コロナで見直す人間本来の生き方

 新型コロナウイルスは、次から次へと変異株が生まれていて、感染症の終息は迎えられそうにない。そこで、世界各国では新型コロナウイルス感染症の完全な封じ込めは難しいと判断して、ウィズコロナの社会を作り上げて、ウイルスと共存する道を模索始めている。どのようにすれば、重症化を防ぐことが出来るのか、死亡率を下げられるのか、医療体制を崩壊させずに出来るのか、様々な検討をしている。新型コロナウイルスの特徴やワクチンの効果もある程度解ってきたので、ウイルスと共存できる時期は近いかもしれない。

 そこで、深く考えるべきは、我々自身のライフスタイルをどのようにすれば、新型コロナウイルスと共存できるかである。新型コロナウイルスの性質や特徴が判明してくれば来るほど、何故か不思議な程、人間が本来目指すべき生き方に添ったように生活すると、ウイルスとの共生が可能になるような気がするのである。それはより人間らしい生き方でもある。人間らしい生き方というのは、心身共に健康で自然と共生する生き方と言えよう。物質的な豊かさや便利さを追い求める暮らしではなくて、心の豊かさを重視するライフスタイルだ。

 人間がすべてのウイルスと闘って何とか凌いできた歴史があるが、それには医学の発展と医療の進化も寄与してきた側面もある。しかし、最終的には人間自身の自己免疫力を高めて、自己治癒力を向上させることが何よりも大事であると気付かされている。新型コロナウイルス感染症でも、感染しても基礎疾患もなく免疫力が高ければ、決して重症化しないし軽く済むだろう。だから、普段からの食生活、運動、休養、養生が大切なのである。さらには、化学過敏物質を生活全般で避ける気遣いも必要であろうし、電磁波にも注意が求められる。

 最近、国立宇都宮病院の研究チームがワクチン後の抗体価変動を調査したところ、喫煙者の抗体価が著しく減少していることが判明した。日常的に飲酒をする人と喫煙者は新型コロナ感染症が発症しやすいと言われてきたが、ワクチンの効果も減少することが解ったのである。たまに少量の飲酒ならば免疫力を上げるが、日常的に飲酒することは免疫力を下げてしまう。夜間に飲酒する狭いお店の会合で、感染が広がると言われている。新型コロナウイルスと共生するならば、お酒の飲み方もウィズコロナに合わせて変えなければならない。

 新型コロナ感染症によって『飲みにケーション』が不要だと認識する人が増えて、飲酒機会が減ったと言われている。新型コロナ感染症により飲酒機会が減ってしまい、飲食業は壊滅的な被害を受けたと言われている。観光業も同様である。新型コロナウイルスが弱毒化して、単なる『風邪』と同じ扱いになれば、飲食業や観光業も復活できると思われる。だとしても、何軒もはしごして深夜帯にまで浴びるように飲酒するような習慣は、ウィズコロナには相応しくないように思う。もっと上品な飲み方をしないとウィズコロナにならないだろう。

 新型コロナウイルスと共存していくのなら、現代の暮らし方や生き方に対する考え方を抜本的に見直すべきだと思う。あまりにも便利で贅沢過ぎる生活をどうにかしなくてはならない。まずは食生活である。コンビニやスーパーに行けば、インスタント食品やお惣菜が豊富に並ぶ。超多忙な生活にはとても便利である。しかし、使われている素材や調味料をよく観察してみると、あまりにも危険なものが使用されている。酸化物質が多いし、リスクの高い重金属類も含まれている。これでは免疫システムを破綻させてしまい、新型コロナウイルスに身体は対抗できない。外食偏向も同様である。SDGs上もよろしくない。

 都市集中化した住み方をして、あまりにも便利で贅沢な暮らしというのは、食生活だけでない。仕事の仕方も同じで、満員電車に揺られ通勤して、狭い空間で大勢の社員がPCに向かって仕事をする。狭くて換気もしない室内では、ストレスフルで人間関係も破綻しやすい。余暇の過ごし方も同様である。インドアで換気の良くない狭い空間でスポーツすれば、感染症が起きるのは予想できる。やはり屋外や自然豊かな広大なフィールドでのスポーツこそが、ウィズコロナの時代に相応しいし、ストレス解消にもなる。都市一極集中化が新型コロナ感染症を蔓延させる環境と免疫力を下げてしまう暮らしを作ったと言っても過言ではない。今こそ人間らしい生き方にシフト変更すべきだ。

双極性障害とPTSDを乗り越える

 リトルグリーモンスターの芹那さんが、双極性障害とPTSDにより長期休暇をすると報道されたこともあり、双極性障害とPTSDという精神疾患に注目が集まっている。どんな疾病かと言うのは、ネットを調べれば解ると思うが、治療が非常に難しい難治性の疾患であるのは間違いない。投薬治療やカウンセリング・各種セラピーにより、症状は幾分か和らぐケースもあるが、完治するのは難しい。原因はストレスによるものではないかというのは解っているが、はっきりした発症メカニズムは解明されていない。

