見返りを期待すると病気になる?

見返りを求めると病気になるなんていうと、大きな誤解をされそうだ。おそらく、私は見返りを求めたことがないのに病気になっていると、おおいに憤慨する人も多いに違いない。確かに、それぞれの行動する際に、見返りを期待している人はいないであろう。見返りというのは、そういう意味ではない。何かを期待して行動するということではなくて、知らず知らずのうちに、何らかの謝意や評価、または好かれたい自分を密かに期待しているという意味である。無意識における期待のことである。

家庭においては、子どもやパートナーに対して何も見返りなんか求めていないと言い切る人が殆どであろう。ただ、何も期待することなく世話をしたり家事育児をしたりしていると思っているに違いない。しかし、自分の心のうちを冷静に観察してほしい。どこかで、感謝の言葉や家族から好かれる自分をそっと期待していないだろうか。毎日せっせと家事育児をこなすとか、収入を得るのに仕事に精を出していても、それを当たり前のように思っている家族に何となく違和感を覚えていないだろうか。

職場において、家庭を犠牲にしても仕事第一で、身を粉にして働いているのに、正当な勤務評価を得ていないと不満を持つ人は多いことであろう。人一倍努力しているのに、待遇や昇進が思うように向上しないことに苛立つ人も多いに違いない。職場の同僚や上司には、いろんな気遣いや思いやりを持って接しているのに、どうして自分が他の人から疎まれるのは納得できないと思っている人もいることだろう。職場では何も見返りを期待する訳ではないが、無意識のレベルでは求めているものがあると思われるのである。

このように、職場でも家庭においても、意識して見返りを求めている訳ではないものの、無意識下においては淡い期待をしていることはあるだろう。実は、この淡い期待というのが叶えられないことによって、人間の心身にダメージを蓄積して行くのである。職場や家庭というには、日常性である。毎日、この淡い期待が裏切られていく生活の積み重ねこそが、心身の疾病に繋がっていくと想像する。意識していない怒りや憎しみ、悲しみや寂しさが、神経伝達系のシステム異常、自律神経の乱れや免疫システムの破綻を起こすと思われる。

どうして見返りを求める生き方が心身の疾病に繋がるのかを、科学的に解明してみたい。人間の細胞は60兆個あると想像されてきたが、どうやら37兆2千個だと解明されたようである。そして、医学や生物学、分子細胞学などの研究が飛躍的に進歩した。今までの医学常識が覆されるような大発見が起きているのである。それが、細胞の自己組織性である。近代医学においては、人体のシステムというのは脳からの指示命令によって各臓器や各組織がその機能を発揮しているものと思われてきた。その各組織や臓器を形成する細胞もまた、脳からの何らかの指示命令を受けているものと考えられてきたのである。

ところが人体システムが科学的に解明されてくると、どうやらそれは完全な間違いだったことが判明したのである。細胞そのものが、誰からも指示命令されずに、主体性・自発性・責任性を持って、人体全体の最適化の為に働いていることが解明されたのである。これをシステム論的に言うと、自己組織性と呼ぶのである。テレビ東京系列で放映されている「働く細胞」というアニメをご覧いただければ一目瞭然である。例えば白血球は、誰にも指示されていないのに、人体の生命システムを守る為に、自分を犠牲にしてでもウィルスやばい菌と戦うのである。つまり、『見返り』を一切求めず、自己犠牲を厭わずに日々働いているのである。

人体を構成する細胞が自己犠牲を厭わず、見返りを求めずに活動しているのである。それなのに、人間がたとえ無意識とはいえ、見返りを求める生き方をしたらどうなるのか。そして、その期待した見返りが叶えられないことを不満としたらどうなるであろうか。細胞や各臓器と組織が自己組織性を持って働き続けているのに、全体である人間がシステムに反する生き方をしたら、人体における免疫システムの異常や神経伝達系システムの破綻が起きるのは、火を観るより明らかである。見返りを無意識下でも求めない生き方、つまりは与え続けることを無上の歓びと感じる生き方をすれば、細胞の自己組織性と同じ生き方になる。そうすれば、心身がすこぶる健康になり疾病になることはないのである。

妻の寿命は夫が握っている

妻の寿命は夫が握っているなんてことを言うと、世の中の旦那さまからクレームが来るに違いない。そんなことはない、寿命は自分が決めている、または神様がお決めになっていると主張する男性が多いと思われる。妻の立場にある女性の多くも、そんなことはあり得ないと反論することであろう。ところが、多くの奥様たちは知らず知らずのうちに、旦那さまの言動によって心身共に傷つけられ痛めつけられ、身体疾患や精神疾患に苦しんでいる。そして、旦那さまによって寿命が縮められているということさえ自覚していない。

奥様を傷つけている旦那さま自身も、自分がそうしていることを自覚していない。つまり、夫婦が共に傷つけて傷つけられていることを自覚していないことが問題なのである。例えば、女性特有の疾病である、子宮筋腫、子宮がん、卵巣嚢腫、乳がんなどは、夫からの行き過ぎた『介入』により発症していると言っても過言ではない。独身の方も発症しているケースもあるが、それは親か上司による介入で起きている場合が多い。『介入』していない場合もあるが、それは『無関心』という態度で傷つけているのである。

介入と無関心(無視)とはどういうことなのか、具体的に示すとこういう態度である。介入とは、指示、指導、圧力であり、それが酷くなると所有、支配、制御の態度になる。つまり、夫が妻に対して、様々な言動で自分の思い通りに操ろうとするのである。妻の自由を奪い、まるで操り人形のように支配するのである。そんなことはないと言うかもしれないが、当事者たちも気付いていないだけである。勿論、夫婦お互いが尊厳を認め受け容れて愛を与えている例外もあるが、殆どの夫婦は夫が妻を支配しようとしている。

