夫の定年後に迎える妻の最悪の日々

夫が定年退職を迎えて自宅に居るようになると、二人で一緒に毎日過ごせるようになる。そうなれば二人で過ごす毎日が充実して、妻も喜ぶかと思っていた。しかし、そういう妻は殆どいなくて、毎日が地獄のように感じる妻が大半だという。信じられないことであるが、夫の定年後に一緒に居ることが、最悪だと思っている妻がとても多いのである。どういうことかというと、毎日のように夫が家にいると、妻はストレスが溜まる一方だという。夫がいない平日の昼間は自由気ままな暮らしだったのが、定年後は出来なくなるからである。

夫は、家族のために定年まで頑張って身を粉にして働いてきた。大企業や官公庁で働いた人は、年金も十分に支給されるし蓄えだってあるから、無理して働くこともないと再就職する人は少なくないらしい。それでも、趣味や市民活動に精を出す人ならまだ救われるというが、趣味や友達もなくて、毎日出かけず家にいて、テレビを観たりレンタルビデオを観たりして過ごす夫なら最悪である。どういう訳か、いつも妻と一緒に居たいと思うらしい。妻が一人で出かけるのを嫌がるし、外出する時は一緒に出掛けたいと主張するらしい。

一緒に買い物に行くと、夫に時間をせかされるしこんなものを買ってと批判される。外食をすると、家の食事のほうが旨いだの、この料理はどこそこのレストランと比べると格段に味が落ちるだのと批判的コメントを垂れ流す。食材や調理法の蘊蓄を、料理の前で延々と聞かされたら食べたくなってしまう。洒落たレストランの雰囲気だって壊されてしまう。男という生き物は、妻の気持ちを逆なですることに、実に長けているらしい。スーパーに買い物に行くと、食材を買うたびに細かく口出しをする。一緒に出掛けたくないと思うのも当然だ。

一緒に旅行すると、もっと最悪な雰囲気になる。妻がここに行きたいとか、こんな所を見学したいと言っても、夫はそんな所に行って何が面白いのか、何がいいんだと否定的発言をしがちだ。男と女の興味を持つことが違うし、どのように過ごすことで満足するかが、そもそも違うのである。女性は感性やイマジネーションを大事にしたいが、男性は何でも科学的に分析的に物事を見がちである。だから興味を持つ対象も違うことが多い。そういった際に、妻に寄り添い共感できる夫なら、妻の望むようにする。しかし、そんな夫はいない。

家に居る時だって、雰囲気は最悪である。テレビのチャンネル権は、殆ど夫が握る。妻は、韓流の恋愛ドラマが大好きである。または、人間ドラマやイケメンが出演するドラマを観たがる。ところが、夫はアクションドラマ、ビジネス番組、歴史ドラマ、スポーツ番組、SFものが大好きである。当然、自分の観たい番組しか観ない。たまには、妻の好きな番組に付き合うという優しい旦那はいない。少しは、家事を手伝う気持ちでもあれば嬉しいが、居間のソファーにでーんとふんぞり返って、何もしてくれない。家事の邪魔になるだけである。

夫が仕事で不在の時は、友達と女子会ランチに行って、おしゃべりしてストレス解消ができていた。しかし、夫が家にいると、もう年金生活なんだから、女子会ランチなんてそんな無駄なことは止めろと制限する。女性同士で旅行することも認めてくれない。自分と一緒に行けばいいのだから、妻だけで旅に出ることを認めようとしない。趣味の会やフィットネスクラブに外出しようとすると、もうそんな余裕はないんだと止められる。こんな奴隷のような生活を夫から強いられることが、実に多いというから最悪である。イプセンの人形の家という戯曲があるが、あの主人公ノラのような生き方をさせられる。たまったものではない。仕事をしている時なら、少しは自由があったのに、まったく自由がなくなるのである。

こういう生活を強いられたら、妻は間違いなく夫原病になってしまう。こんな夫であれば、妻はどうすれば良いのだろうか。こういう時は、夫に対してショック療法をするに限る。離婚を切り出すしかないであろう。なにしろ、こういう夫は、言って聞かせて態度が変わることは期待できない。勿論、本気ではない。一種の賭けでもあるが、安心して良い。離婚するしかないと言われて、夫は本当に離婚することはしない。一人になって困るのは、圧倒的に夫だからである。夫と妻の年金支給は合算して折半することが出来る。財産はどちらが稼いだとしても、不動産の名義が夫であってとしても、すべて折半なる。そうなれば、夫は離婚したら財産が半減するし、生活が困るのだから、離婚するのが惜しくなる。試しに、家裁に調停を受けたいと言って実際に相談するくらいの脅しをかけてみるのもよいだろう。

チェ・ホソンがゴルフの常識を変える

先日開催されたゴルフのカシオワールドオープンで、韓国人プロゴルファーのチェ・ホソンが優勝した。このトーナメントには内外のトッププロが参加しているので、優勝するには非常にハードルが高い。この歴史ある大会で優勝して、優勝賞金4,000万円を獲得したのである。このチェ・ホソンプロの優勝を、TV各局のワイドショーでこぞって取り上げている。何故かというと、このチェ・ホソンのゴルフスィングが独特だからだ。まさしく踊るようなスィングをする。今までのゴルフ理論からすると、あり得ない姿なのである。

なにしろ、まずスタンスが独特である。とんでもない方向を向いてスタンスを取る。極端なクローズドスタンスだ。そのまま真っすぐボールが飛んで行ったら間違いなくOBになる。さらに、スィングをし終わってフォロースィングがとんでもない動きをする。左足1本でくるっと回るのである。しかも、1回転してから左に身体を傾けたり右に傾けたりして、飛んだボールを見守る姿は、ふざけているとしか見えない。左足で回転してクラブを振り回す姿は、まるで釣り人のよう。自らフィッシャーマンズスィングと命名する。

