若者の労働観と価値観

若者を対象にした勤労意識や労働観について、電通がアンケート調査を実施した結果を見て、とても驚いた。多くの若者が低レベルの価値観に基づいて、嫌々ながら仕事をしているというし、仕事をする目的が単なる収入を得るため、または趣味や遊びに使うお金を稼ぐためという、非常に情けない答えをしているからである。まさか、こんな酷い価値観に基づいて仕事をしている若者がかくも多数存在しているとは思ってもいなかったが、実際には若者だけでなく、中高年も同じような価値観で仕事をしているのかもしれない。実に情けないものである。だから、日本を代表する企業が、次から次と赤字経営に転落するのかもしれない。

アンケート結果は次の通りである。18~29歳の働く上での不満は「給料やボーナスが低い」(50.4%)、「有給休暇が取りづらい」(23.8%)、「仕事がマンネリ化している」 (17.6%)が上位に来ているという。働く目的は「安定した収入のため」(69.3%)、「趣味や遊びに使うお金を稼ぐため」(36.5%)、「将来(就労期間中)の生活資金のため」(30.5%)といった項目が上位に並んだらしい。働くことへの意識については、18~29歳の約4割が「働くのは当たり前だと思う」(39.1%)と答えた一方、「できれば働きたくない」(28.7%)も約3割に上った。仕事に対する価値観でも「仕事はお金のためと割り切りたい」(40.4%)と答えている。唖然としてしまい、声も出ない。

若い勤労者の約3割近くが、できれば働きたくないと答えている。じゃ、働かないでどうやって暮らしていくのか。ずっと親に寄生して生活するというのだろうか。ましてや、収入のためだけに仕事をするというのは、如何なものか。仕事はお金のためと割り切りたいと思う若者が4割以上いるというのは、情けなくて仕方ない。これでは、仕事が楽しくないばかりか、苦痛だろうと思われる。こんな低いクォリティの価値観だから、ちょっと嫌な上司・同僚と一緒になったり大変な仕事を押し付けられたりすると、メンタル疾病になって休職に追い込まれるのかもしれない。こんな低劣な価値観なら、仕事がまともに出来ないのは当たり前であろう。

ましてや、アンケートでも3割以上の若者が、価値観を共有できる人と一緒に仕事がしたいと答えている。一旦会社に入社したら、上司や同僚を自分で選べないのは当然だろうに。人間として大きな成長をする為には、価値観の違う人たちと仕事を一緒にするのが一番確かだと思うが、それを拒否したいというのだから、驚きである。仕事というのは、一人前の人間として自己成長をするために避けて通れないものであり、ましてや辛い仕事や苦難困難を強いられる仕事をやり遂げるからこそ、働き甲斐や生きがいを見出せるのである。難しい上司や部下と出会うとか、難癖をつけるような顧客を担当して、自分が磨かれてその人間性が耀くのである。

若者だけでなく、今の日本人はどうしてこんなにも酷い勤労意識や労働観を持つようになったのであろうか。その根本的な原因は、すべて近代教育の欠陥にあると確信する。近代教育は、個人の権利を何よりも大事にすることを教える。個人の自由・平等を保障し、基本的人権を認める日本国憲法だから、それは認められて当然である。しかし、この個人の権利をあまりにも強く意識させる教育をすると、全体を見失うし、人間相互の関係性を損なう。つまり、人間は本来全体最適を目指すべきなのに、個人最適を第一義的に目指してしまい、全体がどうなろうと構わないという、間違った価値観を植えつけたのだ。こうなると、社会全体や企業に貢献しようとする人間を育てることが出来ないのだ。

人間は、本来は家庭、企業、地域社会、国、国際社会といったコミュニティに貢献するように生まれてくる。このようなコミュニティはそもそもひとつの有機体であり、自己組織性があると言われている。ということは、人間はこのコミュニティの中で全体性と関係性を発揮して、そのコミュニティの繁栄のために力を尽くすように生きているのである。ところが、このコミュニティに貢献するという気持ちが薄らいでしまうと、そのコミュニティは内部崩壊を起こすのである。夫婦関係や親子関係が破綻して家庭崩壊するのは、これが同じ原因であり、地域共同体が崩壊したのは、これが要因となっている。企業が倒産するのも、同じ原因である。このアンケート結果を真摯に捉えて、若者も含めた人々の勤労意識や労働観を正しく導くための価値観教育を、文科省は目指すべきであろう。

幸福とは何か

理論物理学者と仏教学者がNHKEテレで唯識の科学性について対談をしていた。理論物理学者は、理論としては頭では理解したとしても、科学的に実証されなければ、事実だとはとても思えないということを話していた。一方、仏教学者が言うには、唯識論は科学的に証明することは出来ないが、結論としては正しいことが確立されていると主張していた。何故ならば、唯識論によって多くの人々が救われて、幸せを実感しているからだと言っていた。つまり、人間として生まれ生活していて、苦を経験して苦から解放されずにいた人々が、唯識論を知って実践したお陰で、多くの人が救われているし、幸福な気持ちになっていると言うのだ。確かに、そういうことは言えるだろうと思った。

 

仏教と科学はなかなか相容れることが出来ないというのが一般論としてある。科学が目指すものは、その発展により人々を幸福にしたり、生活を豊かに便利にしたりすることだろうと思う。仏教もまた人々の心を幸福なものにしていくという尊い使命がある。どちらも、目指すところは基本的に一緒なのである。ところが、科学の進歩が人々の幸福に寄与しないケースも少なくない。例えば、北朝鮮の核開発やICBMの進化は、世界平和に対して逆効果を与えている。また、欧米の主要国における核軍備における科学的進歩は、世界の終焉を迎えさせようとしている。さらには、科学の進歩が環境破壊を引き起こしている例も多い。仏教は、人々を幸福に導こうとしているのに、科学は逆に幸福を脅かす働きをすることがあるのだ。