 リトグリの芹那さんは、ご自分でADHDであるともカミングアウトされているが、ASD(自閉症スペクトラム障害)と双極性障害が併発することも少なくない。ASDが根底にあると、双極性障害を発症しやすいということかもしれない。また、ASDと双極性障害があると、PTSDになりやすいと言うこともあり得るだろう。芸能界、特に人気があることを常に要求され、多大なプレッシャーに押しつぶされそうになる場所に長くいると、メンタルがやられてしまうのも当然かもしれない。

 双極性障害が何故起きてしまうのかということだが、過度のストレスやプレッシャーによる影響であろうとは思うが、同じような過度のストレスやプレッシャーにさらされても発症しない人もいる。つまり、個人差があるということになる。それでは、どういう人が発症するのかということが解ると、予防することも可能になるし、症状を和らげる方法だって解るかもしれない。ASD、双極性障害、PTSDがあるようなクライアントを今まで多数サポートした経験から判断すると、愛着障害が根底にあるような気がしてならない。

 愛着障害と言っても、重症の人もいれば軽度の人もいる。虐待やネグレクトをされた子どもだけでなく、一見するとごく普通に育てられたように見える家庭の子どもだって愛着障害になることもある。今まで多くの不登校やひきこもりの方々を支援させてもらって見えてきたのは、日本人の大多数の人が愛着障害であるという事実である。その愛着障害ゆえに強烈な生きづらさを抱え、メンタルを病んでいる人が多いのである。そして、愛着障害が根底にあって、二次的症状としてASDが現われ、メンタル疾患を発症しているのだ。

 日本人の半数以上が愛着障害であると言っても過言ではない。おそらく日本人の中で、生きづらさを感じている人は、半数以上を数えることであろう。そして、その生きづらさは愛着障害によるものだと言っても間違いない。気分障害のメンタル疾患を発症した方々をいくら治療しても治りにくいのは、根底に愛着障害があるからだと言える。愛着障害が癒されない限り、どんな治療を施しても完治することはないと断言できる。そして、双極性障害とPTSDも愛着障害を癒してあげなければ、完治することはないであろう。

 ということは、難治性の疾患である双極性障害やPTSDだって、愛着障害を癒してあげれば、その辛い症状が和らぐし社会復帰だって可能になるということである。とは言いながら、愛着障害だって癒すのは容易でない。なにしろ、愛着障害が起きてしまうのは、親からの三歳頃までの養育の偏りによるものだ。絶対的な自尊感情は、幼少期に育まれる。一度確立されてしまった自己否定感は、容易には払拭できず、不安感や恐怖感はぬぐい切れないのである。ましてや、愛着障害によって大変な経験を積み重ねて、ポリヴェーガル理論における迷走神経の遮断が起きているから、愛着障害を癒すのは難しい。

 親が劇的に変われば、愛着障害が癒されることもある。しかし、親が変わるのはあり得ないから期待できない。親に代わって、いかなる時でもありのままにまるごと愛してくれて守ってくれる存在があれば、愛着障害は癒される。しかし、パートナーにその役割を果たしてもらうことは期待できそうもない。とすれば、臨時の安全基地としての機能を果たしてくれる支援者がいれば、愛着障害が癒されるかもしれない。そして、精神面のケアーだけでなく、身体的なケアーであるボディーワークもしてくれるセラピストであれば、さらに癒される確率は高くなるに違いない。迷走神経の遮断も止められる。そうすれば、双極性障害やPTSDも寛解すると思われる。

こんな誉め方や叱り方をしてはいけない

 子どもは誉めて育てると言われているが、ただ誉めればいいと言うものではない。また叱り方が正しくないと、子どもは健全に育たないばかりか、とんでもない障害を起こしてしまうこともある。正しい誉め方と叱り方があるし、絶対にしてはならない誉め方と叱り方があるのだ。間違った誉め方を続けてしまうと、パーソナリティ障害を起こしたりアスペルガー症候群の症状を呈したりすることもある。また、叱り方を間違うと子どもの自己組織化が阻害されてしまうこともある。職場において、部下を誉めたり叱ったりする時も同様である。

 先ずは誉め方について考えてみたい。誉める時には、何を誉めるのかということが大切である。とかく、親は子どもが何かをして、出した結果を誉めることが多い。テストの点数が高いとか成績表が良かったりした時に誉めることが多いことだろう。ビジネスの場面においても、良い結果を出した時に誉める上司が多いに違いない。確かに、良い成果を出した時に誉めるというのは良くあることだ。しかし、部下は結果主義や成果主義になってしまい、努力をするプロセスを大切にしなくなる。誉める相手が子どもでも同じ弊害が起きてしまう。

 子どもが頑張った経過を誉めるのは、良いことだ。しかし、出した良い成果だけを誉めることをし続けると、良い結果だけを見せて悪い結果なら隠すということをしかねない。頑張っている姿を見かけたら、それをタイムリーに誉めることをしたいものだ。また、結果を誉める時に、絶対にしてはならないことがある。本人の前で、兄弟姉妹のことを誉めてはならないということだ。自己肯定感が育っていず、劣等感を持っている子どもの前で兄弟姉妹のことだけを誉めてしまうと、益々自信を喪失しまうし、やる気を失わせてしまう。

