寝たきり老人がいるのは日本だけ

 寝たきり老人ゼロ作戦という厚労省のスローガンで始まった在宅医療を充実させる政策は、見事に失敗した。同時に始まった厚労省の介護保険制度が、皮肉にも寝たきり老人を大量に生み出してしまったのである。所詮、机上の空論を論議するしか能のない厚労省キャリア官僚の読みの甘さがこんな悲惨な結果を招いたと言っても過言ではない。現在、寝たきり老人(要介護5)の比率は全人口の6.1%にもなる。ということは、人口比率で割り出した寝たきり老人は248万人であるし、隠れ寝たきり老人を含めると300万人を優に超える。

 この寝たきり老人の割合と数は、ぶっちぎりの世界一位である。欧米や他の先進国ばかりでなく、発展途上国においても寝たきり老人は殆ど存在しない。どうして、日本だけがこんなにも寝たきり老人が多いのか、実に不思議な現象なのである。他の国では寝たきり老人が極めて少ない。どうして日本に寝たきり老人が多いのか、明らかにしたい。そのうえで、このままの高齢者政策で良いのか、それとも抜本的な対策が必要なのを論じたい。そうすれば、日本の財政もどうにか出来そうだし、社会保険料の負担軽減にも繋がる筈である。

 300万人の寝たきり老人の介護費用は国と都道府県と市町村、介護保険料、そして自己負担料金で負担している。行政で負担しているというが、財源は消費税だとされているから、すべての介護費用は国民が負担しているということになる。300万人分の寝たきり老人の介護費用と医療費を国民が負担しているのだから、社会保険料負担と税負担の割合が多いのは当然である。収入の半分以上が社会保険と税金で持って行かれてしまうのだから、豊かさを実感できないのは当然である。その原因の一端が寝たきり老人が多いせいなのである。

 さて、どうして日本だけが寝たきり老人が多いのであろうか。欧米の寝たきり老人がほぼゼロなのに、日本にだけ寝たきり老人が多いのはまったく理解不能なことである。それは、日本の医療保険制度と介護保険制度における決定的な間違いがあるからだと断言できる。それだけではなく、医療機関と介護施設においての高齢者に対する医療が根本的な誤謬を犯しているからである。それは、医学における哲学と言えるような領域ではあるが、何のために医療を行うのか、誰のための医療なのかという根本原則に反しているとも言える。

 寝たきり老人で、これ以上の回復が見込みのない患者に対して、過剰な医療措置を行わないのが欧米の医療である。つまり、医療の質や量を優先にはしないで、あくまでもその患者さんや要介護者さんが本当に望むものを提供するだけなのである。そこには延命措置に対する考え方の大きな差異が存在する。人間が尊厳を持ち続けられて、当事者が生きる喜びを待ち続けられるかどうかが大切だとするのが、欧米の医療や介護なのである。勿論、それには当事者のリビングウィルの意思表示も必要だが、家族が納得することが求められる。

 日本では、何となくというか可哀想だから延命措置を続けるという考え方が多いが、欧米においてはまったく違う視点から延命措置を選択する。当事者がどちらを選択するか、またはどちらのほうが当事者が真の幸福を得られるのかが重要なのである。医療関係者や家族は、それらの選択肢を持たないという立場だ。そういう人間の尊厳についての説明も、懇切に家族に納得の行くまでするのが当然だ。そして、当事者が望む、または望むであろう最善の策を実施する。だから、点滴や胃婁など寝たきり老人に対する過剰な医療はしないのである。

 感情論で言えば、そんな可哀想で残酷なことをしたくないと思うのが家族であろうが、それは当事者にとっては非常に残酷だと言える。生きられるのに生きる権利を取り上げることは、家族や医療関係者は出来ないと主張する人がいるかもしれない。しかし、生きる幸福感がなく苦痛や悲しみを長く続けさせることこそ、当事者の望むところではない筈だ。どこかの政党が延命治療は100%自己負担にすべきだと言っていたが、それは間違いだ。国がそんな残酷な制度を作って人々の考えを変えさせるのはあまりにも乱暴だ。生きる意味、生きる目的などを当事者と家族が、寝たきりにならない元気なうちに深く話し合って決めるべき事なのである。

命短し恋せよ乙女

 命短し恋せよ乙女♪という歌い出しで始まるのは、ゴンドラの唄という名曲である。最初は松井須磨子が劇中歌として披露したと伝えられる。その後はあまり流行しなかったが、黒澤明監督の映画『生きる』で主人公の志村喬が歌ったことがきっかけで、多くの著名な歌手がカバーして世に広く知られることになった。胃癌を告知され余命いくばくもない初老の志村喬が、夜も更けて誰もいなくなった公園のブランコに乗ってアカペラで寂しく歌うゴンドラの唄のシーンは、観る人をぞっとさせる。こんなにも悲しく聞こえる歌は他にない。

 そんな有名な歌であるゴンドラの唄は、けだし永遠に歌い継がれる名曲だと思う。そして、乙女たちへの応援歌でもあり、若い女性が人生を生きるうえでの現代に通じる大切な教えでもあると思う。何故かと言うと、若い女性たちの多くが恋愛に対してあまりにも消極的でもあり、臆病なのではないかと思うからである。現代の若い女性にこそ、このゴンドラの唄を聞かせてやりたいと強く思う。そして、是非にも恋愛を経験してほしいと願うのである。結婚してほしいとか、子どもを産み育ててほしいと望む訳ではなく、ただ恋をしてほしいのだ。

