引きこもりに対する父親の役割

引きこもりの子どもをどう扱ってよいか解らず迷っている両親は、相当に多いに違いない。叱って無理やり外に連れ出すのか、医療機関や専門家に任せるのが良いのか、それとも優しく諭すのがいいのか、そっと見守るしか術がないのか、悩んでいることであろう。勿論、同じ引きこもりの状態にあっても、子どもの性格から成育環境も含めて、みんな違っている。それゆえ、画一的な対応というか、正解だと言えるような対応の仕方なんてないと思っている人も少なくないと思われる。

引きこもりの子どもは、親にしてみれば実に扱いにくいことだろう。何を考えているか解らないし、予想がつかない行動をしがちである。また、気分もその日その時によって変化するし、突然キレたり怒り出したりするものだから、腫れ物に触るような対応をせざるを得ない。とは言いながら、親としてみればどうにかして社会復帰してもらいたい思いが強いことであろう。何故なら、どうみたって自分達のほうが先にお墓に行くことになる。自分たちが居なくなったらと思うと、その後の子どもの生活が不安でならないのは当然である。

引きこもりの子どもは、自分の人生や将来をどのように考えているのであろうか。本人に確認した経験はないものの、おそらくは今のままで良いとは考えていないのは確かであろう。そして、将来の不安も親と同等かそれ以上の不安を持っているに違いない。何とか現状を打破したいと思いながら、どうあがいても身体が動かないのである。社会復帰してほしいという親の願いは、痛いほど認識しているし、親が多大な不安を持っていることも先刻承知している。ところが、親が不安なればなるほど、不思議と子どもの不安も増幅してしまい、お互いにその不安を強化しあってしまうのだと思われる。

引きこもりが起きてしまっているのは、親に原因や責任がある訳ではない。勿論、本人にも責任はない。生きづらい世の中にしてしまっている我々の社会全体に責任があるのだと思っている。学校、地域、企業、職場に安心な居場所がないのである。家庭にも居場所がないけれど、自分の部屋だけがかろうじて認められるべき居場所なのだろう。引きこもりになってしまったのは、今の社会における人々の価値観が劣悪だからである。客観的合理性をとことん追求していて、行き過ぎた競争原理により関係性が破綻し、コミュニティが崩壊してしまっているこの社会には、安心する居場所がないに違いない。

勿論、家庭における父親もまた、そんな価値観に支配されてしまっている。それ故に、家族の関係性が希薄化してしまっている。家族の関係性が悪いのは、父親に正しい哲学や価値観がないからであると考えられる。しかし、そうなってしまったのも父親が誰からも正しい哲学や価値観を教えられていないのだから当然であるし、責められない。明治維新以降の近代教育導入から、正しい思想哲学の教育を排除し、それが戦後にさらに強化されてしまったのだ。親からもそして学校でも価値観教育がなくなってしまったことにより、人々は生きづらさを抱えてしまったのだと確信している。

それじゃ、引きこもりの父親はどうしたらいいのかというと、今からでも遅くはないから正しい価値観を学ぶことを勧めたい。それもこの世の真理に基づく正しくて普遍的な価値観を学ぶべきと考える。この世の中で、「父親学」というものが今必要なのではないか思うのである。イスキアの郷しらかわでは、この「父親学」をレクチャーしたいと考えている。単なる観念論ではなく、最先端の複雑系科学に基づいた真理である、システム思考の哲学という価値観の学びもするし、ノーベル賞を受賞したイリヤ・プリゴジンの提唱した自己組織化の理論学習をサポートしたい。そうすれば、子どもが尊敬して止まない父親の後ろ姿を見せられることであろう。

この関係性が劣悪化してしまった社会、つまり生きづらいこの世の中を変えない限り、引きこもりや不登校はなくならないかというと、けっしてそうではない。学校教育における価値観教育をしっかりするように、教育のイノベーションが必要だと思っている。しかし、この教育のイノベーションをするには、まだまだ世論が成熟していないこともあり、今すぐには難しい。家庭教育において価値観教育を始めるのは、父親が目覚めれば可能である。引きこもりの子どもは、父親に価値観教育に目覚めなさいと教えてくれているのかもしれない。父親が正しい価値観を確立して、引きこもりの子どもに対する価値観教育が出来れば、社会復帰が可能となるに違いない。社会が間違っていても、自分が正しいと確信する価値観を持っていれば、自信がついて社会に踏み出す不安がなくなるからである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「父親学」の講座を実施しています。ご依頼があれば、出張講座も承ります。父親が不在で一人親の場合は、母親学としてのレクチャーもします。

空の巣症候群かもしれない

空の巣症候群と呼ばれる不定愁訴の疾病があるらしい。メンタル疾患というか気分障害のひとつである。子育てを終わった40代後半から50代の母親が陥る、つらい精神状態と身体症状のことを言う。子どもたちが学校を卒業して、社会人として独立して家を出て巣立ちをしてしまうことが原因で起きると言われている。鳥の雛たちが大きく育ち巣立ちして、空になった巣のような状態と似ているので、空の巣症候群と呼ばれる。母親がずっと面倒みて育てた子どもたちが巣立って、母親の心の中にぽっかりと空いた隙間が起こしている症状であろう。

子供に対する、ありあまる愛情を注ぎ育てた親としての役割が終わり、子どもをまるで失ってしまったような虚無感を感じ、孤独感までも心を支配してしまうという。本来であれば、子どもに代わり新たな生きがいを見つけることが必要なのだが、すぐには見つけられないものである。したがって、その寂しさや喪失感によるストレスから、心身の不調を起こしやすい。とくに子育てに熱心な親ほど、喪失感が大きいという。子どもに関わる時間と機会が多いゆえに、母親のほうが空の巣症候群になりやすいと言われている。

