自助共助公助を政治スローガンに?

安倍内閣が総辞職して、菅内閣が新しく発足した。その新内閣のスローガンが、自助・共助・公助の社会を目指すということらしい。多くの人々はこのスローガンを聞いて、当然なことだと思うことであろう。まずは、自分でできることをしてみる。つまり自助だ。それでも不可能なことは、地域やNPO法人やボランティアなどの力を借りる。これが共助ということだろう。そして、自助・共助でどうしようもないことを公的機関で支援する。これが公助ということだろう。いたってまともな理論で、賛成する人も多いに違いない。

 

この自助・共助・公助の理論の根底にあるのは、小さな政府と自己責任論である。最初から公的サービスを宛にしないで、自分にできることは自分たちでしようということだ。さらに行政改革を推し進めるに当たって、公的サービスを肥大化させず、財政を健全化したいとの思惑も働いているに違いない。確かに、あまりにも福祉サービスを限りなく広げてしまうと、自助努力を怠ってしまう傾向があるだろう。だとしても、基本は自己責任であり、あまりにも人に頼ってはいけないと政治の長が声高々に叫ぶのはどうかと思うのである。

 

安倍政権は7年以上続いた安定した長期政権である。その政権中枢にいた人、安倍総理、麻生副総理、菅官房長官たちは、自己責任論を振りかざすことが少なくなかった。つまり貧困、病気、介護、失職の状態に追い込まれるのは、自分たちの努力が足りなかったからであるし、それを政府のせいにするなんてとんでもないと言いたかったように思えて仕方ない。経済的に恵まれて、何不自由ない豊かな生活をしている人は、自分で努力したからだと主張する。恵まれない生活をしているのは自己責任だと、本音ではそう思っていたに違いない。

 

共助の在り方について、少し考えてみたい。政府や財務省は、共助の社会を作りたいと思っているらしい。年々増加する公的支出を抑えたいからであろう。共助社会を目指す理由が、財政支出を少なくする為なら、他人任せの政策であり情けない。人間というのは、本来お互いに支え合いながら生きるものである。お上の財政事情から国民に共助を強いるというのは、本末転倒であろう。共助は自らが主体性を持ってするべきであり、政府から指示されるものではない筈だ。政府や行政が共助を声高に叫ぶのは、自分たちの無策ぶりを露呈するものだ。

 

自助・共助を先にして公助を最後に持ってきたのは、菅政権が公助を出来るだけ避けたいという思いが現われている。しかし、政府の役目は国民に自助・共助を勧めることではない。自助・共助は国民自らが主体的に選択して実行するものだ。政府が考えるべきは、公助の無駄・無理・浪費を防ぐことであり、より効率の高い公助の在り方を考えることである。そして、縦割り行政によって公助が滞っているケースを改善することである。さらには、本来受けるべき公助を受けられていない人々に、しっかりと公助を届ける役割を果たすべきだ。

 

共助の果たす役割というのは、単なる公助の手助けということではない。そのことを菅政権が認識していないのは、実に情けないことである。共助というのは、本来は公助で行うべきことを公的機関が取り組むシステムがないから、その先取りとしてNPO法人やボランティアが共助として実施しているのである。つまり、この先取りの共助システムをやがては公助で実施すべきなのである。さらには、共助を行うのは単なる支援が目的ではなくて、共助のシステムを作り実践することで、お互いが支え合う社会を実現するプロセスなのである。つまり、お互いの関係性や絆を深めて、心豊かな社会を実現するのが共助の真の目的である。

 

安倍政権下で所得格差が広がり、絶対的貧困が増加して公的扶助が増加した。それは、公助のやり方を間違ったとも言える。安倍政権の失政を反省することなく、菅政権も自助や共助を優先させて、公助を削減しようとするのは許せない暴挙だと言えよう。政治の役目というのは、自助や共助なんていう言葉が存在しない社会を作ることだと言える。つまり、国民全員が自立できて、お互いが当たり前のように支え合う社会の実現こそ、目指すべきなのである。自助・共助を政治のスローガンにするというは、本来あり得ないことなのである。

起業女子こそイノベーションが必要

起業女子という語句がネット上で踊っている。自分の得意とする分野で、個人起業をしてビジネスに参入している女性が増えているという。その形は、実に様々であって、本格的な株式会社を設立して会社経営に専念している人もいれば、法人を設立しない個人営業で、しかも副業的にビジネスを楽しんでいる人もいる。特に若い主婦がはまっているのが、自分で作成したアクセサリーや雑貨などをネット販売するケースが多い。ネット上での販売なので、イニシャルコストと管理費がかからないので、簡単に起業する女性が激増していると思われる。

一方、もう少し本格的なビジネスとして起業する女性も増えてきた。小さいながらもお店を出して、自分の得意とする分野の営業商品を売るケースである。または、自分が好きな料理やスィーツを提供するカフェやレストランを出店する場合もある。そういう場合、自宅や倉庫などを利用するから、たいしてイニシャルコストや人件費もかからずお店を開店できるので、勢いでビジネスを開始してしまうことが多い。こういう時に、銀行から借り入れをするのであれば、資金計画書(採算管理)や営業計画書が必要となるが、自己資金で間に合わせるから、何のチェックもなくてスタートしてしまう。

