NPOを辞めた本当の理由

NPO法人に最初に関わったのが平成11年だから、昨年まで実に18年もの期間に渡りNPO法人活動をしてきたことになる。その間に、3つのNPO法人で設立当初から理事になり、中心メンバーとして運営に携わってきた。それらのNPO法人では、副理事長という立場で経営にも参画していたし、企画や管理、そして教育という重要な部門での担当をさせてもらい、NPO活動に邁進してきた。そのNPO法人を昨年で、すべて辞めさせてもらった。あれほど情熱を注いできたNPO法人から、すべて手を引いたのである。

何故、NPO法人の活動から身を引いたのかというと、表立った理由としては、イスキアの郷しらかわの活動に専念したいからと宣言してきた。しかし、それも辞めた理由の一つではあるが、本当の理由はNPO法人活動では、社会変革や人々の意識改革が難しいと確信したからである。NPO法人活動をする目的は、活動を通して崩壊してしまったコミュニティを再構築して、お互いを支え合う地域社会を創り上げることであろう。言い換えると、全体最適を目指し、関係性の豊かな社会を創ることだと認識している。それが、NPO活動だけでは、実現するのが無理だと感じてしまったのである。

NPO活動を始めた平成11年から約15年間は、人々の意識改革を実現して、望ましい社会を創造して行けると確信していた。その為に、NPO活動に心血を注いできたつまりだ。ところが、自分の力量が足りなかったせいかもしれないが、人々の意識が変革できたという実感がまったくない。そればかりか、社会における人々の意識は益々低劣化へと向かっているとしか思えない。さらに、NPO活動の経済的自立が出来ないから、活動が先細りしているのである。NPOの将来への展望が見い出せなかったのである。

特定非営利活動促進法が出来た平成10年には、社会変革を可能にするのはNPO活動しかないと、心が躍ったものである。ところが、NPO法人が誕生して既に20年になるが、職員の給与は殆どが最高でも大卒初任給レベルであるし、役員報酬が年間500万円以上の理事は皆無である。ということは、専任の理事はNPOの報酬だけでの生活が困難だし、NPOの職員が結婚して子どもを育てるというのは、極めて難しいということである。福祉系のNPO法人では例外もあるが、殆どのNPO法人で、専任の優秀な役職員が集まらないのは当然である。

NPO法人の役職員で、経営のセンスや実務能力を持っている人は極めて少ない。ましてや、マネジメントの諸原則を一般企業の役職員のように真剣に勉強している人は殆どいない。理念は立派でも、経営能力を持たない役員が多いのが実情である。マーケティングの基本原則やイノベーションの基本さえ知らないのである。そもそもNPO活動にとって、社会的イノベーションを起こすというのも本来の役割の一つである。しかしながら、イノベーションの基本原則さえ知らないのだから実にお粗末である。

NPO活動における経営と財務の自立が出来ていないのは、委託事業や補助金に頼り切っているからであろう。または、公的収入に依存せざるを得ないからである。拡大再生産の為の自主財源を確保できるほどの収入を得るようなNPOは皆無である。内部留保を持たなければ、設備投資や人材育成に対する先行投資ができない。しかるに、委託業務や補助金業務に依存していては、優秀な人材を育てることは出来ないし、委託費には満足な管理経費さえ認められないから、NPO活動が活性化する望みはないのである。

結論として導き出されるのは、地域活性化やまちづくりは民間の営利企業でしかなしえないということである。仮定の話として、過疎地域の法人の殆どが、NPO法人や市民活動団体になったとしよう。そうなれば、法人税や役職員の所得税などの税収は上がらず、地方自治体の存続すら危ぶまれる。地域経済の浮沈は民間企業の活性化にかかっているのである。したがって、我々が今なすべきなのは、優秀な若者が地域で活躍するビジネスモデルを創り上げることである。都会の優れた若者が地域に移住して活躍したいと思うようなビジネスモデルを、どのようにシステム化するかである。「イスキアの郷しらかわ」は、実はそんな役割も担っていると思っている。地域の問題や課題を解決しながら、ビジネスとしても成り立つことが出来て、子を産み育てられるような個人収入も確保できるようなビジネスモデルを創造することを成し遂げたい。それが、崩壊してしまった地域コミュニティの再構築と市民の意識改革、そして社会的イノベーションをも実現させると信じている。

過労死を二度と起こさないために

野村不動産の社員が過労死をしたというニュースが流れた。それも、違法の裁量労働制をしていたと摘発されたのである。本来、裁量労働制という制度で認められているのは、研究職や技術職の専門的な職種と企画開発のような特殊な職種である。今回、違法だと摘発された野村不動産のケースは、主に営業をしていたのにも関わらず、無理やり企画開発職だと偽って労働契約を結んでいたと見られている。こんな誤魔化しが、野村不動産では日常化しているのである。なんと6割近い社員が裁量労働制を強いられているというから驚きである。

そもそも、裁量労働制というのは自らが労働時間を設定できて、出社時刻と退社時刻が決められていない筈である。ところが、実際には他の社員と同じ時刻に出社することが決められていて、しかも退社時刻の前に退社することは認めていられない例が多い。労働量と業務量も自分で設定できる筈なのに、上司からこれだけの業務をこなすようにと指示されているケースが殆どである。つまり、現在の裁量労働制の大半が違法状態になっているのである。この裁量労働制が、残業手当を少なくするための隠れ蓑として利用されているのである。

