剪定作業で気付いたこと

イスキアの郷(農家民宿)で樹木剪定作業をさせてもらった。我が家の庭にある樹木は、適当に剪定した経験はある。ベニカナメや百日紅などの庭木を見様見真似で剪定してきた。ところが、農家の果樹などの剪定は今まで実施したことがなかったのに、いきなりやってみたらと言われて実施したのだ。人間としては適当な性格ながら、適当に剪定していいからと言われても、なかなか思い切って切れないものである。50センチから60センチの新芽を持っている枝を残して切っていいとの指示でやってみたが、これが難しいのである。

何故なら、あまりにも枝が混んでいる処は、日光が通りやすいように何本かを残して切る必要もある。どの枝を残して、どの枝を太い枝から伸びている根元からばっさり切るのか、迷ってしまうものだ。思い切って切断しようと思いながら、一度切ってしまえば元に戻せないから、いざとなると逡巡してしまう自分がいる。やはり、このような樹木剪定作業というのは、熟練を要するものだ。少なくても数年の経験をしてからするものであろう。素人に手に負えるものではない。

とは言いながら、依頼するほうも心得たものである。失敗してもいいような樹木だけを指定したようである。先ずは、梅である。『桜切るバカ、梅切らぬバカ』と言われるように、梅はどんなに切っても問題ないみたいである。ということで、梅の何本かを切るように指示された。さらに、すももの樹も依頼された。たぶん、この種類の樹木ならば、失敗しても大丈夫だろうと主人が依頼したんだろうと思って、安心して剪定作業を実施した。

最初は、おどおどしながら、そろそろと切っていたが、そのうちに少し大胆になり、切り方も様になってきたようだ。そして、終了する頃にはなんとか剪定のコツも呑み込めてきた。しかも、剪定作業そのものが楽しくなってきたのである。来年になって樹木の果実が見事に実るかどうかが、自分の手に託されているのである。人間と言うのは、責任を持たされる仕事をさせられることに喜びを感じるものらしい。どうでもいいような仕事、そして誰にでも出来る仕事には大きな喜びを感じないしやりがいも持てない。農作業というのは、収穫の量と質に直接関わる重要な仕事だからこそ楽しいのだ。

剪定作業をしながら気付いたことがいくつかある。先ずは、要らない枝と必要な枝があり、その選択をすることが難しいということ。そして、その不要な枝を思い切って切断しないと、良い枝が育たないということ。さらに、どんなに育てようとしても育たない枝は、残してはならないということ。枝が密生してしまうと太陽の光が十分に、それぞれの葉に届かず良い果実が実らないという事実。何だか、会社のマネジメントみたいである。駄目な部門やどうしようもない社員は思い切ってリストラしないと、良い果実(成果)は実らないということと重なる。

樹木というのは、何故もこんなにも不要な枝を芽生えさせるのだろうか。もしかすると、樹木そのものにとっては必要な枝なのかもしれない。良い果実だけを求める人間の都合で切られてしまっているのかもしれない。そうではなくて、果樹というのは人間の手によって切られることを初めから想定していて、新芽を伸ばすのかもしれない。人間がちゃんと切るのかを、樹木が試しているのかもしれないなあなんてことを思いながら剪定作業を進めた。

剪定作業でひとつだけ確かなことを学んだ気がする。樹木と人間というのは似ているということである。人間は生きているうちに、少しずつ余計なものを蓄える。本来は生きる上で必要のないものというか、逆に生きる上で邪魔になるものである。変なこだわりや思い込み、または身勝手な心や我儘な気持である。自分さえよければいいというような低い価値観もそうである。そういう不浄なものが溜まりに溜まった時に、不都合なことや病気とか事故に見舞われるのである。そして、どん底に落とされて、初めて自分を振り返り、不要なものを切り落とさざるをえなくなる。そうしないと生きていけないからである。まるで樹木に生えた不要な枝のようではないか。誰かに切り落とされるまで待たないで、人間なのだから自ら切り落としたいものである。そんな気付きを剪定作業から学ばせてもらった。

 

※イスキアの郷しらかわでは、いろいろな農作業の体験ができます。癒しを求めていらっしゃる方も、そして元気な方でも、皆さん体験することが可能です。問い合わせフォームからご相談ください。体験料は無料ですが、お昼代だけをご負担いただきます。(2,000円~2,500円)

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