勿論、こういう起業女子のビジネスが成功するケースもなくはないが、ごく少数である。ほとんどのビジネスは、数か月であえ無く頓挫する。ネット販売だけであれば、細々と続くことがあるが、これで飯を喰うレベルまで到達できる訳ではない。小遣い程度の収入でしかなく、自分の人件費計算をしたら大赤字である。それでも、成功する夢にあこがれて起業する女子は後を絶たない。それだけ現状の生活で満たされていないのだろうが、ビジネスの基本も知らないでお店を始めるというのは乱暴な話だ。

ビジネスが成功するためには、イノベーションが必要なのは言うまでもないが、起業女子たちにイノベーションとはなんぞやと問い質してみるといい。正確に答えられる人はいない筈だ。技術革新でしょうと答えるならまだましなほうだが、その言葉さえ聞いたこともない人もいるに違いない。イノベーションとは、単なる技術革新ではない。イノベーションとは抜本革新または抜本改革のことである。オーストリアのシュンペーターという経済学者が唱えた理論で、ノイア・コンビチアーノ(新結合)という概念である。

それでは「新しい結合」とはどういう意味なのかというと、違う顧客価値どうしを結合、または統合するという意味だ。具体的に言うと、エンジンの出力と電気モーターの出力を結合させ、さらにブレーキという今まで捨てていたエネルギーを電気エネルギーに転化して推進の力にするような画期的なことである。つまり、TOYOTAのハイブリッドシステムが、まさしくイノベーションである。さらには、農福連携という言葉が最近聞かれるようになったが、農業生産(農産物加工)と福祉事業を組み合わせて、福祉施設を運営することもイノベーションである。

このように、違う顧客価値どうしを統合させて新しい顧客価値を生み出すことがイノベーションなのである。そして、この新しい顧客価値が新しい顧客を獲得することになるのだ。こういうイノベーションによる価値創造がなければ、新しい顧客を生み出すことが出来ない。当然、価格競争の海に飲み込まれて、新しいビジネスはあえなく沈没することとなる。イスキアの郷しらかわは、農家民宿という観光と農業の統合分野に、さらに福祉的価値を統合させて新たな価値を生み出した。そして、今まで農家民宿の顧客にならなかったひきこもりや不登校、または休職者という顧客を新たに生み出した。だから成功したのだ。

スモールビジネスというような起業だから、イノベーションなんて所詮無理だと、最初から諦めている人のなんと多いことか。そんなことはないのである。スモールビジネスだからこそ、イノベーションは必要であるし、イノベーションなくしては成功しないのである。スモールビジネスのほうが、イノベーションは起こしやすいのである。違う顧客価値どうしを統合させて新しい顧客価値を生み出し、新しい顧客を生み出すという観点を見失しなわなければ、ビジネスは必ず起こせる。そしてそのビジネスは必ず成功するのである。

※イスキアの郷しらかわでは、新たに起業をする方に向けての『イノベーション講座』をレクチャーしています。起業女子、スモールビジネス、スモールオフィスを目指して計画している方は、是非受講してみてください。受講料は無料です。レンタルルーム料金2000円の負担だけで済みます。

言論統制が強すぎると内部崩壊する

現在の政界において、官邸が必要以上に党内統制を強めている。以前の自民党議員は、こんな党内統制に甘んじることはなかった。自らの矜持を持つ議員たちは、自分たちの持論を堂々と述べていたし、納得の行かない議案や法案の採決に反対しなかったものの、採決に加わらないという筋を通した行動をしたものである。現在は、そんなことをした議員は次回の選挙で党公認を外されるだけでなく、当該選挙区に刺客を送り込まれる。独裁政治ではないと新聞に投稿した高校生がいたが、これを独裁と言わないでなんと言うのか。

こういう状況は、世界共通の傾向らしい。米国や欧州でも、強硬姿勢の政治家が実権を持ったとたんに民意を無視した強権政治を実行している。中国や北朝鮮だって同じだ。政治の世界だけでなく経済や福祉の世界でも起きている。自分の絶対的権力を失うことが怖ろしくて、対抗勢力を徹底して貶める。自由闊達な討論を制限する。報道統制も徹底して行う。強大な権力を一度握ったら、その権力に執着するのは人間の性であろう。自分の立場や利権を守ろうとして、力での統制を強めるのは世の常であるらしい。

例えば民間企業において、カリスマ的な経営者がいて絶対的権力を握ったとしよう。最初は企業繁栄の為にと全力を傾注して結果を残す。ところが、やがて私利私欲のために公私混同を始める。しかし、あまりにも強大な権力を持つが故に、他の役員や管理者たちは黙認せざるを得ない。そして、言論統制を強いて社内での自由な発言を封じ込めるだけでなく、役員会でも反対意見を出せないような環境にしてしまうことがある。統制を強めることで、自分の地位を守ろうとするのである。言わば独裁である。

ヒットラーは恐怖を用いて内部統制を行った。自分に従わない者を徹底して粛清し、忠誠を誓う者だけを重用した。現代においては、あんな乱暴な手法は使えない。どんな手法で統制を行なうのかというと、人事権を独占することや言論の自由を制限することで実施する。首相官邸が一元的に官僚幹部の人事権を握っているのは、まさしく官邸による官僚への統制である。そして、官僚に対して人事権を盾にして徹底した言論統制まで行っている。こういうのは、『忖度』とは言わない。絶対的な強権による統制である。

