いじめから子どもを守る対処法

子どもがいじめに遭っている場合、どのように対処したらいいのか迷う処である。そもそもいじめに遭っていることを子どもが内緒にしいるケースが殆どである。先生にも親にもいじめられていることを訴えることが出来ないのである。何故なら、先生に話しても適切な対応が出来ないばかりか、かえって陰湿ないじめに発展するとか、先生にちくったということでより過激ないじめになりかねないことを知っているからである。先生が守ってくれるという確信を持てるなら訴えるのであろうが、残念ながら期待できないのであろう。

親に対してもいじめられていることを訴える子どもは少ない。いじめられていることを訴えても、適切な対応をしてもらえないということと、かえってこじれることが予想されるからであろう。さらには、それだけの深い親子の関係性が構築されていないからではないだろうか。どんなことがあっても親は自分を守ってくれるという、親子の絶対的信頼関係があれば、子どもはいじめられていることを訴えるに違いない。ただし、いじめられていることに対してどんな対処法をすれば良いのか、迷うものであろう。

親が学校に行って、いじめの実態を先生に話したら、どのような解決をしてくれるのであろう。子どものことを先生は守ってくれるのであろうか。いじめている子どもは仕返しをしないであろうか。そんな心配もあるから、安易に学校関係者に話すことを躊躇するに違いない。とはいいながら、警察や法務局などに訴えることまではしたくないのが本音である。自分自身で解決できるならいいが、下手に動いたら悪化させかねない。いじめている子どもと直接話す機会もないし勇気もなく、どんな説得をしたらいいか解らないであろう。いじめている子どもの保護者に直接話すのも、その後の進展を考えると厳しいと思われる。

自分の子どもが中学生の時にいじめられた経験がある。その時にある対処をして上手く行った例があるので、参考にしてもらえたら有難い。当時中学1年生の息子が、学校から帰ってくるなり、「明日から僕は学校に行かない」と言い放った。どうしてと聞くと、どうやら同じ部活の生徒からいじめを受けたからだという。息子はあるスポーツの部活をしていて、その同じクラブの生徒から執拗ないやがらせを受けたという。それも息子が乗っている時に、自転車を蹴って倒すということを何度も繰り返す陰湿ないじめである。「やめてよ!」と何度も言ったが聞き入れてくれないという。

うちの息子は、非暴力主義というのか争い事が嫌いなので、暴力で対応するのはしなかったせいか、度を過ぎた嫌がらせが続いたらしい。いじめをした子どもは身体も大柄で、常日頃乱暴な行動を学校でしていたこともあり、反抗できなかったみたいである。息子はスポーツ少年時代から同じスポーツをしていたので、1年からレギュラーをしていたことから嫉妬もあったのではないかと推測している。子どもたちの心というのはデリケートであり、子育ては難しい。変な対応をしてしまうと、心の傷を残しかねないので、どうしたらいいのか自分でも正直迷った。

そして、次に驚くような行動をしていた自分がいた。息子を連れて、その家に今から行こうと誘った。幸運にも同じ部活だったこともあり、その家の住所を知っていたし、親とも面識があった。自家用車に乗って、そのいじめをした子どもの家に親子ふたりで向かった。たまたま、その家にはご両親が揃っていた。その親に挨拶して、「子どもどうしがどうやら気まずい出来事があったみたいなので来ました。仲直りをしてほしいので二人で遊ばせてもらいたいと思ってきたのでよろしくお願いします」と頼み込んで、家に入れてもらった。子どもどうしは、親が見ているから何事もなかったかのように遊び始めた。その間、親同士はいじめがあったことを敢えて話題にはせず、たわいもない世間話をしていた。

その家の子どもは学校では乱暴なことをしていたが、家の中では『良い子』を演じているというのは予想していた。ご両親もしっかりした方で、おそらく厳しい躾をしていたと想像していた。だから、あえていじめのことは触れず、子どもどうしを遊ばせることにしたのである。意地悪をしていた子どもは、家の中でよい子を演じ過ぎているが故に、そのストレスの捌け口を学校で発揮していたと思われる。親にいじめをしたことが解ったら、どんなに厳しく叱られるか解らない。内心、びくびくしながら遊んでいたに違いない。今後、何か息子に嫌がらせをしたら、今度こそ告げ口をされないとも限らないと思ったのであろうか、その後いじめはなくなった。親同士がこんなにも親しく会話しているということが、いじめのストッパーになったのには間違いない。いじめ事件を通して、子どもどうしの関係性が深まり、そして親同士の関係性も豊かになった。いじめに対応する時に考慮すべきなのは、『関係性』という価値観である。息子との関係性が良かったから、いじめを告白してくれたと思う。このような解決策が出来たのは、好運だったのかもしれないが、参考にして頂けたら有難い。

みんなの学校を創ろう

「みんなの学校」は、本来あるべき理想の教育を実践している場所だ。そんな確信をさせてくれる珠玉の映画であった。ふとした縁からこの映画が会津若松市で上映されることを知り、早速申し込んで事務局の方に何とか定員の中に入れてもらい、鑑賞させてもらった。予想していた内容ではあったが、その予想を上回る感動を与えてくる秀作だった。どんな名演技の俳優が演じたフィクションよりも、実在の人物がリアルに織りなすドラマは感激させてくれる。出演しているのは、大阪市立大空小学校に実在する児童と教職員たちなのだ。実に素晴らしい感動のドキュメンタリー映画である。

