落語「厩火事」にみる夫婦愛

古典落語に「厩家事」という、夫婦愛を描いた名作がある。夫婦愛とはこうありたいものだという噺ではあるが、ユーモアを交えたほのぼのとした物語に仕立ててある。妻を愛する気持ちが夫にあるのか確認したいという人は参考になるだろうし、夫とはこういう時こそ妻への愛情が試されるということを心得るべきであろう。

髪結いをしているお崎が、仲人のだんなのところへ相談にやってくる。亭主の八五郎とは所帯を持ってかれこれ八年になるが、このところ毎日夫婦喧嘩に明け暮れている。お崎は八五郎よりも七つも違う姉さん女房である。何故二人が夫婦喧嘩を繰り返しているかというと、この亭主は同じ髪結いで、今でいう共稼ぎなのだが、近ごろ酒びたりで仕事もろくろくせずに、遊びまわっているという。女房一人が苦労して働いているというのに、仕事が長引いて少しでも帰りが遅いと、変にかんぐって当たり散らして暴力まで奮い、始末に負えないと訴える。

お崎はそんなだらしない亭主に対して、もういいかげん愛想が尽きたから別れたいというのだ。仲人であるだんなが「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」と突き放すと、お崎はうって変わって、そんなに言わなくてもいいじゃありませんかと、亭主をかばい始めた。あんな優しい人は他にはいないと、逆にノロケまで言いだす始末。呆れただんなは、それじゃ一つ、八五郎の料簡を試してみろと、参考に二つの話を聞かせる。

昔、唐(もろこし)に孔子(こうし)という偉い学者がいた。その孔子が旅に出ている間に、廐から火が出て、可愛がっていた白馬が焼け死んでしまった。どんなお叱りを受けるかと青くなった使用人一同に、帰った孔子は、馬のことは一言も聞かず、「家の者に、怪我はなかったか?」と聞いたという。これほど家来を大切に思って下さるご主人のためなら命は要らないと、家来たちは感服したという話。

麹町(こうじまち)に、さる殿さまがいた。お崎「猿の殿さまで?」だんな「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥様が運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。殿さま、真っ青になって、「皿は大丈夫か。皿皿皿・・・」と、息もつかず三十六回。あとで奥さまの実家から、妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれないと離縁され、一生寂しく独身で暮らしたという話。

だんな「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、何か大切にしている物をわざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」帰宅したお崎、たまたま亭主が、さる殿さまよりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出す。台所の踏み板をわざとずらして置いて、帰宅した亭主の前で、それを持ち出すと、台所で踏み板を踏み込んでわざと転ぶ。それを見た八五郎「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」お崎「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」八五郎「なんでえ、そのモロコシてえのは」お崎「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」八五郎「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒を飲めねえ」

この噺は夫婦愛の在り方を、深く考えさせてくれる。さて、この噺を聞いて、世の中の夫たる者、どんなふうに思うであろうか。この八五郎という亭主は、結局は自分中心じゃないか。自分が楽をして酒を飲みたいから、妻に対していたわるような言葉を発しただけじゃないか。なんのことはない、この亭主はもろこしの孔子ではなくて、やはり麹町の殿様と同じだな、と思うのならば、この夫は亭主失格だと言わざるを得ない。こんなふうに思う亭主ならば、妻への深い愛情はないから即刻別離したほうがよい。

一方、この噺を聞いて、自分の夫がこんなふうに解釈したのならば、亭主は妻への愛情があると思って良いだろう。この八五郎は、本当は女房のお崎の身体のことを心から心配するほど愛しているのだが、女房のお崎から「あたしの体のことを心配してくれるのかい」と言われて、あまりにも図星に言われ恥ずかしくて、照れ隠しに「遊んで酒を飲めねえ」と言ったのだと解釈するような亭主ならば、妻を愛しているに違いない。何故ならば、心理学的に分析すると、人間は物語の主人公に対して、自分の心情を投影しやすいものなのである。試しに、この噺を夫に聞かせて、どう解釈するのか聞いてみるとよい。でも、自分の夫が前者の解釈をするかもしれないのではと、怖くて聞けないかもしれない(苦笑)

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