 勿論、乙女だけではない。妙齢の女性でも、ご高齢の女性であっても、燃えるような恋をしてほしいのである。何故かと言うと、人間と言う生き物は恋をすることで多くの気付きや学びを得られるし、人としての大きな成長を遂げられるからである。恋愛を経験していない人間は、人として一人前でないなどと極端なことを言うつもりはない。しかし、燃えたぎるように熱烈な恋愛を経験した人とそうでない人の間には決定的な違いがあるのは間違いない。そして、相手の何もかも許し受け入れて統合の実現をするには恋愛が最適なのである。

 恋愛を経験しなければ統合の実現が不可能かと言うと、けっしてそうではない。恋愛の経験がなくても様々な統合が実現出来る。だとしても、それは非常に難しい。男性性と女性性の統合、または本能と理性の統合、自己(エコ)と自我(エゴ)の統合は、特別な人を除けば恋愛によって実現の可能性が高くなるということは確かである。特別な人というのは、例えば厳しい山岳修行や敢えて苦難困難の道を歩んで悟りを啓いた人という意味である。特に女性はそういう体験をすることが少ないので、恋愛経験が統合の後押しをするという意味だ。

 恋愛というのは、自分の愛欲を満たすためにするようなエゴ丸出しの恋ではない。お互いの幸せや心の豊かさを実現するような互恵的恋愛のことである。身勝手で自己中の恋愛なら、何も学べないし成長もない。勿論、統合なんて到底及ばない。特に、性の営みにおいて自己満足だけを求めるだけで、相手の深い悦びを実現しようと努力しないなら、男性性と女性性の統合なんて実現する訳がない。、自分の悦びを犠牲にしても、相手の満足を限りなく高めようと精進するならば、真の統合が近づくであろう。これが自他一如の実感にもつながる。

 このような素晴らしい体験が出来る恋愛を、初めから避けたいとか、心から求めることをしないというのは、実にもったいないことではないだろうか。男性と女性は、いろんな意味で大きく違っている。価値観や考え方しかり、使うコミュケーション手法も、そして、行動規範も違っている。だからこそ、その違いをお互いに深く認識して、相手の違いを受け入れて許すことで、相互理解が深まり統合に向かうことが可能になるのだ。そのような大切な経験を、最初から望まないとか避けたいとか思うのは、考えられない損失なのである。

 とは言いながら、世の中の乙女の多くは魅力的な男がいないじゃないかと主張するかもしれない。確かに、それも一理ある。自分の事しか考えず、相手の女性の幸福や尊厳を認めず、自分に従属させようとするような男性に魅力を感じる訳がない。そういう意味では、価値観が低すぎる男性が多すぎるから、女性が恋に陥らないのかもしれない。個別最適ではなくて、全体最適を目指すために限りなく努力するような男性が多くなれば、恋する乙女も増加するに違いない。そういう意味では、恋する乙女を増やすには男性の高い価値観構築が必要だと言えよう。

偽情報によって政治が捻じ曲げられる

 インターネット上の情報を見ていると、陰謀サイドによって善良な国民が騙されているという記事がこれでもかとアップされていて、それを信じた人々がさらに拡散している。SNS、YouTube、ライブ配信などに多くの陰謀論者がこれでもかというくらいに情報を開示している。殆どの陰謀情報が、科学的に正しいという根拠に基づいた情報を掲載しているし、社会的にも著名な人が、その情報を肯定しているのだと主張している。そして、写真や動画も数多く添付されている。これを見た誰もが正しいと思わせてしまう情報なのである。

 これらの情報は、驚くことに陰謀を働いている組織や企業内に、実際に所属していたという人物からのリーク情報だとも主張している。各種のワクチンに関する陰謀情報、子どもを誘拐して性的虐待をしたり脳の松果体を採取したりしているという驚くような陰謀情報などが流され続けている。それだけではない、政界や芸能界で活動している人々の殆どがゴムマスクを被っている偽者だと主張している。王室や皇室の人々も偽者であるとも言っている。それが真実だと言わんばかりに、証拠の写真や動画を大量に掲載している。

 陰謀があると信じて、その陰謀の情報を積極的にネット上に拡散している人を陰謀論者と呼んでいる。陰謀を拡散すれば、陰謀サイドにいる人たちに圧力をかけて、陰謀を少しでもくい止められると考え、まるで正義の味方だと言わんばかりに頑張っている人が多い。その為に、陰謀論者たちは少しでも新しい陰謀の情報を仕入れたいとネットサーフィンに余念がないし、陰謀論者どうしが親近感を持ち仲間として認識し合っている。ネットで仕入れる情報にはアルゴリズムが働き、フィルターバブル機能により情報の極端な偏りが起きてしまう。

 GoogleやYahooの検索サイトで情報収集するのであれば、偏った情報にはなりにくい。ところがYouTubeやSNSによる情報収集をすると、エコーチェンバー機能とフィルターバブル機能により、フェイクニュースに騙される可能性が高い。自分たちは正しいのだと思い込むことにより、真実の情報から余計に遠ざかってしまうのである。自分たちの受ける情報に恣意的な偏りはないのか、フェイクニュースではないのかと、常に謙虚でニュートラルな心というものが必要である。最初から色眼鏡をかけてSNSの情報を信じてはならないのだ。

