生活保護費の見直しがされて、減額されることになったというニュースが流れている。厚労省の発表によると、低所得世帯の消費実態と合わせるために、最大で5%程度の減額を18年10月から実施することにしたという。都市部に住む生活保護世帯の減額が一番大きく、逆に町村部の生活保護世帯は増額になったケースもあるという。いずれにしても、生活保護世帯に対する行政の対応は、厳しいものとなりつつある。その根底にあるのは、世間の人々からの生活保護世帯に対する批判の存在があるからと思われる。生活保護費を受給していない貧困家庭に対しても、同じように自己責任だと批判する人は少なくない。
年金受給生活をしている老齢者は生活保護の申請をしないで、何とか工夫しながら我慢して生活している。それなのに、生活保護費を受給している人は、努力もしないで国民年金よりも高い受給額を得ているというのはおかしいという批判にさらされている。生活保護費を受給することに対して、田舎では世間体があるし恥ずかしいからと、勧められても断るケースが多い。勿論、生活保護費を受給すると原則として財産や車を持てないし、すべての財産を処分して使い果たしてからでないと保護費を受給できないから、申請を嫌がる人が多い。それにしても、生活保護世帯に対する世間の風当たりは強い。
生活保護費を受給している家庭は、原則として医療費も無料であるし、保護費に対する所得税もないし、住民税なども非課税である。つまり、保護費はまるごと衣食住の生活費に充てることが出来る。一方、年金生活者は、年金受給額から国民健康保険料や住民税を支払うし、医療費の個人負担がある。単純に比較すると、年金生活者のほうが衣食住に対する支出は少ないケースが多いと見られている。こういう事情もあることから、生活保護家庭に対する批判が多いのではないだろうか。厚労省はこうした批判を意識して、保護費の減額を決めたのではないかと見られる。
生活保護受給世帯は、働いて収入を得ることが出来ないか、もしくは収入が支出に追い付かないから国が保護費で補填している。日本国憲法における基本的人権の生存権が、生活保護の法的根拠とされている。その趣旨から言うと、年金受給者の生活レベルが生活保護世帯よりも低いとすれば、問題なのは生活保護費が高いことではなくて、年金生活者が最低レベルの生活が出来ていないことに根源的な問題があるというべきであろう。いずれにしても、生活保護家庭や貧困家庭になるのは、病気や不遇な境遇も含めて、自己責任なのではないかと冷たく突き放す人々が少なくない。
これは保守系の国会議員たちも、同じ意見を持っていることが、普段からの発言内容から類推できる。時々、自己責任発言がぽろっと漏れ聞くことができる。確かに、生活保護を受けている人の中には、こんなにも元気で溌溂としているのに、病気のせいで働けないというようにはとても見えない人がいる。ましてや、生活保護費をギャンブルに浪費している人も少なくない。病気になっているのも、普段の生活習慣に原因があるのだから、自己責任だろうという人や、アリとキリギリスの逸話を上げて、若い頃に貯蓄をしないで浪費生活をしておきながら、いまさらなんだという批判をする人が多い。
おそらく、生活保護や貧困の家庭に対する批判的意見を持つ人は、想像以上に多いのかもしれない。問題なのは、生活保護や貧困の家庭に生まれた子どもたちは、やがて大人になっても同じような生活をする確率が非常に高くなるということである。つまり、貧困の世代間連鎖である。これも公的教育に原因があるのではなく、家庭教育に原因があるんだと言う人が少なくない。家庭においての教育で、しっかりとした健康意識と勤労意欲を持つための子育てをしていないから世代間連鎖が起きるという意味で、自己責任を問う人も多い。
確かに、自己責任論があるのは承知しているし、完全な間違いではないし、批判も的を射ている。だとしても、貧困になってしまったすべての責任が本人にあるというのは、乱暴過ぎると思うのである。何故なら、生活習慣病の原因が本人のルーズな生活だとしても、健康に対する意識が低いのは本人だけの責任ではない。便利であまりにも不健康な食品が世間には満ち溢れているし、農薬や化学肥料まみれの野菜・米・麦を食べさせられているのである。勤労や学習に対する意識向上、社会全体に対する貢献意識高揚、自己成長に努力する意識確立、このような価値観をしっかりと教育してこなかった我々に責任があるのではないだろうか。ましてや、貧困家庭には非常に複雑なメンタル障害が存在しているケースが非常に多いのである。これらの解決に向けて、積極的に果たして行くべき責任が社会にあるのだ。これらの課題を社会として解決しなければ、貧困はなくならない。