心を真に癒せるのは自分だけ

ヒーリングセミナーとか癒しのセッションなどが盛んに行われている。または、スピ系ヒーリングとか、自分を神と名乗って人々を癒すセッションなどが各地で開催されている。一時的な心の平穏や安心を得られるという効果があるのは承知しているし、それをきっかけにして自分自身を深く見つめて、自分の精神的な成長に繋がるような努力をするというならば、受講する意味があろう。しかし、これらのセミナーや勉強会を受けるだけで、心が癒せると思い込ませるだけならば、こんなセミナーを受講するのは百害あって一利なしである。

オオミスミソウ(雪割草)新潟県角田山

スピ系や神系の考え方をすべて否定する訳ではない。なるほどと思えるようなことは少なくない。心の癒しのきっかけや自分との対話への導入部として活用するというならば、否定するものではない。しかし、自分の深い学びや心の成長に向かわずに、神や霊などを信じるだけで、自分が救われるという安易な方向に向かわされてしまうケースが多いのが気になる。ましてや、自分の心を誰かとか何かによって救ってもらえるというように、勘違いさせてしまうのであれば、これらのヒーリングセミナーは絶対に受講すべきでない。

それにしても、こんなにも世間ではヒーリングセミナーが流行しているということは、それだけ心の癒しを多くの人が求めているという証左でもあろう。誰かによって癒されたい、何かを信じることで自分が救われると思い込んでいるのかもしれない。または、このグッズを自分の周りに配置すれば癒される、このパワースポットをお参りするだけで救われると信じているのである。誰も支援してくれないし助けてくれないと思っているからこそ、何かにすがりたいというのも頷ける。

ヒーリングセミナー、占いとかスピ系の癒しセッションなどを受講するだけで、傷ついてしまった心が真に癒されることはない。ましてや、PTSDやパニック障害、メンタル障害に陥り苦しんでいる方々を、完全に治せる筈がない。百歩譲って、自分を傷つけたいと思うような事態に追い込まれている人を救う、緊急避難的な効果は認められかもしれないが、完全に癒されることはないと認識すべきであろう。冷たい言い方かもしれないが、自分の心を真に癒せるのは、自分しかないのである。

一部の医療機関では、薬物治療をなるべく用いないで精神療法や心理療法を駆使して、完全治癒を目指している。しかし、殆どの医療機関では漫然と薬物治療だけをして、根本治療を怠っている。真に心を癒して完全治癒の効果を上げているカウンセラーもあまり見当たらない。自分の心は自分自身でしか癒せないし、何故自分がメンタル障害になったのかを完全に認識させてくれる医療機関や福祉機関は殆どない。だから、メンタル障害の完全治癒のケースが極めて少ないのであろう。

自分で自分の闇の心を深く見つめ、自分の間違った認知傾向とその基になっている低劣な価値観に気付いて、自分の考え方と生き方を自ら変えた人しか、自分を治せないのである。何度も繰り返すが、傷ついて折れてしまった自分の心を『魔法の杖』で治してくれることなんて存在しない。残念ながら、ヒーリングセミナーや神系セッションに何度も参加しても、無駄である。高い参加料や受講料は、ドブに捨てるようなものだと言ってよい。スピ系グッズだけで問題が解決するなんて、あり得ないのである。スピ系の皆さんにお叱りを受けるだろうが、自分を肯定させるセミナーだけで、人は癒せないと心得てほしいのである。

自分を真に癒せるのは自分しかいないというと、突き放しているように誤解されてしまうかもしれない。けっして、見捨てている訳ではない。自分を真に癒すのは自分だとしても、それを見守り個別支援する人は必要であろう。完全に自分だけで自分の心を癒してきた人も居ない訳ではない。しかし、それは実に稀なことであり、やはり何らかのサポートは必要であろう。心が傷ついた方にそっと寄り添い、本心から共感し、苦しくて悲しい感情を自分のことのように感じ、まるごと受け止めて寛容し受容し、例え間違っていたとしてもその物語に寄り添うことが必要である。その間違った物語に本人が気付き自ら捨て去るように、否定することなく対応する人が求められる。そして、新たな正しい物語を再構築できるように支援してくれる者がいてくれたなら、自分で真に心を癒せるのに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、心を癒すための治療はしていません。しかし、農業体験や自然体験をしながら自分の傷ついて閉ざしてしまった心を開くことが可能になり、自分の心を見つめ直すきっかけ作ります。さらに、クライアントの相談相手になります。森のイスキアの佐藤初女さんのようにただお話を伺うだけです。ナラティブアプローチのように、自ら古くて間違った物語(ドミナントストーリー)を破壊して、新たな正しい物語(オルタナティブストーリー)を創るお手伝いをさせてもらいます。自己マスタリーやシステム思考の学びがその新しい物語を創る支援になりますので、その研修も受講してもらいます。

命よりも大切なもの

財務省の決裁文書改ざん問題で、国会が揉めている。こんな低レベルのことを、世界に誇る日本の優秀な官僚が実際に行ったという事が驚きであるが、一人の官僚が自殺してしまったという痛ましい事件に発展していることが注目される。このような官僚を巻き込んだ事件が起きると、一番弱い立場にある下働きの行政職員が犠牲になることが多い。民間人であっても、贈収賄・汚職事件で自殺してしまうケースも多々ある。何よりも尊い命を絶ってまでも、守るべき存在なんてあるのだろうか。

巨悪に立ち向かうことが優先すべきだということは理解するが、一人の生命がないがしろにされてしまっているのに、その責任を追及しないマスメディアの姿勢も問題であろう。過去にも汚職事件などで、誰かを守るために犠牲になった方々がいて、追い込んでしまった責任を誰が取ったであろうか。守ってもらった人が、自分を守る必要はないよと言ってあげたりすれば、命は守られたであろう。亡くなった方の名誉を守るため、自分が悪かったと贖罪した人物はいなかったように記憶している。

