陰謀論をネットに拡散する愚行

SNSなどで、陰謀論が盛んに流されている。それらの論理的根拠や科学的根拠は、実に希薄なものであるし、ねつ造されたものとしか思えないあやふやなものが殆どである。あくまでも、想像論でしかないし、陰謀を起こすべき動機が弱いし、実際にそれだけの陰謀が実行されたとしたら、それをマスメディアや善良な政治家や官僚に悟られない筈がない。全部が作り話だとは思わないが、殆どがデマとしか言えないものばかりだ。したがって、それが陰謀論を冷ややかな目で見ている人たちに、絶好の反論として利用されてしまっている。

陰謀は実際に行われているかもしれないし、単なるねつ造かもしれない。完全に否定できず信憑性が感じられるものもある。陰謀があると信じたい気持ちも解らないではないが、どうしてそんなに陰謀論が好きなのだろうか。また、陰謀論をどうしてネットに垂れ流すのであろうか。陰謀論がもし真実で、ましてやその陰謀が巨大な権力を持つ組織によるものだとしたら、ネット上で明らかにすることを妨害するに違いない。国家規模による陰謀なら、ネットの情報を操作するなんて朝飯前の筈である。

そう言えば、陰謀論を垂れ流している人間は、インターネットの繋がりが悪くなったとか、書き込みが出来なくなったと主張する人が多い。あたかもネット情報を拡散することを、闇の勢力から妨害されているかのように訴えている。もし、闇の勢力が実際に存在して、その闇の勢力とやらがインターネットの拡散妨害をするならば、そんなことをすることがないことは、少し賢い人間ならば誰だって理解できる。ネットの操作をするなら、本人に悟られない方法にするであろう。グーグルやヤフーの検索エンジンでヒットしないようにすればよいだけであろう。

エビデンスのない陰謀を自分で確認することなく、安易に信じてしまい、それをSNSで拡散してしまうのは何故であろうか。このように陰謀が大好きな人間は、社会的に認められている成功者とは言えず、どちらかというと不遇な生活をしている。職場でも冷遇されていて、社会的な評価や地位も低くて、いつも不満を持っている人間が多い。そして、家族や周りの人間からも愛されないばかりか、いつも愛に飢えている。人生のパートナーにも恵まれず、ずっと独身の生活を続けているとか、結婚生活が破綻してバツであることが多い。つまり、孤独な人生を送っているのである。

このような人間は、社会に対して強い生きづらさを抱えていると同時に、自分が不遇な生き方をしているのは、社会が悪いからだと思い込んでいる傾向がある。そして、社会に対する強烈な憎しみを抱えている。こういう状況に追い込まれて自分が這い上がれないのは、一部の権力者や権威者が良からぬ陰謀を張り巡らしているからだと思い込むのではないだろうか。つまり、社会に対する恨みつらみから、陰謀がある筈だと勘違いするのだと思われる。不遇な暮らしをしているのは、確かに社会そのものにも原因があったとしても、自分に原因があるということを認めたがらないのであろう。

陰謀論を信じるか信じないかは、それぞれ自由である。しかしながら、とんでもない陰謀を確認することなくネット上に垂れ流すのは止めて欲しいものである。何故なら、素直で善良な人間さえも信じかねないからである。面白おかしくねつ造された陰謀ほど、人々は飛びつきたがる。そんな陰謀を信じたいし、信じることで自己満足したいのであろう。陰謀を垂れ流して大騒ぎでリアクションをする人々を見て、自分自身の満たされない思いを解消しているのではなかろうか。愛に飢えている心を、陰謀論で癒しているに過ぎない。

陰謀は本当にあるのかもしれない。だとしても、とんでもない陰謀論をあまりにも拡散させてしまうと、デマが信じられるように陰謀論もあたかも真実のように一人歩きしかねない。そうすると、人々の心は益々疑心暗鬼になり、人間どうしの信頼関係は揺らいでいくし、関係性は劣悪化していく。つまり、人間どうしの繋がりや絆が希薄していくし、お互いの協力関係も薄らいでしまう。自分さえ良ければいいんだと思い込み、他人に対する思いやりや優しさもなくなってしまう。これこそが陰謀による取り返しのつかない悪影響であり、もしかすると陰謀論を流す本当の目的は、ここにあるのかもしれない。陰謀論というのは、人間どうしの分断を図る『悪魔のささやき』でしかないと心得るべきである。

やはりアベノミクスは失敗だった!


厚労省による勤労統計の偽装事件では、官僚組織の隠ぺい体質も問われているが、もっと大変な問題に発展しようとしている。正しい勤労統計によって賃金動向を分析しなおすと、実質賃金が低下しているという事実が明らかになったというのである。アベノミクスによって、名目賃金が上昇しているし、実質賃金も増加していることから、経済政策は成功だったと政府は自画自賛していたが、それがまったく間違いだったということになる。つまり、アベノミクスは失敗だったということが証明された形になるのだ。

そんなことはないと思いたいが、厚労省と官邸は実質賃金が目減りしているという事実を掴みながら、それを隠ぺいするために勤労統計の偽装を続けたのではないかと主張する報道機関が多い。アベノミクスとは、金融政策によって経済全体を好況に導いて、それが賃金を底上げして国民を豊かにするというシナリオだったのに、それがまったく機能していなかったということになる。大企業の好況によって、中小企業で働く社員の所得上昇に結び付くという、トリクルダウンという手法は実現しなかったということになる。

