一緒にいると癒される人

この人と一緒にいると何故かほっとする、というような人と出会ったことがあるだろうか。たぶん、そんな人と何度か出会ったことがある筈である。しかし、こういう人は世の中において圧倒的に少数である。出会う殆どの人は、一緒にいると疲れる人だからだ。一緒にいるとほっとして、何となく癒されるという人に出会ってみたいし、こんな人と一緒に暮らせたら、どれほど幸福なんだろうと思ったことだろう。または、癒しを与えてくれるような人と少しの時間だけでも共有したいし、こんな人にカウンセリングを受けたいと思うであろう。

今一緒に暮らしている伴侶も、結婚する前の時代には一緒にいると癒されると思った時期もあったと思われる。それなのに、結婚して何か月か経つと、一緒にいると疲れるようになるのである。実に不思議な事であるが、結婚する前後の蜜月の時期には、あれほど幸福な気分だったのに、いつの間にか一緒にいると疲れる相手になってしまうのである。恋人でも同じケースがありうる。最初は寛容で癒しを提供してくれたのに、何年も付き合うと徐々に疲れを感じるのである。あの一緒にいると癒される人は、どこに行ってしまったのであろうか。

どうして、伴侶も含めて一緒にいると疲れる人になってしまうのか、逆に何十年経っても疲れる人にならないのは、その原因について考えてみたい。そして、一緒にいると癒される人とはどういう人なのかを明らかにしたい。まず、パートナーが一緒にいると疲れる人になってしまう訳というのは、結婚すると相手を支配しコントロールしようとするからである。自分にとって都合のよい理想の相手になってもらいたいと、あたかも自分の所有者のように相手を支配し始める。そして、あらゆるコミュニケーションの手法を駆使して、相手を自分の思い通りに制御し始めるのだ。

人間は、本来自由でありたいし、自分の思い通りに生きたいものである。それが、いくらパートナーであっても、相手の思い通りにコントロールされるのは嫌なのである。そうすると、いつも支配され制御される言動に振り回されると、精神が疲れてしまうのである。たいていの人間は、利害関係がある相手に対しては、自分の価値観や人生観を知らず知らずのうちに押し付けてしまうものである。まったく利害関係がなくても、無意識のうちに相手を自分の話のペースに巻き込んで、自分の気持ちを解ってほしいと思うものである。こういう人と一緒にいると、疲れてしまうのであろう。

とこが、長い時間に渡り話をしても疲れるどころか、逆に元気になり癒してくれる人がいる。こういう人は、自分に共感してくれるし、自分を認めてくれる。しかも、自分を否定せずまるごと受け入れてくれるのである。自分の悪い点や嫌な部分も含めて、許してくれるのである。つまり、寛容性と受容性がひと際高い人なのである。このように一緒にいると、癒してくれる人というのは、言ってみれば許容力と包容力の高い人であり、真の自己確立をしている人でもある。だから、出会う相手の尊厳を認めてくれる人なのである。

このように出会う相手を癒してくれるという人は、自己マスタリーを確立した人である。自分の心の中に存在する嫌な部分やみっともない部分があることを、目を背けずにまるごと受け入れて、そういうマイナスの自己も含めてすべての自分を認め受け容れている人である。マイナスの自己も含めた自分をまるごとありのまま愛せる人でもあるのだ。だからこそ、相手のマイナスの自己も含めてすべてを受け容れて愛せるのである。したがって、寛容性と受容性をどんな人に対しても発揮できるのである。こういう人と出会うと、何故かほっとするし癒されるのである。

残念ながら、このように自己マスタリーを完了した人間は極めて少ない。今でも敬愛して止まない森のイスキアを主催していた佐藤初女さんは、自己マスタリーをしていたからこそ多くの人々を癒していらした。児童精神科医の崎尾英子先生も、同じようにカウンセリングで多くの相談者を癒していらした。残念ながら、このお二人は既に鬼籍に入られてしまった。このお二人をわが師としてリスペクトし、イスキアの郷しらかわの利用者に接して行きたいと思う。相手をけっして否定せず、支配せず、制御せず、あるがままにまるごと受け止めたい。これ以上ないという癒しを『イスキアの郷しらかわ』で提供し続けることを誓う。

今でも尊敬して止まない崎尾英子先生

今から20年くらい前に、児童精神科医として臨床においても、または学術研究の分野においても、先駆的な活躍をされた人物がいらした。それは、当時国立小児病院の精神科の医長をされていた、崎尾英子さんという優秀なドクターである。彼女は、児童精神科医のスペシャリストでもあったが、カウンセラーとしても多大な実績を残されていらした。カウンセラーとして実際に対面して、かなりの時間を要しての相談でさえなかなか効果あげるのは難しいのに、彼女は電話で僅か10分程度の相談で、保護者のあらゆる疑問に答えるだけでなく、的確な助言と深い安心感を与えていたのである。

崎尾英子先生は、NHKラジオで不登校の子どもたちの保護者への電話相談をしていらした。レギュラー回答者として、週一回の出演をされていたのである。当時、劇的に増加していた不登校児に対する質問が多く、非常に難しい質問をされる保護者が多かったと記憶している。質問をする人は、女性が圧倒的に多くて、母親か祖母であるケースが殆どだった。そして、そのプチカウンセリングであるが、崎尾先生はあたかも保護者がどう答えるのかを予想しているかのように、的確でしかも温かみ溢れる質問を保護者にしていた。勿論、けっして威圧的な態度ではなく、限りなく優しくである。そして、けっして答は与えるのでなく、その質問に答える形で保護者が気づいたり学んでいたりしたのである。

