しょうもない男と結婚して後悔する女性

 世の中には、しょうもない男と結婚してしまい、おおいに後悔している女性が相当数いるという。周りから見ると、どうしてそんな駄目男と結婚してしまったのか不思議である。何故結婚したのか、自分でもよく解らない女性もいると思われる。こんなにもしょうもない男だったのかと、結婚してから気付く女性もいるし、駄目な男だとある程度解っていながら仕方なく結婚した人もいるのではないだろうか。どうしてそんなしょうもない男と結婚してしまうのか、駄目男でも暮らしを続けて行くべきなのか止めるべきかを考察してみよう。

 妻から見るとしょうもない男とはどういう性格・人格なのだろうか。自己中心的で利己的であり、損得勘定で動く人間というケースもある。家族の幸せよりも自分の喜びを優先してしまう人だ。または、まともなコミュニケーションが取れない男もいる。人の話を聞かないタイプだ。聞いているようだが、まるっきり聞いていない。自分のこだわりや固定観念によってバイアスをかけているから、自分にとって都合の悪いことは聞こえない。家事や育児を依頼しても、忘れるし無視する。妻の気持ちに共感できないし、心が冷たい男である。

 もっと最悪なしょうもない男は、働くことが嫌いなタイプだ。何かと理由をつけては定職につかない。職を転々として、稼いでこない。ジャンブルやゲームが大好きで、コミックやテレビ・映画に夢中。中には最悪のケースもある。暴力や暴言を操り返し、家族を支配し制御するタイプだ。こんなしょうもない男と結婚したら、毎日が最悪である。妻に見つからないところで子どもに暴力を奮うケースもある。嫌なことがあると黙り込んだり、モノに当たったりする男もいる。壁を叩いたり蹴ったりして、妻子を怖がらせる最低の男もいる。

 中には、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースもある。大人しくて、優しそうに見えるし、酒・ジャンブル・女には目もくれず、毎日職場と家庭を往復する優良亭主である。しかし、人間的には詰まらないし、異性としての魅力が感じられないタイプである。何故、そんな好きでもない男と結婚したのかと言うと、早く結婚して親から独立したかっただけである。口やかましく支配的な親で、愛情を注いでくれず子どもを制御する、いわゆる毒親から逃れたかったからである。

 しょうもない男と結婚する女性は、実はこういうケースが多いのである。育てられた家庭に居場所がなくて、自分と結婚してくれるのなら、しょうもない男と暮らしたほうがまだましだと思い込む女性は少なくない。温かくて愛情が溢れていて思いやりのある家庭を構築したいと願って、駄目男でも結婚する場合がある。愛情を注いであげれば、男は変わるかもしれないという期待は、脆くも崩れ去る。人間は、そんなに変われるもではない。ましてや、男のほうも親から愛されず育ったケースは、温かい家庭を築くのは無理なのだ。

 さて、このようなしょうもない夫とは今後どう対処したらよいか、悩むところである。暴力や暴言を繰り返すとかギャンブルのはまり仕事もしないという、どうしようもない夫なら一刻も早く別離したほうがよいだろう。どうするか迷うのは、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースである。ましてや、医師、弁護士、技術者、行政職など安定した高収入が保証されている場合は、なかなか離婚に踏み切れないものである。子どもの未来のために、自分の夫は隣のおじさんや宇宙人だと思い、我慢する選択肢もある。

 しかし、子どものために我慢を続けるとしても、自分の人生を犠牲にするというのは正しい選択肢であろうか。人間は、誰かを心から愛し愛されてこそ生きる喜びを感じるものである。心からリスペクトできる伴侶、そして敬愛してくれるパートナーと一緒に人生を全うしたいと願うものだ。また、そのようなしょうもない夫は、妻が外で働くことを嫌がり、フルタイムで働かせない傾向が強い。しかし、働くことで社会と繋がり貢献をしていくという喜びを得られないというのは辛いものである。しょうもない男と一緒の暮らしを続けるか否か、どちらを選ぶのかは、いろんな要素を熟慮して決めるしかないだろう。

男性が怖くて苦手な女性

 男性が怖くて話をするのも苦手だと言う女性の方が存在する。当然、結婚することも出来ないし、お付き合いさえも避けたがる。職場でも、男性の同僚と話すことも苦手だし、男性の上司とは目を合わせることも出来ないケースもある。男性の野太い声を聞くと、怖くて仕方ないし、怒鳴る声が聞こえると震えが止まらなくなる女性もいる。学校でも、男性の同級生と話せない子どもがいる。どういう訳か解らなく、男性が苦手で怖いのである。男性恐怖症と言っても差し支えない。原因も解らないから、対処する方法もない。

 重症の方は、精神科医や臨床心理士に診断と治療を受けるケースもある。カウンセリングを受けると、乳幼児期の育てられ方に問題があるのではないかと言われることが多い。父親との良好な関係が形成されなかったことが、男性恐怖症になったのではないかと言われることも少なくない。カウンセラーやセラピストというのは、自分も同じような体験をしていることも多く、そのような分析をしてしまうことが多いようである。治療者自身が父親を憎んでいることから、父親が原因だと導くのではないだろうか。

