善きサマリア人の法

 善意からの行為をして、結果として善意の効果をあげることが出来ず、訴えられてしまうということがたまに起きてしまう。大丈夫だよ、心配いらないよ、良くなるからねと不安を払拭して安心させるために言ってあげた言葉が、効果がなかったのはあなたが悪いからだと責められるというケースは少なくない。だから、余計なことをして恨まれるのが恐いからと、あえて善意の手助けをしない人もいる。この善意からの行為をして、その結果がどうなろうとも善意の行為者は罪を問われないというのを『善きサマリア人の法』という。

 この善きサマリア人の法というのは、イエスキリストが語った話が元になっている。ある人が強盗に遭い、倒れているのを通行する人々は誰も助けようとしない。とあるサマリア人が通りかかり、そのサマリア人だけが被害者の救護に当たったという話である。そこから転じて、救護が必要な人に出会い、救護行為をする中で例え悪い結果を招いたとしても、誠実に懸命な努力(善管注意義務を怠らずにした行為)をしたなら、罪には問われないと規定する法律のことを指すようになった。実際に法制化されている国々も存在する。

 残念ながら日本では法制化されていないが、アメリカやカナダなどでは、法律として制定運用されている。民事的な責任も、刑事上での罪にも問われないと規定されている。日本では、民事的な請求が棄却できるという規定があるものの、刑事訴追までの免責は規定されていない。したがって、日本において救命措置が必要な場面に出遭い、医師の類似行為を民間人が行って、救命措置が成功したとしても、医師法違反になり刑事訴追をされることは免れないということである。理不尽だと思うかもしれないが、法治国家とはそういうものだ。

 善意の行為であり、無償の行為でもあるのだから、許されるべきだと考える人が殆どであろう。しかし、実際には医師法違反として厳しく罰せられる。それが法治国家としては、正しいのである。とは言いながら、減刑はされるだろうし、おそらく執行猶予判決になるのは間違いない。だとしても、前科持ちになってしまうし、SNS上で偽善者じゃないのとか謂れのない批判にさらされることもある。見ず知らずの人の為に、そんなリスクを負ってまで善意の行為をするのは、馬鹿らしいと思うのが当然である。

 善きサマリア人の法は制定されるべきだと主張する法律家が少なくないが、そんな法律が出来てしまうと、逆に名誉や賞賛を得ようとして、とんでもない行動をする人が増えかねないと心配する専門家も存在する。今は、何でもかんでもSNSで発信する時代である。SNSでバズることで得られるCM料欲しさに、知識も乏しいのに医師の真似事をするような人が増えてしまうと心配する人も多い。確かに、善意の行為というのは、純粋に人助けだけをする人だけがする訳ではない。名声を得るために偽善的行動をする人だっているのだ。

 善きサマリア人の法を国の法律として制定しようとすると、本来の意義に反しないようにするために、いろいろな制限を加えなければならないようである。しかし、そんな制限を加えるということは、本来の趣旨に反するような気がする。元々、善良なる市民を守るための法律なのに、偽善者や裏心を持つ人がいるという前提を基に法律を制定するというのは、とても悲しい気持ちにさせられる。元々、キリストだってサマリア人を賞賛する意思もあったが、見て見ぬふりをして通り過ぎる人の悪意について述べたかったに違いない。

 目の前で虐めを見ても、それを見て見ぬふりをしているのは、共犯と同じだと主張する人もいる。公共交通機関の中で、強面の屈強な男性がか弱き女性に絡んでいるのを、傍観するのも許せないと糾弾する人もいる。確かに、それは卑怯な行為だと言える。しかし、自分に攻撃が向かうかもしれないという恐怖に打ち勝てる人は、そんなに多いとは思えない。一人で立ち向かうのは空恐ろしい。こういう場面で、救護をしないと社会的に罰せられる、欧州のような社会通念が望まれる。そして、日本でも勇気を振り絞って善きサマリア人の行動をする人がいたら、一緒に行動をしてくれる人が出てくることを期待したい。

※イスキアの郷しらかわで、心身を病んだ方々の救済活動を実施していると、なかなか結果が出ない方から責められることもないとは言えない。長い期間に渡り心身をやられてしまわれた方は、癒されるのに時間がかかる。ましてや、複雑性PTSDのように何度もトラウマを経験して、ポリヴェーガル理論における背側迷走神経の暴走によりフリーズ・シャットダウン化が起きた方は、一筋縄ではその凍り付き状態から抜け出せない。そして、不安感・恐怖感からHSPになって起きた症状なので、安心させるために大丈夫だよ、良くなるよと不安を取り除けるように声掛けをするから、良くなる傾向がみられずあせって、支援者を責めることもある。それでも、くじけずあきらめず善きサマリア人のように粛々と救助にあたっていきたいと思っている。

老害とはすさまじきもの

 老害はすさまじきものである。現代日本におけるすさまじいという形容詞とは意味が違う。平安時代に使われていた意味であり、現代訳すれば、不似合いなもの、興ざめするもの、出来ればあっては欲しくないし見たくはないもの、という意味であろう。著名な随筆である枕草子の中で、清少納言が書いたすさまじきものというのがある。まさしく、老害というのはすさまじきものと言えよう。最近、ある全国ネットの某テレビ会社での老害が話題になっているが、これこそがすさまじき老害の典型と言えるのではなかろうか。

