縄文時代というと、弥生人が農耕を始める前に、狩猟を中心にして生きていて、言葉もなくて文化もそんなに発達していない時代だと思われていた。したがって、お互いのコミュニケーションも不十分であり、文明なんてある訳がないと思われていたのである。ところが、縄文時代の学術的研究が進み、縄文人の暮らしぶりが判明してくると、高度な文化だけでなく美的な感覚も優れていて、自然の摂理に沿った合理的で環境保護に配慮した生活をしていたことが解ったのである。そして、なんと登山までもしていたということが解ったのだ。
縄文時代というのは、およそ13,000年も続いたと言われている。それにしても、13,000年間もお互いに戦争や闘争もせず、平和で穏やかな生活をしていたことが、人骨の調査で判明している。狩猟を中心にしていたから、農耕はしなかったとされているが、山への植樹はしていたということが解っている。栗や胡桃などの木の実や果実が実る木々をせっせと植えていたことが解っている。木の実や果実が実る樹木だけを植樹した訳ではない。里山だけでなく、奥山にもせっせと広葉樹を中心に植樹したことが解ったという。
洪水を防ぐため、豊かで安定した水資源の為にも豊かな広葉樹の森が必要だという事を認識していたらしい。それだけではないのだ。海の河口付近に生息する貝や魚類が豊かに育つ為には、広葉樹の豊かな森が必要だと理解していたと言うから驚きだ。その山からの恵みに感謝もしていたろう。当然、山に住んでいるであろう神々に感謝し、豊かな恵みを得るために山の神々に必死に祈ったに違いない。そんなアニミズムのひとつとして、登山をして神々に感謝をすると共に、自然からの豊かな恵みを得たいと祈ったのは当然である。
どうして、縄文人が登山をしていたことが解ったかというと、山頂付近から縄文土器が見つかったからである。縄文土器を何のために山頂まで持って行ったかというと、数人の登山者(祈る人)が山頂で煮炊きをしたと思われる。神に供えたのだろうし、食料を煮炊きして食べたのではなかろうか。そして、便利なようにその山頂に備え付けて、定期的な祈りのために、その縄文土器を共有したと思われる。どこの山頂でそれらの縄文土器が見つかったのかというと、百名山の甲斐駒ヶ岳や日光男体山でも見つかったというから驚きである。
当時は、登山靴もなく裸足である。機能的な登山服や雨具もない時代に、そんな高山に登ったのだ。途中までバスや車も使えないから、居住区域から延々と歩いたのだ。何日間も要したに違いないし、命がけの登山であったことだろう。そんな危険で大変な思いまでして山に登ったというのは、山頂で神に感謝をして祈る為だったとは言え、縄文人にとってそれが特別な意味を持っていたのは間違いない。弥生時代や古墳時代、大和朝廷から飛鳥時代には登山の形跡は残っていない。山岳修行や仏僧による開山の時代まで登山は休止する。
高山に登る為には、天候を長期的に予測しなければならない。甲斐駒ヶ岳のような高山で暴風雨に遭ったら、テントもないから命を失くすことになる。勿論、地図はなかったとしても、方位や高度感覚は必要である。そんな登山に関する知識を持っていたというだけでも、知的レベルが高いと断言できる。それにしても、そんな危険まで冒して高山に登ったのは何故であろうか。麓で山の頂上に向かって感謝や祈祷をしても良いではないか。しかし、実際には山頂まで行って祈祷をしたのである。縄文人が高い山頂を目指した理由があるに違いない。
おそらく、神々が住むのは山頂付近の岩々であると思ったのであろう。麓の森や岩場にも神は住んでいると、縄文人は思っていただろう。しかし、人々が容易に近づけない山の山頂にこそ、偉大なる神がいたと確信していたに違いない。そして、天におわす神に少しでも近い所から祈りたいと思ったのかもしれない。そして、そんな険しい高山に登り祈ることを許されるのは、神に許された人だけだと確信していたからだと思われる。高く険しく危険な山を登れる人は、穢れのない清らかな心身を持つ選ばれた人間だけだという思いもあったであろう。現代にも通じるのであろうが、山に登るのは禊でもあったのだ。