哲学を語れないのは父親失格

 小学生の高学年や中学生に対して、親が真面目に哲学の話をしても、けっして耳を傾けることはないと思っているに違いない。しかし、試しに子どもに哲学を語ってみてほしい。そうすると、意外に思うかもしれないが、子どもは熱心に哲学の話に聞き入るだろう。しかも、目を輝かせながら、時には涙を流しながら聞くのである。勿論、ただ単に哲学のエッセンスだけを語っても子どもは聞く耳を持たないかもしれない。あくまでも、物語化させた哲学を熱く語らなくてはならない。そうすれば子どもは生き生きとした表情を見せながら、その哲学的物語に耳を傾けることだろう。

 

 子どもは、基本的に哲学の話が好きなのである。何故かと言うと、人間というのは生まれながらにして、自分自身の哲学や価値観を求めているからだ。最新の医学的な所見に基づけば、人間の細胞どうしはネットワークによって連携している。さらに細胞は、ある意味哲学的とも言えるようなひとつの法則によって活動が行われていることが判明した。その法則とは、関係性の哲学であり、全体最適の価値観なのである。細胞は人体を網羅したネットワークを組んで、各種のメッセージ物質をやり取りしながら、全体最適を目指して活動しているのである。

 

 人間は、37兆2千億個からなる細胞で組成されている。当然、人間もまたその細胞の影響を受けているし、細胞そのものの哲学に反した活動をすると、深刻なシステムエラーを起こす。病気とか怪我もそのエラーのひとつであるし、家族崩壊や企業破綻などもシステムエラーである。親子や夫婦が破綻を起こすのも、関係性重視と全体最適の哲学を無視した生き方によるエラーである。子どもは純真で大人のように穢れていないから、関係性重視と全体最適の哲学を聞くと、すんなりと受け容れて感動するのである。

 

 この関係性重視と全体最適の哲学を『システム思考』の哲学と言う。このシステム思考のような正しくて高邁な哲学を子どものうちから父親は語って聞かせておかないと、子どもは大人になってシステムエラーを引き起こす。夫婦間における破綻、家族崩壊、企業破綻などを起こしてしまうからである。ところが、この哲学を語れる父親がいないのである。父親自身が哲学を知らないのだから、子どもに哲学を語れないのも当然である。父親が哲学を語って聞かせて、子どもが涙を流して感動する様を見たことがないだろう。

 

 子どもは哲学に飢えているのである。現代の学校教育では、先生が思想哲学の話をするのはタブーとなっている。終戦後、GHQは学校教育現場から思想哲学を排除した。天皇崇拝や全体主義につながると誤解した為である。今では、一部の大学にしか哲学科は残っていない。思想哲学の勉強をしても、全体主義には陥らないし、逆に全体主義には批判的になる。全体最適と全体主義とは、正反対の思想である。このような誤解があって、日本の教育から思想哲学が消えてしまい、哲学を知らない親たちは子どもに哲学を語れなくなった。

 

 父親が子どもに哲学を語れないというのは、由々しき一大事なのである。思想哲学と言う生きる上での道しるべというか航海における羅針盤が抜け落ちたまま大人になるのである。人生の大事な選択に際して、間違った生き方を志してしてしまうこともあるし、大きな過ちを犯すことも多々ある。こういう不幸な生き方を子どもにさせてしまったら、父親失格である。母親だって哲学を我が子に聞かせることが出来ると思うかもしれない。しかし、やはり母親では無理なのである。母親は、母性愛という無条件の愛で子どもを包むだけである。

 

 現代の父親が哲学を子どもに語れなくなったのは、本人の責任ではない。父親が自分の親から哲学を語って聞かせてもらえなかったからであり、学校教育で思想哲学を排除されてしまったからである。自分に責任がないと言いながら、子どもが不幸になるのは父親の責任である。とすれば、これからでも遅くないから、父親は正しくて高邁な哲学を学んで、子どもに語って聞かせるべきである。関係性重視と全体最適というシステム思考の哲学を、子どもに語って聞かせなくてはならない。父親失格の烙印を押されないように。

鬼滅の刃が人気なのはシステム思考だから

 鬼滅の刃の映画興行収入額が史上最高を記録した。コロナ感染症という特殊な事情があったとしても、アニメ映画にこれほどの圧倒的な人気を博したのは不思議である。それも子どもや若者のアニメファンだけでなく、大人や高齢者にも絶大な支持を受けた。多くの老若男女が鬼滅の刃に魅せられたのである。どうして鬼滅の刃が人気になったのであろうか。いろんな理由をマスコミや評論家は上げている。しかし、本当の理由はそれだけでないように思われる。鬼滅の刃が人気を博したのは、システム思考を描いているからではないだろうか。

 

 鬼滅の刃を見た人は解るだろうが、この物語は人間としての正しい生き方を説いている。思想・哲学的であるし、見る人に高い価値観を示している。こんなにも鋭く人生哲学を描いたアニメは他にないだろう。しかも、それが押し付け的でなく、見る人すべてが素直にその哲学を受け要れてしまうような描き方をしている。この鬼滅の刃に終始流れている思想・哲学は、関係性重視と全体最適である。人と人との絆を何よりも大切にしているし、個人最適ではなくて、全体に対する貢献と最適化を描く。つまり、システム思考なのである。

 