チェ・ホソンは、スィングも特徴的であるが、そのプロフィールも他のプロゴルファーと違っている。最近のプロゴルファーは、ジュニア時代から指導を受けている。小学生から英才教育を受け、ゴルフ部のある名門高校を卒業してプロになるか、または大学でゴルフ部を経てプロになるのが通例だ。そして、プロになってからも誰かに師事するケースが殆どである。一匹狼的なプロは皆無である。ところが、チェ・ホソンは誰にもコーチを受けずにプロになったのである。しかも、25歳からゴルフを始めたというから驚きだ。

彼は水産高校を卒業後、水産加工工場に就職し魚の解体と調理をしていたという。20歳の時にマグロを解体していた時に右の親指を切り落としてしまったという。移植手術を受けたものの親指は短くなり、微妙な業務が出来なくなり離職したらしい。それで、いろんな職業を転々として、ゴルフ場のアルバイト募集広告を見つけて、人生の転機が訪れた。最初はクラブ磨きなど下働きをしていたが、社長からゴルファーの気持ちを理解する為に全員ゴルフを覚えるようにという指示を受けて、彼のゴルフ人生が25歳から始まった。

実際にゴルフを始めると、水を得た魚のように生き生きとした生活になった。毎日ゴルフ場の営業終了後から午後11時まで、黙々と練習に励んだ。誰からもゴルフ理論を教えられなかったから、独学でゴルフを学んだ。めきめきとゴルフの腕前が上達して、あれよあれよという間にプロに転向した。ところが、若い頃からゴルフをしていた訳ではないこともあって身体が固くて、しかも年齢も盛りを過ぎていて、ボールの飛距離が他のプロよりも圧倒的に劣っていた。それを克服するために編み出したのが、あの独特なスィングだった。

このスィングをしてから、飛距離が飛躍的に伸びた。ましてや現在45歳なのだが、このスィングが進化した2年前から、以前と比較して15ヤード飛距離が伸びているのだ。このフィッシャーマンズスィングは、ゴルフの基本理論からするとあり得ない。解説者やコーチたちは、揃って言葉を失う。しかし、これだけの実績を残しているのだから、けっして間違っている訳ではない。飛距離が落ちてきたシニアゴルファーにとっては、このスィングを取り入れるのもありだと言わざるを得ない。科学的に考察すると、柔軟性がなくなり筋力の落ちたアマチュアにとって、実に理想的だということが判明したのである。

まず、ゴルフのスィングはなるべく真っすぐに振るほうが良いと思っているアマチュアが多いが、間違いである。スィングは円回転であるから、真っすぐに振れないのだ。そして、円回転だから回転軸がぶれると、スィングスピード(球速)は落ちて、ボールは飛ばなくなる。左ひざや左腰に壁を作って円回転をさせないと、ヘッドスピードは低下する。チェ・ホソンのスィングは、左足1本で回転するから軸がぶれない。しかも、フォロースルーがスムーズで大きくなる。極端なクローズドスタンスは、身体が固い人でもバックスィングで肩がスムーズに回るから、スィングアークも大きくなる。クローズドスタンスでも回転軸が左足だから回転がスムーズだ。自分でも試してみるとよく解る。私も試してみたが、距離が10ヤード以上伸びるし、飛ぶ方向も安定する。チェ・ホソンのスィング理論が多くのシニアゴルファーから受け入れられ、ゴルフの常識が変わることであろう。

 

※このチェ・ホソンのフィッシャーマンズスィングは、飛距離の落ちてしまった女性やシニアゴルファーには最適ですが、柔軟で筋力のある若いゴルファーにはお薦めできません。そして、身体は硬くても、心が柔軟で柔らかい感性を持ってないゴルファーには向かないと思います。さらに、このスィングは器用でないと真似できませんから、自分は不器用だと自認する人もマスターするのは難しいと思います。チェ・ホソンは、常識を疑い自分の柔軟な感性と直観を信じたからこそ、このスィングを開発できたのでしょう。彼の素晴らしいファンサービスにエールを送りたいと思います。

ボランティアなんて呼ばないで

2020年東京オリンピックにおけるボランティア募集が始まった。TVの情報番組において、募集のやり方に対して批判的なコメントが多く寄せられている。ボランティアは無償が基本であるものの、地方から応募した人は宿泊所の確保と宿泊費の負担が自分でしなければならないのが、あまりにも厳しいという批判が多い。また、交通費が1000円までしか負担しないというのは、遠距離から通う人にとっては厳しいと意見がある。これではボランティアが確保できないだろうと思っている人が多い。

また、真夏の暑い時期にこんなにも多くの時間を拘束されるのだから、無償ではなくて有償にすべきだという意見も少なくない。さらには、ボランティアではなくて正式に雇用契約したスタッフを配置するべきだとの意見を述べるコメンテーターもいる。ボランティアを募集している意味や目的をまったく考えず、不見識な批判を繰り返すコメンテーターも酷いが、ボランティアの原則を無視して募集するオリンピック組織委員会も情けない。

最近のオリンピックにおいては、ボランティアスタッフが果たす役割が大きい。ボランティアの活躍によって大成功を収めたオリンピックが少なくない。一方でボランティアの募集をしても集まらず、苦しい運営を強いられたリオデジャネイロオリンピックのようなケースもある。ロンドンオリンピックでは、7万人のボランティアが集まり、友達の家に寝泊まりしながらボランティアを楽しんで、仲間との交流やネットワークが広がり、自己成長や自己実現が出来たと満足したボランティアが多かったと聞く。

東京オリンピックのボランティアが、ロンドンオリンピックのようなボランティアの理想に近いようなものになるのかどうかは分からない。しかし、東京都やオリンピック組織委員会が実施しているボランティア募集のやり方を見ていると、どうもそうではないような気がしてならない。どちらかというと、東京オリンピックのボランティアは、単なる人手不足を補う『無料スタッフ』という色彩が濃いのではないかと思える。開催コストをなるべく抑えるために、無料の開催支援員を集めているだけのように感じるのである。

