カジノ法案は本当に成長戦略か?

IR推進法案がとうとう衆議院から参議院の審議になる。IR推進法案とはカジノ法案とも呼ばれていて、問題が山積みの法律なのであるが、短い時間の審議であっという間に承認された。このカジノ法案に前のめりであった維新と、維新を取り込みたい安部自民党の思惑が一致した結果であろう。それにしてもこんなにも問題があるのにも関わらず、法案に賛成した公明党の姿勢にも疑問がある。社会的弱者の味方であると公言して憚らない公明党だが、実は強者の代弁者であるということが判明したとも言える。

カジノ法案は、ギャンブル依存症を増やすことになる。その歯止め策として、法案が部分修正されたが、焼け石に水である。何年か後には厳しい規制のためにカジノの運営が暗礁に乗り上げ、それをなんとか救済しようとして、法案の再修正が実施されて規制がなくなるのは目に見えている。優秀なキャリア官僚たちであるから、IR推進法案がやがて日本の荒廃を生み出してしまうことは予想している筈である。政治家の暴走を食い止める役割を担うのが官僚なのに、官邸に言われるまま行動する官僚の体たらくぶりに落胆している。

それにしても、IR推進法案は成長戦略のひとつだと胸を張る政治家たちの不見識に驚くばかりである。成長戦略とは、本来は実質経済の成長をどう導くかというものである。三本の矢に例えていて、円安誘導の金融政策、そして規制緩和、さらにはそれに伴う実質経済の成長だと主張する。しかし、いつまで経っても三本目の矢は的を射ていないのである。実質経済はけっしてよくない。庶民の生活は一向に良くならないし、国民の消費意欲が沸かず消費支出が伸びていないことからも解る。2%の物価上昇率を目指した日銀のインフレターゲットは白々しく聞こえる。円安傾向と株価の上昇は、一般国民にとっては何の恩恵もないばかりか、かえって円安による石油製品などの値上げの影響で国民生活が苦しくなっている。

そんな中で、IR推進法案を通して景況を演出しようとしているのだが、逆効果になるのは目に見えている。まず、IRの設置により外国人観光客を増やす目論見であるが、カジノを目玉にして外国人観光客が増えるかというと、そんなことはまったくあり得ない。韓国での失敗がそれを証明している。韓国の外国人観光客を目当てにしたカジノは、現在閑古鳥が鳴いている。そればかりかギャンブル依存症の韓国民が住居まで失い、ルンペンにまで身を落としている始末である。日本版のカジノも同じ状況を招くことが予想される。

もうひとつカジノ法案には問題がある。カジノの運営ノウハウを国内の業者が持たないから、カジノの運営は外国企業に任せるというのである。ということは、カジノで上げた収益はすべて外国に持ち出さられるということである。いくらかの還元が地方財政へあったとしても、収益が国民には行かないのである。何のためのカジノであろうか。大きなショッピングセンターが地方に進出して、利益が本社に吸い取られている。地方に工場が進出して、利益が本社に吸い上げられて税収は本社所在地で納められる。地方が経済的に疲弊している構図とまったく同じではないか。

都市部から地方に進出した大資本のパチンコ店が、地元資本のパチンコ店を潰している。地方の人々から、なけなしの資産を巻き上げている。パチンコ店では、年金支給日になると大勢の高齢者が列をなしている。パチンコによって生活費を巻き上げられた主婦がサラ金に手を出してしまい、やがては借金返済のためにデリヘル産業などで働かされている。経済的だけでなく家族関係まで崩壊させられている家庭がある。カジノが出来たら、こんな崩壊家庭が益々増えるのは目に見えている。こういうギャンブル依存症による貧困家庭の現実なんかを知ろうともしない政治家だから、こんな悪法のIR推進法案を通そうとしているのであろう。

政治家というのは経済的に恵まれた人間がなっている。特に政権与党の政治家は、二世議員が多いし裕福家庭の出身が多い。貧困家庭に育って苦労した人間の気持ちなんて解ろうともしない。だから、社会的弱者を救う政治を実施できないのだ。政治というのは社会的弱者や貧困が世代間連鎖しないように、経済的豊かさの再配分をする役目を担っている。IR推進法案を通すというのは、その役目を政治家が放棄するようなものである。カジノ法案は、成長戦略を実現しないばかりか、絶対的貧困家庭を益々増やすことになろう。国民のためにならないIR推進法案は、絶対に成立させてはならない法案である。

議論にならない国会審議

国会の審議をTV中継で見ていると、イライラ感が半端ない。まるで議論が噛み合わないからである。野党の質問も悪いのであろうが、その質問に対して政府与党と官僚はわざと論点をずらして答弁することが多いのである。実に姑息というのか、卑怯というのか、あざといやり方である。いつからこんな国会審議になってしまったのだろうか。安倍内閣以前も、実はこのような論点を外すやり方があったのは間違いない。しかし、すべての審議がそうではなかった。これは拙いぞという場合に限り、巧妙に逃げるケースもあった。しかし、現在の殆どの審議が野党の質問者を小馬鹿にしたような答弁になっている。国会軽視であり、許せない。