今回の財務省の文書改ざん事件で自殺された方の名誉を回復させてあげたいと、自分が指示したことだと誰も言わないのは不思議であり、とても残念である。命は何よりも尊厳されるべきだということは理解している筈なのに、財務省官僚や政治家たちは口をつぐんでいる。命を軽視しているとしか思えない。亡くなった方の家族は、いたたまれないことであろう。この日本という国のかじ取りと航海を仕切っている政治家と官僚は、命よりも大切なものがあると思い込んでいるのかもしれない。

命よりも大切なものとは何であろうか。たぶん、日本を牛耳っている政治家とキャリア官僚たちは、国全体の利益とか国体の維持と考えている節がある。全体の利益ためには、個別の利益がある程度制限されることがあり得るのは理解している。しかし、人命までも奪ってまで守る利益なんて、本当にあるのだろうか。太平洋戦争時、特攻隊は国のために自分の命を犠牲にした。あの時に特攻隊を指示した高級軍人たちは、危険な戦場には出ることなく、のうのうと生き残った。あの当時の考え方が、今でも残っているとしたら、実に情けないし許せないと思うのは私だけではあるまい。

命よりも大切なものがある筈がない。人間としての尊厳、名誉、哲学、生き方を守る為に、自分の命を犠牲にしてでも守らなければならないという人がいるかもしれない。それは完全な間違いだという事を、親たちは子どもたちに教えてきただろうか。学校においても、命の大切さを教える教育はしていると思うが、子どもたちの心に響く言葉で教師たちは伝えてきたであろうか。どうも、このような命を尊ぶ教育が不十分だったのではなかったと思えて仕方ない。だから、汚職事件の犠牲者だけでなく、日本では自殺者が多いのではなかろうか。

命よりも価値があると言い張る人間がいる。それは、自分の命が脅かされることがない人間が言っているケースが多い。自分で命を絶つしかないと思う立場に追い込まれてしまったことがない人であり、テロや紛争が日常的に起きている地域に住んだことがない人であろう。自分の命が危機的な状況に追い込まれて、明日の命が解らないというような日々を過ごした経験があれば、絶対に命を軽視するような発言はしないものである。命よりも大事なものなんてないと、言い切ることであろう。

何故、そう言えるかというと、人間は生きていることでしか成し遂げられないことがあることを実感しているからである。死んでしまったら、家族、会社、地域、国家というコミュニティに対して貢献できないのである。どんな状況にあったとしても、人間は存在そのものが社会貢献をしているのである。死んで貢献することがあるという人もいるが、それは詭弁である。守護霊になって、家族を守るという人がいるかもしれないが、絶対にそんなことはない。自殺者が他の人たちに影響を与えて、後追い自殺をする人が多数いるのを見れば明らかである。命よりも大切なものなんて存在しない。だから、どんなに追い込まれても、自殺は絶対にしてはならないのである。生きていれば、今抱えている問題は必ず解決できるし、多くの人々の幸福や豊かさに貢献できるのである。

 

※学校や職場、または家族のことで悩んでいて、死んでしまいたいと思っている方がいらしたら、まずはイスキアの郷しらかわにご相談ください。匿名でもいいですし、事情などを詳しく問いただしたりすることはありません。言いたいことだけをおっしゃってください。問い合わせのメールだけのやりとりでもいいですし、個人アドレスでなくてもいいですから、まずはご連絡ください。問い合わせフォームからお願いします。

巣立ちの息子に伝える父の言葉

今の時期になると、三人の息子が大学入学のために独り暮らしを始める際に、こんな言葉を必ず伝えていたことを思い出す。三人の息子は、それぞれ県外の大学に入学したので、アパートに入居するために、3月のこの時期に引っ越し準備をしていた。その息子に対して大事な話があると、二人きりでお互いに正座して、じっくり話をした。それは、一人の男として人間として生きていくうえで必用不可欠なことであり、息子に対して父親しか言えないことでもあった。

その話とは、女性に対する思いやりであり、女性の人権を尊重するということでもあった。身体的にも脆弱で精神的にも傷つきやすい女性に対して、男たるものはその弱さや傷つきやすさをまずは深く認識すべきだということを伝えた。そのうえで、女性の身体を傷つけたり精神的な迫害をしたりしてはならいないということを肝に銘じておくようにと言い含めた。さらには、女性の尊厳を傷つけてしまうようなことも、絶対に避けるべきだということも伝えたのである。

例えば、単なる欲望の捌け口として、女性を利用しようとしてはならないし、相手の望まない性交渉を強要してはならないこと。性行為は、お互いの同意が必要であることは勿論のこと、根底に愛情が伴わないような衝動的性交渉は避けるべきこと。ましてや、性行動には妊娠という結果がついてくるので、お互いに経済的な自立基盤がない時期に、結婚するという覚悟がなければなるべく性行為はすべきでないということ。万が一妊娠させてしまうと、学生の身分では堕胎せざるをえず、そうすれば2度と妊娠が出来なくなるような心身のダメージを女性に与えてしまうから、絶対に避けなければならないことを伝えた。

さらには、男たるものどうしても愛欲や性欲に流されてしまうこと。だからこそ、そのような欲望にも毅然として立ち向かい、欲望に負けない精神性を持つことも伝えた。例えば、お酒を飲んだ時などは、ブレーキが利かなくなることが多い。だからこそ、自分を制することができるレベルまでしか酔わないような飲酒をしなさいと言い聞かせた。飲んだ時に歓楽街を歩いていると、いろんな誘いをかけられる。くれぐれも呼び込みを使って誘い込むような飲食店には、危ない目に遭うから絶対に付いて行かないようにと釘を刺した。