東京都や組織委員会の人たちは、そもそもボランティアというものをどのように考えているのであろうか。ボランティアについての正しい認識を持っているのだろうかと危惧している。今まで20年以上もボランティアを続けている自分から見ると、東京オリンピックのボランティアは、ボランティアとして定義するには強引過ぎる。正しく清らかなボランティアを続けてきた人たちにしたら、ボランティアと呼ばないでほしいものである。

ボランティアとして定義するには、4大原則に合致しなければならない。一つ目は自発性・自主性・主体性である。二つ目は無償性であり、三つ目は連帯性・社会性である。そして、最後の一番大事な原則は、先駆性・社会改革性である。連帯性・社会性とは、その活動によって、社会のネットワーク・絆・関係性が深まり豊かになるということである。先駆性・社会改革性というのは、その活動によって社会がより良く変革するということである。

その4大原則に当てはめると、少し問題はあるにしても無償性は担保されていると言えよう。自発性・自主性・主体性という点については、かなり問題がありそうだ。最初から支援する内容ががっちり決められる。ましてや希望通りの支援内容を出来る訳でもなく、自由裁量にも制限がありそうだ。そうすると、都や組織委員会によって指示命令されて、やらされているという感覚になりそうである。それでは、ボランティアをする喜びや生きがいを感じることは少なそうである。これでは、自らの自己成長に繋がらない。

また、連帯性・社会性という面での仕組みが疑問である。ボランティアは仲間づくりや絆造りをして、お互いが支え合う社会を作るために実施するという観点が必要である。今回のオリンピックボランティアは、単なる業務遂行の代理者という性格が強いから、連帯性・社会性はかなり低いとみなされる。また、社会変革性・先駆性という点では、まったく評価されない。ボランティアとは社会の問題や課題を解決する手段であるのにも関わらず、そんな視点は皆無に近い。ボランティアなんて呼ばないでほしいと思っている人々は、非常に多いに違いない。都と組織委員会の見識が疑われる。

タイガーウッズが完全復活する日

タイガーウッズの完全復活を期待する声が高まっている。全英オープンで6位に入り、先週開催された全米プロで、トップに2打差の2位に入ったのだ。それも最終日にタイガーチャージをかけて、首位に肉薄しての準優勝は価値がある。これで、タイガーウッズの復活は間違いないだろうと思うファンは多い筈だ。タイガーウッズが復活すれば、ゴルフツアーの人気はうなぎ上りになり、ゴルフ人口も増えるに違いない。母国である米国だけでなく、世界中の子供たちがタイガーに憧れてゴルフをやりたがるからだ。

タイガーウッズがどうしてスランプやツアーの長期離脱に追い込まれたかというと、深刻な膝痛と腰痛に苦しんだからだと言われている。さらに、私生活が極端に乱れてしまい、家庭崩壊まで引き起こしたことが影響しているらしい。膝痛と腰痛の原因になった力任せのスウィングを、膝と腰に負担のない最新理論のスウィングに改造したが、なかなか安定せずに調子を崩したとみられる。さらには、数度に渡る腰の手術と過度の鎮痛剤飲用が、心身の健康を損なわせたのではないだろうか。

タイガーウッズの成績が振るわなくなった頃、結婚生活が破綻してしまい、ついには離婚をしてしまった。タイガーの異常とも言える性癖が原因だとされる。かなりの人数の女性と浮気を繰り返していたらしい。それも、どういう訳なのか相手は白人の美人である。一説には、性依存症だったと言われているが、正式な精神疾患の名称にはそんな病名はない。ただし、そのためにメンタルケアーを受けていたという。かなり深刻な依存症だったのかもしれない。依存症を起こすのは、精神的な未熟さや愛情不足が根底にある。

カウンセリングと的確な精神療法によって、性依存症の症状が和らいだみたいである。しかし、今でも、白人の恋人との噂がマスコミを賑わしている。ということは、再婚はしていなのであろうし、家庭を持ったという報道もない。今までタイガーウッズと関わった女性はおしなべて、タイガーウッズの名声や財産を求めていたと思われる。タイガーウッズも黒人であることに対するコンプレックスがあるせいか、白人女性としか付き合わなかった。結婚していながらこれだけ多くの女性と関係を持つというのは、おそらく演技性のパーソナリティ障害があるせいではないだろうか。

演技性のパーソナリティ障害に苦しんだ有名人に、マーロンブランドがいる。彼の周りにはいつも大勢の女性が群がっていた。また、チャールズチャップリンは障害のせいで何度も結婚しては、破綻していた。マーロンブランドは死ぬまで、パーソナリティ障害を克服できなかったが、チャップリンは四度目の妻ウーナ・オニールと出会って障害を克服できた。それまでは、チャップリンの名声や財産を目当てに近寄ってきた女性たちだったが、ウーナ・オニールだけは、チャップリンという人間そのものを深く愛したと思われる。この結婚によって精神の安定を得たチャップリンは、傑作を数多く残したのである。

タイガーウッズも彼を人間として心から愛する女性に出会って、安定した家庭生活を送ることが出来たら、精神状態も落ち着くことが出来よう。パーソナリティ障害も和らいで、女性遍歴も止むことになるに違いない。以前膝痛や腰痛が起きたのは、精神的な不安定が深く影響していたと思われる。女性トラブルを多く抱えていて、自分を裏切ったと逆恨みして、相手の女性に対する怒りや憎しみが増幅することで、痛みを憎悪させたとみられる。タイガーウッズの前に、名声や財産目当てでない、彼自身の人間的魅力に惚れ込んだ女性が現れて、どんな彼でも否定することなくすべてを愛してくれたなら、タイガーは変われるに違いない。

