源氏物語は愛着障害のものがたり

 源氏物語というと、あまりにも有名な平安時代の本格長編小説であり、しかも紫式部という女性作家の最初で最後の作品だということで知られている。紫式部という女性がどのような生涯を送ったのか、その小説を書こうと思い立ったモチベーションは何かということが気になる。それ以上に興味が湧くのは、源氏物語に描かれた世界観はどのようにして彼女の心に生まれたのかという点である。主人公である光源氏のあの強烈過ぎるキャラクターとは、どこから着想したのか、何を描きたかったのかが注目されるところである。

 NHKの大河ドラマ「光る君へ」を鑑賞させてもらったが、史実とフィクションを適当に織り交ぜながら、紫式部という女性をとても魅力的に描いていたように思える。勿論、もう一人の主人公である藤原道長も、栄華を極めた権力者という描き方ではなく、悩み多きひとりの男性として描かれていて、好感が持てる描き方だった。ドラマでは、光源氏という主人公と権力の中枢まで上り詰めた藤原道長を、重ね合わせて描いていて、それはそれで面白いアイデアだと感心したが、あまりにも違う境遇なので、あり得ないだろうとも考える。

 とは言いながら、藤原道長たちのように権力を求める飽くなき野望を持つ貴族と、権力や地位を求めながらも果たすことの出来ない苛立ちが異性へと向かう光源氏の根っこは同じではないのかとも思える。何か満たされない思いを政治の中枢に立ち権力を振るうことで満たそうとする藤原貴族、そして満たされない思いを性愛によって昇華させようとする光源氏は、根源とするものは一緒なのではと思えるのである。それはうがち過ぎだと言われそうであるが、権力欲や支配欲と性欲は同じ根源にあるような気がする。

 それにしても、源氏物語に描かれた主人公の光源氏は、稀代の女たらしである。こんなキャラクターを持つ主人公を、どういう心理状態から描こうとしたのであろうか。この源氏物語は、夫を亡くした紫式部が寂しさや悲しみを紛らわせようとして書かれたと伝わっている。その源氏物語が評判を得て、左大臣藤原道長の耳に入り、一条天皇の后である娘の彰子付きの女房として招かれる。一条天皇の寵愛を彰子が得る為に、この源氏物語が利用されたらしい。この源氏物語が、一条天皇と彰子中宮の仲を取り持ったと伝わっている。

 確かに、光源氏が様々な女性との恋物語を展開していくストーリーは、読む人の心をときめかせたに違いない。男女の仲が、魅惑的な恋物語を共通話題にして深まるというのはあり得ることである。それも、不義密通や呪縛による殺人というセンセーショナルなストーリーである。一条天皇と彰子中宮との夜話は盛り上がったに違いない。藤原道長は自身の出世と権力掌握の為に、紫式部と源氏物語を利用したとも言える。とは言いながら、この源氏物語が多くの人々の共感を呼び、大きな感動を与えたのは間違いない。

 という事は、光源氏の気持ちが当時の人々にも共感できたので、フィクションとは言いながら現実にもあり得ると当時の読者が思えたのであろう。つまり、光源氏が母親の愛情に飢えていて、その満たされない思いや生きづらさをエネルギーにして、異性を虜にする原動力になったと読者も感じたのである。権力への飽くなき追求も、母親から愛されなかった思いを政治に反映させたのだと読む人を共感させたのだ。愛着障害による影響が強く出て、あまりにも激しい生き方や行動をさせた人物を紫式部が描き、それが世の中に支持されたのだ。

 愛着障害は、大人になってからも生きづらさや辛くて苦しい人生を強いてしまう。平安時代においても、既に愛着障害によって人生を狂わされた人々が貴族にもいたのだ。愛着障害を抱えた人々の中で、現代の日本においても光源氏のような生き方をしている人物も少なくない。愛着障害が根底にあり、政界での権力闘争でしか自分を表現できないからと、政界でトップに上り詰めた人物もいる。愛着障害を抱えるが故に、性被害の加害者になる人もいるし、リスクある行動をして被害者になってしまうケースもある。源氏物語は愛着障害のものがたりだと言えるし、現代人の生きづらさにも通じる名作だと言えよう。

夫婦の相性が最悪だったと後悔する訳

 ピッタリの相性だと思って結婚したのに、いざ一緒に住んでみると、どういう訳か思い違いだったと後悔する夫婦がなんと多いことだろう。中には、仲睦まじく一生添い遂げるカップルもいない訳ではないが、そんなケースはごく稀である。殆どの夫婦は、こんな筈じゃなかったと後悔する日々を送っている。結婚する前は、この人だったらお互いの価値観や性格は申し分ないからと、結婚に踏み切ったのである。ところが、結婚生活を送るうちに、何でこんなにも相性が悪いのだろうと後悔するようになり、その思いが益々強くなるのだ。

 中には、もう我慢できないと離婚したり別居したりするカップルも少なくないし、そこまですると世間体が悪いと我慢して、家庭内別居や仮面夫婦の日々を送る人が殆どである。どうして、こんなにも相性が悪い結婚相手を選んでしまうのであろうか。どうやら、脳科学的もしくは遺伝子学的に考察すると、敢えて相性の悪い相手と結婚して子孫を設けようとするのが生物としての本能らしい。動物どうしのカップルでも同じことが起きるのであるが、人間の場合はもう少し複雑であると共に、より深刻な相性の悪さを抱え込むらしい。