 このテレビ会社では、87歳にもなった取締役相談役が、今もなお絶大な権力を保持していると言われている。何故、一人の取締役相談役がそんなにも強大な権限を有しているのか不思議である。代表権を持つ社長や会長もいて、取締役会だって開催しているし、表面的には株式会社として機能しているかのように思える。しかし、相談役はかつての天皇家が院政を敷いたように、今でも会社の人事権を持っていて、他の取締役は逆らえないというのである。なにしろ、30年余りに渡りそのテレビ会社を絶大なる権限で掌握しているというのだ。

 87歳になった今でも、かくしゃくとしているといえども、こんな高齢で会社の重要決定と進路を決めているというのならば、空恐ろしいことである。個人差のあることだから一概には言えないが、人生70歳を越えれば記憶力や判断力、そして決断力が衰えるものだ。ましてや80歳を過ぎたら、益々能力は低下する。いくら若い時から能力は低下していないと強弁したとしても、加齢による影響は大きい。故に、定年制がある。取締役には定年がない。だからこそ、高齢になった役員は自らの進退を決めるべきなのである。

 政界もまた、老害がはびこっている。高齢の元総理とか派閥の領袖が影のキングメーカーとして君臨している。一国の政治を担うトップが、老害のすさまじき政治家によって作り出されているとしたら、国の行く末も危ういと言える。高齢者が働いてはならないとは思わない。ひとりの技術者や労務提供者、または助言者や技術指導者としての任務なら、まったく問題はないだろう。しかし、管理者やトップ経営者は避けるべきである。高齢になると、どうしても謙虚さを失うし、柔軟性や発想力は著しく衰える。瞬発力は消滅する。

 高齢者は、おしなべて頑固である。固定観念や既成概念に縛られる傾向にある。どんなに説得されたとしても、けっして自説を曲げないし自分が正しいと言い張る。自分の非を認めず、問題が起きたのは他人のせいにしたがる。今回の某テレビ会社の相談役も、あれだけ騒がれて自分のせいで有名企業各社がCM見合わせをして会社が大打撃を受けているのに、辞めようとしないのは呆れるばかりだ。持ち株会社の大株主から辞任を突きつけられても、平気で居座るというのは、空恐ろしささえ感じる。他の取締役に、矜持は存在しないのか。

 このテレビ会社の相談役、そして政治家や企業経営者たるもの、所属している組織や国民に対して、老害を与えてはならない。自分の引き際こそ、大事だ。後進が育つまでは自分が引退することが出来ないと主張する高齢者がいる。確かに、すべてを任せるには心配なケースもあろう。しかし、自分と同じレベルまで後進が育つのを待ってから引退するのでは、一生辞めることができない。何故ならば、任せられないと育つことが出来ない部分があるからだ。すべての責任を持つという立場にならないと、人間は成長できないのである。

 人間には、自己組織化(内発的動機等)が生まれつき備わっている。誰でも、この自己組織化を自分の力だけで成し遂げられるのかというと、そうではない。いろんな人生の師や所属組織、そして関わり合う人々によって、育てられる点がある。ましてや、責任性や自己犠牲性というものは、責任ある代表管理者という立場にならないと、身に付かないと言える。そして、老害になってしまうような高齢者の立場になると、その心地よい地位にしがみつき保身に走り、責任性や自己犠牲性を発揮しなくなるのである。だからこそ、自らの判断で老害を食い止めなくてはならないのだ。すさまじき人だと後ろ指さされないように。

御上先生のようなキャリア官僚に期待

 TBSテレビの新ドラマ『御上先生』が熱い。文部科学省に在籍する国家公務員総合職、いわゆるキャリア官僚が民間高校に出向するという、通常ならあり得ない設定で展開する物語である。松坂桃李がその主人公を演じている。その私立高校とは、東京大学の合格者を多数輩出している名門の私立高校である。高校3年生のクラス担任として赴任するのであるが、問題ある生徒や先生に反発する生徒たちをどう指導教育していくのか、期待が高まる。それにしても、御上先生のような高い志を持つキャリア官僚は実際にいるのだろうか。

 私たちが想像するキャリア官僚像とは、上司に媚びへつらい政治家のご機嫌取りをして、他のキャリア官僚とひたすら出世競争をする人たちというイメージを持っていた。一般職の官僚たちを見下しているし、建前は国民のためにと言いながら、ひたすら上級国民を目指しているような官僚であるように思い込んでいた。もしかすると、そういうキャリア官僚もいるだろうが、大多数のキャリア官僚は高い価値観を持って、国民の福祉向上と幸福を追求しようとひたすら頑張っているのかもしれないと思い直したのである。

 まさに、御上先生は官僚のお手本になりうる高い価値観を持って、子どもたち本位の教育制度に改革しようと奮闘努力をしている。こんな官僚が増えてくれれば、日本の教育制度の改革も進むという期待が持てる。しかし、残念ながら出世するようなキャリア官僚たちは、上司である官僚幹部や族議員の顔色を窺い、自分の主義主張さえ抑え込んで上司や政治家に忖度してしまうのである。それは、自己保身からすることなのだが、本来の公僕としての役割とはかけ離れている。憲法で規定している、国民に奉仕する役割を忘れているのである。

 キャリア官僚というのは、本来の業務以外の役割が与えられている。それは、政治家が国会での質問に対する答弁用原稿を作成するという役割が与えられている。官僚がすべき仕事ではないのに、この仕事の負担があまりにも大きく、官僚に多大なストレスを与えている。この業務は上級官僚だけのものではない。県の職員も市町村の職員でも、首長の答弁用原稿の作成も命じられている。時間に追われるので、深夜まで及ぶ時間外の業務なので、身体的負担も大きい。自分で作成する能力がない政治家の為に、余計な仕事を命じられるのである。