そもそも国会審議というのは、真剣勝負であってほしいものだ。堂々と正面からぶつかって渡り合うべきである。国民を代表しているという自負があるなら、姑息な手段を使って逃げずに正々堂々と論戦を繰り広げるのが筋だ。野党の質問者だって、物事の本質を見極めての議論をしていないように感じる。相手の失言を取り上げて批判したり追及したりすることは、見苦しい限りである。相手の失策を待つなんてやり方は、実に情けない。それにしても一番違和感を持つのは、相手の質問を敢えて真正面から取り合わず、わざとはぐらかす答弁の仕方である。

内閣総理大臣と言えば、国家を代表する人間である。国民のお手本となる話し方や態度が望まれる。小さい子どもたちも、見ているのである。そういう子どもたちが、あんな答弁の仕方を見ていたら、真似をしないとも言い切れない。教師から何らかの質問をされて、うまくはぐらかすことが良いことなんだと児童生徒が学んでしまったら大変なことである。親から何か問い質されて、質問の趣旨をわざと誤解してのらりくらりと答えるような子どもに育ったとしたら、大問題である。上司から厳しい質問を受けて、わざと論点を外す受け答えを部下が続けたら、その組織は崩壊してしまう。

江戸時代の政治家であり官僚でもある武士は、絶対にそんなことをしなかった。武士たるものは、大きな権力を握っていたからこそ、卑怯なふるまいをしてはならないと自分自身を戒めていた。中には、強権をかさにきて卑怯なことをした武士もいたであろうが、圧倒的に少数であった。悪いことをして露見したら、潔く認め腹を切った。さらに、自分自身が悪いことをした訳でもないのに、自分の部下が不祥事を引き起こしたら、それは自分の監督に問題があったと認め、その責任を自ら取ったのである。

ところが現政権のやり方と言ったら、実に情けない限りである。財務省の不祥事に対して、悪いことをした本人に責任を押し付けて、自らの監督責任を放棄した。さらに首相と政権を守ろうとしてウソをついたり公文書を改ざんしたりした官僚を見殺しにしたのである。自分の地位と名誉を守るために、自分を守った人を裏切るような卑劣な行為をする人に政権を任せてよいのだろうか。少しばかり経済状況を良くしたからと言っても、人の道を外れるような行為をする人間に政権を担う資格はない。そういえば、自分の部下が嘘をついたと平気で記者会見をする大学の理事長がいたが、感覚がおかしい。そんな理事長に仕える職員が可哀そうである。

国会審議で野党の質問時間を短くしようと画策するというのも情けない。何も悪いことをしていないというのなら、正々堂々と論戦を張ればよい。長く審議時間をかけると、拙いことが暴かれるのであろうか。野党の質問時間をどんどん制限して、詰まらない与党の質問時間を長く設定するという姑息な手段はいただけない。こんな酷い政権は、今まで記憶にない。自民党の議員たちは自浄作用が働かなくなったのだろうか。こんな卑怯な政権と官邸に対して何も言えないというのは実に情けない。自民党の長老やご意見番たちも、権力者に何も言えないとしたら腐っている。

正しくて活気のある国会審議を期待したい。その為には、野党も質問に対する工夫が必要である。逃げられないように誤魔化しができないような質問にしなくてはならない。自分の意見をとうとうと述べるような、自己主張の強い長い質問ではなくて、短くて核心を突く質問でハイかイイエで答えられるようにするのが望ましい。YESかNOで答えられるように、追及するしかない。元々、そんな逃げの答弁をすること自体、限りなく怪しい。嘘をついていることが明らかであるのは、賢い人間なら誰でも解る。やましいことがなければ、あんな卑劣な答弁なんて必要ないからである。聞いていて面白くわくわくするような国会審議にしてほしい。

 

何事もバランスが必要

森友問題が佐川氏喚問を終えて、政府自民党はこの問題を収束させたいと思っているし、野党はさらなる追求をしようと目論んでいる。貴重な国会の議論をこれだけに集中するのは、国民にとって多大な損失であろう。もっと大切な議論があるし、報道機関としても国民が他に知りたいことが沢山あるのにも関わらず、森友一色になるのも困る。とは言いながら、文書改ざんは今後の行政の信用に関わる大問題であるから、再発防止策を講じない限り、ないがしろには出来ないことである。

それにしても、こんな森友の不祥事や加計学園の問題が何故起きたのであろうか。それは、安倍一強政治の傲慢が招いたのではないかと思う人が、とても多いように感じる。内閣人事局が制定されたのも、官邸に忖度する官僚ばかりになってしまったのも、あまりにも内閣と官邸の力が強大になってしまったからである。どうして安倍一強になったのかというと、別な視点から見ると、安倍総裁の他に有力な政治家がいなくなってしまったことと、野党がだらしないということに尽きるであろう。

過去の歴史を紐解くと、独裁政治が長く続くと政権内部から崩壊が起きていることが殆どである。国の政治もそうであるが、県や市町村においても首長が絶対的な権力を持ってしまうと、内部から腐敗が起きてしまうケースが実に多いのである。組織や企業においても、トップがあまりにも大きな権力を持ってしまうと、イエスマンだけの部下に成り下がってしまい、内部崩壊を起こしてしまうことが多い。現代においても、米国、中国、ロシア、北朝鮮などで国民の意思を無視した独裁政治が行われていて、内部崩壊が始まりつつある。