 これらの陰謀論の偽情報が、それを妄信する人たちの間だけで留まっているのなら、まだ許されるのであるが、これが政治に影響を与えるというならば看過できない大問題である。兵庫県知事選挙では陰謀論も含めたフェイクニュースが広まってしまい、誤った情報によって落選してしまった候補者がいた。その反動で、とんでもない人物が当選してしまうという事態を引き起こしてしまった。米国の大統領選挙においても陰謀論の偽情報が影響して、トランプ氏が当選した。クリントン氏やハリス氏は偽の陰謀論情報で沈んでしまった。

 東京都議選においても偽の陰謀論情報が影響して、選挙結果が予想と反した結果になった事例が多数ある。国政選挙においても、陰謀論情報によって国民は騙されて振り回されている。今度は参議院選挙においても、陰謀論のフェイクニュース情報が拡散しているのである。フェイクニュースによって国の政治が捻じ曲げられようとしているのだ。SNSやYouTubeの情報は、正しいかどうかのチェック機能はまったく働いていない。だから、フェイクニュースでもその情報が止めどなく拡散してしまい、その情報を信じた人々は投票行動を変えてしまうのだ。

 謙虚で素直に物事を正しい判断力を持って洞察すれば、YouTubeやSNSの情報をまるごと信じるようなことをする筈がない。ところが、元々不安や恐怖感を抱えている人たちは、陰謀論を簡単に信じ込まされてしまうのである。何故なら、正常な判断をすることを可能にする前頭前野脳と海馬が萎縮しているか破壊されているからである。この部分の脳が正常に働かないと、不安を掻き立てるような嘘を信じてしまうのである。故に、陰謀論のネット情報をずっと見続けていて、依存状態になっているのである。ネット依存症の若者たちは、益々不安が増大してしまい、不登校やひきこもりに陥るのである。

※世界の人々を不安や恐怖に陥れて、心身の病気を抱えてしまう人々を大量に生み出して、国民を駄目にしているのが陰謀論者たちです。ネットに依存させて、不登校やひきこもりの若者、メンタル疾患の人々を大量に創出しています。しかし、陰謀論者にその根本原因はないし責任はないのです。彼らもまた騙されているに過ぎないのです。言わば被害者なのです。多くの人々を不幸にしてしまうフェイクニュースを垂れ流すのは、もう止めませんか。

ポピュリズム政党に騙されてはいけない

 内外の政界ではポピュリズムの嵐が吹き荒れている。ポピュリズムというのは、実際には民衆を焚きつけて政権を得るための巧妙なツールでしかない。過去の歴史においても、ポピュリズムの代表的なものはナチズムであるし、ポピュリストの代表者はアドルフヒットラーその人である。フィリピンのドゥテルテ大統領もしかり、現在の米国大統領のトランプ氏もポピュリズムを巧妙に利用している政治家だ。エリート層や外国人に対する敵対心を煽り、自国民ファーストを掲げる政治家は、自分たちこそが民衆の味方だと思い込ませるのだ。

 これは他国で起きていることであり、我が国日本では過去にもなかったし、現在もポピュリズムなんて起きていないと国民は思っているに違いない。ところが、太平洋戦争時代に日本は一部の軍国主義者に毒されてきた。それはポピュリズムであるし、現代日本でも自国民第一主義を掲げて支持を伸ばしている政党があるし、つい先日の都議選でも都民ファーストが勝利したのだが、あれがポピュリズムに扇動された結果である。外国人を敵とみなして、外国からの移民や労働者を受け入れようとしないのは、トランプと同じ手法である。

 日本ではポピュリズム政党に、一般国民が騙される筈がないと信頼していたが、見事に裏切られた格好だ。日本人ファーストというのが選挙におけるスローガンになっている政党がある。外国人に対して我が国の政府は、自国民以上の過度の行政サービスをしているというフェイクニュースを流している。日本人よりも外国人をいろんな面で優遇しているから、我々日本人は貧しい生活を強いられているのだと主張している。全くのフェイクニュースなのであるが、SNSやYouTubeを利用してこれらの偽情報を拡散している。

 外国人が働くうえで優遇されていて、外国人労働者がどんどん増えてしまい、我々日本人の多くが失業してしまっていると主張している政党がある。まったくのフェイクニュースである。日本人が嫌がっていて、労働者不足で困っている職種に外国人労働者を雇っている。中には高い技術を持つ外国人のエリートもいるが、ごく少数でしかない。彼ら外国人のお陰で、経済が回っているし収益を上げさせてもらっている。外国人労働者によって日本の経済が支えられているというのが実情であり、外国人なくしては日本経済はもはや成り立たない。

 都民ファーストを謳う政党がある。都民に対してのみ厚く行政サービスや利益を与えるべきであり、他県民や他県にある企業の為に都税からの支出をすべきではないと主張する。東京に本社がある企業によって、田舎の工場から多くの利益が吸い上げられている。原発だって地方にあるが、恩恵を受けるのは都民だ。現在、東京に住んでいる都民の多くが他県で育てられた。地域で育てられた都民が、都内で働いて収益を上げているのである。都税から地域に多少の恩恵があったとしても、お釣りがあるくらいに東京都の為に地域が貢献しているという事実を見逃している。