無関心(無視)の態度とは、妻の話を聞かないとか妻の姿や行動に関心を持たないという態度である。そんなことはないと夫は主張するかもしれないが、多くの夫は「あんたは私の話をちっとも聞いてくれない」と言われていることだろう。聞いているふりははしているかもしれないが、傾聴と共感の態度で聞かなければ、聞いているとは言えない。また、妻が美容院に行ってきた際、精一杯おしゃれをした時に、「それ似合うよ」と言う夫がどれほどいるだろうか。または、自分の意に添わない時に不機嫌な態度や沈黙してしまうことがあるが、これが無関心・無視の態度である。

人間という生き物は、本来自由であり自律性を持っているし、関係性をもっとも大切にして生きる。それが、夫によって支配され制御され無視されたとしたら、妻の心身はボロボロに傷付いてしまうということは容易に想像できる。妻は、夫から愛されていないし嫌われているのではないかと思い込んでしまう。それは私が悪いからではないかと、自分を責めるのである。そうすると、メンタルはボディブローのように毎日痛め続けられる。そのため、身体の血流やリンパの流れの循環機能だけでなく、人体のネットワークの不具合を起こして、臓器や筋肉組織の石灰化が起きて病気になると考えられている。

これが妻の寿命を夫が握っているというエビデンスである。夫源病という疾病があると主張しているドクターが存在する。妻が夫の機嫌を損なわないように一喜一憂しながら生きていると、様々な不定愁訴が起きて、やがて重篤な身体疾患に発展するというのである。これもやはり夫が妻の寿命を決めている証左である。ということは、妻が病気になるかどうかは、夫の態度次第ということになる。介入と無関心の態度をすることを改めないと、夫は妻を早く失ってしまうということになり、孤独になるということだ。

老後を一人で生きるというのは寂しいものである。仕事をリタイアして夫婦で余生を楽しもうと思ったら、妻が他界していないとしたら、詰まらない老後を生きることになる。または、もう我慢がならないと妻が定年を機に家を出て行くことがあるかもしれない。そんなことがないように、夫は妻の話を傾聴し共感することから始めてみてはどうだろうか。妻の寂しさ悲しさ苦しさを我がことのように聴いて、自分のことのように悲しむことを慈悲と呼ぶ。まさに慈悲の心を発揮して、妻が喜ぶことや満足することを精一杯提供しようと心を入れ替えることを薦める。そして、妻を所有・支配・制御することなく、自由を満喫させることである。そうすれば、いつまでも妻は若々しく元気で健康で長生きすることだろう。

オープンダイアローグはコミュニティケア

オープンダイアローグ(OD)が精神疾患や精神障害だけでなく、様々な社会問題の解決に対しても有効だと言える。例えば、組織における関係性の欠如から、組織の不健全化や崩壊が起きるケースがある。その際に、ODの手法を活用した日常のミーティングを徹底して行うことで、見事に関係性が復活することになる。行き過ぎた業績評価で社内競争が激烈になって、社員どうしが劣悪な関係になることはしばしば起きる。そういう時に、ODの手法でミーティングや会議をすると、社員どうしの協力関係ばかりでなく信頼関係が構築され、会社全体の業績が驚くほど回復することになる。

サッカーの日本代表がハリルホジッチの時は、選手間の連携がうまく機能せず、バラバラであった。西野監督がOD的手法で対話を重視してミーティングを活用したら、見事にチームが一丸となり、あの活躍となったのである。また、家族関係がぎくしゃくしてバラバラになることはよくあることである。この際に、ODの手法を活用して家族全体のミーティングを行うと見事に家族の関係性がよくなる。勿論、夫婦関係においてもOD的会話を心がけるだけで、見違えるように夫婦関係が改善する。会話が少なくて、親子関係が希薄化しているケースでもODが有効だ。ひきこもりや家庭内暴力が起きている家庭でも、ODで改善すると思われる。

何故ODによって社会問題が解決するのかというと、その問題がコミュニティの構成要素そのものにはなくて、その構成要素間(関係性)にこそ問題が存在するからである。様々な社会問題が起きる原因は、端的に言うとコミュニティが機能していないか、または崩壊しているからである。そして、このコミュニティの本来の機能が停止または停滞しているのは、関係性が希薄化しているか低劣化していることによる。コミュニティはひとつのシステムである。第三世代の最新システム論から言うと、家族というコミュニティが機能不全に陥るのは、関係性というネットワークが希薄化し、お互いが支えあうというシステム本来の働きが鈍るからである。

コミュニティというシステムの構成要素である個とか課・部そのものには自律性があり、オートポイエーシス(自己産生・自己産出)が働くはずなのである。したがって構成要素は、本来アクティビティ(主体性・自発性・責任性)を持ち、しかも自ら進んで自己組織化(関係性=ネットワーク化)する。さらにはオートポイエーシスにより、自らが自己進化や自己成長を遂げるのである。コミュニティというシステムは、本来自律的に全体最適を目指すのである。ところが、何らかの原因で、自己組織化の働きが鈍ることがある。そうなるとシステム全体に不具合を起こすのである。

例えば、夫婦関係の破綻や親子関係の憎悪感情など起き、家族がバラバラになり、不登校やひきこもり、または家庭内暴力などの問題が起き続ける。やがては、家庭というコミュニティは機能不全に陥る。企業も同様であり、地域もそして国家というコミュニティも崩壊してしまう。家族というコミュニティが崩壊するのは、個に問題があるからだと誤解されやすいが、そうではなくて個と個の関係性の劣悪さが問題を発生させていると見るべきである。個をいくら治療や指導教育しても改善しないのは、家族というシステムの関係性が希薄化している為に機能してしないのからである。