太平洋戦争開戦に至る時代、軍部が対抗政治勢力をクーデターや軍事的圧力で独裁政治権力を握った。そして、報道管制を敷いて真実を国民に知らせず、自分たちの権力を守ろうとした。さらに、言論の自由を徹底して制限して、権力に対する批判をさせないようにしたのである。その結果、悲惨な戦争によって多くの国民の生命を奪ってしまった。あの時に、言論の自由が守られていれば、あんな悲惨な戦争を起こさなかったかもしれない。その反省を踏まえて、日本国憲法では基本的人権の中で、言論の自由を何よりも優先したのである。世界の先進国でも同様に言論の自由を最優先する憲法を制定している。

ところが、その言論の自由が日本では制限されつつあるのだ。NHKも含めた各放送局の経営幹部は、官邸に配慮した報道をしている。放送法を盾にして、いろいろな嫌がらせを官邸が実施するぞと、陰に陽に脅しているからである。各放送局は、放送法を後ろ盾にされて、電波を割り当てないぞと脅されたら従わざるを得ない。あの太平洋戦争での苦い経験を忘れているとしか思えない。国民を真実から目をそらさせてしまうと、独裁政治になってしまい、平和が脅かされて、国民は悲惨な目に遭ってしまう。統制が強すぎる組織は、内部崩壊を起こすのである。

言論統制を強めている他の国家も同じ運命を辿っている。トランプ大統領は、徹底した報道統制をしている。米国は危険な道を歩み始めていると言えよう。日産自動車がゴーン一強体制で統制を強め過ぎた結果、あんな出鱈目な経営をさせてしまい、結果として酷い低迷を招いたのは記憶に新しい。組織というのは、権力者が強いリーダーシップを発揮しないと運営が滞る。しかし、権力者が自分の権力を守るために言論統制を強め過ぎると内部崩壊を起こす。過去の歴史がそれを証明している。組織というのは、その発展と繁栄をするにためにこそ言論の自由を認めて、闊達な討論や対話をしなくてはならない。

貧困は自己責任か

貧困家庭が急増していると言われている。そして、その貧困家庭は世代間を超えて連鎖している。つまり、一度貧困家庭に陥ってしまうと、その子孫は貧困のまま生きていくことになるというのである。その一方で、貧困になるのは自己責任であるから、政治や行政の責任ではないという立場を取る政治家や行政マンが多い。富裕層の人たちもまた、貧困は自己責任だと思っている人が少なくない。本当に貧困という状況を作り出しているのは、自己責任だけなのか。政治や行政の努力では、貧困はなくならないのであろうか。

自民党政権の中枢にいる政治家、そしてキャリア官僚を中心にした官公庁の幹部は、口に出してこそ言わないが、貧困は自己責任だと思っている人が多いのも事実だ。公の場所でそんなことを言おうものならバッシングを受けてしまうから口を閉ざしているが、身内の集まりや組織内においては、貧困は自己責任だと断言している。だから、時折そんなニュアンスの発言がポロリと漏れ聞こえてくるのである。貧困家庭をなくそうとしていると言いながら、本音は違うのであるから貧困家庭をなくす政策に本腰を入れないのは当然だ。

マスメディアの大多数もまた貧困は自己責任だと思っている節がある。マスメディアに働く人々もまた、ある意味で恵まれて育った人々である。政治家や高級官僚も、恵まれた環境で育てられた人々である。小さいころから何不自由なく育ち、著名な塾や予備校、または名門私中学にも行かせてもらい、高等教育を受けさせてもらって、今の立場や地位を得た人々である。ずっと貧困に喘いで、どうあがいても高等教育を受けさせてもらえない家庭のことなど、解ろうとしないのは当然だ。貧困の苦しさなんて理解できようか。

とは言いながら、自己責任がまったくないと言い切れないのも事実である。何故貧困が連鎖してしまうのかというと、その背後には教育の貧困があるし、当事者の勤勉さや我慢強さにも問題があるし、努力が足りないのも事実であろう。だとしても、スタート地点があまりにも差がついていたら、頑張りたいと思う気持ちも失せてしまうに違いない。ましてや、貧困から抜け出すための支援をする政策が乏しいとしたら、努力が無駄になってしまうのではないかと思うだろう。貧困から抜け出すチャンスを与えられていないのである。

政治と行政の重要な役割は、貧困層を作らないことであるし、それが世代間連鎖を起こさないようにすることである。貧困はある意味、教育格差から起きていると思われる。ところが、今の政治や行政は教育格差を放置しているとしか思えない。逆に、教育格差をさらに広げているように感じる。これでは、貧困層は増加の一途を辿るのは仕方ない。教育格差だけでない。所得格差もひどい状況にある。非正規雇用を多量に生み出した小泉構造改革から国民の格差が広がったのは間違いないし、貧困層が増えたこともこれが原因である。