 ポピュリズムというのは、極端に言えば自利・利己主義である。利他精神の正反対である。こんな恥ずかしい日本人ファーストなんてスローガンを掲げる政党に同調する国民がいるなんて、信じられない。日本人は、古来より利他の心を大事にして生きてきた。縄文人は、自分たちの利益や幸福を求めてはいなかった。全体最適を目指して生活していた。だからこそ、13000年もの長期間に渡り平和で争いのない幸福な生活を続けられたのである。自分たちの集落だけの豊かさや幸福を求めることは、けっしてしなかったのである。

 日本人ファーストという考え方は、外国人と日本人の分断を生みかねない。外国人に対する差別的で排他的な考え方を増長させてしまい、日本人さえ幸福になれば、外国人はどうなってもいいという利己主義的な国民を作り上げてしまう怖れがある。外国で育てられた方々が日本に来て日本人の為に安い報酬で働いてくれているのだから感謝すべきだと思うし、働きやすい環境を提供するのは政府の責務である。それを批判するなんて、なんと思いやりのない国民であろうか。ポピュリズムを利用して選挙に勝利しようとする卑劣な政党や政治家を認めることは出来ない。自分にとって損か得かという価値観で政党を選んではならない。

龍神と人間の精神的な繋がり

 前回のブログで龍神と人間の関りについて私的考察を試みたが、さらに精神的な部分についてもさらに深く掘り下げてみたい。龍(龍神)とは、水を司る(自由に操る)存在であり、人智の及ばないものでもあり、龍神を諫めて抑えてくれるのが不動明王であり、逆に龍神に元気と癒しを与えてくれるのが観世音菩薩だと古人は思ったらしいと説明した。だから、瀧の周辺には不動明王や観音菩薩が祀られているとも考えられる。さらには、人間の煩悩(欲望)とも言える自我は、龍神とも重ねられるともブログで記した。

 人間には煩悩が必ずあって、煩悩があまりにも強大になり暴走してしまうと、人間を苦しめる。仏教には四苦八苦という考え方があり、五蘊盛苦というのはそのひとつであり、燃え盛るような煩悩・欲望は自らをも滅ぼすし、大きな苦しみをもたらすと仏陀は説いている。まさに、時にはコントロールが出来ない程の煩悩を人間は持っているし、一度暴走してしまうともはや自分の力では抑え込むことさえ困難になる。食欲や性欲、物欲や金欲などもコントロールできなくなることもある。古人はそれらを龍神と呼んだのかもしれない。

 また、煩悩・欲望をまったく失ってしまった状態を考えてみよう。ある程度の物欲があるから、経済活動のモチベーションが得られるのであり、物欲をすべての人間が完全に失ったとしたら、経済は成り立たなくなる。経済発展は完全停止して、生産活動も滞ってしまい、物が売れなくなってしまう。性欲が完全に無くなったとしたら、雌雄間における生殖活動は停滞し生命の再生産は破綻して、動物は死に絶えてしまう。ある程度の適切な煩悩・欲望は生物にとって必要不可欠な物とだと考えられる。

 龍神が人間の生きる為のエネルギーだと考えると、過大になり暴走することもなく適切に高められている状態に置かれることが必要である。暴走した時にはブレーキを踏んでくれる存在が必要だし、あまりにも元気や勇気を喪失して生きるエネルギーが枯渇した際には、アクセルを踏んでくれる存在が求められる。人間の欲望が暴走した際は、不動明王が諫めて抑えてくれるし、欲望が低下して生きる気力さえ失くしてしまった時は、観音菩薩が自我を慈しみ癒して勇気付けてくれると、考えたのではあるまいか。

 人間には、自我(エゴ)と自己(エコ)がある。自我を乗り超えて昇華させて、自己と統合させて、真の自己確立を成し遂げれば、自我に翻弄されることもないし、自我を有効に役立てることも出来る。時には暴れたり元気を無くしたりする龍神を、自分の心の中で上手く飼い慣らしていければ、幸福で充実した人生を歩んで行ける気がする。その為の心の拠り所として、不動明王と観音菩薩の法力を頼ったではなかろうか。不動明王は父性愛でもあるし、観音菩薩は無条件の愛である母性愛を象徴しているのかもしれない。

 現代の日本人は、どちらかというとあまりにも龍神を押し込めてしまい自由を奪ってしまっているような気がする。本来であれば、瀧の周辺で自由に舞い遊ぶ龍のごとく、あるがままに誰からも支配されることなく遊ばせることが肝要である。そういう意味では、龍神はインナーチャイルドのような存在かもしれない。現代日本人、とりわけ真面目な生き方をしている人は、インナーチャイルドがあまりにも強い抑圧や制御による影響で、傷付き歪んでしまっている。本来の自由で闊達で天真爛漫なインナーチャイルドではなくなっている気がしてならない。

 純真であるがままの自由奔放なインナーチャイルドこそが、本来の龍神なのではないだろうか。龍神=インナーチャイルドが、誰にも支配されず抑圧されず本来の天真爛漫な状態に保たれているならば、暴走することもなく落ち込んで元気をなくすこともない。その為には、乳幼児期にあるがままにまるごと愛されるという経験が必要である。もし、それが体験出来ずに育ってしまい、自我の芽生えもなく自己の確立も叶わず、インナーチャイルドが歪んだまま大人になったケースでも、龍神が息を吹き返すことだってある。滝巡りのツアーをしたり、龍神由来の神社仏閣を巡り、龍神たちと触れ合うことで、インナーチャイルドが癒されるに違いない。