こんな酷い実態なのに、政府と自民党は経営者側からの要求を鵜呑みにして、裁量労働制を営業職まで広げようとしたのである。つまり、内閣と自民党は違法行為だと知りながらそれを見逃すだけでなく、その違法行為を助長するような裁量労働制の改悪までも目論んだのである。ということは、過労死を益々増加させるような悪法を制定しようとしたのである。未必の殺人行為といえるような暴挙に、内閣が手を貸そうとしたと言えよう。経営者と政府自民党は、こんな悪法を通そうとしていて、それに行政職も協力してしまったと想像できる。

それにしても、こんな違法状態を見逃している各労働局と労働基準監督署は、酷い職務怠慢だと言える。過労死が起きてから慌てて摘発するのであれば、労働局や労働基準監督署なんて不要である。こういう違法状態を野放しするだけでなく、本来はこんな状況になる前に予防する役目を果たすべきであろう。労働局や労働基準監督署は、各企業に対して立ち入り調査をする権限が与えられている。裁量労働制の導入に対して、しっかりと検証してから認定すべきであろう。しかし、このように違法性を見逃している実態があるのだ。

日本国憲法の基本的人権の尊重と労働法というのは、弱い立場である労働者の正当な権利を守る為に制定されている。そして、厚労省、労働局、労働基準監督署というのは、その労働者の正当な権利が侵害されないように厳しく監視すると共に、違法行為を起こさないように経営者側に対して厳しく指導監督する役目を負っているのである。しかるに、厚労省は政府と経営者側に有利に働くような調査結果になるように報告書を偽造したと見られている。こんな暴挙を絶対に許してはならないのである。

日本国憲法は三権分立を謳っている。立法、司法、行政が完全に独立して、それぞれの誤作動や暴走を牽制するシステムになっている。ところが、最近の政府自民党の言動は、立法と行政がそれぞれに牽制するどこか、お互いに協力し合っているとしか思えない。これでは、国民の幸福や福祉の向上に寄与しないどころか、国民に過酷で不幸な生活を強いるような暴走に陥っていると考えられる。この誤った裁量労働制による過労死という未必の殺人行為に現れていると言えよう。過労死したNHKの女性記者のような犠牲者が、これから益々増えてしまうに違いない。

過酷な長時間労働は、労働者の健康を損なうだけでなく、その勤労意欲を大きく削いでしまう。そして、労働効率や生産性を低下させてしまう。企業側に取っても、マイナス面が大きいのである。家庭においても、父親から家事育児参加の時間を奪ってしまうので、母親の負担が増えてしまいストレスが多大になり、様々な家庭問題を起こす要因になる。労働者が趣味やスポーツの時間も取れなくなることで、ストレス解消も出来なくなり心身の障害が起きる。休職や離職に追い込まれひきこもりが起きてしまうし、子どもの不登校も起きかねない。つまり、過酷な長時間労働は、国家的な損失に繋がるのである。過労死が起きるような酷い労働環境を止めることが出来るのは、投票権を持つ我々国民しかいないことを認識すべきであろう。

働き方改革は労働者の立場で

働き方改革は安倍内閣の目玉政策として、進められている。連日、国会の予算委員会で活発な法案の集中審議が展開されている。これからの日本の労働政策の根幹にかかる重要課題であるが、どうやら労働者に配慮した働き方改革ではなく、雇用側にとって有利な働き方改革になっているような気がする。その最たるものは、裁量労働制度の業種拡大であろう。その討論の根拠となるデータが、明らかにねつ造されているのではないかとの疑いが明らかになった。裁量労働制は働き方改革にどうして必要なのか、まったく理解できない。

そもそも裁量労働制というのは、残業手当を削減する目的の為に制定されたものである。労働者にとっては、メリットはまったくなく、雇用側にとっては有難い労働制度である。いくら働かせても、残業手当を定額しか支払う必要がないのだから、益々長時間労働になるのは当たり前である。裁量労働制は、本来は労働者が労働時間を決める裁量を認められているのが基本となる。しかし、実際には労働者に自由に労働時間を決める裁量は認めてられていないのである。その前提が棄損しているにも関わらず、裁量労働制が認められていること自体が憲法違反であり法律違反なのである。

このコンプライアンス違反の実態は、労使共に把握しているだけでなく、厚労省・労働局・労基署は完全に把握しているのに、見て見ないふりをしているのである。だから、裁量労働制の実態調査をしていないのである。それなのに、この裁量労働制をさらに広げるという無茶な政策を推し進めようとしているというのは、労働者を見殺しにするようなものである。過労死が問題になっているのに、益々過労死が増えるに違いない。日本の労働環境は、欧米から見ると酷い状況にあるが、もっと劣悪なものになることであろう。

政府が推し進める働き方改革は、労働者不足を解消する為の政策である。労働者が勤労意識を高揚できると共に、働きがいをおおいに感じることができ、しかも余裕のある働き方ができることで、家族の触れ合いが出来る余暇の時間が持てて、父母共に子育てがしやすい環境を持てる為に働き方改革をするべきである。ところが、どういう訳かその真逆の働き方改革の法律改悪になっているのである。これでは、労働者が子育てや介護に充てる時間が益々減少してしまい、少子化はどんどん進んでしまうことであろう。