日本国憲法では、基本的人権の中で教育を受ける権利が保障されている。誰でも平等に教育を受ける機会が与えられている。ところが、障がいを持つ子どもたちは、普通学校の普通学級に行きたいと希望しても、何らかの理由で適えられないケースが殆どである。たとえ普通学級に入ることが出来たとしても、心無い同級生や教師の対応次第で学校に行けなくなることも少なくない。ところが、この大空小学校は障がいを持った子もそうでない子もすべて一緒に同じ学級で学ぶのである。

この学校の目標は、不登校を無くすことである。新任して2年目の講師が担任している子どもがある日登校しなくて、親の携帯と繋がらないケースが起きた。どうして良いか解らずおろおろするその先生に、木村泰子校長はこのように諭す。残された学級の授業は私でも出来るが、その子の対応をするのはあなたしかいないと。すぐにその新米担任は、自転車でその家庭に子どもを迎えに行った。不登校をさせない為に、教師たちは最大限の努力をするのである。先生たちは常に子どもの立場で考え行動する。だからこの学校は不登校ゼロなのである。

この大空学校では、発達障害、知的障害、自閉症スペクトラムなどの子どもたちが他の子どもたちと一緒に学んでいる。他の学校で不登校になった児童も、住所地を変更してまでして転校してくる。そして、子どもたちはお互いに支え合いながら共に学ぶ。先生たちもお互いに協力し合う。地域のボランティアの支えもある。この学校では、他の学校では既になくなってしまった豊かな『関係性』がしっかりと根付いている。先生どうしもチームを組んでお互いに助け合い支え合う。子どもどうしの関係性をしっかりと築いているから、いじめも不登校もないのである。

こんなエピソードが描かれている。くだんの新米担任の先生が、子どもを大声で怒鳴りつけていた。それを見ていた木村校長が、その教師を呼びつける。木村校長は部下の先生を頭ごなしに厳しく指導することはしない。子どもに対しての指導もそうだが、必ず質問をするのである。その先生にこう質問する。大声で子どもを指導していたが、あれは教育の一環として冷静に演技したのか、それとも怒りの感情で興奮したのかと問う。教師は怒りに任せてしたことだと正直に答える。もし、それで子どもがいたく傷ついて、窓から飛び降りたらどうするのか、そんなことも考えられず怒りを抑えられないなら教師不適格だからいますぐ辞めなさいと言い放つ。勿論、木村校長は反省して子どもに謝った先生を許すのである。

このように木村泰子校長は、常に子どもが中心の教育を志して行動している。故に先生への対応も厳しくなるが、愛情溢れる指導だから絶大な信頼を得ている。子どもたちもどうにもならなくなったら木村校長を頼ってくる。通常の学校長はマネージャー、つまり管理者である。しかし、木村校長はリーダーである。それも理想のチームリーダーだ。けっして高圧的でもないし独善的でもない。校長を加えたチームはいつも皆で相談しながら進むべき方向性を確認している。他の学校では、担任の学級運営に対して口を出さないのが暗黙のルールである。しかし、大空小学校では担任で手に負えなくなったら、他の先生たちに助けを求め、そして快く協力するし助け合う。

この学校では、絶対に守らなければならないルールがひとつだけある。それは『自分がされていやなことは人にしない 言わない』である。そのルールを破った子どもは校長室に行ってやり直しを約束するのである。大空学校では、このルールを子どもたちも教職員も常に守っている。だから、いじめやパワハラもないし、不登校もないのである。不登校が起きるひとつの要因は、子どもたちや教師による心無い言動が子どもの心を傷つけ、学校からそして教室から居場所を奪うからだ。このルールを徹底することで安心できる居場所が確保できるのだ。大空小学校は、快適な居場所をみんなが努力して作り上げているから不登校がないのである。

大空小学校では、障がいを持った子どもたちを、そうでない子どもが自ら進んで温かい心で支援する。そして、このような支援や助け合いをすることが、自分の喜びとなり自分自身を認め誉めることに繋がり、自己肯定感を育てることになる。そして、何よりも重要な価値観として、つながりや絆の大切さを学ぶことになる。さらに、人間の多様性を受け入れて、共生ということの大切さを実感するのである。みんなが大きな自己成長を遂げる。そして教師もまた同じように、深い自己啓発が生まれる。さらには障がいを持った子たちも、認められ評価され誉められて大きく育つ。まさしく大空小学校は教育の場でなく、『共育』の場なのである。大空小学校のような「みんなの学校」をもっとたくさん創れば、学校で起きている不登校、いじめ、指導死などの諸問題は起きる筈もない。すべての学校が「みんなの学校」になることを目指して、これからも活動していくことを心に誓った。

初心忘るべからず

新しい年の初めに当たり、『初心忘るべからず』という言葉について、今年の最初の日記を書くことにしたい。昨夜、NHK紅白歌合戦を視ていたら、羽生善治永世七冠がこの初心忘るべからずという言葉の本当の意味について述べられていた。この初心忘るべからずという言葉は、最初に志した自分の命題や目標を忘れることなく精進しなさいという意味で使われている。ところが、本来の意味は違っているという。この言葉は、能楽を完成させたと言われる世阿弥が54歳の時に、「花鏡」(かきょう)という能楽の伝書で、示した言葉らしい。

初心とは、最初の志のことだけではなくて、何かを新たに思い立った時、または人生の節目(せつもく)の際に、こうしようと心に誓ったことを言うらしい。だから、初心は人生の中でただ1回だけではなくて、何度もあるというのだ。自分も誤解していたことを恥じたい。何か一生に一度の大きな目標を掲げた時、または一生を捧げるような職業に就いた時に思ったことを初心だと勘違いしていた。そうすると、初心はその時その時の心の在り様、人間的成長の各段階において、または価値観や哲学をさらに向上させた時に、初心をバージョンアップさせるものなのだということである。