※メンタルが落ち込み過ぎてしまい、生きるエネルギーが枯渇してしまったと感じている方、または逆に自我(エゴ)が暴走してしまい、欲望・煩悩を制御できないとか、依存症で苦しんでいる方たちに、滝めぐりツアーや会津の神社仏閣巡りをお勧めします。問い合わせフォームからご連絡ください。日帰りでも行ける会津の不動滝巡り、山小屋に一泊しない行けないような尾瀬の三条ノ滝巡りなど、様々なコースがありますので、ご検討ください。

龍神と人間の関わりについての考察

 龍神というのは、古来より日本人の宗教観に無くてはならないような大きな役割を果たしていたというのは間違いない。宗教観だけではなくて、日本人の精神的支柱でもあったであろうし、生活するうえでも重要な役割を演じていたと思われる。日本各地の神社・仏閣において、龍神はいたるところに配置されているし、自然界においても龍の名が冠された場所が沢山存在する。日本人が生きて行くうえで欠かせないものだったのではなかろうか。それくらいに龍神というのは、我々の生活に密接な関連があったに違いない。

 龍や龍神を実際に見たという経験を持つ人は実在しないと思われる。あくまでも、人間の想像上の生き物というか神ということになっている。そして、全国各地における龍神伝説に共通しているのは、龍というのは水に関わり合っている生き物ということである。人間が生きる上でどうしても必要な水を与えてくれるのが龍神で、その水を自在にコントロールしているのが龍神だという認識がある。龍神は水神でもあり、人々が生きるのに必須な水を司る神の存在であるから、仏教や神道でも崇め奉っているのではなかろうか。

 全国各地の湖沼群や河川に、龍や竜の名前が付いている箇所が多数存在する。また、瀧や滝という字には、龍や竜が使われているが、瀧には龍が住んでいたり遊んだりしているという言い伝えがある。勿論、龍が付いている名前の滝は全国に数多く存在する。また、不動滝という名前が付けられているものが多い。そして、瀧の傍らには不動明王が祀られているケースが多い。また、不動明王だけでなく観音菩薩も同時に配置されている例も少なくない。昔の人たちは、不動明王や観音菩薩を何故瀧の近くに祀ったのであろうか。

 不動明王や観音菩薩を瀧の周辺に祀った理由について、ネットで調べても明確に説明している記事に出会うことはない。古人がどうして瀧の側に不動明王と観音菩薩を配置して祈ったのかを考察してみたい。瀧には龍神が住んでいると思ったに違いない。龍神は水を制御していると考えた。人間が水を欲する時には、龍神が雨雲を発生させて恵みの雨を降らせた。しかし、人間が望まない程の大量の雨を降らせる嵐を起こすこともある。または、日照りが続いて渇水になることもあった。人間の思い通りの適切な水の提供がない時があったのだ。

 古人は、何故に人々を苦しめる洪水や渇水が起きるのかと悩み苦しんだ。それは、龍神が敢えて起こしているのではないかと考えた。人間が自然に対する畏敬の念を忘れたり、人間が謙虚さを忘れ傲慢になったりした時に、龍神が怒って人間に鉄槌を下すために大雨を降らし洪水を起こしたのではなかろうか。人間に反省をさせるために龍神が大雨を降らしたと考えられないだろうか。その際に、怒り狂った龍神を諫めてなだめるために、絶大な法力を持つ不動明王に託したのではなかろうか。だから、瀧の近くに不動明王を祀ったのであろう。

 一方、あまりにも不遜な行為を行う人間に絶望して、龍神が元気を無くしてしまったのではないかと思うこともあったろう。龍神があまりにも人間に絶望し、活動エネルギーを低下させてしまい、雨を降らせることが出来なくなった為、渇水が起きたと考えたのかもしれない。そういう時は、龍神に謝罪するために人身御供を瀧の近くで供えて雨乞いをしたこともあったし、観音菩薩に龍神を慰めて元気を出してもらおうとしたのではなかろうか。だから、龍神の住む瀧の近くに不動明王と観音菩薩の両方を祀ったのではないかと思われる。

 さらに、人間の内的宇宙に目を向けてみると、龍神と人間の深い関りが見えてくる。人間には、自我(エゴ)と自己(エコ)がある。人間には際限のない欲望や本能があり、時にはそれが人間に苦を与える煩悩にもなる。それこそが、人間の中に住む龍神とも言えよう。あまりにも煩悩(自我)が暴走した時には、不動明王が諫めなだめ、欲望や本能を低下させてしまい生きるエネルギーを低下させた際には、観世音菩薩が元気を引き出してくれるのだ。不動明王と観音菩薩を心にバランス良く配置して、自我と自己の統合を実現させて、自己の確立を実現した時にこそ、龍神が心の中に穏やかで元気に住まうのである。

子を産み育てるのは一番尊い行為

 子どもを産み育てることは、とても大変なことである。様々な事情から、敢えて出産しないし育児もしないという選択をする人もいる。勿論、子どもがどうしても授からないというやむを得ない事情の人もいるし、出産に耐えられない体力の為諦めている方もいる。経済的な理由で出産育児を諦めざるを得ないという方もいることを承知している。そういうケースがあることを認識したうえで、敢えて言いたい。出産育児というのは非常に困難ではあるが、一番尊いことであり、とても価値のある行為であるということを。