 努力したというプロセスを誉めるのも大切だが、考え方やチャレンジする姿勢、諦めない精神を誉めてあげたい。そして何よりも大事なのは、子どもが自分のことよりも周りの人々の為に頑張ろうとした行動を誉めることだ。つまり、個別最適よりも全体最適を優先した時こそ誉めてあげたい。さらには、誰かに言われて行動するのでなく、自らが主体的に自発的に行動しようとした時にも誉めたい。主体性や自発性が働いた時にこそ誉めることで、自己組織化が進化するであろう。このように誉めれば、子どもは健全に育つに違いない。

 子どもを誉める為には、子どもの言動に注目しなければならないし、深く観察することが必要である。しかも、子どもの本当の気持ちを推し測らなければならない。部下を誉める時にも同じことが言える。部下がどんなふうに誉めたら嬉しいのかを、自分のことのように推察することが必要である。そして、子どもは親のことが大好きだから、親が喜ぶことをしたいのだ。だから、子どもの言動や考え方を誉めてあげて、そのことで親がとても嬉しいということを伝えることが大事である。そうすれば、子どもは伸びるし自立するに違いない。

 さて、叱る時はどうしたらいいだろうか。子どももそうだが、部下を叱る時は皆の前では避けたほうが良い。身の危険がある時や緊急性のある場合は仕方ないが、本人のプライドを傷つけるようなことは避けたい。一対一で対面にて叱りたいものだ。メールやLINEトークなど、または電話で叱るのは絶対に避けたい。LINEのグループトークで叱るなんて最悪だ。さらに、悪い結果や成果を叱るのは避けたい。努力をしないプロセスを叱るべきだ。間違っている考え方や哲学を叱るのも大事だ。私利私欲の行動や人を傷つける言動には、しっかりと叱責したい。

 叱るのは勇気のいることだ。叱るには多大なエネルギーが必要である。勿論、相手をよく観察しなければならないし、叱るということは自分が同じことはしていないし、これからもしないということを宣言しているようなものだ。特に、思想や哲学の元になる価値観が間違っているということを叱るには、自分が正しい価値観を持って揺るぎない目的を目指して人生を歩んでいるという自負が必要である。そうでなければ、相手の間違った価値観を叱ることは出来ない。叱ることも誉めることも、相手の成長を願っての行動であることが前提だ。感情的に叱ったり誉めたり、または自己満足や自分が利する為にしてはならないのだ。

我が子をありのままに愛したいのに

 子どもが3歳になる頃までに、ありのままにまるごと愛し続けてあげれば、大人になっても健全で幸福な人生を歩める。つまり無条件の愛である母性愛を注ぎ続けることで、自尊心が芽生えて、自分をまるごと好きになれるし、どんな苦難困難も乗り越えられる。ところが、母性愛を十分に注ぎ続ける前に、父性愛(条件付きの愛)で接してしまうと、自己肯定感が確立されない。または、母性愛と父性愛を同時に注いでしまうと、愛着障害になることもある。お母さんは、我が子をまるごとありのままに愛したいと思うのである。

 ところが、我が子をまるごとありのままに愛することが出来るお母さんは、極めて少ないのである。どうしてかというと、子どもというのは基本的に我が儘だし、母親の言うことを素直に聞くことが少ない。素直で従順な良い子なら愛せるけど、反抗的な態度を取るような子どもはどうしても愛せないのだ。良い子に育てたいから、強く叱ってしまうし、しつけを優先してしまうのである。ましてや、父親が父性愛を発揮してくれなくて、母親だけが育児をしなければならない状況なら、なおさら子どもに厳しく当たってしまうのだ。

 お母さんが我が子をまるごと愛せない理由は他にもある。お母さん自身が自分の母親からまるごとありのままに愛されていなのだ。つまり、お母さんに絶対的な自己肯定感が確立されていないケースである。お母さん自身が自分のことをまるごと愛せないと、自分の嫌な部分や恥ずかしい自分を好きになれない。誰でも自分の中には、好きな部分と嫌いな部分が同居している。好きな部分は愛せるし、嫌いな部分は自分にはないことにしたいのである。我が子の中に自分と同じ嫌な自己を発見すると、我が子をまるごと愛せなくなるのだ。

 我が子の中に、自分でも許せないマイナスの自己を見つけてしまうと、我が子をまるごと愛せない。マイナスの自己も含めて自分をまるごと好きになることが出来ないと、我が子をまるごと好きになることが出来ない。だから、ついつい条件付きの愛である父性愛的な対応をしてしまうのである。または、我が子を完璧な良い子に育てようと、必要以上の介入と干渉をしてしまい、まるで毒親のような仕打ちをしてしまうのである。支配と制御を強く繰り返し、まるで母親の操り人形のように育ててしまうのだ。

 このように、母親との良好な愛着が形成されることなく、強い干渉や介入をされ続けてしまうと、子どもの自組織化が阻害されてしまい、システムエラーを起こしてしまうのである。これが愛着障害であり、二次的症状として『自閉症スペクトラム障害』(ASD)を起こしてしまう。ASDは発達障害と世間では呼ばれているが、アスペルガー症候群などもこれに含まれる。母親はありのままにまるごと我が子を愛したいのに、様々な要因が複雑に噛み合わさって愛せなくて、愛着障害やASDを発症させてしまうのだ。

