卒婚を密かに目論んでいる妻

日本人の夫婦のうち、約3分の1が離婚しているという。そして、その離婚を言い出すのは圧倒的に妻のほうが多いという。昔は、夫からの離婚申請が多かったのだが、現在は妻のほうから三行半を突き付けるらしい。そして、多くの妻たちは婚姻状態を続けることに疲れ果てていて、いつかは卒婚をしたいと密かに夢見ているという。夫はまったくそんな妻の心理状態に気付くこともないらしい。我が子が大学を卒業するまでの我慢とか、子どもが成人したらとか、子どもが結婚するまでとか、その時期をじっと待っているのである。

その卒婚さえ待ちきれず、もう夫との結婚生活には一刻も我慢できないと離婚してしまう若い妻も少なくない。昔ならば『子はかすがい』と離婚を踏みとどまる女性も多かったが、今は子どもが居ても離婚を踏みとどまる理由にはならない。それだけ妻たちは我慢し切れなくなっているのだ。離婚の理由はそれぞれあるだろうが、妻が望む夫婦関係や親子関係になっていなくて、改善の見込みもないので決断したのだと思われる。夫のほうでは、話し合いで問題決を図り、なんとか婚姻を続けたいと思うらしいが、妻の決断は変わらない。

妻が卒婚したいと思っていることさえ夫は知らないでいるし、卒婚を望む理由さえも夫は解らない。だから、その時が来るといきなり卒婚を言い出されて、夫はおろおろするばかりだという。妻は何故こんなにも卒婚を望んでいるのだろうか。妻たちが経済的に自立しているからだとか、財産分与や年金受給の分与が出来るようになったからだと思っているらしいが、それが卒婚の理由ではない。あくまでも、結婚生活における夫の態度に我慢がならないのである。我慢に我慢を重ねて熟慮した選択だから、決心は変わらないのだ。

妻が卒婚する原因は、夫のこんな態度や姿勢である。夫は家庭に安らぎを求めている。男は職場において全身全霊を傾けて仕事をする。男というのは仕事第一主義である。したがって、職場で仕事にエネルギーを使い果たしてしまい、家に帰るとのんびりと過ごしたがるし、家事育児に協力しようとしない。帰宅すると、テレビを見たりゲームをしたりするだけで、ソファに横たわっている。または、自分の趣味に没頭するか、PCやスマホに心を奪われている。家庭は自分だけの安らぎの場所だと勘違いしているのである。

それぐらいなら妻はまあ仕方ないかと諦めているが、我慢ならないのは夫が妻の話を聞こうとしないし、妻に共感しないという点である。しかも、妻の気持ちを少しも解ろうともしない夫のことが許せないのだ。夫は妻に対して優しい態度を取ることもある。例えばバースデーの贈り物やクリスマスのプレゼントはしてくれるし、たまには豪華な食事にも連れて行ってくれる。しかし、そんな優しさは見せかけだけだと妻は知っている。そういう優しさを見せるのは、夫の自己満足に過ぎないことを百も承知なのだ。職場では無理して『いい人』を演じているのに、家庭では身勝手で自己中の夫なのである。

育児についても、夫の態度は我慢ならない。普段の子どもの世話は、殆どを妻がやっているが、何かのイベントだけは自分が中心的な役割を果たして、子どもの点数稼ぎをしたがる。育児はお前に任せたと、一切口出しをしないが、何か子育ての問題が起きると『お前の子育てが悪いからだ』と責める。学校で何か子どもの問題が起きると、仕事を言い訳にして逃げたがる。いじめや不登校などの問題が起きて、母親の手には負えないから父親になんとかしてほしいと頼んでも、仕事だからと学校に行きたがらない。こんな父親では、子どもは信頼しないし、妻も愛想を尽かす。

男は結婚するまでは、交際相手の尊厳を認め自由を認める。ところが結婚すると豹変する。自分の所有物だと勘違いし、自分の理想の伴侶であってほしいと強く思い、自分の価値観を押し付けたがる。自分に都合の良い妻になるように仕向けるし、妻の行動を制御したがるし支配する傾向になる。それが上手く行かないと、怒りを爆発させたり暴言を吐いたりする。そんなことを出来ないひ弱な夫は、自分の思い通りにならないと不機嫌になるし、黙り込んでしまう。まるでイプセンの戯曲『人形の家』のノラのようである。我慢に我慢を重ねてついにノラも家を出て卒婚する。人間とは、本来は自由に生きる生物である。あまりにも自由を制限され尊厳を認められないと、妻たちは卒婚する。