 この世の中で、人を導き育てるという行為は一番難しいことである。企業において、生産・企画・品質管理・検査・総務・人事等々難しい業務は沢山存在するし、それぞれに尊い仕事である。それでも、一番尊くて難しいのは教育である。人を育てるというのは、企業の発展と存続には欠かせないものであり、教育が上手く機能しないと企業は衰退してしまう。家庭における教育や学校における教育というものが機能しなくなると、社会は発展することを止めて衰退してしまう。政治も経済も成り立たなくなってしまうのである。

 子どもを産み育てるという行為は、とても貴重な行為である。日本人誰もがこの行為を拒絶したと仮定してみよう。そうすれば、日本という国は無くなってしまう。外国人の移民や出稼ぎがあるから大丈夫という意見もあろう。それでも、国家というものは存在するかもしれないが、日本というアイデンテティが無くなるのは確かである。それでも良いと考える人たちがいるかもしれない。しかし、世界に誇りうる日本の伝統的な文化や習慣がなくなるし、縄文時代から脈々と続いてきた『日本人』がなくなるというのは、寂しい限りである。

 子どもを産み育てたいと思う人がその行為をすれば良いのであり、したくない人はそれでいいんじゃないと思う人も少なくない。すべては自由であると。人間に何故生殖という機能を、全能の神は与えられたのであろうか。それは、人間という生き物をこの地球に存在させ続けなければならなかったからである。そして、人間には生まれつきオートポイエーシス(自己産生or自己産出)という尊い機能が与えられたのである。このオートポイエーシスこそが、人間という生物が地球に存在しなければならなかった理由でもあるのだ。

 人間が、産み育てるという行為を通して、多くの気付きや学びを得るというのは、子育てを経験した人なら誰でも知っている。子育ては、親育てでもある。どちらかというと、親にとっての学びのほうが大きい。多くの子どもを育てた人は、人間として大きく成長していることが多い。勿論、子育てをしなければ絶対に成長しないという訳ではない。でも、か弱きものや小さきものに対する慈悲や博愛の心は、子育てによって養われることが多い。子育てを実際に経験しないと学べないことは、非常に多いというのは間違いない。

 日本にも里親制度というものがある。どうしても子どもを産むことが出来ない方は、里親制度を活用してみてはどうだろうか。血を分けた我が子でなければ、母性愛や父性愛が生まれないということはない。実子でなくても母性愛が醸成されていくということは証明されている。昔からよく言われている、産みの親より育ての親というのは科学的な根拠があったのだ。子どもを育てるというのは、大きな社会貢献でもあり、人間としての成長に欠かせないものなのである。そのチャンスを自ら放棄するなんて、もったいないことなのだ。

 生まれつき恋愛することに臆病になる人や不安になる人がいるのも承知している。そんな人たちが結婚まで到達するのは、非常に高いハードルだと思われる。だとしても、恋愛することにチャレンジしてほしいし、結婚することも目指してほしい。勿論、籍を入れないで出産することも可能である。子育てを経験することが、人間に与えられた大きな学びの場であるのは間違いない。出産と育児をすることは、大きな社会貢献でもある。何故ならやがては社会を担うであろう子どもを育てることは、日本という国を発展継続することには欠かせない尊い行為なのである。この世で一番難しくて尊い子育てにチャレンジしてほしい。

青少年の死因第一位が自殺という日本

 15歳~34歳の若者の死因統計調査によると、死因第一位が自殺となっている。先進国の中で唯一日本だけがそんな結果となっているのは、驚くべきことであり悲しい限りである。希望に満ちた世代の筈なのに、将来を悲観しているというのはあまりにも可哀そうである。若者たちにそんな気持ちを抱かせてしまっているのは、我々の責任であると言えよう。勿論、政治家や経済界にも責任があるし、行政の無策ぶりが非難されても仕方ない。若者が未来に対する希望や夢が持てない社会であり、その対策が取れないというのは、実に情けない。

 どうして、こんなにも多くの若者が自殺をしてしまうのであろうか。日本全体の自殺者数は減っているのに、若者たちの自殺者数は増えている。さらに、小中学生の自殺者数も増加している。中高年者の自殺者数はそんなに増えていないのに、青少年の自殺者数が増加しているというのは由々しき大問題である。以前から、日本の社会は生きづらいし閉塞感を覚えているという人が多かったが、その思いが高まり続けていて、自殺率の増加に繋がっているのかもしれない。こんなにも便利で物質的な豊かさを享受できるのに、不思議である。

 さて、どうして若者たちは生きづらさを抱えていて、未来に希望を見いだせなくなっているのであろうか。様々な要因が考えられるが、ひとつの要因として考えられるのが、自己肯定感の欠如であろう。他の先進国と比較しても、図抜けて差異があるのが、青少年の自己肯定感が極めて低い点である。国際統計から見ても、他の欧米諸国やアジアの諸国と比較しても、自尊感情がとても低いという特徴があげられる。どんな部分もすべて含めて自分の事を好きか?という問いに、日本人だけがNOと答えている若者が多いのである。