 システム思考というのは、この宇宙における万物の真理に基づく価値観である。私たちがこの世界に生きている意味であり、生きる目的でもある。我々人間も含めたすべての生きとし生けるものだけでなく、物体が物体として存在する理由でもある。鬼滅の刃は、それを鬼退治、そして家族愛と人類愛の『ものがたり』として表現している。私たちの住む宇宙はシステムそのものであり、我々の住む地球そのものがシステムである。あらゆる植物や生物もシステムであるし、人間もそして鉱物さえもシステムとして存在している。

 

 人間が関係するすべての組織はシステムである。家族、企業、団体、地域、国家、地球、宇宙すべてがひとつのシステムである。そして、人体もまたひとつの完全なネットワークシステムだということが、医学的・生物学的にも判明している。人体を組成する37兆2000億個の細胞は、それぞれが自己組織化する働きがある。そして、オートポイエーシス(自己産生)の能力を持つ。誰からも指示命令を受けず、ひとりでに細胞分裂をするし、お互いが関係性を持ち、全体最適を目指す。過不足なく、少しも誤りなく人体を組成し活動する。

 

 ところが、この人間の完全無欠な人体と精神は、時折システムエラーを起こす。あまりにも外部から介入され過ぎたり強く制御され続けたりすると、システムエラーを起こして健康を損なう。メンタルが障害を起こすのも同じ理由からだ。鬼滅の刃というものがたりでは、人間の社会システムが関係性を損ない、全体最適でなく部分最適を目指してしまい、自らの自己組織化やオートポイエーシスの機能を失ってしまった状況を映し出す。鬼どもが人間を襲って殺したり操ったりする恐怖の世界である。

 

 鬼が生き永らえて強くなるために人を喰らい、さらに人間を襲う社会が現われるのはシステムエラーを起こしていると言えよう。人間が鬼になってしまうのも、家族というシステムが崩壊しているからであろう。鬼滅の刃に出てくる鬼たちは、家族から愛されず見離されて絶望し、絆や信頼する関係性を見失っている。一方、鬼殺隊の柱たちは自分の犠牲を厭わずに、愛する者を守るために勇気を振り絞って鬼と闘う。その決心はけっしてぶれることがない。炭次郎も命を賭けて全体最適のために死闘を繰り広げる。自分の私利私欲や損得のために、人間を殺していく個別最適の鬼とは根本的に違うのである。

 

 鬼殺隊の柱たちの絆は強いし、その関係性が損なうことはない。炭次郎、善逸、猪之助の友情は、何よりも固く結ばれていて、その信頼関係は揺らがない。柱たちや炭次郎たちの心にはシステム思考の価値観が強く根付いているからに違いない。炎柱煉獄杏寿郎は、自分の命を投げうってまで、無限列車から人々を救い出した。これはまさしくシステム思考の哲学に支えられた行動である。システム思考とは、人間が正しく生きるための哲学である。多くの人々は、自分たちが本来持っているシステム思考の価値観を、鬼滅の刃を鑑賞することによって目覚めさせるのであろう。だからこそ、鬼滅の刃がこれだけ熱狂的に支持されて人気を博しているに違いない。

自己マスタリーとは

自己マスタリーという言葉は、あまり聞きなれないかもしれないが、とても大切で生きるには必要不可欠なことである。自己マスタリーを実現していないと、人生において間違った生き方をすることにもなるし、企業や組織への貢献が出来ないばかりか、社会的な存在価値を失いかねない。一人前の人間としての成長や進化ができなくなるのである。この自己マスタリーという言葉を生み出したのは、MITの上級講師ピーター・センゲという人である。学習する組織を確立するための5つのディシプリンのひとつが自己マスタリーである。

 

ピーター・センゲという人物は、システムダイミクスを学び、ビジネスにシステム思考を活用することを提案した。そして、学習する組織という書物を著し、5つのディシプリンを提起して、企業が発展して永続性を持つには、学習する組織にすることが肝要であると説いた。自己マスタリーを実現するには、根底にはシステム思考が必要だとも主張している。自己マスタリーというと、自己練達とか自己熟達と訳されるが、単なる技術や能力が熟練することではない。もっと深い精神面における自己確立のことを指している。

 

自己マスタリーとは、自己をマスターすることであり、自分自身を把握し深く認識するという意味でもある。自己という言葉にこそ意味があると思われる。我々は、自分のことをすべて理解していると誤解している。しかし、それはまったくの幻影であり妄想であると言える。おそらく日本人の中で、真の自己を理解し受容して、自己をマスターしているのは、ほんの一握りしかいないであろう。『自分』を理解している人はいるかもしれないが、『自己』を深く理解している人は、殆どいないと言っても過言ではないのである。

 

自己と対比されるのが、自我である。自我とはエゴとも言われ、どちらかというと自我が強い人はあまり好かれない。しかし、自我の確立は人間の成長期において必要なことであり、自我が確立されていないと自分を主張できなくなってしまう。反抗期というのは自我が芽生えてきて起きると考えられている。現代の子どもは、反抗期を迎えずに大人になってしまうケースが多く、愛着障害になってしまうことも少なくない。あまりにも親から執拗に介入され続けると、自我の確立がされない。

 

