イップスの本当の原因と克服の方法NO.2

 元々強大な不安や恐怖感が根底にあって、何度も大きな失敗や取り返しのつかないミスが起きてしまい、これ以上そんな状況が続くと、自分自身を破綻させる危険を防ぐ防衛反応としてイップスが起きるということを説明した。この背側迷走神経の暴走によるシャットダウン化は、メンタル疾患や自己免疫疾患を起こすことも非常に多い。イップスは治療が困難である。非常に治りにくい。プロを辞めるか、スポーツを諦めるしかなくなる。

 イップスやジストニアが治りにくいのは、迷走神経が関係しているからである。自分の意識で何とか改善させることが、極めて難しいのである。一旦、背側迷走神経による心身のシャットダウン化が起きてしまうと、現代の医学ではどうしようもない。この遮断状況を解決しようと、投薬治療やカウンセリング・セラピーを実施したとしても、迷走神経はこれらのアプローチを跳ねのけてしまうのである。しかし、イップスやジストニアを克服するのは不可能ではない。適切で懇切丁寧なサポートをすれば、時間は長くかかるが克服できる。

 どうすれば克服できるのかというと、まずは根底にある不安や恐怖感を持ちやすい気質を改善することが必要である。とは言いながら、この不安や怖れを強く持ち過ぎるという気質は、幼い頃からの育てられ方に起因しているので、解決するのは困難である。両親のどちらかまたは両方が、子どもに対して強い干渉や介入を繰り返しながら育てると、優秀な学業成績を収めるし、運動選手としても成功しやすい。ところが、その代償として自己組織化の能力が低下すると同時に、不安や怖れを人一倍抱きやすい大人になってしまうのである。

 こうしてはいけない、こうすると駄目だ、このようにすると失敗すると、親が子に対してマイナスの未来を示して、それを避けることだけの子育てをすると、子どもは健全に育たない。誉めて認めて育てて、どうすれば上手く行くのか一緒に考えようと、プラス思考的な子育てや指導をすれば、不安や怖れを強く持つことはない。多少の失敗や逃避をしたとしても、または問題行動をしたとしても、強く叱らずに大目にみることが大事である。失敗しても叱らずに、今度は上手く行くよと励まして育てれば、不安や恐怖感を持たない大人になる。

 脳科学的にこのことを検証すると、よく理解できる。安心・快楽ホルモンであるオキシトシンホルモンが関係している。乳幼児期にあまりにも強い介入や干渉(しつけ)を繰り返すと、オキシトシンホルモン受容体が作成されない。無条件の愛である母性愛をたっぷりと注がれて、いつもスキンシップをされて育つと、オキシトシンホルモン受容体が沢山出来て、不安や怖れを感じなくなる。オキシトシンホルモンが沢山取り込まれると、幸福ホルモンであるセロトニンホルモンも分泌され、益々安心感が強くなるのである。

 このように、いつも不安や恐怖感を持つ人というのは、オキシトシンホルモンが不足しているのである。ということは、もう一度小さい頃からの愛情たっぷりの子育てをやり直すことが必要だが、現実的には無理だ。だとすれば、親に代わる誰かが、無条件の愛情を注いで安全と絆を提供するしかない。この安全と絆を提供できる臨時的な『安全基地』が傍にいて、無条件の愛をたっぷりと注いであげれば、時間はかかるけれど不安や恐怖感を持ちやすい気質を改善出来よう。この安全基地の存在は、精神的にも安定していて包み込むような豊かな包容力を持ち、どんなことを言われてもされても揺るがないメンターライゼーション能力を持つ人物であらねばならない。

 イップスを起こす人間は、スランプにも陥りやすい。運動の世界だけでなく、生活の場面でも社会全般においても、スランプを起こしやすい。そうした屈折した心理を抱えているので、精神的に不安定なこともあり、反抗・反発しやすい。そうしたことをされても、けっして見離さずに、寄り添い続ける覚悟が必要である。こうして安全基地が寄り添い、無償の愛を注ぎ続ければ、背側迷走神経のシャットダウンは解けて、不安や怖れを感じなくなり、イップスやジストニアは克服できる。人生におけるスランプも容易に乗り越えられる筈である。

イップスの本当の原因と克服する方法NO.1

 イップスというスポーツ選手が陥ってしまう運動障害を知っているだろうか。元々はゴルフのプロ選手が、グリーン上でのパットを上手く打てなくなってしまった症状をイップスと呼んだのが最初だった。ゴルフではパットだけでなく、他の動作でも起きる深刻な運動障害もイップスと呼ぶようになった。他のスポーツでも、同じような症状を起こすことが解ってきて、やはりイップスと定義された。一度でもイップスの症状が出た人の割合は、習慣的にスポーツをする人のうち約5割もいると言われている。イップスを起こす人は多い。

 一度イップスの症状が起きてしまうと、同じ動作をする度にイップスに陥ってしまう。イップスが酷くなると、まったく身体が動かなくなることもある。イップスが起きる頻度は圧倒的にゴルフや野球が多いと言われているが、スィングやピッチングがまったく出来なくなるケースもある。イップスというのは、初心者や初級者には起きにくい。どちらかというと、上級者や熟練者、またはプロスポーツ選手に起きやすい。イップスの原因は、まだ完全には解明されていない。脳の誤作動によるのではないかと考えられている。

 イップスというのは、不安による筋肉の過緊張によって起きるジストニアの一種ではないかと考えられている。脳は実際に起きた現象を記憶する。特に、大きな失敗や取り返しのつかないようなミスをした強烈な記憶は、脳に深刻なダメージとして残される。そうすると、その記憶を画像としてのイメージを作り出すことが可能になる。失敗した同じ場面に置かれると、また同じことが起きるのではと不安になり、その失敗したイメージが甦ってしまう。脳内に作られた失敗のイメージによって、そのイメージ通りの現実を起こしてしまう。