両親は通常、子供の自立を肯定し、積極的に勧めるものである。しかし、実際に手放してしまう段階になると、何とも言われぬ心痛を伴うことになる。子供が巣立ち、父親は仕事に打ち込んで不在がちとなり、家庭に取り残され一人になった母親は、生活にも張り合いがなくなり、孤独感に襲われるという。また、子どもの巣立ちの時期と、閉経や更年期の時期とが重なり、ホルモンのバランスが崩れて、体調不良が重症化しやすい。さらに、夫や自分の退職・異動などが重なる事態も起き、さまざまな原因がストレスや症状を増幅させ、総合的な影響を心身にもたらす。

世間的には子供の独立は当たり前であり、健全なことと受けとめられている。子を持つ親なら誰でも経験することであり、それを乗り越えて行くのが当然だという風潮があるため、悲しんだり寂しい気持ちを持ったりすることに罪悪感を持ち、我慢してしまう。その寂しさや苦しさを誰にも訴えられず、心に仕舞い込んでしまうことも重症化させやすい理由であろう。たとえば愛する人との死別のように、悲しみの感情が当たり前という認識がない。そのため、周囲をはじめ、ときには本人さえも気づかないことがある。

空の巣症候群は、身体症状が多岐にわたるため誤診されやすい。症状が進んでいくと、不眠や手の震えなどさまざまな症状が表れる自律神経失調症や、うつ病に発展してしまうケースも少なくない。身体症状としては、腰痛、肩こり、頭痛、吐き気、食欲低下、不眠などが現れる。このようなつらい状態から逃避するために、アルコール依存症に陥ってしまうこともよくあることだ。空の巣症候群は、本人も原因が思い当たらず、病院でも誤診されることがよくある。実際に、うつ病や自律神経失調症によく似た症状といえる。

この空の巣症候群にならない為に、どうしたら良いのであろうか。ならない秘訣のひとつは、子育て以外の生きがいを持つということである。子どもが巣立ちを迎える前から、子育てだけに心血を注ぐのでなく、趣味や地域活動、またはボランティアや市民活動にも生きがいを見つけておくことが肝要であろう。そして、子どもにだけ依存せず、または依存されず、徐々に自立を進めておくという配慮も必要である。さらには、子どもを所有物とせず、支配することなくコントロールするのを避けて、あくまでも子どもの尊厳を認めてあげることも、空の巣症候群にならない秘訣である。

もし、万が一空の巣症候群なったとしたら、一刻も早くその症状から抜け出さなくてはならない。その為に有効な方法は、自分の感じている寂しさ悲しさをけっして我慢しないことである。その苦しさをまるごと受け止めて、否定することなく寄り添い共感してくれる人に話すことだ。それも、何度も何度も同じことを言っても受け容れてくれる相手がいい。出来たら、それは自分に関係のない第三者がよい。しかも、家庭から離れた場所で、しかも自然が豊かな場所で何日か過ごすのもよい。そうすれば、少しずつ悲しみや寂しさが癒され、空の巣症候群から抜け出せるに違いない。

※空の巣症候群の症状に心当たりのある方は、イスキアの郷しらかわをご利用ください。まずは、問い合わせフォームからご相談ください。

    夫婦喧嘩は子どもの脳を破壊する

    夫婦喧嘩は犬も喰わないと言われていて、何となく微笑ましい光景に映るような印象を与えるが、実は子どもの脳に深刻なダメージを与えるという調査結果が出たという。昨夜のNHKクローズアップ現代で放映されていた内容は、実にショッキングだった。夫婦喧嘩を日常的に行っているのを目撃している子どもの心が、とても傷ついているというのだ。しかも、子どもの心のダメージは脳の器質障害までに及んでいて、記憶障害を起こすだけでなく、性格まで変えるという。たかが夫婦喧嘩ではなく、実に由々しき大問題なのである。

    夫婦喧嘩というと、いろんなケースがあるだろう。江戸時代におけるドラマなどを見ていると、昔の夫婦喧嘩というのは、微笑ましいようなじゃれ合いというような性格だったように思える。あくまでも虚構の世界なので、実際はどうだったかは判然としないが、おそらくは『犬も喰わない』ような、お互いの信頼関係がある中での触れ合いではなかったかと思われる。ところが、現代の夫婦喧嘩は実に深刻だというのである。お互いをどうやってやり込めるのか、どうすれば自分が優位に立てるか、どのように相手をギャフントさせようか、というパワーゲームに陥っているのである。

    日常的に夫婦喧嘩を目撃している子どもの心理状態を調査した結果によると、意外な結果が現れた。暴力を伴う夫婦喧嘩による影響はさほどないが、暴言による影響が非常に大きいという。しかも、夫婦喧嘩においてよく使われる方法が危ないというのだ。大きな声で罵り合うのも勿論駄目であるが、皮肉たっぷりの言葉、無視する態度、不機嫌な態度、無言の圧力、このような言動も影響が大きいと言われている。こういう両親の行動が、子どもの心を傷つけているらしい。毎日毎日このような暗くて陰湿な夫婦喧嘩がある環境に置かれた子どもの心と脳はズタズタにされているのである。

    このような環境に長くさらされた子どもの脳は、実に深刻なダメージを受けてしまう。なんと子どもの海馬が委縮したり前頭前野が破壊されたりするというのである。そうすると、記憶障害や学習障害が起こり、学校の成績が急降下してしまうだけでなく、学習意欲もなくなり不登校になるケースもあるらしい。さらに深刻な悪影響もある。夫婦喧嘩のある環境に長く置かれると、子どもは強い暴力性を持つというのである。親と同じように暴言を吐くし、キレやすく、他者に対する反抗的な態度をしてしまうらしい。つまり、学校内でも問題行動を起こすというのだ。

