高等教育を受けた人ほど、客観的合理性を持つ人間になってしまったのである。この客観的合理性というのが、実に困った人間を創り出す。批判的に観るという癖がついた人間は、主体性や自発性を発揮できないばかりか、身勝手で冷たく、相手の気持ちに共感できなくなり、相手の気持ちになりきって物事を考えることが出来なくなってしまうのである。智慧というのは、客観的合理性の教育では身につかない。客観的合理性、要素還元主義の教育というのは、言い換えると自我人格を育てる教育である。自己を育てるという教育をして来なかったツケが、今ふりかかってしまい、主体性や創造性を発揮出来ない若者を大量に生み出してしまったのである。

客観的合理性の教育が不必要だと言うつもりはないが、あまりにも知識偏向の教育にシフトするのは危険である。文科省は、哲学や思想などの価値観教育は高等教育では不要であり、国立大学では理工系の教育に主力を置こうとしている。国益を向上するには、智慧の教育よりも知識の教育が必要だと主張しているのである。しかし、主体性や創造性を育てる教育、人間教育としての思想哲学教育とも言える、自己を育てる教育こそが、今必要とされているのである。正しい価値観を身に付ける教育こそが、智慧の教育である。様々な教育問題が起きている今こそ、知識偏向の教育から智慧を育てる教育に変える時期に来ているのだと確信している。

不登校の本当の原因

一時期減少傾向を示していた不登校が、また増えているという。この不登校の統計データだが、あまり信用できない。何故なら、調査している主体が文科省であり、なるべく不登校の実数を少なくしようという意思が働いているからである。各県の教委や各市町村の教委もまた、学校に問題は存在しないと言いたいらしく、不登校やいじめなどの問題は存在しないと世間に公表したいと思われる。統計データほど当てにならない。何故なら、統計調査をする主体者の意図によって、結果が大きく変化するからである。統計調査は、問題を明らかにして解決を図るための資料とすべきなのに、お役人というのは自分の無力さを隠しておきたいらしく、問題を過少に見せたいみたいである。

最近、ようやく不登校に対する社会的認識が変わり、不登校を特別視しなくなり、不登校でもよしとする風潮が一般化してきた。それは、子どもを守るという緊急避難的措置としては正しいが、根本的な問題解決には至らない。したがって、うつ病が市民権を得て患者が爆発的に増えたように、不登校という状況があってもそっと見守ることが必要だなどという誤った認識が増えたお陰で、不登校が増えているとすれば由々しき大問題である。不登校の子どもに対して、教師と保護者が腫物にでも触るような態度をとり続けたとすれば、問題は解決されないばかりか益々悪化し兼ねない。不登校は見守るだけでは解決しない。何らかの対策が必要だと認識すべきである。

不登校の原因を文科省と学校では調査分析をしている。いじめ、虐待、学友との不和、学業不振、発達障害、病気、家族の問題等々様々な原因をあげている。しかし、こられは本当の原因ではない。あくまでも、これらは不登校のきっかけであり、本当の原因は他にあるという認識を持っている教育関係者はあまりいない。何故なら、不登校の本当の原因を親も担任も知らないからである。そして、本人さえもそのことを知らない。不登校の本当の原因である『関係性』の大切さを誰も認識していないのだから当然だろう。不登校という現象が起きるのは、関係性が劣化もしくは破たんしているからである。子どもと保護者、父親と母親、子どもと教師、保護者と教師、教師どうし、すべての関係性が貧弱であったり希薄であったりするから、不登校が起きるのである。不登校の原因をいじめや虐待、本人の精神的な問題を原因として取り扱っているうちは、不登校はこの世からなくなることはけっしてないであろう。