人間と言うのは、ある程度の成功を実現させると、現状に満足して成長することを止めてしまうことが往々にある。ところが、人間と言うのはこれでもう学び切ってしまったということはあり得ないのである。学べば学ぶほど、自分の浅学菲才ぶりに気付くものである。何でも解ったように勘違いして、もう自分は悟り切ったと思うような人間は、けっして大成することはない。自分が無知だと思うからこそ、まだまだ愚かな人間だと謙虚になり、勉学に勤しむものであろう。そして、その人生の節目(せつもく)に初心を自分の胸に刻んで、さらに精進し続けるのだろうと確信している。

15年以上も前に、自分が胸に刻んだ初心は、イスキアの郷しらかわを必ず開設することであった。佐藤初女さんの森のイスキアのような施設を創るという夢であった。そして、昨年の9月に様々な人のご支援を頂き、開設することが出来た。これは、ひとつの通過点でしかない。まだまだ、イスキアの郷しらかわの認知度は低い。そして、利用される方々もまだ多くはない。今度の初心は、皆さまのご支援に報いる為、イスキアの郷しらかわを多くの皆さんに知って頂くことと、もっと多くの方々を深くご支援申し上げたいということである。そして、心が癒されて幸福になってイスキアを卒業される方々を、笑顔で見送りたいという初心でもある。

15年以上前の初心は、様々な事情もあってなかなか貫徹出来ずにいた。経済的な問題もあって、踏み切れずにいたのである。今から思うと、初心を貫徹することに不安や怖れがあったことは否めない。もしかすると、イスキアを創るというのは無理なんじゃないかと諦めそうになったことが何度かある。何度も挫折しそうになった時に、不思議な出会いがあって、背中を押してくれた。それは、イスキアを必要とする方々との出会いであり、イスキアを応援したいと申し出てくれた人たちとの出会いである。そんな方々に申し訳ないと思いながら、ずっと伸び伸びになってしまっていたのだ。

昨年の2月に佐藤初女さんが亡くなられた。その後、森のイスキアが活動停止になり、こうしてはいられないと思い、昨年の9月にイスキアの郷しらかわを開設した。その際に、出会った方々には叱責されることを覚悟して、開設のお知らせをした。皆さんからは、どうしてこんなに遅くなったのだというお叱りの言葉もなく、温かく受け入れて頂いた。今度は、そんな皆さんに恩返しをしたいと思う。さらには、イスキアの運営が順調になったら、お世話になった方々を招いて、開設記念のパーティも開催したいと思っている。今年は、そのレベルまで必ず到達したいと誓う。この初心を深く心に刻んだ、1月1日の朝である。

毒親なんて呼ばないで!

ネット上で、酷い親のことを毒親と呼んで非難している。つい最近放映されていた『明日の約束』というフジTV系列のドラマでも、毒親がテーマでもあった。フジTVといえば、どちらかというとお笑い系やバラエティー系を得意としていて、恋愛ものドラマを主流としていたのに、最近はこんな真面目なドラマをするようになったんだと感心しながら視ていた。視聴率は低かったが、TV関係者からは高い評価を受けていた。ドラマの最後は、ちょっとあっけなかった気もするが秀作であった。仲間由紀恵や手塚理美が毒親を好演していた。好感度の高い女優に毒親を演じさせるという斬新なチャレンジも買いたい。

このドラマでも描いていたことではあるが、誰でも毒親になりうるということである。そして、毒親もなりたくてなった訳ではなくて、ある何かによりそうさせられてしまったということに注目したいのである。つまり、毒親である本人は好んで毒親であるのではなく、止む無くというのか、知らず知らずのうちに毒親にならざるを得ない状況に追い込まれてしまったといえよう。勿論、本人に何の責任もないなどと乱暴なことは言わないが、責めるべきは本人ではなく、本人に関わる周りの人間や社会全体にも責任があるということである。毒親なんて呼ばないで欲しいものである。

毒親と呼ばれる本人は、自分のことを毒親だとはまったく思っていなくて、こんなにも子どもに対する愛情が深い親は他にはないだろうと自負していると思われる。確かに、子どもを愛する気持ちが大きく、子どもが大好きで、なによりも子どもの幸福を願っているのは間違いない。そして、多大な期待を子どもにかけているし、子どもの成功を誰よりも願っているのである。ただし、それが度を過ぎてしまい、子どもに対して過干渉になり過ぎるきらいがあることは確かである。そして、子どもの平和や幸福が脅かされる事態になると、攻撃性が牙を剥くのである。

毒親は、自分が期待するような子どもにならないとみるや、その子どもには勿論のこと、学校や学友、またはパートナーに対しても攻撃する傾向にある。期待通りの子どもにならないのは、学校、教師、塾講師、家庭教師、部活の指導者、学友、先輩にあるに違いないと思い込みがちである。そうなると、クレーマーとなり学校に乗り込んでくる事態にも発展するのである。自分も学校に何度か乗り込んだ経験があるが、それは子どもの基本的人権が明らかに侵害されたと確信したからであり、子どもを守るにはそれしか方法がなかったからである。先生にも理解してもらったし、快く応じて改善してくれた。

毒親がこのような攻撃性まで発揮するような心理状態に何故なるかというと、子育てに対する根本的な価値観の間違いが指摘されよう。そもそも子育てには正解はないと言われているが、ある程度の原則的な価値観はあるだろう。まずもって、子育ては誰の為にするのかということである。毒親も含めて殆どの人は、教育は子どもの為でしょうと即座に答える。確かに、教育は子どもが主人公であり子どもが健全に育成されることを目指すのは間違いない。しかし、本当に教育の目的はそれだけであろうか。