一般庶民に対してアンケートを試みると、経済状況が改善していると実感できないという回答をする人が殆どである。一部の大企業の役職員や投資家たちは好況の恩恵を受けていたが、我々一般人の暮らしは一向に良くならないと感じていた。それが政府の勤労統計によって、実質賃金が目減りしていることが証明され、正しかったということになる。アベノミクスによって経済は活況を呈し、実質賃金も上昇しているから、政府の経済政策は成功していると自信を持って喧伝していたが、すべて嘘だったことになる。

アベノミクスの成功を評価されて、何度かの選挙で自民党は大勝してきたが、それが国民を騙した勤労統計によっての投票だったとすれば、これは大問題になろう。安倍政権の責任は大きいと言わざるを得ない。政府が発表している情報よりも、我々が普段の生活で感じているものが正しかったのだ。好況を証明するという有効求人倍率だって、数字のマジックがあって、ミスマッチであっても求人を有効にしてしまい、数字を高く見せているに過ぎない。厚労省や財務省の官僚というのは、官邸の言うなりになっていて、統計偽装でも文書改ざんだって何でもありという体質なのだということが解ったのである。

アベノミクスという政策は、大企業や資産家、さらには投資家に圧倒的な支持を受けている。さらには、若者たちからも大きな支持をもらっている。ところが、年金生活者や高齢者、低所得者層からは不評である。円高誘導によって物価が上昇し、低金利金融政策によって貯蓄が目減りしている影響もある。トリクルダウンがいずれ起きる筈だと政府自民党は宣言していたのに、一向に起きる気配さえなかった。若者たちは、巧妙に偽装された賃金統計によって騙されていたと言えよう。政府の情報を鵜呑みにした愚かな行動だ。

アベノミクスという経済政策は、大胆な金融緩和による円高誘導と低金利政策によって、市場を活況化するものである。これは金融経済を活況にすれば、実質経済もよくなるに違いないという思い込みの政策である。勿論、第三の矢として実質経済を豊かにする政策も推し進められていたが、まったく効果を上げていない。実質経済というものは、一般の庶民の収入が豊かになって、一般消費支出が増えなければ、好況になることはない。金融緩和政策の恩恵は、大企業とその役員、投資家だけしか受けていないと言える。国民のうちのごく僅かの人だけが豊かになっても、全体の消費支出が伸びないのは当たり前である。貪欲な人間というものは、自分だけの利益や利権を抱えれば抱えるほど離したくなるものである。

アベノミクスの失敗が判明したのだから、これからは経済政策のドラスティックな舵切りが必要であろう。現在行っている経済政策では、一般消費支出が増えていないのだから、実質経済を立て直す必要がある。そのためには、実質賃金を上げなくてはならず、不正規雇用を減少させ、正規雇用にシフトさせる抜本的な労働政策が求められる。大胆なワークシェアを進める労働政策、労働生産性を高める抜本的な勤務時間の短縮政策などの正しい働き方改革が必要だ。そのうえで、所得再配分機能を高める政策が求められる。所得税累進課税の見直しなどの税制改革によって、貧困家庭を根絶して、所得格差を出来得る限り縮める所得再配分に努めるべきであろう。もはや、失政とも言えるアベノミクスを止める時期に来ているし、それを決断させるのは選挙民しかいない。



長期の権力集中は腐敗を生む

日産自動車のカルロス・ゴーン会長が金融商品取引法違反容疑で逮捕された。日産の経営立て直しを実現させた功労者であり、日産自動車の躍進を支えた名経営者として評価されている。彼の図抜けた剛腕ぶりは、社内では恐れられていて、長い期間に渡りトップ経営者として君臨した。1999年低迷していた日産自動車を、ルノーの副社長からCOOとして乗り込んで、見事にV時回復させたのである。その経営手腕は経済界でも一目置かれていて、毎年10億円以上という破格の役員報酬を得ていたと、話題をさらっていた。

カルロス・ゴーン会長は、日産自動車の内部調査によって会社資金を私的に支出していたことが判明したという。内部告発で密かに内部調査を進めていて、確証が掴めたらしく取締役会で会長と取締役の解任を提案するという報道がされている。あれほどの絶対的権力を握っていたゴーン会長があっけなく失脚するなんて驚きである。絶大な権力を持って大胆な経営改革を断行して、多くの社員と協力企業を切り捨ててきたゴーン会長が、内部告発によってその絶大な権力を失うなんて、実に皮肉なものである。

日産自動車がV字回復をしたことを、ゴーン会長の経営手腕だと評価し、素晴らしいイノベーションだと称賛される一方で、まったく評価に値しないというアナリストも少なくない。あの大胆な資産の投げ売りとリストラは、将来の日産自動車に暗い影を落とすに違いないと見ている。譲渡してしまったいろいろな資産は、将来の日産にとって必要不可欠な良好な資産もあり、苦しい現状を乗り切る為とは言え、実にもったいないことをしたと嘆く人も多い。さらに、過激なリストラによって将来性のある優秀な社員を失ったとも言える。

また日産自動車が不正検査による不祥事を起こしたが、あれもゴーン体制が引き起こしたとも言われている。あれほど日産と経済界から称賛されていたのに、カルロス・ゴーンの名誉も地に堕ちたとも言えよう。それにしても、何故にゴーン会長は法を犯すようなことをしたのだろう。また、日産自動車という会社はゴーン会長の暴走をどうして止められなかったのであろうか。日本を代表するような大企業が、こんな子どもでも解りそうな誤魔化しを許したのか。自浄能力のない会社なら、実に情けない。