 ASDは先天的な遺伝子の異常による障害だと医学界では言われている。確かに、遺伝子による影響もある。生まれつき、育てにくい子どもがいるのは確かである。育てにくいからこそ、あるがままにまるごと愛せないという側面もあろう。だとしても、愛着障害になってしまうのは、育てられ方に問題があるのは間違いない。だから、愛着障害による二次的症状としてASDが起きているなら、ASDの症状だって和らげることが出来る筈だ。今までの医学常識ではASDは治らないとされているが、愛着障害を癒すことで、ASDも改善するに違いない。

 子どもの愛着障害を癒すには、お母さんがまずは変わらなければならない。というよりも、お母さん自身の傷ついた愛着を癒す必要がある。それには、自分がまるごとありのままに愛される経験が必要だし、どんな時にも自分を守ってくれる安全基地が必要なのである。自分のパートナーがそういう存在になってくれることが確実なのであるが、なかなか難しいかもしれない。男性の約半数以上がASDの傾向があるからだ。お母さんをまるごとありのままに愛してくれる安全基地には、安定した愛着を持っている人しかなれないのである。自分の傷ついた愛着を乗り越えた経験を持つ人を安全基地に出来たら可能かもしれない。

 

厳しくて優しい母でした

 イスキアの郷しらかわでは、不登校やひきこもりの状況に置かれてしまっている方々をサポートさせてもらっている。そういう方々にどのような母親でしたかと聞くと、おしなべて「母は厳しくて優しい人でした」と答える。厳しいと優しいというのは、相反する形容詞であり、本来はあり得ない評価である。ところが、実際に不登校やひきこもりを起こしている子ども(若者)に聞くと、厳しいけど優しいお母さんという形容をするのである。彼らは不安定な愛着を抱えている。厳しくて優しい母に育てられると愛着障害を起こすのである。

 虐待やネグレクトの子育てをされるとか、または乳幼児期に母親から離される経験をすると愛着障害を起こすということは広く知られている。しかし、ごく普通に両親から愛情を注がれて育てられたというのに、不安定な愛着や傷ついた愛着を抱えてしまう子どもがいる。まさか、愛着障害になるなんて両親は夢にも思っていないのに、現実に愛着障害になってしまい、不登校やひきこもりを起こしてしまう子どもは大勢いる。または、愛着障害から摂食障害、ゲーム依存、ネット依存、薬物依存で苦しむ子どもは想像以上に多い。

 母親は厳しくて優しい人ですと、自分の母親を形容する子どもが多いのは何故であろうか。それは、母親がダブルバインドのコミュニケーションをして子育てをしているからである。ダブルバインドのコミュニケーションとは、二重拘束のコミュニケーションと訳されている。精神医学者のベイトソンが唱えた理論で、母親がダブルバインドのコミュニケーションを繰り返して子育てすると、子どもは統合失調症を発症すると主張した。子どもに対して相反する意味の言葉をかけ続けると、子どもはどちらの言葉が本心なのか疑心暗鬼となってしまう。

 母親が我が子に対して、「あなたのことは大好きだよ」と言ったかと思うと、違う場面では「あなたなんか大嫌い!」と言うことは良くある。母親が精神的に安定していないと、子どもの言動に切れてしまい、つい激高して子どもに対してきつい言葉をかけてしまう。特に、家事と育児に非協力的な夫だと、自分ばかりどうしてこんなに苦労するのかと思ってしまい、つい子どもに辛く当たることもある。また、発達障害のような夫である場合は、コミュニケーションが成り立たないから、孤独感を持ってしまい、つい子どもに厳しく対応する。

 このように母親がダブルバインドのコミュニケーションを子どもに対して繰り返し行っていくと、両価型の愛着障害になりやすい。親の愛情が信じられず、親に心から甘えられないし、親から見捨てられるのではないかという不安や恐怖感を持ち続けてしまうのである。子どもは、いつか自分は見離されてしまうのではないかという不安が心を支配しているし、周りの人は自分を嫌うのではないか、それは自分が駄目だからなんだと、自信を喪失する。つまり、絶対的な自己肯定感が育たないのである。

 厳しくて優しいお母さんは、子どもを立派に育てたいと思って必要以上に頑張るのである。学校の成績を上げて、良い大学に合格させて、高収入で安定した就職をさせようと必死になる。何かと、子どもに対して過介入や過干渉を繰り返す。無意識のうちで母親は自分が理想とする人生を子どもに歩ませようと、支配し制御してしまう。本来、母親は子どもをあるがままにまるごと愛するだけで良いのである。つまり、無条件の愛である母性愛を注ぐのが母親の務めである。ところが条件付きの愛である父性愛(しつけ)を父親が放棄するから、母親が母性愛と父性愛の両方を注いでしまい、厳しくて優しい母親になるのである。

 子どもを育てる際に、大事なのは先ず母性愛だけをたっぷりと注いで、それから父性愛を注ぐという順序なのである。父性愛を先に注いだり、または父性愛と母性愛を同時に注いだりするのは、絶対に避けなければならない。そうすると子どもは健全に育たず、いつも不安や恐怖を抱えてしまい、周りの人を信頼できないし、社会不適応を起こしたりメンタルを病んでしまったりする。「私の母はいつもすごく優しいし、大きな愛で包んでくれました」と子どもが言ってくれるような母親でありたいものである。間違っても母は厳しいけど優しかったなんて、子どもに言わせてはならないのである。