中高年のひきこもりが深刻化

45歳のひきこもり男性が、亡くなった71歳の母親と10ケ月もの長期間同居していたという事件が起きた。ひきこもりやニートの方々が高齢化している実態が明らかになりつつある。そして、これらのひきこもりやニートの方々が、固定化していると共に深刻化しているという。今までは、ひきこもりやニートというと若者だけの実態かと思われていたが、中高年のひきこもりニートが増大しているし、保護者も高齢化して亡くなってしまうケースも多くなることだろう。そうすると、社会問題としてより深刻になる。

ひきこもりやニートを完全に乗り越えたというケースは極めて少ない。深刻な症状がある程度改善されて、買い物やレジャーには行けるまでになったとしても、完全な社会復帰をして、経済的にそして精神的にも自立する例は殆どない。民間の業者がひきこもり対策の施設を運営しているが、その実績は芳しくない。NPO法人や市民活動団体が支援しているものの、その効果は限定的である。ひきこもりやニートに対して、行政側として積極的に支援することが出来ない。ひきこもりを乗り越えるのは、極めて困難なのである。

ひきこもりやニートを乗り越えるのが、どうして難しいのだろうか。その解決に対してサポートする機関が少ないし、サポート施設が実力不足だということもあろうが、根本的な解決法を見出していないからである。そもそもひきこもりやニートになる根本原因さえ掴めていないのだから当然である。ひきこもりやニートになるのは、自己責任だと思っている人が大多数である。当事者をよく知っている親でさえ、当事者の性格やパーソナリティに歪みがあるからだと思い込んでいる。これでは、乗り越える糸道さえつかめない。

さらに、ひきこもりやニートになってしまった本当の原因を、当事者さえも認識していないことが多い。いじめや不適切指導、パワハラ、何らかの挫折などのきっかけで不登校や休職に追い込まれ、それからひきこもりやニートになるケースが多いが、本当の原因は他にある。何故かというと、同じような経験をしても不登校や休職に追い込まれない人がいるからである。誰でも同じような経験をしているにも関わらず、いじめや不適切指導、パワハラ、挫折を乗り越えている人が多い。それじゃ、ひきこもりになるかどうかの分岐点はなんだろうか。

そのヒントは、家族にあるように感じる。何故なら、子どもがひきこもりやニートになるケースの殆どが家族の関係性に問題があるように思えて仕方ないのである。一見するとうまく行っているように見える親の夫婦関係と親子関係が、実質的に劣化しているケースが殆どである。劣化や低下というレベルではなくて、関係性が破綻しているケースでは子どもが例外なく問題行動を起こしている。つまり、不登校やひきこもりが起きる本当の原因は外部にあるのではなく、家庭内部の関係性にあると言える。

したがって、当事者だけをいくら支援したとしても、ひきこもりやニートは解決しないのである。ひきこもりやニートを乗り越えるには、家族療法が必要不可欠であり、その家族療法は単なる家族カウンセリングではなくて、オープンダイアローグのような最新の心理療法に基づく家族療法が必要であろう。中高年のひきこもりやニートの親が高齢化して、家族療法の対象者として不適格になる前に、適切なオープンダイアローグ療法を受けなければならない。ましてや、親が亡くなってしまったら、家族療法が不可能になる。オープンダイアローグ的家族療法が出来るうちに、中高年者のひきこもりやニートを救いたいものである。

家族療法というと、親の子育てが悪いいから子どもの問題行動が起きたんだと結論付けたいセラピストやカウンセラーが多い。したがって、家族療法を拒否する親が多い。ましてや、父親が家族療法を積極的に受けるケースは稀である。誰だって自分の非を認めたくない。しかも、他人から自分の至らなさを指摘されたら、否定したくなる。特に問題がある父親ほど家族療法を受けたがらない。子どもの問題行動の原因が自分にあると言われるのが怖いのであろう。特に、社会的地位や評価が高く、教養と学歴、そして収入が高いほどその傾向が強い。そして、ひきこもりやニートは不思議とそのような父親のケースが多い。オープンダイアローグは、けっして批判したり否定したりしない。診断もしないし、原因も追究しない。だからこそ、父親もオープンダイアローグを拒否しない。深刻化している中高年のひきこもりやニートを救うには、このオープンダイアローグしかないと思われる。