 そんな余計な業務や、政治家や上司に対するあまりにも過ぎる忖度までしなければ、組織の中で生きて行くのが難しい割に、得られるものが少ない官僚の人気が著しく低下している。昔は、天下りが許されていて、その報酬をも含めると生涯所得が、大企業に勤務した社員のそれと遜色なかったが、天下りが制限されている現代では、官僚を志す若者が減ったのは当たり前だと思う人が多い。しかし、キャリア官僚を志すほどの学業優秀な人間が、所得の多い少ないで進路を決めるというのは、実に情けないことである。

 御上先生というのは、そんな損得や利害でキャリア官僚になった訳ではない。あくまでも、国民の豊かさと幸福をどうしたら実現できるのかということを真剣に考えているキャリア官僚である。つまり、官僚たるものはこうあるべきだという理想像を描いている。勿論、御上先生の価値観と正反対の自利を追求する、低劣な価値観を持ったキャリア官僚も登場する。文科省におけるキャリア官僚は、全国の教職員の指導と管理も間接的に実践している。日本の学校教育の将来像をどうするかのビジョンも作成しているのである。

 日本の教育には問題や課題が山積みとなっている。青少年たちの不登校やひきこもりが増えているし、小中高生の自殺が急増している。教職員の不祥事や不適切指導があまりにも多いし、教員がメンタル疾患を抱えて自死を選ぶケースも多々ある。これだけ多くの問題が次から次へと起きるというのは、教員としての資質がそもそもない人を教職として採用した側に瑕疵があるのは間違いない。性被害事件を起こすような問題教師を現場に配置するとか、校長・副校長の管理職に不適格者を登用するというのは、あり得ないことである。御上先生のような文科省のキャリア官僚に、抜本的な教育改革を実行してもらうしかない。

神は細部に宿る~森保監督の名言~

 サッカー日本代表の森保監督の座右の銘の一つが、『神は細部に宿る』だという。三苫選手の諦めない折り返しボールが、1.88ミリの差でラインを出ずに得点として認められ、その事実とリンクされて、神は細部に宿るという言葉がネットで拡散されている。この神は細部に宿るという言葉は、誰が最初に言い出したのかということも議論されている。世間一般では、ローエという著名な建築家が使い始めたというのが通説になっている。しかし、それ以前にもアインシュタインなど沢山の人が使っていたことが記録されている。

 この神は細部に宿るという言葉は、誰が最初に言い始めたのかということと、その真意はどういうことかということが盛んに議論されている。英語では、悪魔は細部に宿ると記されているので英語圏の人物ではないだろうと結論付けされている。神は細部に宿るという語句は、元々ドイツ語であるから、ドイツ語圏で最初に提唱されたのではないかというのが定説である。そこで有力なのが、ドイツの著名な数学者で神学者・哲学者でもあった、知の巨人と呼ばれるライプニッツではなかろうかという説である。

 ライプニッツは微積分の法則を導き出したことでも有名であるし、モナドロジーと呼ばれる『モナド理論』や『予定調和説』が斬新であり、現在にも通じる学説であると思われる。科学と哲学を統合させないと真理に到達しないと言っていることから、最先端の考え方である科学哲学を先取りしていたとも考えられる。予定調和説とは、宇宙におけるすべての事柄は、最終的に全体最適となるように神が予め調整しているという考え方である。神というのを宇宙意思とも読み替えれば、最先端の量子物理学や宇宙物理学の理論にも通じている。

 神は細部に宿るという言葉は、現在どんな意味で使われているかというと、ライプニッツが言いたかったこととは違うような気がする。ローエという建築家が用いたせいもあるが、建築物や芸術品を作り上げる時には、細部に渡り気を抜かずに細心の注意を払いながら創造することが重要である、というように捉えられている。どこか小さなところに不具合や駄目なところが一つでもあると、全体の価値さえも損なってしまうから、すべてに完璧を求めなさいというように考える人が多い。または、どんな些細なことも疎かにしないようにという戒めとして用いられる。

 まさに、あの1.88ミリのボールの折り返しは、最後まで諦めずにどんな小さなことにも真剣に努力してきた成果であり、森山監督が選手に対して『神は細部に宿る』と言い聞かせていたことが実を結んだと言えなくもない。日本の諺に『画竜点睛』というものがある。竜の絵を描いていて、眼を描き入れない絵を不思議に思った人が、どうして眼を描き入れないのかと詰め寄り、仕方なく作者が眼を描いた途端に、竜が絵から飛び出て天に登ったという逸話から来ているらしい。神は細部に宿るともリンクしているように思えなくもない。

 さて、神は細部に宿ると最初に言い始めたライプニッツは、どんな意味でこの言葉を使ったのであろうか。ライプニッツをよく知る人なら、現在の意味とはかけ離れているのではないかと思っているに違いない。彼のモナド理論と予定調和論に基づくと、神は細部に宿るという意味はまったく違うものとなる。モナド理論は、最先端の量子力学によって証明されつつあると言える。モナドというのは量子(素粒子)と同じだと推測できる。その量子は、まさに神の意思を持っているかのような働きをする。量子どうしが統合してネットワークを組んで、全体最適(予定調和)のような働きをする。それは、自己組織化するというのが定説であり、イリヤ・プリモジンがこれでノーベル賞を受賞した。

