善意からの行為をして、結果として善意の効果をあげることが出来ず、訴えられてしまうということがたまに起きてしまう。大丈夫だよ、心配いらないよ、良くなるからねと不安を払拭して安心させるために言ってあげた言葉が、効果がなかったのはあなたが悪いからだと責められるというケースは少なくない。だから、余計なことをして恨まれるのが恐いからと、あえて善意の手助けをしない人もいる。この善意からの行為をして、その結果がどうなろうとも善意の行為者は罪を問われないというのを『善きサマリア人の法』という。
この善きサマリア人の法というのは、イエスキリストが語った話が元になっている。ある人が強盗に遭い、倒れているのを通行する人々は誰も助けようとしない。とあるサマリア人が通りかかり、そのサマリア人だけが被害者の救護に当たったという話である。そこから転じて、救護が必要な人に出会い、救護行為をする中で例え悪い結果を招いたとしても、誠実に懸命な努力(善管注意義務を怠らずにした行為)をしたなら、罪には問われないと規定する法律のことを指すようになった。実際に法制化されている国々も存在する。
残念ながら日本では法制化されていないが、アメリカやカナダなどでは、法律として制定運用されている。民事的な責任も、刑事上での罪にも問われないと規定されている。日本では、民事的な請求が棄却できるという規定があるものの、刑事訴追までの免責は規定されていない。したがって、日本において救命措置が必要な場面に出遭い、医師の類似行為を民間人が行って、救命措置が成功したとしても、医師法違反になり刑事訴追をされることは免れないということである。理不尽だと思うかもしれないが、法治国家とはそういうものだ。
善意の行為であり、無償の行為でもあるのだから、許されるべきだと考える人が殆どであろう。しかし、実際には医師法違反として厳しく罰せられる。それが法治国家としては、正しいのである。とは言いながら、減刑はされるだろうし、おそらく執行猶予判決になるのは間違いない。だとしても、前科持ちになってしまうし、SNS上で偽善者じゃないのとか謂れのない批判にさらされることもある。見ず知らずの人の為に、そんなリスクを負ってまで善意の行為をするのは、馬鹿らしいと思うのが当然である。
善きサマリア人の法は制定されるべきだと主張する法律家が少なくないが、そんな法律が出来てしまうと、逆に名誉や賞賛を得ようとして、とんでもない行動をする人が増えかねないと心配する専門家も存在する。今は、何でもかんでもSNSで発信する時代である。SNSでバズることで得られるCM料欲しさに、知識も乏しいのに医師の真似事をするような人が増えてしまうと心配する人も多い。確かに、善意の行為というのは、純粋に人助けだけをする人だけがする訳ではない。名声を得るために偽善的行動をする人だっているのだ。
善きサマリア人の法を国の法律として制定しようとすると、本来の意義に反しないようにするために、いろいろな制限を加えなければならないようである。しかし、そんな制限を加えるということは、本来の趣旨に反するような気がする。元々、善良なる市民を守るための法律なのに、偽善者や裏心を持つ人がいるという前提を基に法律を制定するというのは、とても悲しい気持ちにさせられる。元々、キリストだってサマリア人を賞賛する意思もあったが、見て見ぬふりをして通り過ぎる人の悪意について述べたかったに違いない。
目の前で虐めを見ても、それを見て見ぬふりをしているのは、共犯と同じだと主張する人もいる。公共交通機関の中で、強面の屈強な男性がか弱き女性に絡んでいるのを、傍観するのも許せないと糾弾する人もいる。確かに、それは卑怯な行為だと言える。しかし、自分に攻撃が向かうかもしれないという恐怖に打ち勝てる人は、そんなに多いとは思えない。一人で立ち向かうのは空恐ろしい。こういう場面で、救護をしないと社会的に罰せられる、欧州のような社会通念が望まれる。そして、日本でも勇気を振り絞って善きサマリア人の行動をする人がいたら、一緒に行動をしてくれる人が出てくることを期待したい。
※イスキアの郷しらかわで、心身を病んだ方々の救済活動を実施していると、なかなか結果が出ない方から責められることもないとは言えない。長い期間に渡り心身をやられてしまわれた方は、癒されるのに時間がかかる。ましてや、複雑性PTSDのように何度もトラウマを経験して、ポリヴェーガル理論における背側迷走神経の暴走によりフリーズ・シャットダウン化が起きた方は、一筋縄ではその凍り付き状態から抜け出せない。そして、不安感・恐怖感からHSPになって起きた症状なので、安心させるために大丈夫だよ、良くなるよと不安を取り除けるように声掛けをするから、良くなる傾向がみられずあせって、支援者を責めることもある。それでも、くじけずあきらめず善きサマリア人のように粛々と救助にあたっていきたいと思っている。