強力なリーダーシップを発揮できることで、政権運営や企業経営が上手く行くケースも少なくない。リーダーシップのあるトップだけが、低迷する現状を解決できるのではないかと、そのようなリーダーを求めたがる意思が働く。だからこそ、国政選挙においてもこのようなリーダーを求める国民が、投票するのであろう。しかし、あまりにも強いリーダーシップを持つ権力者と、それに対抗する勢力があまりにも弱すぎると、微妙なバランスが崩れてしまい、『裸の王様』になる例が多く、やがて内部腐敗や崩壊が起きる。

このようなケースは、家庭内でも起きる。あまりにも父親が家庭内で大きな権力を持ってしまうと、妻や子は何時も父親の顔色をうかがうような暮らしをし兼ねない。夫婦関係においても、どちらかがあまりも大きな力を持って相手を支配してしまうと、横暴な行為を許してしまう。親子関係でも、親が子どもの尊厳を認めず、すべて親の言いなりになる子どもにしてしまうと、子どもの自立を阻害してしまうことになる。夫婦の相互自立や子どもの自立がされないと、やがて家庭というコミュニティは崩壊することになる。

家庭内が微妙なバランスによって成り立っていれば、一方的に指示して従うというような関係になり得ない。お互いの人間としての尊厳を認め合うことで、自立がしやすい。だから、経済的にも精神的にも自立するには、一部に力が集中することを避けて、パワーバランスを保つことが必要であろう。男性は女性よりも腕力が強い。暴力によって相手を支配し、バランスが保てなくなることは絶対に避けなければならない。ある程度のリーダーシップが必要であろうが、微妙なバランスを保てるようなお互いを尊重する対話こそが根底に求められる。

一人の人間においても、どちらかに偏らないバランス感覚も必要なのではなかろうか。政治的に右翼的な考え方と左翼的な認識のどちらかに偏向してしまうと、世の中の真実が見えなくなってしまう。政治的におけるバランス感覚があれば、耳に心地よいマニュフェストに騙されることもないであろう。人間性においても、あるべき姿を求めて努力する姿勢と共に、あるがままの自分を好きになる気持ちも大切であろう。条件付きの愛を注ぐ男性性も必要であるが、無条件の愛を与える女性性も大事である。これらのバランスを保つことは、『中庸』と呼ばれている。政治的な中庸が保てれば、森友加計問題も起きず、国民ファーストの政治が実現するに違いない。

 

行政とNPOの協働における課題

行政とNPO法人による協働事業は、全国でかなり実施されていて、多大な実績を上げている。とは言いながら、本来のあるべき協働になっているのかというと、かなり疑問に思えるような協働になっていると言えよう。どうしてかというと、協働というのは対等の立場が前提になるが、実際は行政側が主導権を持っていて、NPO法人側は行政の言いなりになっているからである。つまり、行政の完全な「下請け」のようになっていると言えよう。

業務委託契約において、受託者と委託者は本来対等の立場であるべきだ。しかし、例外はあるものの、殆どの委託業務は行政側の権限が強過ぎて、NPO側では行政の指示通りに動くようになってしまっている。何故、そんなことになっているかというと、お金を出すのが行政側であり、そのお金がないとNPO側で活動出来ないという事情があるからであろう。だから、どんな無理難題を押し付けられても、NOと言えない構図になってしまうのである。いや、そんなことはないと行政側では言うかもしれないが、現実は行政の言いなりになっていると言っても過言ではない。

NPO法人側にも、問題があると思われる。委託業務が受けられるかどうかがNPOの存続にも影響してくるから、行政側の無理難題にも対応せざるを得ない。これは出来かねるとして断るとか、自分達の主張を通すということが出来ないのである。NPO側の事情として、業務執行において行政マンと対等に交渉できる人材がいないのである。行政マンに対して、圧倒的な能力を発揮して、正しいことを正しいと主張できる人材がいないと言えよう。だから、行政マンはNPO法人の役職員を尊敬しないばかりか、どちらかといと内心では見くびっているのである。

こんな現状で、どうして対等な立場で協働が出来ようか。本来のあるべき協働が進んでいないから、社会はいつまで経っても変わらないのである。NPO側では、理念があるから、その理念に沿った社会を実現したいと協働を進めて努力する。一方、行政側ではあくまでも法律や条例に基づいて業務を遂行させたいから、今までの枠からはみ出させたくない。社会変革を目指したいNPO側では、今までのしばりから脱却したい。当然、グレーゾーンが生じるのであるが、行政側では保身のために、それは絶対に認めたくないのである。

このような態度を行政側が取るのは、とんでもないNPO法人が過去に存在していたからでもある。きちんと委託業務を実行しないばかりか、いい加減な経理処理するとか不正な支出をしてしまったという歴史があるからだ。このようなコンプライアンスを無視するようなNPO法人があったから、行政側としては神経質になり、グレーゾーンを認めたくないのであろう。会計検査院に指摘されないようにと、会計処理だけでなく業務実行についても、決められたことしか認めたくないし、余計なことをして欲しくないのである。