 本来の深い意味での『神は細部に宿る』の教えは、日本代表サッカー選手の活躍だけでなく、我々の正しい生き方さえも示しているのではないかと思う。勿論、ビジネスの世界においても有効である。人間も素粒子で組成されているのだから、人体の細部に神が宿っていると言える。人体のネットワークが正しく機能することによって全体最適=予定調和(心身の健康)が守られる。企業組織や国家も、それを組成する人間どうしの関係性と協調により、全体最適や予定調和が実現する。ジャパンブルーの選手たちの活躍も奇跡や偶然ではなく、森保監督を中心にしたチームの関係性と調和によって、神がもたらした必然であろう。

しょうもない男と結婚して後悔する女性

 世の中には、しょうもない男と結婚してしまい、おおいに後悔している女性が相当数いるという。周りから見ると、どうしてそんな駄目男と結婚してしまったのか不思議である。何故結婚したのか、自分でもよく解らない女性もいると思われる。こんなにもしょうもない男だったのかと、結婚してから気付く女性もいるし、駄目な男だとある程度解っていながら仕方なく結婚した人もいるのではないだろうか。どうしてそんなしょうもない男と結婚してしまうのか、駄目男でも暮らしを続けて行くべきなのか止めるべきかを考察してみよう。

 妻から見るとしょうもない男とはどういう性格・人格なのだろうか。自己中心的で利己的であり、損得勘定で動く人間というケースもある。家族の幸せよりも自分の喜びを優先してしまう人だ。または、まともなコミュニケーションが取れない男もいる。人の話を聞かないタイプだ。聞いているようだが、まるっきり聞いていない。自分のこだわりや固定観念によってバイアスをかけているから、自分にとって都合の悪いことは聞こえない。家事や育児を依頼しても、忘れるし無視する。妻の気持ちに共感できないし、心が冷たい男である。

 もっと最悪なしょうもない男は、働くことが嫌いなタイプだ。何かと理由をつけては定職につかない。職を転々として、稼いでこない。ジャンブルやゲームが大好きで、コミックやテレビ・映画に夢中。中には最悪のケースもある。暴力や暴言を操り返し、家族を支配し制御するタイプだ。こんなしょうもない男と結婚したら、毎日が最悪である。妻に見つからないところで子どもに暴力を奮うケースもある。嫌なことがあると黙り込んだり、モノに当たったりする男もいる。壁を叩いたり蹴ったりして、妻子を怖がらせる最低の男もいる。

 中には、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースもある。大人しくて、優しそうに見えるし、酒・ジャンブル・女には目もくれず、毎日職場と家庭を往復する優良亭主である。しかし、人間的には詰まらないし、異性としての魅力が感じられないタイプである。何故、そんな好きでもない男と結婚したのかと言うと、早く結婚して親から独立したかっただけである。口やかましく支配的な親で、愛情を注いでくれず子どもを制御する、いわゆる毒親から逃れたかったからである。

 しょうもない男と結婚する女性は、実はこういうケースが多いのである。育てられた家庭に居場所がなくて、自分と結婚してくれるのなら、しょうもない男と暮らしたほうがまだましだと思い込む女性は少なくない。温かくて愛情が溢れていて思いやりのある家庭を構築したいと願って、駄目男でも結婚する場合がある。愛情を注いであげれば、男は変わるかもしれないという期待は、脆くも崩れ去る。人間は、そんなに変われるもではない。ましてや、男のほうも親から愛されず育ったケースは、温かい家庭を築くのは無理なのだ。

 さて、このようなしょうもない夫とは今後どう対処したらよいか、悩むところである。暴力や暴言を繰り返すとかギャンブルのはまり仕事もしないという、どうしようもない夫なら一刻も早く別離したほうがよいだろう。どうするか迷うのは、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースである。ましてや、医師、弁護士、技術者、行政職など安定した高収入が保証されている場合は、なかなか離婚に踏み切れないものである。子どもの未来のために、自分の夫は隣のおじさんや宇宙人だと思い、我慢する選択肢もある。

 しかし、子どものために我慢を続けるとしても、自分の人生を犠牲にするというのは正しい選択肢であろうか。人間は、誰かを心から愛し愛されてこそ生きる喜びを感じるものである。心からリスペクトできる伴侶、そして敬愛してくれるパートナーと一緒に人生を全うしたいと願うものだ。また、そのようなしょうもない夫は、妻が外で働くことを嫌がり、フルタイムで働かせない傾向が強い。しかし、働くことで社会と繋がり貢献をしていくという喜びを得られないというのは辛いものである。しょうもない男と一緒の暮らしを続けるか否か、どちらを選ぶのかは、いろんな要素を熟慮して決めるしかないだろう。

人は愛するために生きている

『人間は誰かを愛するために生きています。しかし、誰かを愛した瞬間から苦しみが伴います。だからといって、苦しいから愛さないというのは間違いですよ。』11月9日に天寿を全うされた瀬戸内寂聴さんの言葉である。愛に生きた人と言える。若い頃から、形に捉われない奔放的な生き方をしたと言われる。倫理的ではないと批判されるような行動もしたが、ある意味自分の本能に対して忠実な生き方だったと言えよう。性愛や愛欲は、苦をもたらすし身を滅ぼすと仏教では教えているが、それでも寂聴さんは人を愛さずにはいられなかった。