世の中には、女性の身体を売り物にした商売が存在する。例えば、下着姿や裸を売りにしたようなキャバレーやパブがある。飲みに来たお客に売春をさせる店もある。ソープランドと呼ばれる場所もある。このようなお店に行くことは、絶対に勧められない。何故ならば、お金で女性の身体を自由するということは、本人も納得しているし収入を得る為とは言え、女性の尊厳を傷つける行為であるからである。女性がお金の為に自分の身を売る行為は、自らの尊厳を傷つけてしまい、自己否定感情を強化させてしまうから不幸な人生を歩むことになりやすい。それを利用する男性がいるから、このような商売が成り立っていることを認識すべきだと付け加えた。

このように、独り暮らしをする息子らに対して、言いにくいことをしっかりと伝えたのである。看護師をしているwifeは、仕事柄多くの不幸な女性を見てきた。そういうこともあって、自分の息子が女性の心身を傷つけてしまうようなことをしてほしくなかったと思われる。だから、女性の親としては言いにくいことを、男の私に言わせたのだろうと思われる。娘を持てなかった私たち夫婦だからこそ、娘さんを大事に育ててきた親御さんのことを思うと、このようなことを息子に伝えざるを得なかったと言えよう。

武士道においては、惻隠の情(惻隠の心)を大事にしなさいと教えている。会津藩では、什の掟というものがあり、その中で『弱きものをいぢめてはなりませぬ』と戒めている。つまり、社会的弱者に対しては、強者たるものはいじめたり傷つけたりしてはならないということである。「強きをくじき弱きを助ける」をモットーにして生きるべきだと思っている。息子たちにも小さい頃から、惻隠の情としての弱きものに対する慈悲の心を持つことを、教えてきたつもりである。身体的には男性よりも圧倒的に弱い女性を、外敵や攻撃する者から身を挺してでも守るのが男性である。そのことをしっかりと伝えてから、独り暮らしをさせてきた。今でも、その戒めを守ってくれているものと信じている。

女王蜂症候群にならない為に

女王蜂症候群という語句を聞いたことがあるだろうか。最初は、1970年代の米国で盛んに話題になった注目ワードである。その後、ずっと忘れられていたものの、ここ数年この女王蜂症候群という言葉が話題になっているというのである。本来の意味とは、企業内で幹部職に昇進した女性が、女王蜂のように君臨して、部下を働き蜂のようにこき使う姿を揶揄したものと思われる。ちょっと前までは、女王蜂のように颯爽と仕事と家庭を両立させている女性幹部に憧れていた女性が、自分もやがてそうなりたいと頑張っていたのだが、最近は逆に減滅してしまい、経営幹部になりたがらないというのである。

女性キャリア職ならば、やりがいのある仕事を任せられ、やがては業績を残して昇進したいと願うのは当然であろう。せめて部長職まで昇りつめたいと思うのではなかろうか。男女共同参画社会の意識が高まり、一般企業においても女性管理職に対するアレルギーが少なくなり、女性管理職が増えてきた。しかし、せいぜい係長や課長止まりが多くて、部長や取締役まで昇進する女性は極めて少ないという。何故かと言うと、課長までならいいけど、部長までにはなりたくないと思う女性キャリア職が多いと言うのである。その多くが、女王蜂のように活躍する部長職の下で働いているというのである。

女王蜂のように君臨して、バリバリ働いている幹部職は女性の部下を実に上手く使いこなせると想像することであろう。自分も女性であり、女性の細やかな感受性を持つのだから、女性部下の気持ちが良く解る。女性特有の体調にも配慮できるし、家事育児の両立を経験してきたから、女性が働くための環境を整えることが上手に出来る筈である。同性だという気安さもあり、いろんな助言や指導が適切に行える。女性ということで、社内の根回しも出来ることから、部下も仕事がやりやすいことであろう。

ところが、実際に女性管理職の下で働く女性キャリア職たちは、様々な不満を抱えているというから驚きである。まず、子どもの軽い体調不良があり、休みが欲しいと申請すると、そんな風邪ぐらいのことで自分は休んだことがなかったと皮肉を言うというのである。さらに、若い頃の自分はもっと仕事を頑張ったし、業績も残していたと部下に頑張りを押し付けるというのである。それも自分の実績を過大評価して、自分の過去を美化するというから始末に負えない。こんな上司の下では働く喜びを感じられず、過大なストレスを抱えて、うつなどの気分障害になる女性が多いというから深刻だ。

人間という生きものは複雑である。自分が苦労して手に入れた地位や名誉は、手放したくなくなるものである。自分よりも仕事が出来て、能力も高くて他からの評価や信頼が高い部下に対して、無意識で排除したがるのはよくあることである。これは女性に限らず、男性の管理職にも多い誤謬でもある。管理職というのは、自分よりも出来る部下を育てることを無上の喜びとしなければならない。ところが保身意識が強い上司は、自分の立場が脅かされると、無意識で部下を育てたくなくなってしまう。特に価値観の低劣な上司ほどこういう対応をしやすい。

このように、部下を育てられず部下を使い捨てにしてしまう、女王蜂のような女性管理職が増えてきたというのである。そして、女性管理職が陥ってしまっているこれらの症状を、『女王蜂症候群』と呼んでいるらしい。実に困った状況になっている。熊本市議会の女性議員などが、市の職員に対して乱暴な言動をしてパワハラをしているのは、まさに女王蜂症候群だと言えよう。権力や権威を長く持つと、どうしても自分が一番だと思いたがるようである。男女共同参画社会がこれだけ浸透しているのに、こんな議員や幹部職員がいると、逆行しかねない。由々しき大問題である。