かなりの金融資産を持つ世界の富裕層のうち、かなりの日本人がその割合を占めていると言われている。日本の全人口の1%にも満たないような富裕層が、99%の日本人から仕事もせずに搾取をしているという実態がある。そして、この格差は益々広がっているし、貧困層は世代間連鎖をしていて、政治もそれを放置していると言わざるを得ない。貧困が何故起きているかというと、自己責任も多少はあるものの、国の労働政策、経済政策、福祉政策、教育政策などの失政によるものであると断言できる。貧困層を救いあげ、国内の一般消費を増やすことが、日本経済を好況に導く最善の方法なのに、しないのは怠慢だ。

欧米などでも貧困層が増えている。それは、やはり富裕層や大企業を優遇する税制改悪や労働政策による影響である。その流れを受けて日本でも、大企業優遇税制、高所得者の所得税減税、金融商品の規制緩和、相続税の減税、金融商品による所得税の優遇化などを一般庶民には解らないようにこそっと実施している。これでは貧困層が減らないばかりか、益々絶対的貧困層が増え続けていくに違いない。『貧困は自己責任だ』という為政者や富裕層たちには耳障りのない言葉だけが、独り歩きをしてしまっている。こんな根拠のない言葉で騙されてはならない。貧困層をなくすのは我々の使命であるし、喫緊の課題だと心得たい。

ネットの情報を盲信する危険

ネットの情報を盲目的に信じる人々がいる。そういう人々は驚くことに、まったく疑うことを知らないのである。明らかに科学的根拠がないのにも関わらず、100%信じてしまう人々がいる。まるで、新興宗教に洗脳された信者のように、盲信してしまうというのは驚きである。ケム・トレイルとかHAARPというようなもっともらしい名称に騙されるのかもしれないが、ほんの少しだけ科学的知識がありさえすれば、あんな馬鹿気た理論に翻弄されることはない筈である。

世の中に世界規模の陰謀がまったくないとは断定できないが、騙される人は陰謀という言葉に弱いようだ。そんな大規模で大胆な陰謀が、誰にもばれないで実行される筈がない。しかも、一度ならず何度も続けて成功するなんて、少しでも知恵が働く人間なら、誰でも嘘だと見破れる。インターネットの発達でフェイクニュースがあたかも真実のように流れて、それが拡散していく。そして、陰謀論も同じように垂れ流しされている。発信者はほくそ笑んでいるに違いない。

ケム・トレイルやHAARPを利用した陰謀を、最初にネット上に流したのは確信犯である。いかにも本当らしく写真を加工したりそれらしく偽造したりして、信じ込ませたに違いない。それを盲信して拡散してしまうような人々は、妄想性か統合失調症性のパーソナリティ障害ではないかと見られている。ある偏った情報を信じたいという隠された願望が根底にあり、一方だけの情報だけで盲信するのである。それらの陰謀が嘘だという明らかな証拠が他のネット情報で示されているのに、調べようとさえもしないのである。

とんでもないフェイクの情報を盲信するのは、その人の勝手である。他人がとやかく言うべきでないと思っている。しかし、その嘘の情報を拡散するのは、百害あったとしても一利さえない。多くの人々を惑わせるだけでなく、善良なる第三者を恐怖に陥れる。信じてもいいが、それを拡散することだけはしてはならない。ところが、これを盲信するのはパーソナリティ障害だから、人々を不幸にさせることさえ平気なのである。だから、まるで鬼の首を取ったように得意げに拡散してしまうのである。

ケム・トレイルやHAARPなどによる陰謀を信じている人は、反論検証をしているネット情報を見てみるといい。どちらが真実なのか、一目瞭然である。陰謀論がいかに非科学的であるのか、誰でも理解できるように説明されている。大切な情報ほど、反対の検証をすべきである。一方の情報だけを鵜呑みにして、盲信するのはとても危険なことである。もう一度言おう。信じたい気持ちも理解できるが、反論する情報も検証して、冷静に判断することを勧めたい。

こんな嘘の情報を巧妙に手間暇惜しまず作成して、人々を惑わせて何が面白いのであろうか。愉快犯と言えばそれまでだが、何も得るものはない筈だ。盲信する人々がいることを知っているのであろう。だから、こんな嘘まみれの情報でも拡散してくれると信じて、ネットに情報を流したのであろう。フェイクニュースというのは、情報がどこの誰が最初に発信したのか明らかにすることはけっしてない。後から調査されて何らかのペナルティを受けるのを避けたいからだ。

どちらの情報が真実なのか、簡単に判断できる方法がある。それは、情報発信者を明確に発表しているかどうかである。フェイク情報の最初の発信者は、絶対に特定されることはない。その反論検証者は、たとえハンドルネームやニックネームを使っていたとしても、自分の考えだと堂々と述べている。ところが、嘘の情報を最初に提供した人物が誰だかはまったく判らない。この事実だけ見ても、どちらがフェイクなのか解ろうというものである。発信者の判らないネット情報ほど信じてはならないのである。

ポストアベノミクスはイノベーションで

アベノミクスという経済及び金融政策は既に理論破綻しているということは、皮肉なことに勤労統計の偽装によって実証されてしまった。実質賃金が低下していることが判明して、政府が主張していたトリクルダウンはまったく起きなかったことが図らずも証明されてしまった形である。それでは、アベノミクスからどのような経済政策に舵切りをすればよいかというと、御用学者たちはまったくアイデアが出せないでいる。何故かと言うと、経済政策、金融政策、そして労働政策が大企業中心に実施されているからである。