教育をするのは子どもの為と言い切る保護者、学校関係者、文科省の役人、政治家は多い。果たしてそうであろうか。明治維新以降、戦後は特に、思想哲学を教育から排除した。軍国主義に発展してしまったという歴史から、戦後は全体主義や国家主義までも忌み嫌った。だから、国家が教育に対して及び腰になり、教育は世の為人の為に役立つ人間を育成するということを声高に宣言しなくなってしまったのである。これが完全な間違いであったと言わざるを得ない。教育は自分の為でもあるけれど、人々を幸福にして平和に生きる世の中を創る為であり、社会全体に自ら進んで貢献できる人間として成長する手助けをするのが教育の正しい目的である筈である。

学校でも家庭においても、勉強しないと良い学校に行けなくて収入の多い職業に付けないよ、と子どもを叱咤激励する。そんな教師と親たちだから、学校ではいじめや不登校という問題が起きるのである。引きこもりが起きるのも、元を正せばそんな誤った価値観に支配されている社会に魅力を感じないからであろう。毒親が生まれるのも、そんな間違った価値観を教え込まれた故である。この世の中は本来、自分の利益を求めるために存在するのではない。量子物理学、宇宙物理学、最先端の医学、脳科学、心理学、どれを取っても、世界は全体最適と関係性によって成り立っていることを証明している。間違った教育理念が、個別最適を目指していて関係性をないがしろにしているから、こんな毒親というモンスターを自ら生み出していることを肝に銘じるべきであろう。

命短し恋せよ乙女

♪いのち短し恋せよ乙女♪というのは、ご存知のようにゴンドラの唄のフレーズである。この唄を聞くと、よく思い出すのは黒澤明監督の『生きる』という名作映画である。主人公演じる志村喬が人気のない雪降る夜の公園で、ブランコに座りながら唄うこのフレーズが強烈に記憶に残っている。この唄い出しのフレーズは知っているものの、その後の歌詞は知らない人が多い。『いのち短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に、明日の月日のないものを』が一番の歌詞である。

実に意味深い歌詞でもある。いのち短しというのは、おそらく乙女でいられる時間が限られているという意味であろう。明日にはもう若さを失うかもしれない。紅き唇も明日には色褪せるかもしれないし、熱く燃え滾る熱情だって明日は冷え込んでしまうかもしれない。だから、乙女たちよ、若いうちに恋をしなさい。という意味だろうと想像している。現代の若い女性は、恋に対して臆病なように感じる。恋愛をするのが怖くて二の足を踏んでいるように感じる。恥ずかしい自己などすべてを相手にさらけ出す勇気が持てないし、自分が嫌われたり捨てられたりすることを必要以上に怖れているような気がするのである。

恋愛をすることは、人間の成長には欠かせない重要な体験である。何故なら、恋愛を通して気付き学ぶことがあまりにも多いからである。人間としての成長には、恋愛が欠かせないと確信している。その意味は、こういうことである。付き合いが深くなり恋愛感情が高まり、相手のことが好きで好きで堪らなくなると、相手の嫌な処や醜い部分までも許せるし受け容れることが出来るのである。それは身体的な部分も精神的な部分もという意味である。誰かが、恋愛なんて錯覚だよと言っていたが、まるで錯覚のように相手のマイナスの自己も含めてすべてが好きになり愛せるようになるのである。

人間は、相手のこういう部分は好きだけど、こんな部分は到底許せないという処が必ずある筈である。ところが、恋愛感情が極限まで高まると、相手のすべてを許せるようになるから不思議である。そして、相手の悪い部分を好きになり愛せるようになると、自分の同じ悪い部分もあることを認めて許せるようになるのである。ただし、恋愛感情が高ぶりを見せているうちは良いが、少しずつ愛が冷めてくると相手の嫌な処が目につくことがある。ましてや、結婚してしまうと恋愛感情が冷めるケースも多々あり、相手の嫌な処が許せなくなることもある。結婚してもラブラブの関係が続くようにしなくてはならないのである。

さて、ラフラブな恋愛を続けるためにどうしたらいいかというと、嫌われない努力が必要だと言える。つまり、自分の至らない点や恥ずかしい所を少しでも改善しなくてはならない。恋愛期間というのは、正式な婚約をした訳ではないので、いつでも別れてもいいのである。嫌いになったら、相手は離れて行ってしまう。だからこそ、自分を高め成長させなくてはならない。特に、人間としての魅力を豊かにする必要があるのだ。包容力があり、相手のすべてを許せる度量の大きい人間にならなくてはならない。

つまり、このように恋愛が始まっても、そしてその恋愛が続くためにも、自己成長が付いて回るのである。だからこそ、人間というものは恋愛をする必要があるのである。恋愛なんか一度もしたことがないような人を見てみれば、すぐに解るであろう。相手の心が読めなくて、共感出来ないばかりか、実に冷たい感じがすることが多い。人間としての温かさが感じられない人が少なくない。だからこそ、乙女が恋をすることを勧めているのである。それじゃ、乙女しか恋をする必要がないかというと、けっしてそうではない。老若男女、すべて恋をすることを推奨したい。中高年の男女も恋をして、自己が磨かれるべきである。

結婚して何年も経ってから夫に幻滅して、もう結婚なんてこりごりだと思っている妙齢の女性が結構いると思われる。そういう方は、結婚はせずに恋愛だけをすれば良い。結婚すると、夫という安定した地位に甘んじて、話も聞かず、家事は一切せず、自分の好きな事しかしないという男性が少なくない。だから、結婚と言う形を取らずに、恋人関係や同棲関係を続けたほうがよいかと思う。そうすれば、緊張感を持って魅力ある男性として長く振る舞ってくれる筈である。人間としての成長をする為に、そして人間としての魅力を磨き続ける為にも、すべてをさらけ出せる勇気を持って、恋をしたいものである。恋せよ、すべての紳士淑女諸君!