ゴルフは非常にメンタルが強く影響するスポーツである。常に不安や恐怖感がつきまとう。その不安や恐怖感によって、無意識の脳がスウィングを微妙に狂わせる。この不安や恐怖感を克服して、無我の境地(ゾーン)に入れた者だけが栄光を掴むことが出来るのだ。不安や恐怖感を払拭するには、オキシトシンという脳内神経伝達物質が豊かに分泌することが必要だ。このオキシトシンは、家族愛や心から信頼するパートナーとの性行為によって増える。タイガーウッズのすべてを愛し、彼を心から信頼し、いかなる時も支えてくれる女性と出会い結ばれたなら、彼は見事な完全復活を遂げるに違いない。家庭生活の安定なくしては、心身の安寧は難しいであろう。完全復活の日が、一日も早くやってくることを期待している。

 

登山は哲学である

登山家の岩崎元朗さんは、「山は哲」という造語を作って、ことあるごとにおっしゃっていた。山を学にしてはならない、あくまでも哲でなくちゃならないと主張されていたらしい。そういう考え方も確かにあると思う。登山を学びにしてしまうと、あまりにも一つの枠に当てはめてしまうことだろう。または、遊び的な要素を無くしてしまい、魅力を無くしてしまう怖れもあると思われる。しかしながら、登山を哲学と呼んでもいいじゃないかと思っている。登山とは、人間の生きる意味を学ぶ場ではないかと思うからである。

古(いにしえ)より山とは神々の住む場所だと考えられていた。さらに仏教においては、山は死後の世界である浄土であると思われてきた。人間が本来は到達することが困難な場所である厳しくて危険な山に登ることで、神や仏に少しでも近づくことが出来ると考えられてきたのであろう。山岳修行や登拝が広く行われてきたのは、日本人にとって山は精神的支柱であり憧れでもあったからだと思う。神と一体になりたいという思いや、生きたままに仏性を持つという即身成仏への願いが、山に登るという行為を神聖なものと考えてきたのかもしれない。

10年以上も公民館のトレッキング教室の登山ガイドを続けさせてもらっている。登山技術や安全登山の知識を生徒さんに伝えているが、山の歴史や哲学についてもレクチャーさせてもらっている。日本人にとって山とは何か?日本において登山が発展してきたのは何故か?歴史的背景を交えながら丁寧に説明している。日本における山とは、本来「お墓」を意味していた。「はやま」という地名が全国各地にあるが、里山を意味していて、そこには霊園があることが多い。青山(あおやま・せいざん)という地名も同じである。亡くなって魂が還る場所である「山」に、お墓を設置したのではないかと思われる。

山があの世(浄土)であるという考え方も多かった。山には、浄土平、賽の河原などの名称が付いている場所がある。山の頂上付近というのはあの世であり、山に登るという行為は一旦この世からあの世に行くという意味もあったのであろう。岩木山、月山、御嶽山、大峰山などの霊峰には、今でも死出の旅に着る白装束で登拝する人が多い。この世で身に付いた穢れ(けがれ)を、一旦あの世に行くことで祓い除け、生まれ変わって清浄な心でこの世に戻ってくるという意味を持つと考えられる。「六根清浄、懺悔、懺悔」と掛け声をかけて登っている。

霊峰に登拝する山岳修行が何故日本に広まったのかというと、厳しい身体的修行をすることが心を磨くことになるという考え方が根底にあったと思われる。精神と身体は密接な関係があり、心を磨くには身体を極限まで苛め抜くことで実現すると考えたらしい。確かに、そういう経験をしたことが何度かある。マインドフルネスや瞑想という心理的療法があるが、厳しくて体力の限界に挑むような登山は、自分と向き合うのに最適である。黙々と目の前の急坂を登っていく時間は、まさにマインドフルネスと言えよう。

山岳修行のような厳しくて危険な登山でなくても、山登りは精神的な鍛錬になることは間違いない。より難しくて体力を使う登山ほど、その効果が大きいと思われる。何故なら、自ら自分を精神的に追い込むような身体の鍛錬が、それを成し遂げた時の達成感や自己肯定感を向上させてくれるからである。ましてや、嫌なことや苦しいことに心折れずに自分から向かっていくチャレンジ精神を養ってくれる。人間の本来持っている自己組織性である、主体性・自発性・自主性を育んでくれると考えられる。しかも、登山は誰にも頼れないし、自分の決断で自己責任を基本として登ることなる。つまり、何かあった際に誰かに責任転嫁をしないという、責任性も生まれる。

最近増加している発達障害やパーソナリティ障害などの精神障害にも、登山は高い効果があると思われる。また、PTSDやパニック障害、うつ病などにもトレッキングは有効である。強いうつ症状がある方に、月山や鳥海山などの登山に連れ出しているうちに、症状がいつの間にか和らいだという体験をしている。子どもたちの健全育成には、トレッキングが最適だと思っている。今度の山の日には、孫たちを山に連れて行く予定をしている。幼い子どもたちには、何度も誉めながら登っている。自己組織性を伸ばすには、自分が認められて評価されることが必要だからである。人間の生きる意味や目指すべき道を探すという哲学をするには、登山が最適だと確信している。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、精神疾患や精神障害の方たちを登山にお連れしています。ひきこもりや不登校の方にも登山ガイドをします。登りながら、山・木々・花・鳥などのいろんな話をさせてもらうと共に、山の哲学についてもレクチャーさせてもらっています。東北の名山や北アルプスなどもご案内いたします。勿論、福島県内の安達太良山、磐梯山、会津駒ケ岳、燧岳などもご案内します。健康な方や子どもさん方もお連れします。問い合わせからご相談ください。