教育のイノベーションはシステム思考で

 日本経済の再生は教育のイノベーションによって実現できると、前回のブログで提起させてもらった。教育のイノベーションは、近代教育の問題点である客観的合理性偏重の教育を見直すことだと説いた。今回のブログではさらに踏み込んで、どういう価値観に基づいて教育を見直すべきなのかについて述べたい。本来目指すべき教育とは、普遍的な正しさを持つ価値観を基にした教育だと言える。その正しい価値観とは、システム思考である。システム思考とは全体最適を目指す価値観であり、関係性を根底にした自己組織化理論である。

 人間は完全なるひとつのシステムである。人間の構成要素である34兆2000億個の細胞からなるシステムである。人体におけるそれぞれの細胞のネットワーク(関係性)によって、人間は本来の機能を発揮できている。そして、それらの細胞は自己組織化されていて、誰からも指示命令を受けずとも、人体の維持・発展・成長・進化の為に昼夜働いている。それぞれの細胞は、主体性、自主性・自発性・責任性・進化性を持っている。細胞どうしのネットワーク(関係性)が壊れてしまうと、人体というシステムは機能を失い、病気になる。

 社会もひとつのシステムであるし、会社や職場もシステムである。地域社会も行政も、そして国家も世界も、さらには地球も宇宙もシステムである。そして、それらの構成要素も関係性によって存在しているし自己組織化の機能が発揮されている。すべてのシステムは全体最適を目指している。ところが、これらのシステムにおいて全体最適の価値観でなくて個別最適の価値観によって構成要素が動いてしまうと、システムは劣化したり破綻したりする。家族が崩壊するのも、全体最適ではなくて個別最適に陥り家族の関係性が壊れるからだ。

 すべてのシステムが正常な機能や働きを発揮するには、それぞれの構成要素のネットワーク=関係性が良好でなければならない。家族間の絆が損なわれると崩壊してしまう。夫婦が離婚するのは嫌いになったからではなくて、関係性が悪化するからである。子どもが不登校になったりひきこもりになったりするのは、親との関係性=愛着が形成されないからである。企業が破綻するのも、景気が悪い訳でもなく経営戦略が悪いせいでもない。社員どうしの関係性が悪いからシステムが機能せず自己組織化能力が発揮できないからである。

 つまりすべての集合体=システムは、全体最適の価値観を持つこと、そして豊かな関係性がないと、自己組織化が阻害されシステムが破綻してしまうのである。だからこそ、人間はシステム思考に基づく全体最適と関係性重視の価値観が必要なのである。小さい頃から、父親もしくはそれに代わる誰かからシステム思考の考え方や行動規範を教えられなければならない。そして、学校においてもシステム思考を基本にした教育が必要なのである。明治維新以降の教育は、システム思考と相反する教育をしてきたのである。

 明治維新以降の教育は、個別最適という間違った価値観を植え付けてしまった。能力至上主義や行き過ぎた競争主義を押し付け、自分だけの経済的な豊かさや地位名誉を求める利己主義を蔓延させてしまった。これでは良好な関係性は築かれない。人々は競い合いいがみあって生活し、人の不幸が自分の幸せだと感じるような利己主義の人間を作り出してしまったのである。これは、全体最適と関係性重視の価値観に基づくシステム思考という大切な哲学を子どもたちに教えてこなかったせいである。思想・哲学を忘れた教育は最悪だ。

 不登校、ひきこもり、いじめ、虐待、貧困、格差社会、孤独と孤立、自殺、生産効率の低下、経済の低迷、すべてはシステム思考という大切な哲学を失った為に起きていると言っても過言ではない。欧米では、このシステム思考の大切さに気付き始めている。特に北欧ではシステム思考的な教育が取り入れている。だから、北欧諸国の教育効果が非常に高いのである。オランダでも小学生からシステム思考を教えている。システム論に基づく自己組織化を発揮できるような自立・自律を重んじる教育をしている。米国でもシステム思考の第一人者であるMIT上級講師のピーター・センゲ氏が、多くの若者から支持されている。確実に世界ではシステム思考が支持を受けているのに、日本の教育だけが取り残されている。

経済再生は教育のイノベーションで

 前回のブログにおいて、日本経済が低迷している原因は愛着障害にあることを明らかにした。そして、その愛着障害が多いのは教育に根本的な誤りがあるからだと説いた。教育の誤りは何故起きたのか、その教育の誤謬をどのように正したら良いかを今回のブログで明らかにしたいと思う。日本の教育を本来あるべき姿に戻さないと、このままでは日本経済は益々駄目になって行くだろうし、不登校やひきこもりだって増加の一途を辿るに違いない。いじめや児童虐待、貧困、格差は増大し、家庭崩壊だって進んで行き、取り返しがつかなくなる。

 いつから日本の教育が間違った方向に進んだのだろうか。江戸時代の教育は至極まともだったし、教育レベルも相当に高かった。明治維新後に、欧米列強に続けと欧米から近代教育を取り入れたのである。その時から日本の教育は劣化してしまったと言える。当時の明治政府で実権を握っていた大久保利通等が、西郷隆盛の反対を押し切って近代教育を強引に導入してしまったのである。西郷隆盛は、近代教育の欠点を見抜いていた。近代教育によって日本人の大切な『心』を失ってしまうと西郷は猛反対したのである。