現在、多くの若いママさんたちはシングルマザーになるという選択をしている。その理由は、夫が毎日朝早くから深夜まで仕事に専念し、休日まで出勤して、子育てや家事全般が妻だけの役割になっているからである。そのため、子どもの世話だけでなく夫の世話までさせられて、目いっぱいの状況にさせられている。それは専業主婦だけでなく、共働きの家庭でも同じように妻だけが頑張っている状況にある。仕事で目いっぱいになっている夫は、妻の大変さを解ってくれないし、愚痴も聞いてくれない。これでは、一人親のほうが精神的には楽だと、離婚してしまうのである。

こんなふうにシングルマザーを作り出してしまっているのは、日本の労働環境が悪いからである。日本人のサービス業や事務管理業務における生産性が、極めて低いというのは、長時間労働によるものである。人間というのは、毎日労働時間が長くて休日もろくに取れないと、労働意欲が低下するし能力低下が起きる。それ故に長時間労働にならざるを得なくなっていると言えよう。さらに、基準労働賃金が極めて安いものだから、残業手当が生活賃金になっているのである。こんな労働実態を作ってしまったのは、政府による労働政策の無策からである。日本の労働政策が、企業側の利益を守るためのものになっているからこんな酷い状況になっているのだ。

本来働き方改革というのは、労働者の立場で進めるべきものである。経済優先ではなくて、人間優先でなくてはならない。政治というものは、強いものの味方になってはならない。常に社会的弱者に配慮した政治を進める責任が、政治家と行政職に求められる。安倍内閣は、経済優先の政策を推し進めていて、労働者や国民の利益確保とか福祉向上を無視しているとしか思えない。自分のすべてを仕事にかけるような働き方を労働者に強いてはならない。仕事だけでなく、家庭や地域での活躍が可能になるような働き方改革こそが求められているといえよう。そうすれば少子化も防げるし、生産性も高まるし、働きがいや生きがいの持てる働き方が出来るに違いない。

働き方改革は意識改革から

政府主導で働き方改革を進め始めている。この働き方改革というのは、労働者視点からのものならば大歓迎である。しかし、産業界における労働力不足を解消するための方策としての働き改革であるとしたら、絶対に認められないものだと言えよう。労働力不足を何とかしたいし、安価な労働単価で働かせるには、子育て世代の女性をパート就労させるのが手っ取り早いと考えるのはあまりにも安直である。そのための働き改革ではないかと思えて仕方ない。こんなものが働き方改革だとしたら、絶対に賛成できない。

政府自民党は常に産業界・経営者団体にとって都合の良い政策を推し進める傾向にある。表面的には国民の利益を代弁しているように見せかけながら、実際は経営者側の観点から労働政策を進めているとしか思えない。みなし労働制の導入や派遣労働法の改正など、労働法制の改正はすべて労働者の不利益にしか思えない。配偶者控除の見直し政策も、安い労働力を得るための安易な方策であろう。厚労省のキャリア官僚は、おしなべて政府自民党の言いなりになっている。国民目線での法改正は、まったくないのが現状である。

本来、高級官僚を始めとした行政職というのは、国民の利益を守るべき立場にあるのが正しい。ところが安倍一極体制があまりにも強固であるが故に、官邸に対して何も言えなくなっている。何故かと言うと、官邸がキャリア官僚の人事権を掌握しているからである。しかも、退官後の再就職さえも官邸が主導しているのである。こんな国は、独裁国家以外には世界中のどの国にもない。これでは、官僚が国民の忠実な僕(しもべ)ではなく、政府官邸に従順な僕になるのは当然である。官僚としての矜持を持てと言っても、がっちり鎖でつながれて支配されているのだから、所詮無理であろう。

このような政治と行政なのだから、働き改革がどんなものになるか想像できよう。産業界・経営者団体から多大な政治献金を受けている自民党が、労働者と経営者のどちらに有利になる政策を推し進めるのか、自明の理である。働き方改革は、大賛成である。それが労働者の意欲や勤労意識を高めることに寄与し、働くことの喜びを享受することが可能になるならばである。ところが、政府自民党の推し進める働き方改革は、どうやらその反対の方向に向かっているとしか思えないのである。

本来の働き方改革というのは、現状の問題点を解決する方向に向かわなければならない。現在の日本における働き方で問題になっているのは、まずは労働分配率のあまりにも低さである。欧米の比率から見ると、明らかに低いのである。大企業の内部留保があまりにも多いし、役員報酬にばかり利益が分配され過ぎである。これをまずはどうにかしなければならない。労働者の基準賃金があまりにも低いから、長時間労働を余儀なくさらされ、残業手当で補わなければ生活が出来ない状況に陥っている。日本の第三次産業や事務一般職における労働生産性は、先進諸国の中で最悪である。これらの問題を優先的に解決するのが、本来の働き方改革であろう。

これらの諸問題を抜本的に解決する働き方改革をするには、どうしたらよいであろうか。それは、経営者と労働者双方の抜本的な意識改革がまず必要であろう。生産性を向上するには、労働者と管理者の意識を大改革しなければならない。残業は必要悪なんだという考え方をまずは払拭しなければならないし、休日残業はしなくても必要な業務は遂行できるという意識を持つことが必要である。初めから残業ありきで仕事をすることが脳に刷り込まれている日本人が殆どである。それを、残業しなくても仕事を遂行するにはどうしたら良いかと考えるのである。欧米のビジネスマンは、夕食は家族そろって団らんする時間をどのように確保するのかが絶対的命題である。それを成し遂げるために労働スケジュールの配分をする。日本人だけが出来ないということはあり得ない。