女王蜂症候群に陥ってしまい、部下を気分障害にしてしまったり、やる気を削いで辞職に追い込んだりする原因は、正しい哲学や価値観を持たないからに違いない。何のために仕事をするのか、どんな目的のために業務を遂行していくのかという、そもそも正しい働く目的がないのである。出世してトップになり、会社の業績を伸ばして、会社の役に立ちたいというのが目的だというなら、これは完全な間違いである。これは個別最適であり、社員同士やお客様、そして取引先との関係性を棄損してしまう。そうすると、結果として業績も伸ばせない。本来、働く目的とは人々のため世の中の為に、社業を通して貢献することにある。つまり全体最適にあるのである。その為に、関係性を重要視した管理が求められる。この全体最適と関係性重視の正しい価値観を持たないから、『女王蜂症候群』に陥っているのである。女性管理職には、正しい価値観を学んでほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、幹部職及び幹部候補生に対して、正しい経営哲学と価値観の学習を支援しています。部下がメンタル障害になったり休職離職に追い込まれたりしているのは、上司が正しい価値観を持たないのが要因のひとつです。是非、研修を受講してください。問い合わせフォームからご相談ください。

違いを怖れない

学校内などでの友達との関わりあいにおいて、皆と違う考え方や言動をすると、笑いものにされるらしい。それだけでなく、排除されたり虐められたりもするというから怖い。いじめの行為に対して、勇気を持って止めるように注意をすると、皆と違う行動する変な子として、次はいじめの対象者になることも多いと聞く。学校現場においては、皆が同じ方向を向いて、同じような考え方で行動することが、暗黙の了解らしいのである。したがって、それに背こうものなら、『変な人』というレッテルを貼られて、仲間外れにされるというから恐いことである。

他と違っているということだけで、疎外をしてしまうというのは、やり過ぎではないだろうか。そう言えば、皆と違うような意見を述べると、ネット上で炎上してしまうのも同じようなことかもしれない。なにしろ、皆が同じでないと安心できない人々がいるのは確かである。人は人、私は私と割り切れないものであろうか。そう言えば、あまりにも厳しい校則があり、生まれつき茶髪の子が黒く染めなさいと指導された学校があったと聞く。少しぐらい髪の毛の色が違うからと、目くじら立てて厳しく指導するというのも、違いを許せない性分から出た行為であろうか。

自然界の中で、多くの植物や動物が存在し、それぞれ同じものや生き物が二つとないことを知っているであろうか。勿論、人間も二つとして同じ人間はいない。何故かというと、それが生物の多様性であり、同じものだけだと種が滅びかねないからである。厳しい気候変動や地殻変動などで、その環境変化についていける動植物やついていけない動植物がある。種が生き残るためには、様々な環境にも適応した種が必要である。まったく同じ個体であれば、すべての種が滅んでしまうからではないかと見られる。人間だって例外ではない。種の保存には、多様性があったほうが生き残る確率は高くなる。

地球上には、実に様々な病原菌やウィルスが存在する。それらの病原菌やウィルスに強い人間がいないと全体が死滅してしまう。だから多様性を与えてもらったのかもしれない。さらに、人間に多様性が必要だった理由が特別に存在する。それは、人間がそれぞれに違うことによって、他人と自分の違いを認識できて、自分という存在がどういうものかということを知って認めることができる点である。人間全員が同じであったなら、他人との違いを認識できず、自分の存在意義を知ることが出来ない。自分はあってもなくても良くなってしまう。他人と違うから自分の必要性を感じることができるのではないだろうか。

さらに、自分と他人の違いがあることで、自分よりも優れていたり尊敬出来たりする部分を他人に発見すれば、自分もそうなりたいと努力すべき目標ができる。または、相手の中にとても醜いものや汚れた部分を発見すれば、そういう部分が自分にもあることを知ることで、そのマイナスの自己を乗り越えることができよう。だから、自己成長や自己実現の為にこそ、他人と自分が違うことが必要なのである。これこそが人間に多様性が与えられた理由ではないかと思うのである。それなのに、皆と同じように考えて同じことをしていたのでは、自らの成長がありえないし、人間の進化も停止してしまうのではないだろうか。

学校や職場で、発達障害や自閉症スペクトラムの人を排除したりいじめたりすることは、多様性の観点からも絶対にしてはならないことである。そして、その違いを認め受け容れることで、自分のさらなる成長も約束されるのであるから、違いを揶揄したり笑いものにしたりしてはならない。自分が他人と違っていることを、卑屈に感じたり恥ずかしいと思ったりしてもならない。堂々と違いを見せつけていいのである。違いを怖れてはならない。そして、その違いを認め受け容れられるような寛容社会を創り上げる努力を、我々は粛々と実行して行かなくてはならないのである。

このように皆が同じような考え方をして同じ行動をしたがるのは、絶対的な自己肯定感がないからではないかと見られている。何故、自己肯定感が育てられなくて、自己否定感が強いまま大人になっているかというと、生きていくうえでの確かな価値観が確立されていないからであう。例えば、システム思考という価値観がある。全宇宙におけるすべての物体と生き物、または人間そのものは、全体最適と関係重視の価値観によって存在している。自分もその全体最適と関係性重視の価値観に基づいて生きるという確固としたシステム思考の価値観が身についていれば、絶対的な自己肯定感が生まれる。そうすれば、他人と違うことを幸福に感じ、『変人』と呼ばれることを逆に喜びにできる。違いを怖れることはないのである。

