ええ加減でいいんですよ

 料理家として有名な土井善晴さん、さぞかし素材や作り方に拘っていて、きっちりとした料理を作るんだろうと勝手に思い込んでいた。プレバトというTV番組でも料理の盛り付けにも厳しい評価をしていたものだから、ついついそんな風に思っていた。ところが、NHKラジオの対談番組を聞いてびっくりした。『料理なんてええ加減でいいんですよ』というのが口癖らしい。料理を作る時に、最後に味を調えたりもう一工夫を加えたりというのはありがちだが、それをしてはいけないと言うのだから驚きだ。

 

 勿論、ええ加減というのは努力を怠ったり手抜きをしたりして料理をするということではないらしい。私たちが料理をする際に、どうしても最後になって味をもっと良くしようと、隠し味やら独特の調味料を加えてしまい、素材本来の味わいを薄めてしまうことが往々にしてあるものだ。この最後のひと手間を敢えて我慢して、素材そのものの良さを味わってほしいから、ええ加減な状態で仕上げてはどうだろうかという意味らしい。確かに、あまりにも手を加え過ぎて素材の良さを殺してしまうものだ。

 

 そう言えば、火加減もそうだ。あまりにも火を通し過ぎてしまい、素材の歯ごたえや甘みなどを損なうことも少なくない。余熱のことを考慮しないで火を通し過ぎて、オムレツや玉子丼をだいなしにすることも多い。あれも、ええ加減で火を止めないから失敗するのだ。ええ加減というのは、その素材に対する思いやりでもある。和食というのは、そもそも素材の良さそのものを生かす料理である。和食の調味料も素材を生かすためにあるし、日本料理の素材も少ないし調理法もある意味シンプルである。

 

 土井善晴さんの料理に対する考え方は、実に素晴らしい。話し方も飄々とした感じで、柔らかい口調で、優しい人柄が出ている。そして、驚くことに料理を通して人生の哲学を解き明かしているようにも感じる。ええ加減に生きてもいいんじゃないの、と言っているようにも感じるのである。つまり、人間も生きているだけでも素晴らしいのだから、あまり頑張り過ぎなくてもいいし、自分の良さをだいなしにするまで無理することもないよということを言っているように思われる。

 

 この『ええ加減でいいんですよ』という言葉は、強烈な生きづらさを抱えた人たちにも言ってあげたい言葉でもある。生きづらいと感じながら生活している人は予想以上に多いように思う。その生きづらさというのは、曖昧で混沌としたこの社会だからこそ感じるものであるのかもしれない。そして、周りの人たちがあまりにもいい加減であることにも起因しているような気がする。さらには、生きづらさを抱えている人というのは、自分自身がいい加減な生き方が出来ないからとも言えそうだ。

 

 私が日々サポートしているクライアントも、強烈な生きづらさを抱えている。それは愛着障害が根底にあるから、二次的な症状としてメンタルを病んでいるからでもある。そして、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)だから心理社会的過敏症も抱えている。さらには、完璧さを求めてしまうから、ものごとに対して白か黒という二者択一的思考をしてしまう。0点か100点のどちらしか考えられないのである。グレー色や50点でもいいやという選択肢を取れないのだ。言ってみれば、ええ加減でもいいやと考えられないから、生きづらいのである。

 

 土井善晴さんが言っているように『ええ加減でもいいんですよ』という生き方が徐々に出来たとしたら、生きづらさも解消されるかもしれない。そうは言っても長らく続けてきた生き方や習慣化した考え方をすんなりと変えられるものではない。自分の無意識化での固定化された価値観は変えるのが難しいと思われる。意識を変えるには、まず行動から変えるのが良いと思われる。それこそ、料理とか掃除とか普段の生活から、ええ加減な行動をすることから変えてみてはどうだろうか。ええ加減でも生きられると解ってくると、少しずつ意識も変えられるような気がする。なお、自分自身でも『ええ加減でいいんだよ』と自分自身に言い聞かせるのも効果があるだろう。

親からの支配と制御を断ち切るには

 強烈な生きづらさを抱えている人、または自分自身が思ったような生き方が出来ない人が少なくない。そういう子どもや若者たちは、不登校やひきこもりになりやすい。あまりにも殺伐としたこの社会に適応しにくいのかもしれない。それは、学校や職場において関わる人々が、他の人とは違う自分を排除したがったり、虐待されたりすることで、不適応を起こしていると思っていることだろう。しかし、学校や職場で出会う人々だけに問題がある訳ではなく、自分の育てられ方にも大きな問題があったと気付いているのではないだろうか。

 

 不登校やひきこもりの人がすべて育てられ方に問題があったなんて、乱暴なことを言うつもりはない。しかし、学校や職場に上手く適応できず、解決の出来ないほどの生きづらさを抱えている人の殆どは、親との関係に問題を抱えていると言っても過言ではない。勿論、保護者から虐待やネグレクトを受けていたというのは論外で、間違いなく不登校やひきこもりに陥ることだろう。しかし、ごく普通の親に育てられたと思っている人の中でも、知らず知らずのうちに、親に所有され、支配され、制御されて育った子どもは想像以上に多いのだ。

 