 自由奔放に生きて、けっして後悔をしないような生き方をした寂聴さんであったが、ずっとその後も悔やんでいたことがある。それは、結婚して夫の教え子と婚外恋愛をしてしまい、離婚したときのことである。我が子を自分の手で育てたかったのだが、経済的に自立してなかったが故に、我が子の親権を夫に譲らざるを得なかったという点である。もし、収入が充分に確保されていたら、我が子と一緒に暮らせたのにと、ずっと後悔し続けたという。経済的な理由で離婚に踏み切れないという女性が世の中には多いが、とても不幸なことである。

 配偶者や恋人がいる女性が、他の男性と恋愛関係になるというのは、『不倫』と呼ばれる。勿論、その逆のケースも同じである。昔は、経済的に余裕のある男性が、妾を持つことに寛容であった。しかし、結婚した女性が婚外恋愛をすることは、けっして許されなかった。何故かと言うと、自分の子どもかどうか解らないのに者に、財産を譲れないからである。縄文時代は性交渉がおおらかであったが、私有財産が形成された弥生時代からは、男は女性の婚外恋愛を厳しく戒めたのである。日本は男性中心の社会だから、財産は実子長男に譲るのが通例だった。

 結婚しているから他の男性を好きにならないのかというと、けっしてそうではない。結婚していても素敵な男性に惹かれるのは、人間として当たり前のことである。寂聴さんは、ひとりだけの男性ではなく同時に複数の男性を愛していたらしい。自分は一人の異性しか愛せないという女性がいるが、それも素敵な生き方である。寂聴さんのような生き方をしたいと思いながらも、世間の目を気にして我慢して生きるというのは、どうなのであろうか。倫理観に照らせば、けっして許されないことであるが、自分の気持ちに嘘をついて生きるというのは、苦しいものである。

 結婚していながら、他の男性と恋愛をすることで、育児を放棄したり家庭を崩壊させたりするのは、人間としてあるまじき行動である。自分の愛欲の為に、誰かを不幸にするのは許されないことだ。誰かの幸せを犠牲にして成り立つ愛なんてありえない。ましてや、婚外恋愛の相手から何かを得ようとか、性的な快楽を求めるためだけに恋愛をするのだったら、それは本当の愛ではない。相手に癒しや幸福な気持ちを与えたいとか、安全と絆という安全基地になってあげたいという、与える愛であるべきだと思う。つまり、無償の愛でなければならない筈である。

 ところが、相手のことが好きになればなるほど、自分だけで囲って独占したいとか、自分の思い通りに相手をコントロールしたがるものである。相手の自由を奪うような愛では、やがて相手の気持ちは自分から離れて行き、破綻するであろう。心身を鍛えて、自分の魅力を磨いて、相手が愛したいと思うような自分であり続ける為に精進したいものである。ところが、愛着障害を抱えている女性は、見捨てられるのではという不安や恐怖が大きく、相手を縛り付けたくなるものである。見捨てられ不安が強い女性ほど、相手を縛らずに、与える愛に徹したいものである。

 人間は、人を愛することで成長する。たとえ実らない恋愛であったしても、貴重な経験となるだろうし、大きな気付きや学びを得るものである。ましてや、無償の愛で相手を包み込むような言動を続けて行き、愛される自分であるために自らを磨いて行けば、心身共に美しくなるに違いない。益々人間的な魅力を増すであろう。寂聴さんは、だからこそ人々に愛することを勧めたのである。寂聴さんは、求める愛ではなく無償の愛を注ぎ続けたからこそ、人間として輝き続けたのかもしれない。ご冥福を祈りたい。お疲れさまでした。

新型コロナ感染症の後遺症が恐ろしい

新型コロナウィルス感染症が止まらない。コロナ感染症は、風邪みたいなものであって、インフルエンザよりも怖くないと主張する一部の専門家もいる。確かに日本での感染症は重篤になる人の割合も少ないし、死亡率も世界からみると極めて低い。若年層においては、重症化することがないからと、平気で夜の街関連のお店に行く人も多い。ところが、ここに来てこのコロナ感染症の怖い後遺症についての報告が相次いでされている。重い後遺症で長く苦しんでいる若者が少なくないし、社会復帰できない人もかなり多くいるという。

 

新型コロナウィルス感染症の実態については、まだまだ解らない部分が多い。特効薬も見つかっていないし、ワクチンだって開発が極めて難しいし、実用化には程遠い。そんな中で、感染して治癒した人の中から、後遺症で苦しんでいる人たちの声が、ようやくマスコミで取り上げられてきている。日本の厚労省もようやく重い腰を上げ初め、来月から後遺症の実態調査に着手するというニュースが流れた。疲労感、息苦しさ、咳、頭痛、胸部痛、味覚障害、嗅覚障害、食不振、筋肉痛などの深刻な症状が長く残存すると報告されている。

 

ではどのくらいの感染後の後遺症が残るのかというと、残念ながら日本ではまだ統計調査実績がない。イタリアでの調査によると、まったく後遺症が残らないと回答した人は、わずか12.6%に過ぎないという調査結果がある。つまり、87%もの割合で後遺症があるという恐ろしい調査結果が出ているのである。新型コロナ感染症は単なる風邪やインフルエンザみたいなものだと強弁する専門家がいるが、風邪やインフルエンザでこれだけの後遺症が残るケースはあり得ない。つまり、この新型コロナ感染症は、後遺症という点で極めて危険な疾病なのである。

 