 日本人の自己肯定感が極めて低いという事実が明らかになったのは、20年も前からである。国際比較調査で、指摘されていたのにも関わらず、文科省は有効な手立てを取れずに改善することも出来ず、却って悪化させてきている。この自己肯定感の低さが、生きづらさや閉塞感に繋がり、自殺率の高さを生み出している一番の要因ではなかろうか。このような憂慮すべき実情を国民に知らせて来なかったマスメディアにも責任があると思うし、文科省の無策ぶりを糾弾してこなかった政治家にも大きな責務があると言える。

 この自己肯定感の欠如は、自殺者数が多いと言う問題に留まらない。少子化の問題にも、自己肯定感が低いということが、極めて強い影響を与えているのは間違いない。この青少年の自己肯定感が極めて低いという事実に、声を大にして訴えて警鐘を鳴らしていた児童精神科医がいた。川崎医療福祉大学の特任教授だった、今は亡き佐々木正美医師である。自閉症スペクトラム症(ASD)などの発達障害の治療に尽力されると共に、多くのお母さんに愛着の大切さを訴えていた。無条件の愛である母性愛のかけ方を丁寧に指導されていた。

 日本の青少年の自己肯定感があまりにも低いので、佐々木正美教授は危機感を持ち、このままでは大変な社会になってしまうと警告を発しておられた。自己肯定感が低いのは、愛着が育っていないからであり、それは本当の母性愛が欠如しているからだと分析されていた。本当の母性愛とは、子どもをあるがままにまるごと愛するという無条件の愛である。0歳~3歳くらいまでは父性愛はあまりかけず、あるがままにまるごと愛するという母性愛だけをかけることが肝要だと説いておられた。この母性愛が少なく愛着が育たたなかったのだ。

 最近になり、愛着障害という概念が取り沙汰されるようになり、誤解されないようにとアタッチメントという原語をそのまま使用する専門家が増えている。良好で安心感をもたらすアタッチメントが形成されていない青少年が、自己肯定感を持てないのである。学校教育において成功体験や好成績を残せば、自己肯定感が育まれると提唱する教育関係者もいるが、完全な間違いである。あくまでも、絶対的な自己肯定感は0歳~3歳の時期に形成される。日本の青少年の自殺率を低下させるため、または少子化を解決するには、安定的アタッチメントの形成による自己肯定感の確立しか、他に方法はないのである。

教育虐待は何故起きるのか

 東京メトロの東大前駅で刃物を振り回して通行人に傷害を負わした事件で、犯人は自分が教育虐待を受けて不登校になったので、社会に対する恨みを晴らす為に犯行に及んだと供述している。恨みは教育虐待をした親に対して持つのが当然なのに、そんな教育虐待を起こさせる社会が悪いと逆恨みのような理論を展開しているのが注目される。以前にも同じような例が多々ある。滋賀県の看護学生が、医学部に入学させたいと教育虐待を行っていた母親を殺害した例もある。また、佐賀県の青年は父親の暴力や教育虐待から、両親を殺害した。

 こんな悲惨な事件になるのは稀なケースであろうが、同じように教育虐待と言われるような有形無形の圧力を親から掛けられて、精神を病んでしまった青少年は想像以上にいるのではなかろうか。最近は、盛んに教育虐待という言葉が使われるようになったが、以前は教育熱心な親とか、教育ママと呼ばれていた。子どもの幸福を強く願うあまりに、ついつい子どもに対して強い期待を持ってしまい、学業成績や進路に対してあまりにも口出しをする親が増えてしまったように感じる。教育虐待は、子どもに必要なのだろうか。

 教育虐待が盛んに行われているのは、日本だけではない。お隣の韓国や中国でも教育虐待と言われるような過度な家庭教育が実施されている。学歴こそがその後の人生を決定させてしまうような学歴偏重社会においては、教育虐待が起きやすいのかもしれない。日本においても、受けた教育の程度により人生が決定されてしまい、負け組と勝ち組に分けられてしまうような社会だからこそ、教育虐待は起きてしまうのかもしれない。ネット上でも、ある程度の教育熱心な親による強い指導は、子どもに必要だとする意見も少なくない。

 ある程度の教育虐待は、子どもの成長には必要なのであろうか。教育熱心な親のほうが子どもは高学歴になるし、いい学校に行けて高収入になれるから、無放任の親よりは幸福になれると思う人が多いのかもしれない。学習塾に行かせられたり家庭教師を与えられたりしたほうが、やがて幸せな人生を送れると思っている親が多いことだろう。こういう親は、自分が教育虐待をしているという自覚はない。教育格差における負け組にならないようにと、教育成果を上げようと必死になっている。子どもの教育は、親の責任だと思っているからだ。

 緩やかな教育虐待、ある程度の親からの厳しい指示や制限は許されるのか、という問いにはこう答えたい。子どもが危険な目に遭うのを防ぐため、または法を犯す怖れがあるとか、周りの人々を傷つける危険が高い場合は、厳しく指導すべきである。それ以外のケースでは、なるべく指示やコントロールは避けたいものだ。ましてや、子どもの進学・進路については、口出しをすべきではない。子どもがどんな進路を選択しようとも、親はその選択を尊重すべきである。子どもがどんな結果を得ようとも、親はそれを受け入れなくてはならない。