 こういう親自身も、自分の子育てに問題があったという自覚はないし、子どももまた愛情いっぱいに育てられたと思い込んでいる。しかし、実際はこういう親が我が子を必要以上に支配してコントロールを繰り返しているケースは多い。おそらく、このような支配と制御をして子育てした親は、この世の中の半数以上を占めているに違いない。しかも、この支配と制御の仕方がえげつないのである。つまり、ダブルバインドのコミュニケーションをしながら支配と制御を強め、親の思い通りの子どもになるよう『飼育』しているのである。

 

 親も子も『飼育』状態にあることを認識していないから不幸なのである。人間と言うものは、本来はひとりでに自己組織化するしオーポイエーシスという機能を発揮できる。つまり、子どもは成長するに従い、主体性、自主性、自発性、責任性などを自ら発揮する。そして、オートポイエーシス(自己産生)の機能を発揮して、自らの創造性を高めて成長していくのである。ところが、親が無意識に子どもを支配し制御しようとして、介入や干渉を繰り返してしまうと、自己組織化できないしオートポイエーシスの機能が育たないのである。

 

 子どもが青年期なると、親に支配したり制御されたりしなくなるかというとそうではない。子どもが30代や40代になっても、親が支配し続けてコントロールしているケースがある。さらには、小さい頃の支配・制御関係で起きた事件の記憶が残存し続けて、それがトラウマになってしまい、親からの支配関係が解けない場合もある。だから、絶対的な自己肯定感がいつまでも育たないし、いつも不安や恐怖感に苛まれるのである。自組織化していないと人間は伸び伸びとして生きて行けないし、常に誰かに依存しがちであり困難を回避したがる。

 

 それでは、この親からの支配・制御関係をどうしたら乗り越えることが出来るのであろうか。特に、小さい頃からダブルバインドのコミュニケーションを受けたケースでは、乗り越えるのが非常に難しいから深刻である。一人の力だけでは、親からの支配・制御関係を克服するのは困難だ。第三者のサポートが必要である。勿論、ダブルバインドをして支配続けてきた親が、その間違いに気付いて子どもに謝罪し、本来あるべき無条件の愛を注ぎ続けることが出来たなら、支配・制御関係を断つことが可能である。これも誰かの手助けが必要だ。

 

 『親が変われば子も変わる』というフレーズは、良く耳にする。しかし、なかなか親は長い期間生きてきたから変われないものだ。ましてや、自分の間違いを他人から指摘されたら、反発するのは当然だ。だから、支援者が親の子育てにおける間違いを指摘して変わるように指示したとしても、到底受け入れられないだろう。ましてや、プライドの高い高学歴者や地位名誉の高い親は、聞く耳を持たないであろう。そんな親を変える唯一の方法がある。それは家族療法のひとつである、オープンダイアローグという療法である。すべてが上手く行く訳ではないが、親が自ら変わる可能性は極めて高い。親からの支配・制御関係を乗り越えるには、オープンダイアローグ療法しかないであろう。

コロナワクチン接種で女性に副反応が多い訳

 新型コロナ感染症の切り札になるワクチン接種が始まった。まだ医療従事者に対する接種だが、来月からは65歳以上の高齢者への接種が始まる予定だ。それで、問題になっているのが接種後の副反応である。国内では他国よりも高率の副反応が起きている。しかも、副反応が起きた人のうち、殆どが女性だと言うのである。どうして、男性には副反応が起きず女性に起きてしまうのであろうか。女性ホルモンが多いせいではないかとか、女性特有の免疫システムが影響しているのではという仮説があるが、明確なエビデンスは存在しない。

 

 ある医療関係者は、女性特有のメンタル性が影響を及ぼしているのではないかと主張するものの、その明確なシステムは説明できない。確かに、精神的な不安や恐怖感が影響しているのではというのは想像できるものの、それがどのように免疫系に働いているのかを明らかにできていないみたいである。ワクチンの副反応は迷走神経の過剰反応ではないかと見ている医師もいるが、それでは何故その反応が女性にだけ多く起きるのかは、説明でき得ていない。いずれにしても、免疫系の異常反応だとは言えそうだ。

 

 あくまでも仮説ではあるが、女性にだけ高率で副反応が起きるのは、メンタル面による影響と免疫系が暴走することによるものだというのは間違いなさそうである。免疫系の異常で起きる膠原病の発症が、女性に圧倒的に多いと言う点からも明らかだろう。コロナ感染による重症化と死亡例は男性のほうが多いのだが、後遺症が深刻になるのはどうやら女性のほうがかなり多いらしい。免疫の異常や暴走が起きるのが女性に多いのは、女性特有の精神的な敏感さによるのではなかろうか。迷走神経の過剰反応が多いのも女性に多いらしい。

 

 それでは、どのような女性にワクチン接種時の副反応が起きるのかと言うと、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)の傾向が強い人ではないかと思われる。つまり、神経学的過敏症、そして心理社会学的過敏症の女性に副反応が起きやすいのではないだろうか。いつも何かしら得体の知れない不安や恐怖感を抱えながら生きていて、生きづらさを覚えながら生活を送っている人である。ワクチンの副反応が起きるのではないかという怖れを強く抱いていながらワクチン接種を受けるものだから、迷走神経の暴走が起きてしまう気がする。

 