 何度かその失敗が続いてしまうと、同じ場面で失敗をすることを怖れてしまい、筋肉が過緊張に追い込まれて拘縮する。そうすると、スムーズな動作が出来ないばかりか身体が固まってしまい、一切の動作さえ出来なくなってしまうのである。プロスポーツ選手や熟練者は、成功することが当たり前という前提がある。失敗しても当たり前という初級者には、イップスは起こりにくい。自分で成功をすることが当然だと考えている、または他人から成功を期待される人ほど、プレッシャーやストレスが過大にかかり、イップスが起きるのであろう。

 人間の脳は、起こそうとしてイップスが起きている訳ではない。無意識下で、脳が筋肉に対して誤作動の指示をしてしまうと考えられている。有意識では失敗させず、上手く動作させようと思っていて脳はそのように指示しているのにも関わらず、無意識下の脳はその指示を無視して、筋肉を過緊張にさせてしまうのである。誰でもイップスが起きるのかと言うと、けっしてそうではない。あくまでも、イップスが起きる人とまったく起きない人がいる。不安や恐怖感を強く持ち過ぎてしまう気質を持ってしまう人だけが、起こす傾向にある。

 イップスが起きる本当のメカニズムがどうなっているのかについて検証してみよう。自律神経における迷走神経のメカニズムは、複雑である。人間がどうしようもない不安や恐怖感に陥った時に、自分自身の身体と精神を守る自己防衛反応が起きてしまう。それは迷走神経が勝手に作動してしまうのである。迷走神経の中でも、原始的とも言える背側迷走神経が身体機能の遮断を起こしてしまう。そうすると、筋肉が過緊張状態になってしまい、身体が正常に動かなくなったり、凍り付いたりしてしまうのだ。これは、自分自身の身体と精神が破綻するのを防ぐ防衛反応なのである。

 大きな失敗や取り返しのつかないミスを繰り返してしまうと、自分自身の精神が破綻をしたり、自死に追い込まれてしまったりする。または、自分の地位・名誉や高い評価を失ってしまい、社会から転落してしまうのではないかと勘違いをするのだ。実際には、そんなことは起きなくても、不安や恐怖感の強い人は最悪の結果を予想してしまうのである。その為に、イップスという症状を無意識的に起こして、過酷なプレッシャーやストレスから逃避させてしまうのであろう。かくして、自己防衛反応としてのイップスが起きてしまうのである。

NO.2につづく

Awe体験に最適な滝めぐりツアー

 Awe(オウ)体験は、人間が心身共に健康であり続け、精神的に成長し進化して行き、正しい生き方を志す人間形成には必要不可欠なものだと、前回のブログで発信させてもらった。それでは、その大事なAwe体験を実践するには、どんな自然体験が相応しいのかという点を明らかにしたいと思う。昔の修行僧や修験者は、厳しい山岳修行を修めてAwe体験としたようである。しかし、現代人が生命の危険を冒すような山岳修行は難しい。そんな体力や気力を持つのは並大抵のことではない。もっと安全で確実なものはないだろうか。

 過去にAwe体験によって悟りを開いた歴史上の人物は、少なくない。まずは仏教の創始者である、仏陀が挙げられる。恵まれた裕福で安定した環境を自ら捨てて、厳しい修行を続けて涅槃の境地至ったと言われている。その後日本では、弘法大師空海が高知県室戸岬の洞窟に籠り、虚空蔵菩薩真言を100万回唱えて悟りを開いたと伝わる。役行者も厳しい山岳修行で悟りを開いた。天台宗においては、千日回峰行という決死の行を満了して大阿闍梨となる。真言宗では大峰奥駆け修行をやり遂げて悟りを開くと言われている。

 我々のような凡人が、そんな大それた修行を行うべくもないが、多くの人々が滝行をして煩悩からの解放を望むこともある。今でも、大峰山、御嶽、出羽三山、岩木山、七面山などでは修行としての参拝登山が行われている。これらの少しハードな修行をしたとしても、煩悩を完全に滅却して悟りを開くのは極めて難しいし、参加するにはハードルが高いように感じる。不完全ではあっても、危険を伴わずに何度も実行できるAwe体験はないものかと探したら、ようやく見つけることが出来た。滝めぐりツアーによるAwe体験である。

 滝は人気の観光名所であることが多い。何故滝の人気が高いのかというと、水がどどーっと流れ落ちる迫力ある眺めや音に惹かれるのではなかろうか。そして、ほとばしる水のしぶきや細かく漂う霧のような水滴から受けるマイナスイオンも心地よいのだろう。流れ落ちる水の姿から諸行無常を感じたり、滝や流れの音から1/fの揺らぎを体感したりする人もいることだろう。いろんな魅力が滝とその周辺の景色にあると言えよう。そんな魅力ある滝をゆったりとした気分で眺めていると、俗世間の嫌なことも忘れられるかもしれない。

 滝や瀧という漢字を見ていると、水と竜(龍)から出来ていることが解る。滝つぼには竜が住むとも言われている。そのせいか、各地の滝の名所に竜が付けられていることが多い。日光の竜頭の滝、那須塩原の竜化の滝、和歌山県の宝龍の滝、全国各地の龍門滝、水と龍は切っても切れない縁があるように感じられる。古来より、龍は水の化身とも言われている。天竜川や九頭竜川といった竜の名前が冠された川もある。昔から、龍が暴れると水害が起きると信じられてきた。竜神とか竜王、または竜宮として龍を崇め奉ってきた歴史がある。