政府の経済政策は、あくまでも大企業が輸出を伸ばして利益を上げて工場増設や設備投資をすることで景気回復するというシナリオに固執している。頭のお堅い政府関係者やキャリア官僚は、低賃金で低コストの労働政策、さらには円安のための金融政策を取れば、国際競争力が高まって大企業が儲かり、下請けの中小企業もその恩恵を受ける筈だと思い込んでいるのである。ところが、実体経済はどうかというと、非正規の低賃金労働者が増えて所得格差が生まれ、消費支出が伸び悩んで景気は低迷し、庶民の暮らしは益々苦しくなり、不景気のスパイラル状態になっているのである。

それではアベノミクスからどのような経済政策に転換すればよいかというと、実に簡単なことであり、国民ファーストの経済対策をすればよいのだ。まずは、最低賃金を毎年5%ずつ上昇させればよい。そうすれば、5年もすれば28%賃金が上昇する。と同時に非正規雇用から正規雇用への労働政策を推し進める。そのうえで、所得税や地方税の累進課税比率を見直して、高所得者への課税強化を実施する。そうすると、賃金格差が減少して、中間所得層が増えて一般消費支出が驚くほど伸びることになる。所得税の累進課税を強化すると、高額の役員報酬や給料に出すよりも、設備改新や新商品開発に投資するだろう。

そんなことをしたら、企業が倒産してしまい、不景気になって失業者が増えることになると思う経営者が多いことだろう。そんな無能な経営者は、経済界から退出してもらうほうがよい。労働コストが上がったら、働き方改革やワークシェアーをするのは勿論、労働生産性を高める工夫が必要になる。さらには、真のイノベーションの実行やAIを活用した事務処理と生産工程を推進しないと生き残れなくなる。また、コモデティ化に飲み込まれないように、より付加価値の高く追随を許さない高技術の製品開発に取り組まざるを得なくなる。つまり、経営者は自らが抜本的な経営改革や意識改革をすることになるのだ。

1960年に当時の池田勇人首相が所得倍増計画を打ち出した。10年間で国民の給料を倍にするという、当時の経済常識からすると荒唐無稽のような経済政策であった。ところが僅か4年で所得は倍増し、10年後には所得は4倍になったのである。高コストになり輸出は減少したかというとそうではなく、驚くほど生産性が伸びて国際競争力は落ちず、輸出が伸びて国民生活は潤ったのである。経済格差もびっくりするほど改善して、失業者や貧困者は激減した。池田勇人が取った経済政策は、現代には当てはまらないとする経済学者が多いが、そんなことはない。賃金を上昇させることで、一般消費支出は伸びて、景気回復は実現するに違いない。結果として、企業は収益を高めることになる。

人件費コストが増大すると、企業の収益は一時的に落ちるのは間違いない事実である。経営者たちは、それが持ちこたえられないと、最低賃金のアップは認めたがらない。しかし、イノベーションを実行すれば、賃金コストを吸収してなお収益が確保できるのである。イノベーションなんて中小企業では無理だと最初から諦めている経営者が多く存在する。それは、イノベーションというものに対する誤解である。イノベーションが日本に紹介された際に、『技術革新』と誤訳されてしまった。それによる完全な勘違いでしかない。

かの著名な経済学者シュンペーターが唱えたイノベーションとは、単なる技術革新などではなくて、抜本的経営革新のことである。それには、勿論技術革新も含まれるが、ごく一部である。シュンペーターが説いていたのはneue Kombination(新結合)こそが、イノベーションにとって重要だということである。つまり、異質な価値どうしを統合させて、新たな大きい価値を生み出すという意味であり、それによって新たな顧客を創造するのが真のイノベーションである。端的に言うと、統合による新しい価値と顧客を創造することこそが、イノベーションなのである。それには、社員全員の意識改革も必要である。そうすれば、過度の競争にさらされることなく、収益性も確保されて、企業の発展と存続が可能になるであろう。

陰謀論をネットに拡散する愚行

SNSなどで、陰謀論が盛んに流されている。それらの論理的根拠や科学的根拠は、実に希薄なものであるし、ねつ造されたものとしか思えないあやふやなものが殆どである。あくまでも、想像論でしかないし、陰謀を起こすべき動機が弱いし、実際にそれだけの陰謀が実行されたとしたら、それをマスメディアや善良な政治家や官僚に悟られない筈がない。全部が作り話だとは思わないが、殆どがデマとしか言えないものばかりだ。したがって、それが陰謀論を冷ややかな目で見ている人たちに、絶好の反論として利用されてしまっている。

陰謀は実際に行われているかもしれないし、単なるねつ造かもしれない。完全に否定できず信憑性が感じられるものもある。陰謀があると信じたい気持ちも解らないではないが、どうしてそんなに陰謀論が好きなのだろうか。また、陰謀論をどうしてネットに垂れ流すのであろうか。陰謀論がもし真実で、ましてやその陰謀が巨大な権力を持つ組織によるものだとしたら、ネット上で明らかにすることを妨害するに違いない。国家規模による陰謀なら、ネットの情報を操作するなんて朝飯前の筈である。