カウンセリングの基本とは、傾聴と共感だと言われている。そして、本人が気付いたり学びをしたりするように、質問をするだけで指示や指導をするべきではないというのが定説である。とは言いながら、限られた時間の中でカウンセリングをすると、明確な答を出すようにとついつい誘導してしまう傾向になる。ところが崎尾先生は、一度もそういう場面がなかったのである。たかだか平均すると10分程度の時間に、不思議なように保護者が自ら進んで変化するのである。自分が進化すべきだということを気付き、自主的に変わっていくのである。

崎尾先生も自著の中で記されているが、電話相談の保護者も含めて相談者を自己否定に導いてはならないとおっしゃっている。それは、不登校児も保護者もすべてそうである。そして、不登校児の教育に携わる人間に対しても同じだと主張されている。人間的にも未熟で、しかも自己確立のしていない人間は、他人に対して寛容になれない。だから、自我人格と自己人格の統合を経ていない人間は、いくらカウンセリングの技術が優れていたとしても、カウンセラーとしての実務をしてはならないと思う。ところが、専門の大学を出て大学院で臨床心理士の資格を得たとしても、残念ながら自己確立をしている人は多くない。

崎尾英子先生のような素晴らしいカウンセラーとは、滅多に出会えないだろう。先生の電話相談を聞くのが楽しみだった。それこそ、先生に心酔し切ってしまい、著作はすべて購入して愛読書にした。スティーブン・ギリガンの著した「愛という勇気」という専門学術書(崎尾先生訳)まで購入して読んだ。先生の著書には、珠玉のような素晴らしい教えの数々が書かれていた。それらの教示は、多くの気付きと学びを与えてくれた。今の自分があるのは、崎尾先生のお陰だと言っても過言ではない。先生は国立小児病院を退職された後、クリニックを開院して院長として活躍され、2002年にご逝去されてしまったとのこと。惜しい方を亡くしてしまったものである。

崎尾先生のようなカウンセリングを、世の中の精神科医と臨床心理士たちが実施したとしたら、多くの不登校児とその保護者を救ったことであろう。崎尾先生のような臨床医や臨床心理士、そして精神保健福祉士がこれから多数輩出することを願っている。残念ながら崎尾先生の指導を直接受けることは叶わない。一度会いたかったと思っているが、残念なことである。これから崎尾先生のご遺志を継いで、不登校や引きこもりの若者を支援していきたい。勝手ながら、崎尾先生を心の師匠だと思っている。崎尾先生の貴重な教えを守って、少しでも師匠に近づきたいと願っている。

あおり運転の心理分析と危険性

あおり運転での事故が多発している。それも悪質なあおり運転が、急増しているという報道がなされている。これは多発するようになったのではなくて、今までは見過ごされていたものが、例の高速道路での死亡事故が起きたことで、社会的な悪として注目されたからであろう。さらには、ドライブレコーダーの普及によって証拠として採用され、メディアも報道しやすくなったという効果があると思われる。それにしても、こんなにも悪質なあおり運転が横行しているという事実を驚くと共に、実に情けないと思う。

あおり運転をするのはどんな人かというと、普段はそんな過激なことをする人ではないと、周辺の人々が口にする。とすれば、いざ運転席に身を沈めると性格が一変してしまうということであろう。普段はおとなしい人が、ハンドルを握った瞬間から人格が変わるなんてことがあるだろうか。そういえば、酒に酔うと性格が一変する人がいる。同じだとすれば、困ったものである。脳神経医学者は、酒に酔うと性格が変わる人をこう分析している。酒に酔うと性格が変わる訳ではなく、アルコールによって大脳辺縁系を抑制する前頭前野が麻痺して、本来持っている性格が出るだけなので、それがその人の本来の性格なんだと主張する。

あおり運転も同じことが言えるかもしれない。運転席に座ると性格が変わるのではなく、元々の性格が現れるだけなのであろう。脳神経学的に言えば、大脳辺縁系の偏桃体などの情動を司る部分を前頭前野がある程度抑制しているのに、ハンドルを握った途端に前頭前野によるコントロールが効かなくなり、偏桃体が暴走してしまうと推測される。危険なあおり運転をする人間は、元々情動に流されやすい人間であろう。ほんの些細なことでも激高してしまい、これらの脳の抑制が効かなくなり、あおり運転をすると思われる。

どうしてそんなに危険な大脳辺縁系と前頭前野になってしまったのかというと、おそらく怒りや憎しみの感情を処理するのが不得意だったのかもしれない。自我(エゴ)が肥大化していると同時に、自我と自己の統合(自己の確立=自己マスタリー)が出来ていないと思われる。だから、些細なことでもキレるのである。こういう人は、怒りや憎しみを起こしやすいし貯めやすい。怒りの感情を頻繁に起こしていると、偏桃体が肥大化すると言われている。すると、コルチゾールというステロイドホルモンを多量に放出し、それが海馬と前頭前野に影響を与えて委縮させる。つまり、益々偏桃体が暴走することになるし、将来認知症になる確率も増大する。

あおり運転をする人の心理や脳神経学的な分析をすると、とても危険な人間だと言わざるを得ない。おそらく、欲望にも流されやすい傾向にあるから、タバコやアルコールに溺れる人も多いと思われる。酔って問題行動を起こすケースも多いと考えられる。たとえ、職場では普通に振る舞っていても、家庭でDVをしたりモラハラをしたりすることも少なくないであろう。だから、もしこのような危険な人間と遭遇したら、当たらず触らずの対応をしたほうがよい。