引きこもりに対する父親の役割

引きこもりの子どもをどう扱ってよいか解らず迷っている両親は、相当に多いに違いない。叱って無理やり外に連れ出すのか、医療機関や専門家に任せるのが良いのか、それとも優しく諭すのがいいのか、そっと見守るしか術がないのか、悩んでいることであろう。勿論、同じ引きこもりの状態にあっても、子どもの性格から成育環境も含めて、みんな違っている。それゆえ、画一的な対応というか、正解だと言えるような対応の仕方なんてないと思っている人も少なくないと思われる。

引きこもりの子どもは、親にしてみれば実に扱いにくいことだろう。何を考えているか解らないし、予想がつかない行動をしがちである。また、気分もその日その時によって変化するし、突然キレたり怒り出したりするものだから、腫れ物に触るような対応をせざるを得ない。とは言いながら、親としてみればどうにかして社会復帰してもらいたい思いが強いことであろう。何故なら、どうみたって自分達のほうが先にお墓に行くことになる。自分たちが居なくなったらと思うと、その後の子どもの生活が不安でならないのは当然である。

引きこもりの子どもは、自分の人生や将来をどのように考えているのであろうか。本人に確認した経験はないものの、おそらくは今のままで良いとは考えていないのは確かであろう。そして、将来の不安も親と同等かそれ以上の不安を持っているに違いない。何とか現状を打破したいと思いながら、どうあがいても身体が動かないのである。社会復帰してほしいという親の願いは、痛いほど認識しているし、親が多大な不安を持っていることも先刻承知している。ところが、親が不安なればなるほど、不思議と子どもの不安も増幅してしまい、お互いにその不安を強化しあってしまうのだと思われる。

引きこもりが起きてしまっているのは、親に原因や責任がある訳ではない。勿論、本人にも責任はない。生きづらい世の中にしてしまっている我々の社会全体に責任があるのだと思っている。学校、地域、企業、職場に安心な居場所がないのである。家庭にも居場所がないけれど、自分の部屋だけがかろうじて認められるべき居場所なのだろう。引きこもりになってしまったのは、今の社会における人々の価値観が劣悪だからである。客観的合理性をとことん追求していて、行き過ぎた競争原理により関係性が破綻し、コミュニティが崩壊してしまっているこの社会には、安心する居場所がないに違いない。

勿論、家庭における父親もまた、そんな価値観に支配されてしまっている。それ故に、家族の関係性が希薄化してしまっている。家族の関係性が悪いのは、父親に正しい哲学や価値観がないからであると考えられる。しかし、そうなってしまったのも父親が誰からも正しい哲学や価値観を教えられていないのだから当然であるし、責められない。明治維新以降の近代教育導入から、正しい思想哲学の教育を排除し、それが戦後にさらに強化されてしまったのだ。親からもそして学校でも価値観教育がなくなってしまったことにより、人々は生きづらさを抱えてしまったのだと確信している。

それじゃ、引きこもりの父親はどうしたらいいのかというと、今からでも遅くはないから正しい価値観を学ぶことを勧めたい。それもこの世の真理に基づく正しくて普遍的な価値観を学ぶべきと考える。この世の中で、「父親学」というものが今必要なのではないか思うのである。イスキアの郷しらかわでは、この「父親学」をレクチャーしたいと考えている。単なる観念論ではなく、最先端の複雑系科学に基づいた真理である、システム思考の哲学という価値観の学びもするし、ノーベル賞を受賞したイリヤ・プリゴジンの提唱した自己組織化の理論学習をサポートしたい。そうすれば、子どもが尊敬して止まない父親の後ろ姿を見せられることであろう。

この関係性が劣悪化してしまった社会、つまり生きづらいこの世の中を変えない限り、引きこもりや不登校はなくならないかというと、けっしてそうではない。学校教育における価値観教育をしっかりするように、教育のイノベーションが必要だと思っている。しかし、この教育のイノベーションをするには、まだまだ世論が成熟していないこともあり、今すぐには難しい。家庭教育において価値観教育を始めるのは、父親が目覚めれば可能である。引きこもりの子どもは、父親に価値観教育に目覚めなさいと教えてくれているのかもしれない。父親が正しい価値観を確立して、引きこもりの子どもに対する価値観教育が出来れば、社会復帰が可能となるに違いない。社会が間違っていても、自分が正しいと確信する価値観を持っていれば、自信がついて社会に踏み出す不安がなくなるからである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「父親学」の講座を実施しています。ご依頼があれば、出張講座も承ります。父親が不在で一人親の場合は、母親学としてのレクチャーもします。

子どもの愛し方が解らない

子どもの愛し方が解らないという親が増えているという。勿論、子どもを愛していないのではないのだが、愛情の掛け方が解らないのである。そして、好きで好きで堪らないという感覚はなくて、嫌いではないという程度の感じだというのである。とても微妙な感覚なのであるが、子どもをどう扱っていいのかも解らないし、子どもに対してどのような態度をとっていいのかが判然としないらしい。どのような言葉をかけるのが好ましいのか、まったく解らないのだろう。親子の関係性は、残念ながら非常に希薄なものとなると思われる。

