新海誠の大ヒット作映画『君の名は。』がBDとDVDで発売され、販売とレンタルでも評判になっている。映画の公開当初は、面白くないと酷評する人と絶大な評価をする人で二極化していた。しかし、最初は映画の意図が解らなかった人も、その魅力を知ることになり、絶大な人気を博した。それが、今度はBDとDVDでも観られるようになり、また『君の名は。』ブームが再現したという。映画で2回鑑賞して大ファンになった自分も、また観て見たい誘惑にかられている。それだけ、この映画の魅力にはまってしまった一人でもある。映画のストーリーも良いし、この映画にベストマッチしている音楽も最高である。なにしろ、描いている世界観が実にいいのだ。
新海誠監督は、この映画で何を描きたかったのであろうか。映画を観た時に、これは量子力学の世界を描いていると直感した。新海監督もある雑誌のインタビューで、まさしく量子力学の世界を描こうとしたと明かしている。単なるラブストーリーを描いたのではなく、時間軸と次元の無限性をも表現したかったと見るべきなのかもしれない。この現実は実体ではなくて、すべては「むすび」という関係性で成り立っているということ、さらには我々が実体だと思っているこの現実や過去もまた私たちの意識が作り出しているに過ぎないということを言いたかったと思われる。人間や宇宙の根源に関わる問題を、この映画で描き出そうとしたのではないだろうか。
この映画のテーマは「むすび」である。このむすびというのは、漢字表記では産霊(むすび)となる。誕生や生成、合体や統合も意味するし、出会いも含まれるであろう。巫女である祖母の一葉は、むすびは出会いや別れも意味すると説明している。彗星が分れたのもむすびであるし、あらたに産まれた隕石もまたむすびなのであろう。この物語の地方では黄昏時のことを「かたわれどき」と呼んでいる。たそがれとは「誰そ彼」から出た言葉であり、薄暗闇で誰か解らないという意味だと言われている。しかし実は「自分と他人の区別がつかない時間」をも意味しているのではあるまいか。元々、我々は『自他一如』であり、相手と自分は一つである。この「かたわれどき」に私たちは他人との区別がなくなり、元々ひとつであったものが再び交わるひとときを、このように表しているように思う。
「むすび」とは、関係性とも読み解くことが出来ると思われる。量子物理学においては、素粒子どうしの関係性によって、物体が成り立つし、人間の意識によってそれが変化するということが実験によって確認されている。宇宙そのものも、システムという関係性により成り立っているし、我々の社会もまた関係性により成立していて、全体最適を目指している。関係性がなければ、我々人間そのものが、この宇宙には存在しえない。したがって、この映画でいう「むすび」が、すべての生き物だけでなく物質の根源だと捉えることができよう。新海誠は、この映画で「むすび」という言葉を使って、我々に関係性の重要性を示したかったのではあるまいか。
現代は、関係性が希薄化していると言える。身勝手で自己中心的な人間が増えているせいか、自分の損得を考えるあまり、他人への思いやりにかけるきらいがある。自分の利益だけを考え、利他の心が忘れ去られている。当然、相手との関係性は悪化して、家族、会社、地域、国家などのコミュニティが崩壊しつつあると言われている。人々は人間本来の生き方である、良好な関係性と全体最適性を求める人生観を忘れ去っているように思える。しかし、人間の潜在意識は関係性の大切さをけっして忘れていない。だからこそ、深層無意識においては、他人との関係性を求めているのである。関係性の大切さを切々と説いているこの「君の名は。」という映画に、人々はこんなにも熱狂するのであろう。
この世界は多元宇宙によって複雑にからみ合っていて、時空間が交わり合うことで、質量を持たない素粒子どうしが、時空の違う世界に存在するであろう質量を保証する素粒子との関係性によって物質が存在するのではないかと考えられている。前世での出会いは、今世でもまた出会い、来世でも時空間を超えて出会う。それは、「むすび」という関係性によって保証されていると言える。映画では、巨大隕石によって街と人々が消滅してしまった過去が、書き換えられるというあり得ない世界も描かれていた。このことは、私たちの悲しくて辛い過去さえも、実は実体ではなく我々の意識が作り出したものだから、変容させられるということを表現しているのである。我々の集合意識が作り出したこの世界の現実は、私たちの意識によって、過去であっても変化していくということだ。我々の集合意識は常に世界全体の幸福と平和を願うことこそが求められるということである。