この関係性を良好なものに再構築することが出来たとしたら、コミュニティというシステムが本来の機能を取り戻すことが出来る筈だ。その豊かな関係性を取り戻す唯一の方法が、お互いが否定せず共感するだけの対話を続けるという、共通言語を紡ぎ出すODである。ODは構成要素である個の、一方だけの優位性を発揮させない。OD的ミーティングでは、すべて平等に取り扱うから、一方的な指示・命令・支配・制御がない。あくまでも構成要素である個が、自ら気付き学び自らアクティビティを発揮するのを待つだけである。構成要素どうしがお互いに支えあうコミュニティを創造するのである。そういう意味では、オープンダイアローグとはコミュニティケアであるとも言える。

現代ではコミュニティが機能不全に陥っていると言われている。家族の心がバラバラになりコミュニティとして機能していない。不登校、ひきこもり、児童虐待、家庭内暴力、モラハラ、などの様々な問題が起きている。企業においても不祥事が相次いでいるし、経営破綻も起きている。地域においても、お互いが支えあうという共同体意識がなくなっている。国家や官僚組織だって、モラルが欠如して収賄や文書偽造などが発生している。こういうコミュニティの機能不全をOD的な日常会話やミーティングが解決するに違いない。ODによるコミュニティケアが進化を遂げて、愛が溢れる関係性が構築され、お互いを支えあう社会が必ず実現すると確信している。

 

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オープンダイアローグが有効な訳

オープンダイアローグ(開かれた対話)療法が統合失調症だけでなく、PTSD、パニック障害、うつ病などにも有効であるし、ひきこもりや不登校にも効果があることが解ってきたという。薬物も使わないし、カウンセリングや認知行動療法なども実施しないのに、どうして有効性を発揮するのか不思議だと思う人も多いであろう。開かれた対話だけをするだけで、どうして統合失調症が治るのであろうか。何故、オープンダイアローグ療法が有効なのか明らかにしてみたい。

オープンダイアローグを以下の記述からは便宜上ODと記すことにしたい。ODを実施する場合、原則として統合失調症が発症して24時間以内に第1回目のミーティングを実施する。緊急性を有するので、クライアントの家庭にセラピストチームが伺うことが多い。セラピストは複数人であることが絶対条件で、単独での訪問はしない。何故なら、ミーティングの途中でリフレクション(セラピストどうしの協議)を行うからである。そして、それから連日その家庭に同じメンバーが訪問して、患者とその家族を交えて10日から12日間ずっとミーティングを実施する。

ODで派遣される医師やセラピストなど治療者は、診断をしないし、治療方針もせず、治療見通しもしない。そして、そのあいまいさをクライアントが受け入れられるように、安心感を与えることを毎日続ける。ODでのミーティングは開かれた対話を徹底する。そして傾聴と共感を基本として、患者とその家族にけっして否定したり介入したりしない。一方的な会話(モノローグ)ではなくて、必ず双方向の会話(ダイアローグ)にする。開かれた質問を心がけて、必ず返答ができる質問にする。また、セラピストが逆に質問されたり問いかけたられたりした場合、絶対に無視せずに必ずリアクションをするということも肝要である。

OD療法では、患者には薬物治療を実施しない。どうしても必要な場合でも、必要最小限の精神安定剤だけである。ただひたすらに、開かれた対話だけが続けられるのである。どうして、それだけで統合失調症の症状である幻聴や幻覚がなくなるのであろうか。そもそも、幻覚と幻聴が起きるのは、現状の苦難困難を受け入れることが出来なくて、想像の世界と現実の世界の区別が難しくなるからと思われる。ましてや、この幻聴と幻覚を話しても、家族さえも認めてくれず、自分を受容し寛容の態度で接してくれる人がまったくいないのだ。他者との関係性が感じられず、まったくの孤独感が自分を覆いつくしている。

こういう状態の中で、OD療法は患者が話す幻聴や幻覚を、否定せずまるごと受け止める。その症状の苦しさ悲しさを本人の気持ちになりきって傾聴する。患者は自分の気持ちに共感してもらい安心する。さらに、家族にも患者の言葉をどのように感じたかをインタビューをして、患者の気持ちに共感できるようサポートする。家族に対しても、けっして介入しないし支配したり制御したりしない。家族の苦しさや悲しさに寄り添うだけである。

そうすると実に不思議なのであるが、患者自身が自分の幻聴や幻覚が、現実のものじゃないかもしれないと考え出すのである。患者の家族も、患者の幻覚や幻聴が起きたきっかけが自分たちのあの時の言動だったかもしれないと思い出すのである。さらには、患者と家族の関係性における問題に気付くのである。お互いの関係性がいかに希薄化していて劣悪になっていたかを思い知るのである。家族というコミュニティが再生して、お互いの共同言語が再構築されるのである。誰もそうしなさいと指示をしていないのに、患者とその家族が自ら変わろうとするのである。

勿論、仕事や地域との共同体に問題があることも認識する。いかに地域や職場におけるコミュニティにおける関係性にも問題が存在することに気付くのである。例えコミュニティの問題が解決されなくても、自分自身には問題がなく、そのコミュニティにこそ問題があると認識しただけで、安心するのである。家族の関係性の問題が解決されて、地域と職場のコミュニティの問題を家族間で共有し、お互いにそれを共感しただけで症状が改善するのである。まさに化学反応のような変化が起きるようである。人間というのは、実に不思議なのであるが、関係性が豊かになり共通言語を共有できた時に、幸福感を感じるものらしい。オープンダイアローグというのは、まさにこのような関係性の再構築が可能になるので、症状が収まるだけでなく、再発も防げるのである。