あおり運転をするような人間は、例外もあるが必要以上に大きい車に乗りたがるらしい。大型のRV車やワゴン車を運転する人が多い傾向にあると見られる。何故かというと、自尊感情が低い為に自分を過大に見せたいという意識が存在し、大きな車で他人を威圧したいと思うのであろう。自分を強く見せたいというのは、黒い車や黒い洋服をまとう無意識にも通じる。だから、大きな車で乱暴気味の運転をするのを見かけたら、近づかないことである。もし万が一あおり運転をされたら、安全な処に停車して絶対に車から出ないことだ。すぐに警察に電話するとよい。少しぐらい叩かれても、窓は割れないから心配ない。

あおり運転をする人間は、人間的に未熟なのである。自分が、運転席に座ると性格が変わり、カッとなりやすいと自覚しているのであれば、気を付けたいものである。将来、あおり運転をする危険性があると思ってよいだろう。運転をする時だけ性格が変わるのではなく、元々そのような脳の働きをする傾向にあると認識すべきである。偏桃体が肥大化していて前頭前野や海馬が委縮傾向にあると思ってよい。ストレスが多いために、コルチゾールという副腎皮質ホルモンが大量に出ているのかもしれない。ストレス解消をしなければ、益々ひどくなってしまい、心臓血管疾患や脳血管疾患、またガンなどの重病になりやすい。ストレス解消と自己マスタリーに努めることを勧めたい。

 

※ストレスをためてしまい、いつもイライラしてしまう人は「イスキアの郷しらかわ」をご利用ください。ストレス解消の方法と、怒りや憎しみの感情を起こさない方法を研修します。自己マスタリー(自我と自己の統合)を学び、寛容で受容の心を発揮出来るようになります。また、いつも怒りの感情を我慢してしまい、吐き出さずに溜め込んでいる人も危険です。怒りの感情を上手に昇華する方法を身に付けるサポートもしています。まずは問い合わせでご相談ください。メールや電話での相談は無料で行っています。

自殺念慮の人を救うには

座間市で起きた悲惨で卑劣な殺人事件は、ご遺族に深い悲しみと苦しみを与えたことであろう。さらには、こんな事件が起こり得る社会であるという驚きを多くの人にもたらしたと言える。被疑者の動機、どうしてこんな犯罪を起こすことになったかというプロセスがいずれ明らかにされるだろうが、他人事ではないということを我々は認識すべきであろう。このような加害者の親族になることもあり得るし、被害者の親族になることもあり得ないことではない。被疑者や被害者のご家族・ご親族の気持ちになり切るならば、このような犯罪が起きた要因について軽々しく述べるべきではないことは承知しているが、今後このような事件が起きない為に、敢えて自殺念慮者の心の裡を洞察してみたい。

座間市の殺人事件の被疑者は、自殺願望者であることに付け込んで犯行を行ったと言われている。さらに、被害者を念入りに選別していたらしいという報道もなされている。被害者とご家族が、連絡が取れなくなっても騒ぎ立てないという確信が持てる被害者を選んでいたらしい。さらには、深い孤独感を持っているという人を選び、その寂しさに付け込んだともいう情報が流れている。さらに、あの被疑者自身もまた、深い孤独感を秘めていたようにも感じる。被害者も被疑者も、家族関係も含めて絆とか関わりあいが希薄化していて、孤独感を持っていたということが判明している。

自殺念慮の人たちを、何故この日本という社会は救う手立てがないのであろうか。年間8万人もの捜索願いが出されていて、その大半が見つからないばかりか、本人や家族のDNA登録さえ満足にされていないという。今回の事件の被害者のDNA登録もされていなかったし、警察に自分の家族ではないかという問い合わせも少なかったと言われている。現代日本は、コミュニティが崩壊していると言われているが、まさに家族という最小単位で大切なコミュニティが崩壊の危機に面しているということが、この座間市に起きた殺人事件を通して浮き彫りにされているような気がする。

自殺念慮の人を救うには、限りない無償の愛を注ぐことこそが必要だと思っていた。愛情に飢えた人が、自殺念慮に駆り立てられているものだと思い込んでいたのである。ところが、ある銃乱射事件の犯人の母親が講演で語った話が、その認識を覆した。今から18年前にコロンバイン高校での高校生2名の銃乱射により、13人の尊い命が奪われた事件である。その犯人の一人の母親が、現在講演を行っている。陰惨で酷いいじめが高校の同級生から受けていて、犯人のひとりは強い自殺念慮を持っていたという。銃を乱射した後に犯人は自殺した。

母親は、講演ではいじめがあったという事実と、そのおかげで自殺念慮が生まれたなんてことは一言も触れていない。何故息子の気持ちを解ってあげられなかったかということを、責め続けている。息子に対してこのうえもなく愛情をたっぷりと注いでいたと語っている。愛情があれば自殺念慮なんて起きないと思っていたのに、そうではなかったと反省しているのである。息子が何故自分の苦しみや悲しみを、母親である自分に打ち明けなかったかを悔いている。それだけの深い絆や関係性が息子との間に存在しなくて、その関係性を築き上げられなかった自分を責めているのである。

自殺念慮の人たちを救うには、自分たちが孤独ではないという思いを再構築してもらうことが必要だと思う。家族や周りの人々との絆や関わりあいを感じられず、絶対的な孤独感にさいなまれている人が、自殺念慮を生じるように感じられる。勿論、愛情不足も根底にあるだろう。その愛も、条件付きの愛である父性愛よりも、無条件の愛である母性愛がとみに不足しているようにも考えられる。あなたは1人ではないんだよというメッセージを自殺念慮の人々に届けたいと願っている。