行政とNPOとの協働は、業務執行をなるべくNPO側に任せるというのが基本になるし、しかも行政側としては、業務執行がスムーズに行くように、各種関係機関への根回し等のサポートに徹するのが必要である。しかも、NPO法人の良い処を引き出せるように、アドバイスしたり何らかのヒントを与えたりすることも行政の役割である。金だけ出して口を出さないというのは、協働とは呼ばない。委託業務の執行について、良好なコミュニケーションを取り合いながら、より良い成果を上げる為にお互いが最大限の努力をするのが、本来の協働であろう。

NPOは固定観念や既成概念にとらわれず、大胆な発想と柔軟な思考を駆使して、行政では思いもつかないようなアプローチをすると共に、結果を怖れない大胆なチャレンジをすることが求められる。行政はなるべくブレーキをかけることなく、それをそっと見守って欲しいものである。法律や条例に違反する行為でなければ、業務の執行を縛ることはなるべく避けてほしいものである。そうすれば、大きな協働の成果が生まれるに違いない。そして出来得るならば、協働としての委託事業が終わっても、NP0が自力で継続していけるようなビジネスモデルとして確立してほしい。それが、本来協働の目指すところであろう。

被害者意識を解放して復興を

3.11から今日で早7年。未曾有の災害による爪痕はまだ深く残っている。原発事故の被害は想像以上であることから、福島県内各地の復旧さえままならない実情がある。したがって、復旧さえできていない現状で、復興なんてまだまだと思っている県民も多い。ましてや、原発事故による汚染除去もまだ完了せず、風評被害は根強く残っていることもあり、復興なんて無理だと諦めている県民も少なくない。

震災避難者は全体で7万人を超えて、県外避難者も5万人もいるというから、原発事故による心的な被害は想像以上に大きいのであろう。そういう状況で復興しようという掛け声ばかりで、遅々として復興が進まないのは、強烈な被害者意識が強いからではあるまいか。こんなことを記してしまうと、避難者の方々からお叱りを受けることになるかもしれないが、被害者意識を持ち続ける限り、復興は進まないように思うのである。

災害復興とは、災害による被害をすべて復旧してうえで成り立つものであるという主張は間違っていない。しかし、これから20年くらい風評被害は完全になくならないし、原発の事故処理は、あと30年以上はかかるであろう。だから、あと30年以上も復興が実現しないという結論になりはしまいか。つまり、早く復興をしようとすれば、完全復旧を待ってはいられないのである。ましてや、被害者意識から解放されないと、いつまでも前には進めないような気がするのである。

原発事故が起きた責任は、原発立地の住民には一切ない。東電と原発政策を推進してきた政府に、原発事故発生の責任がある。しかし、原発の恩恵を受けていたのは関東地区の住民だけではない筈である。原発立地の住民も、いろんな原発立地の課税収入による公共インフラの充実をさせてもらったし、関連産業の就職などで経済的な恩恵も受けていた。原発推進をしていた政府自民党を政権与党として選んだのは自分自身である。ましてや、原発を推進してきた首長を選んだのも自分達なのである。

だとすれば、原発による災害や風評被害をすべてマイナスの要素として捉え、だから復興は無理だと諦めてしまうことは、自分自身を否定することに繋がりはしないだろうか。それよりも、この原発事故と風評被害から目を背けずに、まずは認め受け容れて、このマイナスをプラスに転換することを真剣に考えるべき時期に来ていると考えようではないか。悩み苦しんだ7年という月日を無駄にしないように、そのことを糧にして真の復興に突き進むことを、今日この日に共に決意したいものである。

風評被害は、まだまだ根強い。イスキアの郷しらかわで宿泊する農家民宿「四季彩菜工房」には、原発事故以前は年間400人から500人のお客様がお泊りにいらしていた。それが、風評被害によって年間20人から30人に激減してしまった。経営的には大打撃である。この状況を嘆くだけでなく、イスキアの郷しらかわとして活用させるという、マイナスをプラスに大転換させる意識改革を、農家民宿経営者と共に実施したのである。まだ利用者はそんなに増えてはいないが、おかげで少しずつ問い合わせや見学者が増加しつつある。被害者意識に縛られていては、出来なかった意識改革と価値観の大転換である。

福島県内で復興を見事に成し遂げている企業をみてみると、実に興味深い共通点がある。それは、原発事故による風評被害による損失補填を申請し続けている企業は遅々として復興が進まず、いち早く損失補填申請をすることを止めて、自力再建を決断した企業は復興を成し遂げているということだ。社員が一丸となり、被害者意識を捨てて努力した企業は、震災よりも多くの収入を上げているのである。個人でも、被害者意識を捨てて新たな道を切り拓いた人は、見事に復興しているのである。そして実に生き生きとして人生を送っていらっしゃる。もう原発事故から7年である。誰かを恨んだり憎んだりすることはもう止めて、自分の本当の自立を共に目指そうではないか。

 

NPOを辞めた本当の理由

NPO法人に最初に関わったのが平成11年だから、昨年まで実に18年もの期間に渡りNPO法人活動をしてきたことになる。その間に、3つのNPO法人で設立当初から理事になり、中心メンバーとして運営に携わってきた。それらのNPO法人では、副理事長という立場で経営にも参画していたし、企画や管理、そして教育という重要な部門での担当をさせてもらい、NPO活動に邁進してきた。そのNPO法人を昨年で、すべて辞めさせてもらった。あれほど情熱を注いできたNPO法人から、すべて手を引いたのである。