続きはまた明日に

※イスキアの郷しらかわでは、定期的にオープンダイアローグの研修会を開催しています。個別指導もしていますので、お問い合わせください。1泊2日の宿泊で学びたいとご希望それれば、個別でも家族でもレクチャーします。家族がオープンダイアローグ的対話ができるようになれば、変われます。

生きる目的を示す映画「リーディング」

エドガー・ケイシーは、14000件以上のリーディングを実施した。彼は催眠状態に入りながら、病気の原因とその治療法を正確に解き明かす。そして、その治療法を実際に行うと、見事に治癒したと言う。その膨大な記録は米国のARE財団が管理していて、その有効性の検証をしている。そして、AREではその記録を利用して、ケイシー療法として様々な疾病の治療に実績を残しているという。そのドキュメンタリー映画として「リーディング」という映画が日本で作られた。ケイシー療法で実際に疾病を治癒させた日本人がインタビューに答えている様子も紹介されている。今、白河のシネマナナハチで公開中だ。

エドガー・ケイシーがリーディングして確立したケイシー療法は、当時の医学レベルではその有効性が確認されていなかった。しかし、最先端の現代医学においては、そのエビデンス(科学的根拠)が次第に明らかにされつつあるのだから驚きである。過去世におけるカルマ(業)までもリーディングすると言うと、オカルトだと思われがちであるが、けっしてそうではない。あくまでも科学的に正しい療法であることが判明して、実際に多くの医師までもその有効性に確信を持っている。そして、そのケイシー療法を取り入れているクリニックも少なくない。

エドガー・ケイシーは、ホリスティック医学の生みの親とも言われている。現代においてホリスティック医学は一般化していて、西洋医学で治癒させられない原因不明の疾病を見事に治癒しているケースが多々あるが、エドガー・ケイシーがその先駆者である。ケイシー療法は、人間とその疾病を統合的に観察して、その原因を解明する。そして、人間の悪い一部分だけを治すのではなく、人間全体におけるアンバランスを調整して完全なる治癒を実現する。西洋医学は対症療法が主になるが、ケイシー療法は完治させることを目指す。

ケイシー療法では、西洋医学では原因不明で難治性の疾病までも治す。アトピー性皮膚炎や乾癬までも改善する。乾癬の一因は食べ物にあるとして、茄子科の野菜を一切摂取しないと、見事に改善するという。茄子、トマト、ピーマン、ジャガイモなどを食べないで、他の野菜を摂取していると症状が良くなるらしい。統合失調症の原因は、背骨の歪みにあると主張する。特に仙骨と尾骨の歪みがあると、松果体の異常が起こり、幻聴や幻覚が現れるという。発症して1年以内の統合失調症であれば、仙骨と尾骨の歪みを調整すると改善するというから不思議である。

ケイシー療法は、食生活を含めた生活全般を見直すことが主となる。野菜中心の食事にして、肉類や乳製品を摂取しないようにする。炭水化物の過剰摂取を避ける。特に小麦粉をあまり摂らないようにする。さらに、体温を上げる為にヒマシ油を用いた温湿布をする。そして、心をリラックスさせる。血液とリンパ液の循環を滞らせないようにして、毒素を排出させ、酸素供給能力を高める。身体を酸性化することを防ぎ、アルカリ性に保つ。消化吸収能力を高め、適度な栄養摂取に務める。こうすると腸内環境が改善し、自己免疫力が高まり、殆どの疾病は自然治癒するのである。

エドガー・ケイシーはある日に、大変なことをリーディングする。過去世におけるカルマ(業)が病気の原因だということを主張するのである。敬虔なクリスチャンだったケイシーは、キリスト教では認めていない輪廻転生の存在を主張する訳にはいかないのである。悩んだ末に出した結論は、キリスト教の教義よりもカルマ説を選ぶということだった。この過去世や現世のカルマを克服することで病気を治すことに繋がると言い始めたケイシーに対して、教会関係者や熱心なクリスチャンたちは反発を強めたと思われる。それでも、カルマ克服を実現して、難治性で原因不明の病気を治していくケイシーに対する世間の信頼は高まったに違いない。

カルマ(業)を克服するには、赦し、感謝、愛が必要だとケイシーは説いた。カルマを乗り越えて法(ダルマ)=真理を獲得することが人間の生きる意味ではないかとも考えた。そして、法(真理)を得るには「愛」が必要だとも説いた。それも、求める愛ではなく与える愛だとも。愛を求めていても愛は得られず、愛を与えることで愛が得られるというのである。カルマを持つこだわりの自分を赦し手放して、空いている心に神を満たすとも言っている。よこしまな心が入り込まないようにするというのである。そして、カルマを克服し法を得て、自分自身が「人々を祝福する水路」にならなければならないとケイシーは主張している。これこそが、人間の生きる目的であると我々に示してくれたのである。

 

※映画「リーディング」は、白河市内のシネマナナハチで、毎日2回午前中と夕方上映しています。検索エンジンで「シネマナナハチ」と入力すると、場所と上映時刻が表示されます。この映画をご覧ください。難病や原因不明の病気で悩まれている方は、是非ともご覧いただきたいと思います。

山菜の食文化を後世に遺す

大好きな山菜シーズンが終わりを告げようとしている。とても残念であるが、また来年も山菜を採り食べる喜びを、おおいに享受したいと思っている。最近特に思うのであるが、山菜を採ること、そして食べる文化が衰退しているのではないかという危惧を抱いている。たかが山菜の食文化がなくなったからと言って、我々の生活に何の影響もないだろうと思う人が多いことだろう。確かに、他の野菜なども豊富だから、山菜がなくなったとしても、私たちの生活が大きく変わることはない。しかし、健康面では多大な影響があるように感じている。

