メンタル疾患は、身体疾患とは違って医学的治療によって良くなる例が極めて少ない。ある程度は投薬治療によって症状が抑えられることはあったとしても、完治するケースは稀である。だからと言って投薬治療を選択せず、適切なカウンセリングやセラピーを駆使したとしても、寛解するまでの道のりは遠いし、完治まで到達するケースは殆どないといいだろう。それだけメンタル疾患というものが、治りにくいということを医療の専門家たちは熟知している。何故に、カウンセリングやセラピーではメンタル疾患が治らないのだろうか。
世の中には、優秀なカウンセラーやセラピストは沢山いる。そして、これらの専門家たちは様々な知識や技術を習得している。その道のプロフェッショナルである。その専門性は高くて、メンタル疾患になる原因や治す方法を熟知している。しかし、その治療効果はけっして高くない。それは、何故であろうか。その理由は、専門性が高いからである。不思議に思うであろうが、専門的知識に長けていると治療効果が逆に出ないのである。専門性が高過ぎると、その専門的知識に固執し過ぎるあまり、本当の原因とその対応策が見えなくなる。
最近、大学病院や地域の基幹病院において、総合診療科という診療科目が激増している現実を知っているだろうか。大きな病院では、診療科が細分化されている。同じ内科でも、上部消化管内科、下部消化管内科、内分泌内科、循環器内科、血液内科等々列挙に暇がない。外科もしかりである。すべての診療科が細分化されて、専門性が高まっているのである。その為に、患者の診断名が確定しない為に各科をたらいまわしにされるという不都合な真実が起きている。それで、すべての診療科に精通した総合診療医が必要になったのである。
専門性が高いというのは素晴らしいことである。ところが、診断治療する相手は人間である。専門性が高いということは、他の病気を知らないということになる。『木を見て森を見ず』ということが大病院の中で起きているのである。カウンセラーも疾患名や症状にとらわれ過ぎてしまい、人間そのものを観察し得ていないのではないだろうか。ましてや、メンタル疾患を患っている患者は、身体的症状をも抱えていることが少なくないし、独特のパーソナリティを抱えている。専門性が邪魔をして、真実が見えてないように思えて仕方ない。
医療機関に所属しているカウンセラーは、日々時間に追われている。一人の患者に多くの時間を割く余裕はない。個人でカウンセラーをしている人たちは、一時間いくらという時間設定にして営業している。時間に余裕がなくて、じっくり傾聴をする時間を持てる筈がない。当然、中途半端な傾聴と共感になってしまうのは致し方ないことである。ましてや、カウンセリングを受けた人はおしなべて感じることであるが、優秀なカウンセラーであればあるほど対応が冷たく感じるのである。優秀なドクターのカウンセリングも同じだ。
何故、カウンセラーやセラピストの応対が冷たいように感じるのであろうか。それは、クライアントの辛くて悲しい状況にあまりにも同情してしまうと、相手の感情に引きずられたり引き込まれたりするからだ。だからこそ、クライアントとの間の距離感を取らないと自分自身もメンタルが落ち込んでしまうように感じて、無意識で冷たい態度をとりがちになる。それは、自己防御の為であるから責められない。とは言いながら、クライアントへの感情移入をしないようにと意識し過ぎるあまり、冷たい態度だと感じさせてしまい、相手は信頼しない。効果が上がらないのは当然だ。
メンタル疾患や精神障害に陥ってしまった方に対するカウンセリングは、まったく無駄なのかと言うとそうではない。効果のあがるカウンセリングも存在する。それは、森のイスキアの佐藤初女さんのようなカウンセリングである。初女さんは精神医療の専門家ではない。だからこそ、初女さんは利用者の診断はしないし、原因分析もしない。そして、利用者に助言もしないし、病んだ心を癒そうともしない。ただ、ひたすら利用者の声に耳を傾けるだけで、利用者が既に持っている答を自ら引き出せると信頼し、そっと温かく見守り寄り添う。勿論、利用者に引き込まれることを畏れず、とことん共感して『聴く』ことに徹する。唯一、効果の上がるカウンセリングとは初女さんのような方法だけである。
※付け加えますと、人間というのは本来『自己組織化』する働きがあります。カウンセリングというのは、その自己組織化する能力を信じて、その能力を引き出すだけでいいのです。メンタルを病んだ人たちは、その自己組織化能力が低下しています。それなのに、カウンセラーが信頼関係を作れず、介入や干渉をし過ぎてしまうと、さらに自己組織化を阻害してしまうのです。人体というのはひとつの全体性を持った『システム』なのです。システムや自己組織化という科学的な根拠を無視したカウンセリングが効果がないのは当然です。