昔から、権力者は長い期間に渡りトップに君臨すると、汚職に走りやすい。だから公務員は同じ部署に長期間勤務させないし、同じ管理職を続けることを避ける。オーナー経営者は別としても、民間企業における雇われ経営者だって長期間同じトップだと腐る可能性が限りなく高くなる。流れない水は腐ると言われる所以である。これは経済界だけではない。政界においても長期政権が利権を私物化したり汚職したりするケースが多い。だから、大国の大統領は複数回の就任に制限を加えているのである。

日本の自民党も、過去にあった汚職や利権の私物化を受けて、総裁を3期以上続けることに制限を設けていた。自浄能力が発揮できなくなることを怖れての処置である。ところが、今回3期までの総裁を認めるだけでなく、4期までも認める規則改正を見込んでいるらしい。これでは、日産自動車の二の舞になりかねない。本人だけでなく、取り巻き連中やトップに親しい奴らが汚職のようなことを平気でやり出すのだ。森友加計問題のような事件が、益々増えて来るに違いない。権力や利権に群がる輩が、暴走するリスクが高まるのではないだろうか。自民党議員の良識に期待したいものである。

日産自動車で、どうしてこんな不祥事が起きたのであろうか。それは、経営理念が企業内にしっかりと根付いてなかったか、もしくは経営理念が機能していなかったに違いない。経営理念または企業理念と言うのは、企業経営をする目的のことあり、正しい普遍的な価値観がなければ、適切な経営の目的は作れない。日産自動車の役職員に、高い価値観に基づく経営哲学がなかったと断じなければならない。なんとも情けない話である。日産自動車は膿を出し切るだけでなく、しっかりした企業理念を作る為にも、高い価値観に基づく経営哲学を持つ経営者の体制に生まれ変わってほしいものである。

 

ハゲタカと日本人企業家の価値観

ハゲタカというTVドラマがNHKで初めて放映されたのが2007年だから、今から10年以上も前である。その時は、外国資本が日本の企業を食い物にするという物語だと勘違いして、視聴を避けていた。ところが、TV朝日でハゲタカを再ドラマ化してくれたお陰で、その誤解を解くことができた。ハゲタカというドラマは、外資による単なる企業買収や会社乗っ取りを描いた訳ではなかったのである。外資系企業の横暴さを描いたのではなくて、日本企業経営者のあまりにも低劣な価値観を暴き出した人間ドラマだったのである。

失われた30年と呼ばれている日本経済の低迷が、まだ解決する見込みもなく深刻さを増している。さらに後10年続くだろうと予測するエコノミストが多い。その原因は、経済政策の失敗にあるとされていて、アベノミクスが日本経済の立て直しをしてくれると期待する国民が大多数だった。しかしながら、円安と株価上昇などにより金融経済はある程度持ち直したが、実体経済は残念ながら低迷したままである。ましてや、起きるとされていたトリクルダウンはいまだに起きていないし、消費低迷が続いている。

ましてや経済政策の失敗とも言えるような社会問題が顕在化している。酷い経済格差が生じていて、貧困家庭が激増している。経済格差があまりにも大きいが故に、教育格差が生まれて、貧困が固定化してしまっている。このような状況に追い込まれているのは、政府による経済政策や福祉政策の失敗だけが原因ではない。経済界における企業経営にこそ問題があると言えよう。そのことをハゲタカという経済小説が、明らかにしようとしたのである。失われた30年は、日本の経済人が企業経営に失敗したから起きたと主張している。

ハゲタカという小説(TVドラマ)が描きたかったのは、外国資本が日本の経済を支配しようとする衝撃的な現実なのではなくて、そのような状況に追い込んでしまった日本の企業家たちの怠慢と卑劣さであった。外資系のファンドが日本の企業の買収や乗っ取りをするケースにおいて、その対象となってしまうのは経営的に行き詰まっているからである。そうなってしまった原因は、企業経営における失敗である。日本の企業経営が悪化したのは、グローバル化やコモデティ化による経済環境の変化によるとされているが、実はそれだけではないのである。

日本の経済は、輸出によって支えられていると思い込んでいる人が殆どであろう。だから、アベノミクスは輸出産業に向けた支援策である。円安支援、異常とも言える金融緩和による株価上昇支援をして、景況を起こそうとした。しかし、実際に実質経済は好転しないし、国民は好況を実感していない。消費支出が伸びないから、インフレターゲットは達成していない。日本経済は、輸出産業が支えているというのは幻想である。国内における需要の高まりがないと日本経済は活性化しないのだ。国内需要によって日本経済は支えられているという現実を認識して、実質経済を活性化しないと本当の好況はやって来ない。

国内需要を高めるには、正規雇用を増加させて実質賃金を向上させるしかない。企業経営者が今までやってきたのは、国際競争力を高める為に必要不可欠だとして、不正規雇用を増やし賃金を抑えてきたのである。そして、社内留保を増やし株価を上げることだけに奮闘してきた。社員は使い捨てにして、便利な派遣社員を利用してきた。それもすべては自分の地位や立場を守ろうとした経営者の低い価値観によるものである。自分たちの役員報酬を増やすことしか考えず、その為には製品偽装や違法行為を平気で行うような企業経営者の姿勢があった。ハゲタカファンドの鷲津は、そのような最低の経営者たちに鉄槌を加えたのである。善良な経営者や勤勉な社員を守ろうとしたのである。