 

科学が人々の幸福に寄与しなければならないという命題は、科学者はけっして忘れてはならないことである。アインシュタインが、結果として原爆の開発に協力してしまったと、一生涯悔やんでいたというのは有名な話として伝わっている。彼は、科学者としての研究の後半は、形而上学に則った科学の発展を目指していたということが明らかになった。つまり、科学の発展は人々の幸福に寄与しなければならず、科学は戦争に協力したり、個人の利益だけに寄与したりしてはならないということを、強く主張していたと言われている。現代の科学者は、その大原則を忘れている場合が少なくない。科学は哲学を基本にすることをけっして忘れてはならないのである。科学者たる者、科学哲学の立場を常に忘れることなく、科学の研究をすべきであろう。

 

理論物理学者と仏教学者の対談は、さらに幸福とは何か?という部分にまで進展した。幸福とは何ぞやという問いかけに対して理論物理学者は、人それぞれ幸福という物差しが違うから、一概には言えないという立場だった。その人によって幸福の捉え方が違うのだから、幸福はこうだと断言することは出来かねるという主張だ。ところが、仏教学者は幸福の定義をいとも簡単に断言したのである。幸福というのは、人の為世の為に貢献しようと精一杯努力して、それが叶えられて、その努力が報われることだというのである。それを聞いて、理論物理学者は唖然としてしまい、反論さえ出来なかったのが印象的であった。

 

幸福というのは、自分が豊かさや快楽、または人から高い評価を受けるとか、地位や名誉を高められたり尊敬されたりした時に感じるものだと思っている人が殆どであろう。ところが、仏教学者は自分の幸福というのは自分だけでは感じないというのだ。あくまでも他人との関わりの中で、相手を幸福にしてあげた時に感じるのが幸福だというのである。多くの人々、または社会に貢献し、人々を豊かにして幸福な気持ちにすることこそが、自分の幸福だという。確かに、自分が何らかの利益を得た時の幸福感は、あまり長続きしない。一方、他人を幸福にしてあげられた時に感じるものは、じわじわとずっと長く滲み出るように思う。幸福というものは、確かにそういうものかもしれない。

 

弘法大師空海は、人の生きる目的は衆生救済と即身成仏だと言ったと伝えられる。多くの人々を救うというのは、幸福にすると言い換えてもいいだろう。即身成仏というのは、生きたまま成仏するという意味で、仏性を得るような自己成長を遂げるということであろうか。仏性を得るのは、やはり人々をお救いするために必要だからである。人間の価値は、どれだけの人を幸福に出来たかということで決まるようだ。最新の医学研究で、幸福感をよく感じる人は、あまり幸福感を感じない人よりも、7年から10年長生きするそうである。人の為、世の中の為に貢献し、幸福感を感じて健康で長生きしたいものである。

いい人は長生きできない

昔から、いい人は長生き出来ないと言われている。古来より、「憎まれもの世にはばかる」という諺もある。これは、長年の経験から導き出された結論であり、いい人は短命だし、人から憎まれるような悪い人は、逆に長生きする例が多かったのであろう。とすれば、人々から憎まれても恨まれても長生きするほうを選ぶのか、それともいい人だが短命を選ぶのか、究極の選択をしなければならないことになる。勿論、いい人で長生きできるのが望ましいが、それはどうやら今までの歴史からすると無理らしい。憎まれて恨まれた人生は、皆から嫌われるし、孤独の人生になるかもしれない。一方、いい人は皆から慕われるし、いつも回りには人が寄り添い、幸福な人生を送るに違いない。さて、どちらを選んだらいいのであろうか。

それにしても、どうしていい人は長生き出来ないのであろうか。いい人は人々から好かれて、幸福な人生を送るのであるから、ストレスもない筈である。一方、皆から嫌われるような悪い人は、人間関係も最悪でいがみ合って生きるからストレスフルな生き方をしそうである。病は気からと言われているし、病気の原因の9割はストレスだというのが定説になりつつある。しかるに、どうしていい人は短命で、嫌われ者は長生きするというのであろうか。不思議なことである。長生きだけが幸福の基準ではないとする考え方もあるから、短くても充実した人生がいいという考え方もあろう。太く短くても皆から慕われて幸福な人生がいいのだと、いい人を生きるという選択肢も悪くはない。

それでは、いい人というのはどういう基準であろうか。おそらく、いい人というのは他人に対して優しくて思いやりがあり、あまり自己主張することなく身勝手な行動は慎み、いつも他人の為に一所懸命に尽くす人というようなイメージがあると思われる。一方、憎まれ者というのは、いい人の対極にある人というイメージがあり、身勝手で自己中心的で、自我が強くて、損得や利害という行動基準を大切にする人と思われている。勿論、そういう人は人から憎まれたり恨まれたりするのであるが、中にはとんでもなく立身出世して、経済的にも成功している人が少なくない。経済的に裕福になると、人は意外と回りに対して寛大にもなれるのである。とすれば、憎まれ者として人生を送ったほうが、人生の成功者になれる確率が高いということになる。