※「イスキアの郷しらかわ」では、オープンダイアローグ的家族療法を駆使して、ひきこもりやニートの社会復帰を支援しています。家族療法というと、一時間10,000円前後という高額のカウンセリング料金を請求するカウンセラーが殆どです。しかし、イスキアでは日帰りではおひとり2,500円のランチ代だけの負担で実施します。宿泊の場合は、1泊2日8,500円だけの負担で、他は一切費用がかかりません。まずは、「問い合わせフォーム」から申し込み・相談をしてください。当事者、保護者のどちらからでも受け付けます。

本音での親子対話が途絶える時

親子の対話がほとんどないという家庭が多い。または、日常的な会話はあるけれど、本音で語り合うことはまったくないという家庭が少なくない。おそらく、本音で対話(ダイアローグ)をしている家庭は皆無に近いであろうと思われる。それは、親と子のどちらかに原因がある訳ではないが、そうなった責任は親にあると言えるだろう。何故なら、そのような親子の関係性を築いてしまったのは、年齢的にも力関係でも上にあるのは親だからだ。

いや、我が家では娘といつも友達のような会話をしているという母親がいるかもしれない。確かに、テレビ番組、タレント、ゲーム、料理、飲食店、ファッションのような話題で盛り上がっている母娘は少なくない。しかし、その話題は非常に薄っぺらであり、もっと人間の根源的な生き方とか、人間の闇を抉り出すような話はしていない筈だ。実は、そういう話こそが子どもたちは求めているにも関わらず、父子の間でも常に避けているのだ。

何故、本音で語り合うことを止めてしまったのかというと、子どもが信頼するに足りるような親としての姿勢を見せていないからであろう。または、親が子どもの本心に向き合っていないし、本心を解ろうとする努力をしていないからだ。子どもというのは、観るもの聴くものすべて初めてのことだらけである。自分も含めて幼い子どもの時を思い出してほしい。どうして良いか分からない時は、親に気兼ねなく尋ねたに違いない。でも思春期を迎える頃には、大切なことほど親には聞けなくなってしまうのである。

子どもというのは好奇心が旺盛である。自分がどういう存在であり、何故生まれてきたのか、そしてどこに向かって生きて行けばいいのかを自分に問い続けている。しかし、残念ながらそういう問いに対して、的確に答えられる親が居ないのである。親自身がそんな問いに答を導き出せる、正しくて高邁な価値観を持っていないし、科学的に明確な哲学を知らないのである。そんなこと、誰も教えてくれなかったし、自分でも学ぼうとさえしなかったのだから当然だ。自分の親もそして周りにも、哲学を語れる人は存在しない。

本来、学校の教師やお寺の僧侶、そして神主や禰宜というのは、そういう哲学を教示してくれる存在だった。または、職場の上司や経営者は科学的に正しい経営哲学を持っていたものだった。松下幸之助、本田宗一郎、稲森和夫等はそういう経営者だ。今は、一部を除いて『人生の師』はいなくなってしまった。世の中の親は、子どもに対して自信を持って哲学を語れなくなっているのである。学校や職場では、昔は哲学の話で盛り上がったものだった。それが出来なくなったのは、文科省が学校教育で哲学を排除したからである。

子どもの前で、試しに哲学的な話をしてみれば解る。子どもは目を生き生きと輝かせて、話に耳を傾ける筈だ。子どもの純粋な心は、そういう哲学の話が大好きなのだ。私は、子どもたちにいつも哲学的な話をしていたものだった。長男なんかは、私の話に涙を流して感動したと喜んでいた。三男とは、食卓において『エディプスコンプレックス』や『倫理的に何故人を殺してはならないのか』という話題で盛り上がったこともあった。

今の親たちは、子育てにおいて一番大切な話を避けているように感じて仕方がない。自分の本心を覚られるのを避けたい気持ちがあるのか、または自分が仮面(ペルソナ)を被った偽善者であることを見抜かれるのを無意識のうちに逃げているのか分からないが、本音での親子の対話がない。自己マスタリーを成し遂げていない、言い換えると自己の確立や統合をしないで逃げてきた自分だから、本音で対話するのが怖いのであろう。自分を心から信頼していない人間は、自分の本心を語れないのである。