何故、子どもの愛し方が解らないかというと、あくまでも想像でしかないが、乳幼児期に自分自身が親から充分に愛されたという経験がないからではないだろうか。人間という生きものは、様々な経験から学ぶものである。見本となる人の模倣を通じて、自己成長を遂げていく生物である。とすれば、乳幼児期に愛される体験が不足してしまうと、我が子をも愛せないという事態に陥るのである。こういう親が、現代に意外と多いのである。だから、親子の関係性が希薄になり、養育上の諸問題が起きやすいと言われている。

それじゃ、何故自分が親から愛情を注がれなかったというと、実はその親もまた自分の親から愛されたという経験が欠如していることに原因がある。つまり、我が子を愛せないのは、先祖からのずっと続いている負の連鎖なのである。我が子を心から愛することが出来ないという症状が、先祖からずっと続いているという悲惨な事実が判明するに至り、これ以上ないという不幸に突き当たってしまうのである。勿論、愛したくなくて子どもを愛さないのではなくて、愛したくても愛する方法が解らないのであろう。

どんな子どもであっても、親が大好きである。表面的には憎しみを持つ場合もあろうが、それは愛があるからこその感情であり、嫌いな感情があったとしてもそれは本心ではない。子どもは親から心から愛されたいと思うのである。しかも、兄妹が他にいたとしても、自分が他の誰よりも愛されたいと思うのが子どもの心理でもある。ところが、親が子どもを愛する術を知らないと、その本心が子どもに伝わらないという不幸が起きてしまう。愛に飢えた子どもが育ってしまうのである。そうすると、親からの愛を過剰に求めてしまうので、不登校、引きこもり、DVなどの問題行動に発展しやすいのである。

この子どもの愛し方が解らないという不幸な歴史は、何時から始まったのかと言うと、少なくても江戸時代の親子の情愛はあったのだから、明治維新以降ではないかと見られる。あまり知られていないことだが、江戸時代の父親はイクメンであったのである。当時の職人たちは、朝の早い時刻から仕事をした。4時か5時には仕事を開始して、お昼過ぎくらいには仕事を終えて自宅に帰るという日課であった。残業なんて滅多にせずに家に真っすぐ帰り、幼い子どもと一緒に銭湯に行ったらしい。そして、帰宅したら家事育児を自ら進んでやったという。だから、子どもは父親が大好きであったし、父親も豊かな愛情を子ども注いだのだろう。

子どもというのは、何かを買ってもらったり何かをしてもらったりすることで、親の愛情を実感することはない。一緒に遊んでもらったり本を読んでもらったりの行動を共にして、その行動を親が心から楽しんで笑顔が溢れていると分かった時に、子どもは自分が愛されていると実感するものである。行動を一緒にする関わりあいや支え合いを通して、子どもと親が幸福感に包まれた時に、愛を実感するのだ。まずは、一緒の行動をしなくてはならないし、しかも子どもを支配したり制御したりせずに、ただ見守って寄り添うだけで良い。これが子どもを愛するということである。

江戸時代には豊かな愛情を注げた父親たちが、明治維新以降の近代化により、家族に関わる時間や機会がなくなった。したがって親の愛情をたっぷりと子どもに注げないばかりか、父である夫が妻を心から愛することも叶わなくなった。愛は連鎖して循環するものである。夫からの妻への愛が不足して、我が子への愛も注げなくなるのである。明治維新後の富国強兵策によって、働き方が変わってしまうことで家族との関わりあいが減少して、家族の関係性が希薄化してしまったのが、子どもの愛し方が解らなくなった元凶であろう。日本人は働き過ぎだろうと思う。家族や地域との関わりあいの時間が、たっぷりと持てる働き方を推進すべきである。子ども愛し方が解らないという親が、これ以上増えないためにも。

 

※イスキアの郷しらかわでは、父親学や母親学を学ぶ講座をしています。子どもへの愛情のかけ方、接し方、親子の情愛を深める方法などを学びます。原則として、講義料はいただきません。昼食代や宿泊料だけを頂戴するだけです。基本的にボランティアでやらせてもらいます。なお、出張講座もいたします。ご用命ください。

不登校の責任は親にはない

不登校と引きこもりの原因は何かというと、育てた親にあると思っている人が多い。何故かというと、学校、教師、学友に原因あるとすれば、他の子どもたちも皆不登校になるのにそうなっていないからである。とすれば、不登校になるのは特定の子どもであり、それは親の子育てに何か問題があったに違いないと類推するのであろう。ほとんどの教師と学校関係者はそう思っているし、スクールカウンセラーが親のカウンセリングをするのも、そう確信しているからだと思われる。そして、親たちも自分たちに不登校の責任があるのではないかと思い、自分を責めるのである。

学友によるいじめ、学業不振、部活における不振や挫折、教師による誤った指導、発達障害、メンタルの障害等が不登校になった直接原因だと思いがちである。そして、不登校になってしまった本人の心に問題があるし、そのように育ててしまった親に根本的な原因があるとみている学校関係者が多い。スクールカウンセラーだけでなく、民間のカウンセラーや専門の児童精神科医も、親に対するカウンセリングを重視して実施しているのも、同じ理由からであろう。他の子どもたちの親や社会一般も、不登校になった責任は親にあると思っているみたいである。

果たして、本当に不登校の責任の大半は親にあるのだろうか。この世において、一番難しいのが子育てである。子育ての教科書やマニュアルがあったとしても、個別の問題に関してはまったく役に立たない。ましてや、日々刻々と様々な問題・課題が子育ての最中に置き続ける。子どもだって画一的でないし、いろんな子どもがいる。兄弟であってもまったく違う性格にもなる。環境も違うし、社会的背景もその時代で違っている。核家族の社会であるから祖父母と同居していないから、子育ての経験者が傍に居ない。子育ての指導者もない状況で、手探りの子育てをせざるを得ないのである。