ところが、そうは行かないのが人生である。仕事で成功して立身出世をして、経済的に裕福になった家庭を見ていると、本人はある程度幸福そうに見えるが、その家族は物質的には豊かな生活をしているものの、意外と心の豊かさを失っているようにも見えるのである。奥様が重いご病気になられて早逝されたり、子どもさんが親に対して反発したり挫折したりして、家族関係が最悪になるケースが多いのである。そうだとすると、いい人でも憎まれ者でも、幸福な人生を送れないというのなら、人間はどういう生き方をすればいいのであろうか。長生きで幸福な人生を送るコツというのはないのであろうか。長生きで幸福な人生を送る人なんていない訳ではない筈である。

そういう人はどういう人かというと、「本当にいい人」なのである。ただし、それは世にいう「いい人」ではなくて、ただ単にいい人を演じている人ではなくて根っからのいい人なのである。つまり、世の中で一般的にいい人と言われている人は、実は本当のいい人ではなく、ただ単にいい人を演じているだけの似非善人なのである。私達は、他人の目をどうしても意識してしまう。他人から見ていい人でありたいと、無意識で思い行動してしまうのが常である。つまり、無意識でいい人の仮面を被った人間として生きるのである。それを心理学では、自我人格と呼ぶ。つまりペルソナ(仮面)を被った自我人格を持った人間であり、心の奥底にはおどろおどろした嫌な自己を持っているのに、誰にも知られないようにその部分をないことにして、ひた隠しにしているだけなのである。

ペルソナ(化面)を被った自我(エゴ)は、自分の嫌な自己、身勝手で自己中心的で、だらしない自己を、自分では認めたくないから、そんな自己がないことにしている。そんな嫌な自己を無意識で隠して、仮面で隠し通していい人を演じるのである。無理して我慢していい人を演じているのだから、内面の心はとても苦しい。だから、時々そんな嫌な自己が顔を出してしまい、自分自身が情けなくなったり自分が嫌いになったりするのだ。その嫌な自己を自分から積極的に認め受け容れて、そして自己を糾弾しながらも慈しみ、それだからこそ清浄で崇高な自己(セルフ)に自分を育てようと精進するのであれば、根っからのいい人になれるのである。それを自己人格と心理学では呼んでいる。そういう本当のいい人であれば長生きできるし、皆から好かれ尊敬を集め、健康で幸福な人生を歩むことが出来るのである。

テロメアと不老長寿

最近の医学研究により、不老長寿の秘訣が判明したというニュースが流れている。各局の健康番組やNHKのクローズアップ現代でも取り上げられている。その話題の主は、テロメアという遺伝子(染色体)末端の紐のことであり、テロメアが細胞分裂の仕組みを決定付けていることが解ってきたのだ。人間の細胞が分裂を繰り返す際に、テロメアという紐の部分が重要な働きをするみたいで、テロメアが短くなると細胞分裂が出来なくなり、細胞が老化したり劣化したりしてしまうという。人間の細胞は、約50回分裂を繰り返すのであるが、テロメアが短くなってしまうと50回到達以前に細胞分裂が阻害されて、劣化・老化をしてしまうと言われている。人間の老化や疾病の発症に大きく関わっているのではないかと見られている。

 

そして、テロメアが正常な働きをするには、テロメラーゼという酵素が重要だということも判明してきた。テロメラーゼが不足しているとテロメアが短くなるのが早くなり、十分な量が確保されていると、テロメアが短くならないばかりか、逆に伸びるケースもあるらしい。となると、テロメアとテロメラーゼによって、不老長寿が可能になるという結論になる。重要なのはテロメアが短くなるスピードには個人差があり、テロメラーゼの量も人によって変化し、テロメアが伸びる人もいるということである。ということは、老化する個人差が出てくるのは、テロメアとテロメラーゼに影響されていてのだから、不老長寿の実現も夢ではないことになるのである。

 

それでは、その個人差は何によって出来るのかということだが、ストレスによる影響が一番大きいという。勿論、ストレスだけではない。過度の飲酒、喫煙、食生活の乱れ(添加物の多い食べ物、肉食、ファストフード、ジャンクフード等)、不眠、運動不足なども、テロメアを短くする。逆に、適度の運動、野菜中心の食事、規則正しい生活(早寝早起き)はテロメアを短くするのを遅らせるし、伸長させることもあるという。特に影響があるのが、やはりストレスだという。ブラックバーン博士は、その研究によってノーベル医学生理学賞を受賞したのである。ストレスフルな生活をしている人は、テロメラーゼの量が少なくなり、テロメアが短くなる。ストレス解消が上手な人は、テロメアが長くなり老化が遅くなるのである。

 

テロメアは身体の老化だけに影響するのではない。脳の老化と劣化にも多大な影響を与えるという。脳細胞の分裂もテロメアによって支配されている。脳細胞の老化・劣化・死滅にも深く関わっている。認知症やアルツハイマーになるひとつの要因も、テロメアではないかと見られている。ガンを初めとした疾病が発症するそもそもの要因も、テロメアの影響が大きいことが解りつつある。同じ年齢でも、膚がつやつやとして張りがあり、若々しくて元気な人もいれば、ひからびたようにどす黒く艶のない肌でエネルギーを感じない人もいる。これも、テロメアが関係していると思って間違いないであろう。恐るべし、テロメアである。

 

テロメラーゼを増やしテロメアを伸ばす生活習慣については、先ほど記述した通りであるが、ストレスを解消する生き方とはどういうものであろうか。それは、ポジティブな考え方らしい。ネガティブな考え方をする傾向にある人は、実験によってテロメアが短いことが解っている。つまり、自分に起きたこと、これから起きるであろうことに対して、常にポジティブに考えられる人は、テロメラーゼの分泌が多くてテロメアが短くならないのである。それでは、ポジティブな考え方をするにはどうしたらいいかというと、マインドフルネスという方法の効果が大きいという。マインドフルネスとは、「今ここに心する」という考え方である。私たちは、いつも過去に起きたことを悔やみ、将来に起きることを不安に思う。しかし、過去は変えることが出来ないし、未来は誰にも解らない。今、この瞬間しか思い通りにならないのである。