学校にいじめや虐待、友達との不和、先生への違和感や不信などが起きたら、そのことを子どもたちは保護者や親しい先生に素直に話すであろうか。今の子どもたちは、自分たちの心の闇を教師や校長・副校長に話さないし、保護者にも話さない。どんなにしつこく聞き出そうとしても、話せないのである。勿論、スクールカウンセラーにも話せない。何故かというと、学校における子どもと教師の関係性が崩壊しているし、家族というコミュニティも崩壊しているからである。関係性が実に貧弱であり希薄化しているし、心から支え合うという関係性と信頼感がなくなっているからである。特に不登校の子どもたちの両親(夫婦)の関係性は、表面的には良好に見えるけれども劣悪化しているケースが少なくないし、家族の関係性が非常に希薄化しているケースが多い。

不登校は日本だけの問題ではなく、先進国では増加の傾向にあるらしい。日本ほどの深刻ないじめや不登校が殆どない先進国もある。オランダである。自由な国だというせいもあるが、日本と違うのは小学校で『システム思考』を教えているという点である。システム思考というのは、全体最適と関係性の哲学である。子どもたちに、関係性の大切さを教えているし、個別最適よりも全体最適の重要性を伝えているという。学校教育において、人間どうしお互いの関係性を豊かにしなければ、正常な社会が成り立たないと教えているのは先進国ではオランダだけであろう。子どもどうしは勿論、保護者と子ども、先生と子どもの関係性が豊かであるしお互いに支え合っているから、不登校がないのであろう。

 

アジアの国々で不登校がない国も少なくない。タイ、カンボジア、ベトナム、ミャンマーなどでは不登校という概念さえない。貧しくて不登校になっている例はあるものの、深刻ないじめもないし不登校も存在しない。これらの国は何が違うかと言うと、仏教の国であるという点だ。仏教というのも実は『システム思考』の哲学を教えている。「縁起律」という概念で、関係性の大切さを説いている。この社会はシステムで出来ているし、社会は豊かな関係性によって成り立っている。したがって、関係性をないがしろにしたのでは、この社会そのものが存在しえないという教えなのである。江戸時代の日本でもシステム思考の教えが存在していた。現代の日本でも、システム思考の教育を取り入れていたとしたら、こんなにも不登校はなかったと推測される。

 

不登校の本当の原因は関係性にあるとする認識は、少しずつ増えてきている。または、社会における関係性の希薄化や劣悪化が不登校という問題を生んでいて、不登校の子どもたちは我々に関係性を改善しなさいと自ら教えてくれているんだと主張している専門家も増えている。学校教育、そして家庭教育において、今こそ「関係性」の重要性を教えていかなくてはならない時期にきているといえよう。それが、不登校をこの世から一掃する唯一の手立てであると心得たい。システム思考の哲学を基本にした「関係性の教育」を学校教育の現場で導入してほしいものである。

効果のない研修は無駄

会社の人材育成、学校の授業・講義、講演会、各種研修会・セミナー等でいろんな学びをする機会があるが、その効果は限定的である場合が多い。それも、嫌々ながら受講しているならいざ知らず、自ら進んで参加するケースでさえも学びは不完全なことが少なくない。受講した当の本人は、すべて学んだと勘違いしていることが殆どであるが、学んだことがそのエッセンスの1割にも満たないことが多いのである。何故そんなことが起きるのかというと、教える側の問題もあろうが、受講者のメンタルモデルに問題があるからである。脳科学者の養老孟子氏が、「バカの壁」と呼んだあの先入観念・固定観念や拘りのことである。

 

たいていの人間は、自分自身でこうでなければならないとか、こういう時にはこのように言動をするという無意識の行動規範を持っているものである。これを最先端の脳科学では、メンタルモデルと呼んでいる。このメンタルモデルは、優秀なそれであれば良いのだが、残念ながら低劣な価値観に基づくメンタルモデルのケースが殆どである。だから、自分が新たな正しい価値観に目覚めたり自己成長したりすることが阻害されるのである。逆説的に述べると、謙虚さや素直さを失っているのは、このメンタルモデルがガチガチに固まってしまっているからであり、そしてそのことを本人がまったく認識していないところから不幸が始まっているのである。これが、人間の自己成長を妨げている理由である。

