国益という言葉の危険性

米国のトランプ大統領、また米国に隷属している日本の首相も、よく「国益」を損なうという言葉を使いたがる。そして、野党も同じように国益に照らしてとかいう言葉を振り回す。マスメディアだってそうだ。国益を損なうようなことをすべきでないと、政治家や官僚を批判するような報道をする。国民誰もが国益を最優先にして物事を考える癖がついてしまったようだ。この国益という言葉に違和感を持つ人はいないのだろうかと不思議に思っていたら、やはりいた。あのカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した「万引き家族」を作った是枝監督がその人である。

是枝監督は国益という言葉をふりかざして、ナショナリズムをかきたてるような政治手法に、とても危うさを感じると述べられていた。全体主義を助長するような政治姿勢とは、一線を画したいと文科省の祝意を断った。国益にこだわる国は他にもあり、お隣の大国や朝鮮半島の国々も同じである。このグローバルな世界において、あまりにも国益にこだわれば貿易摩擦が起きるし、国際紛争に発展しかねない。ましてや、あまりにも国益を重要視したが故に植民地政策を取り、他国をさらに支配しようとして世界大戦を引き起こした経験を忘れたのであろうか。あんな悲惨な戦争をまた繰り返したいのだろうか。

他国の行き過ぎたナショナリズムに対抗するように、危機感を煽って内閣支持率を高めようする姑息な手段を取るというのは、実にいただけない。国益という言葉を巧妙に用いながら、政権与党しか国益を守れないと、プロパガンダする政治手法はまさに軍部が実権を握り始めた太平洋戦争の前の政治情勢とまったく同じだと思われる。とかく政権を握る者というのは、国民から批判をされ始めると、外に敵を作りたがる。外敵の脅威をおおげさに喧伝して、自国の政治に対する批判をかわしたがる。北朝鮮のミサイル脅威が政権与党への投票を後押した形になり、国政選挙を圧勝した例もある。

国益という言葉が駄目だとは言っていない。ただ、国益という旗の元に、エゴイズムやナショナリズムを必要以上に煽り立てるのはいただけない。国益とは、国の利益である。国の利益というと非常に勘違いしやすいが、本来は国民の利益ということであろう。国の政治体制や権力者の権益を守るために国益という言葉が独り歩きしているように思えて仕方ないのは、私だけではあるまい。国民全体の利益を考えるべきであり、その利益というのも経済的利益だけではない筈である。平和とか平等というようなものとか、お互いに支えあう豊かな関係性を持つコミュニティの維持も、立派な国益であろう。

国益を前面に出してしまうと、他国の善良なる国民の幸福を奪ってしまうケースがある。必要以上に安い金額で農産物を輸入する先進国の商社が存在する。カカオ豆やバナナなどを、生産者の足元を見て販売価格を不当に値引きする先進国の商社は後を絶たない。その農産物に多額の利益を上乗せして自国で販売する。そういう不当な取引を止めようと、フェアートレードを実施しているNGOも多い。国益をあまりにも優先すると、発展途上国の貧困を後押ししてしまうことになる。国際紛争や内戦に武器をさらに売り込もうとして、必要以上に裏工作により刺激させて戦いを長引かせる武器商人がいる。これも自国の利益だけを優先した結果である。

このように国益という言葉が、世界的な平和や豊かさをどれだけ侵害しているかということを、我々は忘れてならない。自国だけ自分だけが平和で豊かであればいいという、エゴのかたまりのような考え方を持つのは危険である。そして、人間として情けないことである。日本人の偉大な先人たちは、他国の国民に対しても多大なる貢献をしてきた。リトアニアで6000人のユダヤ人にビザを発給した杉原千畝、黄熱病研究の野口英世、武士道を著した新渡戸稲造などは、他国民からも尊敬を集めている。日本人というのは、自国だけの利益に固執しないからこそ、国際的にも尊敬されてきたのである。

これだけグローバルになった社会なのであるから、国益にこだわり過ぎることが国際的に様々な問題を起こすことは想像できる。もっと広い視野と見識を持ち、世界全体の平和と幸福を実現するために、我々国民が努力したいものである。そして、安易に国益という言葉を使わないようにしたいものである。さらには、マスメディアに働く人は、国際人として国益という言葉に違和感を感じて欲しい。少なくても、国会など公の場において国益という言葉を利用して、ナショナリズムを煽るようなことをさせてはならない。

 

カジノ法案は本当に成長戦略か?