 迷走神経というのは、簡単に言うと自律神経の副交感神経を支配する神経である。迷走神経というのは、大きく分けると延髄から背中側へと分かれていく背側迷走神経と、腹側へと別れていく背側迷走神経がある。腹側迷走神経というのは、安息や休眠する時など穏やかな気持ちになれる副交感神経であり、免疫を高めてくれるしウィルスへの抵抗力を向上させてくれる有難い存在だ。ところが同じ迷走神経でも、背側迷走神経というのは絶体絶命のピンチの時に働く副交感神経で、心身を守るために自らの身体と心をシャットダウン(遮断)させてしまう働きをしてしまう厄介者である。

 

 どういうことかと言うと、背側迷走神経は自分の心身が破綻しそうな時に働いて、破綻を防ぐ為に免疫の暴走を起こすという意味である。例えば、重症の感染症を起こして命を脅かすような事態に陥った際に、免疫の過剰反応を起こすのである。新型コロナウィルスも、そんな生命に関わるような事態を引き起こすウィルスだという認識をするのではないかと思われる。そして、HSPの傾向が強い女性は、元々不安が強いために、背側迷走神経のスイッチが入りやすいのだと思われる。だからワクチン接種の副反応が起きやすいのだろう。

 

 自分が不安や恐怖感を抱きやすい傾向が強いと認識している女性は、ワクチン接種の時に留意が必要であろう。自分がHSPの傾向があると思う女性は、特に注意が求められる。副反応を抑えるためには、ワクチンの副反応は不安定な気持ちがあるから起きるのであり、自分の精神が安定していれば起きないのだと自分を信じ込ませるとよい。前の日から、「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせるとよいだろう。PMDDやPMSの症状がある女性は、月経前10日前ぐらいの期間はワックス接種を控えたほうが良いと思われる。オキシトシンホルモンが出やすいような行動をするのも効果がある筈だ。

Covid19の後遺症が起きる訳

 新型コロナ感染症がまだ収まらず、重症者や累計死者数は増え続けているし、医療体制のひっ迫は改善していない。ようやく医療関係者へのワクチン接種が始まり、来月からは65歳以上の高齢者への接種も開始される。ただ、ワクチンの十分な数量確保も不透明であり、接種を望む国民すべてへの接種は、ワクチン接種が順調に進んだとしても、次年度内に完了する見込みはないという。とすれば、新型コロナ感染症が終息するのは、当分見込めないと言うことだ。となれば、まだ新型コロナ感染症予防策は緩められないだろう。

 

 新型コロナ感染症は、高齢者や基礎疾患がある人ほど重症化するし、健康で若い人は感染しても軽症か無症状で済んでしまう。ましてや、ネットの情報おいては、新型コロナ感染症なんて風邪みたいなものだから、恐れるに足らない病気だと喧伝されている。こういう情報を信じてしまった若者は、感染予防に真剣に向き合おうとしないし、どうせたいしたことないだろうと甘く見ている。ところが、新型コロナ感染症の恐ろしい後遺症の実態が明らかになりつつある。若者だろうと軽症だろうと関係なく、誰にも後遺症が起きてしまうのだ。

 

 新型コロナ感染症そのものも恐ろしいが、後遺症も深刻である。感染による症状が無症状または軽症であっても、後遺症が起きてしまう。本人が感染したことを自覚しなくても、数か月後に後遺症が出たことから陽性になっていたことを認識することもあるらしい。息切れ、倦怠感、易疲労性、脱毛、筋肉痛、味覚障害などの後遺症が起きると言う。さらには、メンタルもやられてしまうことも多い。全身の激痛に悩まされることもある。そして、これらの後遺症が長引いてしまい、ひきこもりや寝たきりの状態になり、職場を失う人も多いのである。

 

 新型コロナ感染症の実態がまだ解らないこともあるが、それ以上に解らないのが後遺症のことである。どうして後遺症が起きてしまうのか、明確に説明できる人は殆どいない。今までの感染症の中で、こんなにも深刻な後遺症が起きるケースはないのだから当然である。後遺症が起きるメカニズムは、今までの医学理論では説明がつかない。ひとつの仮説ではあるが、おそらくは免疫系の異常(暴走)ではないかとみられる。その免疫系等のうちでも、迷走神経が過剰反応を起こすのであろうと想像できる。

 

 免疫はご存知のように、自律神経の交感神経と副交感神経がバランスを取り合い働いている。今までの医学理論では、副交感神経は単独の迷走神経が支配していると思われてきた。ところが最新の医学理論である『ポリヴェーガル理論』によれば、副交感神経は複数の迷走神経によって支配されているということが判明したのである。ひとつは腹側迷走神経である。これは今まで明らかになっている副交感神経の働きをする。さらに、背側迷走神経という緊急事態に陥った際に働く副交感神経があることが解ったのである。新型コロナ感染症による後遺症は、この背側迷走神経が働いてしまうのではなかろうか。

 

 この背側迷走神経は、人間が絶体絶命の危機に陥った時に、自分の心身を守るためにスイッチが入り働く。心身の破綻を防ぐ為に、心身の一時的なシャットダウンが起きてしまう。ところが、生命を脅かすような重大な感染症を起こした場合にも、背側迷走神経が働くのであるまいか。以前から、新しく獲得した免疫システムが重症感染症に罹患した後に破綻してしまい、古い免疫システムに切り替わるということは解明されていた。免疫異常が起きてしまい、膠原病などを発症するのはこの免疫システムの異常によるものだ。