グローバル化やコモデティ化などの経済環境の変化が、日本経済を駄目にしたのではない。日本人経営者の経営哲学があまりにも低劣で、あまりにも自分たちの利益を優先した企業経営をしたからである。ハゲタカというドラマは、その真実を知らせたかったのである。ハゲタカファンドの鷲津社長は、そういう意味では素晴らしい経営哲学を持った経営者である。そして、もっとも日本人らしい価値観を持つ企業家であり、日本という国を愛していた。だからこそ、TOBという荒療治を実行したのであろう。日本の卑劣な経営者たちに請われるままに、非正規雇用を増やすという間違った労働政策を推し進めた政治家にも、日本経済を低迷させた責任を自覚してもらわなければならない。

スーパーボランティア

山口県で行方不明になった2歳の男の子を見つけ出したのは、大分県からやってきた捜索ボランティア尾畠春夫氏だった。彼は世間からスーパーボランティアと呼ばれて尊敬を集めている。若い頃から魚屋店を営んでいたが、65歳になった時に廃業してボランティアに身を投じたらしい。現在の貯金はゼロで、収入は毎月55,000円の国民年金だけだという。その殆どはボランティアの資金になり、その資金を活用して全国各地に飛び回っているという。見習うべき素晴らしい活動である。

尾畠さんは、自己完結型の完璧なボランティア活動をしていらっしゃる。車とその燃料代も自分で負担している。その狭い車に寝泊まりしている。水も含めて食料を自分で用意していて、被災地と被災者に何も負担させない。車に寝泊まりする時の為に、自宅でも固いゴザの上で寝る習慣を続けているという徹底ぶりだ。東日本大震災の時から、大好きだったお酒を断っているという。被災地の仮設住宅がすべてなくなるまではと、禁酒しているらしい。被災者の苦しみを思うと、お酒を飲む気にならないという。

スーパーボランティアの尾畠さんの活躍を見ていて、すごく残念に感じるのは何もせずに日々漫然と暮らしている高齢者のことである。現在、60歳定年で退職する人はあまり居ない。定年を迎えても再雇用の制度利用で、65歳まで働く人が多い。その後は年金生活を楽しむ人が多い。考え方や生き方は人それぞれであるから、批判するつもりはないが、自分が好きな趣味やスポーツを楽しむ高齢者が殆どである。尾畠さんのようなスーパーボランティアのようなレベルではなくても、何らかの社会貢献に勤しんでもよさそうな気がする。

そして、ひとつだけ気になることがある。尾畠さんのように素晴らしいスーパーボランティアの活動を見るにつけ、自分には無理だと思い社会貢献活動を諦める人がいるのではないかということである。尾畠さんのような自己完結型のボランティアが理想であるし、何日間も連続した活動が望ましい。しかも、被災者からのお礼や他からの援助を拒否するのは立派な態度である。しかし、そんなスーパーボランティアだけが社会貢献なんだろうかという思いが強い。完全無欠のスーパーボランティアでなければならないなんてことはないだろうと思うのは、私だけではあるまい。

ボランティアをしていると、その相手からコーヒーなどを頂くことがある。または、お茶とお菓子を呼ばれることがある。スーパーボランティアの尾畠さんは、一切受け取らないようである。でも、ボランティアで支援してもらった当事者だって、感謝の気持ちを何らかの形でお礼をしたいと思うのは当然である。金品や豪華な食事を頂いてしまうと、自分のせっかくの善意が無になりそうで受け取りたくないというスーパーボランティアの気持ちも解らないでもない。ただ、お礼の気持ちをちょっとしたもので受け取ることで、少しでも相手の心の負担が少なくなることを配慮してもよいのではないだろうか。

そもそも、ボランティアとは何のためにするのであろうか。本来は、ボランティアなんていう言葉がないような社会が望ましいのだ。当たり前のように、お互いが支え合う社会が実現すれば、ボランティアは不要である。そして、広域で大災害が起きれば他県からのボランティアも必要だが、通常は地域だけでお互いが支援すれば、災害ボランティアでさえ不要である。ボランティアが不要な社会を実現するのが、ボランティアをする目的だというのは、一般の方々の理解は得られないかもしれないが、ある意味では的を射ていると言えよう。地域コミュニティが本来の機能を発揮していれば、ボランティアは不要である。ボランティアをするのは、地域コミュニティを本来のあるべき姿に戻すためなのである。

ボランティアをする目的が、地域コミュニティの再生、言い換えるとコミュニティケアの為であるということを認識しないで、ボランティアをしている人は多い。そして、残念ながらボランティアをすることが目的化しているケースが少なくない。ボランティアをすることが自己成長や自己実現を目指すためであっても構わないが、それでは本来の目的を達成することは適わない。お互いが当たり前のように支え合い、地域全体の幸福化や最適化をみんなで目指すような社会を実現させて行きたい。そのために、ボランティアをひとつの手段として利用するという認識を持ちたい。だからこそ、ボランティアが支援と要支援の一方向だけの営みであってはならない。支援された側が、支援に対する感謝を何らかの形でお返しをすることで、お互いの関係性が深まるのであるなら、お礼の授受があってもいいだろう。スーパーボランティアだけがボランティアではないのである。