IR推進法案がとうとう衆議院から参議院の審議になる。IR推進法案とはカジノ法案とも呼ばれていて、問題が山積みの法律なのであるが、短い時間の審議であっという間に承認された。このカジノ法案に前のめりであった維新と、維新を取り込みたい安部自民党の思惑が一致した結果であろう。それにしてもこんなにも問題があるのにも関わらず、法案に賛成した公明党の姿勢にも疑問がある。社会的弱者の味方であると公言して憚らない公明党だが、実は強者の代弁者であるということが判明したとも言える。

カジノ法案は、ギャンブル依存症を増やすことになる。その歯止め策として、法案が部分修正されたが、焼け石に水である。何年か後には厳しい規制のためにカジノの運営が暗礁に乗り上げ、それをなんとか救済しようとして、法案の再修正が実施されて規制がなくなるのは目に見えている。優秀なキャリア官僚たちであるから、IR推進法案がやがて日本の荒廃を生み出してしまうことは予想している筈である。政治家の暴走を食い止める役割を担うのが官僚なのに、官邸に言われるまま行動する官僚の体たらくぶりに落胆している。

それにしても、IR推進法案は成長戦略のひとつだと胸を張る政治家たちの不見識に驚くばかりである。成長戦略とは、本来は実質経済の成長をどう導くかというものである。三本の矢に例えていて、円安誘導の金融政策、そして規制緩和、さらにはそれに伴う実質経済の成長だと主張する。しかし、いつまで経っても三本目の矢は的を射ていないのである。実質経済はけっしてよくない。庶民の生活は一向に良くならないし、国民の消費意欲が沸かず消費支出が伸びていないことからも解る。2%の物価上昇率を目指した日銀のインフレターゲットは白々しく聞こえる。円安傾向と株価の上昇は、一般国民にとっては何の恩恵もないばかりか、かえって円安による石油製品などの値上げの影響で国民生活が苦しくなっている。

そんな中で、IR推進法案を通して景況を演出しようとしているのだが、逆効果になるのは目に見えている。まず、IRの設置により外国人観光客を増やす目論見であるが、カジノを目玉にして外国人観光客が増えるかというと、そんなことはまったくあり得ない。韓国での失敗がそれを証明している。韓国の外国人観光客を目当てにしたカジノは、現在閑古鳥が鳴いている。そればかりかギャンブル依存症の韓国民が住居まで失い、ルンペンにまで身を落としている始末である。日本版のカジノも同じ状況を招くことが予想される。

もうひとつカジノ法案には問題がある。カジノの運営ノウハウを国内の業者が持たないから、カジノの運営は外国企業に任せるというのである。ということは、カジノで上げた収益はすべて外国に持ち出さられるということである。いくらかの還元が地方財政へあったとしても、収益が国民には行かないのである。何のためのカジノであろうか。大きなショッピングセンターが地方に進出して、利益が本社に吸い取られている。地方に工場が進出して、利益が本社に吸い上げられて税収は本社所在地で納められる。地方が経済的に疲弊している構図とまったく同じではないか。

都市部から地方に進出した大資本のパチンコ店が、地元資本のパチンコ店を潰している。地方の人々から、なけなしの資産を巻き上げている。パチンコ店では、年金支給日になると大勢の高齢者が列をなしている。パチンコによって生活費を巻き上げられた主婦がサラ金に手を出してしまい、やがては借金返済のためにデリヘル産業などで働かされている。経済的だけでなく家族関係まで崩壊させられている家庭がある。カジノが出来たら、こんな崩壊家庭が益々増えるのは目に見えている。こういうギャンブル依存症による貧困家庭の現実なんかを知ろうともしない政治家だから、こんな悪法のIR推進法案を通そうとしているのであろう。

政治家というのは経済的に恵まれた人間がなっている。特に政権与党の政治家は、二世議員が多いし裕福家庭の出身が多い。貧困家庭に育って苦労した人間の気持ちなんて解ろうともしない。だから、社会的弱者を救う政治を実施できないのだ。政治というのは社会的弱者や貧困が世代間連鎖しないように、経済的豊かさの再配分をする役目を担っている。IR推進法案を通すというのは、その役目を政治家が放棄するようなものである。カジノ法案は、成長戦略を実現しないばかりか、絶対的貧困家庭を益々増やすことになろう。国民のためにならないIR推進法案は、絶対に成立させてはならない法案である。