直観を活用するために

大事な人生の岐路に立った時、どの道を選ぶのか迷う時がある。その際、拠り所とする直観力が鋭い人と鈍い人がいる。また、直観に従って何事も上手く行く人と、直観に従うとどうしても失敗してしまう人がいる。さらにどういう訳か解らないが、直観を大切にして直観に従う人がいる一方で、直観をあまり重視しないで、論理的に検討して次の行動を決める傾向の人がいる。自分に自信がないのか、直観に従う事に対して臆病で、他人の助言や指示を重視する人がいるのである。いずれにしても、直観を大事にする人と、宛にならないと軽視する人がいるのは確かだ。

直観をとても大切にしている人は、他人の意見や助言にあまり捉われず、直観に従って上手く行くことが多いみたいである。一方、直観をあまり信用せずに、敢えて直観に従わずに、論理的に科学的に深く考察して自らの行動を決める人は、意外と後で後悔することが多いらしい。直観に従って何度も失敗するので、もう信用しなくなったという人の直感というのは実は本来の直感ではないかもしれない。それは直観というよりは、単なる不安感や恐怖感であろう。こういうものは直観とは呼ばないと心得るべきである。

本来の直感とは、『ひらめき』であり、何かを真剣に集中して考える時にはひらめくことが少ない。どちらかというと、ぼーっとしている瞬間のほうがひらめくことが多い。または、散歩している時や黙々と登山をしている際にひらめきがやってくるという。あとは意外に多いのが、お風呂に入って湯舟に沈んでリラックスしている時である。中には、トイレに長い時間入っている時にふとひらめくという人も少なくない。どうやら、直観というのは深く意識している時はなかなかやって来なくて、無心や無我の境地にある時に、突然やってくるらしい。

直観とは、何ものなんだろうか。どうして、無心や無我の境地にやってくるのであろうか。それは、直観というのは、意識している脳、つまりは表層意識ではなくて、無意識の脳であるところの、深層意識により感じるものではないかと考えられている。表層意識というのは、有意識とも呼ばれていて、人間の脳のうち約1割前後しか使用していないと言われている。一方、無意識とも呼ばれる深層意識は、脳の9割前後を占めていると言われている。つまり、私たちの脳というのは殆どが無意識によって支配されていると言っても過言ではないのである。

ということは、私たちは普段自分でこうしたいという意識に従って行動していると思っていたのに、どうやら無意識の脳によって行動させられているらしいのだ。実際に脳神経学の実験によって、このことが明らかになったのである。人間の脳は、ある行動をしようと意識するその瞬間の少し前に、既に脳は勝手に行動させる脳波を出しているというのである。そんな馬鹿なことがある訳がない。私たちは自分の意識によって行動しているのは間違いないと誰しも言う事であろう。ところが脳神経学の実験では、誰でもどんな時にも、脳波は行動しようと思い立った時のすぐ前から、既に出ていることが解ったのである。

結論から言うと、我々は有意識により行動しているのではないのだから、無意識をもっと活用するようにすると共に、無意識を正しく機能させるようにしなければならないということである。先ほど記したように、直観が不安感・恐怖感とは違うという点も認識すべきだ。不安感・恐怖感に捉われてしまうと、それが直観だと勘違いしてしまうことになる。無心、無我の境地に入り、自分の深い心に存在する直感と素直に向き合い、その直観に従うことが自分にとって正しい道を歩むことになるのだ。無心、無我の境地というのは、スポーツの世界ではZONE(ゾーン)と呼ばれている。この心を無にすることが求められている。

この無心、無我の境地に入るコツは、マインドフルネスである。仏教では唯識と呼んで、座禅、写経、読経、あらゆる修行の極意でもある。ヨガも実は瑜伽行から発していて、この唯識からのものである。マインドフルネスとは、自分の意識を何か別の何かで心を満たして、捉われている思考の一時停止をすることである。だから、何も考えずにぼーっとしている時に人間はひらめくのである。この時にふと思いついた直観が大事である。この直観が正しく思い立つ為には、普段より無意識から穢れを排する努力をして、深層意識を清浄なるものにしなくてはならない。それは、清浄なる行動によって成し遂げられる。修行僧が心の穢れを除く為に、掃除や修行に勤しむのは、身も心も清浄なるものにする為だ。正しい直感を得るには、これしかないと確信している。

 

イスキアの郷しらかわでは、マインドフルネスの研修と共に直観力を磨き高める方法をレクチャーしています。研修費用については、今年いっぱいはボランティアで実施しています。日帰りでのレクチャーも実施いたします。是非、ご活用ください。問い合わせフォームからご相談ください。

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心の病を治す

心の病を現代の近代西洋医学では完治するのは難しいということを前回のブログで記した。投薬によって一時的に症状を抑えることは出来たとしても、完全に投薬と通院から解放されることは殆どないのが日本の精神医療である。なにしろ、日本の保険診療制度が改正されまでは、精神科の入院患者は固定資産として認識され、余程の事情がない限り医師たちは退院を認めたがらなかったのである。入院の必要のない入院患者が、人権を認められない状態で留め置かれていた。イタリアの精神科長期入院患者はゼロだと言われている。日本の精神医療が遅れているのは、この事実だけをみれば明らかであろう。

心の病になる原因は、脳の器質異常や脳内ホルモンの分泌異常だけではなくて、人体全体の完全なるシステムが何故か誤作動や暴走をするからだということを前回のブログで記した。そして、そうなる根本原因は、この宇宙や社会に存在する万物が自己組織化されていて、全体最適と関係性によって成り立っているにも関わらず、その価値観に反する考え方と生き方をしているせいである。人体そのものが、全体最適と関係性のシステムで成り立っていることは、NHKスペシャルの人体シリーズでも明らかにしている。人間がその正しい摂理に逆らって生きているから病気になるのである。