官僚の不祥事をなくすには

官僚の不祥事がこれでもかと起き続けていて、その動きが止まる気配がない。大学を監督する立場にある文科省官僚が、裏口入学を大学側に依頼していたというのだから驚きである。文科省官僚が、JAXAの関連業者から接待を受けていたというニュースの報道もあった。しかも、その接待の場に文科省の事務方トップの事務次官も同席していたという驚愕の事実も明らかになった。財務省の悪質な文書改ざん事件もあったばかりである。行政官庁にモラルハザードが起きて居ると言っても、けっして過言ではない状況にある。

こういう不祥事によって、我々に直接被害が及んでいる訳ではないから、他人事としか思わない国民も多いことだろう。しかし、よくよく考えてみると、我々の国民生活は官僚によって大きく影響を与えられている。したがって、こんな不祥事を起こすような官僚が国民生活の命運を握っているとしたら、まったく安心できない。彼らが作る法律原案や予算案が、国民本位で国民の平和や幸福を実現するためのものではなくて、自分たち官僚や政治家の為に作られているのではないかとの疑念が湧いてくる。そんな不祥事を起こす官僚に、国の将来を委ねて良いのだろうかと不安になる。

勿論、すべての官僚が悪意を持っていたり、自分たちの利益を最優先したりする訳ではない。国民の全体最適、幸福と豊かさを真剣に目指して努力している官僚も少なくない。大多数の官僚は、誠実で正義感が溢れている。しかし、これだけ不祥事が起きているし、まだ明らかになっていない収賄や接待もあると類推できる。ということは、官公庁で働く行政マンのモラルが著しく低下していると言えるだろう。コンプライアンス違反を繰り返す民間企業の役社員も同様である。そうなってしまった原因は、何であろうか。

このような事態を受けて、一般企業ではCSRにおけるコンプライアンスの徹底などが実行されていて、各省庁においても社会的責任の取り組みが行われている。しかしながら、その実効性は疑問である。何故ならば、あくまでもそれらの取り組みは、最終的には職員それぞれの自覚に任せられていて、罰則やペナルティーによる抑止効果を期待しているだけである。本人が主体的に自発的に取り組むという決意と実行力がなければ、コンプライアンスが機能することはないだろう。無理やりやらされている感覚のうちは、モラルハザードが払拭されることはないと思われる。

そもそも、コンプライアンスに取り組むことは、意識しないでもできるのが当たり前である。個人的な欲望の前に正義感が埋没してしまうことは、本来あり得ないことである。やはり家庭教育と学校教育において、幼い頃からの価値観教育をしてこなかった日本の教育の悪影響が現れたと言える。民間企業でも官公庁においても、モラハラやパワハラが日常化していて、多くの職員が休職や退職に追い込まれている。これも、職員や役員の価値観が劣化していて、モラルが低下している影響によるものであろう。職場環境の悪化が、ひきこもりを増加させている大きな要因になっているとも言える。

倫理観が喪失してしまい、労働環境が悪化している原因は何かと言うと、ひとつは関係性が希薄化や劣悪化していることであろう。厳格化した人事評価制度や行き過ぎた出世競争があると、職員お互いの関係性が悪化する。特に行き過ぎた成果主義が関係性を悪化させるということは周知の事実である。各官公庁においても成果主義が導入されつつあり、それが関係性を悪化させ、職場環境を悪くさせるだけでなく、生産性を低下させている。関係性が悪化すると、お互いの足の引っ張り合いを起こすし、優秀な部下を育成することをしなくなる。関係性が悪化すると、組織全体の自己組織化が実行されず、全体最適化が不可能になってしまうのである。

モラルハザードを起こすもう一つの要因は、正しい価値観に基づいた思想哲学を持っていないという不幸である。何のために働くのか、誰のために働くのか、何を目指すのか、というような基礎的な労働に対する思想哲学を喪失してしまっているのである。高収入を得る為、高い評価や地位を得るため、自己満足のためという低劣な労働観に縛られてしまった職員になっている。公務員というのは本来、国民や市民の全体最適を目指して働く使命を持つ。ところが、自分の損得や利害の為に働くような官僚に成り下がっている。だから、平気で収賄行為や不正行為などをしてしまうのであろう。しっかりした正しい価値観の教育こそが求められている。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、正しくて普遍的な価値観の学習支援をしています。また、職場に関係性が何故必要なのか、良好な関係性を持つには職場環境をどのようにすれば良いのかを学ぶ研修を実施しています。モラルハザードが起きて、モラハラやパワハラが起きて居る職場、休職者や退職者が多い職場の抜本的改革を迫られている場合は、是非ご相談ください。

国益という言葉の危険性

米国のトランプ大統領、また米国に隷属している日本の首相も、よく「国益」を損なうという言葉を使いたがる。そして、野党も同じように国益に照らしてとかいう言葉を振り回す。マスメディアだってそうだ。国益を損なうようなことをすべきでないと、政治家や官僚を批判するような報道をする。国民誰もが国益を最優先にして物事を考える癖がついてしまったようだ。この国益という言葉に違和感を持つ人はいないのだろうかと不思議に思っていたら、やはりいた。あのカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した「万引き家族」を作った是枝監督がその人である。

是枝監督は国益という言葉をふりかざして、ナショナリズムをかきたてるような政治手法に、とても危うさを感じると述べられていた。全体主義を助長するような政治姿勢とは、一線を画したいと文科省の祝意を断った。国益にこだわる国は他にもあり、お隣の大国や朝鮮半島の国々も同じである。このグローバルな世界において、あまりにも国益にこだわれば貿易摩擦が起きるし、国際紛争に発展しかねない。ましてや、あまりにも国益を重要視したが故に植民地政策を取り、他国をさらに支配しようとして世界大戦を引き起こした経験を忘れたのであろうか。あんな悲惨な戦争をまた繰り返したいのだろうか。