 

マインドフルネスとは、瞑想法、呼吸法、ヨガ、太極拳、座禅、読経、写経、滝行などの手助けを借りて、今の自分の心を無にすることであり、悲しいこと・辛いこと・苦しいことの思念を一時的に手放すことである。無我・無心と呼ばれるような心境になることである。仏教でいうことの唯識論でもある。勿論、無心・無我の境地になることは一般人には難しい。今この瞬間に集中するだけでもよい。一時的に思考を停止することが出来たら、随分と気持ちは楽になる。一時的に思考を停止させると、よい解決法も思いつく。音楽に没頭するのも良いし、絵画を描いたり、俳句・短歌を詠んだりするのもよい。私は、登山とゴルフでマインドフルネスを実行している。うつ病やパニック障害などのメンタル障害にも効果がある。『イスキアの郷しらかわ』では、マインドフルネスのアドバイスも行っているので、問い合わせてみてほしい。

パーソナリティ障害という生きずらさ

パーソナリティ障害が激増しているという。現在、類推するに150万人の人々が医療もしくは何らかの形で支援を受けているらしい。これは、あくまでも何らかのサポートを受けているという数字であり、本人も周りの人々も気付かずにいるパーソナリティ障害は、おそらく300万人から500万人を越えると思われる。私も、自己診断表を使用して自分自身を診断するとパーソナリティ障害になってしまうし、wifeも同じくパーソナリティ障害の範疇に入っている。ご存知のように、DSMⅣという判定基準における診断表が存在する。その診断表によって自己診断すれば、半数以上の人々がパーソナリティ障害に該当するだろう。以前、ある研修会でこの診断表によって参加者に自己診断させたところ、なんと30人中29人がパーソナリティ障害に該当していた。

このパーソナリティ障害に該当している人々の大半は、生きづらさを抱えている。つまり、現代社会に適応するのが難しくて、いろんな悩みや苦しみを抱えているということである。それは、本人のパーソナリティ障害によるものが殆どである。しかし、中には現代社会に問題がある故に、そのパーソナリティ障害が際だってしまい、結果として生きづらさを抱えているというケースも少なくない。例えば強迫性のパーソナリティ障害である。この強迫性のパーソナリティ障害というのは、いわゆるこだわりが強い人格を持つ人である。あまりにもいい加減で出鱈目な人とは馬が合わない。当然軋轢を起こす。あまりにもいい加減な人が多い組織や社会では生きづらさを抱えることになる。

とんでもない問題行動を起こすパーソナリティ障害もある。例えば反社会性や境界性のパーソナリティ障害である。犯罪を起こしたり自傷行為を繰り返し起こしたりするケースが多い。周りの人々が対応に手こずることになる。また、会社の中で目に余る問題行動を起こす人々がいる。攻撃性の強い自己愛性のパーソナリティ障害があると、部下をパワハラやセクハラで苛め抜く。上司には媚びへつらい、部下は奴隷のように扱うし、自分の地位や名誉を守る為には、とんでもないことをしでかす。依存性や回避性のパーソナリティ障害もまた、問題行動を起こしてしまう。不登校やひきこもりなどになりやすいし、結婚生活の破綻を引き起こしやすい。

何故もこんなにパーソナリティ障害が増えてしまったのかと言うと、専門家は脳の器質的な異常によるのではないかと主張する。しかし、それだけではないような気がする。やはり、何かのきっかけがあって子育てが上手く行かなかったケースが多いように感じる。生まれた子どもが病弱であったり、先天的な脳の異常があったりで、あまりにも母親が子どもへの過干渉をした例に多いのではなかろうか。または、保護者があまりにも厳し過ぎる教育をしたり、虐待を繰り返したり、逆に育児放棄をしたりしたケースでも、パーソナリティ障害が起きているみたいである。正常で豊かな母性愛と父性愛を受けた子どもには、このパーソナリティ障害はあまり見られないようだ。

また、このパーソナリティ障害は学校教育の欠陥によっても、発生したり強化されたりするように思う。現在の学校教育においては、思想哲学の教育が排除されている。明治以降の近代教育から思想や哲学の基本となる価値観の教育が消えてしまった。さらに、戦後の教育では思想哲学を教えることが、軍国主義につながると誤解されてしまい、一切排除されてまったのである。また、国家主義を助長するからというとんでもない理由で、日教組により倫理教育がないがしろにされた影響もある。このような学校教育の混乱が、正しい価値観を持たない若者を大量に生み出して、パーソナリティ障害の予備軍にしてしまったきらいがあろう。実に困った教育制度である。

さて、このように一旦パーソナリティ障害になってしまった人間は、通常の精神障害とは違い、完全治癒は難しいとされている。確かにパーソナリティ障害は人格の障害だから、医療による治療は困難を極める。想像するに、パーソナリティ障害というのは一種の人格的な偏りであり、それは脳内ホルモン(神経伝達物質)の偏った放出や欠如によって起きているのではないかと思うのである。その脳内ホルモンというのは、ドーパミン、オキシトシン、セロトニン、ノルアドレナリンなどであろう。そして、それらの脳内ホルモンが異常を来たすのは、腸内環境(腸内細菌)による影響が大きいということが判明してきた。つまり、食生活を改善して腸内環境を整えることで、パーソナリティ障害も和らぐのではないかという仮説を提起したい。試してみる価値はおおいにあろう。

認知症は予防できるか?