それでは何故、この新型コロナウィルス感染症の後遺症がこんなにも多いのかというと、いろんな原因が考えられている。新型コロナウィルスが、治った後も体内に残存していて、それが後遺症を引き起こしていると考えられている。また、この重症感染症に対応して免疫システムが暴走した為に、免疫システムが変化してしまったと考える専門家もいる。ウィルスが残存しているという説は考えにくいし、免疫系の暴走説が正しいのではないかとみられる。副交感神経系(免疫系)の暴走が影響していると考えられる。

 

自律神経というのは、交感神経と副交感神経の二つから出来ていて、このバランスが崩れることで病気になると考えられている。交感神経が活性化し過ぎて、副交感神経が後退してしまい、免疫力が落ちるというように以前は考えられていた。ところが、そのように単純ではないということが判明した。免疫学で著名な安保徹先生は、副交感神経のうち、獲得した新免疫システムが働いているうちは、免疫は正常に働くと主張されている。ところが重症の感染症を起こすと、新免疫システムは破綻して、古い免疫システムが働いてしまうらしい。これが、免疫の暴走と考えられている。自己免疫疾患の発症も同様である。

 

最新の医学理論が、この免疫システムの証明を後押ししてくれている。それは、ポリヴェーガル理論である。副交感神経の約8割は、迷走神経である。この迷走神経には、背側迷走神経と腹側迷走神経がある。獲得した新免疫システムというのは、腹側迷走神経がその役割を担っている。暴走してしまう旧免疫システムは、背側迷走神経が関係している。命の危険に関わるような重症感染症に陥ると、腹側迷走神経の働きを抑えて、背側迷走神経が暴走してしまい、免疫システムが正常に働かくなってしまうと考えられている。

 

故に大事なのは、新型コロナ感染症に感染しないことである。もし感染したとしても、重症化しないようにすることが大切である。その際に、感染しやすい人かしにくい人、または重症化する人かしない人かは、メンタル面が大きく影響しているのではないだろうか。病は気からというように、元々病気になりやすいかどうかも、メンタル面の影響が大きい。それは、その人の物事に対する認知や考え方が影響を及ぼしている。いつもくよくよしたり自分を責めたりする人、自分を犠牲者とか被害者にしたがる傾向の人は、コロナに感染しやすいし重症化して後遺症になりやすい。つまり、コロナを寄せ付けない為には、自尊感情を高め、自己否定しない生き方をしなくてはならないということだ。

 

※何故に自分は自尊感情が低くて自己肯定感を持てないのかと、悩んで苦しんでいらっしゃる方は、「イスキアの郷しらかわ」にご相談ください。いつも、自分を犠牲者や被害者にしてしまい、いつも過去を悔やんでくよくよしてしまうし、悪い結果を引き寄せてしまう自分を変えたいと思っている方は、「問い合わせ・相談」フォームからご相談ください。

コロナで学ぶLOHASな生き方の大切さ

「パチンコ店さえ休業してくれたら、来ないのに!」とのたまうパチンコ客が大勢いる。それは本末転倒である。そもそも、感染の危険が高いパチンコをする人さえいなければ、パチンコ店は営業しないのだ。こんな危険な時期にパチンコに行かないでいられない人は、ギャンブル依存症という病気なのである。精神科を受診することを勧めたい。パチンコは、遊戯ではなくて完全なギャンブルである。公営でしかギャンブルを認めない筈なのに、民営のギャンブルであるパチンコを許可することがそもそも間違いなのだ。

コロナ感染の危険性が高いと言われているのに、バーやキャバレー、スナック、風俗に通う人たちもいる。こういう人たちも、アルコール依存症やセックス依存症かもしれない。カラオケボックスやカラオケ教室、LIVEに行かないといられない人もいるが、これもある意味で依存症とも言える。感染のリスクが高いダンスクラブやスポーツジム、ヨガ教室に行かないと我慢できない人も、問題だろう。これらのギャンブルや接客業、趣味に行けなくてストレスが溜まり、家庭内でDVを働く人がいるらしいが、こういう人間は生きる資格がないと言える。

このコロナ感染症が大流行をしたことで、DV被害やコロナ離婚が起きて、家庭崩壊が起きつつあるという。企業や組織・団体の中では、パワハラやモラハラが横行してしまい、社員どうしの信頼関係が崩壊しつつある処も多いらしい。それぞれの地域内においては、コロナ感染を起こした家族を村八分のように扱う所もあるし、感染症の病院で働く人やその家族を排除する動きも強まっていると聞く。政府や自民党内でも、この未曾有の国難に遭いながら、権力争いに発展しているという。つまり、コミュニティが崩壊しつつあると言えるのだ。

言ってみれば、今まで隠し通してきた、またはないことにしてきた不協和音が一気に爆発を起こしたようなのである。人々のエゴが暴発したというような状況だと言える。このような大変な事態になって、皆が一致団結して協力し合いながら難局を乗り切らなければならないのに、自分の利害や損得を前面に出してしまい、身勝手で自己中心的な行動をするようになったというのは情けない。一方では、ボランティアで高齢者支援活動や献身的に医療活動に携わる人も出ている。全体最適を目指す人と個別最適を優先する人の二極化が起きているのだ。

これは何を意味しているかと言うと、人々の本音や本質が明らかになったということではないだろうか。高潔で素晴らしい価値観を持った人と、低俗で劣悪な価値観を持った人とが、炙り出されてきたとも言えよう。コロナ感染症で重症化する人というのは、持病を持った人だと言われている。高血圧、糖尿病、心肺機能の低下症、喫煙者、アルコール常飲者などが重症化しやすいらしい。すべてが生活習慣病だとは言えないが、自分の悪い生活習慣や生き方が招いたとも言えよう。これも本人の人生哲学が影響していると言えないだろうか。