 

同じことを最先端の心理学用語で述べると、こうなる。人間は自己物語とも呼ばれる「ドミナントストーリー」を持っている。このドミナントストーリーというのは、家族との関わりや他人との複雑な人間関係の交わりの中で学んで、身に付けてしまったこだわりや固定観念である。これは、自分自身を他人からの攻撃を守るための盾であり鉾でもある。実はこのドミナントストーリーは、一度身に付けてしまうと手放すことが非常に難しくなる。そして、メンタル障害を起こすに至った問題が起きた原因でもあるから複雑である。このドミナントストーリーを一度破壊して手放し、オルタナティブストーリーを身に付ければ、自分を苦しめてきた問題を解決できるのである。

 

これらのメンタルモデルやドミナントストーリーを先ずは完全に壊すことが必要なのであるが、簡単ではない。何故なら、この低劣なメンタルモデルがあるうちは、人の助言や指導を聞かないからである。それも、有用で自分の自己成長にとって必要な情報ほど素通りさせてしまうのである。経営学において、イノベーションを起こすには創造的破壊が必要だとシュンペーターは説いていたが、まさしく人間学においても創造的破壊が必要なのである。各種セミナーにおいて、創造的破壊を出来た人だけが深い学びをして自己成長が可能となる。何故、メンタルモデルの破壊的創造が出来ないのかというと、潜在意識というか無意識がそれを邪魔しているからである。メンタル障害が改善しないのも、低劣なメンタルモデルが邪魔をして、心理療法が効果を生み出さないからである。

 

最先端の心理療法や認知行動療法において、この低劣なメンタルモデルやオルタナティブストーリーをぶち壊す方法が見つかったのである。今までは、低劣なメンタルモデルやオルタナティブストーリーの間違いを指摘したり、何とか変更させようとしたりしていた。これでは、クライアントは益々頑なになり、貝のように心を閉ざしてしまっていたのである。その状態を変えるには、相手の自己物語を否定することなく、まずはその低劣なメンタルモデルに共感することが必要なのである。クライアントは自分の苦しさ悲しさ辛さを理解してもらったと安心して、自らの心を開くのである。そして、助言者を心から信頼し、その助言にも耳を貸すようになるのである。そして、物語的な助言法を駆使しながら、ドミナントストーリーを切り捨てて、自らオルタナティブストーリーという正しい価値観に基づく新たな物語を構築するのである。これが、ナラティブアプローチという方法である。

 

大勢の聴衆を集めた研修セミナーにおいては、このようなドミナントストーリーを破壊するような講演をすることは難しい。個別対応のセミナーでしか使用できないと思われる。集団セミナーで、メンタルモデルに対して創造的破壊をするのは難しい。しかし、数人のクライアントと向き合い、じっくり会話を繰り返したり、ピアカウンセリング的なワークショップを続けたりすることで、破壊的創造が起きて自ら気付き学ぶというイノベーションが起きる可能性がある。こういう破壊的創造と人間自身のイノベーションを起こすのが、『イスキアの郷しらかわ』である。是非、自らの問題に気付き自己マスタリーを実現する為にも、イスキアの郷しらかわのグリーンツーリズム(研修旅行)を経験してほしい。ナラティブアプローチを是非とも体験して、正しいメンタルモデルを獲得してみてはどうだろうか。

我が子を素直に愛せない母親

自分の子どもを素直に愛せない母親が多いらしい。虐待やネグレクトをするような母親は論外であるが、我が子に対して何となく違和感を持ってしまうというのである。本来、母親は我が子を目に入れても痛くないというように、無条件の愛を持つと考えられる。自分の子がどんなことをしても何を言っても、そのことを許せるし、我が子のすべてを受け入れる筈なのだが、今の母親たちは我が子を冷めたい目で見てしまうらしい。何となく我が子に対して、よそよそしく感じたり、逆に遠慮したりするような感覚を持つという。