10年後には認知症になる人が、なんと750万人になると厚生労働省の研究班が発表した。65歳以上の高齢者における割合からすると、20%の高率になる。つまり、5人に1人が認知症になるということになる。由々しき大問題である。何故なら、これでは老老介護の家族が益々増加するし、福祉施設はいくつ新設しても足りなくなると予想されるからである。さらに、その医療費負担によって健康保険料は高騰するし、介護保険料の負担金も多大なものになるのだ。それだけではない。国の財政負担も相当な高額になり、消費税10%では賄いきれなくなり、20%から30%の消費税を徴収しないと福祉財源を確保できなくなる。年金財政の破綻や国の財政破綻も、かなりの確率で起きるだろう。

認知症に対する効果がある治療は、現在のところ見出されていない。多少の進行は遅らせる効果がある薬は開発されているが、それも限定的な効果しかないのが現状である。予防効果のある薬もないし、一度なってしまった認知症を劇的に改善する薬は皆無と言っていい。だからこそ、認知症にならないための予防策が大切なのである。とは言っても、認知症になる原因は完全に解明されている訳ではない。だから、認知症を完全に予防する対応策も取れないのである。これだけ科学や医学が発達しているのに、脳科学の進歩は非常に遅れている。特に脳の細胞学は、まだまだ未解明の部分が多く、認知症を含めた精神障害を脳科学的に解明して予防する方法は未だ確立されていないのだ。

ただし、ある程度予防疫学的な対応策は提起されているし、認知症を予防する生活習慣があるらしい。例えば、運動をすること、偏った食生活を避けること、アルコールを多量摂取しないこと、ストレスを溜めないこと、良質な睡眠をとること、くよくよしないこと、社交的に生きること、というようなことである。また、身勝手で自己中心的な人、怒りやすい人、他人と軋轢を生みやすい頑固な人、内向的な人などは認知症になりやすいことが解っている。つまり、人間としての生き方や人間性そのものが、認知症になりやすいかなりにくいかの分岐点になっているというのである。ということであれば、生き方に気をつければ、認知症はある程度予防できるということになる。逆説的に言うならば、認知症というのは、生き方に間違いがあるとなりやすいということになる。

勿論、認知症にはいろんな種類があり、それだけで認知症を完全に予防することにはならないが、生き方によって認知症になりにくいというならば、生き方を変える努力をしたいものである。しかしながら、生き方を変えるというのは、一筋縄ではいかないものである。何故なら、人間というものは一旦作り上げたメンタルモデルを変えるというのは、殆ど不可能に近いからである。特に、中高年になった人間というのは、余程のことがない限り、メンタルモデルを自ら変えようとはしないからである。特に認知症になりやすい人というのは、頑固者が多いという。認知症になりやすい人は、柔軟な発想や考え方が出来ないし、寛容性や受容性も低いという共通点もあるのは、そのメンタルモデルが影響しているとも言えよう。つまり、メンタルモデルのクオリティが認知症になるかどうかの分岐点になるということになる。

言い換えると、そのメンタルモデルのクオリティも認知症発症の重要なファクターと言えるのである。心の底から人々の為に尽くすことが無上の喜びと思えるメンタルモデルなら、認知症にはならないであろう。ただし、他人に自分をよく見せようと、自分自身を偽って無理してボランティアをするような人のメンタルモデルのクオリティはけっして高いとは言えない。自然体で無理せずに、人の幸福に寄与できるような人のメンタルモデルなら認知症にはならないと言える。何故なら、人間の脳細胞を含めたすべての細胞には自己組織性があって、全体最適の為に働くのだ。つまり、自己中心的で身勝手な生き方しか出来ないようなクオリティの低いメンタルモデルの人は、細胞が喜ばないから少しずつ細胞が滅んで行くのである。60歳の定年を迎えて、今まで充分働いたから、今度は自分の為にだけ時間と金を使おうなんていう老人は気をつけたほうがいい。細胞が死滅していくに違いない。いくつになっても社会全体の幸福に寄与するような活動に取り組み、細胞を生き生きとさせる生き方をして、認知症を防ぎたいものである。

一緒にいると疲れる人

この人と一緒にいるだけで、何故か知らないが心が安らぐなあと感じる人がいる。一方、この人と一緒に居ると、何となく疲れるというかいらいらする人がいる。気遣いをさせるのでもなく、何かとりたてて攻撃的な言葉をかけられる訳でもないし、気に障るような行為をするのでもないけれど、一緒に数時間過ごすと、疲れ切ってしまうと感じる人がいるのだ。言い換えると、自分の精気というかエネルギーを吸い取られてしまうような感覚になるのである。そんな経験をしたことがないだろうか。このような人と会って一緒にいると、何となく元気がなくなり、もう二度と会いたくなくなるのである。つまり、一緒に居ると疲れてしまう人である。

それでも、会うのか会わないのかという選択肢がこちらにある場合ならまだ救われる。会うことを拒否したり避けたりすればいいだけのこと。ところが、どうしても会わなければならない相手の場合は、実に困るのである。例えば、会社の上司や同僚部下というケースだ。毎日会うことになるのだから、帰宅する頃の時間になるとエネルギー欠乏症に陥ってしまう。また、一緒に居ると疲れる人が、家庭内にいる場合は最悪である。それも配偶者だとしたら、最悪である。何か意地悪をされるのでもなく、とりたてて攻撃的態度をされる訳でもないのに、すごく疲れるのである。不思議なことであるが、一緒に居るだけで神経が傷付いてしまい、ずたずたになるのである。

