大学生の幼児性が話題になっている。大学というのは学びの世界における最高学府である。その最高学府に在籍する大学生は、それこそ日本の将来を担う逸材である筈だ。その将来を嘱望されるべき大学生が、幼児性を持っていると言われているのである。そんな馬鹿なと多くの人々は思うのだろうが、実際にその大学生と日常接している大学の教職員たちは、学生たちのあまりにも酷い幼児性に呆れているというのである。なんとも情けない時代になったものである。
ひと昔の学生ならば、論文を書くのに細かく指導しなくても出来ていたという。ところが、研究テーマの設定からその仮説と実証、そして結論までも、すべて手取り足とり指導しなければ書けないらしい。しかも、文章を書く能力もないというから驚きである。ネットの中のそれも不確かな情報であるウィキペディア等の文章をコピペするだけというのだから情けない。当然、寄せ集めの文章だから、起承転結のない一貫していない文章だという。こんなにも酷い学生の低レベルに嘆いている教授は多いという。
こんな幼児性を示す大学生ながら、大学入試においては、そこそこの成績で合格しているらしい。記憶力や計算能力は図抜けているという。小論文や記述式の成績は良くないが、殆どの受験者が同じ成績だから、試験を通ってしまうのであろう。あらかじめ決められていたり指示されていたりすることなら、ある程度出来てしまうらしい。試験勉強を専門にしてきているから、記憶力があれば一定レベルの点数は取れてしまうという。したがって、応用力やリスク対応力などはなくても、大学に合格してくるらしい。
大学生の幼児性は、学力だけでないという。考え方や生き方自体も非常に幼稚らしい。専門書を読まないし、純文学も読まないらしい。読むのは専らコミックだけである。また、ゲームが三度の飯よりも好きらしい。スマホを片時も手離せないし、SNSに完全に依存している。食べ物も幼児が好むようなジャンクフードを好むし、お菓子や炭酸飲料をバッグの中に常備している。誰からか指示されないと動けないし、自発的行動が出来ない。自ら考えて主体的に行動することが苦手だし、何事にも責任を取れないのである。困ったものである。
大学生の幼児性は、どこから生まれたのであろうか。誰がこんな若者にしてしまったのであろうか。大学の教授たちは、この学生の幼児性は学校教育による影響ではなくて、家庭教育に責任があるんじゃないかと見ているらしい。学校教育にも責任がまったくないとは言えないが、精神性が幼児のまま成長していないのは、家庭における子育てに原因があるに違いないと推測する教育者が多い。乳幼児期の子育てにおいて、あまりにも親が過干渉な態度を取り続けたせいと考えられる。子どもが何か話そうとすると先取りして親が話してしまうとか、親が次の行動を指示してしまうような干渉を繰り返したと思われる。その為に自分で考えて自ら自発的に行動するという事が出来なくなってしまったのであろう。
親が子に対して過干渉を繰り返すと、何故に子どもが主体性を失ってしまうのかというと、人間の自己組織化というシステム論から説明できる。人間というのは、生まれつき自己組織性が本来備わっている。生まれ育つうちに、人間には少しずつ自己組織性が成長する。ところが、あまりにも行き過ぎた『介入』を繰り返してしまうと、自己組織性が育たないのである。自己組織性というのは、人間にとって必要不可欠な主体性・自主性・自発性・責任性というものである。乳幼児期と少年期に指示・支配・制御などの介入を必要以上に繰り返すと、自己組織性が育つことがなく、幼児性が残ってしまうと考えられる。
大学生や若者に自己組織性が育つことなく、あまりにも幼児性が残ってしまっているのは、やはり家庭教育にその責任がありそうだ。だとすれば、その幼児性を青年期に払拭することは出来ないのであろうか。成人してからは、自己組織性を獲得することが出来ないとしたら、職場においても使いものにならないであろう。企業においても、指示待ち人間が増えたと聞き及んでいる。大学生の幼児性だけでなく、社会人でもその幼児性が発揮されているのであろう。家庭教育にその原因があったとしても、若者になってからの教育のやり直しで幼児性を払拭するのは困難ではあるが、不可能ではない。何故なら、人間は本来自己組織性を持つからである。行き過ぎた介入により自己組織性が育っていないのなら、介入のない教育を一からやり直すことで、自己組織性が必ず育つのである。
※「イスキアの郷しらかわ」では、自己組織性を育てる研修を実施しています。主体性・自発性・自主性・責任性を発揮できる人材を育てる教育をしています。つまり自ら自己組織化をする人材を育てる研修です。是非ご相談ください。