 何故、近代教育によって心を失うのかというと、能力至上主義であり客観的合理性をあまりにも重視する教育だったからである。それ故に、技能や知識を取り入れることだけを目指し、大切な思想や哲学、価値観の教育を排除してしまったのである。もしかすると、権力者を批判するような人間を排除しようとして、価値観教育をさせまいとしたのではなかろうか。明治政府が導入した近代教育は、知識や技能だけを獲得するための教育だから、教え込む教育である。言わば詰め込み教育であるから、自ら考え決断し行動する力を削いでしまった。

 人間は、本来自分の行動をどうするか熟慮して決断して、自らの考えで主体的に行動する。ところが、過介入や過干渉の教育、支配と制御の教育を推し進めると、主体性や自発性を失ってしまう。人間は主体性、自発性、自主性、責任性、進化性を本来持っている。それは、自己組織化する能力と言い換えることができる。人間は誰からか指示・介入されなくても、自己組織化するのである。ところが、誰かによってあまりにも制御されたり支配をうけたりすると、自組織化能力を失い、操り人形やロボットのようになってしまう。

 そして、人間が自己組織化するためには、正しく高邁な価値観に基づいた「生きる目的」を認識しなければならない。ところが、明治政府は価値観教育を排除してしまったから「生きる目的」を子どもたちは認識できなくなってしまったのである。親たちも、そして教師たちも「生きる目的」を知らないのだから、子どもたちに「生きる目的」語り諭すことが出来ない。試しに、自分にあなたの生きる目的は何ですか?と問うてみればいい。殆どの人が正しく「生きる目的」を概念化する力がないことに気付くであろう。

 江戸時代の教育においては、「生きる目的」を自らが考えて導き出すための思想・哲学をしっかりと学んでいた。だから、自己組織化能力を持っていたのだ。父親が思想・哲学を子どもに対して語り諭し、子どもが正しい価値観を持ち「生きる目的」を自らが導き出せたら、人生に迷うこともないし生きづらさを抱えることもなかった。父親が条件付きの愛である父性愛を注いでしつけをしてくれたら、母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけで良いのである。母親がまるごとあるがままに我が子を愛し続けてくれたら、愛着障害になることはなかった筈である。

 欧米では、近代教育の欠陥をいち早く見抜いて、修正をしてきた。だから、自己組織化の能力を失うことがなかったのである。自己組織化する能力を開発する教育を取り入れているし、信仰を利用して価値観の教育をしっかり実施している。正しい価値観を失い「生きる目的」を失ってしまった日本人は、世界から取り残されてしまっているし、外国人から信頼まで失いつつある。家庭教育、そして学校教育の欠陥である客観的合理性偏重の教育を見直し、主観的共感性も重要視する教育に今すぐにでも改革しなければならない。そして、思想・哲学の教育を復活させて、正しく高い価値観を持てるようにすべきである。この教育のイノベーションを断行すれば、現代のあらゆる社会問題は解決し、日本は再生するに違いない。

日本経済低迷の原因は愛着障害

 日本の経済成長は、先進国の中で最低である。とりわけ低迷しているのは、実質賃金である。先進国の中で、実質賃金が下がっているのは日本だけである。この20年間で、10%以上も実質賃金が下がっているのは特異的である。何故、実質賃金が下がっているのかというと、デフレ傾向、低金利、生産性の低迷、所得分配率の低迷、非正規雇用者の増大などが原因だと言われている。本当にこれらが原因なのであろうか。だとすれば、政府の経済政策や金融政策で何とか出来る筈だが、20年間にも渡って改善されないのはどうしてだろうか。

 岸田政権は、安倍と菅が推し進めた政策を見直し始めている。所得の分配率を高めようと、税制を変更までして、企業に昇給圧力をかけている。しかし、この税制改革が成功するとは到底思えない。また、いくら設備投資をさせようと企業に圧力を加えたとしても、企業経営者たちは応えようとはしないだろう。何故ならば、企業経営者並びに幹部たちは、新規設備投資をするとか、イノベーションにチャレンジをするなどの積極的な企業経営をする筈がないのである。経営者たちはおしなべて不安感や恐怖感を抱いており、臆病だからである。

 大企業の経営者たちは、新たな設備投資をすることに対して慎重姿勢を崩さない。賃金を上げることにも消極的である。さらに、利益が確保されているし株価は安定しているから、無理をしてイノベーションをしなくても良いだろうと考えている節がある。これでは、絶対に好況になることはない。さらに企業における日本の生産性が、他の先進国と比較して、極めて低いという問題もある。特にホワイトカラー労働者の生産効率が低いと言われている。これもイノベーションが実行出来ていないせいだと思われる。

 大企業の経営者だけでなく、日本国民全体が将来に対する不安を抱えているとしか思えない。良く言えば慎重だということだが、新しいことに挑戦する勇気がないのである。不安や恐怖感が拭えず、無難な考え方や生き方しか出来ないのである。何故、そんなに臆病なのかと言うと、絶対的な自尊心が育ってないからと言える。青少年の意識調査を国際比較してみると如実なのであるが、日本の青少年の自己肯定感が異常に低いのである。さらに、主体性や自発性、責任性が他国の若者と比較すると極めて低いということが解っている。