何故、NPO法人の活動から身を引いたのかというと、表立った理由としては、イスキアの郷しらかわの活動に専念したいからと宣言してきた。しかし、それも辞めた理由の一つではあるが、本当の理由はNPO法人活動では、社会変革や人々の意識改革が難しいと確信したからである。NPO法人活動をする目的は、活動を通して崩壊してしまったコミュニティを再構築して、お互いを支え合う地域社会を創り上げることであろう。言い換えると、全体最適を目指し、関係性の豊かな社会を創ることだと認識している。それが、NPO活動だけでは、実現するのが無理だと感じてしまったのである。

NPO活動を始めた平成11年から約15年間は、人々の意識改革を実現して、望ましい社会を創造して行けると確信していた。その為に、NPO活動に心血を注いできたつまりだ。ところが、自分の力量が足りなかったせいかもしれないが、人々の意識が変革できたという実感がまったくない。そればかりか、社会における人々の意識は益々低劣化へと向かっているとしか思えない。さらに、NPO活動の経済的自立が出来ないから、活動が先細りしているのである。NPOの将来への展望が見い出せなかったのである。

特定非営利活動促進法が出来た平成10年には、社会変革を可能にするのはNPO活動しかないと、心が躍ったものである。ところが、NPO法人が誕生して既に20年になるが、職員の給与は殆どが最高でも大卒初任給レベルであるし、役員報酬が年間500万円以上の理事は皆無である。ということは、専任の理事はNPOの報酬だけでの生活が困難だし、NPOの職員が結婚して子どもを育てるというのは、極めて難しいということである。福祉系のNPO法人では例外もあるが、殆どのNPO法人で、専任の優秀な役職員が集まらないのは当然である。

NPO法人の役職員で、経営のセンスや実務能力を持っている人は極めて少ない。ましてや、マネジメントの諸原則を一般企業の役職員のように真剣に勉強している人は殆どいない。理念は立派でも、経営能力を持たない役員が多いのが実情である。マーケティングの基本原則やイノベーションの基本さえ知らないのである。そもそもNPO活動にとって、社会的イノベーションを起こすというのも本来の役割の一つである。しかしながら、イノベーションの基本原則さえ知らないのだから実にお粗末である。

NPO活動における経営と財務の自立が出来ていないのは、委託事業や補助金に頼り切っているからであろう。または、公的収入に依存せざるを得ないからである。拡大再生産の為の自主財源を確保できるほどの収入を得るようなNPOは皆無である。内部留保を持たなければ、設備投資や人材育成に対する先行投資ができない。しかるに、委託業務や補助金業務に依存していては、優秀な人材を育てることは出来ないし、委託費には満足な管理経費さえ認められないから、NPO活動が活性化する望みはないのである。

結論として導き出されるのは、地域活性化やまちづくりは民間の営利企業でしかなしえないということである。仮定の話として、過疎地域の法人の殆どが、NPO法人や市民活動団体になったとしよう。そうなれば、法人税や役職員の所得税などの税収は上がらず、地方自治体の存続すら危ぶまれる。地域経済の浮沈は民間企業の活性化にかかっているのである。したがって、我々が今なすべきなのは、優秀な若者が地域で活躍するビジネスモデルを創り上げることである。都会の優れた若者が地域に移住して活躍したいと思うようなビジネスモデルを、どのようにシステム化するかである。「イスキアの郷しらかわ」は、実はそんな役割も担っていると思っている。地域の問題や課題を解決しながら、ビジネスとしても成り立つことが出来て、子を産み育てられるような個人収入も確保できるようなビジネスモデルを創造することを成し遂げたい。それが、崩壊してしまった地域コミュニティの再構築と市民の意識改革、そして社会的イノベーションをも実現させると信じている。

過労死を二度と起こさないために

野村不動産の社員が過労死をしたというニュースが流れた。それも、違法の裁量労働制をしていたと摘発されたのである。本来、裁量労働制という制度で認められているのは、研究職や技術職の専門的な職種と企画開発のような特殊な職種である。今回、違法だと摘発された野村不動産のケースは、主に営業をしていたのにも関わらず、無理やり企画開発職だと偽って労働契約を結んでいたと見られている。こんな誤魔化しが、野村不動産では日常化しているのである。なんと6割近い社員が裁量労働制を強いられているというから驚きである。

そもそも、裁量労働制というのは自らが労働時間を設定できて、出社時刻と退社時刻が決められていない筈である。ところが、実際には他の社員と同じ時刻に出社することが決められていて、しかも退社時刻の前に退社することは認めていられない例が多い。労働量と業務量も自分で設定できる筈なのに、上司からこれだけの業務をこなすようにと指示されているケースが殆どである。つまり、現在の裁量労働制の大半が違法状態になっているのである。この裁量労働制が、残業手当を少なくするための隠れ蓑として利用されているのである。

こんな酷い実態なのに、政府と自民党は経営者側からの要求を鵜呑みにして、裁量労働制を営業職まで広げようとしたのである。つまり、内閣と自民党は違法行為だと知りながらそれを見逃すだけでなく、その違法行為を助長するような裁量労働制の改悪までも目論んだのである。ということは、過労死を益々増加させるような悪法を制定しようとしたのである。未必の殺人行為といえるような暴挙に、内閣が手を貸そうとしたと言えよう。経営者と政府自民党は、こんな悪法を通そうとしていて、それに行政職も協力してしまったと想像できる。