日本人労働者は、残業労働するのを美徳と考える向きがあり、サービス残業を喜んでする社員を重用したがる。朝から、終業時刻を目安として働くのではなく、午後11時から12時を退社時刻設定にしてスケジュールを組むのが常である。この間違った意識を破壊することが必要であろう。喜びを感じながらイクメンに勤しんでいるビジネスマンは、実際に残業をせずとも他の労働者と対等の労働成果を上げている。そういう管理職も増えてきている。それが出来ないビジネスマンは、これからは落ちこぼれになっていくだろう。労働生産性を上げる為には、抜本的なイノベーションが必要である。それで労働生産性が上がれば、基準内賃金を高めることに経営者も着手しなければならなくなる。残業手当がない労働報酬を基準にする働き方をすべきである。経営者自ら意識改革に取り組み、労働生産性を上げる努力をすることこそが、真の働き方改革につながることだろう。

行政主導の地方創生が成功しない訳

起業女子ともてはやされたり、地方で起業して街おこしという甘言に誘われて都会から移住したりする若者がいる。実際に、その中でどれほどの人が成功を収めているのだろうか。成功という基準があいまいだから、何とも言えないであろうが、起業して成功しているというならば、少なくても自分自身の手取り収入が都会での平均給与程度かそれを上回っているレベルであろう。まあレベルを下げて、地方における平均給与だとしても、経費を差し引いた手取り収入が年額500万円くらいは欲しいところである。ところが、これだけの収益を上げられている地方における起業者は、殆どいないのが実情である。

全然いない訳ではなくて、しっかりした戦略とビジネスプランを実践して会社組織にして頑張っている人もいる。農業法人を設立して米の生産とおむすびの販売を全国展開をしている人もいるし、地方でIT産業を起業して成功した人がいない訳ではない。しかし、圧倒的に少数であるのも事実である。何故、地方創生の起業成功例が少ないのかというと、あくまでも補助金や委託事業頼みで起業して、その委託や補助金がなくなってしまうと急激に事業が萎んでしまうからである。似非コンサルタントに踊らされて、創業塾なるもので洗脳されて起業してみたはいいけれど、何年か後には倒産という例が実に多いのである。

NPO法人の例を見てみれば、一目瞭然である。NPO法人で成功しているのは、障害者自立支援法による公的収入を得ている処や行政からの委託事業で運営している処だけである。公的な収入に頼らず、民間を相手にして自主的財源をしっかりと確保して、しかも職員に年間500万円以上の給与を支払っているNPO法人は皆無である。法人経営というのは、そんなに甘いものではないということである。なにしろ、経営者として素人の人間が、ビジネスの基本も知らずに法人経営を行うというのだから無茶にもほどがある。

大学で、経営学や経済学を学んだのだから、会社経営は何とかなるだろうという甘い期待は、一切通じない。経営戦略書、経営計画書、財務計画書などをしっかりと作ることが出来て、しかもマーケティングの基本を熟知して、真のイノベーションを起こせるというならば話は別である。しかし、現実としてそんな起業女子はいないし、地方創生で応募してくる若者は、マーケティングのイロハさえ知らない。ましてや、地方創生でコンサルタントとして雇われる人物は、都会で役に立たなくて仕方なく地方にやって来た三流のコンサルである。どうみたって成功する筈がない。

このように地方創生で予算化された有難いお金は、無残にもどぶに捨てられてしまうのである。それじゃ、地方で起業しても駄目なのかというと、けっしてそうではない。しっかりとビジネスの基本を勉強して、余裕のある資金計画を立て、イノベーションを起こすことが出来たら起業は成功するに違いない。まずイノベーションというと、多くの人々は勘違いしている。ここから間違っている。大企業における技術革新をイノベーションと呼ぶと思い込んでいるが、まったく違っている。そこから学び直さないといけないのである。

イノベーションとはJ・A・シュンペーターが唱えた経営発展論である。その基軸となる考え方は、「新しい統合」である。何を統合するのかというと、違う商品価値どうしを結びつけることにより新しい商品価値を創ったり、違う分野の生産価値どうしを統合して新たな生産価値を生み出したりすることである。簡単に言うと、異質なものと異質なものを組み合わせることで新たな価値を創造することであり、そしてそれにより新たな顧客を生み出すということでもある。これがイノベーションであり、スマートフォンやフェイスブックはその成功例だと言われている。

地方でも既にイノベーションを起こしていると、胸を張る行政マンもいる。グリーンツーリズムや農産物の六次化である。確かにある意味、農業と観光という異質なものを統合したグリーンツーリズムや、農業・加工業・販売を統合した六次化はイノベーションだと言えなくもない。しかし、それにより新たな顧客を生み出せたのかと問うと、残念ながら顧客創造は果たしていないのである。それは、マーケティングにおける基本戦略の甘さによるものであろう。農業関係者や行政関係者というのは、プロダクトアウトという考え方に固執していて、マーケットインという価値観を併用できなかったのである。さらに、デザイン思考という視点も欠如している。それ故に新しい顧客を生み出せなかったのであろう。このようなビジネスの基本さえ把握していないのだから、これからも残念ながら行政主導の地方創生は成功しないに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、地方で起業女子として活躍したい人や、地方において起業による町まちづくりをしてみたいと計画している方を対象に、イノベーションやマーケティング、デザイン思考の勉強会をさせてもらっています。希望者には、個別の研修会(無料)をさせてもらってもかまいません。是非、ご相談ください。