 本当に父親が原因で男性恐怖症になってしまったのであろうか。厳格な父親、いつも怒鳴っていた父親、子どもを所有物のように扱っていた父親、自分を支配してコントロールしようとしていた父親、そんな父親は世の中にたくさん存在する。それだったら、もっと多くの女性が男性恐怖症になる筈だ。怖い父親がすべての原因だとするのには、無理があるように思われる。確かに、あまりにも厳格で暴力的な父親が、男性恐怖症になるひとつの要因だとしても、それだけが原因だと言うのは言い過ぎのような気がする。

 勿論、男性恐怖症になる原因が他にもある。幼児期に大人から性的ないたずらや暴力を受けたことが、深刻なトラウマになってしまって男性恐怖症になることもある。少女期に同様の悲惨な体験をしてもなることがある。大人になってレイプなどの恐怖体験によって男性恐怖症になることも考えられる。しかし、そのような体験をしないのにも関わらず男性恐怖症になるのは、何故であろうか。酷い父親であったから男性恐怖症になったとは言い切れないように思われる。そこに特有のバックグラウンドがあったように思うのである。

 パニック障害やPTSDになりやすい人となりにくい人がいる。同じような恐怖体験をしても、心の傷を残してしまう人と残さない人がいる。または、得体の知れない不安や恐怖に出会ったとしても、まったく平気な人もいればそれがトラウマになってしまう人がいる。その違いは何によるのであろうか。恐怖体験は単なるきっかけであり、本当の原因は別な所にあると見るのが正しいと思われる。必ず男性恐怖症になってしまうと見られる体験がひとつある。それは両親が不仲で、いつも喧嘩をしたり母親が暴力を受け続けたりするのを見ていたという体験である。

 自分が辛い思いや悲しい思いをさせられるとか恐怖体験をするのも、トラウマとなってしまい後々まで自分を苦しめる。それ以上に大きなトラウマとしてずっと苦しめるのは、実は自分自身が体験することではなくて、自分が大切にする人や大好きな人が悲惨な目に遭った体験なのである。つまり、愛する母親が父親である夫から暴言や暴力を受けている体験がトラウマになりやすいということだ。自分自身が虐めや暴力を受けるよりも、同級生が目の前で虐めや不適切指導を受けた記憶のほうがトラウマになりやすいのである。

 家庭内において、母親や兄弟姉妹が父親から虐めや暴力を受けていて、助けてあげられなかったという体験のほうがより大きなトラウマになりやすいと言える。そして、男性が怖い存在として脳に刻み込まれているのである。さらに、母親が夫からまるごとありのままに愛されていなかった故に、我が子に豊かな母性愛を注げることが出来なかったことで、自己肯定感が育たなかったことが大きな影響を与える。つまり、自分を守ってくれる安全基地がないまま大人になると、男性恐怖症になるのである。強すぎる不安や恐怖感を持ち続けることになる。男性恐怖症の本当の原因は、愛着障害にあると言ってもよい。

目的と目標の使い方間違っていませんか

 目的と目標の使い方を間違っている人が少なくない。そもそも目的と目標はどういうものかということを、正確に認識していないのだから仕方ない。一番多いのは、目的と目標の意味を逆に覚えているケースである。目標というのは目的を達成する際のひとつの段階というのか、ランドマークである。目標とは具体化数値化するものであるが、目的は具体的なものではなくて、抽象的な概念である。目的を達成するためにある目標を定め、それが達成出来たら、さらに高い目標を再設定する。そして、目的に近づいていくのである。

 よく間違っているのが、最初から到達できないような高い目標を設定してしまうことだ。例えば、業界第一位になるというような目標である。または世界一になるというような目標である。絶対に実現できないような高い目標を立てるというのは、社員が一丸となって努力しやすいのではと思われる。しかし、それは勘違いである。それぞれの社員は勿論のこと幹部社員たちも、本心では達成を諦めているからである。そうなると、無意識下でどうせ努力しても無駄なんだと思っていて、努力するのを止めてしまうのである。

 目標を立てる時に大切なのは、ちょっと努力すれば達成できる目標にするということだ。そして、短期目標と中期目標、そして長期目標というような3段階の目標を定めることも肝要だ。その際に、短期目標が達成できたら、少し高い目標を再設定するというように、常に短期目標の見直しをするのも必要である。さらに大事なことがある。目標は、それぞれの個人、または部門に決めさせることだ。上司や部門長が目標を与えてはいけない。自分で設定せずに与えられた目標を達成しようと思わないのが人間の常なのだ。

 これは家庭や学校でも、よく犯してしまう過ちでもある。親や先生が子どもに対して、本人に確認もせずに、目標を与えてしまうというとんでもない誤りをするケースは、想像以上に多い。自分でよく考えて目標を自主的に決めたのであれば、その目標を何とか達成しようと努力する。しかし、他から与えられた目標には真剣に向き合えないのが人間である。それは、人間の自己組織性を無視したやり方であり、本人の主体性を阻害してしまうのだから、失敗してしまうのは当然である。目標設定は本人にやってもらうのが正しい。

