会津に仏教を広く布教した高僧徳一という人物について触れてみたい。彼は、当時の仏教界においては、非常に著名な学僧であり、実力もあり影響力も高い僧であったらしい。法相宗の中でも、理論派として名声があったのではないかと見られる。当時の奈良仏教界では、法相宗、華厳宗、法華宗、律宗などの古い仏教宗派が実権を握っていたと推測される。政治の権力者とも結びついていて、利権や権益にしがみつき、仏教により広く人々を救済するという本来の使命を忘れてしまい、贅沢な暮らしをして堕落していたらしい。そんな奈良仏教に幻滅して、新たな布教の地を求めて会津にやってきたのであろう。
高僧徳一がどれほどすごい人物だったかというと、天台宗の伝教大師最澄との論争をしたとの記録である。実際に論争を繰り広げたのではなく、お互いに仏教の解説書を書くことでのやり取りだったという。仏教における衆生の成仏が誰でも出来るのか、それとも限られた人しか出来ないのかという論争だったと伝えられる。それにしても、高僧徳一は最澄と堂々と仏教論で渡り合ったという。さらに、高僧徳一は最澄だけでなく真言宗の弘法大師空海にも論争を挑んだ。空海はそんな挑発にはさすがに乗ることなく、大人の対応をして上手くそらしたようである。
浄土真宗の親鸞の教えは、悪人正機説に代表されるように誰でも成仏できるというものである。法華経を根本経典として仰ぐ天台宗の最澄も同じく、誰でも成仏できるという考え方であった。これは一乗説と呼ばれている。高僧徳一は三乗説を取っていて、誰でも成仏できるというのは幻想であり、やはりそれなりの元になる人間性の基礎がないと仏性を得ることが出来ないし悟れないのだとする考え方だったという。どちらが正しいかは別にして、徳一和尚は奈良仏教の退廃ぶりと会津人の素晴らしい人間性を実感して、基礎となる人間の根本となる高い価値観がないと、仏性を得ることは出来ないと思ったのではなかろうか。だから、会津を布教の地と選んだのであろう。
そんなにすごい高僧徳一は、会津に衣一枚というみすぼらしい姿でやってくる。なにしろ僧侶が贅沢な暮らしをしてはならないという考え方であり、衣服や住居も最低限のものでよいという暮らしぶりだったようである。そんな余裕のお金があれば、仏教の布教のために使用するべきだという考え方を徹底したようである。現在の僧侶たちに爪の垢でも煎じて飲まして上げたいものである。日本で仏教が廃れた一因がこのへんにもありそうだ。そして、仏の教えで人々を救うために、会津一円から始めて東北全体に仏教を広めていったと伝えられる。
その仏教を広めるにあたり、人々の信仰心をゆり起こすために、お薬師さまの教えを活用したらしい。お薬師さまというのは、ご存知のように薬師如来を指す。薬師如来というのは、左手に薬壺を持つ仏像であるから誰でも認識できる。苦しんでいる衆生をその万能の薬により、お救いする仏像として有名だ。ただお救いするだけでなく、自分でも仏性(ぶっしょう)を発揮できるように、日々努力しなさいよと温かく励ましてもくれる仏像でもある。さらに、社会的悪や人間の中に存在する鬼も懲らしめてくれる、頼りになる存在なのだ。そんな薬師信仰は東北各地に広がり、多くの素晴らしい薬師如来像をもたらしてくれたのである。
会津に多くの寺院や仏像を残してくれた徳一和尚の功績は大きい。その代表格は、一時期壮大な寺院群を形成したと言われるのが、現在の磐梯町にあった慧日寺(えにちじ)と呼ばれるお寺である。その慧日寺は衰退して、見る影もなくなってしまった。しかしながら、その慧日寺跡に金堂が10年前に再建され、さらには中門も再現されたのである。往時の慧日寺の隆盛を偲ぶことができる。また、徳一和尚が建立したと言われる柳津町の虚空蔵様と呼ばれる圓蔵寺には今も多くの参拝客が訪れて賑わっている。高僧徳一ゆかりの会津のお寺や寺跡、そして仏像を訪ねてみてはどうだろうか。
※イスキアの郷しらかわを利用される方々で、会津の寺社や仏像を訪ねてみたいという方には、同行してガイドもいたします。お寺の縁起や仏像のこと、さらには徳一和尚のことなどを詳しくご説明いたします。仏像は見る人の心象を映す鏡とも伝えられ、「それでいいんだよ」と優しく語りかけてくれるとも言われています。疲れて傷ついた心を癒すには、仏像巡りもお勧めできます。