現代人の殆どがアイデンテティの確立、つまり自分がありのままの自分であることを認め受け容れるという自己証明をなしとげていないのである。そんな大事なことを、考えたことも意識したこともないであろう。それが日本人の一番不幸な部分である。だから、本音で子どもと語ることが恐怖なのである。自分の嫌な自己、恥ずかしい自己、醜い自己をないことにしてしまい込んでいる自分だから、それを見透かされるようで怖いのだ。夫婦間でも親子間でも、本音の対話が途絶えているのは、真の自己確立をしていないからである。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、自己マスタリー(自己の確立、アイデンティの確立、自我と自己の統合)の研修を実施しています。親として、夫として、そして妻として子どもやパートナーと本心で向き合い本音で語り合うには、自己マスタリーが必要不可欠です。この学びをしないと、子どもを健全に育てることが難しくなります。是非、自己マスタリーの研修を受講してください。個人レクチャーも承ります。日帰り研修も歓迎いたします。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

あらゆる病気を癒す特効薬「登山」

若い人たちにも登山ブームが起きているらしい。昔のような野暮ったい登山服装ではなく、洗練されていてファッショナブルな洋服に身を包んで、颯爽とした姿で登っている。トレランというスポーツ登山で、走りながら登る姿も目立つ。昔ながらの大きいザックに重登山靴に履いて、山シャツにニッカボッカ姿は見られなくなった。若い人がどんな形にせよ、登山にはまりこんでいるというのは嬉しいことである。さらに、若いパパさんやママさんたちが子どもを連れて登っている姿も微笑ましい。登山人口が増えるから、大歓迎したい。

どうして登山にこんなにも心惹かれるのだろうか。それは、あまりにもストレスフルなこの社会だからこそ、現世界から一時的にも逃れてストレス解消をしているのではないかと見られる。あまりにも生きづらいこの世の中、例え一時的でも何もかも忘れて目の前に広がる自然を満喫することで、精神的に癒されたいと思って登山するのではないだろうか。これは、心理学でいうマインドフルネスという有効的な心理療法のひとつである。気分障害が重症化する前なら、非常に効果が高いと言える。

登山は、精神疾患に有効であるのは間違いない。マインドフルネスという効果もあるが、自然との触れ合いは、間違いなく心を癒してくれる。豊かな大自然に包まれた時に、人間は自分のちっぽけな存在に気付く。登山をしていると、厳しい暑さ寒さ、雨や風に遭うこともあり、雄大な自然が人間の力ではどうにもならないことを知る。人智ではどうしようもない存在がこの世に存在することを実感し、人間は神のような自然に生かされていることを深く認識する。謙虚で素直な、ありのままに自分に還ることが出来る。そうすると、自分があまりにも傲慢で、しかも周囲の人々に対して頑なな態度をしていたと気付くのである。

各種の精神疾患になられた方々が、登山に行ける気力が残っているのであれば、無理にでも行くことを勧めたい。気分障害の方々を登山に連れて行った経験がある。何度かの登山を繰り返すうちに、徐々に心が癒されて元気になった気分障害の人が多い。心と身体は一体である。身体を無理にでも動かしていると、次第に心も動くことになる。少し身体的に厳しい登山をすることで、精神的忍耐力や柔軟性を持てるようになる。簡単に折れてしまう心でなく、どんな苦難困難に対して柔軟な心を持つことなる。精神疾患を緩和するのに、登山が有効だという根拠である。

登山は、身体的な各種疾患にも有効であると思われる。何故ならば、病は気からと言われるように、現代病は殆どが精神的な影響により起きていると言っても過言ではない。勿論、食習慣も含めた生活習慣や生活環境にも影響を受けるが、その悪い生活習慣も元を正せば間違った心が作り出したものである。生活習慣病の殆どは、ストレスや過度のプレッシャーによって生活習慣が乱れて起きていると思われる。そして、身体のネットワークの誤作動が起きて、脳内神経伝達物質や各種ホルモンの分泌異常が、血液循環も含めた体内循環を滞らせて、各種疾患が起きているということが判明してきた。

登山は長時間の負荷運動をすることで、心肺機能を高めることになる。故に滞った血液循環など体内循環を適切に調整してくれる。ガンになった患者さんたちを、富士山登山に誘って、心肺機能向上と生きがい療法をする団体もあるほどである。登山をした人なら解るが、体温を驚くほど高めてくれる。ガンは低体温で起きると言われている。ガンなどの疾病は、自律神経のアンバランスで起きる。副交感神経の活動が低下し、交感神経の異常な亢進により、各種疾患が発症することが判明している。標高の高い所は低気圧になり酸素が薄くなる。低気圧と運動負荷により、酸素摂取を少なくさせて、副交感神経が亢進する。