 主体性、自主性、自発性、責任性というのは、人間が生まれつき持っている『自己組織化』の働きのことだ。現代の日本人は、この自己組織化する働きが著しく低下しているのである。つまり、日本人は自己肯定感が低下しているし、自己組織化する働きが低迷しているので、企業におけるイノベーションが進まず、生産効率が低いのであろう。何故に日本人の自己組織化の働きと自己肯定感が低いのかというと、それは端的に言えば『愛着障害』を抱えているからである。愛着障害が根底にあるから、将来に対する不安が強く勇気が持てないのである。

 根底に愛着障害があると、オキシトシンが不足するのでいつも不安が強くて、無難な生き方しか出来なくなる。新たなチャレンジにも挑戦出来なくなるし、現状を守りたいという意識が強く保守的になる。現代の若者が政治的に保守的なのは、愛着障害を抱えているからに他ならない。消費意欲が湧かずに貯蓄が増えるばかりなのは、愛着障害による不安のせいである。大企業経営者が新規の設備投資意欲がないのも、そしてイノベーションに踏み切れないのも愛着障害だからである。自己組織化の能力が低いからイノベーションが実行できないのであろう。

 日本人の大多数が愛着障害であると言っても過言ではない。何故、そうなってしまったかと言うと、学校教育と子育ての間違いからである。自己肯定感と自己組織化を育てる教育をしてこなかったせいである。自己肯定感は、0歳から3歳くらいまでの間、母親が我が子をありのままにまるごと愛さなければ育たない。つまり無条件の愛である母性愛を注ぎ続けなければ自尊心は芽生えない。さらには、自己組織化を阻害するような教育ばかりを家庭も学校もしたのだ。強い干渉や介入をして、支配し制御する教育をしたのだから、自己組織化する筈がない。故に多くの日本人が愛着障害を抱えているせいで、日本経済は低迷しているのである。教育のイノベーションが必要なのは言うまでもない。

夫が嫌いですか?

 夫が嫌いですか?というアンケートを実施したら、21%の妻がYESと答えたという。30歳~59歳1000人の既婚女性に聞いて、嫌いだと答えた人が21%というのは、男性からすると多いと思うことだろう。でも、女性にしたら以外に少ないなと感じたかもしれない。世の中の妻たちは、もっと夫のことを嫌っている人がいる筈なのに、不思議だと思っているに違いない。おそらく質問の仕方が良くなかったのではないだろうか。夫のことが今でも好きか?という質問だったら、7割以上の妻がNOと答えたことだろう。

 様々な意識調査のアンケートをする際に、質問の語句選びによって結果が変わることが少なくない。特に、このような好きか嫌いかという設問においては、微妙なニュアンスよって結果が変わるのは当然だ。この夫が嫌いですか?という質問で何を明らかにしたかったのであろうか。嫌いと思う妻の割合を知って、何を狙ったのだろうか。嫌いかと聞かれたら、はっきりと嫌いだと答えるのは抵抗感があるだろう。嫌いかどうかの二者択一ならば、NOと答えるだろうが、どちらかというと嫌いという選択肢があれば、5割以上が選んだと思う。

 夫婦の意識調査をする度に、妻と夫の意識に温度差がある結果となることが多い。夫は、妻との結婚生活に概ね満足していることが多い。一方、妻の方はと言うと、夫の生活態度やコミュニケーションに不満を持っていることが少なくない。イスキアの郷しらかわの活動で支援させてもらっている既婚女性の殆どの方が、夫に対する強い不満を持っている。不登校やひきこもりの子を持つ母親は、夫との家庭生活に大きな不信感と諦め感を持っている。夫のことが嫌いかと聞けば、間違いなく嫌いだと答えるに違いない。

 不登校やひきこもりの子どもを持つ両親の夫婦関係は、もはや破綻していると言っても過言ではない。経済的に自立している妻のケースでは、離婚していることが多い。家庭崩壊を起こしている故に、子どもが不登校やひきこもりになっていると言えよう。勿論、父親だけが悪いとは言えないが、そもそも家庭崩壊を起こす要因は、大黒柱である父親にあることが多い。不登校やひきこもりを起こしている子どもの両親の夫婦関係は、100%冷え込んでいると断言できる。だから、妻が夫を嫌いだと言う家庭は、既に崩壊していると言える。

 不登校やひこもりの子どもたちに共通しているのは、親の夫婦仲が良くないという点である。不登校やひきこもりの子どもたちは愛着障害であるケースが殆どであるが、その大きな要因は両親の不仲にあると言っても過言ではない。表面的には中良さそうに見えていても、関係性が壊れているケースが多い。不登校やひきこもりの子どもは、HSPであることが多い。常に不安と恐怖感を抱いている。HSPになる原因は、家庭の中に居場所がないからだ。それも、両親の不仲が遠因となっている。安全基地が存在しないのだ。