 龍の化身である水や瀧を畏れると共に崇めてきたのは、人間の力では龍をいさめることが到底及びもつかないことを、身をもって感じていたからに違いない。人智の及ばないことだから、龍をいさめて抑えることが出来るのは人間ではなく、不動明王や十一面観音菩薩ではないかと思い至り、滝の近くに不動明王や観音菩薩を祀ったのではないかと思われる。不動明王の圧倒的な法力によって龍をいさめたり、観音菩薩の慈悲の力によって龍をなだめたりしたのではあるまいか。そういう感覚を日本人は持っていたのであろう。

 滝を眺めながら自分自身の生き方を振り返り、自然と自分の関係性を見つめ直し、どう生きるべきかを問うてみるのは、とても有意義だと思われる。何故かと言うと、水の化身である龍は、自分自身だからだ。自分の心の中にある、時には暴れだしたり塞ぎ込んだりするマイナスの感情や自己が龍であるという見方が出来ないだろうか。または、自分で抑え込んでしまったインナーチャイルドが龍そのものではなかろうか。その龍であるマイナスの自己やインナーチャイルドを、素直に認め受け容れて慈しむことで、慈悲の心を開花させることが出来るような気がする。その時に、傲慢な心を捨て去り、自然と一体化して本来の謙虚な心を取り戻すことが出来るのだと確信する。滝めぐりツアーがAwe体験として最適な理由が、ここにある。

※イスキアの郷しらかわでは、Awe体験としての滝めぐりツアーを実施しています。現在、定期的なツアーはまだ企画していませんが、➀奥日光三大名瀑ツアー(華厳の滝、竜頭の滝、湯滝)➁奥久慈の滝めぐりツアー(月待ちの滝、袋田の滝、生瀬滝)の二つのコースをご案内しています。ガイド料金は頂いていません。交通費は別途必要です。観光ツアーですと、時間に追われてゆっくり眺めることは出来ませんが、格別な珈琲とスィーツをご用意しますので、時間の許す限り滝(自分自身)とじっくり対話してください。問い合わせフォームからお申込みください。

サッカー日本代表の勝因をシステム科学で読み解く

 ワールドカップでサッカー日本代表チームが強豪のスペインとドイツを破って、一次リーグをトップで通過した。どちらか一方を破るかもしれないと予想した人は少なくないかもしれないが、両方のチームを負かして予選リーグをトップで通過すると予想した日本人は少なかっただろう。ましてや、世界のサッカー界を牽引するスペインとドイツを敗戦に追い込むと予想した両国のサッカーファンは皆無に違いない。言わば奇跡とも言えるような番狂わせを演じた日本の強さは、どうして生まれたのかをシステム科学で分析したいと思う。

 サッカー日本代表チームはサムライブルーとも呼ばれている。サムライブルーが勝てたのは、世界でも活躍できる選手を招集することが出来たからだというのは間違いない。しかし、想像した以上に活躍できたのは、森保監督の采配の的確さと指導力の賜物だという人は多い。誰もが、森保監督の手腕を認めているであろう。その戦術は、的確であり効果的であったと思われる。特筆すべきは、森保監督の指導力(教育力)の素晴らしさであろう。科学的な根拠に裏付けされた指導力と選手の育て方は、世界でもトップクラスと言える。

 森保監督の指導と育て方は、心理学と教育学、さらには脳科学的にもエビデンスに伴ったものだと言えよう。故に、選手の個々の能力を発揮することが可能になったし、実力以上のものが引き出せたに違いない。最先端のシステム科学に基づいたような采配と指導を行えば、大きな成果を産みだすのは当然である。人間はひとつのシステムであるし、チームという組織もまたシステムである。このシステムの機能を最大限に発揮するには、システム科学の思考が必要である。そのシステム思考に基づく指導をしないとシステムは機能しない。

 森保監督の指導方法は、実に科学的でありシステム思考の哲学に則った選手の育て方をしたのである。だから、選手たちは実力以上の能力を発揮したのであるし、チームがまとまって結果を残したのである。システム思考に則った指導法とは、自己組織化と関係性を重視した育て方のことである。この指導を行えば、オートポイエーシス(自己産生・自己産出)が起きる。つまり、個々の選手が大きな成長をするし、チームが大きな結果を産みだすことになるのだ。まさしく、森保監督はこの科学的な手法を用いて結果を残したのである。

 スポーツの指導者はともすると、選手を成長させようとして、厳しく選手に接しがちである。規則やルールで縛ろうとするし、勝手に行動しないように制御しがちである。監督が思い描いたように、選手を動かそうとする。確かに、監督が描いた戦術通りに選手を動かしたくなるのは当然である。ところが、選手をコントロールしようとすればするほど、選手は動かなくなる。練習の時には上手く動いてくれるが、緊張したり興奮したりする場面や大事な試合になればなるほど、身体が動かなくなったりミスを犯したりするものなのだ。

 人間と言うのは、一方的に支配されて所有されたりすると、本来の機能を発揮できなくなる。または、強い干渉や介入を繰り返して、制御をし過ぎると、自己組織化の能力を発揮できなくなる。チームもやはり強すぎる干渉や制御により、自己組織化できなくなるしオートポイエーシスが働かなくなる。森保監督は、選手に対して干渉や介入を極力避けていたようであるし、選手個人の主体性や自主性、さらには責任性を尊重していたらしい。さらには、選手との関係性、またはチーム員どうしの和(関係性)を高める言動を心掛けていた。