このように、登山は精神的疾患だけでなく身体的疾患にも有効だという科学的根拠が示されている。厚労省によって難病と指定されている自己免疫疾患などにも、有効であると推測される。さらには、パーソナリティ障害や成人の発達障害なども、登山によって症状が緩和されると思われる。あらゆる疾患を緩和もしくは完治させてくれる登山療法は、現代医療で見離されてしまった人々にも福音をもたらすであろう。病気になられた方は、是非とも登山に勤しんでほしいものである。

※イスキアの郷しらかわは、精神的な疾病と身体的疾病に苦しんでいらっしゃる方々を登山にご案内します。症状に応じた難易度の山を選択しますし、体力に応じたコースを選定します。重症の方には、登山歴豊富のアルピニストで、40年近く臨床に携わったベテラン看護師が同行します。登山ガイドは複数人が同行して、万全の体制でバックアップしますので安心して申し込みください。

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健康長寿の目的は?

健康ブームである。TV番組では毎日、これでもかと健康を守るための秘訣についての内容が放映されている。医学番組の出演で超有名になった医師もいる。病気になった人が、劇的に回復したというケースも放映されている。勿論、予防医学が中心になっているので、食事や睡眠、そして運動などの生活習慣を見直すという内容が多い。特異なサプリや食生活も紹介されると共に、ひと昔まではまったく言われてなかった予防方法も紹介されている。最先端の医学知識が、惜しげもなく放映されて情報開示されているようだ。

ところが不思議なことに、予防医学に対する認識が高まってその効果が高まったのかというと、それほどでもないのである。または、予防医学の効果が高まり、医療費や介護費が劇的に低減されたのかというと、そんな事実はまったくないのである。ということは、これだけの健康ブームによっていろんな情報が飛び交っているにも関わらず、その効果は限定的であるということだ。医学的なエビデンスも得られ、これを守り続ければ健康になるということを実施する人もけっして多くないし、取り入れようともしない人がかなり多いという結論にならざるを得ない。

人間である限り健康にはなりたい。けれども、そこまで努力をしたり苦労したりはしたくないというのが本音であろうか。特に、好きでもないし美味しくもない食事を毎日続けなければならないのは勘弁してほしいし、毎日汗をかきながら運動するのもしたくないというのが本心だろう。例えば、薬を飲めば血圧も下がるし血糖値も抑えられるし、高脂血症だってコントロールできる。サプリや特別な市販薬を飲んでいるから、苦労して食習慣を見直さなくてもいいじゃないかと思っている人は多いだろう。苦しい運動は、出来れば避けて投薬治療でなんとかしたいと思うのが常である。

かくして、日本人の生活習慣病の罹患率は高い水準のまま推移している。確かに、面倒な事をしなくても投薬治療やサプリメントなどで健康を保てるのだから、安易な方法に依存するというのも頷ける。しかし、こんなにも医療費や介護コストを高騰し続けてもよいのであろうか。増え過ぎ続ける医療費を削減して、予防医学に徹しようとする大改革が昭和57年から始まった。老人保健法の施行である。40歳からの予防健診と保健指導が義務付けられた。しかし、残念なことにその効果はあまり見られない。医療費の高騰はその後も続き、無駄な医療費の浪費は止まらない。

このように、どんなに生活習慣病の予防策として国の政策として押し進めても、または健康を守る方策の番組を放映したとしても、効果はあまりないのである。生活習慣病と命名したのは、先日亡くなった日野原重明先生である。先生は、自分たちの生活習慣を見直して健康的な生活をすれば、生活習慣病にはならないということを言い続けられた。そして、ご自分でも実践されて健康を維持されてきた。おそらく、日野原先生が健康で長生きをすることができたのは、尊い使命感によるものであろう。自分の為でなく、人々の健康を維持発展するために日々貢献されてきたからであろう。

森のイスキアの佐藤初女さんも健康で長寿であった。94歳まで精力的に活動されていらした。マザーテレサもまた、87歳になるまで貧しい人と病める人の支援活動をされてきた。マハトマ・ガンジーも78歳で不幸にも暗殺されてしまったが、この事件がなければまだまだ長寿だったに違いない。健康になるのは誰の為かと問われて、殆どの人は自分のためと答えるだろう。しかし、ガンジー氏、テレサ女史、佐藤初女さん、日野原先生は、健康を維持するのは人々を救い続け幸福にする為に必要だと答えただろう。