 

 背側迷走神経のスイッチが一旦入ってしまうと、人間の免疫ネットワークシステムは暴走してしまう。まさしく、新型コロナ感染症における後遺症は、この背側迷走神経による仕業ではなかろうか。背側迷走神経が暴走し、心身の遮断(シャットダウン)が起きてしまい、身体の症状だけでなく、メンタルの不具合が起きていると思われる。厄介なことに、一旦背側迷走神経のスイッチが入り免疫の暴走が起きてしまうと、現代の最新医学をもってしても止めることは非常に難しいから、完治するのは困難だ。だからこそ、新型コロナ感染症に罹患するのを、絶対に防がなければならない。若者であっても、不要不急の外出と三密の飲食を控えよう。

自傷行為(リストカット)をする子どもたち

 日本の中高生のうち、10%の子どもたちが自傷行為を経験しているという。この数字を少ないと思う人はいないに違いない。こんなにも多くの子どもたちが自傷行為をしているということに驚く人が殆どであろう。そして、さらに驚くのは10%の子どもたちのうち、約半数は自傷行為を繰り返していると言うのだ。つまりは、常習的な自傷行為者なのである。子どもたちは、どうして自らの身体を傷つけてしまうのであろうか。そして、その自傷行為を何故繰り返すのであろうか。繰り返すということは、誰も気付いていないということだ。

 

 自傷行為(リストカット)をする子どもたちは、孤独感を抱えているのだという。自分の辛い気持ちを解ってくれる人は誰もいないというか、誰にも話せないらしい。そして、強烈な生きづらさを抱えているし、満たされない思いを抱いているという。孤独だというのなら、自分の傷ついた心を話せる家族や親族もいないのだろうし、友達もいないということだろう。友達が居たとしても、悩みを打ち明けられるような親友はいないということだ。つまりは、家族がいたとしても、天涯孤独という気持ちなんだろうと思われる。

 

 自傷行為をする子どもたちは、親との良好な関係性を築けていないと思われる。つまりは、親との愛着が不安定というのか、傷ついた愛着なんだろうと思われる。そういう意味では、attachment disorder(愛着障害)と言える。愛着障害というと、親から虐待やネグレクトを受けて育った子どもがなるのだと思われているが、けっしてそんな子どもだけがなる訳ではない。ごく普通に愛情たっぷりに育てられた子どもだって愛着障害になるのである。ただし、その愛情のかけ方に問題があるから、愛着障害になってしまうのだ。

 

 勿論、虐待やネグレクトを受けて育った殆どの子どもは愛着障害になる。それだけでなくて、親から過干渉や過介入をされて育った子どもも愛着障害の症状を呈する。または、いろんな事情によって、子育ての途中で養育者が変更になってしまった時にも愛着障害になりやすい。例えば、母親が病気になったり他界してしまったりしたケースである。または離婚や両親夫婦の不仲で、母親が家を出て行ったり、家庭崩壊したりするケースも同様である。両親が四六時中に渡り喧嘩していても、子どもは愛着障害になる。

 

 最近多いのは、父親が発達障害であり、母親がそのせいでカサンドラ症候群になってしまったケースである。こういう母親に育てられたら、殆どの子どもは愛着障害を起こしてしまう。さらには、母親が愛着障害であれば、子どもは同じように愛着障害を抱えることが極めて多い。このように自傷行為をしてしまう子どもは、根底に愛着障害を抱えていることが多いのである。愛着障害はメンタルの不調だけでなく、身体の不調も起こすし、学習意欲も低下することが多いから、不登校やひきこもりになることが少なくない。

 

 愛着障害が根底にあって自傷行為を繰り返す子どもは、どのようにして救えば良いのだろうか。自分の悩みを誰にも話せないのだから、誰も気付かない。学校の先生も気付かないし、養護教員でも気付けないことが多い。例え生徒が自傷行為をしていると気付いても、学校カウンセラーであっても、救うことが極めて難しいだろう。愛着障害は、専門家であっても傷ついた愛着を癒すことは困難だ。何故なら、愛着障害は子どもだけの問題ではなくて、親と子の関係にこそ問題があるのだから、親を癒せないと愛着障害を乗り越えることが難しい。

 

 自傷行為を起こす本当の原因が愛着障害にあるとすれば、愛着障害を癒すことが出来る専門家はいないのかというと、けっしてそうではない。児童精神科医の岡田尊司先生は、愛着障害に精通されていて、治療効果を上げていらっしゃる。岡田尊司先生の研究成果を取り入れて、愛着障害の治療をする専門家も増えつつある。勿論、我が子が自傷行為をしていることを認識できなければ、治療はできない。まずは、自分の子どもが自傷行為をしていないかどうかを発見できる感受性が親に必要だ。もしかすると我が子が愛着障害ではないかと心当たりがある親は、子どもの話を傾聴し共感することから始めよう。

スタンドバイミーと言ってごらん!