ダイアローグが西野ジャパンを活性化

サッカー日本代表西野ジャパンがロシアワールドカップで大活躍をした。戦前の予想では、活躍は期待出来ないと思われていたのに、決勝リーグまで残りベルギーと互角に渡り合えたのは、西野監督の采配とマネジメントの賜物であるのは間違いない。あんなに短い期間によくチームをまとめあげたし、選手の掌握によくぞ成功したなと感心するばかりだ。西野監督のチーム管理が成功を収めた一番の要因は、彼と選手間の徹底した『対話』にあったと言われているが、まさしくその通りだと思われる。

監督に就任してから、各選手と徹底して対話したと伝えられている。しかも、選手たちをリスペクトして、彼らの言い分にしっかりと耳を傾けて、取り入れるべき戦術の参考にもしたと聞き及んでいる。そして、選手たちとの心を開きあった対話によって、選手と監督との『関係性』が非常に良くなり、揺るぎない信頼関係が構築されたのである。監督が考えていることをチーム全員が理解して、それを一丸となって実行できたのは、対話によって彼らの『共通言語』が創造できたからに他ならない。

スポーツのチームにおいて、強くなったり成果を残したりするには、チームワークが大切であるのは言うまでもない。良好なチームワークを作り上げるには、コミュニケーションが大事だというのは誰にも共通した認識であろう。だからこそ、常日頃からの対話が必要なのである。対話というのは、モノローグ(一方的な会話)であってはならない。ダイアローグ(双方向の会話)でなければならない。ともすると、監督と選手間というのは、圧倒的に監督が優位な立場であるが故に、モノローグになってしまうことが多い。上位下達という形である。これでは、共通言語が形作れないから対話にならないのである。

日大のアメフト部のコミュニケーションは、モノローグであった。志学館大学のレスリングも同様である。ハリルジャパンも、言葉の壁もあっただろうが、ダイアローグでなかったのは確かであろう。野球の巨人がカリスマの監督を据えて、優秀で実績のある選手を金でかき集めても、実績を上げられないのは、実はチーム全体の共通言語を持たないからである。FIFAランク61位のチームが決勝トーナメントに残る活躍が出来たのは、ダイアローグ(対話)のおかけであろう。

日本人の素晴らしい精神文化を形成した根底には、「和を以て貴しとなす」という聖徳太子が提唱した価値観があると思われる。個の意見も大切であるが、お互いの意見を尊重しあい、共通の認識や意見に集約するまで、徹底した対話を続けるという態度が大切であろう。西野監督は、まさにそうした対話を続けることで、チームをひとつにまとめあげたのである。勿論、監督のリーターシップも必要である。最終的には、監督が重要な決断をしなければならないし、すべての責任を取らなければならない。今回のポーランド戦は、まさに西野監督が苦渋の決断をして、その責任を一身に背負った。あれで、チームはひとつにまとまったのである。

西野監督が、オープンダイアローグという心理療法の原理を知っていたとは到底思えないが、彼はチーム内の対話をまさしくオープンダイアローグという手法を使って活性化していたのには驚いた。各選手の話を傾聴して共感したと言われている。監督としての優位性を発揮せず、対等の立場で対話したらしい。しかも、否定せず介入せず支配せずという態度を貫いたという。このような開かれた対話をされたら、誰だって西野監督のことが好きになり、信頼を寄せる。このような対話を続けると、選手たちは自ら主体性を持ち、自発性も発揮するし、責任性を強く持つ。つまり、アクティビティを自ら強く発揮するのである。

ともすると、組織のリーダーは圧倒的な権力を持つことにより、構成員を支配し制御したがる。こうすることで、ある程度の成果は出せるものの、継続しないし発展することはまずない。大企業の著名経営者が陥るパターンであり、中小企業のオーナー経営者が失敗するケースである。家庭において、圧倒的な強権を持つ父親が子どもを駄目にするパターンでもある。ひきこもりや不登校に陥りやすいし、弱いものをいじめたり排除したりする問題行動をしやすい。組織をうまく機能させるには、開かれた対話、つまりオープンダイアローグの手法により、共通言語を形成し関係性を豊かにすることが必要である。西野ジャパンが対話によって成功したように、コミュニティケアを目指せばよいのである。

※スポーツチームのリーダーや組織の管理者、または企業のマネージャーがオープンダイアローグを学びたいと希望するなら、イスキアの郷しらかわにおいでください。組織の活性化が実現できます。1泊2日のコースで丁寧にレクチャーいたします。勿論、家族とのコミュニケーションが苦手だと感じるお父様も、是非受講してください。

メンタル不調にも最適なゴルフ

勝ち負けにこだわる処や、相手の弱点をついたり嫌がることをしたりするのが性に合わないからスポーツをしないという人がいる。または、何人かのチームワークをするのが苦手なのでスポーツから遠ざかっているという人もいる。あまりにも心が優しくて対戦型のチームスポーツが合わない人がいる。こういう人は心が傷つきやすくメンタル不調にもなりやすいが、そんな人でも楽しめるスポーツがある。それがゴルフである。メンタル不調の方に是非にもお薦めしたいスポーツである。

団体スポーツや対戦型のスポーツは実際にゲームをするまでの準備が大変だから嫌いだという人も少なくない。団体スポーツで対戦型というと、人が集まらないとゲームが出来ない。5人のチームを組むバスケットボールは10人揃えばゲームが可能になる。バレーボールなら12人、野球・ソフトボールなら18人、サッカーは22人が必要になる。ましてや、競技場や体育館を借りるにも苦労する。何日も前から申し込まないとゲームにならない。ぴったりの人数であれば、都合の悪い人が出ると足りなくなるので余裕を持って人数を集める。ゲームにフル出場できないプレーヤーも出てくる。試合に出場しなければ面白くないのは当然だ。ゴルフは1人でも気軽に、そして一日フルに楽しめるスポーツである。