高齢者や介護施設に入所されている方も重症化して亡くなる方が多い。自分も高齢者であるが、自分が新型コロナ肺炎になったら延命治療は受けたくないと思っている。何故なら、そうなったときは自分の寿命なのだから、無駄な医療費を浪費させたくないからである。今の医療や介護はクォリティオブライフを無視している。ある程度の生活の質を保てなくなったら、または社会に貢献できる体力や気力がなくなったら、延命治療はせずに自然死を望むのが、人間本来の生き方だと心得ている。コロナ肺炎は、まさにノアの箱舟のような気がする。

発症して重症化する人と、感染しても発症せずに抗体ができる人がいる。発症するかどうかは、普段の食生活や生活習慣に関わっていて、LOHASな生き方を普段から心がけている人は発症しにくいのではないだろうか。不健康で自堕落な生き方、つまりはタバコを吸い、ギャンブルに没頭し、アルコールに依存した生活をしている人、またはそんな乱れた生活を過去に続けてきた人が重症化するのではないだろうか。例外はあるとしても、家庭を大切にして、環境に配慮しながら持続可能で健康的な生活をしている人は発症しにくいのではないかと思われる。今回のコロナ感染で、LOHASな生き方を志向する人が増えてほしい。

不登校・ひきこもりは愛着障害から起きる

不登校やひきこもり、休職などの社会への不適合が起きるのは、根底の問題として愛着障害が存在することが判明した。勿論、愛着障害と言えるようなレベルではなくて、不安定な愛着というような軽いものでも不登校やひきこもりが起きてしまう。発達障害や自閉症スペクトラム、または適応障害、強迫性障害、摂食障害、妄想性障害、パーソナリティ障害などのメンタル障害を当事者が抱えていることも多いが、それらの障害も愛着障害から起きているというから驚きである。

不登校やひきこもり、休職の原因は、いじめや不適切指導、さらには、社会全般にはびこるハラスメントによるものだとされているが、本当の原因はそうではない。何故ならば、同じようないじめや不適切指導、各種のハラスメントを受けたとしても、不登校やひきこもり、休職まで追い込まれない人もいるのだ。同じような意地悪な行為を受けても、はねのけたり乗り越えたりする人もいる。何らかの問題や課題を抱えている人だけが、不登校やひきこもりに追いこまれると考えたほうが論理的である。

その抱えている問題とは、愛着障害、または不安定な愛着という問題だと言える。愛着障害というのは、親との深く強い関係性、愛が溢れるような良好な絆が結ばれていない状態である。子どもというのは、本来は親から無条件の愛を注がれ、どんな場合でも親が自分を守ってくれるという安心感を持って育つものである。子どもは、親から絶対に見捨てられることもないし、ずっと支えられ続けるという安全で安心できる環境で育てられることが必要だ。そうでないと、何か苦難や困難が起きた時に、乗り越える勇気が持てないのだ。

この安全で安心するような環境で育てられないと、愛着障害、または愛着が傷つけられた状態を抱えてしまうのである。そうすると、苦難困難に出会うと回避したり逃避したりするし、誰かのせいにしたり他人を恨んだりして、自己成長が停止してしまうのである。こういう愛着障害の人間は、社会に適応できなくて、ひきこもってしまうのである。言い換えると、人間はいかなる時も自分を守ってくれる安全基地を必要とするのに、その安全基地を持てないから、いつも不安や恐怖感を持ってしまい、社会に出れなくなるのだ。

この安全基地というのは、誰にでも必要なものである。その安全基地というのは、通常は家族がその役割を担う。家族の絆が健全でしっかりしていれば、母親か父親がその役割を果たす。無条件の愛である母性愛を注ぐ母親が安全基地となる傾向が強い。しかしながら、何らかの原因があり、母親がその安全基地になりきれないケースがある。そういう時に、子どもは愛着障害や不安定な愛着を持ってしまうのだ。そうすると、子どもは不登校やひきこもりになることが多い。

愛着障害や不安定な愛着を抱えている子どもは、脳内神経伝達物質のひとつであるオキシトシンが不足している。このオキシトシンは、安心ホルモンと呼ばれる。オキシトシンが不足すると、大きな不安や恐怖感が心を支配してしまい、怖くて社会に適応できなくなり、良好な人間関係を築けなくなってしまう。強迫性障害、摂食障害、不安神経障害、対面恐怖症、パニック障害、妄想性障害、適応障害などを起こす。発達障害もオキシトシンが不足していると言われている。

オキシトシン不足は、母親との濃厚なスキンシップが不足し育てられると起きるとも言われている。驚くことに、このようにオキシトシン不足で愛着障害を抱えている子どもの母親も同様に、不安定な愛着を抱えているケースが多いのだ。だから、不登校の子どもの母親もまた不安が大きく、親子で不安をお互いに増幅し合っていることが多いのである。ちなみに、母親に適切な支援をして不安を取り除いてあげると、子どもの不安も払しょくされて、登校できるようになることが多い。母親のオキシトシンが増えると共に子のそれも増えるからだ。

安全基地としての機能を果たせない母親に、寄り添い味方になってくれる存在が必要である。傷ついて不安定になった愛着を癒す行為を「愛着アプローチ」と言うが、この愛着アプローチを母親は必要としている。母親と当事者の両方にこの愛着アプローチが適切に行われて、愛着障害や傷ついた愛着が癒されると、不登校やひきこもり、そして社会への不適応が見事に解決される。勿論、抱えている愛着障害や傷ついた愛着が改善されることで、メンタル障害も緩解する。