    これは大変な事態を起こすという意味である。子どもが家庭内暴力を始める要因のひとつが夫婦喧嘩にあるということだ。さらには、学校内においていじめという行為をしやすい子どもになってしまう危険性を持つという意味でもある。キレやすい子どもの要因のひとつが親の夫婦喧嘩にあるというのは、ショックなことである。DVやいじめが、親の夫婦喧嘩にも原因があるとしたら、重大事である。心当たりがあると思う親も多いに違いない。

    陰湿で汚い心理戦のような夫婦喧嘩は、子ども脳をどのように変えてしまうのであろうか。これらの子どもの脳をCTスキャンで確認した訳ではないが、おそらく脳の器質変化があると見られている。陰湿な夫婦喧嘩の環境にさらされると、子どもの脳の偏桃体は肥大すると言われている。そうすると、偏桃体からコルチゾールというステロイドホルモンを大量に放出するようにと腎臓の副腎に指示する。このコルチゾールは海馬に届き、海馬を委縮させる。さらに前頭前野にまで影響し、記憶障害や学習障害を起こし、キレやすい子どもにしてしまうと言われている。

    夫婦喧嘩は子どもにとって、絶対にしてはならないものである。夫婦喧嘩をしなければならないような夫婦の関係性に陥ってしまい、関係性の修復が絶対に不可能であるなら、別居や離婚をしたほうが子どもの健康にとっては好ましいと思われる。とは言いながら、経済的な問題があるから難しいのであるなら、夫婦が徹底的に対話をして関係性を改善すべきであろう。偏桃体が肥大化して、海馬や前頭前野が委縮した脳であっても、生活環境が改善すると、脳もまた元通りになるのが確認されている。とすれば、一刻も早く夫婦の仲直りをして、睦まじい夫婦になる努力をすべきであろう。

     

    ※夫婦喧嘩をしてしまうような環境に置かれている子どもさん、または夫婦仲が悪くていつも言い合いをしてしまうご両親の方々、どのようにすれば夫婦の関係性改善が出来るのかを、イスキアの郷しらかわはサポートします。まずは問い合わせフォームからご相談ください。相談は、メールでも対面であっても無料です。

    よいお母さんをやめる日

    不登校や引きこもり、またはDVなどの問題行動を起こすお子さんを持つお母さんは、極めて真面目で素晴らしいお母さんが多い。つまり、日本の典型的な『よいおかあさん』なのだ。こんなにもお子さん思いで、誰もが認める良いお母さんなのに、どうしてお子さんが不登校になるんだと不思議に思う関係者が多い。例外もあるが、おしなべて良いお母さんで、しかも教養が高くて見識も高い。お母さんの学歴が高いケースが多い。そして、子どもの教育に懸命であり、息抜きや手抜きが出来ないし、いい加減な処がないのである。

    さらに、不登校や引きこもり、またはDVなどの問題行動を起こしていることに対しての捉え方、考え方がまた良いお母さんなのである。たいていのお母さんは、こういう状況になってしまったのは自分のせいだと思い、自分を責めるのである。誰かの責任にしたり、子どもが悪いなどとは露ほど思ったりせず、自分の責任だと自らを責めるのである。さらに、父親はというと、やはりこうなったのはお前の子育てが悪かったのだと妻を責めるケースが多いのである。言葉に出して言わなくても、不機嫌な態度や表情をして妻を暗に責めることが多い。こうして、やはり自分が悪いんだと母親は落ち込むことになる。

    よいお母さんは、子どもが不登校や引きこもりになってしまった原因をあれこれと考える。自分が甘やかしすぎたせいであろうか、過保護し過ぎたのが悪かったのだろうか、そんなことを考えるケースが多いという。夫からも同じことを言われることが多いし、真面目なものだから、自分を責めるのである。しかし、甘やかし過ぎて不登校になることはけっしてないし、過保護が原因で引きこもりになるケースは殆どない。不登校になるのは、親子、夫婦、家族の関係性が希薄化、もしくは低劣化しているからである。

    結論的に言えば、不登校、引きこもりになる原因は、お母さんにはないと言ってもよい。世間では、不登校はお母さんが甘やかし過ぎたせいどこうなったとか、過保護が原因だと思っている。お母さんも、それが原因だと思い込んでいて、悔やむ。しかし、過保護が原因で不登校になるケースは殆どない。過保護というと悪というイメージがあるが、幼少期には必要なことである。子どもというのは、無防備で危険な事も解らないし、ちょっと目を離すととんでもないことをやらかしてしまう。だから、母親は常に子どもを守らなければならない。沢山の愛情をかけ続けなければならない。

    ただし、よく勘違いされるのは過保護と過干渉を同じものと捉えていることである。これは、まったく違う概念である。過干渉というのは、子どもの言動に対して何でもかんでも干渉したり、先回りしてすべて子どもの言動を先取りしたりすることである。根底には、無意識で子どもを自分の所有物と勘違いして、支配し制御を繰り返してしまう心が存在しているのかもしれない。そうなってしまう原因は、父親が子育てに非協力というか、子育てに必要で大事な父性愛を発揮できていないからであろう。したがって、母親が母性愛だけでなく父性愛まで発揮せざるを得なくなり、過干渉になっているのではないかだろうか。