そう言えば、陰謀論を垂れ流している人間は、インターネットの繋がりが悪くなったとか、書き込みが出来なくなったと主張する人が多い。あたかもネット情報を拡散することを、闇の勢力から妨害されているかのように訴えている。もし、闇の勢力が実際に存在して、その闇の勢力とやらがインターネットの拡散妨害をするならば、そんなことをすることがないことは、少し賢い人間ならば誰だって理解できる。ネットの操作をするなら、本人に悟られない方法にするであろう。グーグルやヤフーの検索エンジンでヒットしないようにすればよいだけであろう。

エビデンスのない陰謀を自分で確認することなく、安易に信じてしまい、それをSNSで拡散してしまうのは何故であろうか。このように陰謀が大好きな人間は、社会的に認められている成功者とは言えず、どちらかというと不遇な生活をしている。職場でも冷遇されていて、社会的な評価や地位も低くて、いつも不満を持っている人間が多い。そして、家族や周りの人間からも愛されないばかりか、いつも愛に飢えている。人生のパートナーにも恵まれず、ずっと独身の生活を続けているとか、結婚生活が破綻してバツであることが多い。つまり、孤独な人生を送っているのである。

このような人間は、社会に対して強い生きづらさを抱えていると同時に、自分が不遇な生き方をしているのは、社会が悪いからだと思い込んでいる傾向がある。そして、社会に対する強烈な憎しみを抱えている。こういう状況に追い込まれて自分が這い上がれないのは、一部の権力者や権威者が良からぬ陰謀を張り巡らしているからだと思い込むのではないだろうか。つまり、社会に対する恨みつらみから、陰謀がある筈だと勘違いするのだと思われる。不遇な暮らしをしているのは、確かに社会そのものにも原因があったとしても、自分に原因があるということを認めたがらないのであろう。

陰謀論を信じるか信じないかは、それぞれ自由である。しかしながら、とんでもない陰謀を確認することなくネット上に垂れ流すのは止めて欲しいものである。何故なら、素直で善良な人間さえも信じかねないからである。面白おかしくねつ造された陰謀ほど、人々は飛びつきたがる。そんな陰謀を信じたいし、信じることで自己満足したいのであろう。陰謀を垂れ流して大騒ぎでリアクションをする人々を見て、自分自身の満たされない思いを解消しているのではなかろうか。愛に飢えている心を、陰謀論で癒しているに過ぎない。

陰謀は本当にあるのかもしれない。だとしても、とんでもない陰謀論をあまりにも拡散させてしまうと、デマが信じられるように陰謀論もあたかも真実のように一人歩きしかねない。そうすると、人々の心は益々疑心暗鬼になり、人間どうしの信頼関係は揺らいでいくし、関係性は劣悪化していく。つまり、人間どうしの繋がりや絆が希薄していくし、お互いの協力関係も薄らいでしまう。自分さえ良ければいいんだと思い込み、他人に対する思いやりや優しさもなくなってしまう。これこそが陰謀による取り返しのつかない悪影響であり、もしかすると陰謀論を流す本当の目的は、ここにあるのかもしれない。陰謀論というのは、人間どうしの分断を図る『悪魔のささやき』でしかないと心得るべきである。

やはりアベノミクスは失敗だった!


厚労省による勤労統計の偽装事件では、官僚組織の隠ぺい体質も問われているが、もっと大変な問題に発展しようとしている。正しい勤労統計によって賃金動向を分析しなおすと、実質賃金が低下しているという事実が明らかになったというのである。アベノミクスによって、名目賃金が上昇しているし、実質賃金も増加していることから、経済政策は成功だったと政府は自画自賛していたが、それがまったく間違いだったということになる。つまり、アベノミクスは失敗だったということが証明された形になるのだ。

そんなことはないと思いたいが、厚労省と官邸は実質賃金が目減りしているという事実を掴みながら、それを隠ぺいするために勤労統計の偽装を続けたのではないかと主張する報道機関が多い。アベノミクスとは、金融政策によって経済全体を好況に導いて、それが賃金を底上げして国民を豊かにするというシナリオだったのに、それがまったく機能していなかったということになる。大企業の好況によって、中小企業で働く社員の所得上昇に結び付くという、トリクルダウンという手法は実現しなかったということになる。

一般庶民に対してアンケートを試みると、経済状況が改善していると実感できないという回答をする人が殆どである。一部の大企業の役職員や投資家たちは好況の恩恵を受けていたが、我々一般人の暮らしは一向に良くならないと感じていた。それが政府の勤労統計によって、実質賃金が目減りしていることが証明され、正しかったということになる。アベノミクスによって経済は活況を呈し、実質賃金も上昇しているから、政府の経済政策は成功していると自信を持って喧伝していたが、すべて嘘だったことになる。

アベノミクスの成功を評価されて、何度かの選挙で自民党は大勝してきたが、それが国民を騙した勤労統計によっての投票だったとすれば、これは大問題になろう。安倍政権の責任は大きいと言わざるを得ない。政府が発表している情報よりも、我々が普段の生活で感じているものが正しかったのだ。好況を証明するという有効求人倍率だって、数字のマジックがあって、ミスマッチであっても求人を有効にしてしまい、数字を高く見せているに過ぎない。厚労省や財務省の官僚というのは、官邸の言うなりになっていて、統計偽装でも文書改ざんだって何でもありという体質なのだということが解ったのである。