 目標を設定するには、まずは正しい目的を持つことが必要不可欠である。そして、この正しい目的を設定するには、高い思想哲学が必要であり、崇高な価値観が根底に存在しなければならない。劣悪で低レベルの価値観に縛られている人間には、正しい目的は持てないのである。例えば、自分の損得や利害を大切にして、自己中心の考え方をしているような価値観を持つ人間には、正しい目的が持てない。関係性を重視して全体最適を目指して生きている、システム科学の哲学を理解している人間しか、目的は設定できないのである。

 現代社会において、正しい目的(経営理念)を施ってして社内一丸となって実践している企業は極めて少なくなってしまった。だから、経営危機に陥っている会社が増えたのである。正しい目的に沿って生活を営んでいる家庭も少なくなった。それ故に、親子関係や夫婦関係が破綻してしまい、家庭崩壊が起きているのである。不登校やひきこもり、虐待、DVなどの問題が顕在化しているのは、正しい目的を父親が持っていないからである。こうして、地域社会も含めて現代のあらゆるコミュニティは崩壊しつつあるのである。

 正しい目的を設定しなくても、生活はできるし経済活動も卒なく行えるから、目的なんて不要だと嘯く人々もいる。確かに、その通りで目的がなくても生きていける。しかし、よく考えてみると、それがどんなに無謀なことかということが解る。目的のない人生は、コンパスや地図のない航海のようなもので、遭難の危険が極めて高い。登山地図のない登山、ナビ無しで知らない土地を運転するようなものである。現代社会における諸問題は正しい目的を設定しないからだと言っても過言でない。崇高で正しい価値観に基づく、全体最適や全体幸福という正しい目的を設定したいものである。

新型コロナは風邪と同じだと言うが

 新型コロナ感染症はその勢いがなかなか止まらない。オミクロン株は感染力が強いものの重症化することは少ないと言われていた。ところがここに来て重症者が増加の一途を辿り、死亡者も急増しているのである。そんな状況にあるにも関わらず、SNSの世界では新型コロナ感染症なんて風邪のようなものであり、インフルエンザよりも怖くないという誤った情報が発信され続けている。誤った情報を発信している人々は、会合の場でマスクもしないし、ワクチン接種を拒んでいる。実に困った人々である。

 新型コロナなんて怖くないという情報を発信している人々の中には、現役の医師もいるので信じてしまう人も少なくない。しかし、こういう間違った情報を発信しているドクターは、臨床をしていない医師であるし、新型コロナ感染症の治療をしていない医師なのである。つまり、新型コロナ感染症を受け入れている医療機関で働いているドクターではないという事実である。また間違った情報を発信している看護師もいるが、新型コロナ感染症の治療をしている病院で働いているナースではないということに注目すべきだ。

 新型コロナ感染症の入院治療をしている病院で働いている医療従事者の方々は、新型コロナ感染症が風邪と同じだなんていうことは、絶対に言わない。ましてや、重症者を治療していて現場において、治ることなく最期を看取っている悲惨な日常を過ごしている医療従事者は、風邪と同じだと嘯いている人々をけっして許せない筈である。風邪によって亡くなる患者さんは皆無に等しい。インフルエンザによる国内の致死率は0.02~0.03%である。一方、新型コロナ感染症による国内の致死率は1.4%に昇る。約70倍の致死率だ。

 客観的な科学的データをまともに考察すれば、新型コロナ感染症の恐ろしさは一目瞭然である。とんでもない間違った情報を信じる人々というのは、物事を客観的に見ることが出来ない。こういう人達は、元々恣意的なバイアスをかけて物事を判断する傾向がある。新型コロナ感染症で亡くなる人は実際に居なくて、基礎疾患の悪化で死亡したのであり、直接死因ではないと主張している人がいる。そういうケースもあるが、インフルエンザで亡くなる人だって、合併症で亡くなる例も多い。まったく同じことが言えるのである。

 ワクチンをしないのも自由だし、マスクをかけるのを拒否するのも法的には問題ない。誰にも会わないし、買い物や仕事にも行かず、他人に感染させる恐れが100%ないというのなら、それでもまったく問題ない。しかし、この社会で生きて行くうえで、誰とも会わないなんて出来ないのだから、自分が感染して他人に移す可能性がゼロではない。感染しても軽症とか無症状ということもあり、風邪と同じだから心配ないと感染予防策も取らず、知らず知らずのうちに高齢者に感染させる可能性もあるのだ。

 新型コロナ感染症の情報をSNSなどで流すことは、自分の使命であり世の中の不正を明らかにすることで、自分は正義の使者なんだと信じて疑わない人がいる。自分が騙されていることを知らないし、言わば洗脳されてしまっているのである。洗脳されてしまっている人たちというのは、極端な認知的バイアスがかかっているから、正しい情報を正しく読み取れないでいる。間違った情報でさえ正しいと判断してしまうのである。逆に正しい情報を排除してしまう。ワクチンを接種すると死亡してしまうと信じている。