 それが証拠に、何度も結婚を繰り返してしまう人が多い。一度結婚に失敗したとしたら、二度目はより慎重になる筈である。ところが、二度目も失敗すると、三度目も同じように結婚生活が破綻するのである。こんどこそは上手く行くはずだと思って結婚したら、やはり最悪の相性だったと後悔することになるのだ。離婚する原因は、性格の不一致だとするケースが殆どである。つまり、夫婦の性格は不一致になるのが当たり前なのである。相性が最高で、仲睦まじく過ごして一生を過ごす夫婦なんて、例外中の例外なのである。

 さて、寄りによってどうして相性が最悪の結婚相手を選んでしまうのかを、遺伝子学的と脳科学的に考察する。人間という生物は、より優秀な遺伝子を持ち生命力が誰よりも強い子孫を残すという宿命を負っている。自分の遺伝子を後世に残すには、自然淘汰されず生き残っていくような心身がタフな子孫を産み育てなければならない。社会の荒波にも負けずに、様々な生存競争にも打ち勝つ遺伝子を持つ子孫を作ることが必要なんだと、無意識のうちに認識している。その為には、自分とはまったく違う遺伝子を持つ異性を選ぶのである。

 つまり、自分と同じような遺伝子どうしの異性を選んでしまうと、遺伝子の多様性という面では少々物足りなくて、いざという極限状態が起きた時に生き残れなくなるのである。例えば、精神的に繊細で感受性が強過ぎて神経があまりにも過敏な女性がいたとする。そういう女性が、同じようにセンシティブな男性を選んで結婚したとする。そうすると、子孫はより強いセンシティブなパーソナリティを持つことになり、このあまりにも思いやりがなくて平気で相手を傷つけるような社会では、生きて行けなくなってしまうのである。

 その為に、センシティブな女性はどちらかというと鈍感で空気の読めないような男性を結婚相手に選んでしまうのである。その逆のケースもあろう。精神的にか弱い男性が、物事に動じない強いメンタルを持つ女性に惹かれることもある。だから、昔から『破れ鍋にとじ蓋』という諺があるのだ。自分にない遺伝子を持つ相手を、どうしても選んでしまうのである。特に女性は、出会って僅か数秒で遺伝子の違いを体感するというのである。これが、一目惚れである。そして、結婚してからことごとく意見が違う事に気付くのである。

 こんな最悪の相性を持つ伴侶を選んでしまったら、どうしたら良いのであろうか。離婚するという選択肢もあることにはあるが、違う相手を選び直してもどうせまた相性の悪い相手を選んでしまうのだから、諦めて家庭内別居とか仮面夫婦を演じて過ごすという選択肢もある。それは寂しいと思う人も多いかもしれない。所詮、どのような夫婦も同じようなものなのだから、割り切って過ごすのもありかもしれない。ちょっと親切なお隣のおじさん(おばさん)だと思って生活するも良いし、宇宙人と暮らしていると思えば腹も立たない。どうしても、相思相愛の恋愛をしたいと思うなら、あまり薦められないが伴侶以外の相手しかいないだろう。

善きサマリア人の法

 善意からの行為をして、結果として善意の効果をあげることが出来ず、訴えられてしまうということがたまに起きてしまう。大丈夫だよ、心配いらないよ、良くなるからねと不安を払拭して安心させるために言ってあげた言葉が、効果がなかったのはあなたが悪いからだと責められるというケースは少なくない。だから、余計なことをして恨まれるのが恐いからと、あえて善意の手助けをしない人もいる。この善意からの行為をして、その結果がどうなろうとも善意の行為者は罪を問われないというのを『善きサマリア人の法』という。

 この善きサマリア人の法というのは、イエスキリストが語った話が元になっている。ある人が強盗に遭い、倒れているのを通行する人々は誰も助けようとしない。とあるサマリア人が通りかかり、そのサマリア人だけが被害者の救護に当たったという話である。そこから転じて、救護が必要な人に出会い、救護行為をする中で例え悪い結果を招いたとしても、誠実に懸命な努力(善管注意義務を怠らずにした行為)をしたなら、罪には問われないと規定する法律のことを指すようになった。実際に法制化されている国々も存在する。

 残念ながら日本では法制化されていないが、アメリカやカナダなどでは、法律として制定運用されている。民事的な責任も、刑事上での罪にも問われないと規定されている。日本では、民事的な請求が棄却できるという規定があるものの、刑事訴追までの免責は規定されていない。したがって、日本において救命措置が必要な場面に出遭い、医師の類似行為を民間人が行って、救命措置が成功したとしても、医師法違反になり刑事訴追をされることは免れないということである。理不尽だと思うかもしれないが、法治国家とはそういうものだ。

 善意の行為であり、無償の行為でもあるのだから、許されるべきだと考える人が殆どであろう。しかし、実際には医師法違反として厳しく罰せられる。それが法治国家としては、正しいのである。とは言いながら、減刑はされるだろうし、おそらく執行猶予判決になるのは間違いない。だとしても、前科持ちになってしまうし、SNS上で偽善者じゃないのとか謂れのない批判にさらされることもある。見ず知らずの人の為に、そんなリスクを負ってまで善意の行為をするのは、馬鹿らしいと思うのが当然である。

 善きサマリア人の法は制定されるべきだと主張する法律家が少なくないが、そんな法律が出来てしまうと、逆に名誉や賞賛を得ようとして、とんでもない行動をする人が増えかねないと心配する専門家も存在する。今は、何でもかんでもSNSで発信する時代である。SNSでバズることで得られるCM料欲しさに、知識も乏しいのに医師の真似事をするような人が増えてしまうと心配する人も多い。確かに、善意の行為というのは、純粋に人助けだけをする人だけがする訳ではない。名声を得るために偽善的行動をする人だっているのだ。