インドカルカッタの下町で、マザーテレサは死にゆく人々に救いの手を差し伸べて、あなたは1人ではないということを認識してもらってから、死出の旅立ちにいざなった。森のイスキアの佐藤初女さんは、自殺念慮の方々にあなたは1人ではないし、初女さんも含めて多くの人々が見守っているというメッセージを送り続けてきた。そして、自分にも深い絆や関わりあいが存在していて、自分をこれだけ愛してくれている人がいることを知って、自殺念慮から救われたのである。このような活動を自分もこれからさせてもらい、自殺念慮の方々を救うお手伝いをしていきたいと強く願っている。

登山とマインドフルネスと唯識

メンタルを病んだ方への心理療法のひとつとして、最近とみに注目されているのが、マインドフルネスである。マインドフルネスとは、常に心を捉われている何らかの意識や感情を一時的に心から手放す為に、別の何かで心を満たすことである。例えば、辛くて悲しい事があったり、考えるだけでも怖ろしいことがあったりした時、その感情で心の中が一杯になってしまったりする。そういう時には、人間はその感情にどっぷり浸かってしまい、他のことが考えられない。そうすると、解決策も考えられないくらい悩んでしまい、ずっと苦しみ続けるのである。

ところが、そのどっぷり浸かってしまったマイナスの感情や思考を一時的にも手放したり停止させたりすると、不思議にも自分で解決できることがあるのだ。この一時的にマイナスの思考や感情を停止させたり手放したりする為に、他の意識や思考で心を満たしてしまうという行為を『マインドフルネス』というのである。例えば悲しみに打ちひしがれた感情があるとしよう。その際に、気分転換のためにヨガ・瞑想・スポーツなどをしたとする。そうすると、困りごとや苦しみ事の新たな解決策が心にふと浮かぶのである。これが、マインドフルネスの効果である。

古来より仏教などでは、人々を苦しみから救う手段としてこのマインドフルネスを取り入れてきた。唯識論もそうであるし、座禅・読経・写経・荒行・山岳修行などが行われてきた。実は、ヨガもまた唯識の実践行のひとつである。精神分析療法や心理療法よりも手軽で効果が高いと、精神医療の治療法として取り入れるクリニックも増えている。とは言いながら、このマインドフルネスも適切な指導の元で実施しないと、なかなか効果を上げることが難しい。何故ならば、人間とはひとつのことに意識を集中するということが困難な生き物だからである。

さて、マインドフルネスを実行するツールとしていろいろなものがあるが、どんな手法がいいのだろうか。何かひとつのことに集中して、自分の心を捉えて離さない思考・感情を一時的に停止するには何がいいのか迷う処である。私がいろんな方にお勧めしているのは、登山である。それも、ちょっと厳しくてハードな登山であり、少し危険性も伴うような登山を推奨している。ハイキングやトレッキング程度でも良いが、目の前の登山にだけ心を集中しやすいのは、やはり本格的な登山である。躓いたり転んだりするような悪路であれば、一歩一歩に精神を集中しなければならない。体力的にハードな登山なら、余計なことを考える余裕もなくなる。

もう30年近く続けている登山であるが、マインドフルネスの究極と言える『唯識』を体感した経験がある。1泊2日で南八ヶ岳の縦走をしたことがある。美濃戸口から阿弥陀岳から赤岳を登り赤岳頂上小屋に泊まり、翌日朝から横岳、硫黄岳を縦走して、赤岳鉱泉を通り美濃戸口に下山するロングトレイルだった。硫黄岳までは、すんなりと行けたが、その後に長々と続く下山道には辟易した。前日のハードな登りの疲れもあり、パートナーとの会話もなくなるほどの体力の低下もあった。延々と続く下山道は、足が棒のようになるだけでなく、意識も時折薄らいでしまうほどの体力消耗があった。

人間というのは体力の限界ぎりぎりになると、有意識と無意識の境界をなくしてしまうらしい。その時にふと無意識の入り口の世界で体感したことがある。目の前に広がるこの世界は、実体としては存在せずに自分の心が在ると思っているから、あたかも存在しているように見えるだけなんだと実感したのである。この唯識論は、理論として頭で認識しようとしてもなかなか理解できない。この唯識は、身体全体で体感するものであろう。しかも、マインドフルネスで他の雑念などを心から除外し、無我や無心の状態にして初めて実感できるような気がする。

仏教を修行する者や修験者は、厳しい山岳修行をする。自分の体力の限界まで自分を追い込むことで、無我や無心の状態に到達するのではないかと思われる。山岳修行は、それこそ連日50キロメートルから100キロメートル超の山野を駆け巡る。超人のような修行をこなして、ようやく悟りをひらくことが出来ると言われている。現代の登山などは、山岳修行にはその厳しさでは到底及ばない。だから、登山によって唯識や『空』の理論を体感したなどと、軽々しく述べるべきではないということは認識しているつもりである。しかし、登山によって唯識と『空』の理論を不十分ながらも体得できたのは、とても幸運であったと言えよう。

 

※イスキアの郷しらかわでは、マインドフルネスの実践法を指導させてもらっています。トレッキングをしながらマインドフルネスや唯識のレクチャーもします。さらには、本格的な登山のガイドもいたします。心の癒しを求め、心を元気にしたいと願っていらっしゃる方は、イスキアの郷しらかわの自然体験をご利用ください。

 

霊的な啓示を売り物にする

世の中には不思議な人物がいる。自分を神だと主張して憚らない者がいるのだ。または、自分は神からのメッセージを伝えるメッセンジャーだと言い張る者がいる。すべての者が偽りだとは言わないが、どうも胡散臭い人物が多い気がする。古代から、神の生まれ変わりだと世間に喧伝した人物も多くいたし、シャーマンとして呪術を操った人も大勢いた。今でも、霊が見えるとか、過去世が解ると言っては占いを生業にしている者は少なくない。日本だけでなく、全世界でもこのように自分を神と同一だとしている人物はかなり多い筈だ。