 ワクチン接種後の死亡例は、約1300人と報告されているが、それはワクチンが直接原因ではなくて自分の病気によるものである。例え死亡原因がワクチンであったとしても、新型コロナの死亡者数に比べると約その0.6%でしかない。ワクチン接種をしたほうが、致死率の低下をもたらすのは間違いない。新型コロナ感染症は、風邪とはまったく違うしインフルエンザより数十倍も致死率が高くて危険なのである。ましてや感染後の後遺症で、4人に1人が苦しんでいる。新型コロナ感染症が風邪と同じだという情報は、完全に間違っている。こういう間違った情報を流すのは、殺人ほう助罪と同じだと心得てほしい。

子どもは哲学が大好き

 子どもなんて哲学とか思想の話に興味を持つ筈はないだろうと、殆どの大人が思っているに違いない。実際に試したこともないだろうから解らないのも当然だが、子どもに思想・哲学の話をすれば、目を輝かしてその話に聞き入る筈だ。そんな馬鹿なと思うであろうが、子どもは思想や哲学の話が大好きなのだ。思想・哲学の話に興味を持つ子どもなんてごく少数であって、殆どの子どもは哲学を嫌う筈だと大人は思うに違いない。確かに、今の大人たちは哲学や思想が嫌いだ。しかし、子どもは哲学の話を欲しているのだ。

 今から30年以上も前に、こんなことがあったのを覚えている。一家5人が車で一緒に出掛けた時のことである。その時にどんな話をしたのかは忘れてしまったが、こんな話だったろうと思う。人間は本来こういう生き方を志すべきであり、それこそ人間がこの世に生まれてきた意味である、というようなことを言ったと思う。子どもに対して、そんな難しいことを言っても興味を示さないだろうと、冷ややかな目をしていて呆れていたのは愚妻である。その時助手席に乗った小学生高学年の愚息が、驚くような反応をしたのだ。

 彼の様子を運転席から眺めたら、なんと涙をボロボロとこぼしていたのである。あまりにも泣いていたので、心配してどうしたのかと尋ねたら、今の話に感動したからだと答えたのである。10歳そこそこの子どもが、父親の話に感動して涙を流すほど感動するなんてありえないと、その時は思ったものである。しかし、20年くらい過ぎた時に、そういうこともあり得ると確信したのである。何故なら、他の子どもたちに哲学的な話をした時にも、真剣になって聴く姿を見たからである。子どもというのは、哲学が好きなんだと気付いた。

 日本人の大人たちは、哲学の話を聞くのも話すのも避けたがるというか、嫌っている。そして、子どもたちに哲学を語れる親がいない。親が哲学とか思想を嫌っているのだから、学ぶ機会もなかったと思われる。おそらくは、哲学・思想を自分自身の親から聞かされてなかったのではなかろうか。ましてや、学校教育においては、哲学・思想を文科省が敢えて排除してきたのだから、親がその大切さを知らないのは当然である。思想・哲学なんて生きる上で必要としないと思うのだから、子どもに大人が語らないのも仕方ない。

 子どもは何故哲学が好きなのかというと、それは子どもの魂というか深層無意識のレベルで思想・哲学を欲しているからである。人間そのものというのか人体というネットワークシステムが正常に働いて本来の機能を発揮する為には、哲学が必要不可欠なのである。車の運転に、操作システムと制御システムが必要なように、人間が健全に生きる為には人体ネットワークシステムを制御する『哲学』がなくてはならない。その哲学は何でも良い訳ではなく、正しくて崇高なる価値観によって裏付けされた哲学が求められるのである。

 詳細は省くが、明治維新政府は欧米から近代教育を取り入れ、学校教育から思想哲学を敢えて排除した。さらにGHQの指導もあって、戦後の学校教育から思想教育を徹底排除した。こうして日本においては、思想哲学が廃れてしまったのである。それでも、純真無垢であって、変な固定観念に縛られていない子どもは、哲学が好きだし求めているのである。しかし、残念ながら哲学を語れる大人がいないので、子どもは哲学を学ぶことなく大人になってしまうのである。現代の日本人が、本来生きるべき道を忘れ迷い、生きづらさを抱えているのも、哲学がないからだ。メンタルを病んで不登校やひきこもりになる所以もここにある。

 哲学というと、あくまでも観念論であって非科学的な学問だと認識する人が多い。非科学的であり、我々が経済生活を営む上で不要なものだと考える人が少なくない。しかし、哲学は非科学的ではない。最新の正しく崇高な価値観に基づいた哲学は、科学的にも正しいのである。特に、複雑性科学に基づくシステム思考の哲学は、科学的にも正しいことが世界一般に認められつつある。哲学は科学と統合されつつあり、科学哲学と呼ばれているのである。雑念に惑わされていない子どものうちに、科学哲学を学ばせたいものである。そもそも子どもは哲学が大好きなのだから。

嫌な人や苦手な人と出会ってしまう訳

 学校でもそして職場においても、何故か嫌いな人や苦手な人に出会うものである。不思議なことであるが、出会いたくないと思っているのに、どうしても関わってしまうのである。それも、学校では同じクラスや部活で一緒になるし、担任になってしまうケースも少なくない。職場においては、よりによって直属の上司になる例が多いのである。どうして、そんなに嫌いな人苦手な人と関わってしまうのであろうか。それは、無意識の意識というのか潜在意識が引き寄せているとしか思えないのである。