本来は、自我が確立されて、その後に自己が確立されるという経過を辿るのが望ましい。自己の確立というのは、自我と自己を統合させるという意味もある。自我と自己の両方をバランスよく発揮できると、自分らしく生きることが可能となる。現代の日本人は、それが出来ないで大人になっている人が多い。だから、自我が強過ぎてしまい、自己中や身勝手な人が多いし、自分の利益や損得しか考えない人も少なくない。個別最適しか考えず、全体最適の生き方が出来ないから、企業内、組織、家庭の中で孤立する。

 

自己マスタリーは、努力をすれば誰でもできるのかというとそうではない。自我と自己を統合すれば、自己マスタリーが可能になるという単純なものでもない。システム思考を身に付けるというのも大事であるが、それはマストでありイコールではない。どのように自己マスタリーを実現するかを説明するのに、『U理論』を使うと理解しやすいと考えられる。一旦Uの底まで落ちて落ちて落ち込んでしまい、自分の内なるマイナスの自己(エゴ)を徹底して認め受け容れることが必要となる。醜く穢れて私利私欲にまみれた自己を発見して、それを自己糾弾するのである。そうして初めて自己が確立できて、Uの底から浮き上がれる。

 

認めたくない酷いマイナスの自己を発見すると、人は愕然とする。だから、マイナスの自己は自分にはないものとして生きている人間が殆どである。こういう人間は、100年経っても自己マスタリーを実現できない。マイナスの自己を自分の心に発見して、とことん糾弾して、そのうえでマイナスの自己を慈しむことが求められる。そうすると、マイナスの自己をプラスの自己に転化させて、全体最適の価値観に基づいた生き方にシフトできるのである。マイナスの自己が大きければ大きいほど、プラスに転化したときのエネルギーは強大になる。自分の深い心を素直に謙虚に見つめることが出来る人しか、自己マスタリーを実現できない。

 

※自己マスタリーを実現するための学習・研修を受けたいと思う方は、イスキアの郷しらかわにご相談ください。コロナ感染症が収まれば、研修の受講をお受けします。資料や参考図書を紹介してほしいという方には、お知らせしますので問い合わせフォームからご相談ください。

ボランティアと偽善

今年の夏もNTV系列の24時間テレビが放映された。今回のマラソンは金メダリストの高橋尚子さんがランナーを務め、自らが走った距離に応じて募金をするという企画であった。この企画に対して一部の視聴者から、偽善的だというコメントが寄せられたらしい。24時間テレビに対しては、チャリティーに名を借りた視聴率取りであるとか、出演者にはしっかりとプロダクションを通してギャラが支払われているという批判があった。今回は高橋尚子さんに対して、あからさまに偽善者だというレッテルを貼ろうとしたのだ。

 

この偽善批判に対して、番組内で高橋尚子さんは毅然とした態度でコメントした。『偽善だと言われても、それで1人でも多くの人が救われるならば、偽善でもやる価値はある』と。立派な態度だと思う。ボランティアやチャリティーに対して批判をする人々が、自分で何かをしたのかと言うと、何もしていないに違いない。何もしないで批判するよりも、たとえ批判されてもやったほうが素晴らしい。さだまさしさんも番組内で、そもそも自分は偽善者だと思っているから何とも思わないし、何もしないよりは良いのは確かだと語っている。

 

東大卒の僧侶で、『偽善入門』という著作を書いた小池龍之介氏も同じようなことを主張している。人は批判的にボランティアなんて所詮偽善だというが、結果として人々を救い幸福に出来たとしたら、良しとしよう。たとえ偽善の心があったとしても、継続すればいつかは限りなく善に近づくことになるのではないか。偽善は真善よりも価値が低いかもしれないが、悪や偽悪よりはましであろう。偽善を続けていけば、いつかは善になるのではないかと語っている。偽善だと思い一歩を踏み出せない人へ、強烈なエールを送っている。

 

私もボランティアとしてイスキアの活動を行っている。利用者やクライアントからは、一切の報酬を受け取っていない。電話やzoomなどでのカウンセリングも無料だし、農家民宿を利用しての相談や体験・研修もすべて無料でさせてもらっている。そんなことはあり得ないと思って、いつかは何かを要求されたり買わせられたりするんじゃないかと心配されている方もいらっしゃる。勿論、偽善者だと疑う人もいるに違いない。今まで、いろんな人から騙されたり裏切られたりしてきた人だから、善意を信じられないのは当然だと思われる。

 

私は、偽善者だと思われたとしても、それは自分に偽善の匂いを感じさせる至らなさがあるからだと思うので、仕方ないことだと思う。自分には評価を得たいとか感謝されたいとかいう下心がないかというと、けっしてそうではない。多少なりとも、世間から注目されたいし認められたいという下心もあるし、尊敬されたいとも思う心がまったくない訳ではない。私には、そんなよこしまな気持ちなんてさらさらないのだと、傲慢で謙虚さのかけらもないような態度だけは取らないようにと心がけている。

 

人は、誰しも他人から好かれたし敬われたいと思っている。自分の心の中には、薄汚れた欲望が確かに存在するのである。自分の心の中には清らかなものしかないし、醜さや穢れを存在しないと思い込んでいる人は、危険な人だと言えよう。そんなマイナスの自己を認めず受け入れず、自分だけは不浄な心なんてなくて清廉であると思っているような人は信用できない。そんな思いあがった人を偽善者と呼ぶ。自分の心の中に恥ずかしい自己を発見した時に、それを隠そうとするのか、それとも認め受け容れるのかによって、偽善者かどうかが決まるのではないだろうか。