人体は、常に人間全体の最適化を目指しているし、60兆個に及ぶ細胞どうしや人体組織どうしの良好な関係性によって完全なるシステムとして機能している。それなのに、人間どうしが関係性を無視して反発し合ったり、自分さえ良ければいいと身勝手な行為を続けたりすれば、社会全体が病んでしまう。地球という環境も、人間さえ良ければいいと環境破壊が進めば、そこに住む人間が健康破壊にさらされるのは当然である。心の病は、こうした本来のあるべき生き方に反した社会に対して、違和感を覚えた人々の心が痛み、人体のネットワークシステムが誤作動と暴走をしてしまったとみるべきであろう。

だから、自分だけでなく人類全体の豊かさや幸福を願う全体最適の価値観と、お互いの関係性を大切にする価値観がこの社会にしっかりと根付いていたら、心の病気にはならないのである。ところが周りを見渡すと、自分さえ良ければいいという身勝手で自己中心的な人間ばかりである。会社や学校は、関係性を損なうような行為を平気でするような人間ばかりである。心を病むような環境にあるのだから、純粋で感じやすく心根の優しい人間ほど、心の病になりやすいのである。それでは、こういうように心を病むような人は、社会が正しい姿に変革されない限り、心の病を完治させることは出来ないのであろうか。

ところが、人間というのはそんなに柔軟性のない生き物ではない。そんな社会でも健康で生きることが可能なのである。それじゃ、社会の悪を見逃して感じないように鈍感になって生きればいいのかというと、そうではないのである。そのような社会的な間違いや悪を、受け容れて許すことが必要なのである。これは、相当に難しいことではある。でもよく考えてみてほしい。全体最適と関係性重視という大切な価値観を、現代の人々が忘れてしまい、それに反する生き方をしてまったのは、近代教育制度を西欧から導入した時からである。そして、現代人がこの正しい価値観を失くしてしまったのは、本人たちに責任はないのである。それを責めることはできないし、糾弾することも適切でない。

回り人々は全体最適と関係性の哲学を忘却しているのだから、自分に対して酷い扱いや冷たい対応をするのは当然である。それを怒り憎むのではなくて、こんなことも知らないとは『可哀想だな』と、一段も二段も高い位置から観察することである。自分はそんなレベルは通り越して、もっと高いレベルの宇宙意思(偉大なる創造主)に添った生き方をしているのだから、そんな詰まらない生き方に対していちいち反応などしていられないという考え方をすべきであろう。とすれば、自分に対してとんでもないことを強いて、自分を支配し制御しようとする人間にも、腹が立たなくなるし許せるようになるのである。

このような高い意識を持つには、正しい価値観であるシステム思考の哲学を学ぶ必要がある。そして、どんなことがあっても揺るがない自己をマスターすることも求められる。全体最適と関係性というシステム思考の哲学は、一朝一夕で身に付くものではない。それこそ、量子力学などの最先端の複雑系科学と人体のネットワークシステムも含めた、最先端の脳科学や分子細胞学、そして免疫システムを学ぶことが必要である。すべての学問を統合させなければ、正しい価値観を学ぶことは出来ない。さらには、自我と自己を統合させて、自己マスタリーを実現させないと、心の病は克服できない。このシステム思考の哲学と自己マスタリーを獲得できたら、心の病を完治させることが出来るのである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、心の病を起こすメカニズムとその対応策と治癒法を、詳しくしかも解りやすく解説しています。システム思考の哲学と自己マスタリーの研修を実施しています。心の病で苦しんでいらっしゃる方、そのご家族は是非ご相談ください。長い期間医療機関で治療しているのにちっとも改善しないという方は、ご検討ください。相談や研修費用は、今年いっぱいは基本的に無料です。食事代と宿泊料しかいただきません。無料で実施する訳は、ホームページの研修日程・費用の個所に詳しく記載してあります。

量子力学的生き方をする

最近、量子力学的な生き方というのが注目を浴びているらしい。量子力学というと、物理学の最先端の科学である。それが何ゆえに生き方などという哲学になりえるのか、不思議に思う人も多いことであろう。本来、科学と哲学は相容れないものとして考えられている。科学と言うのは実証論であり、哲学は観念論だからだ。あくまでも、科学的な検証に基づいて現象を分析解明していくのが科学であり、論理的な手法によってあくまでも観念として構築されるのが哲学という考え方であろう。だから、科学者はおしなべて哲学には疎いということが言われてきたのである。

ところが、最近の科学者、とりわけ理論物理学者の間では、哲学が科学的にも正しいのではないかという考え方が支配的になってきているのである。特に量子力学を研究している科学者は、研究すればするほど哲学的な観念が科学的にも実証されつつあることに驚いているらしい。ノーベル賞を取るような欧米の最先端の物理学者は、特に仏教哲学に傾倒していると言われている。日本でも、科学と哲学を統合した『科学哲学』を研究テーマにしている科学者が出てきている。これらの研究は、日本ではまだまだ進んではいないものの、これからは間違いなく進むものと期待されている。

それでは、どうして量子力学の研究者は哲学、それも仏教哲学に注目しているのであろうか。量子力学とは、原子レベルにおける素粒子の研究をしている。物体の成り立ちや宇宙の成立を素粒子レベルで明らかにする研究をしている。宇宙における生命体も含めた物体は素粒子で出来ているのであるが、その素粒子のうち質量を持ち実体として存在しているのはほんの僅かしかなくて、99.99%以上は実体がないと言われている。この世の中に存在するすべての物体は、実体がないということが量子力学で解明されて、仏教哲学で主張しているこの世は『空』であるとする理論と同じなのである。