それにしても、こんな違法状態を見逃している各労働局と労働基準監督署は、酷い職務怠慢だと言える。過労死が起きてから慌てて摘発するのであれば、労働局や労働基準監督署なんて不要である。こういう違法状態を野放しするだけでなく、本来はこんな状況になる前に予防する役目を果たすべきであろう。労働局や労働基準監督署は、各企業に対して立ち入り調査をする権限が与えられている。裁量労働制の導入に対して、しっかりと検証してから認定すべきであろう。しかし、このように違法性を見逃している実態があるのだ。

日本国憲法の基本的人権の尊重と労働法というのは、弱い立場である労働者の正当な権利を守る為に制定されている。そして、厚労省、労働局、労働基準監督署というのは、その労働者の正当な権利が侵害されないように厳しく監視すると共に、違法行為を起こさないように経営者側に対して厳しく指導監督する役目を負っているのである。しかるに、厚労省は政府と経営者側に有利に働くような調査結果になるように報告書を偽造したと見られている。こんな暴挙を絶対に許してはならないのである。

日本国憲法は三権分立を謳っている。立法、司法、行政が完全に独立して、それぞれの誤作動や暴走を牽制するシステムになっている。ところが、最近の政府自民党の言動は、立法と行政がそれぞれに牽制するどこか、お互いに協力し合っているとしか思えない。これでは、国民の幸福や福祉の向上に寄与しないどころか、国民に過酷で不幸な生活を強いるような暴走に陥っていると考えられる。この誤った裁量労働制による過労死という未必の殺人行為に現れていると言えよう。過労死したNHKの女性記者のような犠牲者が、これから益々増えてしまうに違いない。

過酷な長時間労働は、労働者の健康を損なうだけでなく、その勤労意欲を大きく削いでしまう。そして、労働効率や生産性を低下させてしまう。企業側に取っても、マイナス面が大きいのである。家庭においても、父親から家事育児参加の時間を奪ってしまうので、母親の負担が増えてしまいストレスが多大になり、様々な家庭問題を起こす要因になる。労働者が趣味やスポーツの時間も取れなくなることで、ストレス解消も出来なくなり心身の障害が起きる。休職や離職に追い込まれひきこもりが起きてしまうし、子どもの不登校も起きかねない。つまり、過酷な長時間労働は、国家的な損失に繋がるのである。過労死が起きるような酷い労働環境を止めることが出来るのは、投票権を持つ我々国民しかいないことを認識すべきであろう。

働き方改革は労働者の立場で

働き方改革は安倍内閣の目玉政策として、進められている。連日、国会の予算委員会で活発な法案の集中審議が展開されている。これからの日本の労働政策の根幹にかかる重要課題であるが、どうやら労働者に配慮した働き方改革ではなく、雇用側にとって有利な働き方改革になっているような気がする。その最たるものは、裁量労働制度の業種拡大であろう。その討論の根拠となるデータが、明らかにねつ造されているのではないかとの疑いが明らかになった。裁量労働制は働き方改革にどうして必要なのか、まったく理解できない。

そもそも裁量労働制というのは、残業手当を削減する目的の為に制定されたものである。労働者にとっては、メリットはまったくなく、雇用側にとっては有難い労働制度である。いくら働かせても、残業手当を定額しか支払う必要がないのだから、益々長時間労働になるのは当たり前である。裁量労働制は、本来は労働者が労働時間を決める裁量を認められているのが基本となる。しかし、実際には労働者に自由に労働時間を決める裁量は認めてられていないのである。その前提が棄損しているにも関わらず、裁量労働制が認められていること自体が憲法違反であり法律違反なのである。

このコンプライアンス違反の実態は、労使共に把握しているだけでなく、厚労省・労働局・労基署は完全に把握しているのに、見て見ないふりをしているのである。だから、裁量労働制の実態調査をしていないのである。それなのに、この裁量労働制をさらに広げるという無茶な政策を推し進めようとしているというのは、労働者を見殺しにするようなものである。過労死が問題になっているのに、益々過労死が増えるに違いない。日本の労働環境は、欧米から見ると酷い状況にあるが、もっと劣悪なものになることであろう。

政府が推し進める働き方改革は、労働者不足を解消する為の政策である。労働者が勤労意識を高揚できると共に、働きがいをおおいに感じることができ、しかも余裕のある働き方ができることで、家族の触れ合いが出来る余暇の時間が持てて、父母共に子育てがしやすい環境を持てる為に働き方改革をするべきである。ところが、どういう訳かその真逆の働き方改革の法律改悪になっているのである。これでは、労働者が子育てや介護に充てる時間が益々減少してしまい、少子化はどんどん進んでしまうことであろう。

現在、多くの若いママさんたちはシングルマザーになるという選択をしている。その理由は、夫が毎日朝早くから深夜まで仕事に専念し、休日まで出勤して、子育てや家事全般が妻だけの役割になっているからである。そのため、子どもの世話だけでなく夫の世話までさせられて、目いっぱいの状況にさせられている。それは専業主婦だけでなく、共働きの家庭でも同じように妻だけが頑張っている状況にある。仕事で目いっぱいになっている夫は、妻の大変さを解ってくれないし、愚痴も聞いてくれない。これでは、一人親のほうが精神的には楽だと、離婚してしまうのである。