旭日昇天よりも雲外蒼天

NHKTVで放映された「澪つくし」という時代劇で、旭日昇天と雲外蒼天という言葉が出てきた。これまで聞いたことがなかったこともあり、非常に興味を抱いた。ドラマの中では、こんな意味として使われていた。主人公が幼少の頃、ある人相見の達人に、その女の子と幼友達がこんなことを言われる。幼友達は、成人したら大成功を収める相を持つ人相をしている。これは、滅多にない旭日昇天(きょくじつしょうてん)の相だと言うのである。朝日が天に昇るがごとく、何の障害なく順調に天下に誇るような人物になるというのである。

一方、主人公の女の子は雲外蒼天(うんがいそうてん)の相があると言われる。この相を持つ人物は、雲の隙間から青い天が望むがごとく、様々な苦難困難に出遭うものの、それらの障害を乗り切り成功を収めることが出来ると言われるのである。実際には、幼馴染は廓(くるわ)に売られるのであるが、持って生まれた器量でめきめき出世して、押しも押されもせぬ当代一の花魁(おいらん)になるのである。主人公は、何度もひどい目に遭いながらもその度に乗り越えて、江戸で有数の料理人として大成するのである。

この人相を見る達人は、確かに人相を見る目はあったということになる。ただし、幸福度という点ではどうだろうか。主人公は何度も苦難困難に出遭う度に、一回りも二回りも成長したのである。そして、苦労の末にようやく掴んだ成功であるから、喜びは人一倍である。何にも苦労せず、持ち前の美貌だけで吉原随一の花魁になったのでは、幸福感はそんなに多くはないだろう。幸福感という点では、苦労をしてきた主人公のほうに分があると言えよう。

実際の世界においては、旭日昇天の人物はそんなに多くない筈である。多くの我々凡人は、雲外蒼天であろう。そして、様々な苦難困難を経験する。それらの苦難困難に逃げずに立ち向かい、そして乗り越えて「艱難汝を玉にす」の諺のように、人間としての立派な成長が可能になるのである。この社会で大成した人間、または人間として立派な人は、苦労をした人である。親の七光りでたいして苦労もせず成長した人間のなんと薄っぺらな事であるか。または、恵まれた境遇に生まれて、たいした苦労もせずに一流大学を出て高級官僚になった人物は、自分でも苦労したことないから、人の苦労にもそ知らぬ顔をする。

人間として大成する二つのプロセスがあるとすれば、望んで出来るのならば間違いなく旭日昇天ではなくて雲外蒼天の生き方をしたほうが良いと思われる。今度NHKTVの大河ドラマで描かれる西郷隆盛は、間違いなく雲外蒼天であろう。下級武士の家系に生まれながら、何度も挫折をしながらも乗り越えて、後に南洲翁と呼ばれるように誰からも尊敬される大人物となる。苦難困難に見舞われなければ、同じような地位に就いたとしても、あのような素晴らしい人間性を持てたかどうかは解らない。

西郷隆盛は後に南洲翁と呼ばれ、南洲翁遺訓と呼ばれる書物に彼の残した言葉が残っている。彼は、苦労して作り上げた明治政府の要職を自ら捨てて、野に下る。時の明治天皇が一番信頼し頼りにしていたのは、西郷隆盛であった。しかし、あまりにも腐敗して私利私欲に走る明治政府の政治家たちに愛想を尽かしたのではないだろうか。山形有朋や伊藤博文などの長州出身の政治家たちは、私腹を肥やし、妾を政府の要職につけるような出鱈目な政治をしていた。南洲翁遺訓では、『ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された』と記されている。

また、南洲翁遺訓では弱者に対する思いやりを説いていて、自分を愛するように他人を愛するような政治をすることが肝要であるとも説いている。小さな政府にして、税金を少なくすることで国力を上げることが出来るとも主張している。無駄な軍備を持つなとも説いている。現代の政治家は真逆である。このように自分を厳しく律し、常に国民の福祉や幸福のことを考えた西郷隆盛は、理想の政治家でもあった。現在の二世議員である政治家たちは、おそらく旭日昇天の育ち方をしたのであるまいか。西郷隆盛が傑出した政治家として大成したのは、雲外蒼天の育ち方をしたからに違いない。今度から選挙で政治家を選ぶときには、旭日昇天の政治家ではなくて雲外蒼天の政治家を選びたい。

女性が活躍する時代

これからの日本においては、女性が活躍する時代を創っていくんだと、政府が宣言している。果たして、政府の思惑通りに行くのであろうか。既に女性が活躍している企業や業界が多数存在している。それでも、また部分的にでしかないと言える。まだまだこの社会は、男性中心に動いている。政府が声を大にして、女性が活躍する時代を創るというのは、労働者不足を何とかしたいという事情があるからであり、本気で政治界や経済界のトップリーダーとしての役割を女性に求めてはいない筈である。あくまでもそれは掛け声だけであり、男性社会における補助的役割しか期待していないのではないだろうか。