 潜在意識の話は後から述べるとして、まずは嫌な人だと感じるのはどうしてかということを、心理学的に考察してみよう。人間の心には、自我と自己がというものが存在する。自我というのは簡単に言うとエゴであり、欲望とか煩悩により支配されている心の部分である。一方、自己というのはエコとも言える、自我を乗り越えた崇高な価値観に基づいた美しい心の部分である。自我を乗り越えること、または自我と自己を統合することが、人間として生きる上での課題とも言える。自我を乗り越えてこそ、一人前の人間と言えよう。

 さて、自我をあまりにもさらけ出して生きると、人から嫌われたり遠ざけられたりして独りぼっちになってしまう。それ故に、殆どの人間は自我を隠して生きるのである。または、自分の心には自我がないことにして、立派な人間を演じて生きるのである。当然、隠している自我は時折言動の中に顔を出すことがある。多くの人間は、自分でも完全なる自己を確立している訳ではないので、関わる人々の心の中に自分と同じ恥ずかしくて嫌な自我を発見すると、自我をさらけ出している相手を嫌い苦手だと感じるのである。

 例えば、自分さえ良ければいいんだという自己中の人であり、我が儘し放題の言動を繰り返し、欲望をむき出しにしている人に出会ったとする。または、良い人を演じていながら、自分の思い通りに相手を支配してコントロールしたがる相手に出会ったとする。皆が見ている処では善人を演じているのに、誰も見ていない処では思いっきり悪人ぶりを発揮している人に出会ったとしよう。そうすると、殆どの人は嫌だな苦手だなと感じて、関わりたくないと感じる筈だ。同じような自我を自分は抱えているにも関わらず、隠して生きているから逃げたくなるのである。

 自我を超越出来ていない、または自我と自己を統合出来ていない故に、自我をさらけ出してしまう相手を許せないし受け容れられないのである。人間として不十分な成長段階に止まっている故に、自分の恥ずかしい自我を含めて、自分をまるごと愛せないのである。完全なる自己を確立して、絶対的な自己肯定感を持っていれば、相手の中に汚い自我を発見しても、嫌わずに慈悲の心で応じることが出来るのだ。嫌いな人や苦手な人に出会うというのは、自分自身が自我と自己を統合出来ていないから、そう感じるのである。

 そして、脳の奥底に存在する深層無意識が、自我をさらけ出すような人間に出会わせているのだ。つまり、自分自身が自己の確立を出来ていないから、自我を超越させる為に恥ずかしくて嫌な自我を見せてしまう人間と出会わせるように、自分の潜在意識が仕組んでいるのである。自分の心の中に恥ずかしい自我を仕舞い込んで、ないことにして演じている自分に、まだまだあなたの中には恥ずかしい自己があるじゃないかと悟らせる為に、潜在意識が嫌な人苦手な人と出会わせてくれているのである。

 出会った相手の中に、自分で隠している嫌な自我を発見しても、その自我を受け容れて心から許すことが出来たら、自己の確立や自我と自己の統合が出来るのである。そうすれば、自分の恥ずかしくて嫌な自我を愛せるし、生きづらさも解消できるのである。人間とは、相手の嫌な自我(=自分の嫌な自我)を受け容れるため許すために生まれてきたのである。言い換えると、寛容と受容の心を確立することこそが、人間の生きる目的でもあるのだ。自己の確立が実現できれば、嫌な人や苦手な人とは出会わなくなるし、例え出会ったとしても何とも思わなくなり平気で付き合えるのである。

コロナで見直す人間本来の生き方

 新型コロナウイルスは、次から次へと変異株が生まれていて、感染症の終息は迎えられそうにない。そこで、世界各国では新型コロナウイルス感染症の完全な封じ込めは難しいと判断して、ウィズコロナの社会を作り上げて、ウイルスと共存する道を模索始めている。どのようにすれば、重症化を防ぐことが出来るのか、死亡率を下げられるのか、医療体制を崩壊させずに出来るのか、様々な検討をしている。新型コロナウイルスの特徴やワクチンの効果もある程度解ってきたので、ウイルスと共存できる時期は近いかもしれない。

 そこで、深く考えるべきは、我々自身のライフスタイルをどのようにすれば、新型コロナウイルスと共存できるかである。新型コロナウイルスの性質や特徴が判明してくれば来るほど、何故か不思議な程、人間が本来目指すべき生き方に添ったように生活すると、ウイルスとの共生が可能になるような気がするのである。それはより人間らしい生き方でもある。人間らしい生き方というのは、心身共に健康で自然と共生する生き方と言えよう。物質的な豊かさや便利さを追い求める暮らしではなくて、心の豊かさを重視するライフスタイルだ。