 善きサマリア人の法を国の法律として制定しようとすると、本来の意義に反しないようにするために、いろいろな制限を加えなければならないようである。しかし、そんな制限を加えるということは、本来の趣旨に反するような気がする。元々、善良なる市民を守るための法律なのに、偽善者や裏心を持つ人がいるという前提を基に法律を制定するというのは、とても悲しい気持ちにさせられる。元々、キリストだってサマリア人を賞賛する意思もあったが、見て見ぬふりをして通り過ぎる人の悪意について述べたかったに違いない。

 目の前で虐めを見ても、それを見て見ぬふりをしているのは、共犯と同じだと主張する人もいる。公共交通機関の中で、強面の屈強な男性がか弱き女性に絡んでいるのを、傍観するのも許せないと糾弾する人もいる。確かに、それは卑怯な行為だと言える。しかし、自分に攻撃が向かうかもしれないという恐怖に打ち勝てる人は、そんなに多いとは思えない。一人で立ち向かうのは空恐ろしい。こういう場面で、救護をしないと社会的に罰せられる、欧州のような社会通念が望まれる。そして、日本でも勇気を振り絞って善きサマリア人の行動をする人がいたら、一緒に行動をしてくれる人が出てくることを期待したい。

※イスキアの郷しらかわで、心身を病んだ方々の救済活動を実施していると、なかなか結果が出ない方から責められることもないとは言えない。長い期間に渡り心身をやられてしまわれた方は、癒されるのに時間がかかる。ましてや、複雑性PTSDのように何度もトラウマを経験して、ポリヴェーガル理論における背側迷走神経の暴走によりフリーズ・シャットダウン化が起きた方は、一筋縄ではその凍り付き状態から抜け出せない。そして、不安感・恐怖感からHSPになって起きた症状なので、安心させるために大丈夫だよ、良くなるよと不安を取り除けるように声掛けをするから、良くなる傾向がみられずあせって、支援者を責めることもある。それでも、くじけずあきらめず善きサマリア人のように粛々と救助にあたっていきたいと思っている。

甘えていいんだよ

 世の中には、間違った子育ての理論が横行していて、それを信じて教育した為にとんでもない子育てをしているケースが多々ある。その最たるものは、子どもを甘えさせ過ぎて育てると、依存性が高くなり自立できない子どもになってしまうという間違った教育論である。この教育の理論に毒された親たちは、子どもに甘え過ぎないよう、依存させないようにと、厳しく育てるという大変な誤謬を犯すことなる。そして、そのように育てられた子どもは、やがて自尊心が育たないばかりか、自己の確立は出来なくなり、臆病な大人になるのだ。

 この間違った子育て論は、どのようにして広まったのであろうか。または、誰がこんなとんでもない子育て論を考え出したのであろうか。おそらくは、明治維新以降の近代国家へと変貌を遂げる頃に、富国強兵策の一環としての教育理論だ。為政者にとって都合の良い国民を育てる為の教育制度として提唱されたものではないかと考えられる。つまり、明治維新後に欧米から近代教育制度を取り入れて、子どもを甘えさせずに依存させることなく育てることで、為政者にとって支配しやすく従順な国民を輩出しようとしたのではなかろうか。

 我が子をとことん甘えさせると甘えっ子になってしまうと、殆どの日本人が思っている。また、あまりにも子どもを親に依存させてしまうと、依存性のパーソナリティを持つ大人になってしまうと考えている。実は、まったく逆の結果になってしまうということを、殆どの親が知らないのである。人間という生き物は、極めてか弱い生き物であり、乳幼児期は誰かの庇護の元でしか生きられない。したがって、乳幼児期の子どもは親にしっかり守られているという安心感がないと、不安で一杯になってしまうのである。

 三つ子の魂百までもという諺がある。三歳ころまでの子育てがこそが、健全な大人に育つために大切だという戒めである。この三歳の頃までに、徹底して甘えさせて依存させてあげないと、子どもは深刻な不安感や恐怖感を抱えてしまい、やがて思春期を迎える頃になると、社会に適応できなくなることも少なくない。大き過ぎる不安や恐怖感から、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)になってしまい、二次的症状として発達障害やパニック障害、PTSD、気分障害などを発症しやすい。不登校やひきこもりになってしまうことも多い。

 不登校やひきこもり、社会に対する適応障害などを起こす子どもは、親が過保護にしたからだとか甘やかし過ぎたからだと言われることが多い。また、犯罪をした青少年を、さも家庭の事情を知っているかのように、親が過保護で育てた、または甘やかしたからとんでない若者にしたと批判する。しかし、それは完全な間違いである。中途半端に甘えさせて依存させたからであり、どちらかというと「良い子」に育てようと、厳しい干渉と介入をし過ぎたからである。甘えさせるのと干渉とはまったく違うのである。

 乳幼児期に、子どもをありのままにまるごと愛するということを徹底して実行して、なるべく干渉を避けて、子ども自身の判断・決断・実行を自らができるようにそっと見守る姿勢が大事だ。その為には、どんなことがあっても親が敢然と子どもを守る、けっして見捨てないし否定しないということをコミットして実行することが肝要だ。そうすることで、子どもは安心して社会に出て行くことが可能だし、精神的にも経済的にも自立できる。子どもが自我の確立をして、その後自我と自己の統合をするには、このような発達段階を踏む必要がある。

