いい人は長生きできない

昔から、いい人は長生き出来ないと言われている。古来より、「憎まれもの世にはばかる」という諺もある。これは、長年の経験から導き出された結論であり、いい人は短命だし、人から憎まれるような悪い人は、逆に長生きする例が多かったのであろう。とすれば、人々から憎まれても恨まれても長生きするほうを選ぶのか、それともいい人だが短命を選ぶのか、究極の選択をしなければならないことになる。勿論、いい人で長生きできるのが望ましいが、それはどうやら今までの歴史からすると無理らしい。憎まれて恨まれた人生は、皆から嫌われるし、孤独の人生になるかもしれない。一方、いい人は皆から慕われるし、いつも回りには人が寄り添い、幸福な人生を送るに違いない。さて、どちらを選んだらいいのであろうか。

それにしても、どうしていい人は長生き出来ないのであろうか。いい人は人々から好かれて、幸福な人生を送るのであるから、ストレスもない筈である。一方、皆から嫌われるような悪い人は、人間関係も最悪でいがみ合って生きるからストレスフルな生き方をしそうである。病は気からと言われているし、病気の原因の9割はストレスだというのが定説になりつつある。しかるに、どうしていい人は短命で、嫌われ者は長生きするというのであろうか。不思議なことである。長生きだけが幸福の基準ではないとする考え方もあるから、短くても充実した人生がいいという考え方もあろう。太く短くても皆から慕われて幸福な人生がいいのだと、いい人を生きるという選択肢も悪くはない。

それでは、いい人というのはどういう基準であろうか。おそらく、いい人というのは他人に対して優しくて思いやりがあり、あまり自己主張することなく身勝手な行動は慎み、いつも他人の為に一所懸命に尽くす人というようなイメージがあると思われる。一方、憎まれ者というのは、いい人の対極にある人というイメージがあり、身勝手で自己中心的で、自我が強くて、損得や利害という行動基準を大切にする人と思われている。勿論、そういう人は人から憎まれたり恨まれたりするのであるが、中にはとんでもなく立身出世して、経済的にも成功している人が少なくない。経済的に裕福になると、人は意外と回りに対して寛大にもなれるのである。とすれば、憎まれ者として人生を送ったほうが、人生の成功者になれる確率が高いということになる。

ところが、そうは行かないのが人生である。仕事で成功して立身出世をして、経済的に裕福になった家庭を見ていると、本人はある程度幸福そうに見えるが、その家族は物質的には豊かな生活をしているものの、意外と心の豊かさを失っているようにも見えるのである。奥様が重いご病気になられて早逝されたり、子どもさんが親に対して反発したり挫折したりして、家族関係が最悪になるケースが多いのである。そうだとすると、いい人でも憎まれ者でも、幸福な人生を送れないというのなら、人間はどういう生き方をすればいいのであろうか。長生きで幸福な人生を送るコツというのはないのであろうか。長生きで幸福な人生を送る人なんていない訳ではない筈である。

そういう人はどういう人かというと、「本当にいい人」なのである。ただし、それは世にいう「いい人」ではなくて、ただ単にいい人を演じている人ではなくて根っからのいい人なのである。つまり、世の中で一般的にいい人と言われている人は、実は本当のいい人ではなく、ただ単にいい人を演じているだけの似非善人なのである。私達は、他人の目をどうしても意識してしまう。他人から見ていい人でありたいと、無意識で思い行動してしまうのが常である。つまり、無意識でいい人の仮面を被った人間として生きるのである。それを心理学では、自我人格と呼ぶ。つまりペルソナ(仮面)を被った自我人格を持った人間であり、心の奥底にはおどろおどろした嫌な自己を持っているのに、誰にも知られないようにその部分をないことにして、ひた隠しにしているだけなのである。

ペルソナ(化面)を被った自我(エゴ)は、自分の嫌な自己、身勝手で自己中心的で、だらしない自己を、自分では認めたくないから、そんな自己がないことにしている。そんな嫌な自己を無意識で隠して、仮面で隠し通していい人を演じるのである。無理して我慢していい人を演じているのだから、内面の心はとても苦しい。だから、時々そんな嫌な自己が顔を出してしまい、自分自身が情けなくなったり自分が嫌いになったりするのだ。その嫌な自己を自分から積極的に認め受け容れて、そして自己を糾弾しながらも慈しみ、それだからこそ清浄で崇高な自己(セルフ)に自分を育てようと精進するのであれば、根っからのいい人になれるのである。それを自己人格と心理学では呼んでいる。そういう本当のいい人であれば長生きできるし、皆から好かれ尊敬を集め、健康で幸福な人生を歩むことが出来るのである。