こういう人と一緒に居ると、どうして疲れるのであろうか。それは、人の目に見えない念によるのではないかと思われている。この念というものは、別称では波動とも呼ばれる場合も多い。これは科学的に完全に証明されている訳ではないし、目に見えるものではない。ましてや、この波動は今のところ、何らかの測定機器により計測したり記録したり出来るものではないようだ。あくまでも、観念的にあるに違いないと思われているものである。しかしながら、人の念は人から発せられて、人の心に響いているし、影響を与えているのは間違いないようである。波動は、人から人へと伝わって影響を与えているのは間違いないような気がする。

その人の波動には、調和されている波動と調和していない波動があるらしい。それを便宜的に、調和波動と不調和波動と呼ぶことにする。どうやら、一緒にいて疲れる人の波動は不調和波動であり、逆に共に居ると安心して癒される人の波動は調和波動らしいのだ。調和波動は、乱れていないし整然としているから、相手の波動を乱すことはしないし、逆に乱れている波動を整えてくれる働きもするのである。一方、不調和波動は相手の波動に働きかけて、乱してしまう。波動が乱れて調和していないと、不安や恐怖、または憎しみや怒りといったマイナスの感情を惹起させるらしい。または、相手の蓄えたエネルギーを削いでしまったり奪ったりもするのである。

この波動というものが、何故調和したり不調和したりするのかというと、生きるエネルギーの大きさとその健全さに関連しているのではないかと想像できる。そして、その生きるエネルギーというのは、愛に通じている。その愛とは、自己愛ではなくて他に対する愛であり、社会や宇宙全体に対する愛ではないだろうか。言い換えると、それは求める愛ではなくて、ただ与えるだけの無償の愛であろう。そういう博愛とか慈悲の心が、エネルギーを正常化させると共に波動を調和させるに違いない。こういう慈愛や博愛に満ち溢れた人からは癒されるし、自己愛の強い人と一緒にいると疲れるのである。

この調和波動と不調和波動のどちらかを出しているのかによって、一緒に居ると疲れる人と癒される人という分岐点になるのではないかと見られる。不調和波動を出している人は、予想以上に多くて、殆どの人が不調和波動を出していると言っても過言ではない。不調和波動を出している親に育てられると、子どもは不登校や引きこもりになるケースが少なくない。つまり、エネルギー不足になるのである。他人を支配したり制御したりする傾向にある人は不調和波動であり、その人に支配され制御されてしまっている人もまた不調和波動になるから恐ろしい。これらの不調和波動を出している人は、愛というエネルギーが枯渇しているとも言える。一緒に居ると疲れる人、つまりは不調和波動を出している人から、支配されたり制御されたりせず、完全に自立することが求められているように思われる。

LDLコレステロールは本当に悪者か

健康診断を受けると、必ずと言っていいほどコレステロールが基準値を超えているという結果が届く。さらに追い討ちをかけるように、悪玉と呼ばれるLDLコレステロールの値が基準値の範囲をオーバーしているという検診結果が記載されている。そして、要医療の結果を持参して医療機関を受診するようにとの、きついお達しが同封されているのである。こんな厳しい基準値を採用しているのは日本だけで、どうみたっておかしいと思うのは私だけではあるまい。WHOも、こんな高い基準値を勧めてはいない。しかしながら、日本動脈硬化学界の基準値が多くの医療機関では採用されており、こうして大量の検診結果異常者が作られてしまっているのである。当然、医療機関を受診すると、コレステロールを下げる薬を処方されて、『高コレステロール血症』または『高脂質血症』という有難い病名を付けられ、立派な病人となるのである。

誰が付けたのであろうか、悪玉コレステロールという名前が一人歩きをしてしまい、いかにもLDLコレステロールは危険な脂質だと世間的には思われている。動脈硬化による心臓血管障害や脳血管障害の張本人みたいな取られ方をしているし、善玉コレステロールであるHDLコレステロールと対比されるに至っては、無用の長物みたいな扱いを受けている。本当に、LDLコレステロールは何の役にも立たない、病気の原因になる諸悪の根源みたいな存在なのだろうか。人間という完全なる生物において、無駄な臓器や骨格・筋肉、または細胞の中で、何の役にも立たないというものがあるのだろうか。何かの意味や役割があって、そういう細胞が作られたとしか思えないのである。そう思うのが、科学的にみても自然であろう。

以前は、以下のようなことをまことしやかに主張しているドクターがいた。HDLコレステロールが減少してLDLコレステロールが増加すると、セロトニンが不足するから、うつ病になりやすい。だから、LDLコレステロールは動脈硬化だけでなく、うつ病にも関連するので、注意が必要だと強く主張していたのである。現在、この説はまったく科学的根拠がないものであり、根も葉もないデマであるということが解ってきた。逆に、統計調査で明らかになってきたのは、LDLコレステロールとセロトニンには相関関係があって、LDLコレステロールが低い人がセロトニン不足を起こしてうつ状態になりやすいということが判明してきたのである。つまり、LDLコレステロールがセロトニンの欠乏予防に重要な働きをすることが解ってきたのである。