 この世の中には、ひきこもりの青年たちが思った以上に多い。その青年たちは押しなべて、親に心から甘えることが出来なかった若者である。中途半端には甘えさせたが、十分に甘えることが出来なかったし、甘え下手なのである。無理して、自立したかのように見せて、親の期待に応えるべく良い子を演じてきたに過ぎない。豊かな愛情をかけ過ぎて、子どもが駄目になることはない。厳しい干渉や介入をし過ぎて、子どもが自立出来ずに社会不適応を起こすケースが非常に多い。親自身が甘えて育ってないから、甘えさせることも出来ないのである。もう一度徹底して甘えさせる子育てをし直したら、親子共に癒されるに違いない。

※ひきこもりの青少年をずっと支援させてもらってきました。その際に、「私に、徹底して甘えていいんだからね、依存してもいいんだよ」と伝えています。「どんなことがあっても見捨てないからね」とも伝えます。そして、甘え下手で甘えさせ下手の親も同じように支援します。そうすることで、ひきこもりの青少年たちは、十分に甘えることが出来て、安全基地を得ることで安心して社会に巣立っていくことが出来るのです。大人になってからでも遅くはありません。甘え過ぎるくらい甘えさせることで、人間は自立に向かって進み出せます。

人間の生と死を決めるミトコンドリア

 ミトコンドリアという名前だけは知っているという人は多いと思われるが、その詳しい機能や役割を正確に認識している人は極めて少ないのではないだろうか。中学校や高校における生物学でミトコンドリアのことを学んだ経験もあるとは思うが、その正確な知識を得た訳ではない筈だ。このミトコンドリアという生物は、まだまだ解らないことが多いし、最近になってようやく解明されてきたことが多いからである。ミトコンドリアの最新の情報においては、人間にとって重要な役割と機能を有している事が判明したのである。

 ミトコンドリアとは、人間を動かしているエネルギーを産出する重要な役割を持っている。人間の生命維持に必要なATPエネルギーを作りだしているので、ミトコンドリアが正常に機能しなくなると人間は生きて行けなくなる。ATPはご存知のように、アデノシン3リン酸のことで、生命体を動かす電気エネルギーを産出する。なんと、その電圧は1ボルトにもなると言われている。そんなすごい働きをすることも驚きだが、その機能をずっと維持継続しているというのだから、偉い働き者なのである。

 最新の生物学研究によって、ミトコンドリアのもっと重要な働きが判明してきた。そもそもなのであるが、ミトコンドリアはひとつの生命体であり、誰にも命令や指示も受けることなく、人間の生命維持をコツコツと自らの意思で進めている。誰からも評価されることなく褒められることもなく。人体の各細胞と同じで、自己組織化する働きがあるということである。内発的動機とも言えるが、主体性、自発性、自主性、責任性、自己犠牲性、成長性、進化性などを持つのだ。電気エネルギーを作るだけではないのである。

 ミトコンドリアが酸素を取り入れてATPの電気エネルギーを作ることにより、活性酸素が増える。そうすると、活性酸素によって不活性化するミトコンドリアが出来ることがあるらしい。この不活性化してしまったミトコンドリアが分裂して、活性化しているミトコンドリアと不活性化したミトコンドリアに分裂する。不活性化しているミトコンドリアは、オートファジー機能が働いて分解されて再利用されるのである。融合と分裂が繰り返され、ミトコンドリアどうしが助け合うのだ。この働きをミトコンドリアダイナミクスと呼んでいる。

 さらに、ミトコンドリアにはこんな働きがあることも判明している。ミトコンドリアには好調に活動しているミトコンドリアと、不調なミトコンドリアがあるのだ。そして、不調なミトコンドリアが増加してしまい、ある基準以上に増えてしまうと、病気になるということも解ってきた。そして、その不調なミトコンドリアの割合が限度以上に増加すると、癌などの死に至る疾病になるのだという。つまり、健康になるのか病気になるのかは、ミトコンドリアが握っているのである。ミトコンドリアは人間の生と死を決めているのである。

 つまり、ミトコンドリアを好調なままに維持できることが可能なら、病気になることもないし老化も防げるということだ。健康で長生きするには、ミトコンドリアを本来の機能を持てるようにすれば良いのである。その為には、活性酸素をなるべく出さないようにする事が求められる。つまり、ミトコンドリアがATPを産生させる際には、酸素だけでなくて水素イオンを過不足なく提供することが必要となる。実は、その水素イオンをミトコンドリアに提供している生命体があるということも判明している。

 それは、ソマチット(ソマチッド)という極小生命体である。このソマチットという生命体は、ミトコンドリアが発生する前の25億年以前から地球上に存在していたらしい。ミトコンドリアが健康で活性化する為には、このソマチットが欠かせないという。そして、このソマチットが活性化の状態にあれば、ミトコンドリアも酸化することもなく、ATPを過不足なく提供できて、人体も健康でいられるということだ。どうやら、このソマチットが劣化してバクテリアのように巨大化すると、免疫が下がって癌などが発症することが判明している。ソマチットとミトコンドリアの良好な共生こそが、人間の生と死に関わっている。