 絆(関係性)が強ければ、個人や組織の自己組織化が高まる。個性豊かなサムライブルーだが、選手どうしと監督との関係性は、世界でもトップクラスの豊かさだと思う。その絆の強さは、監督の人柄と言動によるものだと思われる。指導力は高いし戦略性のある外国人監督だが、残念ながら言葉の違いもあるし日本人独特の文化・習慣に疎いので、関係性を高めることは出来なかったように思う。誰よりも優しく思いやりのある日本人らしい森保監督だからこそ、関係性が豊かになりシステムの機能が高まって、結果を残したのである。決勝トーナメントでも、今まで通りに選手を指導してくれることを期待したい。

夫の定年後に迎える妻の最悪の日々

夫が定年退職を迎えて自宅に居るようになると、二人で一緒に毎日過ごせるようになる。そうなれば二人で過ごす毎日が充実して、妻も喜ぶかと思っていた。しかし、そういう妻は殆どいなくて、毎日が地獄のように感じる妻が大半だという。信じられないことであるが、夫の定年後に一緒に居ることが、最悪だと思っている妻がとても多いのである。どういうことかというと、毎日のように夫が家にいると、妻はストレスが溜まる一方だという。夫がいない平日の昼間は自由気ままな暮らしだったのが、定年後は出来なくなるからである。

夫は、家族のために定年まで頑張って身を粉にして働いてきた。大企業や官公庁で働いた人は、年金も十分に支給されるし蓄えだってあるから、無理して働くこともないと再就職する人は少なくないらしい。それでも、趣味や市民活動に精を出す人ならまだ救われるというが、趣味や友達もなくて、毎日出かけず家にいて、テレビを観たりレンタルビデオを観たりして過ごす夫なら最悪である。どういう訳か、いつも妻と一緒に居たいと思うらしい。妻が一人で出かけるのを嫌がるし、外出する時は一緒に出掛けたいと主張するらしい。

一緒に買い物に行くと、夫に時間をせかされるしこんなものを買ってと批判される。外食をすると、家の食事のほうが旨いだの、この料理はどこそこのレストランと比べると格段に味が落ちるだのと批判的コメントを垂れ流す。食材や調理法の蘊蓄を、料理の前で延々と聞かされたら食べたくなってしまう。洒落たレストランの雰囲気だって壊されてしまう。男という生き物は、妻の気持ちを逆なですることに、実に長けているらしい。スーパーに買い物に行くと、食材を買うたびに細かく口出しをする。一緒に出掛けたくないと思うのも当然だ。

一緒に旅行すると、もっと最悪な雰囲気になる。妻がここに行きたいとか、こんな所を見学したいと言っても、夫はそんな所に行って何が面白いのか、何がいいんだと否定的発言をしがちだ。男と女の興味を持つことが違うし、どのように過ごすことで満足するかが、そもそも違うのである。女性は感性やイマジネーションを大事にしたいが、男性は何でも科学的に分析的に物事を見がちである。だから興味を持つ対象も違うことが多い。そういった際に、妻に寄り添い共感できる夫なら、妻の望むようにする。しかし、そんな夫はいない。

家に居る時だって、雰囲気は最悪である。テレビのチャンネル権は、殆ど夫が握る。妻は、韓流の恋愛ドラマが大好きである。または、人間ドラマやイケメンが出演するドラマを観たがる。ところが、夫はアクションドラマ、ビジネス番組、歴史ドラマ、スポーツ番組、SFものが大好きである。当然、自分の観たい番組しか観ない。たまには、妻の好きな番組に付き合うという優しい旦那はいない。少しは、家事を手伝う気持ちでもあれば嬉しいが、居間のソファーにでーんとふんぞり返って、何もしてくれない。家事の邪魔になるだけである。

夫が仕事で不在の時は、友達と女子会ランチに行って、おしゃべりしてストレス解消ができていた。しかし、夫が家にいると、もう年金生活なんだから、女子会ランチなんてそんな無駄なことは止めろと制限する。女性同士で旅行することも認めてくれない。自分と一緒に行けばいいのだから、妻だけで旅に出ることを認めようとしない。趣味の会やフィットネスクラブに外出しようとすると、もうそんな余裕はないんだと止められる。こんな奴隷のような生活を夫から強いられることが、実に多いというから最悪である。イプセンの人形の家という戯曲があるが、あの主人公ノラのような生き方をさせられる。たまったものではない。仕事をしている時なら、少しは自由があったのに、まったく自由がなくなるのである。

こういう生活を強いられたら、妻は間違いなく夫原病になってしまう。こんな夫であれば、妻はどうすれば良いのだろうか。こういう時は、夫に対してショック療法をするに限る。離婚を切り出すしかないであろう。なにしろ、こういう夫は、言って聞かせて態度が変わることは期待できない。勿論、本気ではない。一種の賭けでもあるが、安心して良い。離婚するしかないと言われて、夫は本当に離婚することはしない。一人になって困るのは、圧倒的に夫だからである。夫と妻の年金支給は合算して折半することが出来る。財産はどちらが稼いだとしても、不動産の名義が夫であってとしても、すべて折半なる。そうなれば、夫は離婚したら財産が半減するし、生活が困るのだから、離婚するのが惜しくなる。試しに、家裁に調停を受けたいと言って実際に相談するくらいの脅しをかけてみるのもよいだろう。

ボランティアなんて呼ばないで

2020年東京オリンピックにおけるボランティア募集が始まった。TVの情報番組において、募集のやり方に対して批判的なコメントが多く寄せられている。ボランティアは無償が基本であるものの、地方から応募した人は宿泊所の確保と宿泊費の負担が自分でしなければならないのが、あまりにも厳しいという批判が多い。また、交通費が1000円までしか負担しないというのは、遠距離から通う人にとっては厳しいと意見がある。これではボランティアが確保できないだろうと思っている人が多い。