だから、我が子をただ思いっきり抱きしめたり、一緒にお風呂に入りふざけ合ったりなどのスキンシップが苦手だという母親が多いという。そんなふうだから、子どものほうも何となく母親に対して遠慮がちになっていて、ついつい良い子を演じてしまいがちになる。または、母親に気に入られようと、無理してしまうことにもなる。そんなぎくしゃくしている親子関係が少なくないという。つまり、本来あるべき母性を、持てないでいる母親が多いみたいである。母性とは、本来無条件の愛である。言わば、絶対的な寛容と受容の愛である。すべてを許し、すべてを受け容れる愛なのだ。これが、母親として本来持つ愛情なのだが、それが出来ないらしいのである。

こういう親子関係であると、自分は愛されていないということを子どもは敏感に感じてしまう。子どもたちに個人アンケートを取ってみると、自分が愛されていないと感じる子どもはいじめに走ったり、いじめに加担したりしているケースが非常に多いという結果を示す。または、愛されていないと感じていると、自己肯定感が育たなくて不登校やひきこもりに陥りやすいとも言われている。自分が愛されないのは、自分が悪い子だからと勘違いするからであろう。つまり、親から愛されていないと感じる子どもは、問題行動を起こしやすいということである。

そんな親子関係に陥ったそもそもの原因は、父親にあるのではないかと想像している。つまり、夫が妻を深く愛してないから、妻である母親は我が子を深く愛せないのではないだろうか。愛は一種のエネルギーだと考えている。愛と言うエネルギーをたくさん注ぐ為には、そのエネルギーをたくさん受け取り続けなければならないし、枯渇してもすぐに補充できるという安心感が必要だ。人は無条件の愛というか、見返りのない愛を注がれたときに、我が子に対して至上の愛を与えることができる。でも、夫婦間にある愛は、条件付きの愛というか見返りを求める愛に陥ってしまっていることが多い。だから、我が子を素直に愛せなくなっているのではないかと思うのである。

今、離婚を決意する母親が多い。どうしようもなくて、シングルマザーを選択せざるを得ない母親が急増している。こういう社会になっている背景には、上記のような状況が要因としてあるのではないかと思う。本当の愛を受けられなくて、いつも惨めな思いをするなら、1人になって我が子を育てたほうがいいと思うのだろう。その決断はある意味正しいと思う。そして、新たな出会いを通して真実の愛を見出す人も中にはいる。しかし、なかなかそういう新しい伴侶に巡り会えない人が大多数だし、また同じような伴侶を選んでしまう女性も多い。何故なら、この世の中には圧倒的に、妻を支配して制御したがる男性が多いからである。

伴侶を自分の思い通りになるように、コントロールしたり支配したりする愛は、本当の愛ではない。これは相手からエネルギーを奪い取る、不当な愛である。本来は相手に与えるだけの愛を注ぎたいし、見返りのない愛を感じてもらいたいものである。そういう無償の愛というエネルギーは連鎖していく。豊かな愛は妻から子へと循環していく。こういう愛を豊かに注げるような男性を育ててこなかったのは、私たちの世代が子育てを間違ったせいかもしれない。今からでも遅くはない。家庭の中で豊かな関係性を築くことができる人間を育てる努力をするべきであろう。家庭教育だけでなく、学校教育においても人間教育を充実させたいものである。

いじめがなくならない訳

じめによる自殺が止まらない。いじめ自殺問題がセンセーショナルに報道されて、文科省や教育委員会、そして学校でもいじめ防止対策が取られていながら、若くて尊い命がいじめによって失われてしまう事件が後を絶たない。何とも痛ましい事故が、起き続けているのだ。文科省からいじめに対する調査も徹底するよう指示されていた筈であるし、教師たちも二度といじめによる自殺をなくそうと努力したに違いない。それなのに、今でもいじめによる自殺が起きているのである。自殺とはいかなくても、全国にはいじめが続いていて、苦しんでいる児童生徒が沢山いる筈だ。いじめはなくならないのであろうか。