※ミトコンドリアを良好な状態に戻す効果がある食料やサプリが知られていますし、適切な運動があることが解っています。ところが、このソマチットという生命体を健康的な活動をする原始相にする食べ物やサプリは、まだよく解っていません。これからの研究によって、ソマチットをバクテリア相から原始相に復活させるようなものが発見されて利用されるようになると、人間は健康で長生きできることになります。癌などの深刻な病気を抱えている方に、ソマチットを活性化するための様々な方法を、イスキアの郷しらかわでは無償にて個別にお伝えしています。問い合わせフォームからお問い合わせください。

SNS批判コメントは人殺しと同じ

 兵庫県の元県会議員が、SNS上で攻撃を受け続けたあげく自殺してしまった報道は、社会を震撼させた。自殺した原因が、果たしてSNS上での批判攻撃なのかは定かではない。しかし、多くの報道機関やアナリストたちは、謂れのない批判や否定をされ続け、自身の身の危険や家族の身辺にもで危険が及んだことで、県議を辞職したと推測している。辞職した後も執拗に攻撃され続け、しまいには警察に逮捕されるというありもしないフェイクニュースまで拡散され、もはやこれまでと悲観して自分自身を追い込んだあげくの自死と見ている。

 どうして、嘘の情報まで流し続けて元県議を攻撃をしたのか、実に不思議であるが、自死を遂げた後も嘘の情報を流して名誉までも傷付けたというのは、許せない鬼畜の所業である。そこまで元県議が憎かったのか、それとも徹底して追い落とさないと、やがて自分が攻撃されかねないと怖れたのか解らないが、まさしく人殺しと言われても反論できないであろう。日本人というのは、本来はもっと思いやりや分別があるかと思っていたが、優しさのかけらもない人間が増えてきたのかもしれない。情けないことである。

 SNSの世界は、実に恐ろしい。ロマンス詐欺や投資詐欺が横行しているし、フェイク情報が政治の世界を捻じ曲げることも日常茶飯事に起きている。アメリカの大統領選挙しかり、兵庫県知事選挙もしかり、嘘の情報があたかも真実のように大量拡散してしまい、選挙結果まで変えてしまうという時代なのである。今回の衆議院選挙でも、同じようにSNSやユーチューブのフェイクニュースが駆け回って、選挙結果にかなりの影響を与えていた。日本人も含めて、人間と言うのはSNS上に流れている情報を鵜呑みにしてしまうらしい。

 だからこそ、SNS上に流れた情報の真贋を確認せずに、殆どの人が無条件で信じて拡散してしまうという愚行を犯してしまうのだ。そのような個人の批判的・否定的な情報を最初に掲載した人間は罪深いが、それを無条件に拡散する人間にも大きな責任がある。ましてや、批判的・否定的な嘘の情報によって、該当被害者のメンタルが傷つけられてしまい、立ち直れないようなトラウマや精神疾患を起こしたとすれば、傷害罪にも該当すると言える。勿論、それを拡散した人間もまた同様の罪で訴えられることもあるということだ。

 もし、個人に対する批判的・否定的な情報アップやコメントによって、当該者が自死に追い込まれたとしたら、犯罪として立証されるかどうかは別にして、人殺しとして糾弾されても反論できないだろう。この否定的・批判的情報やコメントの拡散をした人々も道義的には人殺しの誹りを免れない。もしかすると悪質的な情報アップと拡散行動に対しては、犯罪として立証される怖れも十分考えられるし、少なくても損害賠償をされるリスクは非常に高い。社会的に『人殺し』の批判を受ける可能性が高い。その情報が嘘かどうかは関係ない。

 今回の元兵庫県議に対する嘘の情報を流した本人も、立派な人殺しであると思う人も多いことだろう。そして、その情報に対して同意のコメントを載せた人も同じく人殺しだと糾弾されても仕方ないし、無条件に情報拡散した人々も人殺しだと批判されるであろう。もう、こんな悲惨な出来事を二度と起こしてほしくないものである。SNS上のことであり、実名をさらしてないから自分が特定されることがないと安心しているかもしれないが、そんなことはない。SNSやユーチューブのコメントや拡散には、足跡がしっかりと残っている。

 つまり、インターネット上には訪問しただけでもアクセスログが残るし、コメントやシェアーをすればその人のIPアドレスが特定できる。複雑な海外サーバー経由だとしても、ある程度の特定は可能なのである。削除したとしても、足跡は消せない。損害賠償の請求は可能なのだ。フジテレビの元アナウンサーに対するセカンドレイプが盛んであるが、名誉棄損の訴訟を起こされたり、慰謝料や損害賠償を請求されたりすることもあり得るのである。殺人罪での犯罪立証は難しいとしても、名誉棄損罪は立証される。本人を特定して民事訴訟が可能であるし、自分がSNS上で批判される対象者になり得るということだ。人の命に関わることだから、軽々しく批判したり否定したりすることを控えるべきであろう。

老害とはすさまじきもの

 老害はすさまじきものである。現代日本におけるすさまじいという形容詞とは意味が違う。平安時代に使われていた意味であり、現代訳すれば、不似合いなもの、興ざめするもの、出来ればあっては欲しくないし見たくはないもの、という意味であろう。著名な随筆である枕草子の中で、清少納言が書いたすさまじきものというのがある。まさしく、老害というのはすさまじきものと言えよう。最近、ある全国ネットの某テレビ会社での老害が話題になっているが、これこそがすさまじき老害の典型と言えるのではなかろうか。