 

チャリティーやボランティア、またはNPO活動を自分のビジネスに利用している人がいるのも確かである。今まで、綺麗ごとを言いながら、裏ではしっかりと利益・権益を受け取っている人も沢山見てきた。NTVの役員や管理職、または芸能プロの役員・幹部の中にも、そういう人がいるかもしれない。でも、だからと言って24時間テレビに出演している人たちがすべてそうだとは言い切れない。高橋尚子さんやさだまさしさんのように、勇気を出して自分は偽善者であると宣言する人は、けっして偽善者である筈がない。私もいつかはそうなりたいと思いながら、イスキアの活動を通して真善に到達するまで偽善をやり続けたい。

他力本願で生きてもよいではないか

他力本願で生きて行ってはいけない。あくまでも自力本願で生きなければならないと思っている人が、世の中には多いのではなかろうか。ここで言うところの他力本願とは、浄土真宗の教義で言えば、まったくの誤解であるとされる。つまり、他力とは他人による支援や助けではなく、阿弥陀仏の法力のことであり、本願とは衆人の悟りを導くことである。他力本願とは、人の助けで自分の欲望や願いを叶えることではないのである。対比して言われている自力本願という言葉も、仏教ではありえない言葉ということになる。

 

この他力本願という仏教本来の意味を否定する訳ではないが、敢えてこの他力本願という意味をもう少し緩く捉えてみたい。そして、他力本願で生きてみても良いことだと思えるようになり、それが少しでも生きづらさの解消につながることが出来たらと思う。他力本願という言葉の仏教的な意味とは少し違うかもしれないが、人々を幸せにすることが出来たならば、それもまた阿弥陀如来による慈悲の現れと言えよう。他力に頼って生きてはならないと、小さい頃から思い込まされ、甘えることを許されなかった人を救えるかもしれない。

 

人間は他人の力を借りずに生きるべきで、自立して生きることが大切だと、小さい頃から親から教え込まれる人が殆どであろう。祖父母や周りの家族も同じように、人に頼るなと教えるし、学校でも教師が依存せず自立しろと指導する。小さい頃から「依存心をなくせ、甘えるな」と言われ続けて育てられると、他人に頼ることは悪だと思い込んでしまうのだ。だから、他力本願は間違っていて、自力本願が正しいのだと勘違いするのである。意味をはき違えたとは言いながら、あまりにも他人に頼らないで生きるというのは、とても辛い生き方である。

 

何故ならば、そもそも人間というのはお互いが支え合って生きるように生まれてきているからである。そして、乳幼児期には一人で生きられないから、母親とか家族からの様々な支援で生かされる経験をして、気づきや学びを得るのである。そもそも人間は一人では生きていけない生物なのだ。システム論で言えば、人間というシステムは他人との関係性によって正常な活動が約束されている。その関係性を否定して、人に頼ることなく自力本願で生きろというのが本来無理なことなのである。

 

とは言いながら、あまりにも人に頼り過ぎることは好結果を生まないのは当然である。また、他人の力を借りても良いとは言っても、親、教師、上司から行き過ぎた介入や干渉を受け過ぎてしまうと、自立できなくなることも多々ある。人を育てるとか指導する立場にある者は、要支援者に対して支配したりコントロールしたりしてはならないのである。そして、育てられたり支援を受けたりする者は、自分の出来る限りの努力をし尽くして、それでも上手く行かない時に、他人の助言や援助を求めてもいいのである。

 

そこで大事なことは、結果や速さだけを追い求めてはならないということである。結果や速さを気にし過ぎてしまい、ついつい努力を中途半端なものにしてしまい、駄目だったと諦めてしまうことがよくある。結果よりも、途中でどのような努力をしたかが大切であろう。目標を達成するためのプロセスが問われるのである。そのプロセスにおいて、出来得る限りの精進をし尽くしたのであれば、たとえ目標に届かなかったとしても、その努力は無駄にはならないし、大いなる自己成長は遂げられた筈である。

 

仏教における『他力本願』も、人事を尽くして天命を待つという意味もあるように考える。仕事においても地域活動や家事育児の場でも、結果だけを追い求めるのではなく、自分にできる精一杯の努力を積み重ねれば、その時の結果はたとえ及ばずとも、いつか必ず花開く時があるのだ。そして、自分の力の限界を感じたら、素直に周りの人々に助言や助けを借りてもよいと思われる。他力本願とは、本来そういう意味ではないだろうか。すべての努力をやり尽くして、その結果はただ阿弥陀仏に委ねるというのは、そんな意味もあろうかと思う。周りの人々の助言や支援は、阿弥陀仏による慈悲と捉えても差し支えないと思うのである。

※あらゆる限りの努力を自分でし尽くしても、どうしようもない状況から抜け出せない時は、周りの人に助けを求めてもいいと思います。もし、周りに助けてくれる人がいない時は、「イスキアの郷しらかわ」を頼ってみてください。精一杯のサポートをさせてもらいます。八方塞がりの時には、一時的であっても環境を変え、イスキアの郷しらかわにいらして数日過ごしてみてください。きっと、出口が見つかります。他力本願でもよいと思います。問い合わせフォームからご相談ください。