日本ではまだまだ男性社会であるが、世界各国では、政治だけでなく経済もまた女性のリーダーに委ねようとする動きが加速している。世界の元首を見てみると、女性が大統領や首相を務める例をあげればきりがないくらい多い。現職だけでも、ドイツのメルケル首相、チリ、スイスの元首も女性であり、他にも多数の現職女性リーダーがいる。過去には、マーガレット・サッチャーやインディラ・ガンジーといった名宰相がいたことは記憶に残っている。これから、益々女性の大統領や首相の誕生は増加するに違いない。それが世界の趨勢なのである。しかし、日本においては優秀な女性企業家や地方自治体の女性首長は生まれているが、女性首相が誕生するのは、残念ながらまだ少し先のような気がする。

それでは何故、こんなにも多くの女性が政治のリーダーとして、国民から指示され始めたのであろうか。女性が強くなったからとか女性の意識が高くなった為とか、または男女平等意識が高まったからというだけではあるまい。男性よりも女性のほうが、国のリーダーとして相応しいと国民たちが感じ始めたからではないかと思うのである。逆説的に言えば、もう男性に国政を任せられないと国民が思い始めたからではないだろうか。おそらく、男性の強烈な支配的なリーダーよりも、国民の目線を持った感性豊かなリーダーを求めるようになったのに違いない。日本や米国だけは、それに逆行している感はあるが。

男性は、一般的にどちらかというといざという時の決断力や胆力、または空間認識や創造性に優れていると思われている。そして、女性は繊細な感性や思いやり、相手への傾聴や共感力に長けていると見られている。男性と女性で一番違うのは、やはり相手の気持ちになりきっての言動が出来るかどうかという点であろう。何故そんなにも男女で違うのかというと、情報処理に使う脳の構造にあるのではないかと思われている。女性は、母性を発揮して子育てする為に右脳と左脳を繋ぐ脳梁が太くなっているのである。右脳と左脳の情報交換を豊かにすることで、子育てを上手に出来るようにしたと推測出来る。子どもの気持ちを自分のことのように感じなければ、子育てに失敗するからに違いない。

結論とすれば、国民が求めているのは、強烈なリーダーシップで国民を支配する為政者ではなくて、国民の気持ちに心底共感して、国民目線で行う政治リーダーなのではあるまいか。そして、女性の細やかな感性や先入観に捉われない柔軟な考え方が、この難しい世の中に必要なのだと思われる。政治の舵取りが非常に難しくなっている今の時代にこそ、どんな難題にも応えられる女性の政治リーダーが必要なのだと思える。勿論、難しい舵取りが要求される経済界に於いても、優秀な女性の企業家が次々と誕生しつつある。いずれ日本の政治の世界でも経済界でも、素晴らしい女性リーダーが続々と誕生するに違いない。これからの時代は、女性が活躍する時代なのである。

では、男性の時代は終わりなのかと言うと、そうではない。男性も優秀なリーダーとして活躍出来ない訳ではなく、立派なリーダーにもなり得る。その為には、男性性だけではなくて、繊細な感性や相手への共感などの女性性をも兼ね備える必要がある。男性のリーダーにこそ、これからは豊かな『女子力』が必要だと言えよう。歴史的にみても、過去に活躍した各国の女性元首たちは、例外なく女性性だけでなく男性性をも発揮している。つまり、男性性と女性性を共に兼ね備えた人物がこれからの時代のリーダーに相応しいということだろう。これからは女性が活躍する時代というより、女性性を発揮する時代と言うべきなのかもしれない。

日本の生産性が最下位の訳

日本人一人当たりの労働生産性が、G7各国の中で最下位だというショッキングなニュースが流れていた。先進諸国の中で、日本の生産性が低いということは言われていたが、まさか最下位になるとは思いもしなかったのに、はっきりした数字で現わされると衝撃的である。以前から言われていたのが、ブルーカラーの生産性はそこそこ高いが、ホワイトカラーの生産性が低いという事実だ。今回、やはり生産部門は結構生産性が高いらしいが、サービスや販売部門の生産性が各国と比較して異常に低いので、足を引っ張ってしまったという。どうして、日本の生産性がこんなにも低いのだろう。

日本の一人当たりの労働時間は、先進諸国のそれと比較して異常に長い。それも、生産性の低さに影響しているのかもしれない。逆説的に言えば、生産性が低いから残業をせざるを得ないとも言えよう。西欧のサービス部門や販売部門は、残業もそんなにしないし、休日もしっかり取っているという。しかも、有給休暇消化率も高いし、バカンスと呼ばれる長期休暇をしっかり取れている。日本では、有給休暇もろくに取れていないばかりか、休日出勤も多い。そもそも所定労働日数も先進諸国と比べて多過ぎると言える。日本人は働き過ぎだと言ってもいいだろう。

どうして、日本人はこんなにも長時間労働するのだろう。事務処理能力が低いのであろうか、それとも段取りが悪いのであろうか。日本人の事務処理能力や段取りにはそんなに問題があるとは思えない。どちらかというと、無駄な時間を浪費しているように思えるのである。生産性に直接影響のある仕事を優先にしないで、仕事の仕組み作りや規則など、またはマニュアル作成や管理手順などの周辺業務に追われているように感じている。しかも、会議や打ち合わせなどに時間を浪費しているように思うのである。