 人間がすべてのウイルスと闘って何とか凌いできた歴史があるが、それには医学の発展と医療の進化も寄与してきた側面もある。しかし、最終的には人間自身の自己免疫力を高めて、自己治癒力を向上させることが何よりも大事であると気付かされている。新型コロナウイルス感染症でも、感染しても基礎疾患もなく免疫力が高ければ、決して重症化しないし軽く済むだろう。だから、普段からの食生活、運動、休養、養生が大切なのである。さらには、化学過敏物質を生活全般で避ける気遣いも必要であろうし、電磁波にも注意が求められる。

 最近、国立宇都宮病院の研究チームがワクチン後の抗体価変動を調査したところ、喫煙者の抗体価が著しく減少していることが判明した。日常的に飲酒をする人と喫煙者は新型コロナ感染症が発症しやすいと言われてきたが、ワクチンの効果も減少することが解ったのである。たまに少量の飲酒ならば免疫力を上げるが、日常的に飲酒することは免疫力を下げてしまう。夜間に飲酒する狭いお店の会合で、感染が広がると言われている。新型コロナウイルスと共生するならば、お酒の飲み方もウィズコロナに合わせて変えなければならない。

 新型コロナ感染症によって『飲みにケーション』が不要だと認識する人が増えて、飲酒機会が減ったと言われている。新型コロナ感染症により飲酒機会が減ってしまい、飲食業は壊滅的な被害を受けたと言われている。観光業も同様である。新型コロナウイルスが弱毒化して、単なる『風邪』と同じ扱いになれば、飲食業や観光業も復活できると思われる。だとしても、何軒もはしごして深夜帯にまで浴びるように飲酒するような習慣は、ウィズコロナには相応しくないように思う。もっと上品な飲み方をしないとウィズコロナにならないだろう。

 新型コロナウイルスと共存していくのなら、現代の暮らし方や生き方に対する考え方を抜本的に見直すべきだと思う。あまりにも便利で贅沢過ぎる生活をどうにかしなくてはならない。まずは食生活である。コンビニやスーパーに行けば、インスタント食品やお惣菜が豊富に並ぶ。超多忙な生活にはとても便利である。しかし、使われている素材や調味料をよく観察してみると、あまりにも危険なものが使用されている。酸化物質が多いし、リスクの高い重金属類も含まれている。これでは免疫システムを破綻させてしまい、新型コロナウイルスに身体は対抗できない。外食偏向も同様である。SDGs上もよろしくない。

 都市集中化した住み方をして、あまりにも便利で贅沢な暮らしというのは、食生活だけでない。仕事の仕方も同じで、満員電車に揺られ通勤して、狭い空間で大勢の社員がPCに向かって仕事をする。狭くて換気もしない室内では、ストレスフルで人間関係も破綻しやすい。余暇の過ごし方も同様である。インドアで換気の良くない狭い空間でスポーツすれば、感染症が起きるのは予想できる。やはり屋外や自然豊かな広大なフィールドでのスポーツこそが、ウィズコロナの時代に相応しいし、ストレス解消にもなる。都市一極集中化が新型コロナ感染症を蔓延させる環境と免疫力を下げてしまう暮らしを作ったと言っても過言ではない。今こそ人間らしい生き方にシフト変更すべきだ。

双極性障害とPTSDを乗り越える

 リトルグリーモンスターの芹那さんが、双極性障害とPTSDにより長期休暇をすると報道されたこともあり、双極性障害とPTSDという精神疾患に注目が集まっている。どんな疾病かと言うのは、ネットを調べれば解ると思うが、治療が非常に難しい難治性の疾患であるのは間違いない。投薬治療やカウンセリング・各種セラピーにより、症状は幾分か和らぐケースもあるが、完治するのは難しい。原因はストレスによるものではないかというのは解っているが、はっきりした発症メカニズムは解明されていない。

 リトグリの芹那さんは、ご自分でADHDであるともカミングアウトされているが、ASD(自閉症スペクトラム障害)と双極性障害が併発することも少なくない。ASDが根底にあると、双極性障害を発症しやすいということかもしれない。また、ASDと双極性障害があると、PTSDになりやすいと言うこともあり得るだろう。芸能界、特に人気があることを常に要求され、多大なプレッシャーに押しつぶされそうになる場所に長くいると、メンタルがやられてしまうのも当然かもしれない。

 双極性障害が何故起きてしまうのかということだが、過度のストレスやプレッシャーによる影響であろうとは思うが、同じような過度のストレスやプレッシャーにさらされても発症しない人もいる。つまり、個人差があるということになる。それでは、どういう人が発症するのかということが解ると、予防することも可能になるし、症状を和らげる方法だって解るかもしれない。ASD、双極性障害、PTSDがあるようなクライアントを今まで多数サポートした経験から判断すると、愛着障害が根底にあるような気がしてならない。

 愛着障害と言っても、重症の人もいれば軽度の人もいる。虐待やネグレクトをされた子どもだけでなく、一見するとごく普通に育てられたように見える家庭の子どもだって愛着障害になることもある。今まで多くの不登校やひきこもりの方々を支援させてもらって見えてきたのは、日本人の大多数の人が愛着障害であるという事実である。その愛着障害ゆえに強烈な生きづらさを抱え、メンタルを病んでいる人が多いのである。そして、愛着障害が根底にあって、二次的症状としてASDが現われ、メンタル疾患を発症しているのだ。