面倒くさいと言うのが大嫌い

ああ、面倒くさいなあと、誰でも思うことがあるに違いない。もう少し努力する余地はあったとしても、忙しさや困難さに心が挫けてしまい、まあこれぐらいでいいかと面倒くさいことから逃げてしまうことはよくあることだ。面倒くさいというのが口癖になっている人もいる。ところが、面倒くさいと言わないことを人生のモットーにしている人がいる。その人とは、森のイスキアという施設で多くの人々を救った佐藤初女さんである。2016年2月に亡くなられたので、もう実際に会うことは出来ないが、まだ多くのファンを持つ。

佐藤初女さんは、青森県弘前市の岩木山のふもとで、心身を病んでしまわれた方々を森のイスキアという宿泊施設に迎え入れて、黙って話を聞いて共感すると共に、心尽くしの食事を提供してきた。その食事はご馳走などではなくて、ごく普通の田舎料理である。その食事を作る際に、けっして手抜きをすることはなかった。食材を選ぶ時も、切ったり皮をむいたり、さらには煮たり焼いたりする際にも、妥協をすることはなかったという。だから、面倒くさいと言わないことが佐藤初女さんのポリシーだったのである。

何故、面倒くさいと言わないかというと、その料理を食べる人が喜んでいる顔を思い浮かべながら作っているからである。だから、何をするときにも妥協を許さなかったのである。佐藤初女さんの料理は、食べる人の感動を呼んだのだ。少しでも面倒くさいと思って料理を作ったら、その料理は死んだも同然である。人の心を癒そうとする際に、少しでも面倒だと思い妥協してしまったら、その人の心が癒されることはないだけでなく、自分が見捨てられたと思い心が傷つく。それ故に、佐藤初女さんは面倒くさいと言わなかったのだ。

自分のために何かをする時なら、面倒くさいと思って手抜きするのは許される。誰かの幸福や豊かさに寄与する為に何かの行為をやっている時は、絶対に手抜きは許されないのである。手抜きする気持ちが、その貴重な行為を台無しにしてしまい兼ねないのだ。そのことを誰よりも解っていたからこそ、佐藤初女さんは面倒くさいと言うのが嫌いだと、自分自身を戒めていたのではあるまいか。そんな佐藤初女さんが握ったおむすびだからこそ、人の命を救ったのである。奇跡のおむすびと言われた所以である。

佐藤初女さんは、2016年2月に永眠なさってしまわれた。その後、弘前にある森のイスキアの扉は開かれていない。あれほど多くの悩み苦しんでいる方々を救われていた佐藤初女さんの逝去を悔やんでいらっしゃる方は多いに違いない。今でも、多くのファンが第二第三の佐藤初女さんを望んでいらっしゃるのではないだろうか。私は一度だけ佐藤初女さんにお会いしたことがある。弘前の森のイスキアを尋ねて、お話をさせてもらった。いつかは森のイスキアのような施設を、白河に作るということをお約束してきた。ようやく3年前にその約束を果たせることが出来た。

イスキアの郷しらかわという癒しの施設を作り、イスキアの名前を名乗らせてもらっている。佐藤初女さんのお名前を汚さないように、面倒くさいという言葉を封印して運営させてもらっている。農家民宿の料理を担当しているスタッフも、けっして手抜きせず全身全霊を傾けて料理をしてくれているし、農業体験をサポートしてくれているスタッフも細心の注意を払いながら寄り添ってくれている。自然体験の支援をしたり相談をしたりする私も、面倒くさいという思いを一切捨ててクライアントに向き合っている。

勿論、佐藤初女さんのご活躍には、まだまだ足元にも及ばないことは承知している。だからこそ、少しでも佐藤初女さんに近づこうとして、自分自身を磨き続け進化させたいと思っている。出張ケアをする際には、なるべく初女さんのおむすびを作って手作りのおかずを持参するようにしている。また、レンタルルームを利用してケアする際にも、昼食を用意させてもらっている。それらのおむすびや料理を作る際には、けっして面倒くさいとは言わず、あらん限り心を込めて調理させてもらっている。面倒くさいということが嫌いだということが、口癖になるまで精進したいと思っている。

コロナが重症化するのは免疫の暴走

新型コロナウィルスに感染して、重症肺炎を起こして重篤な症状を起こす人がいる。一方では感染しても、軽症で済む人や無症状のまま抗体を持つ人がいる。その違いはどうして起きるかというと、どうやら免疫の暴走が原因らしい。免疫システムが誤作動を起こし、重症肺炎が起きてしまうことが判明した。コロナウィルスを打ち負かそうと免疫が過剰に働いて、免疫がまるで暴走したかのように働き、正常な細胞にまで攻撃して、肺の炎症が広範囲に起きて重篤化するというのだ。免疫システムの異常が起きるというのである。

免疫の働きを高める「インターロイキン(IL)6」という特殊なタンパク質が体内で過剰に分泌されると、免疫細胞はウィルスに感染した細胞だけでなく、正常な細胞も攻撃してしまうという。感染が起きた初期では、このIL6というタンパク質が分泌されて、ウィルスに感染した細胞を叩くことで回復に向かう。ところが、感染が進んでしまい重症化すると、このIL6が回復するのを逆に邪魔してしまうらしい。これが免疫を暴走させるらしい。軽症時と重症時とで、免疫システムが切り替わって、まるで逆の働きをするというのだ。