神または神の使いだと主張する者が、人々を意図的に騙しているとは言わないが、どうも怪しい人物は多い。まず人相を見てみると、明らかに信頼に足るような人相をしていない。神々しさはまったく感じられないし、どちらかというと統合失調型のパーソナリティ障害のような感じを受ける。または、妄想性のメンタル障害としか思えない者が多い。中には、本物だと思えるような素晴らしい人もいるが、極めて少ない。こういう人物に、どうして人々は騙されてしまうのだろうと不思議に思えて仕方ない。

誰でも自分は騙されないぞと思っている。高学歴で教養が高く、いつも科学的な分析をしている良識人は、本来は騙されないものである。ところが、こういう高学歴で知能の高い人のほうが、いとも簡単に騙されるのだから不思議である。人間というものは、賢い人で疑り深い人のほうが騙されにくいと言われているが、実は疑り深い人のほうが騙しやすいのである。こういう人は、科学的な根拠を少しばかり示されたり、実際に不思議な実験結果を見せられたりすると、簡単に騙されることが多い。あれほどの高学歴で教養の高い人が、ころっと騙されてしまったオーム真理教事件を思い出せば理解できるだろう。

神を名乗ったり、神の使いだと言ったりするという者が本物かどうかを見分ける簡単な方法がある。それは、お金を求めるかどうかである。集会や講演会において、相当の謝金を要求したとしたら、まずは偽物だと思って間違いない。旅費の実費や車代程度のものならあり得るが、数万円の謝金が必要だと言うのなら、疑ってかかっていいだろう。または、パワーストーンや数珠、または運気を呼び込む各種グッズ等を販売するのも怪しい。本当の神であれば、自分から謝金を要求したり高額なモノを売りつけたりすることなどあり得ないというのは誰でも理解できる筈である。

自分は霊が見えるとか、神の存在を感じるという者がいる。あなたにはこんな守護霊が付いているとか、悪霊が付いて悪さをしているということを指摘する人物がいる。そう主張する本人は、本当に見えるのであろう。騙しているとは思えない。だから、信用してしまうのであろうが、実はそう見えたり聞こえたりするのは9割がた幻覚幻聴であるケースであると言われている。あなたには素晴らしい守護霊が付いているから、安心して生きていきなさいというのならば害はないのでまだ許せる。しかし、あなたには悪霊が付いていると脅し、お祓いや運気グッズの販売などをするならば、疑ってみる必要がある。

霊的な啓示を信用するというのは、自分の人生が恵まれなくて、苦難困難を抱えている人が多い。そんな不遇な人からお金を巻き上げるような非道を、神がする筈がない。運が悪い人は、悪霊とか貧乏神がついている訳ではない。あくまでも、生きる姿勢、生きるための価値観、生きる哲学が劣悪で低いからであり、運のせいではない。生き方に問題があるから、悪運がついてまわるのである。ただ、勘違いしないでもらいたいのは、因果応報とは違うということである。因果応報というのは時の権力者が仏教の教えをねじまげたものである。関係性(縁)を基本にした因果、つまり因縁によって人間の運命は左右されるのである。関係性という大切な生きるうえで大切な価値観が希薄だから不運なのである。

輪廻転生や唯識論、または一念三千論などの仏教の教えを拡大解釈して、救いを求める人々を助けようとしている者がいる。悩める本人をまったく否定せず受け容れて、カルマを抱えた過去世や悪い霊が付いているので不運なのだと安心させるヒーラーや霊能者、占い者たちである。そして、高額な占い料金・除霊代金・除霊グッズ代を要求するような者は、まずもって偽物であろう。そんなのは単なる気休めであり、一時的に気分は良くなるが、気分障害は再発する。そして、一生その霊能者に食い物にされるのである。生きるうえでの価値観や哲学が間違っているから不運なのであり、正しい理念を持つことが大切なのだと、耳障りで聞きたくないことを指摘してくれる支援者だけを信用することが肝要であろう。

スランプはこうして乗り越える

アスリートなら誰でも一度は経験するスランプ。生涯に何度もスランプを経験する選手もいる。スランプ経験なんかしたことがないというアスリートもたまに存在するが、滅多にいない。ましてや、トップアスリートなら必ず一度や二度のスランプを経験している筈だ。スランプを乗り越えることは難しい。これといった原因が見つからないことが多い。また、芸術家や文芸家にもスランプがあるし、タレントや芸能人もスランプに陥るケースがある。そして、その原因が解らずスランプに苦しみ続けることが多いし、そのスランプを乗り越えることが出来ずに、廃業にまで追い込まれる人も少なくない。

スランプになる『きっかけ』は、実に様々である。そして、スランプに陥った人はよくよく深く考えて、そのきっかけに気付いて、それを除外する為に努力する。しかし、そのきっかけを取り除いたとしても、不思議なことにまた違う『きっかけ』が起きてしまうのである。ひとつ解決しても次から次へと『きっかけ』が起こり続けて、スランプから立ち直れないのである。つまり、スランプの本当の原因を把握できず、場当たり的な対応をしている限り、スランプを克服できないのである。

アスリートがスランプに陥るきっかけは、技術的な側面もあるが、それ以上に重要なのがメンタル面である。身体というのは、実に不思議なものである。一度精神的な不安や恐怖感を感じてしまうと、筋肉が固まってしまい、いつもと違う動きになってしまう。ゴルフのトッププロが、4パットや5パットをする場面が放映されることがある。あんなこと、普段ではありえないのである。優勝が決まるかというような最終ホールのティーショットで、身体の回転が止まってしまいひっかけOBなんていうケースが実に多い。アスリートがスランプになるきっかけはメンタル面にあると言われているのも頷ける。