スタンドバイミーというと、青春映画の傑作を思い出す人も多いし、あの哀愁が漂う旋律の主題歌を思い浮かべる人も多いことだろう。でも、このスタンドバイミーという言葉そのものの意味を深く認識している人は少ないのではなかろうか。直訳すれば「私の側にいて」という意味なのだが、それ以外に「私に寄り添って、支えて頂戴、私を支援して」という意味でもある。もっと深読みすれば、「私を好きでいてほしい、愛してほしい」ということを言っているようにも思う。単なる恋愛感情ではなくて、人間として愛してほしいと意味であろう。

 

 このスタンドバイミーともっとも言いたい相手は、おそらく母親ではないだろうか。映画の中では、少年たちどうしが大きく成長したとしても、スタンドバイミーと言いたいというふうに描かれていた。でも、誰でもそしていくつになったとしても、スタンドバイミーと言いたいのはお母さんのような気がする。太平洋戦争で特攻隊の隊員が敵艦めがけて突っ込み自爆する時に、最後に「お母さん」と言ったと伝えられる。それだけ、お母さんと言うのは特別なのではなかろうか。誰でも母親のことが大好きであり、かけがえのない存在なのだ。

 

 母親のことが大嫌いだという子どもや若者がいる。それは、本当に母親のことが嫌いなのではなくて、自分の理想とする優しくて思いやりのある母親像とあまりにも現実が違っているからそう思うのであろう。『嫌い』であり『憎い』という感情の裏側には、あまりにも大きな『愛』が存在する。愛憎と言うように、愛が満たされないからその裏返しとして憎しみという感情が起きるのであろう。心の奥底では、誰しも母親のことが大好きで愛しているのだ。どんなに酷い仕打ちをする母親でも、子どもはお母さんが大好きなのだ。

 

 そんなにも大好きな母親なのに、子どもをどのように愛していいのか解らない母親がいるのだ。子どもとどのように接していいのか解らないし、自分の思い通りにならない子どもの行動にイライラする母親もいる。本来母親は、我が子をまるごとあるがままに愛することで、子どもの健やかな成長を後押しするのだが、干渉や介入をし過ぎて子どもの自己組織化を阻害するケースも少なくない。このように自己組織化が出来ずに育った子どもは、正常な自我の芽生えも出来ず、自尊心や自己肯定感が育まれず、強烈な生きづらさを抱えて生きる。

 

 強烈な生きづらさを抱えて生きる子どもは、いじめや不適切指導を受けたり挫折を経験したりしてしまうと、そのことがきっかけで不登校やひきこもりになってしまうことが多い。いずれにしても、母親からまるごとありのままに愛されず育った子どもは、甘えることが下手である。母親も甘えさせることが下手なのだから当然である。甘えさせることが苦手な母親と言うのは、自分が子どもの時に甘えられなかったである。そういう意味で、甘えたくても甘えられなかった子どもなのだ。スタンドバイミーと言えない子どもである。

 

 スタンドバイミーと素直に言えなくて成長してしまい、少年から青年になってしまうと、益々甘え下手になってしまう。社会的ひきこもりをしている若者たちは、強烈な生きづらさを抱えている。そして、誰かに心から甘えたり頼ったりすることが出来なくなる。不安定な愛着、傷ついた愛着を抱えているからだ。愛着障害と言っても過言ではない。こういう若者はHSPでもあり、あまりも感受性が強いから、いつも人の目を気にするし、周りの人の思惑が気になって仕方ない。自尊感情が低いからこそ、こんなことを言ったら嫌われるのじゃないかと気になって、素直にスタンドバイミーと叫べないのだ。

 

 甘え下手で素直に支援を求めることが苦手な人が、自然体で甘えさせてくれる存在と出会えて、あるがままにまるごと受容してくれて支えてくれたとしたら、傷ついて不安定な愛着を癒すことができるに違いない。そのように人は、なかなかいないかもしれない。何故なら、そういう人は安定した愛着を持ち、共感的メンタライジング能力と認知的メンタライジング能力をバランス良く持ち得なければならないからだ。このようにメンター的な素養を持つ人は非常に少ない。しかし、まったく存在しない訳ではない。素直な気持ちにさせてくれて「スタンドバイミーと言ってごらん」と優しく囁いてくれる人を探し出してみてほしい。もしかすると、あなたのすぐ側にいるかもしれない。

                   ”悩み苦しんでいらっしゃるクライアントに捧ぐ”

メンタル疾患は適切なケアで治る

 精神疾患は完全に治癒するのが難しいと思われている。患者さんもそう思っているが、それ以上に精神疾患は治らないものだと思っているのが、精神科の医師である。さらに治らないものだと医師が認識しているのが、精神障害である。発達障害などの自閉症スペクトラムやパーソナリティ障害(人格障害)、摂食障害、パニック障害、PTSD、各種依存症などの精神障害は、医師たちは難治性のものだからと、最初から及び腰になる。患者さんにも、最初から治りにくいものだからと告知してしまう。本人も家族もそれで諦めてしまうのだ。

 

 確かに、重症の統合失調症や双極性障害は治りにくいと言われている。まだ発症してすぐの期間(2週間以内)ならば、完全治癒もあり得なくはない。しかし、発症して数年経ってから病気だと気付くケースも少なくなく、そういう場合は非常に治りにくいのも確かであろう。対症療法しか打つ手がないので、投薬治療しかないのが実情である。身体疾患と比較しても、治療期間が異常に長いのがメンタル疾患の特徴である。一旦投薬治療が始まってしまうと、減薬や断薬をするどころか、逆に薬量が増えていき、副作用も増大していく。