この免疫システムの誤作動というか、重症感染症をきっかけにして免疫が切り替わるということを、免疫の大家として著名な安保徹先生も主張されていた。副交感神経における新しく獲得した免疫システムが、生命を脅かすような重症感染症によって退化してしまい、抑え込んでいた古い免疫システムが働いてしまうと。実は米国の神経学の権威であるポージェス博士も、ポリヴェーガル理論で同じようなことを提唱している。生命を脅かすような精神的ショック(トラウマ化)により、古い免疫システムが働いてしまうのだと。

これはあくまでも仮説の話であり自分の私見なので、エビデンスは取れていないと断ったうえで提唱してみる。コロナ感染によって重症化してしまう人は、そもそも免疫システムが脆弱であり、精神的ショックに極めて弱い人ではなのではないか。反対に感染しても症状がないか軽症で済む人は、新しい免疫システムが警固だから、誤作動を起こさないのではないかと思うのである。だから、軽症で済む人は普段から日常的な運動をするし、健康的な食生活を心がけ、酒やタバコに依存することなく、ストレス解消も上手にできる人であろう。

免疫の暴走を起こしやすい人と起こしにくい人がいて、それが生死の分かれ目になっているように思えて仕方ない。心疾患、呼吸器疾患、糖尿病、高血圧、喫煙者、肥満者などが重症化しやすいし、男性のほうが重症化しやすいのも特徴である。喫煙者と慢性呼吸器疾患を持つ割合の高いのが男性であることも影響していると思われる。もちろん巷で言われているように、持病がある高齢者のコロナによる致死率は極めて高い。特に、寝たきりや要介護者、QOLが著しく低下した入院患者は重症化しやすい。元々、免疫力に問題がある生活なのだから当然だと言えよう。

コロナ感染によって新免疫システムが破綻して、旧免疫システムに切り替わり、IL6が正常な細胞にまで攻撃してしまう免疫の暴走が起きるのは、食生活などの生活習慣に問題があるからだけではない。それよりも、精神状態に問題があると思われる。食習慣などに問題があるのも、実は不安定な精神状態に原因があると言える。さらに、ギャンブル依存症やニコチン・アルコール依存症になってしまうのは、そもそもメンタルに問題があるからと言えよう。つまり不安定な精神になるのは、その人の価値観や哲学に問題があると思われる。

それでは精神的に問題があり、食習慣や生活習慣が乱れ免疫系に異常が出るのは、どんな価値観かというとこういうものだ。自分の損得や利害を優先し、欲望に流されてしまうような利己的で自己中の価値観である。言い換えると自分本位で、個別最適を目指す価値観であろう。一方、精神的に安定して食習慣や生活習慣が乱れることなく、免疫系が暴走しないのは、常に個別最適よりも全体最適を目指す価値観を持つ人である。人々の幸福や豊かさを心から願い行動するような価値観、他人の幸福に貢献することを喜びとするような哲学を持つ人だ。コロナ感染は、高い価値観を持つ人だけをノアの箱舟に乗船させる仕組みかもしれない。

悲劇のヒロインから抜け出す為に

幸福な人生を歩もうと思いながら、どうしても不幸な生き方になってしまう人がいる。自分で不幸を望んでいる訳ではない。それなのに、何故か不幸を招いてしまう人がいるのだ。そういう人は圧倒的に女性が多い。つまり、悲劇のヒロイン役を演じてしまう女性が多いのである。しかも、高学歴で教養も高く聡明な女性ほど、自分の人生は不幸だと思っているケースが多い。人生における最良のパートナーにも恵まれず、持っている才能を発揮することも出来ずに、職場でも不遇なことが多いというのは実に不思議である。

悲劇のヒロイン役を自ら望んで演じたいと思う女性なんている訳がない。誰だって、幸福な人生を歩みたい。それなのに、大切な人生の岐路で選択を間違ってしまい、悲劇の主人公のような人生を引き寄せてしまうのである。一方、いつも幸福なヒロイン役を演じ続けている女性がいる。人生の岐路に立った時に、迷わずに自信を持って選んだ道を進み、幸福な人生を歩み続ける。例え一時的には不幸な目に遭っても、それを自分の試練だと思い、けっしてひるまず逃げずに乗り越えて、結果として幸福な人生を引き寄せてしまうのである。

悲劇のヒロインになるのか、それとも幸福なヒロイン役を演じるかのその違いはなんであろうか。運が良い悪いかの単純なものではない筈である。悲劇のヒロインになることを、生まれついた時から決められているなんてことはけっしてない。幸運な人生を歩むのか、それとも不運な人生を歩むのかは、その人の生き方によって決まると言ってよいだろう。幸福になるかどうかは、すべて運命で定められているとすれば、努力しても無駄だということだ。しかし、幸福な人生を歩んでいる人は、自ら幸福を引き寄せる生き方をしているとしか思えないのである。

松下幸之助氏は、入社試験の面接時に必ずこんな質問を受験者にしたという。「あなたは自分の人生を恵まれていると思うか」と問うた。「恵まれた人生です」と答えた人は採用し、「恵まれていません」と答えた人は、けっして採用しなかったと言う。何故、松下幸之助はそんな質問をしたかというと、幸運だと思う人というのはそうなるように努力しているし、不幸だと思う人はその状態に甘んじていると見たらしい。また、恵まれているという人は、自分が周りの人々に尽くしているから、多くの人に好かれて支えられ、いざという時に周りから助けられるのだと説いていた。