一緒にいると疲れる人

この人と一緒にいるだけで、何故か知らないが心が安らぐなあと感じる人がいる。一方、この人と一緒に居ると、何となく疲れるというかいらいらする人がいる。気遣いをさせるのでもなく、何かとりたてて攻撃的な言葉をかけられる訳でもないし、気に障るような行為をするのでもないけれど、一緒に数時間過ごすと、疲れ切ってしまうと感じる人がいるのだ。言い換えると、自分の精気というかエネルギーを吸い取られてしまうような感覚になるのである。そんな経験をしたことがないだろうか。このような人と会って一緒にいると、何となく元気がなくなり、もう二度と会いたくなくなるのである。つまり、一緒に居ると疲れてしまう人である。

それでも、会うのか会わないのかという選択肢がこちらにある場合ならまだ救われる。会うことを拒否したり避けたりすればいいだけのこと。ところが、どうしても会わなければならない相手の場合は、実に困るのである。例えば、会社の上司や同僚部下というケースだ。毎日会うことになるのだから、帰宅する頃の時間になるとエネルギー欠乏症に陥ってしまう。また、一緒に居ると疲れる人が、家庭内にいる場合は最悪である。それも配偶者だとしたら、最悪である。何か意地悪をされるのでもなく、とりたてて攻撃的態度をされる訳でもないのに、すごく疲れるのである。不思議なことであるが、一緒に居るだけで神経が傷付いてしまい、ずたずたになるのである。

こういう人と一緒に居ると、どうして疲れるのであろうか。それは、人の目に見えない念によるのではないかと思われている。この念というものは、別称では波動とも呼ばれる場合も多い。これは科学的に完全に証明されている訳ではないし、目に見えるものではない。ましてや、この波動は今のところ、何らかの測定機器により計測したり記録したり出来るものではないようだ。あくまでも、観念的にあるに違いないと思われているものである。しかしながら、人の念は人から発せられて、人の心に響いているし、影響を与えているのは間違いないようである。波動は、人から人へと伝わって影響を与えているのは間違いないような気がする。

その人の波動には、調和されている波動と調和していない波動があるらしい。それを便宜的に、調和波動と不調和波動と呼ぶことにする。どうやら、一緒にいて疲れる人の波動は不調和波動であり、逆に共に居ると安心して癒される人の波動は調和波動らしいのだ。調和波動は、乱れていないし整然としているから、相手の波動を乱すことはしないし、逆に乱れている波動を整えてくれる働きもするのである。一方、不調和波動は相手の波動に働きかけて、乱してしまう。波動が乱れて調和していないと、不安や恐怖、または憎しみや怒りといったマイナスの感情を惹起させるらしい。または、相手の蓄えたエネルギーを削いでしまったり奪ったりもするのである。

この波動というものが、何故調和したり不調和したりするのかというと、生きるエネルギーの大きさとその健全さに関連しているのではないかと想像できる。そして、その生きるエネルギーというのは、愛に通じている。その愛とは、自己愛ではなくて他に対する愛であり、社会や宇宙全体に対する愛ではないだろうか。言い換えると、それは求める愛ではなくて、ただ与えるだけの無償の愛であろう。そういう博愛とか慈悲の心が、エネルギーを正常化させると共に波動を調和させるに違いない。こういう慈愛や博愛に満ち溢れた人からは癒されるし、自己愛の強い人と一緒にいると疲れるのである。

この調和波動と不調和波動のどちらかを出しているのかによって、一緒に居ると疲れる人と癒される人という分岐点になるのではないかと見られる。不調和波動を出している人は、予想以上に多くて、殆どの人が不調和波動を出していると言っても過言ではない。不調和波動を出している親に育てられると、子どもは不登校や引きこもりになるケースが少なくない。つまり、エネルギー不足になるのである。他人を支配したり制御したりする傾向にある人は不調和波動であり、その人に支配され制御されてしまっている人もまた不調和波動になるから恐ろしい。これらの不調和波動を出している人は、愛というエネルギーが枯渇しているとも言える。一緒に居ると疲れる人、つまりは不調和波動を出している人から、支配されたり制御されたりせず、完全に自立することが求められているように思われる。