 日本人の半数以上が愛着障害であると言っても過言ではない。おそらく日本人の中で、生きづらさを感じている人は、半数以上を数えることであろう。そして、その生きづらさは愛着障害によるものだと言っても間違いない。気分障害のメンタル疾患を発症した方々をいくら治療しても治りにくいのは、根底に愛着障害があるからだと言える。愛着障害が癒されない限り、どんな治療を施しても完治することはないと断言できる。そして、双極性障害とPTSDも愛着障害を癒してあげなければ、完治することはないであろう。

 ということは、難治性の疾患である双極性障害やPTSDだって、愛着障害を癒してあげれば、その辛い症状が和らぐし社会復帰だって可能になるということである。とは言いながら、愛着障害だって癒すのは容易でない。なにしろ、愛着障害が起きてしまうのは、親からの三歳頃までの養育の偏りによるものだ。絶対的な自尊感情は、幼少期に育まれる。一度確立されてしまった自己否定感は、容易には払拭できず、不安感や恐怖感はぬぐい切れないのである。ましてや、愛着障害によって大変な経験を積み重ねて、ポリヴェーガル理論における迷走神経の遮断が起きているから、愛着障害を癒すのは難しい。

 親が劇的に変われば、愛着障害が癒されることもある。しかし、親が変わるのはあり得ないから期待できない。親に代わって、いかなる時でもありのままにまるごと愛してくれて守ってくれる存在があれば、愛着障害は癒される。しかし、パートナーにその役割を果たしてもらうことは期待できそうもない。とすれば、臨時の安全基地としての機能を果たしてくれる支援者がいれば、愛着障害が癒されるかもしれない。そして、精神面のケアーだけでなく、身体的なケアーであるボディーワークもしてくれるセラピストであれば、さらに癒される確率は高くなるに違いない。迷走神経の遮断も止められる。そうすれば、双極性障害やPTSDも寛解すると思われる。

こんな誉め方や叱り方をしてはいけない

 子どもは誉めて育てると言われているが、ただ誉めればいいと言うものではない。また叱り方が正しくないと、子どもは健全に育たないばかりか、とんでもない障害を起こしてしまうこともある。正しい誉め方と叱り方があるし、絶対にしてはならない誉め方と叱り方があるのだ。間違った誉め方を続けてしまうと、パーソナリティ障害を起こしたりアスペルガー症候群の症状を呈したりすることもある。また、叱り方を間違うと子どもの自己組織化が阻害されてしまうこともある。職場において、部下を誉めたり叱ったりする時も同様である。

 先ずは誉め方について考えてみたい。誉める時には、何を誉めるのかということが大切である。とかく、親は子どもが何かをして、出した結果を誉めることが多い。テストの点数が高いとか成績表が良かったりした時に誉めることが多いことだろう。ビジネスの場面においても、良い結果を出した時に誉める上司が多いに違いない。確かに、良い成果を出した時に誉めるというのは良くあることだ。しかし、部下は結果主義や成果主義になってしまい、努力をするプロセスを大切にしなくなる。誉める相手が子どもでも同じ弊害が起きてしまう。

 子どもが頑張った経過を誉めるのは、良いことだ。しかし、出した良い成果だけを誉めることをし続けると、良い結果だけを見せて悪い結果なら隠すということをしかねない。頑張っている姿を見かけたら、それをタイムリーに誉めることをしたいものだ。また、結果を誉める時に、絶対にしてはならないことがある。本人の前で、兄弟姉妹のことを誉めてはならないということだ。自己肯定感が育っていず、劣等感を持っている子どもの前で兄弟姉妹のことだけを誉めてしまうと、益々自信を喪失しまうし、やる気を失わせてしまう。

 努力したというプロセスを誉めるのも大切だが、考え方やチャレンジする姿勢、諦めない精神を誉めてあげたい。そして何よりも大事なのは、子どもが自分のことよりも周りの人々の為に頑張ろうとした行動を誉めることだ。つまり、個別最適よりも全体最適を優先した時こそ誉めてあげたい。さらには、誰かに言われて行動するのでなく、自らが主体的に自発的に行動しようとした時にも誉めたい。主体性や自発性が働いた時にこそ誉めることで、自己組織化が進化するであろう。このように誉めれば、子どもは健全に育つに違いない。

 子どもを誉める為には、子どもの言動に注目しなければならないし、深く観察することが必要である。しかも、子どもの本当の気持ちを推し測らなければならない。部下を誉める時にも同じことが言える。部下がどんなふうに誉めたら嬉しいのかを、自分のことのように推察することが必要である。そして、子どもは親のことが大好きだから、親が喜ぶことをしたいのだ。だから、子どもの言動や考え方を誉めてあげて、そのことで親がとても嬉しいということを伝えることが大事である。そうすれば、子どもは伸びるし自立するに違いない。