 このテレビ会社では、87歳にもなった取締役相談役が、今もなお絶大な権力を保持していると言われている。何故、一人の取締役相談役がそんなにも強大な権限を有しているのか不思議である。代表権を持つ社長や会長もいて、取締役会だって開催しているし、表面的には株式会社として機能しているかのように思える。しかし、相談役はかつての天皇家が院政を敷いたように、今でも会社の人事権を持っていて、他の取締役は逆らえないというのである。なにしろ、30年余りに渡りそのテレビ会社を絶大なる権限で掌握しているというのだ。

 87歳になった今でも、かくしゃくとしているといえども、こんな高齢で会社の重要決定と進路を決めているというのならば、空恐ろしいことである。個人差のあることだから一概には言えないが、人生70歳を越えれば記憶力や判断力、そして決断力が衰えるものだ。ましてや80歳を過ぎたら、益々能力は低下する。いくら若い時から能力は低下していないと強弁したとしても、加齢による影響は大きい。故に、定年制がある。取締役には定年がない。だからこそ、高齢になった役員は自らの進退を決めるべきなのである。

 政界もまた、老害がはびこっている。高齢の元総理とか派閥の領袖が影のキングメーカーとして君臨している。一国の政治を担うトップが、老害のすさまじき政治家によって作り出されているとしたら、国の行く末も危ういと言える。高齢者が働いてはならないとは思わない。ひとりの技術者や労務提供者、または助言者や技術指導者としての任務なら、まったく問題はないだろう。しかし、管理者やトップ経営者は避けるべきである。高齢になると、どうしても謙虚さを失うし、柔軟性や発想力は著しく衰える。瞬発力は消滅する。

 高齢者は、おしなべて頑固である。固定観念や既成概念に縛られる傾向にある。どんなに説得されたとしても、けっして自説を曲げないし自分が正しいと言い張る。自分の非を認めず、問題が起きたのは他人のせいにしたがる。今回の某テレビ会社の相談役も、あれだけ騒がれて自分のせいで有名企業各社がCM見合わせをして会社が大打撃を受けているのに、辞めようとしないのは呆れるばかりだ。持ち株会社の大株主から辞任を突きつけられても、平気で居座るというのは、空恐ろしささえ感じる。他の取締役に、矜持は存在しないのか。

 このテレビ会社の相談役、そして政治家や企業経営者たるもの、所属している組織や国民に対して、老害を与えてはならない。自分の引き際こそ、大事だ。後進が育つまでは自分が引退することが出来ないと主張する高齢者がいる。確かに、すべてを任せるには心配なケースもあろう。しかし、自分と同じレベルまで後進が育つのを待ってから引退するのでは、一生辞めることができない。何故ならば、任せられないと育つことが出来ない部分があるからだ。すべての責任を持つという立場にならないと、人間は成長できないのである。

 人間には、自己組織化(内発的動機等)が生まれつき備わっている。誰でも、この自己組織化を自分の力だけで成し遂げられるのかというと、そうではない。いろんな人生の師や所属組織、そして関わり合う人々によって、育てられる点がある。ましてや、責任性や自己犠牲性というものは、責任ある代表管理者という立場にならないと、身に付かないと言える。そして、老害になってしまうような高齢者の立場になると、その心地よい地位にしがみつき保身に走り、責任性や自己犠牲性を発揮しなくなるのである。だからこそ、自らの判断で老害を食い止めなくてはならないのだ。すさまじき人だと後ろ指さされないように。

御上先生のようなキャリア官僚に期待

 TBSテレビの新ドラマ『御上先生』が熱い。文部科学省に在籍する国家公務員総合職、いわゆるキャリア官僚が民間高校に出向するという、通常ならあり得ない設定で展開する物語である。松坂桃李がその主人公を演じている。その私立高校とは、東京大学の合格者を多数輩出している名門の私立高校である。高校3年生のクラス担任として赴任するのであるが、問題ある生徒や先生に反発する生徒たちをどう指導教育していくのか、期待が高まる。それにしても、御上先生のような高い志を持つキャリア官僚は実際にいるのだろうか。

 私たちが想像するキャリア官僚像とは、上司に媚びへつらい政治家のご機嫌取りをして、他のキャリア官僚とひたすら出世競争をする人たちというイメージを持っていた。一般職の官僚たちを見下しているし、建前は国民のためにと言いながら、ひたすら上級国民を目指しているような官僚であるように思い込んでいた。もしかすると、そういうキャリア官僚もいるだろうが、大多数のキャリア官僚は高い価値観を持って、国民の福祉向上と幸福を追求しようとひたすら頑張っているのかもしれないと思い直したのである。

 まさに、御上先生は官僚のお手本になりうる高い価値観を持って、子どもたち本位の教育制度に改革しようと奮闘努力をしている。こんな官僚が増えてくれれば、日本の教育制度の改革も進むという期待が持てる。しかし、残念ながら出世するようなキャリア官僚たちは、上司である官僚幹部や族議員の顔色を窺い、自分の主義主張さえ抑え込んで上司や政治家に忖度してしまうのである。それは、自己保身からすることなのだが、本来の公僕としての役割とはかけ離れている。憲法で規定している、国民に奉仕する役割を忘れているのである。

 キャリア官僚というのは、本来の業務以外の役割が与えられている。それは、政治家が国会での質問に対する答弁用原稿を作成するという役割が与えられている。官僚がすべき仕事ではないのに、この仕事の負担があまりにも大きく、官僚に多大なストレスを与えている。この業務は上級官僚だけのものではない。県の職員も市町村の職員でも、首長の答弁用原稿の作成も命じられている。時間に追われるので、深夜まで及ぶ時間外の業務なので、身体的負担も大きい。自分で作成する能力がない政治家の為に、余計な仕事を命じられるのである。