LDLコレステロールは、セロトニンの原料であるトリプトファンを脳に運搬するのに重要な働きをするということが判明している。また、セロトニン受容体が細胞膜へ取り込まれる働きに関係することが解ってきた。セロトニンとLDLコレステロールが密接に関連するということが解明されてきたのである。セロトニンは脳内の神経伝達物質のひとつであり、幸福ホルモンと呼ばれており、これが不足するとうつ状態や慢性疲労症候群に陥ると言われている。また、トリプトファンからセロトニンを生成する際に、重要な働きをするのがインスリンである。このインスリンは、炭水化物から生成される。とすれば、世の中でもてはやされている炭水化物ダイエットは、インスリンの製造をおびやかす危険性があるということである。つまり、LDLコレステロールもセロトニンの生成に必要だし、炭水化物も摂取しなくてはならないということなのだ。偏ったダイエットの危険性が、こういった点からも指摘されている。
最近の医学統計調査によると、LDLコレステロールが低い人よりも高い人のほうが長生きするということが判明している。LDLコレステロールが低い人は、自殺、事故死、癌死をする例が多く、長生きできないというのだ。特に、女性よりも男性のほうがその傾向が強いらしい。おそらく、セロトニン不足による強い不幸感から将来を儚んでしまい、自殺、事故死、病死が多いのではないかと推測されている。総コレステロールだって、多い傾向にあるほうが長生きするという統計結果が出ている。それなのに、どうして医療機関や医学会は総コレステロールやLDLコレステロールが高いと指摘して、画一的にコレステロールを下げる薬を処方したがるのであろうか。実は、ここに日本の医療界の闇が存在するのであるまいか。薬品業界と医学界及び医療界の癒着、そして厚労省のお役人の不勉強さがあいまって、こんな間違いを国民に強いてしまうのである。必要もない無駄な医療費が支出されて、財政破綻を招いている元凶がここにもあるのだ。騙されてはいけない。

児童虐待をなくす為に

昨年度1年間児童相談所で扱った児童虐待の件数が、12万件を突破して過去最高になったというニュースが流れた。これは、昨年度から軽微な心理的DVも加えられたということで、件数が増えたのも当然だと見られるが、それにしても全国的に児童虐待が増えているのは間違いない。こんなにも多いという現実を知らない人も多かったに違いないが、これは実は氷山の一角に過ぎない。この数は児童相談所に寄せられて扱った件数だけであり、地域の人々や親類知人にも知られず、家庭内で陰湿に行われている児童虐待は、これだけではないだろう。その数も入れれば、おそらくは30万件を越える児童虐待が起きていると推測される。

 

どうしてこんなにも児童虐待が増えているのかと分析されているが、子育ての難しさやその苦労によるもの、さらに母親一人に育児の負担がかかり過ぎるという実態が影響しているらしい。または、配偶者によるDVが家庭内で日常化していて、そのことによる子どもへの心理的圧迫が虐待として捉えられているとも報道されている。そして残念なことに、児童相談所にそのような相談や通告が行なわれていても、完全な解決策が見いだせないという現状がある。緊急避難的に、児童相談所に子どもを預かって救助しても、その後の保護者に対する指導援助が効果を上げて、児童虐待がなくなるケースは少ないという。

 

児童相談員のマンパワー不足、児童虐待の行為者に対する相談機能や指導機能が不十分だという指摘もあろうが、児童虐待をする者への支援と指導は難しいものがある。何故なら、当事者だけの問題だけではなく、その配偶者は勿論、同居している恋人、家族の問題もあるし、自分自身の幼児期における育児環境が色濃く反映しているからでもある。自分が幼児期に暴力を受けて育って、自分が親になったときに、同じように暴力を奮ってしまうケースは非常に多い。暴力の連鎖である。さらに、夫婦間の敬愛関係や恋人との恋愛関係が破綻していると、児童虐待に繋がりやすいということも言われている。

 

児童虐待のそもそもの原因は何かというと、経済的な理由や将来に対する不安、家庭環境の悪化、虐待者本人の無自覚無認識、配偶者の問題、子どもの発達障害など様々な要因が上げられるが、それは真の原因ではない。児童虐待が起きる本当の原因は、家族というコミュニティにおける関係性の希薄化と劣悪化にある。親子の関係性、夫婦の関係性、兄弟との関係性、さらには地域コミュニティの関係性も悪化していると、児童虐待が起きやすい。つまり、様々な要因とされているものは単なるきっかけや背景としてのものであり、本当の原因は関係性にあると推測される。

 

家族、地域、企業、組織、国家すべての共同体がその連帯機能を低下、もしくは破綻させてしまっていると言われている。自分さえ良ければいい、自分だけの幸福や豊かさをあまりにも追求する価値観が蔓延してしまい、家族、同僚・部下・上司、隣人と地域住民、国民、お互いの関係性を重要視する価値観が欠落しているとも言われている。だから、医療、介護、福祉、地方の衰退、震災復興の遅延、などの問題が起きていると言っても過言ではない。まさに、その根底、または縮図というような家族に問題があり、児童虐待が発生していると言えよう。それは家族だけの問題ではないし、このような社会を築き上げてしまった我々国民全体に責任があるに違いない。

 

それでは、この児童虐待の根本的問題を含めて、崩壊したコミュニティをどのようにしたら再生できるのであろうか。悪化してしまった関係性をどのように再構築して行ったらいいのか悩ましいところでもある。その為には、どうしてこんなにもコミュニティの関係性が悪くなったのかという歴史にも、注目する必要があろう。関係性が悪化してしまい、コミュニティが崩壊への道を歩み始めたのは、明治維新の近代教育導入からであろう。江戸時代までは、自分たちの利益や幸福を第一義的に求めるのではなく、市民全体の幸福や福祉を求める価値観を持っていたのである。それが富国強兵を実現するために、欧米の個人利益を容認する近代教育を取り入れたのである。