    過干渉にならないようにする為には、父親に本来の役割を果してもらうことである。そのうえで、母親は子どもが自分で判断し行動するのをそっと見守り続けるだけでよいのではないだろうか。さらに、母親があまりにもよいお母さんを演じるのを、少し控えてみてはどうかと思う。子どもと母親というのは、非常に強い関わりと絆が存在する。無意識で深く繋がっている。母親が不安になったり元気がなくなったりすると、子どもにもその気持ちが伝わり同じような状態になりやすい。母親が怒りや憎しみを持ち、それを我慢していると、不思議と子どもがそれをまったく同じように感じて、不機嫌になってしまうのである。だから、母親は平穏で安らかな気持になったほうが良いのである。

    母親は、今まで良いお母さんとしてずっと頑張ってきたのだから、少し息抜きをしてもいい。子どもと夫とも一時的にでも完全に離れて、休暇を取ってもいいだろう。あまりにもよいお母さんを続けてきたものだから、心が一杯一杯になってしまい、かえって不安になったり恐怖感を持ったりしまったのではないかと思われる。その不安が子どもにも伝播したのかもしれない。たまには、よいお母さんを止めて、子どもの人生は子どもにすべてを任せてもいいんじゃないかと思う。よいお母さんを一切やめてもいいし、ちょっといい加減なお母さんでもいい。子どもが自分でしっかりしなくちゃと思うようなお母さんでもいいではないかと思う。思い切ってよいお母さんをやめてみたらどうだろうか。

     

    ※子育てに疲れ切ったお母さん、家族との関係で悩み目いっぱいになってしまったお母さん、子育ての悩みでどうしようもなくなったお母さん、一時的に家庭のすべての問題から離れて自分を見つめ直してみてはどうでしょうか。イスキアの郷しらかわでは、そんなお母さんに1泊してもらい、マインドフルネスを実践してもらったり、悩み苦しみをまるごと受け止めてもらったりして、元気さを取り戻し、不安から解放されるサポートをしています。まずは下記からご相談ください。

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    一緒にいると癒される人

    この人と一緒にいると何故かほっとする、というような人と出会ったことがあるだろうか。たぶん、そんな人と何度か出会ったことがある筈である。しかし、こういう人は世の中において圧倒的に少数である。出会う殆どの人は、一緒にいると疲れる人だからだ。一緒にいるとほっとして、何となく癒されるという人に出会ってみたいし、こんな人と一緒に暮らせたら、どれほど幸福なんだろうと思ったことだろう。または、癒しを与えてくれるような人と少しの時間だけでも共有したいし、こんな人にカウンセリングを受けたいと思うであろう。

    今一緒に暮らしている伴侶も、結婚する前の時代には一緒にいると癒されると思った時期もあったと思われる。それなのに、結婚して何か月か経つと、一緒にいると疲れるようになるのである。実に不思議な事であるが、結婚する前後の蜜月の時期には、あれほど幸福な気分だったのに、いつの間にか一緒にいると疲れる相手になってしまうのである。恋人でも同じケースがありうる。最初は寛容で癒しを提供してくれたのに、何年も付き合うと徐々に疲れを感じるのである。あの一緒にいると癒される人は、どこに行ってしまったのであろうか。

    どうして、伴侶も含めて一緒にいると疲れる人になってしまうのか、逆に何十年経っても疲れる人にならないのは、その原因について考えてみたい。そして、一緒にいると癒される人とはどういう人なのかを明らかにしたい。まず、パートナーが一緒にいると疲れる人になってしまう訳というのは、結婚すると相手を支配しコントロールしようとするからである。自分にとって都合のよい理想の相手になってもらいたいと、あたかも自分の所有者のように相手を支配し始める。そして、あらゆるコミュニケーションの手法を駆使して、相手を自分の思い通りに制御し始めるのだ。

    人間は、本来自由でありたいし、自分の思い通りに生きたいものである。それが、いくらパートナーであっても、相手の思い通りにコントロールされるのは嫌なのである。そうすると、いつも支配され制御される言動に振り回されると、精神が疲れてしまうのである。たいていの人間は、利害関係がある相手に対しては、自分の価値観や人生観を知らず知らずのうちに押し付けてしまうものである。まったく利害関係がなくても、無意識のうちに相手を自分の話のペースに巻き込んで、自分の気持ちを解ってほしいと思うものである。こういう人と一緒にいると、疲れてしまうのであろう。

    とこが、長い時間に渡り話をしても疲れるどころか、逆に元気になり癒してくれる人がいる。こういう人は、自分に共感してくれるし、自分を認めてくれる。しかも、自分を否定せずまるごと受け入れてくれるのである。自分の悪い点や嫌な部分も含めて、許してくれるのである。つまり、寛容性と受容性がひと際高い人なのである。このように一緒にいると、癒してくれる人というのは、言ってみれば許容力と包容力の高い人であり、真の自己確立をしている人でもある。だから、出会う相手の尊厳を認めてくれる人なのである。

    このように出会う相手を癒してくれるという人は、自己マスタリーを確立した人である。自分の心の中に存在する嫌な部分やみっともない部分があることを、目を背けずにまるごと受け入れて、そういうマイナスの自己も含めてすべての自分を認め受け容れている人である。マイナスの自己も含めた自分をまるごとありのまま愛せる人でもあるのだ。だからこそ、相手のマイナスの自己も含めてすべてを受け容れて愛せるのである。したがって、寛容性と受容性をどんな人に対しても発揮できるのである。こういう人と出会うと、何故かほっとするし癒されるのである。