 さて、叱る時はどうしたらいいだろうか。子どももそうだが、部下を叱る時は皆の前では避けたほうが良い。身の危険がある時や緊急性のある場合は仕方ないが、本人のプライドを傷つけるようなことは避けたい。一対一で対面にて叱りたいものだ。メールやLINEトークなど、または電話で叱るのは絶対に避けたい。LINEのグループトークで叱るなんて最悪だ。さらに、悪い結果や成果を叱るのは避けたい。努力をしないプロセスを叱るべきだ。間違っている考え方や哲学を叱るのも大事だ。私利私欲の行動や人を傷つける言動には、しっかりと叱責したい。

 叱るのは勇気のいることだ。叱るには多大なエネルギーが必要である。勿論、相手をよく観察しなければならないし、叱るということは自分が同じことはしていないし、これからもしないということを宣言しているようなものだ。特に、思想や哲学の元になる価値観が間違っているということを叱るには、自分が正しい価値観を持って揺るぎない目的を目指して人生を歩んでいるという自負が必要である。そうでなければ、相手の間違った価値観を叱ることは出来ない。叱ることも誉めることも、相手の成長を願っての行動であることが前提だ。感情的に叱ったり誉めたり、または自己満足や自分が利する為にしてはならないのだ。

我が子をありのままに愛したいのに

 子どもが3歳になる頃までに、ありのままにまるごと愛し続けてあげれば、大人になっても健全で幸福な人生を歩める。つまり無条件の愛である母性愛を注ぎ続けることで、自尊心が芽生えて、自分をまるごと好きになれるし、どんな苦難困難も乗り越えられる。ところが、母性愛を十分に注ぎ続ける前に、父性愛(条件付きの愛)で接してしまうと、自己肯定感が確立されない。または、母性愛と父性愛を同時に注いでしまうと、愛着障害になることもある。お母さんは、我が子をまるごとありのままに愛したいと思うのである。

 ところが、我が子をまるごとありのままに愛することが出来るお母さんは、極めて少ないのである。どうしてかというと、子どもというのは基本的に我が儘だし、母親の言うことを素直に聞くことが少ない。素直で従順な良い子なら愛せるけど、反抗的な態度を取るような子どもはどうしても愛せないのだ。良い子に育てたいから、強く叱ってしまうし、しつけを優先してしまうのである。ましてや、父親が父性愛を発揮してくれなくて、母親だけが育児をしなければならない状況なら、なおさら子どもに厳しく当たってしまうのだ。

 お母さんが我が子をまるごと愛せない理由は他にもある。お母さん自身が自分の母親からまるごとありのままに愛されていなのだ。つまり、お母さんに絶対的な自己肯定感が確立されていないケースである。お母さん自身が自分のことをまるごと愛せないと、自分の嫌な部分や恥ずかしい自分を好きになれない。誰でも自分の中には、好きな部分と嫌いな部分が同居している。好きな部分は愛せるし、嫌いな部分は自分にはないことにしたいのである。我が子の中に自分と同じ嫌な自己を発見すると、我が子をまるごと愛せなくなるのだ。

 我が子の中に、自分でも許せないマイナスの自己を見つけてしまうと、我が子をまるごと愛せない。マイナスの自己も含めて自分をまるごと好きになることが出来ないと、我が子をまるごと好きになることが出来ない。だから、ついつい条件付きの愛である父性愛的な対応をしてしまうのである。または、我が子を完璧な良い子に育てようと、必要以上の介入と干渉をしてしまい、まるで毒親のような仕打ちをしてしまうのである。支配と制御を強く繰り返し、まるで母親の操り人形のように育ててしまうのだ。

 このように、母親との良好な愛着が形成されることなく、強い干渉や介入をされ続けてしまうと、子どもの自組織化が阻害されてしまい、システムエラーを起こしてしまうのである。これが愛着障害であり、二次的症状として『自閉症スペクトラム障害』(ASD)を起こしてしまう。ASDは発達障害と世間では呼ばれているが、アスペルガー症候群などもこれに含まれる。母親はありのままにまるごと我が子を愛したいのに、様々な要因が複雑に噛み合わさって愛せなくて、愛着障害やASDを発症させてしまうのだ。

 ASDは先天的な遺伝子の異常による障害だと医学界では言われている。確かに、遺伝子による影響もある。生まれつき、育てにくい子どもがいるのは確かである。育てにくいからこそ、あるがままにまるごと愛せないという側面もあろう。だとしても、愛着障害になってしまうのは、育てられ方に問題があるのは間違いない。だから、愛着障害による二次的症状としてASDが起きているなら、ASDの症状だって和らげることが出来る筈だ。今までの医学常識ではASDは治らないとされているが、愛着障害を癒すことで、ASDも改善するに違いない。

 子どもの愛着障害を癒すには、お母さんがまずは変わらなければならない。というよりも、お母さん自身の傷ついた愛着を癒す必要がある。それには、自分がまるごとありのままに愛される経験が必要だし、どんな時にも自分を守ってくれる安全基地が必要なのである。自分のパートナーがそういう存在になってくれることが確実なのであるが、なかなか難しいかもしれない。男性の約半数以上がASDの傾向があるからだ。お母さんをまるごとありのままに愛してくれる安全基地には、安定した愛着を持っている人しかなれないのである。自分の傷ついた愛着を乗り越えた経験を持つ人を安全基地に出来たら可能かもしれない。