元々団体スポーツに向かない人もいる。身勝手な人がそうだと思いがちであるが、そうではなくて周りに気を遣うような人ほど団体スポーツが苦手である。何故なら、自分のせいでゲームが不利になったり負けたりすると、他のチームメイトに申し訳なく思い、居たたまれなくなってしまうのだ。気持ちが優しくて繊細な神経の人ほど、団体スポーツに向かない。また、自分がミスをした時に、口では気にするなと言いながら心の中では「この下手くそ、お前のせいで負けたじゃないか」と思っているチームメイトがいるのを、鋭く感じてしまうから団体スポーツが出来ないのだ。

対戦型スポーツに違和感を覚えるという人も少なくない。自分がどれほど良いプレイをしたとしても、相手がそれを上回るプレイをすれば負ける。ましてや、技術だけでなく相手との駆け引きも必要だし、相手が苦手とすることや嫌がることをしないと勝てないのである。相手がミスした時に、外面には出さないものの、内心嬉しいという複雑な気持はどうしようもない。相手の弱点を突く攻撃をするというのは、フェアープレイを謳っていながら、パラドックスの感覚を持たざるを得ない。

ゴルフは、あくまでも個人プレイなので相手を気にしないでプレイできる。すべてのプレイと結果は自己責任だから、人に迷惑をかけることはない。自分のプレイが他人に嫌な思いをさせることはない。失敗したら自分がその責任を負うし、素晴らしいプレイをしたら自分の成果になる。悪い成績を誰かのせいにしたり天候やゴルフ場のせいにしたりすることは基本的に出来ない。技術面の未熟さとメンタル面での弱さは自分のプレイに跳ね返る。まさに自分との闘いである。マッチプレイやコンペに参加しない限り、すべては自分だけのプレイを純粋に楽しむだけである。

ゴルフ場に一度でも立ったことがある人なら解るが、あの解放感は何とも言えなく嬉しい。広々としたフェアウェイが続いて、青々とした芝生が伸びている景色は、この世のものとは思えない爽快感を与えてくれる。樹々や植物が豊富にあり自然が豊かな環境が広がっている。人工的に配した池や浮島などは、まるで日本庭園のような趣さえ感じられる。近くにある連峰や海を借景にしたゴルフ場さえある。こんなにも自然が豊かな処でするスポーツは他にない。だから、ストレス解消に最適である。心が疲れたり折れたりしてしまった人に薦められるスポーツである。

さらに、ゴルフはマインドフルネスに最適でもある。ゴルフというスポーツは、奥が深く難しい。でも、初心者でもそれなりに楽しめる。今はセルフプレイなので、キャディにも気兼ねすることがない。スロープレイをしなければ、未熟者でもラウンドが可能だ。自分のゴルフプレイに専念することで、心を無に出来る。自分の心を支配している苦しくて悲しい気持ちを一時的に手放せるのである。難しくて楽しいゴルフだからこそ、自分を苦しめている思考を一時的に停止できると言えよう。マインドフルネスにこれほど適したスポーツは、ゴルフ以外にないであろう。メンタル不調の方は、是非ともゴルフを試してほしいものである。ひきこもりや不登校、メンタル不調による休職者にもお勧めであ。

 

※心が傷つき折れてしまい、メンタルが不調になってしまい、何をする気力もなくなってしまった方には、ゴルフをすることをお勧めします。イスキアの郷しらかわでは、宿泊者に近隣のゴルフ場までご案内します。ご希望されるなら、同行プレイもいたします。また、ゴルフの初心者には練習場までご案内し、基本的な技術やルールなどをレクチャーします。ゴルフクラブも無料でレンタルいたします。お問い合わせのフォームから、ご相談ください。

スポーツに優しさは要らないのか

日大アメフト部の内田監督による指導の不適切さが、次第に明らかになってきている。その指導の中で、あまりにも異常だと思うのが、『はまる』という言葉である。特定の選手に対して、指導という範疇を逸脱するような、監督の意地悪行為を『はまる』とアメフト部の選手たちは呼んでいたらしい。その特定された選手は、集団練習から外されて厳しいランニングだけをさせられるというようなパワハラ指導を受けていたと言う。その選手は試合にも出されず、必要以上の嫌がらせを受けて、精神的に追い込まれていた。今年度は、その特定された選手というのが、反則行為をした宮川選手だったと言われている。

どうしてそんな前近代的な人権無視の酷い指導をしたのかというと、監督は当該選手のさらなる成長を望んでいたのは間違いないだろう。だとしても、けっして許される指導方法ではない。何故かと言うと、当該選手をスケープゴートにして酷い仕打ちを繰り返し、他の選手を自分の思い通りに支配しようとしたからである。しかも、その『はまる』選手の性格を変えようとして、他の選手を恐怖心で同じようにさせようとしたからである。そして、その『はまる』選手の優しい性格を変えようとしたというから驚きである。

内田監督にとって、アメフトをする選手は優しい性格を持っていてはならないと思っていたらしい。優しい性格であると、厳しいタックルや反則すれすれの卑怯な行為が出来ないと思っていたのであろう。だから、その『はまる』選手というのは、心根が優しくて思いやりのある誠実な部員だったという。一方、乱暴な性格で監督の言われた通りにペナルティを平気で行うような選手は、絶対に『はまる』ことはなかったという。内田監督は、反則すれすれのラフなプレーを好んでいたし、そういうことをする選手にすることで勝ちに繋げたかったのであろう。

内田監督は、その危険な反則のラフプレーを、宮川選手に敢えてしろとに指示した。それも、『はまる』選手にして、精神的に追い込んで指示を守るしかない状況にしておいてから、反則タックルをさせたのである。どれだけ卑怯かということが解るであろう。気持ちが優しくて、相手を怪我させるような卑怯な行為が出来ない選手を嫌い、乱暴でハードプレーをする選手だけを可愛がり、試合に出させるというのは、もはや人間として許される行為ではない。選手たちが荒々しいプレーをするには、優しさが邪魔だと考えた節がある。相手の怪我や故障することなんか考えるなと檄を飛ばしていたらしい。