 両親の夫婦仲が悪くて、いつも夫婦がバトルをして無視をし合っていると、母親の精神状態は不安定になるから、子どもとの豊かな愛着が結ばれない。つまり、妻が夫のことを心から敬愛していて、夫も心から妻を愛していないと、子どもの愛着が不安定になるし、HSPになって自尊心が育まれない。子どもは生涯に渡り、強烈な生きづらさを抱えて生きることになる。不登校やひきこもりになってしまう可能性が高くなる。妻が夫を敬愛できるかどうかで、子どもが幸せになるかどうかが決まるのである。夫のことが嫌いだというような家庭においては、子どもが不幸になるということだ。

 妻が夫のことが嫌いなのか、それとも好きなのかは、単に夫婦間の問題だけではないのである。家族全体の問題であり、子どもの人生における非常に重要な問題なのである。両親の仲が良くて、お互いに敬愛する関係なら、子どもは健全に育つ。子どもの前だけでは良い夫婦を演じているというケースもある。こういう場合、子どもは両親の夫婦仲が本当は悪いんだということを直感的に認識している。経済的に自立出来るのなら、無理して夫婦を演じる必要はない。さっさと離婚して、精神的に安定して子育てをするほうが遥かに良い。『子はかすがい』なんていう諺は、もはや死語になり果てたのである。

親ガチャは努力によって克服できるか

 親ガチャという言葉があるのをご存じだろうか。語源は、ガチャというネットゲームがあり、結果を自分では選ぶことが出来なくて、どんな結果になるのか運次第であることから、親もガチャと同じだということから生まれたという。確かに子どもは親を選べない。どんな親の家庭に生まれるのか、ガチャゲームのように運次第である。特に、親の経済的な貧富の差はいかんともし難く、貧困家庭に生まれた子どもは満足の行く高等教育が受けられず、親になっても同じように貧困家庭になり、貧困家庭の連鎖が止まらないと言われている。

 韓国や米国などでも、親ガチャと同じような概念があって、社会問題になっていると言われている。大きな経済的格差がある社会が形成されるというのは、政治がお粗末だからと言える。親ガチャは子どもの努力によって乗り越えられるのか否かと、ネット上でも盛んに議論されているが、否定する意見のほうが優勢のようである。しかし、一部の経済的に裕福で恵まれた人たちは、努力すれば貧困から抜け出せる筈だと主張する。確かに経済的な面での親ガチャを克服することは、本人が相当な努力をすれば何とか出来る可能性もある。

 しかし、どうにもならない親ガチャがある。子どもが不登校やひきこもりになってしまうのは、親との健全な愛着が形成されないからである。健全な愛着を子どもに対して育んであげることの出来ない親ガチャである。不安定な愛着、傷ついた愛着を子どもに持たせてしまうのは、親の責任である。そして、一旦不健全な愛着を持ってしまった子どもは、自分の力ではどうしようも出来ない。ましてや、深刻な愛着障害を持つ子どもは、一生に渡って苦しむことになる。問題ある親が劇的に変わらなければ、子どもは愛着障害を乗り越えられない。

 あるがままにまるごと我が子を愛する母親と、何があっても子どもを信頼して守ってくれる強い父親がいれば、子どもは健全な愛着を持つことができる。無条件の愛で包んでくれる母親と、いかなる時も妻と子どもの為に命を惜しまず闘ってくれる父親がいてこそ、子どもは安心して暮らせる。つまり、安全基地が保証されてこそ、子どもは安心して学校生活を過ごせるのである。豊かな母性愛と父性愛で満たされてこそ、子どもは揺るがない自尊心を持てて、どんな困難や苦難にも立ち向かう勇気を持てるのである。

 ところが、不安定な愛着や傷ついた愛着しか持てない子どもが育ってしまうことがある。それは、あまりにも過干渉や支配とコントロールを繰り返すような両親の元に生まれた場合である。または、ダブルバインドのコミュニケーションによる子育てを日常的にする両親に育てられた時である。勿論、虐待やネグレクトをするような両親なら、間違いなく愛着障害になってしまう。これもまた深刻な親ガチャである。このような親ガチャが当たってしまったら、自分の力で乗り越えることは出来ない。愛着障害を自分で乗り越えるのは不可能だ。

 愛着障害の両親に育てられた子どもは間違いなく愛着障害になってしまう。貧困家庭が世代間連鎖する確率が高いと言われるが、愛着障害の世代間連鎖は100%に近い。絶対的な自己肯定感を持つ子どもに育たないのは、両親自身が絶対的な自己肯定感を持ち得ていないからである。自尊感情というのは、0歳から3歳頃までに、無条件の愛でまるごとありのままに愛されなければ育たない。つまり、絶対的な自己肯定感を持てるかどうかは、親ガチャで当たるかどうかなのである。自分の力ではどうしようもないのだ。

 このどうしようもない親ガチャにより愛着障害になってしまった子どもは、一生生きづらさを抱えて生きることになる。親が自らの子育てを反省し、子どもに心から謝罪し、悔い改めて子育てをし直せば、愛着障害が癒されるかもしれない。しかし、そんなケースは皆無である。親自身が愛着障害なのだから、子どもの安全基地になれないのは当然だ。しかし、この深刻な愛着障害である親ガチャを克服する方法がひとつだけある。この愛着障害の親子を癒すことができる、優秀なセラピストがサポートして、安全基地の機能を果たすことである。時間はかかるが、不可能ではない。親ガチャを乗り越えるには、この方法しかない。