    残念ながら、このように自己マスタリーを完了した人間は極めて少ない。今でも敬愛して止まない森のイスキアを主催していた佐藤初女さんは、自己マスタリーをしていたからこそ多くの人々を癒していらした。児童精神科医の崎尾英子先生も、同じようにカウンセリングで多くの相談者を癒していらした。残念ながら、このお二人は既に鬼籍に入られてしまった。このお二人をわが師としてリスペクトし、イスキアの郷しらかわの利用者に接して行きたいと思う。相手をけっして否定せず、支配せず、制御せず、あるがままにまるごと受け止めたい。これ以上ないという癒しを『イスキアの郷しらかわ』で提供し続けることを誓う。

    今でも尊敬して止まない崎尾英子先生

    今から20年くらい前に、児童精神科医として臨床においても、または学術研究の分野においても、先駆的な活躍をされた人物がいらした。それは、当時国立小児病院の精神科の医長をされていた、崎尾英子さんという優秀なドクターである。彼女は、児童精神科医のスペシャリストでもあったが、カウンセラーとしても多大な実績を残されていらした。カウンセラーとして実際に対面して、かなりの時間を要しての相談でさえなかなか効果あげるのは難しいのに、彼女は電話で僅か10分程度の相談で、保護者のあらゆる疑問に答えるだけでなく、的確な助言と深い安心感を与えていたのである。

    崎尾英子先生は、NHKラジオで不登校の子どもたちの保護者への電話相談をしていらした。レギュラー回答者として、週一回の出演をされていたのである。当時、劇的に増加していた不登校児に対する質問が多く、非常に難しい質問をされる保護者が多かったと記憶している。質問をする人は、女性が圧倒的に多くて、母親か祖母であるケースが殆どだった。そして、そのプチカウンセリングであるが、崎尾先生はあたかも保護者がどう答えるのかを予想しているかのように、的確でしかも温かみ溢れる質問を保護者にしていた。勿論、けっして威圧的な態度ではなく、限りなく優しくである。そして、けっして答は与えるのでなく、その質問に答える形で保護者が気づいたり学んでいたりしたのである。

    カウンセリングの基本とは、傾聴と共感だと言われている。そして、本人が気付いたり学びをしたりするように、質問をするだけで指示や指導をするべきではないというのが定説である。とは言いながら、限られた時間の中でカウンセリングをすると、明確な答を出すようにとついつい誘導してしまう傾向になる。ところが崎尾先生は、一度もそういう場面がなかったのである。たかだか平均すると10分程度の時間に、不思議なように保護者が自ら進んで変化するのである。自分が進化すべきだということを気付き、自主的に変わっていくのである。

    崎尾先生も自著の中で記されているが、電話相談の保護者も含めて相談者を自己否定に導いてはならないとおっしゃっている。それは、不登校児も保護者もすべてそうである。そして、不登校児の教育に携わる人間に対しても同じだと主張されている。人間的にも未熟で、しかも自己確立のしていない人間は、他人に対して寛容になれない。だから、自我人格と自己人格の統合を経ていない人間は、いくらカウンセリングの技術が優れていたとしても、カウンセラーとしての実務をしてはならないと思う。ところが、専門の大学を出て大学院で臨床心理士の資格を得たとしても、残念ながら自己確立をしている人は多くない。

    崎尾英子先生のような素晴らしいカウンセラーとは、滅多に出会えないだろう。先生の電話相談を聞くのが楽しみだった。それこそ、先生に心酔し切ってしまい、著作はすべて購入して愛読書にした。スティーブン・ギリガンの著した「愛という勇気」という専門学術書(崎尾先生訳)まで購入して読んだ。先生の著書には、珠玉のような素晴らしい教えの数々が書かれていた。それらの教示は、多くの気付きと学びを与えてくれた。今の自分があるのは、崎尾先生のお陰だと言っても過言ではない。先生は国立小児病院を退職された後、クリニックを開院して院長として活躍され、2002年にご逝去されてしまったとのこと。惜しい方を亡くしてしまったものである。

    崎尾先生のようなカウンセリングを、世の中の精神科医と臨床心理士たちが実施したとしたら、多くの不登校児とその保護者を救ったことであろう。崎尾先生のような臨床医や臨床心理士、そして精神保健福祉士がこれから多数輩出することを願っている。残念ながら崎尾先生の指導を直接受けることは叶わない。一度会いたかったと思っているが、残念なことである。これから崎尾先生のご遺志を継いで、不登校や引きこもりの若者を支援していきたい。勝手ながら、崎尾先生を心の師匠だと思っている。崎尾先生の貴重な教えを守って、少しでも師匠に近づきたいと願っている。

    あおり運転の心理分析と危険性

    あおり運転での事故が多発している。それも悪質なあおり運転が、急増しているという報道がなされている。これは多発するようになったのではなくて、今までは見過ごされていたものが、例の高速道路での死亡事故が起きたことで、社会的な悪として注目されたからであろう。さらには、ドライブレコーダーの普及によって証拠として採用され、メディアも報道しやすくなったという効果があると思われる。それにしても、こんなにも悪質なあおり運転が横行しているという事実を驚くと共に、実に情けないと思う。

    あおり運転をするのはどんな人かというと、普段はそんな過激なことをする人ではないと、周辺の人々が口にする。とすれば、いざ運転席に身を沈めると性格が一変してしまうということであろう。普段はおとなしい人が、ハンドルを握った瞬間から人格が変わるなんてことがあるだろうか。そういえば、酒に酔うと性格が一変する人がいる。同じだとすれば、困ったものである。脳神経医学者は、酒に酔うと性格が変わる人をこう分析している。酒に酔うと性格が変わる訳ではなく、アルコールによって大脳辺縁系を抑制する前頭前野が麻痺して、本来持っている性格が出るだけなので、それがその人の本来の性格なんだと主張する。