スポーツをする際には、優しい心というのは不要なのだろうか。優しい心があると、ハードな対戦型スポーツにおいては、相手に対する遠慮があるから、厳しいプレーが出来ないと内田監督は考えていたらしい。だから、選手が優しい心を無くすために、敢えて反則のラフプレーをさせていたと考えられる。本当にスポーツ選手には、優しい心は邪魔になるのだろうか。大相撲の世界でも、取り口に優しさが感じられず、非常な仕打ちをする横綱がいる。確かに、その取り口はラフな印象を受けるが、圧倒的な強さを誇っていた。しかし、その取り口は卑怯に見えていたし、けっして美しくはなかった。

日本の古武道において、何よりも大切としたのは対戦相手の尊厳を認めることであり、敬意を持つということである。卑怯な行動を取ることを恥じていたし、正々堂々と闘うことが求められている。そして、何よりも大切なのが『惻隠の心』である。惻隠というのは、相手に対する慈悲の心と言ってもよい。言い替えると相手に対する優しさであり、強き者が弱き者に対する配慮を持つということでもある。一旦相手を倒して戦意を喪失させたら、敗者に対しての必要以上の攻撃を続けてはならないし、敗者にも敬意を持たなくてはならないと教えていた。生命をも奪うような闘いだからこそ、相手に対する優しさが必要だという教えである。

スポーツにおいても、それがハードで相手を怪我させるようなスポーツであるならなおさら、惻隠の心が必要であろう。そうでなければ、平気で怪我をさせたり卑怯なプレーをしたりしてしまう危険がある。危険性のあるスポーツの指導者は、まずは対戦相手の尊厳を認めることを教えるべきであろう。勝負に徹するとしても、相手を潰せなんて言葉を言うべきではない。惻隠の心があれば、反則プレーなんかできるものではないし、指導者がそれを強いるなんてことは絶対にない筈である。スポーツの指導者たる者は、惻隠の心を持つことをまずは教えるべきであろう。そうすれば、真の強者を育成することが出来るに違いない。

登山ガイドをさせてもらう喜び

10年近く、地元の公民館で登山ガイドをさせてもらっている。その他、個人的なガイドをボランティアでさせてもらう機会も多数ある。登山ガイドの役目は、先ずは安全で確実な登山を利用者に体験してもらうことであろう。登山客の安全対策には、特に責任がある。無事に登って下りてくるまで、登山客の生命と体調を守る責任がある。それ以上に気を遣うのは、山登りの喜びをどのように感じてもらうかでもある。

登山客の満足度をどう高めるに苦心している。勿論、満足度を高めるために無理をさせて安全が疎かにするようなことはけっしてない。登山において、何よりも安全が最優先なのは当然である。そのうえで、登山の楽しみや喜びを感じてもらい、また登りたいなと思えるようにガイドをさせてもらっている。そして、登山客から今日は本当に楽しかったと笑顔で言ってもらった時の言葉が、登山ガイドとしての至上の喜びになる。

登山ガイドは、安全登山の仕方や疲れない歩き方、登山中の体調管理などについて登山客に伝授する。樹々や花々の名前、鳥の鳴き声や動物の生態についても説明する。登る山の説明や歴史についても、説明することもあろう。登山ガイドは、それらの事前調査も実施して、登山客に詳しく話をさせてもらうのである。普通なら、ここまですれば登山ガイドとして合格点であろうと思う。しかし、私はそれでは飽き足らず、もっといろんな話をさせてもらっている。

一昨日、地元の公民館のトレッキング教室があり、15人の生徒を茨城県の最高峰八溝山にお連れしてきた。バスの中で、安全登山の基本的な考え方を伝える為に、エベレストの登山歴史と栗城史多氏の遭難事故について話をさせてもらった。ヒラリー卿の談話やG・マロリーの「ここに山があるから」という有名な言葉と本当の意味も説明した。単独無酸素登頂がとんでもなく難しく、今まではたった一人の登山家しか成功したことがないこと。その登山家ラインホルト・メスナー氏の人となり、そして登山スタイルにも言及した。

G・マロリーはヒラリー卿よりも前に、3度もエベレスト登頂に挑戦している。そして、3度目の挑戦で還らぬ人になった。でも、もしかすると登頂に成功した後に、下山中に滑落したのではないかと見られている。それに対してヒラリー卿は、登山というのは登って無事に戻ってきてこそ、登頂に成功したと言えるのだと断言している。登山と言うのは、ある程度の危険性はあるものの、何よりも生命の尊重を最優先させるというのが基本だと言っていた。ラインホルト・メスナーも、最愛の弟であるギュンターを同行した登山で失っているからこそ、生命の尊重を何よりも大事にしたのだ。

こんな話をしながら、安全登山の基本的な理念を話させてもらった。また、登山における自然保護や環境保護についても言及した。さらに、今の時期に見られるヤマボウシの花についても説明した。ヤマボウシは漢字表記だと山法師となる。山法師とは、比叡山の僧兵のことを指す。僧兵の白い頭巾が、ヤマボウシの花びらと酷似していることから命名されたと伝えられている。このように、花の名前の由来についても詳しく説明することが多い。そのほうが、花の名前を憶えやすいし、花に対する親近感が湧いて、より大好きになると思うからである。カエデという名前が『蛙手』からということや、英語でメイプルと言って、メイプルシロップがその樹液から作られることも説明してあげた。