子育てをしている親たちにインタビューをすると、子育てに悩んでいる人が殆どである。子育ての悩みや問題に対して誰も適切な解決策を示してくれない。自分達で考えて対応するしかない。当然、失敗を繰り返しながら学んでいくしかないのである。それなのに、子育ての失敗は親にあるなどと軽々しく言うのは、実に残酷だと言わざるを得ない。無難に子育てできたのは、たまたま好運だったに過ぎないと思うべきだろう。だから、不登校になった責任を親に押し付けるべきではないのである。

家庭における子育てにおいては、兼業主婦であっても、子育ての大半を母親が担っている。ましてや専業主婦の家庭であれば、母親が子育ての役割をすべて果すケースが多いだろう。だからこそ、母親に対する責任を問う声が大きくなるという悲惨なことが起きてしまうのである。父親は仕事が忙しいからと家庭の役割を果していなくて、何か問題が起きると妻を責めるというケースが多くなる。それでは、父親が悪いのかと言うとそうではない。不登校の根本的な責任は、両親にはないと断言してもよい。

それでは不登校になってしまうのは何故かというと、教育の制度やシステムそのものに問題があるからだ。さらには、社会全般における人々の価値観の間違いが教育の諸問題を起こしていると言えよう。江戸時代まで延々と続いてきた、システム思考の哲学を基本とした教育制度を明治維新政府が完全否定をしてしまったのだ。欧米から仕入れた近代教育を導入したのである。この近代教育は、客観的合理性の教育であり、しかも要素還元主義の教育である。この教育は、全体最適を目指すことを忘れ、あくまでも個別最適を優先する教育であり、行き過ぎた競争主義を生んでしまった。自分さえ良ければよいという個人主義に走らせたのである。さらに、関係性をないがしろにして、お互いに支え合うという大切な価値観を人々から忘却させたのである。だから、コミュニティが崩壊したのである。

お互いが支え合うという関係性豊かな共同体をなくして、家庭、学校、地域、国家というコミュニティを崩壊させしまったのである。自分さえ安全で豊かであれば他はどうなっても良いという学校の劣悪な環境にいたたまれず、不登校という選択肢を選ぶしかなかったのが、心優しく思いやりのある児童生徒なのである。家庭でも近代教育の間違った価値観を強いてしまう親もまた、その両親、祖父母から個別最適、関係性を無視する教えを受けたのであるから、間違った価値観を持つに至ったのである。だから、学校でも家庭でも自分中心の価値観がはびこる環境に耐えられないのである。ひきこもりもこうして起きているのである。最後にもう一度言うが、不登校の原因は親にはないのである。

 

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よいお母さんをやめる日

不登校や引きこもり、またはDVなどの問題行動を起こすお子さんを持つお母さんは、極めて真面目で素晴らしいお母さんが多い。つまり、日本の典型的な『よいおかあさん』なのだ。こんなにもお子さん思いで、誰もが認める良いお母さんなのに、どうしてお子さんが不登校になるんだと不思議に思う関係者が多い。例外もあるが、おしなべて良いお母さんで、しかも教養が高くて見識も高い。お母さんの学歴が高いケースが多い。そして、子どもの教育に懸命であり、息抜きや手抜きが出来ないし、いい加減な処がないのである。

さらに、不登校や引きこもり、またはDVなどの問題行動を起こしていることに対しての捉え方、考え方がまた良いお母さんなのである。たいていのお母さんは、こういう状況になってしまったのは自分のせいだと思い、自分を責めるのである。誰かの責任にしたり、子どもが悪いなどとは露ほど思ったりせず、自分の責任だと自らを責めるのである。さらに、父親はというと、やはりこうなったのはお前の子育てが悪かったのだと妻を責めるケースが多いのである。言葉に出して言わなくても、不機嫌な態度や表情をして妻を暗に責めることが多い。こうして、やはり自分が悪いんだと母親は落ち込むことになる。

よいお母さんは、子どもが不登校や引きこもりになってしまった原因をあれこれと考える。自分が甘やかしすぎたせいであろうか、過保護し過ぎたのが悪かったのだろうか、そんなことを考えるケースが多いという。夫からも同じことを言われることが多いし、真面目なものだから、自分を責めるのである。しかし、甘やかし過ぎて不登校になることはけっしてないし、過保護が原因で引きこもりになるケースは殆どない。不登校になるのは、親子、夫婦、家族の関係性が希薄化、もしくは低劣化しているからである。

結論的に言えば、不登校、引きこもりになる原因は、お母さんにはないと言ってもよい。世間では、不登校はお母さんが甘やかし過ぎたせいどこうなったとか、過保護が原因だと思っている。お母さんも、それが原因だと思い込んでいて、悔やむ。しかし、過保護が原因で不登校になるケースは殆どない。過保護というと悪というイメージがあるが、幼少期には必要なことである。子どもというのは、無防備で危険な事も解らないし、ちょっと目を離すととんでもないことをやらかしてしまう。だから、母親は常に子どもを守らなければならない。沢山の愛情をかけ続けなければならない。

ただし、よく勘違いされるのは過保護と過干渉を同じものと捉えていることである。これは、まったく違う概念である。過干渉というのは、子どもの言動に対して何でもかんでも干渉したり、先回りしてすべて子どもの言動を先取りしたりすることである。根底には、無意識で子どもを自分の所有物と勘違いして、支配し制御を繰り返してしまう心が存在しているのかもしれない。そうなってしまう原因は、父親が子育てに非協力というか、子育てに必要で大事な父性愛を発揮できていないからであろう。したがって、母親が母性愛だけでなく父性愛まで発揮せざるを得なくなり、過干渉になっているのではないかだろうか。