 

 また、定期的なカウンセリングやセラピーを受けているケースでも、治療が長期間に渡るケースが殆どである。それでも、劇的に改善するなら良いが、あまり効果が見られないケースが多い。患者さんにとっての一時的な安心の提供、または恐怖を取り除くことは一時的には可能だが、その効果は長続きしない。その証拠に、カウンセラーを次から次へと変更する患者さんが多いことが挙げられる。何故、精神疾患が治りにくいのかと言うと、本当の原因を究明しようとしていないからであり、原因を解決しようとしていないからである。

 

 また、精神障害が最初から治らないものだと匙を投げるのも、本当の原因を探求しようしていないからであり、原因を解決する術を知ろうとしないからであろう。日本の精神医療というのは、実にお粗末であって、本当に治癒させようと思っているのか疑いたくなるようなドクターが多いように思う。勿論、ドクター、セラピスト、カウンセラーはどんどんクライアントを完全治癒させてしまうと、患者さん(お客さん)が減っていってしまい、経営が成り立たなくなってしまう。日本の医療制度とは、そんなパラドックスを抱えているのだから、病人がどんどん増えていくのは当然であろう。

 

 薬品会社だって、完全に治癒させてしまう医薬品をどんどん開発したら、おまんまの食い上げである。以前、『生かさず殺さず』という言葉が使われていた時代があるが、まさに日本の医療は、生かさず殺さずに患者を繋ぎとめて行ったほうが、経営が安定していくというジレンマに陥っていると言えよう。病気になる真の原因を究明して、その原因をつぶしていけば、どんな病気だって治らない筈がないのである。それは、精神疾患だって例外ではないし、精神障害だって完全治癒とは行かないまでも、社会復帰程度まで寛解するのも不可能ではない。

 

 精神疾患や精神障害が根底にあり、不登校・ひきこもりの状態に陥ってしまっている方々を、永年に渡りサポートして気付いたことがある。それは、精神疾患と精神障害を起こしている方々は、殆ど例外なく根底に『愛着障害』があるという事実である。そして、この愛着障害が強く影響を及ぼしてしまい、二次的症状として精神疾患や精神障害を起こしているのである。それは、単純なものではなくて、もっと複雑なシステムエラーでもあるから、精神科医がこの根底となる原因を探り出せないのも当然である。

 

 ただ一人、この愛着障害が根本的な原因になって精神疾患や精神障害を起こしていると気付いていらっしゃる精神科医が存在する。それが、岡田尊司先生である。岡田先生は、適切なケアを施して見事に精神疾患や精神障害の方々を寛解させていらっしゃる数少ない精神科医だ。メンタル疾患やメンタル障害は、適切にケアすれば治るのである。愛着障害を適切な愛着アプローチで癒してあげれば、難治性のメンタル疾患だって寛解するのである。ただ、この愛着アプローチはとても難しい。専門の研修を重ねてきたセラピストやカウンセラーであっても、手こずることが多い。でも、適切なケアがされれば、メンタル疾患は必ず治るのである。

ネバーランドから出ておいで

 ネバーランドという国をご存知だろうか。勿論、実際に存在する島国ではなくて、架空の世界にある島国のことである。ピーターパンの戯曲に出てくる国のことだ。ピーターパンと同じように、ネバーランドに住む子どもたちは年をとらない。永遠の子どもなのである。と言うか、大人になりたくない子どもたちである。ピーターパン症候群というパーソナリティ障害があるが、ネバーランドに住む子どもたちは、ある意味ピーターパン症候群だとも言えよう。日本でも、ネバーランドから抜け出せない大人が沢山いることに驚く。

 

 ピーターパン症候群は、男性に多いと言われてきた。しかし、女性にも同じように大人になり切れず、子どものままの精神状態に置かれたままになっている人がいる。アダルトチルドレンと同じようなパーソナリティ症状を呈する傾向がある。ひきこもりの状態に追い込まれてしまっている人も、ネバーランドの住人だと言えなくもない。ネバーランドの住人達は、その精神が極めて強い幼児性を示す。回避性、または逃避性のパーソナリティを持つ。さらには、強い依存性のパーソナリティも示す。そして、ネバーランドから出て来ようとしない。

 

 ネバーランドの住人たちは、子どものようにプラモデルが大好きだったり、アニメやゲームに引き込まれていたりする。中には、大人になってもキティちゃんが大好きだったり、アニメに登場するフィギュアの収集癖もあったりする。心が子どものままだから、純粋なあまり潔癖症でもあり、完璧主義にも陥りやすい。付き合う相手にも純潔や母性・父性を求める傾向が強いから、恋愛が成就することはあまりない。どうして、ピーターシンドロームになってしまうのかというと、乳幼児期の育てられ方に問題があったせいではないかと思われる。

 

 今でもネバーランドに住んで、大人の社会に出て来られない人は、愛着障害だと思われる。つまり、乳幼児期に何らかの問題があって、十分な母性愛を与えられなかったのであろうと思われる。または、愛情が与えられたとしても条件付きの愛だったし、あまりにも介入や干渉をされ過ぎた愛だったのだと思われる。それ故に親との良好な愛着が構築されなかったので、甘え体質と依存体質を卒業できなかったのだと思われる。あるがままでまるごと無条件の愛をたっぷりと注がれないと、自己肯定感や自尊心が育たず愛着障害になるのだ。