悲劇のヒロイン役を演じている人を見ていると、まさしくそんな人生を引き寄せているとしか思えない。悲劇のヒロイン役を自ら演じていることで、安心しているように見えるのである。そんな馬鹿なことはない、自ら進んで悲劇のヒロイン役を演じる訳がないと反論するかもしれないが、自分が不幸であることに満足しているのである。いつも自分が不幸になるかもしれないという不安や恐怖感に支配されていて、幸福である状態にいると逆に不安になる。だから、いつも不幸になることを予想してしまう。それが不幸を現実化させてしまうのだ。

人間の脳というのは、不思議な働きをしてしまう。オキシトシンホルモンという安心ホルモンの分泌が少ない人は、いつも不安感に支配されている。そうすると、自分は皆から嫌われてしまうのではないか、攻撃を受けてしまうのではないか、不幸になってしまうのではないかという恐怖感で心がいっぱいになる。こういう不安や恐怖感が強いと、無意識下の脳は思わず不幸な人生になる言動をさせてしまうのである。または、不幸になってしまうという不安から、あまりにも自分の幸福を願う為に、他人の幸福に寄与することを忘れてしまうのだ。そうすると、周りの人々から嫌われてしまい、支えられず応援されず孤立するのである。

このオキシトシンホルモンの分泌が少ない人というのは、親やパートナーとの正常な愛着が結ばれていない人である。愛着障害を抱える人は、どうしてもオキシトシンホルモンが不足しがちになる。不安定で傷ついた愛着を抱えている人は、悲劇のヒロイン役を演じる傾向が強い。いつも悲劇のヒロイン役を演じてしまう人は、愛着障害を疑ってみるほうがよい。悲劇のヒロイン役を演じないようにするには、愛着障害を癒すしかない。適切な愛着アプローチを受けることで、見事に悲劇のヒロインから脱却することが可能になるに違いない。

SNS上で批判コメントをする人

世の中にはいろんな人がいるものだと、つくづく思う。周りの人々にいつも共感的態度で寄り添うような優しさを見せる人もいれば、何かと批判的な態度で実に冷たく接する傾向の人がいる。その態度は実際の生活だけでなく、SNSなどのネット上においても同様の対応をすることが多い。SNS上でブログや日常生活の機微などをアップすることをしている人は増えてきた。友人どうしの情報交換の場所として有効活用している女性も増えている。そのようなSNSの場で、批判的なコメントを載せる馬鹿者がいるのは情けない。

ブログというのは、あくまでも私見を述べたものであり、学会や研究機関における論文とは違う性格を持つ。一見すると、論文のような形で自分の意見を書き綴る人もいるが、それもまた単なる『日記』に過ぎないと見るべきであろう。ブログとはウェブログの略で、あくまでもウェブ上にアップしたログ(日記)である。とすれば、科学的根拠や社会通念で認められた真実であることは必要ない。あくまでも、自分なりに感じたことや考えたことを述べているに過ぎない。当然、エビデンスのないものだって構わないと思われる。

ブログを読むかどうかは、本人の選択肢の範囲内である。自分とは違う意見だし、読むのも嫌だと思えばスルーしてもいいのだ。中には支離滅裂な論理で、まったく的外れの意見を述べる人もいるが、それもその人の考え方だから他人はどうのこうの言うべきでない。中には、それは許せないとエキサイトして、変な正義感を振りかざして批判コメントを書き込む人もいるが、それも大人げないものである。そんなブログは素通りするのが良いだろう。批判をする時間がもったいない。日記なのだから、どんなことを書いても自由だ。

ただし、反社会的な行為を肯定したり助長したりする日記は許せない。または、特定の人、または明らかにこの人だと類推可能な人の個人批判をするようなブログもいけない。勿論、公的な立場にある政治家や経済人を批判することは、常識的な範囲では許される。だとしても、その政策や経営戦略を批判することは良いだろうが、人格や出自などの批判はすべきでない。いくら公的な人だとしても、個人生活の乱れや精神障害などを暴露して批判することも好ましくない。ウェブ上のマナーやエチケットを守るのは最低限のルールだ。

どうして、SNS上で批判コメントを繰り返すのであろうか。そういう人は正義感が強く見識が高くて、世の中を少しでも良くしようと実際に活動して努力している人なのだと思うだろうが、実は真逆の人であることが多い。自分では何もせず、ただ批判を繰り返すだけであることが多い。自分ではブログやツィッターを載せず、ネットサーフィンをして批判コメントを掲載することを生きがいのようにしているのである。さらに卑劣なのは、本名で批判することないし、匿名でのコメントだから保身意識が高いのである。

SNS上で批判コメントをする人は、実は可哀想な人である。誰にも好かれず愛されず、まったく相手にされない孤独な人が多い。中には家族がある人もいるが、家族から愛されていないのである。家族からも組織や会社の人からも認められていないし評価されていないのである。そういう満たされない思いから、他人を批判して自分を肯定したがっているだけなのである。つまり、自己尊厳意識や自己肯定感が極めて低いのだ。それでいて、自分は賢いし誰よりも優れているのだという万能感が強いのである。だから、自分の意見と違う他人の意見をスルー出来ずに、噛みつきたくなるのであろう。