大スランプに陥っているのが、あのタイガー・ウッズである。彼は、酷い腰痛を起こしてから思うようなスィングが出来なくなり、スィングのバランスを崩してしまい、復帰の目途さえ立たない。全盛期には、どれだけプレッシャーがかかったとしても、またはどんなに難しいショットが要求される場面でも、いとも簡単にスィングしていたのに、見る影もないようなアンバランスなショットをしている。人間という生き物は、どこか1か所に不安の要素を抱えてしまうと、すべてが駄目になるものらしい。このようにして、大スランプから抜け出せないで苦しんでいるアスリートは少なくない。

大スランプに陥る原因を脳科学的に分析してみたい。長い期間のスランプに苦しんでいるアスリートの殆どは、不安と恐怖心からリズムとフォームを崩している。脳科学的には、脳内ホルモンであるオキシトシンの分泌が極端に減少しているか枯渇しているケースが多い。それだけではないが、今まで十分な量を分泌していたのに出ていないのだから、不安感や恐怖感を払拭できなくなっている。それじゃ、何故そんな状況に陥っているかというと、人間関係を損なっている場合が多いと推測される。夫婦、恋人、親子、兄弟、友人の関係性が、劣悪化もしくは希薄化してしまっているのである。それがオキシトシンの分泌不足を招いているのである。

このオキシトシンの分泌不足はアスリートだけでない。日常生活においても、得も知れないような不安と恐怖感から、メンタルが落ち込んでしまったりパニック障害になったりするケースも、このオキシトシンの分泌不足から起きることがある。つまり、日常生活におけるスランプもまた、このオキシトシンの影響がある。親しいパートナーとのある事件や事故などをきっかけに劣悪化してしまい、修復不可能な関係になってしまったケースを思い浮かべれば、解ってもらえると思われる。タイガー・ウッズはまさにそんなケースから、腰痛になり最悪のスランプになった。イチローが一時期スランプになったのも同じケースであろう。

オキシトシンは、深いスキンシップや愛情豊かな触れ合いにより大量に分泌される。このオキシトシンが十分に分泌されていると、どんなにプレッシャーがあっても不安にならない。またはストレスが大きくても、けっしてメンタルが落ち込まない。だから、スランプを乗り越えるにはオキシトシンを分泌させるような暮らしをすれば良いのである。性的な触れ合いが一番確実なのであるが、相手がなければ難しい。ペットとのスキンシップも効果あるし、社会貢献活動も有効である。ボランティアや公益活動をして、相手から大きな感謝と愛を与えられると、オキシトシンが多量に分泌される。不安感と恐怖感にさいなまれている人は是非試してほしい。

 

※スランプを乗り越えるための相談・カウンセリングを、イスキアの郷しらかわでは承っています。どんなご相談でも受けたいと思いますので、『問い合わせ』のフォームからメッセージを送ってください。秘密保持をお約束します。スランプに陥った本当の理由を明らかにして、その乗り越える方法を一緒に考えます。ご遠慮なくご相談ください。相談料はいただきません。

自殺願望の人を救えるか

自殺願望者を自殺サイトで巧妙に誘って、金を奪い乱暴までして9人の命を奪うという凶悪事件が起きた。自殺を志望しているとは言っても、人の命を奪うという卑劣な行為は絶対に許せない行為である。自殺サイトというのは、インターネット上のSNSを利用したものであり、登録してお互いに対話をしている人はかなり多いという。どうせ自殺しようとしているのだから、それを助けて上げただけだという認識を彼が持っているとしたら、それはおおいなる勘違いである。

自殺願望者の方たちがSNSで発信しているツィートを見ると、既に自殺する気持ちを確定している人は極めて少ないことが伺える。まだまだ迷いがあって、心の奥底では誰かに救ってほしいという気持ちがどこかにあって、そんな気持ちが見え隠れしているのである。だから、中には自殺を手伝うという人がいたとしても、または自殺を早くしろと促すようなツィートをしても、反発する自殺願望者が多いように見受けられる。自殺願望者たちは、自殺をする前に自分の心の悲しさ苦しさ辛さを解って、共感してほしいと思っているのである。

自殺を救うNPOやそのサイトを見ていると、自殺そのものを否定するのでなくて、自殺願望者の気持ちに寄り添うことがまずは必要だとしている。自殺願望者のサイトを見ていると、自分の気持ちに寄り添って共感してくれる人がいないという嘆きが漏れ聞こえる。厚労省の自殺を救うサイトも開設されていて、まずは相談を受けて共感することに重きを置いている。しかし残念なことに、いろんな支援施設に実際に駆け込んで、救いを求める自殺願望者はけっして多くないのである。自殺を思い止まらせることが難しい所以である。

自殺願望の人を救う、現代の駆け込み寺的な宿泊施設がある。『森のイスキア』という施設である。青森県の弘前市、岩木山の麓にあるこの施設は、佐藤初女さんという女性が運営していた。佐藤初女さんは、日本のマザーテレサとも呼ばれていた人で、彼女の握ったおむすびを食べただけで自殺を思い止まったという有名なエピソードがある。心が疲れ切って完全に心が折れてしまい、生きる気力を失ってしまった人がこの森のイスキアを訪れて、また生きようと思い直す施設である。残念ながら、昨年の2月に佐藤初女さんが94歳の生涯を閉じられて、森のイスキアは現在活動を休止している。