    あおり運転も同じことが言えるかもしれない。運転席に座ると性格が変わるのではなく、元々の性格が現れるだけなのであろう。脳神経学的に言えば、大脳辺縁系の偏桃体などの情動を司る部分を前頭前野がある程度抑制しているのに、ハンドルを握った途端に前頭前野によるコントロールが効かなくなり、偏桃体が暴走してしまうと推測される。危険なあおり運転をする人間は、元々情動に流されやすい人間であろう。ほんの些細なことでも激高してしまい、これらの脳の抑制が効かなくなり、あおり運転をすると思われる。

    どうしてそんなに危険な大脳辺縁系と前頭前野になってしまったのかというと、おそらく怒りや憎しみの感情を処理するのが不得意だったのかもしれない。自我(エゴ)が肥大化していると同時に、自我と自己の統合(自己の確立=自己マスタリー)が出来ていないと思われる。だから、些細なことでもキレるのである。こういう人は、怒りや憎しみを起こしやすいし貯めやすい。怒りの感情を頻繁に起こしていると、偏桃体が肥大化すると言われている。すると、コルチゾールというステロイドホルモンを多量に放出し、それが海馬と前頭前野に影響を与えて委縮させる。つまり、益々偏桃体が暴走することになるし、将来認知症になる確率も増大する。

    あおり運転をする人の心理や脳神経学的な分析をすると、とても危険な人間だと言わざるを得ない。おそらく、欲望にも流されやすい傾向にあるから、タバコやアルコールに溺れる人も多いと思われる。酔って問題行動を起こすケースも多いと考えられる。たとえ、職場では普通に振る舞っていても、家庭でDVをしたりモラハラをしたりすることも少なくないであろう。だから、もしこのような危険な人間と遭遇したら、当たらず触らずの対応をしたほうがよい。

    あおり運転をするような人間は、例外もあるが必要以上に大きい車に乗りたがるらしい。大型のRV車やワゴン車を運転する人が多い傾向にあると見られる。何故かというと、自尊感情が低い為に自分を過大に見せたいという意識が存在し、大きな車で他人を威圧したいと思うのであろう。自分を強く見せたいというのは、黒い車や黒い洋服をまとう無意識にも通じる。だから、大きな車で乱暴気味の運転をするのを見かけたら、近づかないことである。もし万が一あおり運転をされたら、安全な処に停車して絶対に車から出ないことだ。すぐに警察に電話するとよい。少しぐらい叩かれても、窓は割れないから心配ない。

    あおり運転をする人間は、人間的に未熟なのである。自分が、運転席に座ると性格が変わり、カッとなりやすいと自覚しているのであれば、気を付けたいものである。将来、あおり運転をする危険性があると思ってよいだろう。運転をする時だけ性格が変わるのではなく、元々そのような脳の働きをする傾向にあると認識すべきである。偏桃体が肥大化していて前頭前野や海馬が委縮傾向にあると思ってよい。ストレスが多いために、コルチゾールという副腎皮質ホルモンが大量に出ているのかもしれない。ストレス解消をしなければ、益々ひどくなってしまい、心臓血管疾患や脳血管疾患、またガンなどの重病になりやすい。ストレス解消と自己マスタリーに努めることを勧めたい。

     

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    自殺念慮の人を救うには

    座間市で起きた悲惨で卑劣な殺人事件は、ご遺族に深い悲しみと苦しみを与えたことであろう。さらには、こんな事件が起こり得る社会であるという驚きを多くの人にもたらしたと言える。被疑者の動機、どうしてこんな犯罪を起こすことになったかというプロセスがいずれ明らかにされるだろうが、他人事ではないということを我々は認識すべきであろう。このような加害者の親族になることもあり得るし、被害者の親族になることもあり得ないことではない。被疑者や被害者のご家族・ご親族の気持ちになり切るならば、このような犯罪が起きた要因について軽々しく述べるべきではないことは承知しているが、今後このような事件が起きない為に、敢えて自殺念慮者の心の裡を洞察してみたい。

    座間市の殺人事件の被疑者は、自殺願望者であることに付け込んで犯行を行ったと言われている。さらに、被害者を念入りに選別していたらしいという報道もなされている。被害者とご家族が、連絡が取れなくなっても騒ぎ立てないという確信が持てる被害者を選んでいたらしい。さらには、深い孤独感を持っているという人を選び、その寂しさに付け込んだともいう情報が流れている。さらに、あの被疑者自身もまた、深い孤独感を秘めていたようにも感じる。被害者も被疑者も、家族関係も含めて絆とか関わりあいが希薄化していて、孤独感を持っていたということが判明している。

    自殺念慮の人たちを、何故この日本という社会は救う手立てがないのであろうか。年間8万人もの捜索願いが出されていて、その大半が見つからないばかりか、本人や家族のDNA登録さえ満足にされていないという。今回の事件の被害者のDNA登録もされていなかったし、警察に自分の家族ではないかという問い合わせも少なかったと言われている。現代日本は、コミュニティが崩壊していると言われているが、まさに家族という最小単位で大切なコミュニティが崩壊の危機に面しているということが、この座間市に起きた殺人事件を通して浮き彫りにされているような気がする。

    自殺念慮の人を救うには、限りない無償の愛を注ぐことこそが必要だと思っていた。愛情に飢えた人が、自殺念慮に駆り立てられているものだと思い込んでいたのである。ところが、ある銃乱射事件の犯人の母親が講演で語った話が、その認識を覆した。今から18年前にコロンバイン高校での高校生2名の銃乱射により、13人の尊い命が奪われた事件である。その犯人の一人の母親が、現在講演を行っている。陰惨で酷いいじめが高校の同級生から受けていて、犯人のひとりは強い自殺念慮を持っていたという。銃を乱射した後に犯人は自殺した。