 そんな放任主義のようなことをすれば、子どもは楽な道を歩こうとするし、勉強もせずに堕落してしまうだろうと、とても心配する親がいるのも承知している。それも、その子にとっては大切な学びと経験であるから、親はそっと見守るべきである。ただし、親は子どもの見本になるような後ろ姿を見せることが肝要だ。読書しなさいと叱るのではなく、親が楽し気に本を読む姿を見せるだけだ。子どもにとって有益な絵本や児童書を子ども部屋に配置するのは親の務めだ。勉強もしかり。勉強せよとは言わず、親が喜々として勉学に励む姿を見せるだけで良い。

 教育虐待が起きる本当の原因は、親の生き方や考え方、または思想・哲学が低劣だからだ。親たちが正しく高邁な価値観を持ち、世の為人の為に必死に仕事をして、人生を謳歌しているのであれば、自分を信頼できるし子どもを心から信じることが出来る。そういう親なら、子ども自身が自ら努力することを信じるし、子どもの明るい未来がやってくるのを確信できるから、子どもに期待もしないしプレッシャーをかける必要もない。親は子どもの未来に対する不安や恐怖もないから、微笑みながら子どもに寄り添うだけでよい。勿論、子どもには日常的に正しい哲学を伝えることは必要である。それ以外は何も言うことはない。

何のために生きるのか

 NHK朝ドラ『あんぱん』が面白い。前期の『おむすび』があまりにも詰まらなかったという反動もあるが、朝ドラを鑑賞するのが楽しみになっている。ご存知の通り、漫画『アンパンマン』の作者やなせたかし氏とその妻の物語である。あのアンパンマンの主題歌の歌詞「何のために生まれて、何をして生きるのか」というのは、やなせたかし氏の育ての親である叔父さんが、いつも口癖のように言っていた言葉である。ことあることに、やなせたかし氏と弟に対して、「何のために生まれて、なにをして生きるのか」と問うていたようだ。

 ドラマだから父親代わりの叔父さんを美化して描いているのかもしれないが、それにしても素晴らしい父親であったと思われる。理想の父親像を実践していたようだ。子どもの生き方や将来を、親の都合や思いを一切押し付けることなく、子ども自身が望むように生きることを認めてあげたようである。自分が医院を経営しているのだから、息子たちのどちらかに後を任せたいと思うのが常だ。医師にさせたいと親なら強く思うに違いない。しかし、子どもの進路は子ども自身が選択していいよと、叔父さんは優しい眼差しを向け続けたのだ。

 世の中には、親の思うとおりの生き方をしてほしいと子どもの学校や職業までも押し付ける親さえいる。教育虐待と呼べるような厳しい養育をする親も増えている。子どももまた、親の期待に応えようと必死になって勉強やスポーツに取り組んでいるケースが多い。それがすべて間違っているとは言い切れない。しかし、親が子どもに対してあまりにも指示や指導を強くし過ぎてしまうと、子どもの自主性や自発性、主体性が育たない。つまり、自分で自分の進む道が決められなくなるのだ。自立が阻害されるだけでなく、生きる目的を見失う。

 朝ドラ『あんぱん』のやなせたかしの親代わり役の叔父さんは、二人の甥の進路に対して何も口出しをせず、二人の考えを尊重する。それだけではない、「何のために生まれて、何をして生きるのか」と二人の甥に問い続ける。子どもの教育において、もっとも大事なことは哲学である。何のために生きるのかを子どもに大人が示して、正しい生き方の後ろ姿を見せてあげなければ、子どもたちはどのように生きていいのか解らなくなる。生きる意味や生きる目的を大人が子どもに語らなければ、子どもはどのように生きていいのか迷うだろう。

 やなせたかし氏は、アンパンマンで子どもたちに人間としてどう生きるべきかを問い続けた。けっして強くはないし、悩みや苦しみを抱えるヒーローであるアンパンマンは、自分を犠牲にしてでも困った人々を助け続ける。悪さを働くバイキンマンをパンチで懲らしめるけど、けっして必要以上にダメージを与えることはしない。私利私欲や自己満足の為に生きるのでなく、人々を救いその幸福実現とのために生きることの大切さを教えてくれるアンパンマンは、叔父さんがその原型を作ってくれたのではなかろうか。

 現代の若者たちの死因第一位は、自殺だと言われている。自殺の『きっかけ』は、人様々である。自殺をしてしまう原因については、いろんな見解があろう。若者が未来に希望を見いだせないということであり、そんな失望する社会を作ってしまった我々大人に責任がある。それ以上に我々が若者たちに対して責任を負うべきことは、子どもたちに対して「何のために生きるのか、何をして生きて行くのか」ということをしっかりと伝えて来なかったことにある。生きる意味や目的を子どもに示していないし、正しく生きるための哲学を実践する姿を見せていないのだから、子どもたちが生きるのに迷うのも当然である。

 やなせたかし氏の叔父さんが、何のために誰の為に生きるのか、どのように生きるのかを自分自身の生き方でもってやなせたかし氏に示したからこそ、アンパンマンの物語が生まれたと言えよう。子どものうちは、哲学なんて語って聞かせても理解できないし無駄だと思う人は多いかもしれない。しかし、子どもたちは哲学が大好きである。子どもたちに哲学の話をすると、目を輝かせて聞き入るものである。子どものうちにこそ正しくて高い価値観の話を聞かせてあげなくてはなない。是非にも、何のために生きるのかを子どもたちに伝えてほしい。そうすれば、自殺をする若者を減らせるに違いない。