しかも、量子力学においては光というのは素粒子でもあり波というエネルギーだと判明しているが、二重スリット実験において人が見ているとその波動が変化するということが解ったのである。つまり、仏教哲学において、人間の意識によって実体があると思えばあり、ないと思えばないという理論が、量子力学によって証明されたのである。さらに、素粒子は関係性によって実体が存在するということも判明したが、仏教哲学では縁起律というもので明らかにしている。こんなにも量子力学と仏教哲学がリンクしているとは、実に不思議な事であるが、般若心経は量子力学的に見ても、科学的に真実だという事が解ったのである。

量子力学においては、我々の意識によってこの社会がどのようにも変容するのだから、喜びも苦しみもすべて自分の意識が引き起こしているということになる。だからこそ、我々の意識を清浄なるものにして、しかも全体の平和や豊かさを希求する意識に高めていかなければならないのである。自分や家族だけの豊かさや幸福を願うのでなく、量子力学に基づいた人類全体の最適化を目指す生き方が必要なのであろう。ノーベル賞を受賞した熱力学の権威イリヤ・プリゴジンは、宇宙の成り立ちや物体の生成と存在において、自己組織化という法則が存在していると説いている。自己組織化という概念は、全体最適化という考え方に近いと言ってもいいだろう。

最先端の医学研究によって、我々の人体もまた自己組織化の法則、つまりは全体最適のシステムによって保たれているということが解明された。そうすると、人体そのものが全体最適のシステムによって維持されているのだから、人間もまた社会で生きていくうえで、全体最適のシステムで行動すべきだということである。全体最適の生き方をしないと、大きなゆらぎが発生し、人体そのものが不健康に向かってしまうし、社会全体も不健康な存在になってしまうということである。平和が保たれず、争い事やテロ・戦争に満ちた世界になるということであろう。

だからこそ、我々人間は常に全体最適の量子力学的な生き方が求められると言っても過言ではない。量子力学においては、豊かな関係性があってこそ世界は成立しているし、我々の意識によってこの社会がどのようにも変化しているということを示している。とすれば、自分だけの豊かさや幸福を求める、言わば量子力学に反する個別最適の生き方こそが、この社会を駄目にしていると言えよう。大国のT大統領や原理主義に凝り固まったK指導者のように、自国の利益だけを追求するような考え方は、いずれ破たんを迎えるということになる。今こそ、量子力学の生き方である全体最適と関係性重視の価値観に添って生きようではないか。

 

高僧徳一と仏都会津(2)

会津に仏教を広く布教した高僧徳一という人物について触れてみたい。彼は、当時の仏教界においては、非常に著名な学僧であり、実力もあり影響力も高い僧であったらしい。法相宗の中でも、理論派として名声があったのではないかと見られる。当時の奈良仏教界では、法相宗、華厳宗、法華宗、律宗などの古い仏教宗派が実権を握っていたと推測される。政治の権力者とも結びついていて、利権や権益にしがみつき、仏教により広く人々を救済するという本来の使命を忘れてしまい、贅沢な暮らしをして堕落していたらしい。そんな奈良仏教に幻滅して、新たな布教の地を求めて会津にやってきたのであろう。

高僧徳一がどれほどすごい人物だったかというと、天台宗の伝教大師最澄との論争をしたとの記録である。実際に論争を繰り広げたのではなく、お互いに仏教の解説書を書くことでのやり取りだったという。仏教における衆生の成仏が誰でも出来るのか、それとも限られた人しか出来ないのかという論争だったと伝えられる。それにしても、高僧徳一は最澄と堂々と仏教論で渡り合ったという。さらに、高僧徳一は最澄だけでなく真言宗の弘法大師空海にも論争を挑んだ。空海はそんな挑発にはさすがに乗ることなく、大人の対応をして上手くそらしたようである。

浄土真宗の親鸞の教えは、悪人正機説に代表されるように誰でも成仏できるというものである。法華経を根本経典として仰ぐ天台宗の最澄も同じく、誰でも成仏できるという考え方であった。これは一乗説と呼ばれている。高僧徳一は三乗説を取っていて、誰でも成仏できるというのは幻想であり、やはりそれなりの元になる人間性の基礎がないと仏性を得ることが出来ないし悟れないのだとする考え方だったという。どちらが正しいかは別にして、徳一和尚は奈良仏教の退廃ぶりと会津人の素晴らしい人間性を実感して、基礎となる人間の根本となる高い価値観がないと、仏性を得ることは出来ないと思ったのではなかろうか。だから、会津を布教の地と選んだのであろう。

そんなにすごい高僧徳一は、会津に衣一枚というみすぼらしい姿でやってくる。なにしろ僧侶が贅沢な暮らしをしてはならないという考え方であり、衣服や住居も最低限のものでよいという暮らしぶりだったようである。そんな余裕のお金があれば、仏教の布教のために使用するべきだという考え方を徹底したようである。現在の僧侶たちに爪の垢でも煎じて飲まして上げたいものである。日本で仏教が廃れた一因がこのへんにもありそうだ。そして、仏の教えで人々を救うために、会津一円から始めて東北全体に仏教を広めていったと伝えられる。

その仏教を広めるにあたり、人々の信仰心をゆり起こすために、お薬師さまの教えを活用したらしい。お薬師さまというのは、ご存知のように薬師如来を指す。薬師如来というのは、左手に薬壺を持つ仏像であるから誰でも認識できる。苦しんでいる衆生をその万能の薬により、お救いする仏像として有名だ。ただお救いするだけでなく、自分でも仏性(ぶっしょう)を発揮できるように、日々努力しなさいよと温かく励ましてもくれる仏像でもある。さらに、社会的悪や人間の中に存在する鬼も懲らしめてくれる、頼りになる存在なのだ。そんな薬師信仰は東北各地に広がり、多くの素晴らしい薬師如来像をもたらしてくれたのである。