議論にならない国会審議

国会の審議をTV中継で見ていると、イライラ感が半端ない。まるで議論が噛み合わないからである。野党の質問も悪いのであろうが、その質問に対して政府与党と官僚はわざと論点をずらして答弁することが多いのである。実に姑息というのか、卑怯というのか、あざといやり方である。いつからこんな国会審議になってしまったのだろうか。安倍内閣以前も、実はこのような論点を外すやり方があったのは間違いない。しかし、すべての審議がそうではなかった。これは拙いぞという場合に限り、巧妙に逃げるケースもあった。しかし、現在の殆どの審議が野党の質問者を小馬鹿にしたような答弁になっている。国会軽視であり、許せない。

そもそも国会審議というのは、真剣勝負であってほしいものだ。堂々と正面からぶつかって渡り合うべきである。国民を代表しているという自負があるなら、姑息な手段を使って逃げずに正々堂々と論戦を繰り広げるのが筋だ。野党の質問者だって、物事の本質を見極めての議論をしていないように感じる。相手の失言を取り上げて批判したり追及したりすることは、見苦しい限りである。相手の失策を待つなんてやり方は、実に情けない。それにしても一番違和感を持つのは、相手の質問を敢えて真正面から取り合わず、わざとはぐらかす答弁の仕方である。

内閣総理大臣と言えば、国家を代表する人間である。国民のお手本となる話し方や態度が望まれる。小さい子どもたちも、見ているのである。そういう子どもたちが、あんな答弁の仕方を見ていたら、真似をしないとも言い切れない。教師から何らかの質問をされて、うまくはぐらかすことが良いことなんだと児童生徒が学んでしまったら大変なことである。親から何か問い質されて、質問の趣旨をわざと誤解してのらりくらりと答えるような子どもに育ったとしたら、大問題である。上司から厳しい質問を受けて、わざと論点を外す受け答えを部下が続けたら、その組織は崩壊してしまう。

江戸時代の政治家であり官僚でもある武士は、絶対にそんなことをしなかった。武士たるものは、大きな権力を握っていたからこそ、卑怯なふるまいをしてはならないと自分自身を戒めていた。中には、強権をかさにきて卑怯なことをした武士もいたであろうが、圧倒的に少数であった。悪いことをして露見したら、潔く認め腹を切った。さらに、自分自身が悪いことをした訳でもないのに、自分の部下が不祥事を引き起こしたら、それは自分の監督に問題があったと認め、その責任を自ら取ったのである。

ところが現政権のやり方と言ったら、実に情けない限りである。財務省の不祥事に対して、悪いことをした本人に責任を押し付けて、自らの監督責任を放棄した。さらに首相と政権を守ろうとしてウソをついたり公文書を改ざんしたりした官僚を見殺しにしたのである。自分の地位と名誉を守るために、自分を守った人を裏切るような卑劣な行為をする人に政権を任せてよいのだろうか。少しばかり経済状況を良くしたからと言っても、人の道を外れるような行為をする人間に政権を担う資格はない。そういえば、自分の部下が嘘をついたと平気で記者会見をする大学の理事長がいたが、感覚がおかしい。そんな理事長に仕える職員が可哀そうである。

国会審議で野党の質問時間を短くしようと画策するというのも情けない。何も悪いことをしていないというのなら、正々堂々と論戦を張ればよい。長く審議時間をかけると、拙いことが暴かれるのであろうか。野党の質問時間をどんどん制限して、詰まらない与党の質問時間を長く設定するという姑息な手段はいただけない。こんな酷い政権は、今まで記憶にない。自民党の議員たちは自浄作用が働かなくなったのだろうか。こんな卑怯な政権と官邸に対して何も言えないというのは実に情けない。自民党の長老やご意見番たちも、権力者に何も言えないとしたら腐っている。