過干渉にならないようにする為には、父親に本来の役割を果してもらうことである。そのうえで、母親は子どもが自分で判断し行動するのをそっと見守り続けるだけでよいのではないだろうか。さらに、母親があまりにもよいお母さんを演じるのを、少し控えてみてはどうかと思う。子どもと母親というのは、非常に強い関わりと絆が存在する。無意識で深く繋がっている。母親が不安になったり元気がなくなったりすると、子どもにもその気持ちが伝わり同じような状態になりやすい。母親が怒りや憎しみを持ち、それを我慢していると、不思議と子どもがそれをまったく同じように感じて、不機嫌になってしまうのである。だから、母親は平穏で安らかな気持になったほうが良いのである。

母親は、今まで良いお母さんとしてずっと頑張ってきたのだから、少し息抜きをしてもいい。子どもと夫とも一時的にでも完全に離れて、休暇を取ってもいいだろう。あまりにもよいお母さんを続けてきたものだから、心が一杯一杯になってしまい、かえって不安になったり恐怖感を持ったりしまったのではないかと思われる。その不安が子どもにも伝播したのかもしれない。たまには、よいお母さんを止めて、子どもの人生は子どもにすべてを任せてもいいんじゃないかと思う。よいお母さんを一切やめてもいいし、ちょっといい加減なお母さんでもいい。子どもが自分でしっかりしなくちゃと思うようなお母さんでもいいではないかと思う。思い切ってよいお母さんをやめてみたらどうだろうか。

 

※子育てに疲れ切ったお母さん、家族との関係で悩み目いっぱいになってしまったお母さん、子育ての悩みでどうしようもなくなったお母さん、一時的に家庭のすべての問題から離れて自分を見つめ直してみてはどうでしょうか。イスキアの郷しらかわでは、そんなお母さんに1泊してもらい、マインドフルネスを実践してもらったり、悩み苦しみをまるごと受け止めてもらったりして、元気さを取り戻し、不安から解放されるサポートをしています。まずは下記からご相談ください。

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暴力による指導をなくせ!

元横綱日馬富士の傷害事件が世間を賑わせている。生意気な態度を改める為に指導の一環として、やむを得ずしてしまったと弁解しているようだが、それは完全な間違いである。また、その暴行事件の場に居て止めなかった他の横綱たちにも責任があるのは明らかである。そもそも、人を教育指導する際には、どんな理由があったとしても暴力はいけない。あるミュージャンが、指導している中学生に暴力を奮った事件もあったが、やはりどれだけ止むを得ない事情があったとしても、暴力で人を指導するのは間違いである。

中高生を暴言や暴力によって指導教育したという事件が後を絶たない。悲惨な指導死も起きている。これだけ騒がれていても、相変わらず中学校や高校の部活においては、体罰による指導が横行している。それも名門と呼ばれるような中高校で、体罰的な指導が行われているケースが少なくない。体罰というのは、完全なる暴力である。どんな事情があったとしても、言葉の暴力や身体的な暴力はしてはならない。理由を問わず、これは法律違反の行為なのである。人を指導する立場にある教師が法律違反行為を生徒たちの目の前で実行するのは、異常な行為であるということを先ず持って認識するべきである。

さらに言えるのは、暴力で指導された生徒たちは目立った成長はしないということである。暴力で支配されコントロールされた人間は、指示されたことは出来るが、自分で創意工夫したり自発的に動いたりすることが出来なくなるのである。だから、ここぞという時に力が発揮できない。人は、暴力によって身体は支配されても『心』は支配されることを拒む。従っているように見せて、暴力で指導する人間を嫌い尊敬せず、しかも内心では軽蔑している。だから、大切な試合でしかもいざという刹那にミスをしてしまうし、身体が無意識で動かなくなってしまうのである。

人間は本来、全き自由に生きるものである。誰からも支配されず制御されず、自らの意思で行動する。それも自発的に、自主的に主体性を持って生きるのだ。それこそ、これが人間の自己組織性という、人間に賦与された機能なのである。それを暴力が伴う指導によって、人間から自主性や主体性を失わせるという行為は、創造主である神を冒涜しているようなものと言えよう。人を指導したり教育したりする際に、恐怖によって従属させるのは百害あって一利なしなのである。人間の主体性や自発性を伸ばす指導をすべきであり、暴力による指導は逆効果だと言えよう。

それじゃ、暴言や暴力を使わないで人を指導教育するにはどうしたらいいかというと、カウンセリングマインドを発揮する方法が有効あろう。最近は、コーチングと呼んでいる専門家もいる。つまり、指導される側の気持ちをまず理解することである。それも、表層の意識ではなく、深層の意識を理解しなくてはならない。その為には、指導される側の心に寄り添い、その人間の気持ちになり切ることが必要である。さらには、深層無意識のレベルでつながることも必要であろう。つまり、集合無意識でお互いの意識が統合されることが大切である。端的に言えば、傾聴と共感による無意識の統合ということであろう。

しかも、大切なのはお互いの絶対的な信頼関係がなければならないということであるし、関係性があって初めて指導が成り立ち効果を上げられる。そのうえで、指導者が適切な質問をすることで指導される人が自分の間違いに気付いて、自ら変化し進化しようと思うのである。それは、単なる教育ではなくて、共育ちという関係になるのである。教育ではなくて、まさに共育と言うべきであろう。暴力や暴言によって身に付いた技術・能力なんて、薄っぺらですぐに剥がれ落ちてしまうものでしかない。暴力による指導は絶対にしてはならないのである。この世の中から、暴力と暴言による指導が一掃されることを強く望んでいる。