他国の行き過ぎたナショナリズムに対抗するように、危機感を煽って内閣支持率を高めようする姑息な手段を取るというのは、実にいただけない。国益という言葉を巧妙に用いながら、政権与党しか国益を守れないと、プロパガンダする政治手法はまさに軍部が実権を握り始めた太平洋戦争の前の政治情勢とまったく同じだと思われる。とかく政権を握る者というのは、国民から批判をされ始めると、外に敵を作りたがる。外敵の脅威をおおげさに喧伝して、自国の政治に対する批判をかわしたがる。北朝鮮のミサイル脅威が政権与党への投票を後押した形になり、国政選挙を圧勝した例もある。

国益という言葉が駄目だとは言っていない。ただ、国益という旗の元に、エゴイズムやナショナリズムを必要以上に煽り立てるのはいただけない。国益とは、国の利益である。国の利益というと非常に勘違いしやすいが、本来は国民の利益ということであろう。国の政治体制や権力者の権益を守るために国益という言葉が独り歩きしているように思えて仕方ないのは、私だけではあるまい。国民全体の利益を考えるべきであり、その利益というのも経済的利益だけではない筈である。平和とか平等というようなものとか、お互いに支えあう豊かな関係性を持つコミュニティの維持も、立派な国益であろう。

国益を前面に出してしまうと、他国の善良なる国民の幸福を奪ってしまうケースがある。必要以上に安い金額で農産物を輸入する先進国の商社が存在する。カカオ豆やバナナなどを、生産者の足元を見て販売価格を不当に値引きする先進国の商社は後を絶たない。その農産物に多額の利益を上乗せして自国で販売する。そういう不当な取引を止めようと、フェアートレードを実施しているNGOも多い。国益をあまりにも優先すると、発展途上国の貧困を後押ししてしまうことになる。国際紛争や内戦に武器をさらに売り込もうとして、必要以上に裏工作により刺激させて戦いを長引かせる武器商人がいる。これも自国の利益だけを優先した結果である。

このように国益という言葉が、世界的な平和や豊かさをどれだけ侵害しているかということを、我々は忘れてならない。自国だけ自分だけが平和で豊かであればいいという、エゴのかたまりのような考え方を持つのは危険である。そして、人間として情けないことである。日本人の偉大な先人たちは、他国の国民に対しても多大なる貢献をしてきた。リトアニアで6000人のユダヤ人にビザを発給した杉原千畝、黄熱病研究の野口英世、武士道を著した新渡戸稲造などは、他国民からも尊敬を集めている。日本人というのは、自国だけの利益に固執しないからこそ、国際的にも尊敬されてきたのである。

これだけグローバルになった社会なのであるから、国益にこだわり過ぎることが国際的に様々な問題を起こすことは想像できる。もっと広い視野と見識を持ち、世界全体の平和と幸福を実現するために、我々国民が努力したいものである。そして、安易に国益という言葉を使わないようにしたいものである。さらには、マスメディアに働く人は、国際人として国益という言葉に違和感を感じて欲しい。少なくても、国会など公の場において国益という言葉を利用して、ナショナリズムを煽るようなことをさせてはならない。

 

カジノ法案は本当に成長戦略か?

IR推進法案がとうとう衆議院から参議院の審議になる。IR推進法案とはカジノ法案とも呼ばれていて、問題が山積みの法律なのであるが、短い時間の審議であっという間に承認された。このカジノ法案に前のめりであった維新と、維新を取り込みたい安部自民党の思惑が一致した結果であろう。それにしてもこんなにも問題があるのにも関わらず、法案に賛成した公明党の姿勢にも疑問がある。社会的弱者の味方であると公言して憚らない公明党だが、実は強者の代弁者であるということが判明したとも言える。

カジノ法案は、ギャンブル依存症を増やすことになる。その歯止め策として、法案が部分修正されたが、焼け石に水である。何年か後には厳しい規制のためにカジノの運営が暗礁に乗り上げ、それをなんとか救済しようとして、法案の再修正が実施されて規制がなくなるのは目に見えている。優秀なキャリア官僚たちであるから、IR推進法案がやがて日本の荒廃を生み出してしまうことは予想している筈である。政治家の暴走を食い止める役割を担うのが官僚なのに、官邸に言われるまま行動する官僚の体たらくぶりに落胆している。

それにしても、IR推進法案は成長戦略のひとつだと胸を張る政治家たちの不見識に驚くばかりである。成長戦略とは、本来は実質経済の成長をどう導くかというものである。三本の矢に例えていて、円安誘導の金融政策、そして規制緩和、さらにはそれに伴う実質経済の成長だと主張する。しかし、いつまで経っても三本目の矢は的を射ていないのである。実質経済はけっしてよくない。庶民の生活は一向に良くならないし、国民の消費意欲が沸かず消費支出が伸びていないことからも解る。2%の物価上昇率を目指した日銀のインフレターゲットは白々しく聞こえる。円安傾向と株価の上昇は、一般国民にとっては何の恩恵もないばかりか、かえって円安による石油製品などの値上げの影響で国民生活が苦しくなっている。