正しくて活気のある国会審議を期待したい。その為には、野党も質問に対する工夫が必要である。逃げられないように誤魔化しができないような質問にしなくてはならない。自分の意見をとうとうと述べるような、自己主張の強い長い質問ではなくて、短くて核心を突く質問でハイかイイエで答えられるようにするのが望ましい。YESかNOで答えられるように、追及するしかない。元々、そんな逃げの答弁をすること自体、限りなく怪しい。嘘をついていることが明らかであるのは、賢い人間なら誰でも解る。やましいことがなければ、あんな卑劣な答弁なんて必要ないからである。聞いていて面白くわくわくするような国会審議にしてほしい。

 

ふるさと納税制度の理念が揺らぐ

ふるさと納税制度のマイナス面が指摘されている。地方の市町村は税収が上がって喜んでいるが、東京の各行政区など大都市部では、地方税減収が深刻な影響を与えているという。税収不足のために保育園の設立が出来なくなっているという行政区もあるらしい。そのため、国に対するふるさと納税制度の見直しを求める声が高まっていると言われている。そもそも、ふるさと納税は自分が生まれた市町村の税収不足を解消しようと始まったのであるが、そのお陰で税収不足で喘いでいる都市や区があるというのは、本末転倒だと言わざるを得ない悪税の制度だ。

このふるさと納税制度において、豪華な返礼品を目当てにして制度を利用している愚か者も多いと聞く。それも、自分が生まれ育った土地でもなく、何の縁もゆかりもない訪ねたことさえない土地なのに、返礼品が魅力的だからとふるさと納税をするなんて、ナンセンスであろう。ふるさと納税制度というのは、自分が生まれて育てられた故郷を応援する為、または何らかの縁があり金銭的支援をする為などのために活用する制度である。納税の見返りを得るという損得の動機によってこの制度を利用するなんて、実に恥ずかしい限りではないか。

ふるさと納税の制度に欠陥があるとすれば、これらの点ではないかと思う人も多いに違いない。本来ふるさと納税制度とは、『志』を現わすものである。自分が生まれて育ててくれた故郷を捨てて、今は遠く離れた行政地区に住んでいる人が、自分を育ててくれたお礼をする意思を具現化したものである。それなのに、縁もゆかりも何もない市町村にふるさと納税をするなんて、何の意味もないだろうと思うのは私だけではない筈だ。本当は、見返りを求めることさえしてはならないのである。返礼品はふるさと納税した税金から支出される。それでは、『志』が減ってしまうのである。

返礼品は土地の名産品が充てられるから、その地域の経済活性化にも寄与して一石二鳥の効果が生まれるというが、それは詭弁であろう。ふるさと納税の全額が市町村民税として活用されたほうが、それをすべて行政支出として役立てられるから、多大な経済効果を生み出すのは間違いない。地方創生の財源として有効活用できよう。くだらないとは言わないが、本当に価値のある物であれば返礼品にしなくても売れる筈である。売ろうとする努力をしないでも返礼品として売れるなら、販売する苦労をしないし、ブラッシュアップもしないであろう。

自分が現在生活している行政区域において、様々な行政サービスを受けている。その行政サービスの財源は、住民税などである。ということは、それらの行政サービスの恩恵を受けながら、他の市町村に納税するということは、自分で負担もせずその行政サービスを享受するということになる。ごく一部だからいいと思うのは軽薄である。実際に、行政サービスに障害が起きている行政区もあるのだ。ごく一部だと考える住民が大勢になれば、その金額は多額になってしまうのである。これは由々しき大問題なのだ。

国は、人気取りのため、または人のふんどしで相撲を取って地方創生を進めている。国は、地方活性化の為にという大義名分を掲げているものの、自分の腹を痛めずに地方の税収アップを、とんでもない税制であるふるさと納税で進めているのだ。たとえ喜ぶ人々がいたとしても、誰かの犠牲のうえで成り立つような悪制度を進めてはならない筈である。しかも、住民税の減収が深刻な影響を与えてまで、ふるさと納税をすべきではない。そんなとんでもない税制を考え出す人間というのは、深い洞察力や未来を見通す力がない大バカ者であろう。

このふるさと納税制度が始まった際に、これはとんでもないことが起きると私は確信したものである。都市部の行政区では、深刻な税収不足が起きるに違いないと思った。そして、想像通りのことが起きてしまったのである。人の欲望につけこんだような、豪華な返礼品の競争が起きたのである。こんな人間の卑劣さを助長するような制度は、一刻も早く全廃してもらいたいものである。見返りを求めない、クラウドファンディング等や、寄付というものがあるではないか。このような何も求めず、ただ故郷を応援するだけという本来の『志』が生かされるような故郷の応援をしたいものである。