アベノミクスという政策は、大企業や資産家、さらには投資家に圧倒的な支持を受けている。さらには、若者たちからも大きな支持をもらっている。ところが、年金生活者や高齢者、低所得者層からは不評である。円高誘導によって物価が上昇し、低金利金融政策によって貯蓄が目減りしている影響もある。トリクルダウンがいずれ起きる筈だと政府自民党は宣言していたのに、一向に起きる気配さえなかった。若者たちは、巧妙に偽装された賃金統計によって騙されていたと言えよう。政府の情報を鵜呑みにした愚かな行動だ。

アベノミクスという経済政策は、大胆な金融緩和による円高誘導と低金利政策によって、市場を活況化するものである。これは金融経済を活況にすれば、実質経済もよくなるに違いないという思い込みの政策である。勿論、第三の矢として実質経済を豊かにする政策も推し進められていたが、まったく効果を上げていない。実質経済というものは、一般の庶民の収入が豊かになって、一般消費支出が増えなければ、好況になることはない。金融緩和政策の恩恵は、大企業とその役員、投資家だけしか受けていないと言える。国民のうちのごく僅かの人だけが豊かになっても、全体の消費支出が伸びないのは当たり前である。貪欲な人間というものは、自分だけの利益や利権を抱えれば抱えるほど離したくなるものである。

アベノミクスの失敗が判明したのだから、これからは経済政策のドラスティックな舵切りが必要であろう。現在行っている経済政策では、一般消費支出が増えていないのだから、実質経済を立て直す必要がある。そのためには、実質賃金を上げなくてはならず、不正規雇用を減少させ、正規雇用にシフトさせる抜本的な労働政策が求められる。大胆なワークシェアを進める労働政策、労働生産性を高める抜本的な勤務時間の短縮政策などの正しい働き方改革が必要だ。そのうえで、所得再配分機能を高める政策が求められる。所得税累進課税の見直しなどの税制改革によって、貧困家庭を根絶して、所得格差を出来得る限り縮める所得再配分に努めるべきであろう。もはや、失政とも言えるアベノミクスを止める時期に来ているし、それを決断させるのは選挙民しかいない。



長期の権力集中は腐敗を生む

日産自動車のカルロス・ゴーン会長が金融商品取引法違反容疑で逮捕された。日産の経営立て直しを実現させた功労者であり、日産自動車の躍進を支えた名経営者として評価されている。彼の図抜けた剛腕ぶりは、社内では恐れられていて、長い期間に渡りトップ経営者として君臨した。1999年低迷していた日産自動車を、ルノーの副社長からCOOとして乗り込んで、見事にV時回復させたのである。その経営手腕は経済界でも一目置かれていて、毎年10億円以上という破格の役員報酬を得ていたと、話題をさらっていた。

カルロス・ゴーン会長は、日産自動車の内部調査によって会社資金を私的に支出していたことが判明したという。内部告発で密かに内部調査を進めていて、確証が掴めたらしく取締役会で会長と取締役の解任を提案するという報道がされている。あれほどの絶対的権力を握っていたゴーン会長があっけなく失脚するなんて驚きである。絶大な権力を持って大胆な経営改革を断行して、多くの社員と協力企業を切り捨ててきたゴーン会長が、内部告発によってその絶大な権力を失うなんて、実に皮肉なものである。

日産自動車がV字回復をしたことを、ゴーン会長の経営手腕だと評価し、素晴らしいイノベーションだと称賛される一方で、まったく評価に値しないというアナリストも少なくない。あの大胆な資産の投げ売りとリストラは、将来の日産自動車に暗い影を落とすに違いないと見ている。譲渡してしまったいろいろな資産は、将来の日産にとって必要不可欠な良好な資産もあり、苦しい現状を乗り切る為とは言え、実にもったいないことをしたと嘆く人も多い。さらに、過激なリストラによって将来性のある優秀な社員を失ったとも言える。

また日産自動車が不正検査による不祥事を起こしたが、あれもゴーン体制が引き起こしたとも言われている。あれほど日産と経済界から称賛されていたのに、カルロス・ゴーンの名誉も地に堕ちたとも言えよう。それにしても、何故にゴーン会長は法を犯すようなことをしたのだろう。また、日産自動車という会社はゴーン会長の暴走をどうして止められなかったのであろうか。日本を代表するような大企業が、こんな子どもでも解りそうな誤魔化しを許したのか。自浄能力のない会社なら、実に情けない。

昔から、権力者は長い期間に渡りトップに君臨すると、汚職に走りやすい。だから公務員は同じ部署に長期間勤務させないし、同じ管理職を続けることを避ける。オーナー経営者は別としても、民間企業における雇われ経営者だって長期間同じトップだと腐る可能性が限りなく高くなる。流れない水は腐ると言われる所以である。これは経済界だけではない。政界においても長期政権が利権を私物化したり汚職したりするケースが多い。だから、大国の大統領は複数回の就任に制限を加えているのである。

日本の自民党も、過去にあった汚職や利権の私物化を受けて、総裁を3期以上続けることに制限を設けていた。自浄能力が発揮できなくなることを怖れての処置である。ところが、今回3期までの総裁を認めるだけでなく、4期までも認める規則改正を見込んでいるらしい。これでは、日産自動車の二の舞になりかねない。本人だけでなく、取り巻き連中やトップに親しい奴らが汚職のようなことを平気でやり出すのだ。森友加計問題のような事件が、益々増えて来るに違いない。権力や利権に群がる輩が、暴走するリスクが高まるのではないだろうか。自民党議員の良識に期待したいものである。