そんな中で、IR推進法案を通して景況を演出しようとしているのだが、逆効果になるのは目に見えている。まず、IRの設置により外国人観光客を増やす目論見であるが、カジノを目玉にして外国人観光客が増えるかというと、そんなことはまったくあり得ない。韓国での失敗がそれを証明している。韓国の外国人観光客を目当てにしたカジノは、現在閑古鳥が鳴いている。そればかりかギャンブル依存症の韓国民が住居まで失い、ルンペンにまで身を落としている始末である。日本版のカジノも同じ状況を招くことが予想される。

もうひとつカジノ法案には問題がある。カジノの運営ノウハウを国内の業者が持たないから、カジノの運営は外国企業に任せるというのである。ということは、カジノで上げた収益はすべて外国に持ち出さられるということである。いくらかの還元が地方財政へあったとしても、収益が国民には行かないのである。何のためのカジノであろうか。大きなショッピングセンターが地方に進出して、利益が本社に吸い取られている。地方に工場が進出して、利益が本社に吸い上げられて税収は本社所在地で納められる。地方が経済的に疲弊している構図とまったく同じではないか。

都市部から地方に進出した大資本のパチンコ店が、地元資本のパチンコ店を潰している。地方の人々から、なけなしの資産を巻き上げている。パチンコ店では、年金支給日になると大勢の高齢者が列をなしている。パチンコによって生活費を巻き上げられた主婦がサラ金に手を出してしまい、やがては借金返済のためにデリヘル産業などで働かされている。経済的だけでなく家族関係まで崩壊させられている家庭がある。カジノが出来たら、こんな崩壊家庭が益々増えるのは目に見えている。こういうギャンブル依存症による貧困家庭の現実なんかを知ろうともしない政治家だから、こんな悪法のIR推進法案を通そうとしているのであろう。

政治家というのは経済的に恵まれた人間がなっている。特に政権与党の政治家は、二世議員が多いし裕福家庭の出身が多い。貧困家庭に育って苦労した人間の気持ちなんて解ろうともしない。だから、社会的弱者を救う政治を実施できないのだ。政治というのは社会的弱者や貧困が世代間連鎖しないように、経済的豊かさの再配分をする役目を担っている。IR推進法案を通すというのは、その役目を政治家が放棄するようなものである。カジノ法案は、成長戦略を実現しないばかりか、絶対的貧困家庭を益々増やすことになろう。国民のためにならないIR推進法案は、絶対に成立させてはならない法案である。

議論にならない国会審議

国会の審議をTV中継で見ていると、イライラ感が半端ない。まるで議論が噛み合わないからである。野党の質問も悪いのであろうが、その質問に対して政府与党と官僚はわざと論点をずらして答弁することが多いのである。実に姑息というのか、卑怯というのか、あざといやり方である。いつからこんな国会審議になってしまったのだろうか。安倍内閣以前も、実はこのような論点を外すやり方があったのは間違いない。しかし、すべての審議がそうではなかった。これは拙いぞという場合に限り、巧妙に逃げるケースもあった。しかし、現在の殆どの審議が野党の質問者を小馬鹿にしたような答弁になっている。国会軽視であり、許せない。

そもそも国会審議というのは、真剣勝負であってほしいものだ。堂々と正面からぶつかって渡り合うべきである。国民を代表しているという自負があるなら、姑息な手段を使って逃げずに正々堂々と論戦を繰り広げるのが筋だ。野党の質問者だって、物事の本質を見極めての議論をしていないように感じる。相手の失言を取り上げて批判したり追及したりすることは、見苦しい限りである。相手の失策を待つなんてやり方は、実に情けない。それにしても一番違和感を持つのは、相手の質問を敢えて真正面から取り合わず、わざとはぐらかす答弁の仕方である。

内閣総理大臣と言えば、国家を代表する人間である。国民のお手本となる話し方や態度が望まれる。小さい子どもたちも、見ているのである。そういう子どもたちが、あんな答弁の仕方を見ていたら、真似をしないとも言い切れない。教師から何らかの質問をされて、うまくはぐらかすことが良いことなんだと児童生徒が学んでしまったら大変なことである。親から何か問い質されて、質問の趣旨をわざと誤解してのらりくらりと答えるような子どもに育ったとしたら、大問題である。上司から厳しい質問を受けて、わざと論点を外す受け答えを部下が続けたら、その組織は崩壊してしまう。

江戸時代の政治家であり官僚でもある武士は、絶対にそんなことをしなかった。武士たるものは、大きな権力を握っていたからこそ、卑怯なふるまいをしてはならないと自分自身を戒めていた。中には、強権をかさにきて卑怯なことをした武士もいたであろうが、圧倒的に少数であった。悪いことをして露見したら、潔く認め腹を切った。さらに、自分自身が悪いことをした訳でもないのに、自分の部下が不祥事を引き起こしたら、それは自分の監督に問題があったと認め、その責任を自ら取ったのである。

ところが現政権のやり方と言ったら、実に情けない限りである。財務省の不祥事に対して、悪いことをした本人に責任を押し付けて、自らの監督責任を放棄した。さらに首相と政権を守ろうとしてウソをついたり公文書を改ざんしたりした官僚を見殺しにしたのである。自分の地位と名誉を守るために、自分を守った人を裏切るような卑劣な行為をする人に政権を任せてよいのだろうか。少しばかり経済状況を良くしたからと言っても、人の道を外れるような行為をする人間に政権を担う資格はない。そういえば、自分の部下が嘘をついたと平気で記者会見をする大学の理事長がいたが、感覚がおかしい。そんな理事長に仕える職員が可哀そうである。