※不登校やひきこもり、社会への不適応をしているわが子のことで悩んでいるお母さん方へのサポートを、「イスキアの郷しらかわ」では実施させてもらっています。愛着障害とその解決策である愛着アプローチについて詳しく解説すると同時に、愛着アプローチを実施します。まずは「問い合わせフォーム」からご相談の申し込みをしてください。相談の対価は一切求めませんので、安心してご相談ください

メンタル不調の原因は愛着障害にある

複雑なメンタルの不調を抱えている人が多いが、それらのメンタル障害が愛着障害によって発症していることが判明したという。メンタル障害の医学的治療は難しいし、効果は限定的である。さらに、それが愛着障害から発症したものであれば、薬物治療などの医学的治療で根治するのはなおさら困難である。現代医療では治療が困難だとされる、双極性障害、慢性うつ病、気分障害、境界性パーソナリティ障害、PTSD、摂食障害、妄想性障害、各種依存症、ADHDなどは愛着障害による影響が大きいとされる。それらのメンタル障害が、適切な愛着アプローチによって見事に改善するという。

不登校やひきこもり・ニート、休職者の当事者は複雑なメンタル障害を抱えているケースが少なくない。そして、その根底になっているのが愛着障害だと推測されるケースが殆どである。愛着障害というのは、英国の児童精神科医ジョン・ボウルビーが1950年頃に提唱した、児童精神発達障害理論のひとつである。愛着障害は日本の精神医学会ではあまり注目されてこなかったが、近年大きな話題を集めている。著名な児童精神科医である岡田尊司氏がその豊富な臨床経験によって編み出した愛着アプローチが多大な実績を上げているからだ。

岡田尊司先生は、長い期間に渡って少年院に送致された子どもたちの精神的ケアーに携わっていらした。その中で、それらの生きづらい少年たちが複雑なパーソナリティ障害を抱えていることに驚き、その克服に尽力されてきた。現在は、大阪で岡田クリニックを開所されて、メンタル障害で苦しむ青少年たちの治療をされているという。そして、岡田先生はパーソナリティ障害などのメンタル障害の根底に、愛着障害が潜んでいること気づき、愛着アプローチを実践して、多大な効果を上げているのである。

不登校やひきこもりの青少年たちだけでなく、生きづらい大人にも愛着障害が潜んでいるし、各種のパーソナリティ障害に苦しんでいる人々にも根底に愛着障害があるというケースが多い。愛着障害というと、乳幼児期に養育者からひどい虐待やネグレクトを受けた子どもたちが持つ障害だと思われている。または、乳幼児期に養育者から見捨てられる経験で愛着障害になると思われてきた。ところが、ごく普通の家庭で育てられた子どもでも愛着障害を抱えているケースが少なくないという。そして愛着障害から発症したパーソナリティ障害などのメンタル障害で苦しむ大人に成長してしまうケースが多いのである。

すべてのメンタル障害が愛着障害から発症しているとは言えないが、想像以上に愛着障害が根底にあるケースが多い。薬物治療などの医学的な治療ではまったく効果がなかった症例が、愛着障害と診断され、適切な愛着アプローチを受けると見事に改善されるのである。それも驚くことに、愛着障害を抱えた当事者への愛着アプローチだけでなく、母親に対する愛着アプローチのほうが大きな効果を上げることが多いというのである。今までの医学理論ではそんなことはあり得ない。しかし、実際に母親への愛着アプローチによる支援によって、当事者の症状が劇的に改善するのである。

愛着障害が発症するのは、虐待やネグレクトなどの特殊なケースだけではない。ごく普通の家庭教育を受けて、家庭の外から拝見すると親から愛情一杯に育てられて、何も問題がないと思われているケースでも愛着障害が発症してしまう。特に、両親が高学歴で知能レベルが高く、あまりにも教育熱心な親である場合が多い。子どもに対して必要以上に親が介入して、子どもの主体性の発達を阻害してしまうのである。こういう場合は思春期に、いじめなどをきっかけにして、強迫性障害、摂食障害、不安障害などを発症して、不登校やひきこもりを起こしやすい。酷くなると、家庭内暴力までも起こす。これも愛着障害である。

不登校、ひきこもり、メンタル不調による休職などは、殆どのケースで愛着障害が基になっていると言っても過言でない。したがって、医学的な治療ではまったく効果がないが、適切な愛着アプローチによる支援を受けると見事に回復して社会復帰する。この愛着アプローチとは簡単に言うと、不安定になった親子の関係性(愛着)を、親密で安定した関係性に戻すことである。それも、当事者よりも母親への適切なアプローチ(支援)のほうが、効果が大きいという。母親からの子どもに対する愛情が、寛容性と受容性の極めて高い母性愛に変容すると、子どもは変わる。まさに親が変わると子は変わるのである。

※愛着障害が根底にある不登校、ひきこもり、メンタル不調による休職者への愛着アプローチによるサポートを「イスキアの郷しらかわ」では実践しています。特に、子どもが不登校、ひきこもり、休職などの問題を抱えて悩んでいる母親に対する支援をさせてもらっています。愛着障害が起きる原因とその対策に関する研修、そして実際に愛着アプローチのやり方を学ぶことが可能です。まずは「問い合わせフォーム」からご相談ください。