佐藤初女さんは、特別な心理療法や助言をする訳ではなかった。心の籠った料理を食べさせて、ただ寄り添い共感するだけで、利用者自ら話し出すのをじっと待っていたという。利用者は佐藤初女さんの料理で癒されて、彼女の優しさと包容力を実感し、自分の苦しさ悲しみを訥々と話し出す。一切否定されることなく傾聴と共感をしてもらうことで、本人は安心する。そして、自分自身の力で解決策を見出すという。こうして、多くの心を痛めた方々が救われてきたのである。このような癒しと救いの施設がなくなってしまったのは、こういう悲惨な事件が起きるとつくづく残念なことである。

自殺願望者をSNSなどの自殺サイトや相談支援のサイトで救えるかと言うと、成果は限定的であろう。やはり、人の心を癒すには傾聴と共感だけでは難しいというのは、専門家の共通認識であろう。バーチャルの世界や電話応対でヒーリングを受けたとしても、絶対的なお互いの信頼関係を築くのは難しいからである。実際に出会って、相手の表情やそぶりを見ないと親近感は湧かない。ましてや、人生に絶望した人を救うのは、特別な食事などの提供も必要であるし、農業体験や自然体験などの仕組みなども求められる。マインドフルネスの時間も共有しなければならない。

ところで、座間市で起きた残虐事件の犯人は、父親に対してこんなことを言っていたという。「人生を生きる意味が見つからない。死んだほうがましだ」と。彼にも自殺願望が実際にあり、だから自殺サイトにアクセスしたのかもしれない。自殺願望の方々はおしなべて、自分の生きる意味を見つけられず苦しんでいるように思える。生きる意味とは生きる目的と言い換えていいかもしれない。正しい生きる目的を見つけるには、崇高で真理に基づいた価値観を持つ必要がある。間違っている低劣で劣悪な価値観では、正しい生きる目的は設定できない。自殺願望者の方々に、正しい価値観(哲学)を気付いてもらう支援施設が必要ではあるまいか。

※『イスキアの郷しらかわ』では、心の籠った自然食の料理、農業体験&自然体験、そしてマインドフルネスの実践を提供しています。さらには、正しい人生の目的を見つけるための価値観学習をしています。

医療は総合・統合の時代へ

診断及び治療における医療技術の進歩は著しいものがある。それは、近代医療がもたらしたものと言って差し支えないであろう。最先端の診断用機器の開発や診断技術の進化は、驚くほどの正確さで確定診断が出来るようになった。医療技術の進歩は目を見張るものがある。それはある意味では、専門性が増したことによる恩恵であろう。内科系・外科系というようなあいまいな診療科目ではなく、こと細かく細分化されて、臓器や組織、疾病ごとの専門医が養成されてきた。つまりスペシャリストが生まれ、診断や治療の成果をあげてきたのである。

それぞれ医療界のスペシャリストとして、優秀な頭脳と技能、そして経験を身に付けたドクターは、どんな患者さんの診断・治療も可能になったかというと、実はそうではないことを医療界は認識することになったのである。専門医がそれぞれの分野において診断できない場合は、違う分野の医療スペシャリストと連携して確定診断を行うことになる。しかし残念なことに、専門医どうしの連携だけでは、確定診断が難しい症例が極端に増加してしまったらしいのである。それぞれの専門医が診断しても、なんの疾病なのか、そしてその原因が一向に解らないという症例が激増しているというのである。

その為に最近の医療界では、総合診療科が出来たり統合医療という分野が発生したりして、診断と治療を行うようになったのである。言わば医療のゼネラリストである。優秀な専門医がどうしても解明できなかった疾病名や原因が、総合診療科の医師たちが明らかに出来たのである。または、専門医とは別に統合医と呼ばれるドクターが、診断と治療に多大な成果を上げているのである。勿論、専門医たちも治療においては大きな成果を上げているのは間違いない。しかし、確定診断と疾病原因が解明出来なければ、治療計画も組めないし、再発の恐怖から逃れられない。

どうして医療界において、スペシャリストだけでなくゼネラリストが必要になったかというと、それは人間の身体、つまり人体が『システム』だと気付いてきたからである。人間そのものは、システムである。60兆個もある細胞がそれぞれ自己組織性を持っていることが判明した。つまり、細胞ひとつひとつがあたかも意思を持っているかのように、人間全体の最適化を目指して活動しているのである。そして、細胞たちはネットワークを組んでいて、それぞれが協力しあいながら、しかも自己犠牲を顧みず全体(人体)に貢献しているのである。

これは、細胞だけでなく人体の各臓器や各組織が同じようにネットワーク(関係性)を持っていて、全体最適の為に協力し合っていることが、最先端の医学で判明したのである。つまり、人体は脳が各臓器や各細胞に指令を送っているのではなく、それぞれが主体性と自発性を持って活動していることが解明されたのである。完全なシステムである人体が、どこかの各細胞や各臓器が誤作動を起こせば、それが人間全体に及び疾病が起きるということである。ということは、人間そのものの生き方が全体最適と関係性を忘れたものになると、細胞や各臓器などが誤作動を起こしやすくなるという意味でもある。

医療が専門性を発揮し、疾病だけを診て人間全体を観ていないというのは、まさに樹を見て森を見ずというようなことと同じであろう。人体そのものだけでなく、その人間の置かれた環境や育ち、特に家族との関係性などを詳しく知らないと、疾病の原因が解明できないと思われる。人間全体を観ないとそのエラーと原因を特定できないということなのである。特に大切なのは、その人間の生き方の根底となる価値観が低劣で劣悪化すると、人間という『システム』に反する言動をしてしまうという点である。人体システムの在り方と生き方そのものが矛盾を起こすと、人体の誤作動が起きると言えないだろうか。