言論の自由は、憲法の基本的人権で認められている。だとしても、公序良俗に反しない限りという制限条件があるのは、周知のことだろう。批判的コメントは、ブログやツィッターをしている人の心を傷つける。中には、怖くなってSNSから撤退せざるを得なくなるばかりか、トラウマになってしまう方もいることを認識すべきだ。つまり、批判コメントは心身を傷つける傷害罪にもなりうるのである。いろんな意見や言論があっていいのだと思う。自分と違う意見があるブログを見て、なるほどこういう意見もあるんだなと思えば、自己成長にもつながる。多様性を認め受け容れることで、自己実現に近づくことにもなる。批判コメントをしないでスルーをする『ネット大人』になりたいものである。

引き寄せの法則はスピ系ではなく科学

引き寄せの法則を信じている人は少なくない。特に、スピ系の女性のほとんどが引き寄せの法則を信じて疑わない。だから、自分の周りに起きることはすべて自分が引き寄せていることだからと、前向きに考える傾向が強い。それはそれで、自分の心を平穏に保つ為には役に立っているが、あまりにも悲惨な状況に追い込まれた時には、逆に自分を責めてしまうことになる。特に自尊感情の低いスピ系の女性は、あまりにも不遇な境遇に置かれてしまうと、自分が悪いせいだと自分を追い詰めて、メンタルを病んでしまうケースが多い。

引き寄せの法則というのは、ある意味両刃の剣である。自分の思った通りに順調な人生を歩んでいる時は、自分が幸福を引き寄せたと思い、人生が楽しくて仕方がない。また、少しぐらいの不遇なことに遭ったとしても、自分が引き寄せた試練だから乗り越えられると信じて、苦難困難に立ち向かう勇気を持つことが出来る。ところが、あまりにも大きい苦難困難に遭ってしまい、乗り越えられない境遇に陥ると、自分自身が嫌になる。そして、その困難を引き寄せた自分を責め続けるし、乗り越えられない自分を否定してしまう。

引き寄せの法則は、スピリチュアルなどを活用した自己啓発のセミナーなどで教えられることが多い。個を超えた宇宙の意思(神の意思と呼ぶことが多い)があり、それらと関係する自分の意識と無意識、集合無意識があらゆる自分の周りに起きる現象を引き寄せているのだと説いている。自分が引き寄せているのだから、起きている苦難困難は必ず乗り越えることが出来ると主張する。どんな苦難困難を乗り越えるにはさらに上級のセミナーの受講、そして各種のスピ系グッズが必要だと売りつけるケースが多い。

人の弱みにつけ込んだビジネスは、極めて巧妙であると同時に卑劣である。藁にもすがる思いでスピ系の自己啓発セミナーに参加して、自分の不遇な人生を何とかしたいと思う人たちを巧みに騙す。そして、主催者や講師によって勧められる高額のセミナー受講料、著作やDVD、スピ系グッズを購入してしまう。けれども、これらのセミナーを受け続けても、スピ系グッズを活用したとしても、大きい効果が得られることが少ない。たまに自己啓発セミナーを受け続けて、セミナー講師になる人もいるが、中途半端な自己実現だから独善的な人格の問題講師となる。そして、多くのセミナー受講者を勧誘することになる。

引き寄せの法則をスピ系で納得する人は、殆どが自我と自己の統合が不完全であり、唯我独尊のパーソナリティを持ってしまう。すると、自分の意見を信じなさい、そうしなければ不幸のどん底に落ちてしまうよと、受講者に自分の価値観を押し付けることを平気で実行してしまう。恐怖や不安を植え付けてセミナー受講を強いるような講師は、意外と多い。自分では意識していないが、洗脳に近いようなことを平気でするようになる。引き寄せの法則をスピ系で理解しようとすると、こんな危険が伴うのである。

一方、引き寄せの法則を最先端の脳科学や量子力学を駆使して理解した人は、実に謙虚であり誠実であり続ける。人に自分の価値観を無理やり押し付けることもしないし、自己の統合を実現できるかどうかはあくまでも本人次第だと、行き過ぎた介入や干渉をしない態度を取る。何故なら、最先端の脳科学と量子力学、または第三世代のシステム論によって導き出した引き寄せの法則は、人間の深層無意識や自己組織化する本能から導き出した理論だからである。深層無意識は、自分の有意識からの働きかけで変革することは難しいことを知っている。ましてや、行き過ぎた介入や干渉は自己組織化を阻害することをシステム科学により認識しているから、引き寄せの法則を他人に押し付けることはしない。

最先端の脳科学や量子力学、第三世代のシステム科学を学んで、引き寄せの法則がこの世界における科学的真理だと悟った人は、自我と自己の統合である自己マスタリーを目指す。人を引き寄せの法則を用いて、他人を迷わせたり脅したりはしない。スピ系から引き寄せの法則を導き出した人は、自我と自己の統合が不十分であり、妄想や陰謀論に陥りやすい。自分を神だと名乗ったり、人々を導く守護霊だと主張したりする。そして、善良な人々を脅して巧妙に自分のビジネスに利用する。明らかな科学的検証や根拠に基づいて導き出した引き寄せの法則を身に付けた人間は、周りの人々に法則を信じるように無理に勧めたり洗脳したりすることはない。ましてや、ビジネスに悪用することはない。スピ系によって引き寄せの法則を提唱する人物を信用してはならない。