ネット上で賞賛を求める人

SNSとブログを観察していると、実に面白いことに気付く。いつも批判的な記事や日記を書く傾向がある人と、主に共感と感謝を綴っている人がいる。特定の個人を批判していることで、人気を博しているブログを見つけることがある。特定の人にしか見せないようにしていても、誰かが拡散するかもしれないというリスクを持っている。インターネットの世界いうのは、実に怖い処だ。誰かを批判して書いているつもりではなくても、自分が否定されていると誤解されることもある。自分だけが見る日記とは根本的に違うのである。

一方では、周りの人々のほんわかとした日常を綴りながら、それらの言動を温かく見守りながら共感し、感謝する言葉でしめくくる記事がある。心がほんわかとしてくる。または、いろんな公益活動をしている人の応援する記事を書いて、サポートしてくれるブロガーも存在する。他人の言動に対して共感的、肯定的な態度を取る人は、間違いなく自分に対する肯定感を持っている人であろう。一方、いつも他人を批判的、否定的に観ている人というのは、心の奥底では自己否定観が渦巻いているに違いない。実に可哀想な人である。

否定的、批判的なブログだと言っても、個人批判ではなくてあくまでも公的なものに対する批判であるなら、まだ許せるように思う。現在の様々な社会問題を深く洞察して、政治や行政、または経済の在り方に対して批判し、あるべき本来の姿勢を提起するという内容ならば、問題ないように感じる。あくまでも、人々の幸福実現、または心の豊かさに貢献するような内容ならば、公的批判もありうることだろう。特定の人、つまり自分の家族や会社・組織・団体などの特定できる人物を槍玉にするようなやり方には違和感を持つ。

人を批判したり否定したりする記事は、万人受けする。当然、読者も多い。よく見かけるのだが、自分の読者が何万人もいるのだと自慢たらたらと述べるブロガーがいる。批判的な記事に人気が出ると分かり、益々拍車がかかる。全国で何位だということを確認して一喜一憂している姿を想像するに、実に情けないという思いで満たされる。そんなゴシップ記事のようなものを観て喜んでいる読者も低レベルである。実に情けないし、どちらも可哀想でもある。

とは言いながら、こんな批判的否定的な記事や日記を書いてしまう背景を考えると、こういう人々に対して同情してしまう自分がいる。物事や特定の人に対して批判的否定的に観てしまう人というのは、現在の社会に対して生きづらさを抱えている人であろう。家族に心から敬愛されているとは言えず、会社・組織から信頼や尊敬を受けているようには思えないからである。だからこそ、世の中の多くの人々から評価と尊敬を集めたいのである。リアルの世界で評価されないから、ネットの世界でその反発心から必要以上に頑張ってしまうのであろう。強烈な自己否定観を持つが故の行動であるに違いない。

残念ながら、ネット上でいくら人気が出て多くの賞賛を得ても、真の自己肯定感は得られない。何故なら、自分自身の真の自己成長や自己実現は得られないからである。人間性や精神性における完全な自己変革がなければ、周りの人々からの尊敬を得られることはない。必要以上に地位や名誉、または評価に拘る人もいる。または、必要以外の資格や免許を取得しようと努力している人もいる。これも、自己否定観や自己愛の歪みを根底にしての行動であろう。自己愛のパーソナリティ障害の人は、こういう行動をとりやすい傾向にある。こういう人は、自分の心の闇に気付いていない。

特定の個人や家族を批判したり笑いものにしたりする記事や日記を書いている人、あまりにも読者数や人気を気にしている人は、自分の心の奥底の闇と対話してほしい。自分は、本当はそんなことを望んでいないことを知ることが出来るであろう。そして、真に望んでいるのは、現実の世界で自分の家族や周りの人々に心から愛されることである。いくらネットの世界で賞賛を得られたとしても、本当の愛は叶えられないし、益々真実の愛から遠ざかるであろう。自分の自己成長や自己実現をして、自己変革を遂げることでしか真の信頼や尊敬は得らない。現実の世界で、苦難困難から逃げずに乗り越えることでしか、絶対的自己肯定感は確立できないのである。

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