メンタルの障害における原因究明は、非常に難しい。だからこそ、他の身体的疾病と比較して完治や寛解が著しく少ないという結果にも表れているのであろう。脳科学的や神経学的に、神経伝達物質の誤作動や極端な分泌異常がメンタル障害を誘発することは解っていても、その誤作動が起きる真の原因は残念ながら掴めていないのである。人間は『システム』だということを認識することで、原因が解明できるのではないだろうか。全体最適、つまり社会全体に貢献するという目的をしっかり持つための価値観を持てないと、人間の精神は誤作動を起こすのである。しかも、関係性を大切にしなければならないという生き方を実践しないと精神は破綻を起こすのである。幾何学的に精神疾患が増加しているのは、システム思考の哲学である、全体最適と関係性の哲学が希薄化し低劣化したせいだと言える。精神科医のゼネラリストであれば、そのことに気付いてもらえるのに、実に残念なことである。

森のイスキアと佐藤初女さん

森のイスキアの佐藤初女さんが2016年の2月に永眠された。日本のマザーテレサとも呼ばれる伝説的な福祉活動をされて、多くの人々から慕われ続けた94歳の生涯を閉じられた。彼女の握った奇跡のおむすびは、死を覚悟した人の心を動かし、自殺を思い止まらせた。心を痛め折れてしまった人々を、佐藤初女さんは温かい心と食事で救い続けてきた。森のイスキアという施設は、傷ついた心と疲れ切った身体を抱えた人々を優しく迎え入れて、自らの元気さを取り戻すことを可能にして、再び社会に送り出してきたのである。

その森のイスキアは、佐藤初女さんが天国に召されてから、活動を休止している。既に1年半が過ぎたというのに、残念ながら彼女の活動を引き継ぐ方がいらっしゃらないようである。森のイスキアは多くの方が寄付をなさって建てられた、善意の施設である。彼女の遺志を継いで行く人がいないというのは非常に残念なことである。イスキアという名前を引き継いで、各種の活動をされていらっしゃる方は存在する。助産所をしたりカウンセリングやヒーリングをしたりしている方もおられる。相談業務をして人々を救う活動をしている施設もあるらしい。しかし、森のイスキアのような癒しの宿泊施設として運営している処はないみたいだ。

佐藤初女さんと同じような活動をするのは、非常に難しいと思う。佐藤初女さんと同じ空間にいるだけで、彼女に話を聞いてもらえるだけで、心を込めて作ったおむすびや食事を食べただけで、心を癒すことが出来た。佐藤初女さんのような方は二度と出てこないに違いない。彼女の存在は、それだけ大きかった。だとしても、第二、第三の佐藤初女さんが現れて来なければ、彼女は浮かばれないように思うのである。彼女の遺志を継いで、同じような癒しの宿泊施設が全国の各地に開設してほしいと願うのは、私だけではあるまい。

今から20年くらい前に佐藤初女さんを初めて知った。彼女を紹介していた地球交響曲第2番を鑑賞して、大きな衝撃を受けた。その時に、自分もいつかこのような施設を作りたいと強く思った。そして、12年くらい前に弘前にある森のイスキアを訪ねた。佐藤初女さんとお会いして、その滲み出ている優しさと凛とした強さを感じた。彼女の存在そのものが偉大であり、大きく包み込むような愛そのものだった。その時に、訪問者が記すノートが置いてあり、『イスキアと同じような施設を白河に必ず作ります』と記してきた。自分のライフワークとして取り組む宣言でもあったように思う。

あれから、10数年が経過した。森のイスキアと同じような施設を福島県の白河地方に作りたい思い、準備を重ねてきた。森のイスキアの佐藤初女さんのような食事を作りたいと思い、毎日せっせと料理をしては多くの方々に食べて頂き、率直な感想を伺った。心理学、精神医学、カウンセリング、ヒーリング等の学習を進めた。また、哲学、思想、仏教哲学、神学、キリスト教などの価値観を学んだ。さらには、医学、分子生物学、分子細胞学、量子力学、宇宙物理学、脳神経科学、大脳生理学なども詳しく勉強した。空き農家も物色して、農家民宿への改築する準備をしてきた。

しかし、残念ながら開設資金の問題がなかなかクリアーできずにいたのだ。開設してから運営が順調に行くまでのランニングコストを負担する目途も立たなかった。改築資金が約500万円、そして当座の運営資金が約500万円、合わせて1,000万円の準備は難しかった。寄付を募ったりするという方法もあったが、なるべく寄付には頼らないというのが自分のポリシーである。さらに、国や県の委託事業(助成金)として運営する方法も考えて企画書を作成して、各行政機関に提案したものの、実績もない事業計画を認められるのは困難だった。

ある日、吉田さん夫妻が経営している農家民宿「四季彩菜工房」とタイアップするのはどうか?とアドバイスしてくれる友人がいた。早速訪問して、森のイスキアへの思いを伝えてみた。幸運にも『イスキアの郷しらかわ』への全面的協力を約束してくれたのである。四季彩菜工房は、7年前までは毎年400人から500人ほどの利用者があった。マクロビや自然食愛好者から絶大な支持を受けて、食事も美味しいとリピーター訪問者が多かったのである。その後の震災による風評被害で、利用者はゼロになってしまったのである。物事が順調に進んでいくには、『間』が必要不可欠である。絶妙のタイミングであり出会いであった。吉田さんの協力がなければ、このイスキアの郷しらかわの開設は出来なかった。こうして、平成29年9月1日にイスキアの郷しらかわは産声を上げることが出来たのである。森のイスキア佐藤初女さんのご遺志を継いでいけるよう、精進したいと誓っている。