普通の登山ガイドならば、これぐらいの知識はあるので説明することもあろう。しかし、ここからが自分にしか出来ない話だと思う。山法師と言えば、平家物語の第一巻にこんな記述があるという。白河法皇の「鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心の思うにならぬもの」という言葉である。白河法皇は、自分の子どもと孫を天皇に据えて、本格的な院政を日本で初めて敷いた人物である。絶大な権力を持ってしても、日吉山王大社の神輿をかついで強訴する山法師(比叡山の僧兵)に手を焼いていた。それを北面の武士として平家の武士を宛てて、警護させたのである。これが平家の政権掌握のきっかけになったのである。

こんなことまで、登山の話とは違うから聞きたくないと思う人もいるかもしれない。しかし、こういう話は皆さん初めて聞いたと驚いていらしたし、元校長先生の引率者も北面の武士という言葉は聞いているが、そういう歴史背景があることまでは知らなかったとびっくりされていた。歴史も、こういうストーリー性のある話ならば、みんなが好きになるに違いない。このように歴史や登山の哲学の話を含めて、様々なことを説明してもらっている。これが登山客の喜びであると同時に、自分としてもガイドする大きな喜びでもある。

 

※イスキアの郷しらかわでは、登山ガイドをしています。ガイド料は特別頂いていません。交通費の実費だけか体験料(1500円)だけの費用です。樹々や花々の名前や由来、それらの背景や歴史なども詳しく説明しています。クマガイソウやアツモリソウの名前の由来と源平合戦における平敦盛と熊谷直実の「須磨の浦での対決」、山吹の花と太田道灌に関わる短歌の話、などいろんな話をさせてもらいます。特に、登山の哲学についてご興味がある方には、ご満足いただけると思います。登山ガイドの申し込みやご相談は、問い合わせフォームからお願いします。

スポーツの指導は科学的手法で

日大アメフト部の不適切指導が大変な問題になっているが、そもそも内田監督という人物が、指導者として相応しかったのかということが話題になっている。至学館大学の栄和人監督も同じような批判にさらされた。どちらもそれなりの成績を残しているものの、指導される側からは、その指導法に疑問を呈されている。彼らの指導法に共通しているのは、精神論や感覚論に偏っているという点だ。そして、体力の限界を超えるような猛練習を課しているのも特徴的である。確かに日本のトップレベルを保つにはハードな練習が必要なのは理解できる。しかし、自らが求めた練習ではなくて、嫌々やらされているという感覚ならば、そんな練習はするべきではない。

旧来のスポーツ指導においてもてはやされてきた精神論が、まだ横行していることに驚く。内田監督と栄監督はあまりにも精神論に固執していたように思える。新しい技術や戦略的部分はコーチが補佐していただろうが、基本的な組織全体の科学的な管理手法については、疎かったように感じる。厳しい練習に耐え抜いた選手だけが結果を残せるという考え方は間違っていない。だとしても、選手の心が折れてしまうような押し付けの練習は逆効果である。科学的な根拠のないやみくもな練習など、まったく役に立たないのである。

スポーツにおける心身の鍛練において、根性を示せ、気合で乗り切れ、精神を鍛えろなどと前時代的なことを平気で言う指導者がいる。内田監督や栄監督などは、その部類であろう。特に日大のアメフト部は、深夜時間まで及ぶような長い練習を部員に課していたというから、考えられない横暴ぶりである。精神論、根性論、気合論で結果が残せると本気で思っていたなら、時代錯誤と言えよう。スポーツにおいては、科学的・論理的にどうすれば選手が成長し向上できるのかは、ほぼ解明されている。ましてや、メンタル面においても、どうすれば心が平静になって実力が発揮できるのかも、科学的に説明できるのだ。

今は科学的に実証された、効果の高いトレーニング方法が確立されている。最新のフィジカルトレーニングは、短い時間でも必要な筋肉や体力が作られるし、持久力を上げるのに長い時間走るだけのトレーニングなんて、時代遅れになっている。メンタルトレーニングも科学的な手法が用いられる。心理学的に、そして脳科学的に検証されている手法でメンタル面が強化されている。精神論や根性論なんて、今の青少年は誰も信用していない。科学的合理性の教育を受けてきた青少年は、科学的に正しいのか正しくないのかで取捨選択するようになっているからだ。

最近のスポーツ指導者、とりわけ日本トップレベルにある高校や大学の指導者たちは、自然科学を駆使した指導だけでなく、社会科学を活用した指導法を取り入れている。チームワークやリーダーシップ、または自主性や自発性を選手たちに発揮させるには、どのような指導法が良いのかを研究しているのである。最新の経営管理学の理論を学んでいる。チームをどのようにマネジメントしていくかが問われているからである。チームをまとめきって、部下との信頼を得ていなければ結果を出せないからである。

日大のアメフト部は、監督を神格化してコーチと部員を完全に支配しようとした。部員たちに何も考えさせなくして、監督の手足として動く選手だけを重宝した。部員たちが自分達で考えたり、自主的に行動したりすることを何よりも嫌ったのである。戦略を立てるのは監督であるが、試合中に刻々と変化する情勢に臨機応変に自主的に自発的に動ける選手が必要である。瞬間的に対応するには、常日頃からアクティビティが養成されていなければならない。アイコンタクトでお互いが何を考えているのか理解できる関係性が必要である。監督にすべて支配され制御された選手は、いざという時に役に立たなくなる。

最新の科学では、スポーツのチーム全体をひとつのシステムとして捉えている。そのシステムが効率的に機能するには、システムの構成員であるひとりひとりの選手が、全体最適を目指して主体的に動くことが求められる。監督やコーチから、いちいち指示されることなく、自主性を持って行動できるように自己組織化されていなければならない。それぞれの選手たちが、ネットワークを組んでそれぞれが過不足なく連帯性を持って行動出来た時に、最大の効果や成果を発揮できるのである。その為には、選手どうし、選手と指導者、指導者どうしの関係性が大事である。その豊かな関係性を築くには、自己組織化されたシステムという考え方をチーム全員が認識しなくてはならない。スポーツの指導は、精神論でなく科学論でするべきだ。