 

 ネバーランドの住人たちは、自分がピーターシンドロームだという自覚がないし、愛着障害だとは思ってもいない。あまりにもネバーランドの居心地が良いものだから、ピーターパンのようにそこから抜け出ようとしない。当事者の自覚がなければ、いくらネバーランドから支援者が彼らを救い出そうとしても、徒労に終わってしまう。なにしろ、ネバーランドの住人は頑固であり拘りが強い。素直に聞き入れることが出来ない。中には、謙虚な気持ちで受け入れてくれる女性はいるが、殆どの男性は頑固であり、聞く耳を持たない。

 

 ネバーランドの住人がそこから抜け出すことは難しいが、ひとつだけネバーランドから出られる可能性がある。男性であるならば、母性愛豊かなウェンディのような女性に出会うことである。ネバーランドに住むのが女性ならば、ウェンディのような母性愛を注げる包容力の豊かな男性に出会うことである。まるごとあるがままに愛してくれる異性に出会い、支えてもらえたならネバーランドから抜け出せるかもしれない。しかし、残念なことにそういう人は稀有な存在であるし、ネバーランドの住人は恋愛下手なのである。

 

 ネバーランドの住人は、精神的に幼稚であるから気ままな性格だし、気分が不安定なので突然怒りを爆発させたり落ち込んだりする。自尊心や自己肯定感が低いから、自分に自信が持てない。対人恐怖症や対面恐怖症があるし、醜形恐怖症が伴いやすい。異性とコンタクトを取るのがそもそも苦手なのである。これでは、恋愛に発展しにくいのは当然である。そんな気難しいネバーランドの住人であっても、そっと支えてくれる異性が現われてくれたなら、勇気を振り絞って甘えてほしいのである。ネバーランドから抜け出せるのは、これしかないのである。さあ、ネバーランドから出ておいで、ピーターパンさん。

学問は誰のためのもの(優しく哲学を学ぶ)

 学問とは、誰の為にあるのだろうか。高度の専門的な学問は大学や研究機関のものであり、単純でしかも優しく学べるような学問は庶民のものというように思っている人が多いかもしれない。しかし、そんなことはあり得ない筈だ。どんなに高度で難しい学問だろうと、みんなの為に存在するし、学びたいと思うすべての人のものだろうと確信している。ところが実際は、アカデミックの世界での学問は、研究者や教授・助教授のための学問になっているように感じる。わざわざ難解で理解不能の言葉を操り、敢えて難しい理論展開にしているように思えて仕方がない。

 

 専門の知識や素養が必要な複雑系の物理学や化学、非線形数学などが、まるっきり理解不能なのは仕方あるまい。理解できそうなのに、なかなか理解できない学問の代表は、哲学であろう。哲学は、凡人が理解するのに苦労する。特に、哲学者とその学問を研究する人たちの、難し過ぎる言い回しが理解するのを困難にしていると思う。どうして、こんなにも難解な言い回しをするのだろうと、いつも不思議に思う。それに、専門用語を羅列することが多いし、その理論展開について行けそうもない。わざわざ難解にしているとしか思えない。

 

 そもそも大学教授たちの授業は、おしなべて難解である。教授が著した教科書・文献を読んでも、理解するのが極めて難しい。どうしてこんなにも難解にしなくちゃならないんだと、憤りさえ感じてしまう。敢えて言わせてもらうと、自己満足の世界だと思ってしまう。わざと難しくして、どうだ難しいだろ、バカなお前たちなんて解りっこねえんだよ、と言っているようなものだ。哲学を学ぼうとする学生が少ないのは、こういう馬鹿な教授たちのせいであろう。相手が理解しやすいように、優しい語句と言い回しで教えるのが賢い教授なのだ。

 

 仏教には、仏陀の尊い教えを伝えるお経というものがある。言わば、仏教の教科書みたいなものである。浅学菲才の私はそのお経を読めないし解説も出来ない。非常に難しいと思われているが、実はこのお経は仏陀自身が書き記したものではないという。アーナンダという第一弟子が、口述筆記したものだと言われている。仏陀が集まった人々に講演をして、その言葉を一言一句違わずに文字に起こしたのがアーナンダらしい。集まった人々のレベルに合わせて解りやすいように物語にして聞かせたという。

 

 集まった人々のレベルは千差万別である。仏教を習いたいという専門家(僧侶志願)も居れば、一般庶民も居たという。市井のおばちゃんたちの認知レベルに合わせて、話の内容を変えたという。なるべく理解しやすいように平易でストリー性を持たせて語って聞かせたというのである。仏教とは苦しんでいる人々を救う教えである。当然、悩み苦しむ人たちというのは、悟りを開いていないのは勿論だが、どちらかというと教養や学びの薄い人たちである。そういう人こそが救われるべきだと、仏教を学べるように優しく教えたのであろう。

 