 そんな余計な業務や、政治家や上司に対するあまりにも過ぎる忖度までしなければ、組織の中で生きて行くのが難しい割に、得られるものが少ない官僚の人気が著しく低下している。昔は、天下りが許されていて、その報酬をも含めると生涯所得が、大企業に勤務した社員のそれと遜色なかったが、天下りが制限されている現代では、官僚を志す若者が減ったのは当たり前だと思う人が多い。しかし、キャリア官僚を志すほどの学業優秀な人間が、所得の多い少ないで進路を決めるというのは、実に情けないことである。

 御上先生というのは、そんな損得や利害でキャリア官僚になった訳ではない。あくまでも、国民の豊かさと幸福をどうしたら実現できるのかということを真剣に考えているキャリア官僚である。つまり、官僚たるものはこうあるべきだという理想像を描いている。勿論、御上先生の価値観と正反対の自利を追求する、低劣な価値観を持ったキャリア官僚も登場する。文科省におけるキャリア官僚は、全国の教職員の指導と管理も間接的に実践している。日本の学校教育の将来像をどうするかのビジョンも作成しているのである。

 日本の教育には問題や課題が山積みとなっている。青少年たちの不登校やひきこもりが増えているし、小中高生の自殺が急増している。教職員の不祥事や不適切指導があまりにも多いし、教員がメンタル疾患を抱えて自死を選ぶケースも多々ある。これだけ多くの問題が次から次へと起きるというのは、教員としての資質がそもそもない人を教職として採用した側に瑕疵があるのは間違いない。性被害事件を起こすような問題教師を現場に配置するとか、校長・副校長の管理職に不適格者を登用するというのは、あり得ないことである。御上先生のような文科省のキャリア官僚に、抜本的な教育改革を実行してもらうしかない。

女性性と男性性を統合する方法

 前回は女性性と男性性の統合について考察した。もう少しこの統合について補足してみたいと思う。仏教の世界において、女性性と男性性を代表する仏像は何なのかと言うと、女性性は観音菩薩であり男性性を表すのは不動明王であろうか。また、女性性を表す仏像としては愛染明王をあげる人がいるかもしれない。男性性を表す仏像として、毘沙門天などの四天王を思い浮かべる人がいるかもしれない。さらには、女性性を代表するのは慈悲の世界に君臨する阿弥陀如来であり、男性性を代表するのは薬師如来だとする人も多いだろう。

 現役の僧侶であり寺の住職で、芥川賞作家の玄侑宗久氏は、人間として生きる上で阿弥陀如来と薬師如来の良さをバランス良く発揮することがとても大切だと説いておられる。まさしく、女性性と男性性の統合を上手に言い表していよう。ありのままで素晴らしいのだいう慈悲の心を持つ阿弥陀如来と、こうありたいものだと強く願い成長進化を常に追い求める薬師如来を、一人の人間にバランス良く取り入れて生かすのは、まさに女性性と男性性の統合だと言える。女性と男性もこのような生き方をしたいものである。

 女性性というのは、無条件の愛である母性愛とも言い換えられるし、男性性というのは条件付きの愛である父性愛だとも言える。子どもが身も心も健全に育成していくうえで、母性愛と父性愛は共に必要である。この母性愛と父性愛を共に発揮して人々をお救いする為にこの世に遣わされた仏像がある。それが両頭愛染明王である。お身体は愛染明王であるが、愛染明王の頭の部分と不動明王の頭の部分の両方を持つ仏像なのである。現存する仏像や仏画は極めて少ないが、これがまさしく女性性と男性性の統合を成し遂げた御姿であろう。

 さて、いよいよこれからは女性性と男性性の統合を実現する方法について述べてみたい。女性性と男性性の実際の知識と大切さを頭で理解したとしても、その能力を身に付けることは難しい。実際に何度も体験してみないと身に付かないし、その能力を発揮できない。だからこそ、男性も家事育児に積極的に取り組むべきだろうし、女性も社会進出を果たして活躍することが求められる。とは言いながら、それを義務感や使命感を優先して取り組んではならない。あくまでも、家事育児や社会貢献を心から楽しんで生きがいにできるレベルまで到達しなくてはならない。

 具体的に述べると、男性が料理や掃除を極めてプロの領域にまで到達しないと、それが楽しいというレベルまでは行けないし、子育てをすることによって自分自身の成長が実感して仕事に生かせると確信するレベルまで到達しないと、女性性を身に付けたとは言えないのである。女性も、仕事が楽しくて自己実現の可能性に気付かされるレベルまで行かないと、男性性が身に付いたとは言いにくい。そうでなければ、女性性と男性性の統合なんて、到底おぼつかないと言える。とは言いながら、置かれた環境もありそれは非常に難しいことではある。

 統合が実現するかどうかは別にして、男性が日々努力をして家事育児に勤しむ、女性が社会における活躍を目指して資格取得の勉学に励んだり仕事の効率化を提言したりすることは必要であろう。そうした努力をコツコツとするプロセスこそが大事なのであり、頭で考えて行動をしないというのは統合の実現が遠ざかるだけである。また、何よりも大切なのは体験することにより、女性が日々淡々と果たしている役割、男性が日々組織の中で苦労している役割、どちらも体験することでお互いの大変さを深く認識することは大切だ。