会津に多くの寺院や仏像を残してくれた徳一和尚の功績は大きい。その代表格は、一時期壮大な寺院群を形成したと言われるのが、現在の磐梯町にあった慧日寺(えにちじ)と呼ばれるお寺である。その慧日寺は衰退して、見る影もなくなってしまった。しかしながら、その慧日寺跡に金堂が10年前に再建され、さらには中門も再現されたのである。往時の慧日寺の隆盛を偲ぶことができる。また、徳一和尚が建立したと言われる柳津町の虚空蔵様と呼ばれる圓蔵寺には今も多くの参拝客が訪れて賑わっている。高僧徳一ゆかりの会津のお寺や寺跡、そして仏像を訪ねてみてはどうだろうか。

 

※イスキアの郷しらかわを利用される方々で、会津の寺社や仏像を訪ねてみたいという方には、同行してガイドもいたします。お寺の縁起や仏像のこと、さらには徳一和尚のことなどを詳しくご説明いたします。仏像は見る人の心象を映す鏡とも伝えられ、「それでいいんだよ」と優しく語りかけてくれるとも言われています。疲れて傷ついた心を癒すには、仏像巡りもお勧めできます。

高僧徳一と仏都会津(1)

仏都会津と呼ばれるほど、会津には素晴らしい仏像が多い。何故かというと、古刹名刹が多いからである。福島県内の他の地域に比して、その数は特に多い。それは、天台宗の最澄と並び称される名僧徳一(とくいつ)の功績によるものだ。奈良仏教の退廃ぶりを嘆き、東北地方に理想の仏教を広めようと、会津にやってきたという。彼の布教活動は、会津一円に留まらず、県内は勿論、宮城県や茨城県などにも及んでいる。慧日寺(えにちじ)という、今は無き壮大な寺院を足がかりにして、会津盆地に数多の寺を建立した。それらの寺に配置されたご本尊の仏像の数々が、今に残されているのであろう。

とみに著名な仏像は、湯川村勝常寺(しょうじょうじ)の国宝薬師如来三尊像である。両側に日光菩薩と月光菩薩を従えた薬師如来坐像は、その堂々とした威容を誇る。その鋭い目は、煩悩を射すくめるような眼差しをしていて、見る者を畏怖させる。この寺には、徳一和尚の坐像も現存している。ラーメンや蔵の街として著名な喜多方市には、国指定の重要文化財、願成寺(がんじょうじ)の阿弥陀三尊像がある。この阿弥陀如来は、会津大仏として地域の人々に親しまれている。両脇侍の観音菩薩と勢至菩薩も立派である。下の写真がそれであるが、光背には無数の仏像が彫られていて実に見事である。

会津坂下町には、上宇内の薬師如来像と立木観音と呼ばれる千手観音像がある。どちらも著名な仏像である。上宇内の薬師如来像は、勝常寺のそれと違い優しい眼差しをしている。立木観音は、その名の通り、生えたままの立ち木をそのまま彫り上げた仏像で、今でも根っ子はそのままだという。高さ8メートルの巨大な仏像は、人々の心の拠り所として崇められてきたのであろう。他にも、中田観音や鳥追い観音と呼ばれる『ころり三観音』等多くの仏像がある。休日にこうした仏像巡りもいいものである。

 

こんなにも素晴らしい仏像と寺社を残してくれた高僧徳一であるが、どうして仏教を布教する地として会津を選んだのであろうか。わざわざ辺境の地であった東北の田舎である会津に、こんなにもすごい高僧がやってきたのか不思議である。その当時、会津は東北の中でも文化がもっとも進んでいた地のひとつであったのは間違いなさそうである。だとしても、敢えて会津を選んだのは、違う理由があったと思われる。それは、仏教が間違いなくこの地で布教出来るという確信したからではないかと考えられる。

高僧徳一がそう思った根拠はなんであろうか。おそらく高僧徳一は、事前に会津人をリサーチしたと思われる。もしかすると、一度訪れていたのかもしれないし、そうでなければ会津の事情を詳しく知人に聞いていたと思われる。それで、会津の人々が仏教を快く受け入れてくれると確信したと思われる。仏教を受け入れて、その教えに深く帰依するかどうかは、受け入れる側の人間性に大きく影響される。さらに、仏教が広がるかどうかにもその地域の人々の人間性が問われると言われている。高僧徳一は、会津人こそ仏教を受け入れ広めてくれる人間性を持っていると判断したのであろう。

会津人は良い意味で頑固である。その頑固さというのは、新しいものを受け入れないとか古い価値観にしがみつくという頑固さではなく、あくまでも人間としてあるべき正義や忠義を忘れないというこだわりである。そして、自らの利益や権利に固執する頑固さではなく、自分は犠牲にしても人々の為、世の中の為に貢献するという価値観を大事にする頑固さでもある。まさに、これは縄文人の価値観であり、全体に貢献するという生き方である。会津人がまさに仏教を布教するに最適の地だと、高僧徳一は確信したに違いない。

残念ながら、現在の日本では既に仏教は廃れてしまっている。殆どの日本人は、仏教の国だと勘違いしているが、儀式仏教になっていて、仏教に帰依している日本人はごく少数である。世界の中で、仏教の国だと言えるのはごく僅かしかない。仏教発祥の地であるインドに仏教徒はごく僅かしかいないし、中国では仏教が否定されている。朝鮮半島にも、仏教は残っていない。スリランカ、ミャンマー、ヴェトナム、タイぐらいしか仏教の国はなくなってしまった。何故、それらの国に仏教が残っているのかというと、それらの国民が仏教の教えを受け入れる高い価値観を持っているからであろう。会津を選んだ徳一の確かな洞察力と先見性に感謝したい。【続く】