国会審議で野党の質問時間を短くしようと画策するというのも情けない。何も悪いことをしていないというのなら、正々堂々と論戦を張ればよい。長く審議時間をかけると、拙いことが暴かれるのであろうか。野党の質問時間をどんどん制限して、詰まらない与党の質問時間を長く設定するという姑息な手段はいただけない。こんな酷い政権は、今まで記憶にない。自民党の議員たちは自浄作用が働かなくなったのだろうか。こんな卑怯な政権と官邸に対して何も言えないというのは実に情けない。自民党の長老やご意見番たちも、権力者に何も言えないとしたら腐っている。

正しくて活気のある国会審議を期待したい。その為には、野党も質問に対する工夫が必要である。逃げられないように誤魔化しができないような質問にしなくてはならない。自分の意見をとうとうと述べるような、自己主張の強い長い質問ではなくて、短くて核心を突く質問でハイかイイエで答えられるようにするのが望ましい。YESかNOで答えられるように、追及するしかない。元々、そんな逃げの答弁をすること自体、限りなく怪しい。嘘をついていることが明らかであるのは、賢い人間なら誰でも解る。やましいことがなければ、あんな卑劣な答弁なんて必要ないからである。聞いていて面白くわくわくするような国会審議にしてほしい。

 

何事もバランスが必要

森友問題が佐川氏喚問を終えて、政府自民党はこの問題を収束させたいと思っているし、野党はさらなる追求をしようと目論んでいる。貴重な国会の議論をこれだけに集中するのは、国民にとって多大な損失であろう。もっと大切な議論があるし、報道機関としても国民が他に知りたいことが沢山あるのにも関わらず、森友一色になるのも困る。とは言いながら、文書改ざんは今後の行政の信用に関わる大問題であるから、再発防止策を講じない限り、ないがしろには出来ないことである。

それにしても、こんな森友の不祥事や加計学園の問題が何故起きたのであろうか。それは、安倍一強政治の傲慢が招いたのではないかと思う人が、とても多いように感じる。内閣人事局が制定されたのも、官邸に忖度する官僚ばかりになってしまったのも、あまりにも内閣と官邸の力が強大になってしまったからである。どうして安倍一強になったのかというと、別な視点から見ると、安倍総裁の他に有力な政治家がいなくなってしまったことと、野党がだらしないということに尽きるであろう。

過去の歴史を紐解くと、独裁政治が長く続くと政権内部から崩壊が起きていることが殆どである。国の政治もそうであるが、県や市町村においても首長が絶対的な権力を持ってしまうと、内部から腐敗が起きてしまうケースが実に多いのである。組織や企業においても、トップがあまりにも大きな権力を持ってしまうと、イエスマンだけの部下に成り下がってしまい、内部崩壊を起こしてしまうことが多い。現代においても、米国、中国、ロシア、北朝鮮などで国民の意思を無視した独裁政治が行われていて、内部崩壊が始まりつつある。

強力なリーダーシップを発揮できることで、政権運営や企業経営が上手く行くケースも少なくない。リーダーシップのあるトップだけが、低迷する現状を解決できるのではないかと、そのようなリーダーを求めたがる意思が働く。だからこそ、国政選挙においてもこのようなリーダーを求める国民が、投票するのであろう。しかし、あまりにも強いリーダーシップを持つ権力者と、それに対抗する勢力があまりにも弱すぎると、微妙なバランスが崩れてしまい、『裸の王様』になる例が多く、やがて内部腐敗や崩壊が起きる。

このようなケースは、家庭内でも起きる。あまりにも父親が家庭内で大きな権力を持ってしまうと、妻や子は何時も父親の顔色をうかがうような暮らしをし兼ねない。夫婦関係においても、どちらかがあまりも大きな力を持って相手を支配してしまうと、横暴な行為を許してしまう。親子関係でも、親が子どもの尊厳を認めず、すべて親の言いなりになる子どもにしてしまうと、子どもの自立を阻害してしまうことになる。夫婦の相互自立や子どもの自立がされないと、やがて家庭というコミュニティは崩壊することになる。

家庭内が微妙なバランスによって成り立っていれば、一方的に指示して従うというような関係になり得ない。お互いの人間としての尊厳を認め合うことで、自立がしやすい。だから、経済的にも精神的にも自立するには、一部に力が集中することを避けて、パワーバランスを保つことが必要であろう。男性は女性よりも腕力が強い。暴力によって相手を支配し、バランスが保てなくなることは絶対に避けなければならない。ある程度のリーダーシップが必要であろうが、微妙なバランスを保てるようなお互いを尊重する対話こそが根底に求められる。

一人の人間においても、どちらかに偏らないバランス感覚も必要なのではなかろうか。政治的に右翼的な考え方と左翼的な認識のどちらかに偏向してしまうと、世の中の真実が見えなくなってしまう。政治的におけるバランス感覚があれば、耳に心地よいマニュフェストに騙されることもないであろう。人間性においても、あるべき姿を求めて努力する姿勢と共に、あるがままの自分を好きになる気持ちも大切であろう。条件付きの愛を注ぐ男性性も必要であるが、無条件の愛を与える女性性も大事である。これらのバランスを保つことは、『中庸』と呼ばれている。政治的な中庸が保てれば、森友加計問題も起きず、国民ファーストの政治が実現するに違いない。