    母親は、講演ではいじめがあったという事実と、そのおかげで自殺念慮が生まれたなんてことは一言も触れていない。何故息子の気持ちを解ってあげられなかったかということを、責め続けている。息子に対してこのうえもなく愛情をたっぷりと注いでいたと語っている。愛情があれば自殺念慮なんて起きないと思っていたのに、そうではなかったと反省しているのである。息子が何故自分の苦しみや悲しみを、母親である自分に打ち明けなかったかを悔いている。それだけの深い絆や関係性が息子との間に存在しなくて、その関係性を築き上げられなかった自分を責めているのである。

    自殺念慮の人たちを救うには、自分たちが孤独ではないという思いを再構築してもらうことが必要だと思う。家族や周りの人々との絆や関わりあいを感じられず、絶対的な孤独感にさいなまれている人が、自殺念慮を生じるように感じられる。勿論、愛情不足も根底にあるだろう。その愛も、条件付きの愛である父性愛よりも、無条件の愛である母性愛がとみに不足しているようにも考えられる。あなたは1人ではないんだよというメッセージを自殺念慮の人々に届けたいと願っている。

    インドカルカッタの下町で、マザーテレサは死にゆく人々に救いの手を差し伸べて、あなたは1人ではないということを認識してもらってから、死出の旅立ちにいざなった。森のイスキアの佐藤初女さんは、自殺念慮の方々にあなたは1人ではないし、初女さんも含めて多くの人々が見守っているというメッセージを送り続けてきた。そして、自分にも深い絆や関わりあいが存在していて、自分をこれだけ愛してくれている人がいることを知って、自殺念慮から救われたのである。このような活動を自分もこれからさせてもらい、自殺念慮の方々を救うお手伝いをしていきたいと強く願っている。

    登山とマインドフルネスと唯識

    メンタルを病んだ方への心理療法のひとつとして、最近とみに注目されているのが、マインドフルネスである。マインドフルネスとは、常に心を捉われている何らかの意識や感情を一時的に心から手放す為に、別の何かで心を満たすことである。例えば、辛くて悲しい事があったり、考えるだけでも怖ろしいことがあったりした時、その感情で心の中が一杯になってしまったりする。そういう時には、人間はその感情にどっぷり浸かってしまい、他のことが考えられない。そうすると、解決策も考えられないくらい悩んでしまい、ずっと苦しみ続けるのである。

    ところが、そのどっぷり浸かってしまったマイナスの感情や思考を一時的にも手放したり停止させたりすると、不思議にも自分で解決できることがあるのだ。この一時的にマイナスの思考や感情を停止させたり手放したりする為に、他の意識や思考で心を満たしてしまうという行為を『マインドフルネス』というのである。例えば悲しみに打ちひしがれた感情があるとしよう。その際に、気分転換のためにヨガ・瞑想・スポーツなどをしたとする。そうすると、困りごとや苦しみ事の新たな解決策が心にふと浮かぶのである。これが、マインドフルネスの効果である。

    古来より仏教などでは、人々を苦しみから救う手段としてこのマインドフルネスを取り入れてきた。唯識論もそうであるし、座禅・読経・写経・荒行・山岳修行などが行われてきた。実は、ヨガもまた唯識の実践行のひとつである。精神分析療法や心理療法よりも手軽で効果が高いと、精神医療の治療法として取り入れるクリニックも増えている。とは言いながら、このマインドフルネスも適切な指導の元で実施しないと、なかなか効果を上げることが難しい。何故ならば、人間とはひとつのことに意識を集中するということが困難な生き物だからである。

    さて、マインドフルネスを実行するツールとしていろいろなものがあるが、どんな手法がいいのだろうか。何かひとつのことに集中して、自分の心を捉えて離さない思考・感情を一時的に停止するには何がいいのか迷う処である。私がいろんな方にお勧めしているのは、登山である。それも、ちょっと厳しくてハードな登山であり、少し危険性も伴うような登山を推奨している。ハイキングやトレッキング程度でも良いが、目の前の登山にだけ心を集中しやすいのは、やはり本格的な登山である。躓いたり転んだりするような悪路であれば、一歩一歩に精神を集中しなければならない。体力的にハードな登山なら、余計なことを考える余裕もなくなる。

    もう30年近く続けている登山であるが、マインドフルネスの究極と言える『唯識』を体感した経験がある。1泊2日で南八ヶ岳の縦走をしたことがある。美濃戸口から阿弥陀岳から赤岳を登り赤岳頂上小屋に泊まり、翌日朝から横岳、硫黄岳を縦走して、赤岳鉱泉を通り美濃戸口に下山するロングトレイルだった。硫黄岳までは、すんなりと行けたが、その後に長々と続く下山道には辟易した。前日のハードな登りの疲れもあり、パートナーとの会話もなくなるほどの体力の低下もあった。延々と続く下山道は、足が棒のようになるだけでなく、意識も時折薄らいでしまうほどの体力消耗があった。

    人間というのは体力の限界ぎりぎりになると、有意識と無意識の境界をなくしてしまうらしい。その時にふと無意識の入り口の世界で体感したことがある。目の前に広がるこの世界は、実体としては存在せずに自分の心が在ると思っているから、あたかも存在しているように見えるだけなんだと実感したのである。この唯識論は、理論として頭で認識しようとしてもなかなか理解できない。この唯識は、身体全体で体感するものであろう。しかも、マインドフルネスで他の雑念などを心から除外し、無我や無心の状態にして初めて実感できるような気がする。