また、真夏の暑い時期にこんなにも多くの時間を拘束されるのだから、無償ではなくて有償にすべきだという意見も少なくない。さらには、ボランティアではなくて正式に雇用契約したスタッフを配置するべきだとの意見を述べるコメンテーターもいる。ボランティアを募集している意味や目的をまったく考えず、不見識な批判を繰り返すコメンテーターも酷いが、ボランティアの原則を無視して募集するオリンピック組織委員会も情けない。

最近のオリンピックにおいては、ボランティアスタッフが果たす役割が大きい。ボランティアの活躍によって大成功を収めたオリンピックが少なくない。一方でボランティアの募集をしても集まらず、苦しい運営を強いられたリオデジャネイロオリンピックのようなケースもある。ロンドンオリンピックでは、7万人のボランティアが集まり、友達の家に寝泊まりしながらボランティアを楽しんで、仲間との交流やネットワークが広がり、自己成長や自己実現が出来たと満足したボランティアが多かったと聞く。

東京オリンピックのボランティアが、ロンドンオリンピックのようなボランティアの理想に近いようなものになるのかどうかは分からない。しかし、東京都やオリンピック組織委員会が実施しているボランティア募集のやり方を見ていると、どうもそうではないような気がしてならない。どちらかというと、東京オリンピックのボランティアは、単なる人手不足を補う『無料スタッフ』という色彩が濃いのではないかと思える。開催コストをなるべく抑えるために、無料の開催支援員を集めているだけのように感じるのである。

東京都や組織委員会の人たちは、そもそもボランティアというものをどのように考えているのであろうか。ボランティアについての正しい認識を持っているのだろうかと危惧している。今まで20年以上もボランティアを続けている自分から見ると、東京オリンピックのボランティアは、ボランティアとして定義するには強引過ぎる。正しく清らかなボランティアを続けてきた人たちにしたら、ボランティアと呼ばないでほしいものである。

ボランティアとして定義するには、4大原則に合致しなければならない。一つ目は自発性・自主性・主体性である。二つ目は無償性であり、三つ目は連帯性・社会性である。そして、最後の一番大事な原則は、先駆性・社会改革性である。連帯性・社会性とは、その活動によって、社会のネットワーク・絆・関係性が深まり豊かになるということである。先駆性・社会改革性というのは、その活動によって社会がより良く変革するということである。

その4大原則に当てはめると、少し問題はあるにしても無償性は担保されていると言えよう。自発性・自主性・主体性という点については、かなり問題がありそうだ。最初から支援する内容ががっちり決められる。ましてや希望通りの支援内容を出来る訳でもなく、自由裁量にも制限がありそうだ。そうすると、都や組織委員会によって指示命令されて、やらされているという感覚になりそうである。それでは、ボランティアをする喜びや生きがいを感じることは少なそうである。これでは、自らの自己成長に繋がらない。

また、連帯性・社会性という面での仕組みが疑問である。ボランティアは仲間づくりや絆造りをして、お互いが支え合う社会を作るために実施するという観点が必要である。今回のオリンピックボランティアは、単なる業務遂行の代理者という性格が強いから、連帯性・社会性はかなり低いとみなされる。また、社会変革性・先駆性という点では、まったく評価されない。ボランティアとは社会の問題や課題を解決する手段であるのにも関わらず、そんな視点は皆無に近い。ボランティアなんて呼ばないでほしいと思っている人々は、非常に多いに違いない。都と組織委員会の見識が疑われる。

登山は哲学である

登山家の岩崎元朗さんは、「山は哲」という造語を作って、ことあるごとにおっしゃっていた。山を学にしてはならない、あくまでも哲でなくちゃならないと主張されていたらしい。そういう考え方も確かにあると思う。登山を学びにしてしまうと、あまりにも一つの枠に当てはめてしまうことだろう。または、遊び的な要素を無くしてしまい、魅力を無くしてしまう怖れもあると思われる。しかしながら、登山を哲学と呼んでもいいじゃないかと思っている。登山とは、人間の生きる意味を学ぶ場ではないかと思うからである。

古(いにしえ)より山とは神々の住む場所だと考えられていた。さらに仏教においては、山は死後の世界である浄土であると思われてきた。人間が本来は到達することが困難な場所である厳しくて危険な山に登ることで、神や仏に少しでも近づくことが出来ると考えられてきたのであろう。山岳修行や登拝が広く行われてきたのは、日本人にとって山は精神的支柱であり憧れでもあったからだと思う。神と一体になりたいという思いや、生きたままに仏性を持つという即身成仏への願いが、山に登るという行為を神聖なものと考えてきたのかもしれない。

10年以上も公民館のトレッキング教室の登山ガイドを続けさせてもらっている。登山技術や安全登山の知識を生徒さんに伝えているが、山の歴史や哲学についてもレクチャーさせてもらっている。日本人にとって山とは何か?日本において登山が発展してきたのは何故か?歴史的背景を交えながら丁寧に説明している。日本における山とは、本来「お墓」を意味していた。「はやま」という地名が全国各地にあるが、里山を意味していて、そこには霊園があることが多い。青山(あおやま・せいざん)という地名も同じである。亡くなって魂が還る場所である「山」に、お墓を設置したのではないかと思われる。