本来の生産的な労働でなく、こんなにも非生産的な労働に時間が費やさられるのかというと、それは労働者の意識が低いからであろう。労働者の主体性・自発性・責任性が異常に低いのである。仕事に対して前向きになれなくて、多くの人が働かせられているという意識になっているように思える。当然、自ら仕事のやり方を工夫したり改善したりする意識も低い。ミスとかやり直しも増える。部門間の関係性も悪く、連携も上手く行かないから問題が山積みになっていて、改善の糸口もつかめていない。モラルも低くて、偽装事件などのコンプライアンス違反も後を絶たない。

日本の生産性が低いのは、労働者の主体性・自発性・責任性が発揮されていないからであるのは間違いないだろう。そして、そうなってしまっているのは労働者だけが悪い訳ではない。企業として、労働者の勤労意欲を高める努力をしていないからである。勤労意欲が低いのは、社員満足度が低いからであろう。社員満足度というのは、待遇や職場環境のことではない。それは、社員不満度要因である。社員満足度というのは、顧客の満足度を高めるのに自分が貢献できている時に高くなる。

会社の仕組みを大胆に変革し、社員満足度を高めることで顧客満足度を飛躍的に高めることに成功した企業がある。それはSAS(スカンジナビア航空)である。若き経営者ヤン・カールセンがCEOに付いて、接客部門への徹底的権限移譲をした。顧客と接する最初の15秒を「真実の瞬間」と呼んで、顧客満足度を高める最大限の努力をすることを社員に求めた。その為には顧客と直接応対する者に、出来得る限り権限移譲をする必要があるとして、大胆な組織改革をしたのである。顧客満足度が飛躍的に高まり、業績はV字回復した。そうすることで、社員の働く喜びがとてつもなく大きくなり、社員満足度が高まり、意識改革が実現したのである。

顧客の喜びや満足は、社員のモチベーションを上げるし、主体性を持たせることができる。稲盛さんがJALのCEOに付いて、徹底的な権限移譲と意識改革を実行して、顧客満足度を高めて、業績がV字回復したのも同じ手法である。社員の意識を改革して、主体性・自発性・責任性を持たせるには、出来得る限り接客現場に権限移譲する必要がある。言い換えると、自分が会社を代表するという意識を持つことこそが、働く喜びを実感できるという意味である。社員一人一人自分が社長だと思えるような会社作りが必要なのである。そうすれば、社員のモチベーションも高まり、自ら進んで仕事の効率と品質を高める改善を実行するに違いない。当然、収益性も飛躍的に高まるから、労働生産性も向上すると確信している。

誰が選んだこんな議員

方議員のとんでもない低レベルに驚くばかりである。セクハラ、パワハラ、モラハラ、マタハラは平気でするばかりか、まともに質問さえできない議員が多いという。ましてや、議会報告をしていない議員も多いし、正確な会計処理も出来ないから、収支報告書も適正に作れない議員が多いみたいである。なんとパソコン操作も殆ど出来ない議員もいるという。小学生だってネットで情報収集をする時代である。ネットで情報の検索も出来ないというのは、実に情けないことである。それなのに、政務調査費はしっかりと限度一杯に利用している。とんでもない地方議員がいるものである。

地方議員というのは、市町村の議員と県会議員である。町村の議員はかなり議員数が抑えられていることもあり、まともな議員だけかと思いきや、そうでもないらしい。なにしろ、自分の理念や信念など皆無に等しく、強い発言をする議員に追従したり、大きな派閥に入って利権のおこぼれに預かったりするような議員が多いという。寄らば大樹の陰と言われているが、政治に対する確かな価値観や哲学がまったくないらしい。そんな議員だらけなのだから、地方創生なんて実現する訳がない。

そんなとんでもない議員を生み出してしまったのは、我々市民である。地方になればなるほど、地域の代弁者という性格を地方議員が持つ。だから議員の政治姿勢や政治哲学なんてそっちのけで、自分たちの地域の利害を代表する議員を選ぶ傾向が強い。これは大きな地方都市でもあるし、県会議員だっていまだに存在する。だから、建設関連業者が必死になって応援するし、建設関連業者と癒着しやすいのである。自分たちの住む地域の公共施設などのインフラを整備してほしいと、議員に陳情する構図が出来上がるのである。地方のインフラ整備は、意見の強い議員や首長の胸先三寸で選択される傾向が強い。

国や県に働きかけて、補助金をもらって無駄な公共施設を作るとどうなるのか。確かにイニシャルコストは半分とか3分の2くらいで済む。しかし、箱物を作れば当然ランニングコストがかかるのである。地方市町村にこんな立派なモノは要らないだろうと思うような箱物が作られる。その箱物のメンテナンスコストや運営管理コストは、相当な金額になり財政を圧迫している。そもそも、そんな立派な箱物が必要だという根拠や必要性なんてないのである。周辺市町村が共同で作るか、もしくは大きな市に対して周辺の町村は運営管理の補助金を出せばよいのである。

このように無駄な税金の使い方に対して、市民は何も言えない。そもそも議会がチェック機能を持つべきなのである。予算・決算の承認は議会なのだから、本当に必要なものなのか、そしてランニングコストはどれだけ必要で財政上問題なのかというチェックが必要なのである。ところがチェック機能を発揮出来ない議員ばかりなので、こんなにも無駄な箱物が出来あがってしまうのであろう。議員が適正に議会を運営しているかどうかをチェックするのは、市町村民である。駄目な議員は次の選挙で辞めさせればいいし、そもそも選ばなければいいのである。