スピリチュアル依存症

スピリチュアルという言葉が独り歩きしている。しかも、そのスピリチュアルという言葉が心地よく聞こえるのか、それにどっぷりと浸かっている人たちが増えている。そして、このスピリチュアルに心奪われ人は、ウィルスに感染しているかのように、急激に広がりを見せている。以前は、魂だの霊だのと言う人は、どうしても胡散臭く見られていたのに、スピリチュアルという洒落た語感が功を奏したのか、同じことを言っても受け入れられることが多くなった気がする。しかし、それによりとんでもない悪影響を与えつつあるのも事実である。つまり、自分に不遇な境遇が現れると、自分のせいではなくてすべてスピリチュアルな要因にあると思い込んでしまうのである。そして、そのスピリチュアルにすっかり依存してしまって、頑固な態度で聞く耳を持たなくなっている人々が急増しているのである。

この言わばスピリチュアル依存症と呼べるような人々は、一旦信じ込まされてしまうと、他の人の忠告に耳を貸さず、頑なに思い込む傾向にある。何故かというと、自分の不遇がこのスピリチュアルなものに原因があると言われたほうが、心が休まるからである。自分に与えられた苦難や困難が、自分の生き方に問題があったからだと指摘されるよりも、前世からの課題や試練によってもたらされたものだと言われたほうが、耳に心地よいのは当然だ。このようなアドバイスをするスピリチュアルカウンセラーは、自分でも無意識のうちに、このような助言を無責任にしてしまう。具合の悪いことに、自分でもそのように信じ切っているものだから、クライアントに対して自信満々の態度で伝える。それも、様々な小道具や音楽・アロマ等を利用するものだから、深く潜在意識に届く。したがって、疑いもせずすっかり信じ込んでしまうのだ。

このスピリチュアルという呼び方も拙い気がする。スピリチュアルカウンセラーとかスピリチュアル占いとかいうと、怪しげな感じがしない。霊魂カウンセラーなんて呼んだら、いかにも怪訝そうな気がするだろう。このソフトなイメージによって、多くの人が惑わされている。勿論、スピリチュアリティそのものがこの世に存在しないし、そんなのはすべてまやかしである、などという乱暴なことを言うつもりもない。科学的には証明出来なくても、集合無意識ということや、過去世の記憶を持って生まれてくる人間の仕組みを信じていない訳ではない。だとしても、今のスピリチュアルブームは異常であり、誤解している人が多いし、あまりにも依存し過ぎているのは問題と言える。

スピリチュアルブームの火付け役の一人である、元福島大学の教授だった飯田史彦氏は、社会に対して警鐘を鳴らしている。自分の性格・人格・人間性に問題があり様々な苦難困難と巡り合うケースで、真にスピリチュアリティに原因があるケースは、僅か10%以下であると言い切っている。彼はスピリチュアリティにおける特殊な能力を持ち、ボランティアでかなりのクライアントを救っている。その解決事例を通してそのように断言している。彼は、このカウンセリングにおいて一切料金を取っていない。ところが、スピリチュアルを利用してヒーリングをしている人々は、結構法外な料金を請求している。それで商いをして生計を立てているのである。つまり、クライアントを多く取りたいし、逃がしたくないのである。本人には悪気はなくても、こういう人は信用出来ない。

スピリチュアルを商売にしている人々がすべてまやかしであるなどということを言うつもりもない。しかし、すべてのクライアントに対して、これはスピリチュアリティに問題があって、前世の誰それがいたずらをしていると答えているようなカウンセラーは、信用出来ない気がするのである。そして、スピリチュアル依存症の人々を利用してお金を巻き上げるなんて、許せない所業である。自分のつらい境遇すべてに対して、スピリチュアリティを原因にしてしまったら、謙虚に自己を反省しないし、自己成長や自己の確立を遅らせてしまう。自分に起きている苦難困難が、すべてスピリチュアリティに問題があって起きている訳ではないということを認識してほしい。自分の目の前の試練から、スピリチュアリティに逃げないでほしい。そうしないと、本当の解決はやって来ない。スピリチュアル依存症から勇気を持って撤退してほしいものであり、今の自分自身を素直に見つめてほしいと思う。