山菜は、畑や栽培工場などでも栽培されるようになっている。だから、山菜なんか採らなくてもいいだろうと思っている人は少なくない。わざわざ危険な山に入り、苦労して山菜なんか採らなくていいだろうという意見があるのを承知している。危険な熊や毒蛇にも出会うこともあるし、実際に熊による被害や迷い遭難する人も少なくない。生命の危険まで冒して山菜を採る必要なんかないよと言われることもある。しかし、山菜を畑で栽培すれば、それは野菜であり山菜ではなくなるのである。

どちらも同じ山菜だろうと思う人が多いだろうが、畑や工場で生産された山菜は、もはや山菜とは呼べない。その理由は、山で採れた山菜は無農薬でオーガニックであるが、畑や工場で作られたものは農薬まみれで化学肥料により作られたものだということである。含まれる微量元素が不足するのは間違いない。もし自然栽培であったとしても、山と畑ではその土に含まれるミネラルとか微量元素の成分が大きく違うのである。当然、山菜に含有されている量もかなり違っている。

山菜を採って食べる慣習は、何故広まって長い期間続いてきたのであろうか。科学的な知識や正確な成分分析など無かった時代から、延々と続いてきた山菜を食べる食文化は廃れることなかったのであ。それは、経験から導き出された知恵であったと思われる。山菜を食べる住民は、体調を崩すことも少なく健康で長生きしたのだと推測される。山菜を食べない住民は体調を損なって長生き出来なかったのではなかろうか。だから、人伝えで山菜を食べると健康で長生きできると広まり、山菜の食文化が続いたのであろう。ただ美味しいからという理由だけではなさそうである。

特に、この山菜を食べる習慣は、春の季節に圧倒的に多い。山菜が春に採れるということもあったろうが、春に食べなければならない理由もあった筈である。山菜をまったく食べない習慣の現代人が、春に体調を崩すことが多い。冬が終わって春になり、気温も暖かくなって免疫力が上がる筈なのに、この時期にインフルエンザなど各種感染症になる人が多い。また、この時期に明らかに増えるのが、化膿性虫垂炎である。また、イレウスや化膿性の腸炎も不思議と多くなる。

これらの感染症が増加したり胃腸炎を起こしたりするのは、どうやら気圧の急激な変化によるものらしい。免疫学の大家である安保徹先生は、この時期に移動性の高気圧が頻繁に日本列島にやってくるので、自律神経のアンバランスが起きて免疫力が低下するという説を唱えていた。あまりにも急激に高気圧と低気圧がやってきて、交感神経が異常に興奮することで免疫力の低下が起きるし、ステロイドホルモンが過剰に分泌されることで、体調不良が起きるのではないかと説いていた。ところが、天然のミネラルや微量元素が多く踏まれる山菜、またはアクの強い山菜を食べることで、そのアンバランスが調整されるのではないかと思われるのである。それを証明するエビデンスはないが、自分と家族、提供した山菜を食べている親戚友人は、体調を崩すことが極めて少ないばかりか、アレルギー症状が緩和されて、感謝されている。

山菜を採りに山に入ると、熊・鹿・猪・猿などの野生動物が山菜を食べた跡を発見する。これも、山菜を食べると体調が良くなることを野生動物が知っているからに他ならない。こんなにも身体に良い山菜を食べる習慣が廃れるというのは、実にもったいないことである。山菜を採る人も少なくなってきて、どこに山菜が出るのかを子孫に伝えられる人も激減している。このままで行くと、山菜を採る文化も無くなってしまうし、勿論食べる文化も廃れてしまうと考えられる。全国各地で自然発生的に生まれてきた、山菜を採り食べる文化を後世にも残したいと願うのは、私だけではないと信じている。そして、山菜料理を造る文化も、ずっと遺していきたいと強く思う。

 

※イスキアの郷しらかわでは、山菜の安全な採り方と美味しい調理の仕方をレクチャーしています。ご希望の方がいらっしゃれば、お教えいたします。今年の山菜シーズンはもう盛りが過ぎてしまいましたが、会津の奥山に行けばまだ採れる場所があります。問い合わせフォームからお申込みください。

和食文化継承の担い手

和食文化は世界遺産にもなるくらい素晴らしいものであり、欧米でも和食の良さが認識されて、人気を博している。日本が世界に誇る文化のひとつであるから、この文化は後世にも引き続き継承していきたいものである。和食文化を継承する担い手の一番手と言えば、日本料理店の板前さんとその調理補助者であろう。寿司店や割烹の板さんや旅館・ホテルの料理長が和食文化の継承者であるのは間違いない。しかし、そもそも和食とは特別な料理ではなくて、日常的に家庭でも食されているものである。故にその和食文化を継承しているのは、いわゆる『お母さん』でもあると言える。

ところが、若いお母さんがまともな和食を作れなくなっているのである。以前は、嫁入り前の若い女性は母親から和食の基本を叩き込まれたものである。または、嫁入り修業として料理学校に通い、家庭料理の基本を習ったものである。ところが、今時そんなことをしている若い女性は殆ど居ない。必要だと思っていないのだから当然だ。スーパーに行けば惣菜は豊富に陳列してあるし、インスタント製品や冷凍食品が用意してあるから、簡単に食事の用意が出来る。丁寧に出汁を取って作る味噌汁とか、煮物や漬物などの手作り惣菜を作れなくなっているのである。