ところが市長村民が無知なものだから、議員のチェックがなおざりになってしまっているのである。市民オンブズマンという制度がある。中立性を持つ弁護士や大学教授などの学識経験者が、行政の在り方や予算執行が適正かについて審査して、無駄遣いをチェックする。議員の不正や怠慢に対しても、厳しく意見する。当然、政治と行政に緊張感を持たせ、襟を正させるという効果が現れる。しかし、一方では市民オンブズマンは特定の政治勢力と結びつく危険性があると反対派が主張する。確かに中立性が担保できるかどうかという問題は存在する。

とは言いながら、市民オンブズマンは各地で大きな成果を上げている。行政の無駄遣いを明らかにして、多額の県税を返還させた実績も多数ある。最近では北海道警察が多額の無駄遣いをして、利益を受けた管理職が自腹で返還したという事件が有名である。このように、中立性を保った市民オンブズマンが活躍して、議会と行政に対してチェック機能を果たせるのであれば、とんでもない議員は排除されるであろう。そもそも問題ある議員を選ばないように我々市民は、十分に候補の政治姿勢や人間性を吟味して選ばなければならない。さらには、市民オンブズマンを活用してチェック機能を果たしていきたものである。

ネットの世論操作に騙されるな!

インターネット上において、巧妙に世論の操作をするという卑劣な行為が横行している。米国の大統領選での世論操作が当選結果に影響したと言われている。その世論操作にロシアの関係者が関わっていたというニュースが流れている。また、韓国においても軍部が世論操作をしていたとして、元国防相が逮捕された。元々韓国という国は、世論の動向が政治に色濃く反映されるお国柄である。世論を操作して、自分たちの政治に利用したいと思うのも当然であろう。英国のEU離脱への国民投票結果に、世論操作が利用されたというニュースも報道されている。

このように、国の大事な政策決定や選挙結果に世論の動向が影響するのは仕方ないとしても、その世論が巧妙に操作されたものだとしたら、非常に危険な事だと言わざるを得ない。日本においては、世論操作が巧妙にされているという証拠はないものの、一切存在しないということも言い切れない。現在の政治体制や経済体制を守ることが、自分たちの権威や利益を守ることに繋がるというのなら、多大なコストを支払ってでも、世論操作をしたい人がいないとも限らない。昔ならばこんな心配は不要だったのに、ネット社会だからこそこういう危険性が増したと言える。

このように体制維持の為や選挙結果を変えるような意図的な世論操作は、絶対に許せない。とは言いながら、意図的で卑劣な世論操作に騙される人がいるのは確かだ。とすれば、このような世論操作に騙されない確かな見識と信念が必要であろう。このような卑劣な世論操作に左右されないようにする対策を取らなければならない。ましてや、フェイクニュースによって振り回されている人々が存在するのは確かである。インターネット上において、我々が実施した検索エンジンの入力は、すべてインターネット検索会社の有用な情報として蓄積される。そして、その有用な情報が売り買いされていると推測される。

このように、インターネットでどんな文言や記事を閲覧したのかという個人情報が、すべて把握されてしまうのである。したがって、この人はこのようなものに興味があるとか、この人物はこのような思想傾向があるとかがまるっきり解ってしまうのである。そうすると、このような思考の傾向がある人間を、同じような考え方に上手く誘導して、より過激な思考に洗脳するのは簡単である。この傾向にある記事やニュースを見つけたら必ず読むし、その考え方があたかも自分の考え方だと思い込みやすい。だから、世論操作が簡単に出来てしまうのである。

このような世論操作に抗うことが出来る人は、特定の傾向の意見だけに対して反応するのではなくて、すべての意見に対して興味を持つ人ではないだろうか。つまり、多様性の考え方を持つということである。固定観念や偏見に捉われることなく、柔軟性を持った思考性を持つことが大切なのである。そうすれば、特定の偏った世論に誘導されることもないし、さらには騙されることもない。思考の多様性を持った人というのは、巧妙な詐欺に引っかかることはまずないであろう。詐欺に騙されている人は、頑固で偏見を持つ人である。

さらに、巧妙な世論操作に騙されてしまう人は、低レベルでしかも愚劣な価値観を持った人である。公益性が低くて、自分の利益や名誉にこだわり、自己中心的な人間が騙されやすい。自分の損得で行動する人である。社会全体の幸福や豊かさを追求し、何よりも人間どうしの絆なつながりを大切にする人は、滅多に騙されることはない。だから、自己の利益を何よりも大切にするような身勝手な人ほど、巧妙な世論操作に惑わされるのである。

英国において、難民を排除するためにはEU離脱が必要だというように世論操作されて賛成の投票をしたのは、自国民だけの幸福を願うような身勝手な人である。米国において、難民や移民を排除し、自国民の平和だけを願うような人が世論操作をされて、投票に利用されたのである。つまり、自分の損得を何よりも重要視するような低劣な価値観を持つ人が騙されるのである。全体の幸福や平和の為に働いている人、言い換えると全体最適のために尽くすような人は、絶対に世論操作をされることはないのである。巧妙な世論操作をされたり、騙されたりしないように柔軟な思考性を持ち、しかも正しくて高い価値観を持ちたいものである。