こんなふうにシングルマザーを作り出してしまっているのは、日本の労働環境が悪いからである。日本人のサービス業や事務管理業務における生産性が、極めて低いというのは、長時間労働によるものである。人間というのは、毎日労働時間が長くて休日もろくに取れないと、労働意欲が低下するし能力低下が起きる。それ故に長時間労働にならざるを得なくなっていると言えよう。さらに、基準労働賃金が極めて安いものだから、残業手当が生活賃金になっているのである。こんな労働実態を作ってしまったのは、政府による労働政策の無策からである。日本の労働政策が、企業側の利益を守るためのものになっているからこんな酷い状況になっているのだ。

本来働き方改革というのは、労働者の立場で進めるべきものである。経済優先ではなくて、人間優先でなくてはならない。政治というものは、強いものの味方になってはならない。常に社会的弱者に配慮した政治を進める責任が、政治家と行政職に求められる。安倍内閣は、経済優先の政策を推し進めていて、労働者や国民の利益確保とか福祉向上を無視しているとしか思えない。自分のすべてを仕事にかけるような働き方を労働者に強いてはならない。仕事だけでなく、家庭や地域での活躍が可能になるような働き方改革こそが求められているといえよう。そうすれば少子化も防げるし、生産性も高まるし、働きがいや生きがいの持てる働き方が出来るに違いない。

働き方改革は意識改革から

政府主導で働き方改革を進め始めている。この働き方改革というのは、労働者視点からのものならば大歓迎である。しかし、産業界における労働力不足を解消するための方策としての働き改革であるとしたら、絶対に認められないものだと言えよう。労働力不足を何とかしたいし、安価な労働単価で働かせるには、子育て世代の女性をパート就労させるのが手っ取り早いと考えるのはあまりにも安直である。そのための働き改革ではないかと思えて仕方ない。こんなものが働き方改革だとしたら、絶対に賛成できない。

政府自民党は常に産業界・経営者団体にとって都合の良い政策を推し進める傾向にある。表面的には国民の利益を代弁しているように見せかけながら、実際は経営者側の観点から労働政策を進めているとしか思えない。みなし労働制の導入や派遣労働法の改正など、労働法制の改正はすべて労働者の不利益にしか思えない。配偶者控除の見直し政策も、安い労働力を得るための安易な方策であろう。厚労省のキャリア官僚は、おしなべて政府自民党の言いなりになっている。国民目線での法改正は、まったくないのが現状である。

本来、高級官僚を始めとした行政職というのは、国民の利益を守るべき立場にあるのが正しい。ところが安倍一極体制があまりにも強固であるが故に、官邸に対して何も言えなくなっている。何故かと言うと、官邸がキャリア官僚の人事権を掌握しているからである。しかも、退官後の再就職さえも官邸が主導しているのである。こんな国は、独裁国家以外には世界中のどの国にもない。これでは、官僚が国民の忠実な僕(しもべ)ではなく、政府官邸に従順な僕になるのは当然である。官僚としての矜持を持てと言っても、がっちり鎖でつながれて支配されているのだから、所詮無理であろう。

このような政治と行政なのだから、働き改革がどんなものになるか想像できよう。産業界・経営者団体から多大な政治献金を受けている自民党が、労働者と経営者のどちらに有利になる政策を推し進めるのか、自明の理である。働き方改革は、大賛成である。それが労働者の意欲や勤労意識を高めることに寄与し、働くことの喜びを享受することが可能になるならばである。ところが、政府自民党の推し進める働き方改革は、どうやらその反対の方向に向かっているとしか思えないのである。

本来の働き方改革というのは、現状の問題点を解決する方向に向かわなければならない。現在の日本における働き方で問題になっているのは、まずは労働分配率のあまりにも低さである。欧米の比率から見ると、明らかに低いのである。大企業の内部留保があまりにも多いし、役員報酬にばかり利益が分配され過ぎである。これをまずはどうにかしなければならない。労働者の基準賃金があまりにも低いから、長時間労働を余儀なくさらされ、残業手当で補わなければ生活が出来ない状況に陥っている。日本の第三次産業や事務一般職における労働生産性は、先進諸国の中で最悪である。これらの問題を優先的に解決するのが、本来の働き方改革であろう。

これらの諸問題を抜本的に解決する働き方改革をするには、どうしたらよいであろうか。それは、経営者と労働者双方の抜本的な意識改革がまず必要であろう。生産性を向上するには、労働者と管理者の意識を大改革しなければならない。残業は必要悪なんだという考え方をまずは払拭しなければならないし、休日残業はしなくても必要な業務は遂行できるという意識を持つことが必要である。初めから残業ありきで仕事をすることが脳に刷り込まれている日本人が殆どである。それを、残業しなくても仕事を遂行するにはどうしたら良いかと考えるのである。欧米のビジネスマンは、夕食は家族そろって団らんする時間をどのように確保するのかが絶対的命題である。それを成し遂げるために労働スケジュールの配分をする。日本人だけが出来ないということはあり得ない。