    仏教を修行する者や修験者は、厳しい山岳修行をする。自分の体力の限界まで自分を追い込むことで、無我や無心の状態に到達するのではないかと思われる。山岳修行は、それこそ連日50キロメートルから100キロメートル超の山野を駆け巡る。超人のような修行をこなして、ようやく悟りをひらくことが出来ると言われている。現代の登山などは、山岳修行にはその厳しさでは到底及ばない。だから、登山によって唯識や『空』の理論を体感したなどと、軽々しく述べるべきではないということは認識しているつもりである。しかし、登山によって唯識と『空』の理論を不十分ながらも体得できたのは、とても幸運であったと言えよう。

     

    ※イスキアの郷しらかわでは、マインドフルネスの実践法を指導させてもらっています。トレッキングをしながらマインドフルネスや唯識のレクチャーもします。さらには、本格的な登山のガイドもいたします。心の癒しを求め、心を元気にしたいと願っていらっしゃる方は、イスキアの郷しらかわの自然体験をご利用ください。

     

    霊的な啓示を売り物にする

    世の中には不思議な人物がいる。自分を神だと主張して憚らない者がいるのだ。または、自分は神からのメッセージを伝えるメッセンジャーだと言い張る者がいる。すべての者が偽りだとは言わないが、どうも胡散臭い人物が多い気がする。古代から、神の生まれ変わりだと世間に喧伝した人物も多くいたし、シャーマンとして呪術を操った人も大勢いた。今でも、霊が見えるとか、過去世が解ると言っては占いを生業にしている者は少なくない。日本だけでなく、全世界でもこのように自分を神と同一だとしている人物はかなり多い筈だ。

    神または神の使いだと主張する者が、人々を意図的に騙しているとは言わないが、どうも怪しい人物は多い。まず人相を見てみると、明らかに信頼に足るような人相をしていない。神々しさはまったく感じられないし、どちらかというと統合失調型のパーソナリティ障害のような感じを受ける。または、妄想性のメンタル障害としか思えない者が多い。中には、本物だと思えるような素晴らしい人もいるが、極めて少ない。こういう人物に、どうして人々は騙されてしまうのだろうと不思議に思えて仕方ない。

    誰でも自分は騙されないぞと思っている。高学歴で教養が高く、いつも科学的な分析をしている良識人は、本来は騙されないものである。ところが、こういう高学歴で知能の高い人のほうが、いとも簡単に騙されるのだから不思議である。人間というものは、賢い人で疑り深い人のほうが騙されにくいと言われているが、実は疑り深い人のほうが騙しやすいのである。こういう人は、科学的な根拠を少しばかり示されたり、実際に不思議な実験結果を見せられたりすると、簡単に騙されることが多い。あれほどの高学歴で教養の高い人が、ころっと騙されてしまったオーム真理教事件を思い出せば理解できるだろう。

    神を名乗ったり、神の使いだと言ったりするという者が本物かどうかを見分ける簡単な方法がある。それは、お金を求めるかどうかである。集会や講演会において、相当の謝金を要求したとしたら、まずは偽物だと思って間違いない。旅費の実費や車代程度のものならあり得るが、数万円の謝金が必要だと言うのなら、疑ってかかっていいだろう。または、パワーストーンや数珠、または運気を呼び込む各種グッズ等を販売するのも怪しい。本当の神であれば、自分から謝金を要求したり高額なモノを売りつけたりすることなどあり得ないというのは誰でも理解できる筈である。

    自分は霊が見えるとか、神の存在を感じるという者がいる。あなたにはこんな守護霊が付いているとか、悪霊が付いて悪さをしているということを指摘する人物がいる。そう主張する本人は、本当に見えるのであろう。騙しているとは思えない。だから、信用してしまうのであろうが、実はそう見えたり聞こえたりするのは9割がた幻覚幻聴であるケースであると言われている。あなたには素晴らしい守護霊が付いているから、安心して生きていきなさいというのならば害はないのでまだ許せる。しかし、あなたには悪霊が付いていると脅し、お祓いや運気グッズの販売などをするならば、疑ってみる必要がある。

    霊的な啓示を信用するというのは、自分の人生が恵まれなくて、苦難困難を抱えている人が多い。そんな不遇な人からお金を巻き上げるような非道を、神がする筈がない。運が悪い人は、悪霊とか貧乏神がついている訳ではない。あくまでも、生きる姿勢、生きるための価値観、生きる哲学が劣悪で低いからであり、運のせいではない。生き方に問題があるから、悪運がついてまわるのである。ただ、勘違いしないでもらいたいのは、因果応報とは違うということである。因果応報というのは時の権力者が仏教の教えをねじまげたものである。関係性(縁)を基本にした因果、つまり因縁によって人間の運命は左右されるのである。関係性という大切な生きるうえで大切な価値観が希薄だから不運なのである。

    輪廻転生や唯識論、または一念三千論などの仏教の教えを拡大解釈して、救いを求める人々を助けようとしている者がいる。悩める本人をまったく否定せず受け容れて、カルマを抱えた過去世や悪い霊が付いているので不運なのだと安心させるヒーラーや霊能者、占い者たちである。そして、高額な占い料金・除霊代金・除霊グッズ代を要求するような者は、まずもって偽物であろう。そんなのは単なる気休めであり、一時的に気分は良くなるが、気分障害は再発する。そして、一生その霊能者に食い物にされるのである。生きるうえでの価値観や哲学が間違っているから不運なのであり、正しい理念を持つことが大切なのだと、耳障りで聞きたくないことを指摘してくれる支援者だけを信用することが肝要であろう。