 

欧米の個人の自由や幸福を追求する近代教育の価値観は、コミュニティの劣悪化を招く弊害が現れて、その後見直されて全体最適を求める価値観も必要だと方針変更がなされた。ところが、日本の教育にはその情報がもたらされず、依然として個別最適を求める価値観が依然として残ったのである。その原則を重視するあまり、お互いの関係性をないがしろにしてきたのである。ということならば、そもそもの近代教育の価値観教育を見直し、自分だけの利益幸福を追求するのではなく、全体最適追及の価値観を学校教育や家庭教育で教えなければならない。そうすれば、関係性の重要性を再確認し、家族というコミュニティの再生が図られるに違いない。その結果、児童虐待もなくなると確信している。

疲れの原因は食事にあった

電車やホームでは、疲れ切ってしまい、深くうなだれた会社員を見かける。歩く姿も前屈みで覇気がなく、とぼとぼと家路につく姿が、相当に疲れ切っていると確信させる。この世はストレス社会である。対人ストレスは勿論、超IT社会と言える現代は、PCやスマホに人間が支配され使われているから、テクノストレスにもさらされている。毎日、仕事でも目いっぱい働き、家に帰っても心が休まらないし癒されない。したがって、毎日疲れ切っていて、その疲れは一晩寝ても取れないという人が、多いのは当然かもしれない。

駅の売店やコンビニでは、栄養ドリンクや甘い炭酸飲料を求める会社員を多く見かける。ドラッグストアでは、疲労感が取れると謳われているビタミン剤やサプリメントが大量に売れている。こんなにも、疲れ切った人達がいて、日本のビジネス界は大丈夫なのであろうかと心配になるくらいである。こういうビジネスマンは、疲れないようにと昼はステーキやハンバーグなどのスタミナ食を摂り、夕方は焼き鳥や焼き肉でビールを飲むことが多い。しかし、その結果は思惑とは大きく違って疲れは取れず、翌朝には疲れ切った身体に鞭打って出勤する。

疲れる原因とその疲れが長引く訳は、どうやら精神的なストレスだけではないような気がする。確かに精神的なものが身体に影響するのは間違いないが、現代人がこれだけ疲れる人が多いというのは、肉体的な別の要因がありそうな気がして仕方ない。それで、科学的なエビデンスを示すような過去の実験結果がないかどうか調査してみた。そうすると、実に興味深い実験を試みた例があったのである。それは、明治初期に来日したドイツ人医師ベルツによる、食事による耐久力の実験であり、その結果は我々の常識を完全に覆すものであった。

ベルツが来日してまず驚いたのは、日本人の持久力であった。たいして体力もないように見えるし、痩せて貧弱な身体の日本人が、毎日何十キロも走っているのに、まったく疲れを見せないことである。当時、飛脚は一日100キロを越えて走り回り、車夫が重い人力車を毎日何10キロも引き回る耐久力を持っていた。ベルツはこれだけの体力を持っているのだから、西欧の栄養学に基づく肉食中心でしかも低でんぷん質の食事にしたら、もっと早く走れるに違いないと予想して、人力車の車夫2名に食事の実験をしたのである。毎日、肉食で低でんぷん質のスタミナ食を与え、体重80キロのベルツを乗せて、40㎞の道のりを引かせたのである。

その結果、3日後に2名の車夫は音を上げてしまった。こんな食事では走れないから、肉の量を減らしてくれというのである。それで、元の穀物菜食に戻したら3週間ずっと元気で人力車を引き続けたという。ベルツは、東京から日光まで旅行したことがあるが、午後6時に出発して翌日午前8時に着いた。その際に、馬を使ったのだが、110㎞の間に6度馬を交換し、14時間を要したという。もう一方は1人の人力車に引かせて乗り、なんと10時間で日光に着いたという。1時間に時速11㎞で10時間人力車を引いて走るという超人的な車夫がいたというからすごい話だ。

これは日本人だけの話かと思いきや、米国の大学でも肉食者と穀物菜食者で持久力の対比実験をしたら、瞬発力は肉食が上であるが、持久力は穀物菜食のほうが遥かに高いことが分かったとベルツの著書で紹介されている。これらの実験で明らかなように、現代人の持久力がないのは、食事のせいだということである。現代人がすぐに疲れてしまい、耐久力に乏しいのは肉食中心で炭水化物の少ない食事をしているからであろう。最近の日本人アスリートが、マラソンでは結果を残せていないし、水泳の長距離競泳で勝てないのは、食事のせいではないだろうか。あれほどの圧倒的な強さを誇るケニア人のエリートランナーは、おしなべて高でんぷん質の食事を続けていることが判明し、アスリート界では驚いているという。

明治維新以降の近代栄養学、とりわけ戦後の栄養学は、肉食中心の高蛋白で低炭水化物の食事が健康に良いものだというのが定説だった。ごく最近までも、美容の為には炭水化物ダイエットが良いというまことしやかな説が信じられていた。ところが、ごく最先端の科学的な栄養学では、それが人間の根源的なエネルギーを引き出せないということが判明してきたのである。肉を沢山食べて、でんぷん質をあまり食べないという食事は、持久力を引き出せず、すぐに疲れてしまうという欠点を露呈したのである。ましてや、肉食中心の食事を続けると、腸内環境が悪化して免疫力が低下することも解ってきた。現代日本人の異常なほどの疲れの原因が、肉食と低炭水化物の食事にあったのである。健康とスタミナ維持のためにも、穀物菜食の伝統的な和食に戻るべきではないだろうか。