山があの世(浄土)であるという考え方も多かった。山には、浄土平、賽の河原などの名称が付いている場所がある。山の頂上付近というのはあの世であり、山に登るという行為は一旦この世からあの世に行くという意味もあったのであろう。岩木山、月山、御嶽山、大峰山などの霊峰には、今でも死出の旅に着る白装束で登拝する人が多い。この世で身に付いた穢れ(けがれ)を、一旦あの世に行くことで祓い除け、生まれ変わって清浄な心でこの世に戻ってくるという意味を持つと考えられる。「六根清浄、懺悔、懺悔」と掛け声をかけて登っている。

霊峰に登拝する山岳修行が何故日本に広まったのかというと、厳しい身体的修行をすることが心を磨くことになるという考え方が根底にあったと思われる。精神と身体は密接な関係があり、心を磨くには身体を極限まで苛め抜くことで実現すると考えたらしい。確かに、そういう経験をしたことが何度かある。マインドフルネスや瞑想という心理的療法があるが、厳しくて体力の限界に挑むような登山は、自分と向き合うのに最適である。黙々と目の前の急坂を登っていく時間は、まさにマインドフルネスと言えよう。

山岳修行のような厳しくて危険な登山でなくても、山登りは精神的な鍛錬になることは間違いない。より難しくて体力を使う登山ほど、その効果が大きいと思われる。何故なら、自ら自分を精神的に追い込むような身体の鍛錬が、それを成し遂げた時の達成感や自己肯定感を向上させてくれるからである。ましてや、嫌なことや苦しいことに心折れずに自分から向かっていくチャレンジ精神を養ってくれる。人間の本来持っている自己組織性である、主体性・自発性・自主性を育んでくれると考えられる。しかも、登山は誰にも頼れないし、自分の決断で自己責任を基本として登ることなる。つまり、何かあった際に誰かに責任転嫁をしないという、責任性も生まれる。

最近増加している発達障害やパーソナリティ障害などの精神障害にも、登山は高い効果があると思われる。また、PTSDやパニック障害、うつ病などにもトレッキングは有効である。強いうつ症状がある方に、月山や鳥海山などの登山に連れ出しているうちに、症状がいつの間にか和らいだという体験をしている。子どもたちの健全育成には、トレッキングが最適だと思っている。今度の山の日には、孫たちを山に連れて行く予定をしている。幼い子どもたちには、何度も誉めながら登っている。自己組織性を伸ばすには、自分が認められて評価されることが必要だからである。人間の生きる意味や目指すべき道を探すという哲学をするには、登山が最適だと確信している。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、精神疾患や精神障害の方たちを登山にお連れしています。ひきこもりや不登校の方にも登山ガイドをします。登りながら、山・木々・花・鳥などのいろんな話をさせてもらうと共に、山の哲学についてもレクチャーさせてもらっています。東北の名山や北アルプスなどもご案内いたします。勿論、福島県内の安達太良山、磐梯山、会津駒ケ岳、燧岳などもご案内します。健康な方や子どもさん方もお連れします。問い合わせからご相談ください。

ダイアローグが西野ジャパンを活性化

サッカー日本代表西野ジャパンがロシアワールドカップで大活躍をした。戦前の予想では、活躍は期待出来ないと思われていたのに、決勝リーグまで残りベルギーと互角に渡り合えたのは、西野監督の采配とマネジメントの賜物であるのは間違いない。あんなに短い期間によくチームをまとめあげたし、選手の掌握によくぞ成功したなと感心するばかりだ。西野監督のチーム管理が成功を収めた一番の要因は、彼と選手間の徹底した『対話』にあったと言われているが、まさしくその通りだと思われる。

監督に就任してから、各選手と徹底して対話したと伝えられている。しかも、選手たちをリスペクトして、彼らの言い分にしっかりと耳を傾けて、取り入れるべき戦術の参考にもしたと聞き及んでいる。そして、選手たちとの心を開きあった対話によって、選手と監督との『関係性』が非常に良くなり、揺るぎない信頼関係が構築されたのである。監督が考えていることをチーム全員が理解して、それを一丸となって実行できたのは、対話によって彼らの『共通言語』が創造できたからに他ならない。

スポーツのチームにおいて、強くなったり成果を残したりするには、チームワークが大切であるのは言うまでもない。良好なチームワークを作り上げるには、コミュニケーションが大事だというのは誰にも共通した認識であろう。だからこそ、常日頃からの対話が必要なのである。対話というのは、モノローグ(一方的な会話)であってはならない。ダイアローグ(双方向の会話)でなければならない。ともすると、監督と選手間というのは、圧倒的に監督が優位な立場であるが故に、モノローグになってしまうことが多い。上位下達という形である。これでは、共通言語が形作れないから対話にならないのである。

日大のアメフト部のコミュニケーションは、モノローグであった。志学館大学のレスリングも同様である。ハリルジャパンも、言葉の壁もあっただろうが、ダイアローグでなかったのは確かであろう。野球の巨人がカリスマの監督を据えて、優秀で実績のある選手を金でかき集めても、実績を上げられないのは、実はチーム全体の共通言語を持たないからである。FIFAランク61位のチームが決勝トーナメントに残る活躍が出来たのは、ダイアローグ(対話)のおかけであろう。

日本人の素晴らしい精神文化を形成した根底には、「和を以て貴しとなす」という聖徳太子が提唱した価値観があると思われる。個の意見も大切であるが、お互いの意見を尊重しあい、共通の認識や意見に集約するまで、徹底した対話を続けるという態度が大切であろう。西野監督は、まさにそうした対話を続けることで、チームをひとつにまとめあげたのである。勿論、監督のリーターシップも必要である。最終的には、監督が重要な決断をしなければならないし、すべての責任を取らなければならない。今回のポーランド戦は、まさに西野監督が苦渋の決断をして、その責任を一身に背負った。あれで、チームはひとつにまとまったのである。