 その大変さに共感することが、女性性と男性性の統合の第一歩ではなかろうか。体験しなければ見えないことである。もうひとつ女性性と男性性の統合をする手助けになる行為がある。地球交響曲(ガイアシンフォニー)を撮った監督である龍村仁さんが、地球のささやきという著作で述べられている。女性と男性がお互いの男性性と女性性を強く感じて、それをまるごと受容して寛容することは、性的な交わりにおいて実現すると。柔軟で極めて薄くてもろい皮膚1枚での深い接触を通して、相手の女性性と男性性の素晴らしさを実感して、相手のすべてをまるごとありのままに愛するという瞬間に、統合が実現すると主張されている。いろんな意見もあるとは思うが、女性性と男性性の真の統合を実現したいなら、試してみる価値はあろう。

※いろんな誤解を産む怖れがありますので、補足説明します。女性性と男性性の統合には性的な交わりが必要不可欠だとは考えていません。あくまでも、統合に向かうためのひとつの手段として紹介しただけです。ましてや、相手に対する深い敬愛や心の結びつきが存在しない性の交わりでは、統合が成し遂げられる訳がありません。さらに言うと、快楽を一方的に求めるような行為は逆効果ですし、義務的な行為では心は開きません。身も心も開き、相手の嫌な処や醜い所も含めてすべて受け入れて、相手にこれ以上にない幸福感を与えるような交わりでないと、統合には向かわないと思います。勿論、自分の方のマイナス要素もすべて、相手にさらけ出す勇気も必要です。条件と心を整えることが出来たら、その行為の中で、宇宙との統合さえも実感できるのではないかと思います。

女性性と男性性の統合とは

 最近のスピ系SNS界隈で盛んに取り上げられているのが、『統合』というワードである。いろんな統合が論じられているが、その中でも大きくトレンド入りしているのが『女性性と男性性の統合』というワードである。いまさら何をと言う人々もいると思われるが、実はこの女性性と男性性の統合という概念を、正確に認識している人はけっして多くない。多くの誤解もあるだろうし、何となく理解していると思い込んでいる人は少なくない筈だ。女性性と男性性の統合なんて必要ないと豪語する男性もいるだろうが、それは間違いである。

 自己の確立を実現させて、大人としての立派な人格を形成して、人間としての成長進化を成し遂げる為には、女性性と男性性の統合は避けては通れないものなのである。言い換えると、女性性と男性性の統合を実現していない人は、人間として不完全だと言ってもいいだろう。さらに言えば、女性性と男性性の統合を実現するというのが、生まれてきた意味や生きるうえでの大切な命題ではなかろうか。だからこそ、女性性と男性性の統合ということの真の意味を知るべきだろうし、実現することが必要不可欠なことなのである。

 さて、女性性と男性性との統合とはどういうことなのであろうか。女性性とは、家事育児を上手にこなせるように、家族の気持ちや状態を把握できる為、感性や想像力を働かせられるようにとか、思いやりや共感力と傾聴力が発揮できるようにするという天賦の能力のことだと思っているであろう。一方、男性性とは家族を守る為に敢然と敵と対峙できる強い精神性や、社会悪に立ち向かう正義感、身を粉にして企業戦士となり社会貢献に寄与する強い使命感、そのための創造性や企画開発の能力という捉え方をする人が多いことだろう。

 そして、そのどちらをも大事だと思い、女性も男性もその女性性と男性性を豊かに取り入れて、身に付けて人生において発揮するということが統合だという意味だと思うに違いない。果たして、女性性と男性性の統合とは、それだけなのであろうか。そんな単純なことではなかろうし、そんなに簡単に女性性と男性性をひとりの人間が身に付けられると考えにくいし、もっと深い意味が隠されているような気がするのは自分だけではない筈だ。ましてや、女性性と男性性を見事に取り入れて、それを発揮できている人間が極めて稀なのである。

 つまり、女性性と男性性の統合の重要性を、真に理解している人は極めて少ないし、その価値を過小に評価しているのではなかろうか。だから、女性性と男性性の統合に、真剣に取り組んでいる人が少ないし、実現している人はほんの一握りしかいないのだ。女性性と男性性の統合とは、単なる能力の取り入れと発揮ではない。その統合により、人間としての新たな大きな価値を創造することなのである。男性性までも取り込もうと努力している女性は多いが、女性性をも身に付けたいと切に願う男性は極めて少ないのである。

 脳科学的に考察すると男性性と女性性の働きが理解しやすいかもしれない。平和と幸福、豊かな関係性と共感性を司る脳内ホルモンとして、セロトニンがあげられる。セロトニン神経は、組織内の人間関係を円滑にして協力体制や支援体制を築き上げるには必要不可欠なものである。一方、報酬系のホルモンであるドーパミンは、成果達成や子孫繁栄、組織統括管理や成長意欲にとって必要不可欠なものである。このドーパミンホルモンとセロトニンホルモンは、人間が生き生きと自分らしく人生を全うするには、共に必要なものなのである。

 セロトニンとドーパミンをバランスよく分泌させて、それを生活により良く生かしていくことが、人間として生きて行く為には必要であり、それがワークライフバランスにも繋がることである。このワークライフバランスこそが、真の男女共生の理想の姿であり、家族と言うひとつのシステムが良好に機能する大切な統合である。そうすると、この女性性と男性性の統合により、オキシトシンホルモンが十分に分泌されて、不安や恐怖感を払拭して、安心で楽しい社会が形成されるのである。これが統合による新たな価値の創造と言えよう。

※次回は、女性性と男性性の統合についてもう少し深堀りして、どうすれば実現できるのかについて考察してみます。