こんな財務省にした張本人

財務省官僚という超エリートが、とんでもない不祥事をしていたことが次々と明るみになっている。日本のキャリア官僚というのは、世界一優秀な行政職だと言われてきた。キャリア官僚たちも、自分たちが日本の発展に欠かせない人材だという矜持を持っていた。そして、その優秀なキャリア官僚の中でも、エースが財務官僚だと言われてきた。そのエース官僚が、あるまじき行為をしていたというのだから、信じられないことであろう。

そもそも官僚というのは、本来政治家の方針と指示に従って行政を運営させていく立場にある。しかも、政治家が示した方針や企画提案が、法律や条令に違反していないかをチェックして、それに合致した行政運営をしていくのである。または、政治家の立案を法令にする際の文言を吟味して、抜け道や誤謬がないかをチェックするのが本来の業務なのである。当然、憲法に反しないかどうかが一番のチェックポイントである筈である。

ところが、今回の財務省の不祥事の数々を見ていると、人権無視や表現の自由を侵害したり、国民の財産権をないがしろにしたりするような行為を平気でしているのである。政治家の指示に従うのは当然であるが、憲法に違反している行為なので再考してくださいと申し上げる立場にあるのが官僚なのだから、毅然として断るべきであった。それなのに、保身や自己評価の向上、または地位や名誉を第一に考えて、憲法違反の行為をしたのだから許せるものではない。

こんな財務官僚を含めてキャリア官僚たちが、こんな愚か者になってしまったのは何故であろうか。または、こんな卑怯で低劣な官僚に貶めたのは誰なのか。この部分を明らかにしないと、益々官僚は転落の道を歩むに違いない。もう一度、世界に誇れる優秀な官僚にするために、どうすればよいのかを熟慮しなければならない。特に、こんな官僚にしてしまった責任を誰が取れば良いのかを、深く考えて行きたい。

こんな官僚にしてしまったのは、官邸だと言い切る人が少なくない。内閣人事局が設立されて、キャリア官僚の人事権を内閣が掌握してしまったことにより、官邸の意のままになる官僚が増加した。自分が出世するかどうかが、100%官邸の意思によるものなのだから、官邸に逆らったら出世の道は閉ざされる。キャリア官僚として入省した限りは、トップである事務次官を目指すのは人情である。優秀な能力を持ち、実績を積んでトップを目指していた官僚が、内閣人事局が設置されてからは、内閣にゴマすりをするようになったと言われている。

つまり、こんな酷いキャリア官僚にしてしまったのは、官邸であるという結論も間違ってはいないであろう。この官邸のトップは総理大臣である。つまり首相とその周りにいる官邸こそが、とんでもない官僚たちを作り上げてしまったと言えなくもない。さらに言えば、このような独善的な官邸を作ることを許してしまい、安倍首相を首班指名した国会に責任があるとするのも誤りではない。自民党という政党に属する議員とその党員が自民党総裁を選んだのだから、その責任を負うべきであり、それを他人事のように批判するのはどうかと思うのである。

さらに深く洞察すれば、本当の責任は我々国民にあることが判明する。何故ならば、自民党政権を生んだのは、そんな投票行動をした我々国民である。しかも、こんな横暴を許した野党にしてしまったのも、我々国民であると言える。国民は、どんな政党が国民ファーストの政治をするのかを見極めて投票すべきである。自分ファーストの政治家がいる政党を選んではならないのである。自分たちの利権や権益を守るのを是とするような政党と政治家を選んでしまった責任を痛感すべきなのは、我々国民であろう。そして、それに対抗できる野党を育てられなかったのも我々国民に責任がある。とすれば、次回の選挙ではまっとうな政治家と政党を選んで、こんな酷い高級官僚を生み出さない内閣と官邸にしなければならない。