西野監督が、オープンダイアローグという心理療法の原理を知っていたとは到底思えないが、彼はチーム内の対話をまさしくオープンダイアローグという手法を使って活性化していたのには驚いた。各選手の話を傾聴して共感したと言われている。監督としての優位性を発揮せず、対等の立場で対話したらしい。しかも、否定せず介入せず支配せずという態度を貫いたという。このような開かれた対話をされたら、誰だって西野監督のことが好きになり、信頼を寄せる。このような対話を続けると、選手たちは自ら主体性を持ち、自発性も発揮するし、責任性を強く持つ。つまり、アクティビティを自ら強く発揮するのである。

ともすると、組織のリーダーは圧倒的な権力を持つことにより、構成員を支配し制御したがる。こうすることで、ある程度の成果は出せるものの、継続しないし発展することはまずない。大企業の著名経営者が陥るパターンであり、中小企業のオーナー経営者が失敗するケースである。家庭において、圧倒的な強権を持つ父親が子どもを駄目にするパターンでもある。ひきこもりや不登校に陥りやすいし、弱いものをいじめたり排除したりする問題行動をしやすい。組織をうまく機能させるには、開かれた対話、つまりオープンダイアローグの手法により、共通言語を形成し関係性を豊かにすることが必要である。西野ジャパンが対話によって成功したように、コミュニティケアを目指せばよいのである。

※スポーツチームのリーダーや組織の管理者、または企業のマネージャーがオープンダイアローグを学びたいと希望するなら、イスキアの郷しらかわにおいでください。組織の活性化が実現できます。1泊2日のコースで丁寧にレクチャーいたします。勿論、家族とのコミュニケーションが苦手だと感じるお父様も、是非受講してください。

メンタル不調にも最適なゴルフ

勝ち負けにこだわる処や、相手の弱点をついたり嫌がることをしたりするのが性に合わないからスポーツをしないという人がいる。または、何人かのチームワークをするのが苦手なのでスポーツから遠ざかっているという人もいる。あまりにも心が優しくて対戦型のチームスポーツが合わない人がいる。こういう人は心が傷つきやすくメンタル不調にもなりやすいが、そんな人でも楽しめるスポーツがある。それがゴルフである。メンタル不調の方に是非にもお薦めしたいスポーツである。

団体スポーツや対戦型のスポーツは実際にゲームをするまでの準備が大変だから嫌いだという人も少なくない。団体スポーツで対戦型というと、人が集まらないとゲームが出来ない。5人のチームを組むバスケットボールは10人揃えばゲームが可能になる。バレーボールなら12人、野球・ソフトボールなら18人、サッカーは22人が必要になる。ましてや、競技場や体育館を借りるにも苦労する。何日も前から申し込まないとゲームにならない。ぴったりの人数であれば、都合の悪い人が出ると足りなくなるので余裕を持って人数を集める。ゲームにフル出場できないプレーヤーも出てくる。試合に出場しなければ面白くないのは当然だ。ゴルフは1人でも気軽に、そして一日フルに楽しめるスポーツである。

元々団体スポーツに向かない人もいる。身勝手な人がそうだと思いがちであるが、そうではなくて周りに気を遣うような人ほど団体スポーツが苦手である。何故なら、自分のせいでゲームが不利になったり負けたりすると、他のチームメイトに申し訳なく思い、居たたまれなくなってしまうのだ。気持ちが優しくて繊細な神経の人ほど、団体スポーツに向かない。また、自分がミスをした時に、口では気にするなと言いながら心の中では「この下手くそ、お前のせいで負けたじゃないか」と思っているチームメイトがいるのを、鋭く感じてしまうから団体スポーツが出来ないのだ。

対戦型スポーツに違和感を覚えるという人も少なくない。自分がどれほど良いプレイをしたとしても、相手がそれを上回るプレイをすれば負ける。ましてや、技術だけでなく相手との駆け引きも必要だし、相手が苦手とすることや嫌がることをしないと勝てないのである。相手がミスした時に、外面には出さないものの、内心嬉しいという複雑な気持はどうしようもない。相手の弱点を突く攻撃をするというのは、フェアープレイを謳っていながら、パラドックスの感覚を持たざるを得ない。

ゴルフは、あくまでも個人プレイなので相手を気にしないでプレイできる。すべてのプレイと結果は自己責任だから、人に迷惑をかけることはない。自分のプレイが他人に嫌な思いをさせることはない。失敗したら自分がその責任を負うし、素晴らしいプレイをしたら自分の成果になる。悪い成績を誰かのせいにしたり天候やゴルフ場のせいにしたりすることは基本的に出来ない。技術面の未熟さとメンタル面での弱さは自分のプレイに跳ね返る。まさに自分との闘いである。マッチプレイやコンペに参加しない限り、すべては自分だけのプレイを純粋に楽しむだけである。

ゴルフ場に一度でも立ったことがある人なら解るが、あの解放感は何とも言えなく嬉しい。広々としたフェアウェイが続いて、青々とした芝生が伸びている景色は、この世のものとは思えない爽快感を与えてくれる。樹々や植物が豊富にあり自然が豊かな環境が広がっている。人工的に配した池や浮島などは、まるで日本庭園のような趣さえ感じられる。近くにある連峰や海を借景にしたゴルフ場さえある。こんなにも自然が豊かな処でするスポーツは他にない。だから、ストレス解消に最適である。心が疲れたり折れたりしてしまった人に薦められるスポーツである。