洋風料理や中華料理は、ある程度のレベルの料理なら作れるが、本格的な日本料理を作れる若いお母さんは少なくなってしまっている。つまり、若いお母さんが和食文化の継承者になり得ていない。これでは、和食文化はごく一部の専門家にだけ残るようになってしまうのではないだろうか。和食は家庭料理においてこそ、その存在価値があるのに、家庭料理に和食がなくなってしまったとしたら、日本人の肉体と精神はどうなってしまうのであろうか。

日本人の肉体と精神は、和食を食べてこそ最適な状態に保つことが出来るように遺伝子が進化してきたのである。日本人が和食をあまり食べなくなってから、生活習慣病を始めとして心臓血管障害や脳血管障害などが増加してきた。日本人の多くがメタボになったのも食事が洋風化した影響が大きい。各種のアレルギー疾患が増えたことや、悪性腫瘍が増加したのもその一因だと考えられている。発達障害や気分障害などメンタル面での障害が増えているのも、本格的な和食から遠ざかったせいだと言う専門家がいる。

お母さん以外でも、和食文化の継承を担っているケースもある。一家のお父さんが和食を極めていて、おふくろの味ではなくて親父の味を子どもたちに伝えている例もある。自分も、会津の母が作っていた伝統的な郷土料理を継承している。三人の息子たちに和食を中心にした食事を提供していたから、確かな味覚が育った筈だ。やがて、親父の作った料理を再現してくれるだろう。娘がいなかったが、結婚した長男は時折台所に立っているというから、親としても嬉しい。お母さんに限定することなく、和食文化を誰かが継承してほしいものである。

最近、幼児教育の現場で伝統的な和食文化を継承しているのを知って驚いた。福岡県にある高取保育園では、毎日本格的な和食の給食を提供している。園児たちが味噌を手作りして、それで作った味噌汁を毎日飲んでいる。玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜で作った惣菜を提供している。化学調味料や保存料などの添加物が一切入っていない、自然食である。幼児期にこのような本格的和食を食べていれば、正常な味覚が育つから、大人になっても和食を食べ続けるに違いない。神奈川県の座間市にある『麦っこ畑保育園』も、同じように自然食の給食を出している。このように幼児教育で和食文化を継承しているというのは、非常に心強い。

さらに大学教育の現場で、和食文化を継承する努力をされている人がいる。郡山女子大学で、管理栄養士を育成している亀田明美准教授である。学校給食の栄養士とか、大学や企業の食堂を管理する栄養士などを養成している大学の現場で、和食の大切さを訴えている。亀田女史は、大学で教鞭を取りながら、プライベートで学校給食を見直す活動もされている。その活動に賛同した大花慶子さんたちと一緒に、学校給食に伝統的な和食や自然食を取り入れる運動を展開されている。多くの若いお母さんたちが、この運動に参加している。このように、いろいろな和食文化継承の担い手が現れている。これで日本の和食文化の素晴らしさが社会的に認知されて、和食の文化が広まっていくに違いない。

※イスキアの郷しらかわでは、伝統的な和食を提供しています。玄米ご飯(無農薬・有機栽培)、玄米餅、手作りの味噌で作った味噌汁、発酵食品、旬の野菜(無農薬・有機栽培)など自然食を中心にした食事です。4日~5日滞在すると、和食の良さを実感します。食習慣を改善できますし、本格的な和食の作り方を学べます。是非、ご利用ください。問い合わせフォームからご相談ください。

映画『いただきます』から学ぶ和食の大切さ

園児たちが自ら味噌づくりをする保育園がある。そして、その味噌で作った味噌汁を毎日の給食で保育園児は食べる。小泉武夫東京農大名誉教授は、この保育園の子どもたちを日本一しあわせな子どもたちだと言う。この保育園は高取保育園と言って、開園時からずっと西園長が食育を続けてきた。この保育園児たちの味噌づくりと日常を描いたドキュメンタリー映画が『いただきます』である。涙無くしては見られない感動の記録映画であり、多くの学びを与えてくれる秀作である。

数年前に福岡県でインフルエンザが猛威を奮い、学校閉鎖や学級閉鎖が相次いだ時期がある。この時でも、この保育園では感染による体調不良で休む保育園児は僅かだったという。重度のアレルギーやアトピー性皮膚炎の園児も、数か月登園すると治ってしまうというからすごい。この園児たちは保育士が指導している訳ではないのに、冬でも半そで半ズボンである。おそらく基礎体温が高いのであろう。当然、免疫力が高くなるから風邪もひかないし、病気にならない。それもすべてこの保育園の給食と教育方針の賜物であろう。

この保育園では、園児たちが毎月100㎏の味噌を作る。そして、その手作り味噌で味噌汁を作り、毎日園児たちが飲んでいる。毎日の給食の献立は、玄米ご飯、味噌汁、納豆、旬の野菜料理である。食養生、医食同源の考え方に基づいて、伝統的な和食が作られている。園児たちは、梅干し、沢庵、高菜漬けさえも作ってしまうらしい。給食の定番であるハンバーグ、鳥の唐揚げ、焼き肉、とんかつなどは勿論、肉、乳製品はまったく出さない。あくまでも発酵食品と玄米が主に提供されている。

小泉武夫東京農大名誉教授は、この映画の中で和食の大切さを説いている。日本人のDNAは、農耕民族の長い歴史の中で、味噌や納豆などの発酵食品、玄米、大豆・野菜類に適応するように進化してきたという。だから、狩猟民族や牧畜民族としての歴史がある欧米人のDNAとは根本的に違っている。欧米人の食べるような肉や乳製品を日本人が食べたら、不適応を起こすのは当たり前だと力説する。日本人に生活習慣病やアレルギー、またはガンが多発したのは、間違った洋食の食生活をしたせいだと断言している。