何事もバランスが必要

森友問題が佐川氏喚問を終えて、政府自民党はこの問題を収束させたいと思っているし、野党はさらなる追求をしようと目論んでいる。貴重な国会の議論をこれだけに集中するのは、国民にとって多大な損失であろう。もっと大切な議論があるし、報道機関としても国民が他に知りたいことが沢山あるのにも関わらず、森友一色になるのも困る。とは言いながら、文書改ざんは今後の行政の信用に関わる大問題であるから、再発防止策を講じない限り、ないがしろには出来ないことである。

それにしても、こんな森友の不祥事や加計学園の問題が何故起きたのであろうか。それは、安倍一強政治の傲慢が招いたのではないかと思う人が、とても多いように感じる。内閣人事局が制定されたのも、官邸に忖度する官僚ばかりになってしまったのも、あまりにも内閣と官邸の力が強大になってしまったからである。どうして安倍一強になったのかというと、別な視点から見ると、安倍総裁の他に有力な政治家がいなくなってしまったことと、野党がだらしないということに尽きるであろう。

過去の歴史を紐解くと、独裁政治が長く続くと政権内部から崩壊が起きていることが殆どである。国の政治もそうであるが、県や市町村においても首長が絶対的な権力を持ってしまうと、内部から腐敗が起きてしまうケースが実に多いのである。組織や企業においても、トップがあまりにも大きな権力を持ってしまうと、イエスマンだけの部下に成り下がってしまい、内部崩壊を起こしてしまうことが多い。現代においても、米国、中国、ロシア、北朝鮮などで国民の意思を無視した独裁政治が行われていて、内部崩壊が始まりつつある。

強力なリーダーシップを発揮できることで、政権運営や企業経営が上手く行くケースも少なくない。リーダーシップのあるトップだけが、低迷する現状を解決できるのではないかと、そのようなリーダーを求めたがる意思が働く。だからこそ、国政選挙においてもこのようなリーダーを求める国民が、投票するのであろう。しかし、あまりにも強いリーダーシップを持つ権力者と、それに対抗する勢力があまりにも弱すぎると、微妙なバランスが崩れてしまい、『裸の王様』になる例が多く、やがて内部腐敗や崩壊が起きる。

このようなケースは、家庭内でも起きる。あまりにも父親が家庭内で大きな権力を持ってしまうと、妻や子は何時も父親の顔色をうかがうような暮らしをし兼ねない。夫婦関係においても、どちらかがあまりも大きな力を持って相手を支配してしまうと、横暴な行為を許してしまう。親子関係でも、親が子どもの尊厳を認めず、すべて親の言いなりになる子どもにしてしまうと、子どもの自立を阻害してしまうことになる。夫婦の相互自立や子どもの自立がされないと、やがて家庭というコミュニティは崩壊することになる。

家庭内が微妙なバランスによって成り立っていれば、一方的に指示して従うというような関係になり得ない。お互いの人間としての尊厳を認め合うことで、自立がしやすい。だから、経済的にも精神的にも自立するには、一部に力が集中することを避けて、パワーバランスを保つことが必要であろう。男性は女性よりも腕力が強い。暴力によって相手を支配し、バランスが保てなくなることは絶対に避けなければならない。ある程度のリーダーシップが必要であろうが、微妙なバランスを保てるようなお互いを尊重する対話こそが根底に求められる。

一人の人間においても、どちらかに偏らないバランス感覚も必要なのではなかろうか。政治的に右翼的な考え方と左翼的な認識のどちらかに偏向してしまうと、世の中の真実が見えなくなってしまう。政治的におけるバランス感覚があれば、耳に心地よいマニュフェストに騙されることもないであろう。人間性においても、あるべき姿を求めて努力する姿勢と共に、あるがままの自分を好きになる気持ちも大切であろう。条件付きの愛を注ぐ男性性も必要であるが、無条件の愛を与える女性性も大事である。これらのバランスを保つことは、『中庸』と呼ばれている。政治的な中庸が保てれば、森友加計問題も起きず、国民ファーストの政治が実現するに違いない。

 

病んでいる国家公務員を救う手立て

森友問題や加計学園問題における国会での追及を見ていると、国家公務員の病んでいる実態が明らかにされつつある。病んでいるというのは、国家公務員の姿勢や言動、またはその人間性もあるが、メンタルも実際に病んでいると言われている。1ケ月以上メンタルヘルスで休職している職員の割合が1.26%に上るという。全産業におけるメンタル休職者の割合が0.4%であるのだから、なんと3倍の高率でメンタルを病んでいるという実態がある。さらに、国家公務員の自殺者は過労自殺も含めて年間40人もいるというのだから深刻だ。