さらに、ゴルフはマインドフルネスに最適でもある。ゴルフというスポーツは、奥が深く難しい。でも、初心者でもそれなりに楽しめる。今はセルフプレイなので、キャディにも気兼ねすることがない。スロープレイをしなければ、未熟者でもラウンドが可能だ。自分のゴルフプレイに専念することで、心を無に出来る。自分の心を支配している苦しくて悲しい気持ちを一時的に手放せるのである。難しくて楽しいゴルフだからこそ、自分を苦しめている思考を一時的に停止できると言えよう。マインドフルネスにこれほど適したスポーツは、ゴルフ以外にないであろう。メンタル不調の方は、是非ともゴルフを試してほしいものである。ひきこもりや不登校、メンタル不調による休職者にもお勧めであ。

 

※心が傷つき折れてしまい、メンタルが不調になってしまい、何をする気力もなくなってしまった方には、ゴルフをすることをお勧めします。イスキアの郷しらかわでは、宿泊者に近隣のゴルフ場までご案内します。ご希望されるなら、同行プレイもいたします。また、ゴルフの初心者には練習場までご案内し、基本的な技術やルールなどをレクチャーします。ゴルフクラブも無料でレンタルいたします。お問い合わせのフォームから、ご相談ください。

スポーツに優しさは要らないのか

日大アメフト部の内田監督による指導の不適切さが、次第に明らかになってきている。その指導の中で、あまりにも異常だと思うのが、『はまる』という言葉である。特定の選手に対して、指導という範疇を逸脱するような、監督の意地悪行為を『はまる』とアメフト部の選手たちは呼んでいたらしい。その特定された選手は、集団練習から外されて厳しいランニングだけをさせられるというようなパワハラ指導を受けていたと言う。その選手は試合にも出されず、必要以上の嫌がらせを受けて、精神的に追い込まれていた。今年度は、その特定された選手というのが、反則行為をした宮川選手だったと言われている。

どうしてそんな前近代的な人権無視の酷い指導をしたのかというと、監督は当該選手のさらなる成長を望んでいたのは間違いないだろう。だとしても、けっして許される指導方法ではない。何故かと言うと、当該選手をスケープゴートにして酷い仕打ちを繰り返し、他の選手を自分の思い通りに支配しようとしたからである。しかも、その『はまる』選手の性格を変えようとして、他の選手を恐怖心で同じようにさせようとしたからである。そして、その『はまる』選手の優しい性格を変えようとしたというから驚きである。

内田監督にとって、アメフトをする選手は優しい性格を持っていてはならないと思っていたらしい。優しい性格であると、厳しいタックルや反則すれすれの卑怯な行為が出来ないと思っていたのであろう。だから、その『はまる』選手というのは、心根が優しくて思いやりのある誠実な部員だったという。一方、乱暴な性格で監督の言われた通りにペナルティを平気で行うような選手は、絶対に『はまる』ことはなかったという。内田監督は、反則すれすれのラフなプレーを好んでいたし、そういうことをする選手にすることで勝ちに繋げたかったのであろう。

内田監督は、その危険な反則のラフプレーを、宮川選手に敢えてしろとに指示した。それも、『はまる』選手にして、精神的に追い込んで指示を守るしかない状況にしておいてから、反則タックルをさせたのである。どれだけ卑怯かということが解るであろう。気持ちが優しくて、相手を怪我させるような卑怯な行為が出来ない選手を嫌い、乱暴でハードプレーをする選手だけを可愛がり、試合に出させるというのは、もはや人間として許される行為ではない。選手たちが荒々しいプレーをするには、優しさが邪魔だと考えた節がある。相手の怪我や故障することなんか考えるなと檄を飛ばしていたらしい。

スポーツをする際には、優しい心というのは不要なのだろうか。優しい心があると、ハードな対戦型スポーツにおいては、相手に対する遠慮があるから、厳しいプレーが出来ないと内田監督は考えていたらしい。だから、選手が優しい心を無くすために、敢えて反則のラフプレーをさせていたと考えられる。本当にスポーツ選手には、優しい心は邪魔になるのだろうか。大相撲の世界でも、取り口に優しさが感じられず、非常な仕打ちをする横綱がいる。確かに、その取り口はラフな印象を受けるが、圧倒的な強さを誇っていた。しかし、その取り口は卑怯に見えていたし、けっして美しくはなかった。

日本の古武道において、何よりも大切としたのは対戦相手の尊厳を認めることであり、敬意を持つということである。卑怯な行動を取ることを恥じていたし、正々堂々と闘うことが求められている。そして、何よりも大切なのが『惻隠の心』である。惻隠というのは、相手に対する慈悲の心と言ってもよい。言い替えると相手に対する優しさであり、強き者が弱き者に対する配慮を持つということでもある。一旦相手を倒して戦意を喪失させたら、敗者に対しての必要以上の攻撃を続けてはならないし、敗者にも敬意を持たなくてはならないと教えていた。生命をも奪うような闘いだからこそ、相手に対する優しさが必要だという教えである。

スポーツにおいても、それがハードで相手を怪我させるようなスポーツであるならなおさら、惻隠の心が必要であろう。そうでなければ、平気で怪我をさせたり卑怯なプレーをしたりしてしまう危険がある。危険性のあるスポーツの指導者は、まずは対戦相手の尊厳を認めることを教えるべきであろう。勝負に徹するとしても、相手を潰せなんて言葉を言うべきではない。惻隠の心があれば、反則プレーなんかできるものではないし、指導者がそれを強いるなんてことは絶対にない筈である。スポーツの指導者たる者は、惻隠の心を持つことをまずは教えるべきであろう。そうすれば、真の強者を育成することが出来るに違いない。