小泉名誉教授は、こんなことも言っている。国際フリーラジカル学会で、活性酸素やフリーラジカルを無害化させてしまう抗酸化作用の強い食べ物は何かを調査したという。その結果、第1位が味噌で、第2位がテンペ(インドネシアの発酵食品)、第3位が納豆だったという。酸化作用が強い活性酸素やフリーラジカルは、各種感染症や心疾患、脳疾患などを招く。悪性腫瘍が発生するのも同じ原因からである。日本人の伝統的な和食がどれほど健康によいか解ろうというものだと力説している。伝統的な和食に立ち返ることを勧めている。「祖先の道へ還ることは退化ではない」と説く。

高取保育園では、「知育・体育・徳育の基本は食育にある」という教育理念を実践している。給食を伝統的な和食にしているだけでなく、まるで禅寺のように園児たちが掃除をしている。保育園内の雑巾がけを毎日園児たちが笑顔でしているのが日課であるし、トイレのスリッパや玄関の靴を揃えるのは園児たちが率先して行う。園児たちに座りましょうと言うと、自然と正座をする。無駄に騒いだり動き回ったりする園児がいない。おそらくこのような伝統的な和食を食べていると、発達障害さえも和らいでしまうのに違いない。幼児教育に対する功労を認められて、西園長は2度も勲章を授与されている。

この『いただきます』を観て一番驚くのは、園児たちの食事風景である。給食を食べ残す子どもが皆無なのである。それも、米一粒だって残さない。おかずもすべてたいらげる。ひじきの小さなひとかけらだって、丁寧につまんで食べる。けっして上品とは言えないが、器を舐めまわして食べる園児までいる。食べ物を粗末にしないことを徹底している。なによりも驚くのは、食べる時の園児たちの笑顔である。本当に美味しそうに食べている。味噌汁を飲み終わった後の満足そうで屈託のない笑顔は、私たちを癒してくれさえする。食べることの楽しさを、大人の我々に教えてくれる素晴らしい映画だった。

素晴らしい和食文化を後世に残そう

和食の文化が世界遺産として登録されたが、伝統的な和食文化は廃れつつある。一般家庭の食事において、伝統的な作り方をした日本料理がなくなりつつある。世界的に見れば、和食の評価が高まりつつあるにも関わらず、逆に日本では和食の文化が退化しているというのは皮肉なものである。一般家庭の食卓では、子どもたちが喜ぶ西洋料理が並んでいるし、弁当のおかずも同様である。このままでは、和食の文化が継承されていかないのではないかという危惧を持つ人も少なくない。

世界的に和食文化がもてはやされているには、大きな理由がある。まずは、和食というのが健康に良いという点である。欧米の食事は、高カロリーの高脂肪高蛋白質が基本スタンスとなっている。肉食文化であるから、大量の脂質と動物性蛋白質を取り過ぎる傾向がある。当然、高脂質血症になるし肥満傾向になる。心臓血管障害や脳血管障害になりやすい。不健康な生活をなんとか解決するには食生活を見直さなくてはならないと、欧米の高教養の人々やセレブの間では日本食がブームとなっているのであろう。

和食というのは、見た目の派手さはないものの、その美しさは折り紙付きである。繊細な味を味わうことが出来るし、塩味や甘味を加えることを極力減らして、素材そのものの旨味を感じることが可能になる。当然、高血圧症や高脂血症にはならないから、理想的な健康食となる。少量の食事でも満足がいくようになっているから、肥満にもならないし、高血圧や動脈硬化を防ぐことが可能になる。繊細な味覚を育ててくれるので、ファストフードやジャンクフードの不味さを感じて、それらに依存することがない。

このような素晴らしい和食文化を後世まで残したいと思うのは、日本人として当然なことである。ましてや、世界的にも評価されている和食の文化を残すだけでなく、その良さを再認識して、もっと社会に認知されて広めて行かなくてはならない。その為には子どもたちに、和食の素晴らしさを体感してもらわなくてはならない。日常の食生活において、子どもたちに美味しい和食の料理を食べてもらい、繊細で確かな味覚を育んでいくのが我々の使命でもある。しかしながら、伝統的な和食を作れる若いお母さんたちがいないのである。伝統的な日本料理店でしか、本格的な和食が味わえなくなっているのだ。

以前はどの家庭でも『おふくろの味』というものがあった。煮しめや魚などの煮物に代表される、素朴で味わい深い料理であった。それぞれの家庭独自の調理方法や味付けがあり、母親の愛情がたっぶりと注がれたその料理は、子どもたちだけでなく夫をも幸福な気分にさせてくれた。毎日を生きる活力にもなったし、病気やケガを防ぐのにも役に立っていた。メンタルの病気になるのを防ぐことも出来ていた。うつ病や双極性障害、発達障害、パーソナリティ障害が多くなり、メンタルが原因の自殺が多いのも、和食文化の退化と関連しているように思えて仕方ない。

スーパーマーケットに行くと、出来あがった惣菜が並んでいるし、簡単に調理できる冷凍食品が大量に陳列されている。忙しい毎日であるから、じっくり伝統的な日本料理を作る時間がないのも理解できる。だとしても、なんとか調理する時間を生み出す努力をして、一般家庭の食卓に日本料理を並べてほしいものである。子どもたちに安全で安心な食事を提供するのは、親の大切な務めである。様々な危険性のある添加物が大量に含まれている出来合いの料理を、愛する子どもたちに食べさせることは親として出来ない筈である。子どもの未来を幸福で心豊かなものにするには、おふくろの味こそが必要なのである。