それにしても、いじめの自殺が起きる度に不思議だと思うことがある。学校の校長、教育長、そして担任までもが、いじめがあったのを知っていたかとの問いに、「いじめは認識していませんでした」と答えるのである。または、「いじめは把握していませんでした」とも答えるのが通例である。あたかも誰かが、そのように答えるようにと指示を出しているかのように、認識していない、または把握していなかった、と答えるのだ。絶対と言っていいほど謝罪はしない。もしかすると誰かが、いじめがあったとは認めてはいけないし、謝ってはいけないと、指導しているかもしれないと思えるほどである。

いじめによる自殺事件が起きたときの記者会見を見ていると、すごい違和感を覚えるのは私だけではあるまい。教育関係者が涙を流して、いじめを気付かなかった自分を悔いたり責めたりする姿を一度も見たことがない。大切な子どもさんを預かっているのであるから、いじめを気付かなかった自分が、情けないし親御さんに申し訳なくて、土下座しても足りないと思うのが、心ある人間だと思う。しかし、そんなふうに自分の責任を自ら問う態度を見せる教育関係者は皆無なのである。こんなに心の冷たくて責任感のない先生たちに、立派な子どもに育てる器量があるとは思えないのである。

勿論、文科省や教育委員会からの指示があって、裁判になった時に不利になるから、絶対に謝罪の言葉を言っちゃいかんと指示されているのかもしれない。しかし、尊い人命が亡くなっているのである。そんな裁判の勝ち負けや賠償金のことなんて考えてはいられないのではないか。真相をいち早く究明して、二度と不幸ないじめがないようにするのが大切なのではないだろうか。先ずは、ご遺族の悲しみに共感することと、ご両親に対して申し訳ないという態度を取るのが必要である筈だ。そして、自分に落ち度はなかっのか、自分が何故気付いてあげられなかったのか、自分自身に厳しく問いかけて、謙虚に自分を責めることをするべきではないかと思うのである。

認識していない、把握していないという言葉を用いるのは何も教育関係者の専売特許ではない。他の官僚や警察幹部、または政治家だって使用している。不祥事の記者会見や国会でも同じように、認識していない、把握していないと逃げまくっているのだ。つまり、我が国の官僚や政治家たちは、まったくもって責任感や主体性など持ち得ないのである。不祥事が起きても、自分の責任はまったくないし、再発防止を主体性を持って取り組む気持ちなんてさらさらないのだ。だから、認識するつもりもないし、把握するつもりもないということなのである。こんなとんでもない輩に国の行く末を任せているのだから、政治、行政、教育、そして医療も福祉も良くなる訳がない。

江戸時代は、一旦不祥事が起きると、その上役の武士は責任を取って腹を切ったか、潔く辞職したのである。自分は認識していなかったなんて言葉は、恥ずかしくて言えなかったのである。言い換えると、自ら進んでリスクとコストを負担する覚悟を持っていたのである。ところが明治以降、近代教育を受けた役人や政治家は、国民に対して責任は取らなくなったのである。責任を絶対に取らないし、保身に走る役人と政治家しか、一部の人を除き日本にはいなくなったらしいのだ。こんな役人や政治家を一刻も早く辞めさせないと、いじめは絶対になくならないに違いない。記者会見においていじめを認識していなかったなんて言葉は二度と聞きたくもないものである。

教育とは誰のためにするのか?