健康を願うのは誰でも一緒である。ところが、何のために健康を維持し発展させなければならないのかという点においては、大きく違っている。自分のために健康になりたいと思う人は、そんなに努力も出来ないし苦労もしたくないであろう。自分では健康になるための精進もしないし、安易に医療に頼る。人間とは自分のために頑張れない生き物なのである。ところが、佐藤初女さんたちのように使命感を持って、社会の人々のためにもっと尽くさなければならないと強く願い、その為に健康でありたいし長生きしたいという人は、楽しんで苦労をする人である。これが、健康になれるかどうかの分岐点なのである。メンタル面での健康も、同じであることを肝に銘じたい。

自殺をする前にしてほしいこと

神奈川県座間市で起きた、自殺志望者をターゲットにした連続殺人事件は、実に卑劣な行為である。被害者の殆どが若い女性であり、自分よりもか弱い立場の人間を薬やアルコールでさらに反抗できない状況にしての凶行は鬼畜以下の所業である。いくら自殺願望があったとしても、こんなバカな若者に信用させられて、不用意に彼の自宅に招き入れられてしまうというのは、よほど辛かったのであろう。この犯人が巧妙にSNSを利用しながら、言葉巧みに騙していたという報道がされている。人の弱みに付け込むという卑劣な行為は、けっして許されるものではない。

それにしても、自殺志望者でなければ、こんなにも簡単に信用することはなかったであろう。自分と同じ自殺願望者だと、犯人を信じ込んでしまったのだと思われる。このような自殺志望者は、他にも数十万人いると言われている。自殺願望者のSNSサイトでは多くの人々が交流しているらしい。自殺予備軍とも言われる人々がこれだけいるのに、救えないで手をこまねいているのは実に情けない。これらの自殺願望者の中で、本当に自殺しようと決断して、その時を待っている人というのはそんなに多くないと言われている。

しかし、自殺を最終決断していなくても、こんな世の中に未練がなくて、死んだ方がましだと思っている人がいるというのは事実である。社会に絶望し、夢も希望も見いだせず、生きる意味なんてないと思っているに違いない。それだけ、この世は生きづらいと思っている若者たちが多いのであろう。自殺願望者の方たちを救うために、電話での対応やネット上での支援サイトが開設されている。しかし、匿名での応対であり、効果は限定的にならざるをえない。やはり、実際に対面しながらお互いに胸襟を開いての対話による支援でしか、自殺願望者を救えないのではないだろうか。

自殺を願望する人たちを何とか救いたいと、『イスキアの郷しらかわ』は日々活動している。自殺を志望する人たちに叱咤激励は効果がないと言われている。自殺をしてはいけない訳を、正論を掲げてくどくどと説明しても聞く耳を持つ訳がない。社会に対して絶望していているのだから、社会的な貢献意識を目覚めさせようとしても、無駄であろう。ましてや、社会や家族との絆やつながりを大切に考えて、自分を必要としている人がいるんだという説得にも耳を貸さないであろう。本当に思い詰めてしまった方々には、何を言っても聞いてもらえないかもしれないのである。

ただひとつだけ自殺願望者を救えるとすれば、何も言わずにただ寄り添うことだけかもしれない。それも一切否定するような感情を持たず、その人のあるがままを認め受け容れ、暖かく迎え入れる態度が最適であろう。そして、心の籠った温かい食事を提供することである。冷え込んで固まってしまった心を、溶きほぐすのは優しい料理しかない。『イスキアの郷しらかわ』は、まさしくそんな食事を提供している。身体に優しく愛が溢れる食事は、冷え込んでしまった心を温めてくれるに違いない。

もうこの世には未練も、そして夢も希望もなく、生きる意味なんてないと思っている方たちがこのブログを読んでくれたなら、最期の最期にイスキアに一晩だけでも訪れて泊まってから決断してほしい。自殺するのは、それからでも遅くはない筈だ。何を言わなくてもいいし、何をしなくても良い。ただ、泊まって最期の食事をしてほしい。住所と氏名だって明かさなくてもよい。何も聞かないし、問いただすこともしない。もし、何かしら言いたくなったとしたら、ただ黙って聞くことはしよう。だから、自殺をする前に、一度だけイスキアの郷しらかわを訪ねてほしい。

 

※申し込みは、問い合わせフォームからしてください。通信欄に「そっとしてほしい」と記入してもらえば、何も聞きませんし、こちらから何もアクションをしません。食事だけを提供いたします。聞いてもらいたいことがあるなら、何も言わずに黙って伺います。