和食の文化を後世に残すには、若いお母さんやお父さんが自分達の食生活を、抜本的に変えることから始める必要がある。ファストフードやジャンクフードを美味しく感じる味覚を正さなければならない。添加物が大量に入っている料理が不味いと感じる、正しい味覚を取り戻すことが必要である。子どもたちの食育も大切であるが、大人の食育こそが求められていると感じている。繊細な和食の美味しさを感じる味覚を大人たちに育てるこそが、今必要とされると思っている。和食の文化を隆盛させることで、不登校、ひきこもり、メンタル障害をなくすことにも繋がると確信している。

 

※イスキアの郷しらかわでは、『森のイスキア』で提供されていたような素朴で伝統的な和食を提供しています。イスキアの食事は、子どもたちの食育として最適です。これから大人たちの食育にも取り組んで行きたいと考えています。是非、伝統的なおふくろの味をイスキアで味わっていただきたいと思います。

大人の酒飲み

TOKIOの山口達也メンバーがアルコール依存症になり、再々度の入院治療を受けているとの報道がなされている。どのようなお酒の飲み方をしていたのか知る由もないが、謝罪会見で焼酎1本を飲んでいたと語っていたのを見ると、相当に無茶な飲酒を繰り返していたのだと思われる。どんなお酒の飲み方をすればアルコール依存症になるのかというと、毎日の飲酒が習慣化すると共に、相当量の酒量を摂取することで依存症になる可能性が高まると言われている。しかし、個人差もあるからどのくらいの量を毎日飲み続けると依存症になるのかは、定かではないらしい。

どのくらいの期間に渡り毎日飲み続けるとアルコール依存症になるかというと、男性では約10年、女性だとおおよそ6年と言われている。ただし、これはあくまでも平均値であり、数か月で依存性が出現する場合があるから要注意である。女性は一般的に小柄でアルコールの分解速度も遅いために、アルコールの影響を受けやすいために短い期間でアルコール依存症になりやすいと言われている。ましてや、昼間から飲める専業主婦はキッチンドリンカーになりやすい。

お酒は飲んでも飲まれるなと言われている。お酒好きな人は、どうしても酒の魅力に勝てないようだ。ついつい度を過ぎて飲んでしまうし、休肝日を守ることが出来ないらしい。これも習慣化しているので、既に依存性が出来あがっていると思って間違いないようである。毎日飲酒しないと気が済まない人は、既に酒に飲まれてしまっているのであろう。お酒というのは、麻薬や覚醒剤と遜色ないくらいに依存性を持つ。酒を飲むと快楽ホルモンであるドーパミンが分泌される。毎日飲む人や大量に飲む人は、味を楽しんでいるのではなくて、ドーパミン中毒と言っても差し支えない。

かくいう自分も、若い頃は毎日のように飲酒していた。1年のうち、飲まないのは余程体調が悪い時か宿直の時ぐらいだった。今から25年くらい前からは、自宅飲みは殆ど止めたし、付き合いでの飲酒も必要最低限にした。特別な日にしか飲まなくなったのである。体調を壊したせいでもなく、何か失敗したのでもなく、誰かと禁酒を約束した訳でもない。いつの頃からか、お酒を飲まなくても過ごせるようになったのである。お酒は嫌いではないが、何となく毎日だらだらと飲みたいとは思わなくなったし、お酒を飲んでいる時間がもったいないと思うようになったのである。

現在は特別な日しか飲酒しないのに、昨日は珍しくお酒を飲んだ。会津金山町に山菜採りに行き、帰る途中の玉梨温泉で入浴した。売店で有名な天然炭酸水を見つけ、お土産に2本買い求めた。帰宅して、夕食時にこの炭酸水を用いてハイボールが飲みたくなった。竹鶴ブレンドのウィスキーがあったので、早速ハイボールを飲んだ。実に美味である。天然水がウィスキーの甘さとコクを引き出してくれた。山菜を肴にしての飲酒によって、心地よい酔いが身体を包んでくれる。ハイボールは、1杯だけ飲んだ。これ以上飲んでは味覚が麻痺してしまい、味が解らなくなり、お酒やつまみに申し訳ないからだ。

若者であれば、節度ある飲酒をしなさいと言っても、無理がある。酒の失敗もまた人生の経験であろう。法令違反をせず、人を傷つけないという条件を守るならば、無茶な飲酒も許されるのが若者であるように思う。しかし、30歳を越えたらば、大人の酒飲みをするべきだと思うのである。大人の酒飲みとは、大量に飲まないということと毎日飲酒しないというのは基本原則である。そして、特別な『ハレ』の日にしか飲まないというのも基本である。ストレス解消やプレッシャーにおしつぶされそうになった時に飲むのは、大人の酒飲みとは言えない。

 

酒は、何もかも忘れさせてくれると、嫌なことがあると飲酒する人がある。確かに、一時的に脳を麻痺させてくれるしドーパミンを分泌させて、悲しみや苦しみを忘れさせてくれる。でも、翌日にはまた嫌な事を思い出すし、ひとつも解決していない現実が自分を苦しめる。そして、問題解決を先送りして、毎夜お酒に逃げ込むことになる。大人の酒飲みとは、このような飲み方ではない。あくまでも、少量のお酒を美味しいつまみでチビチビと味わうことである。偽ビールや人工酒などの安酒は合わない。吟醸酒やモルトウィスキーなど本物のお酒が似合う。寝酒などはもってのほかであり、手作りの肴で夕飯前に飲むのが大人の酒飲みである。自分が大人だと自覚するのならば、大人の酒飲みが出来るのが最低条件であろう。