日本人労働者は、残業労働するのを美徳と考える向きがあり、サービス残業を喜んでする社員を重用したがる。朝から、終業時刻を目安として働くのではなく、午後11時から12時を退社時刻設定にしてスケジュールを組むのが常である。この間違った意識を破壊することが必要であろう。喜びを感じながらイクメンに勤しんでいるビジネスマンは、実際に残業をせずとも他の労働者と対等の労働成果を上げている。そういう管理職も増えてきている。それが出来ないビジネスマンは、これからは落ちこぼれになっていくだろう。労働生産性を上げる為には、抜本的なイノベーションが必要である。それで労働生産性が上がれば、基準内賃金を高めることに経営者も着手しなければならなくなる。残業手当がない労働報酬を基準にする働き方をすべきである。経営者自ら意識改革に取り組み、労働生産性を上げる努力をすることこそが、真の働き方改革につながることだろう。

旭日昇天よりも雲外蒼天

NHKTVで放映された「みをつくし料理帖」という時代劇で、旭日昇天と雲外蒼天という言葉が出てきた。これまで聞いたことがなかったこともあり、非常に興味を抱いた。ドラマの中では、こんな意味として使われていた。主人公が幼少の頃、ある人相見の達人に、その女の子と幼友達がこんなことを言われる。幼友達は、成人したら大成功を収める相を持つ人相をしている。これは、滅多にない旭日昇天(きょくじつしょうてん)の相だと言うのである。朝日が天に昇るがごとく、何の障害なく順調に天下に誇るような人物になるというのである。

一方、主人公の女の子は雲外蒼天(うんがいそうてん)の相があると言われる。この相を持つ人物は、雲の隙間から青い天が望むがごとく、様々な苦難困難に出遭うものの、それらの障害を乗り切り成功を収めることが出来ると言われるのである。実際には、幼馴染は廓(くるわ)に売られるのであるが、持って生まれた器量でめきめき出世して、押しも押されもせぬ当代一の花魁(おいらん)になるのである。主人公は、何度もひどい目に遭いながらもその度に乗り越えて、江戸で有数の料理人として大成するのである。

この人相を見る達人は、確かに人相を見る目はあったということになる。ただし、幸福度という点ではどうだろうか。主人公は何度も苦難困難に出遭う度に、一回りも二回りも成長したのである。そして、苦労の末にようやく掴んだ成功であるから、喜びは人一倍である。何にも苦労せず、持ち前の美貌だけで吉原随一の花魁になったのでは、幸福感はそんなに多くはないだろう。幸福感という点では、苦労をしてきた主人公のほうに分があると言えよう。

実際の世界においては、旭日昇天の人物はそんなに多くない筈である。多くの我々凡人は、雲外蒼天であろう。そして、様々な苦難困難を経験する。それらの苦難困難に逃げずに立ち向かい、そして乗り越えて「艱難汝を玉にす」の諺のように、人間としての立派な成長が可能になるのである。この社会で大成した人間、または人間として立派な人は、苦労をした人である。親の七光りでたいして苦労もせず成長した人間のなんと薄っぺらな事であるか。または、恵まれた境遇に生まれて、たいした苦労もせずに一流大学を出て高級官僚になった人物は、自分でも苦労したことないから、人の苦労にもそ知らぬ顔をする。

人間として大成する二つのプロセスがあるとすれば、望んで出来るのならば間違いなく旭日昇天ではなくて雲外蒼天の生き方をしたほうが良いと思われる。今度NHKTVの大河ドラマで描かれる西郷隆盛は、間違いなく雲外蒼天であろう。下級武士の家系に生まれながら、何度も挫折をしながらも乗り越えて、後に南洲翁と呼ばれるように誰からも尊敬される大人物となる。苦難困難に見舞われなければ、同じような地位に就いたとしても、あのような素晴らしい人間性を持てたかどうかは解らない。

西郷隆盛は後に南洲翁と呼ばれ、南洲翁遺訓と呼ばれる書物に彼の残した言葉が残っている。彼は、苦労して作り上げた明治政府の要職を自ら捨てて、野に下る。時の明治天皇が一番信頼し頼りにしていたのは、西郷隆盛であった。しかし、あまりにも腐敗して私利私欲に走る明治政府の政治家たちに愛想を尽かしたのではないだろうか。山形有朋や伊藤博文などの長州出身の政治家たちは、私腹を肥やし、妾を政府の要職につけるような出鱈目な政治をしていた。南洲翁遺訓では、『ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された』と記されている。

また、南洲翁遺訓では弱者に対する思いやりを説いていて、自分を愛するように他人を愛するような政治をすることが肝要であるとも説いている。小さな政府にして、税金を少なくすることで国力を上げることが出来るとも主張している。無駄な軍備を持つなとも説いている。現代の政治家は真逆である。このように自分を厳しく律し、常に国民の福祉や幸福のことを考えた西郷隆盛は、理想の政治家でもあった。現在の二世議員である政治家たちは、おそらく旭日昇天の育ち方をしたのであるまいか。西郷隆盛が傑出した政治家として大成したのは、雲外蒼天の育ち方をしたからに違いない。今度から選挙で政治家を選ぶときには、旭日昇天の政治家ではなくて雲外蒼天の政治家を選びたい。