 本来学問とは、仏陀のように優しい語句と言い回しで、誰でも学べるようにしなければならないのだ。それをわざわざ難解にして、賢い人だけが理解できればいいんだという態度や姿勢では、学問を詰まらなくするだけだ。そもそも哲学という学問は、人々を悩み苦しみから救う手立てとするものだ。物事の本質をどう見極めていくのかという、形而上学としての立場があるのだから、人間が人間らしく生きるために必要不可欠な学問なのである。わざわざ難解にして、人々を排除しようとするなんて愚の骨頂と言えよう。

 

 アカデミックの世界で教授と呼ばれる人たちは、どうして学問を難解にしてしまっているのであろうか。それは、ひとつには格調高い文章にしようとして、必要以上に難解にしなくてはならないと勘違いしていることに起因しているようだ。さらには、学歴や教養が高くなっている人ほど、身勝手で自己中心的になっているからだ。文章を読んだり授業を聞いたりする人たちの気持ちになりきれないのである。自分の言っている言葉を理解できないのは、聞くお前たちがバカなのだと突き離しているのである。学問を教える人は、学ぶ人の能力や力量に合わせて、解りやすいように物語にして聞かせ、理解してもらう努力をすべきなのである。

洗脳されやすいのは自己肯定感が低いから

 変なカルト宗教に騙されたり、とんでもない占い師に高額な寄付をさせられたりする人がいる。または、自己啓発セミナーに誘われて、高額な研修を次から次へと受講させられる人が少なくない。これらは、ある意味マインドコントロールや洗脳をされていると言えよう。厳密に言うと洗脳とマインドコントロールは違うものだと言われているが、社会一般では同じ意味で使用されることが多い。著名な芸能人もよく洗脳されているという話を聞くことが多いが、想像以上に多くの人々がマインドコントローや洗脳をされていると言えよう。

 

 フェイクニュースに騙され続けたり、間違ったインターネット情報に操られたりするのも、ある意味ではマインドコントロールと言えよう。トランプの熱狂的な支持者たちは、とんでもない陰謀論を信じ込まされて、マインドコントロールされていると言えなくもない。日本でも、陰謀論を信じ込んでしまい、とんでもない非科学的な証拠を鵜呑みにして情報発信する人がいる。こういう人に、騙されているんだよと優しく諭しても、マインドコントロールされているから無駄である。洗脳というのは無理に解こうとしても、解けないのだ。

 

 洗脳またはマインドコントロールを受けやすい人がいる一方で、どんなに巧妙な罠をかけられても一切騙されずに洗脳やマインドコントロールをされない人がいるのも事実だ。その違いはどこから来るものなのであろうか。イスキアの郷しらかわという不登校やひきこもりの子どもたちや若者たちを支援していて気付いたのだが、彼らもまた洗脳やマインドコントロールを受けやすいのである。そして、彼らに共通なのが自尊心や自己肯定感が異常に低いことである。その為に、騙されやすいし妄想を持ちやすいという共通項がある。

 

 どうして自己肯定感や自尊心が低いと洗脳やマインドコントロールされやすいのかといと、こういう理由からだろうと想像できる。自尊心や自己肯定感というのは、自分で努力して良い成績や実績を上げても、地位や名誉を得たとしても、一切高くなることはない。絶対的な自尊心や自己肯定感を得るかどうかは、小さい頃(2歳~4歳)の自我が芽生える時期における育てられ方に起因している。『あるがままにまるごと愛される』という育てられ方をしないと、自己肯定感や自尊心は育まれることはないのである。

 

 あるがままにまるごと愛されず、親から強く支配されたり制御されたりして育てられると、どんな時にも揺るがない自己肯定感は生まれない。言い換えると、あまりにも親から介入や干渉をされ過ぎてしまうと、自己肯定感は育たないのである。さらに、母親がひとりで子育てをしてしまうと、母性愛と父性愛の両方を同時に注いでしまうことになる。これは、ダブルバインドのコミュニケーションと言って、絶対に避けなければならない子育てになってしまう。そうすると、摂食障害や妄想性の障害などを起こすことにもなる。

 

 あるがままにまるごと愛されるという無条件の愛を注がれる子育てをされないと、子どもと親の豊かな愛着が結ばれない。つまり『愛着障害』になってしまうのである。愛着障害になってしまうと、絶対的な自己肯定感が確立されないで成長してしまう。絶対的な『安全基地』が存在しなくなってしまう。生きる上で必要な安全と絆が存在しなくなるのである。そうなると、いつも不安と恐怖感を抱えて生きることになる。見捨てられ不安やいつか見離されてしまうという怖れを抱いてしまう。回避性や逃避性のパーソナリティを持ったり、何かに依存しないと生きていけなくなったりする。

 

 つまり、いつも強烈な生きづらさを抱えてしまい、何かに救いを求めたくなるのである。言い換えると、いつも心が満たされていないから、何か別のもので心を満足させようとしてしまうのであろう。何かにすがっていないと生きていけなくなってしまうのだ。そこに付け込まれてしまうのである。新興宗教やオカルト信仰に誘い込まれるのは、こういう愛着障害の人が多い。〇〇心理学を学ぶという自己啓発セミナーに騙されるのも同じ理由からだ。スピリチュアルなセラピーに誘惑されて、高いパワーストーンを買わされるとか、高額なアロマを購入させられるのも愛着障害の人が多い。洗脳やマインドコントロールから目覚めるには、誰からかあるがまままるごと愛されて、自尊心を高めるしか方法がない。