学校教育とか家庭教育、社員教育であろうと、教育をする者としてのその使命と役割が重大であることは、誰しも共通の認識であろう。しかしながら、その重大な使命と役割が何であるのか、正確に認識している教育者は殆どいないのではなかろうか。その証拠に、教育を受ける側が、学ぶことに対してけっして能動的とは言えない態度であり、学ぶことの楽しさを味わっているとは思えないからである。それ故に、教育効果があまりにも低いばかりか、誤った教育に対する考え方が蔓延し、社会への悪い影響を与えているように感じる。あまりにも自己本位で、責任感もなく自発性と主体性のない、自分のことしか見えず目の前の欲望に押し流される人間があまりにも多いのである。それは教育の不備や失敗によるものだと断言してもよいだろう。

そもそも、何のために教育をするのかという理念さえも誤解している教育者が多いことに驚く。子どもたちに何のために学ぶのか?と聞くと、自分の為と答える子どもが多数を占める。ここからして間違っているのだから、教育の理念などないに等しい。保護者も含めて多くの教育者は、良い高校大学に入って安定した優良企業に就職することを目標にしなさいと子どもたちに言い聞かせ、勉強は自分の為と公言して憚らないのである。これでは、子どもたちが勉強を好きになる筈もないし、勉強の成果などあがることなど期待できないであろう。何故なら、学ぶ本当の目的は他にあるし、なにしろ人間という生き物は、自分の為には頑張れないように出来ているからである。

という私も小さい頃から、勉強は自分の為にするんだと親や教師から言われて育った。おかげで、勉強が大嫌いでいつも落第すれすれの点数であったが、かろうじて高校を卒業後に私立大学を出て、地元の安定した団体の職員として就職した。当然、自ら勉強する気持ちにもなれず、就職した後も人間として大切な思想哲学の勉強さえしない、まったくのお気楽人間として人生を送っていた。かろうじて好きな読書は続けていたが、本来学ぶべき人間の生きる目的や理念を学ぼうとしなかったのである。今から思うと、まったく恥ずかしい限りであり、若いときにもう少し勉強すれば良かったと思っても、今さら後の祭である。そんな馬鹿な自分も、我が子の子育てをして行くうちに、教育の真の目的と役割を気付かせられたのである。

教育は何の為にするかと言えば、周りの人々を幸福にする為、つまり社会貢献をするのに必要だからである。この世の真理である全体最適という人間全体の命題を実現する為にこそ、人間は学ぶのである。人の為世の中の為に学ぶのであるから、勉学を怠けてはならないのだ。自分の為だけなら、将来困るのは自分だけだから、自己責任なので勉強しないのも許される。しかし、この世界全体や宇宙全体の為に学ばなければ、自分のせいで社会全体を不幸にするかもしれないのだ。責任が重大なのである。IPS細胞を発見した山中教授が、もし若い頃勉強しなかったら、研究の成果を得られずに、多くの人々を幸福に出来なかったかもしれない。エジソンやビルゲイツが青少年時代に勉強しなければ、私たちの生活はこんなに便利にはならなかったかもしれないのだ。

学ぶ目的が明確になれば、子どもたちは生き生きとした勉学態度に変化する。そして、第2第3の山中教授も出現するであろう。そのような学びに対する考え方、つまりは思想哲学を子どもたちや社員たちにしっかりと伝えるのが、教育者としての使命であり、大きな役割だろうと考える。そして、自ら進んで学ぶ姿勢を持ち、喜びを持って社会のために働くという、自発的で主体性を持ち、しかも自らの責任感をしっかりと持った人間を育てることが、教育者としての大きな使命であり役割でもあると考える。恥ずかしながら還暦過ぎた年齢になった今、勉強が楽しくて仕方がない。思想哲学の勉強を日々楽しく続けさせてもらっている。どうしたら多くの人々を混迷の世界から救い出せるか、そして真の幸福を多くの人々にもたらすことが出来るか、浅学菲才の私なので成果はあまりあがらないが、毎日勉学に勤しんでいる。おかげさまで、何の為に学ぶのかという真理を、少なくても自分の子どもたちには伝えることが出来たと自負している。正しい教育をすることが、人間としての大きな社会貢献なのだと確信している。