日産自動車で、どうしてこんな不祥事が起きたのであろうか。それは、経営理念が企業内にしっかりと根付いてなかったか、もしくは経営理念が機能していなかったに違いない。経営理念または企業理念と言うのは、企業経営をする目的のことあり、正しい普遍的な価値観がなければ、適切な経営の目的は作れない。日産自動車の役職員に、高い価値観に基づく経営哲学がなかったと断じなければならない。なんとも情けない話である。日産自動車は膿を出し切るだけでなく、しっかりした企業理念を作る為にも、高い価値観に基づく経営哲学を持つ経営者の体制に生まれ変わってほしいものである。

 

ハゲタカと日本人企業家の価値観

ハゲタカというTVドラマがNHKで初めて放映されたのが2007年だから、今から10年以上も前である。その時は、外国資本が日本の企業を食い物にするという物語だと勘違いして、視聴を避けていた。ところが、TV朝日でハゲタカを再ドラマ化してくれたお陰で、その誤解を解くことができた。ハゲタカというドラマは、外資による単なる企業買収や会社乗っ取りを描いた訳ではなかったのである。外資系企業の横暴さを描いたのではなくて、日本企業経営者のあまりにも低劣な価値観を暴き出した人間ドラマだったのである。

失われた30年と呼ばれている日本経済の低迷が、まだ解決する見込みもなく深刻さを増している。さらに後10年続くだろうと予測するエコノミストが多い。その原因は、経済政策の失敗にあるとされていて、アベノミクスが日本経済の立て直しをしてくれると期待する国民が大多数だった。しかしながら、円安と株価上昇などにより金融経済はある程度持ち直したが、実体経済は残念ながら低迷したままである。ましてや、起きるとされていたトリクルダウンはいまだに起きていないし、消費低迷が続いている。

ましてや経済政策の失敗とも言えるような社会問題が顕在化している。酷い経済格差が生じていて、貧困家庭が激増している。経済格差があまりにも大きいが故に、教育格差が生まれて、貧困が固定化してしまっている。このような状況に追い込まれているのは、政府による経済政策や福祉政策の失敗だけが原因ではない。経済界における企業経営にこそ問題があると言えよう。そのことをハゲタカという経済小説が、明らかにしようとしたのである。失われた30年は、日本の経済人が企業経営に失敗したから起きたと主張している。

ハゲタカという小説(TVドラマ)が描きたかったのは、外国資本が日本の経済を支配しようとする衝撃的な現実なのではなくて、そのような状況に追い込んでしまった日本の企業家たちの怠慢と卑劣さであった。外資系のファンドが日本の企業の買収や乗っ取りをするケースにおいて、その対象となってしまうのは経営的に行き詰まっているからである。そうなってしまった原因は、企業経営における失敗である。日本の企業経営が悪化したのは、グローバル化やコモデティ化による経済環境の変化によるとされているが、実はそれだけではないのである。

日本の経済は、輸出によって支えられていると思い込んでいる人が殆どであろう。だから、アベノミクスは輸出産業に向けた支援策である。円安支援、異常とも言える金融緩和による株価上昇支援をして、景況を起こそうとした。しかし、実際に実質経済は好転しないし、国民は好況を実感していない。消費支出が伸びないから、インフレターゲットは達成していない。日本経済は、輸出産業が支えているというのは幻想である。国内における需要の高まりがないと日本経済は活性化しないのだ。国内需要によって日本経済は支えられているという現実を認識して、実質経済を活性化しないと本当の好況はやって来ない。

国内需要を高めるには、正規雇用を増加させて実質賃金を向上させるしかない。企業経営者が今までやってきたのは、国際競争力を高める為に必要不可欠だとして、不正規雇用を増やし賃金を抑えてきたのである。そして、社内留保を増やし株価を上げることだけに奮闘してきた。社員は使い捨てにして、便利な派遣社員を利用してきた。それもすべては自分の地位や立場を守ろうとした経営者の低い価値観によるものである。自分たちの役員報酬を増やすことしか考えず、その為には製品偽装や違法行為を平気で行うような企業経営者の姿勢があった。ハゲタカファンドの鷲津は、そのような最低の経営者たちに鉄槌を加えたのである。善良な経営者や勤勉な社員を守ろうとしたのである。

グローバル化やコモデティ化などの経済環境の変化が、日本経済を駄目にしたのではない。日本人経営者の経営哲学があまりにも低劣で、あまりにも自分たちの利益を優先した企業経営をしたからである。ハゲタカというドラマは、その真実を知らせたかったのである。ハゲタカファンドの鷲津社長は、そういう意味では素晴らしい経営哲学を持った経営者である。そして、もっとも日本人らしい価値観を持つ企業家であり、日本という国を愛していた。だからこそ、TOBという荒療治を実行したのであろう。日本の卑劣な経営者たちに請われるままに、非正規雇用を増やすという間違った労働政策を推し進めた政治家にも、日本経済を低迷させた責任を自覚してもらわなければならない。