国家公務員というと、我々国民のための行政全般をかじ取りする重要な役割を担っている専門職である。国家財政から国の行く末までも広い範囲までも責任を持って運営しているから、相当な使命感を持って日々精進しているのではないかと思われる。そんな重責を負っているのだから、日々の仕事において誤謬は許されないし、限られたマンパワーの中で精一杯のパフォーマンスを発揮しているに違いない。当然、残業時間も相当に多く、プレミアムフライデーなんて取れそうもない実態にあると言われている。

今回の森友の文書改ざん事件でも、不幸な自殺者を生んでしまい、その当該公務員もメンタルを病んでいたとの報道がされている。こんなにも悲惨な国家公務員の実態が明らかにされてしまうと、進路志望する学生が著しく減少してしまうのではないかとの危惧を抱いてしまう。キャリア官僚を始めとして優秀な国家公務員が国を動かしていると言ってもよい日本において、優秀な人材が今後入省入庁しなくなれば、日本の行政全般のレベルが低下し兼ねない事態に陥るであろう。由々しき事態である。

それにしても、どうしてこんなにも国家公務員のメンタルヘルスが病んでいるのであろうか。過酷な勤労実態のせいもあろうが、それだけではないような気がして仕方ない。必要以上のプレッシャーやストレスの存在する職場環境が、作られてしまっているのではなかろうか。特に近年においては、官邸や内閣府からのプレッシャーやごり押しがあるうえに、内閣人事局がキャリア官僚の人事全般を仕切ることになった影響があるのではないかと見られている。各省庁のキャリア官僚にプレッシャーを掛け続けて、それが部下の官僚たちへと浸透しているのではないかと思われる。

政治家と行政職というのは、お互いに協力しながらも是々非々の立場で、良好な緊張感を持って対応するべきだと考えられている。つまり、微妙なパワーバランスがあることで、お互いの暴走を止めることが出来るのである。ところが近年の政治と行政のバランスは、大きく崩れてしまったのだ。安倍一強政治体制においては、政治があまりにも強大になり、行政をまるで将棋の駒のように使い放題にしてしまった。時には、捨て駒のように見捨てるような事例もしばしば起きる。これでは、国家公務員は居たたまれず、メンタルも病んでしまうのは仕方ないであろう。

国家公務員の病んでいるメンタルを元に戻すだけでなく、これ以上メンタルを病まない手立てを今すぐにでも講じないと、国家行政はとんでもないことになるであろう。勿論、政治を変えるというのが一番の確実な方策であるが、国政選挙を経ないと変わらないし、国民がそれを望むかどうかは不透明である。とすれば、国家公務員自身が変わらなければならないのではないかと思われる。としても、一度メンタルを病んでしまったら、なかなか社会復帰をするのは難しいし、例え職場復帰したとしても、職場環境が変わらなければまた同じようにメンタルを病んでしまうことであろう。さらに、同じようにメンタルを病んでしまう公務員は益々増えてしまうに違いない。

医療やメンタル福祉の支援では、休職者を社会復帰させることは難しいと言われている。何故ならば、メンタルを完全治癒させるということが難しく、再発を繰り返すことが多いからである。薬物治療は対症療法であり、脳神経に直接働く薬物であるから、副作用や禁断症状に苦しんでいて、正常な勤務が困難になる。カウンセリングの効果も限定的であるケースが多い。とすれば、抜本的な他の解決策が必要である。グリーンツーリズムというメンタルを癒す方策が、極めて有効だと思われる。単なる農業体験や自然体験のグリーンツーリズムではなく、自己マスタリーやシステム思考の学習と実践を通して、健全なメンタルを取り戻す研修型のグリーンツーリズムである。これしか、国家公務員の病んでいるメンタルを癒す方法はないと思われる。

 

※イスキアの郷しらかわでは、自己マスタリーやシステム思考の学習を基本にした、農業体験や自然体験をするグリーンツーリズムを実践しています。高潔で正しい価値観を学び、仕事の正しい目的を確立します。国家公務員の矜持を取り戻す為に必要な学習プログラムを組みます。まずは問い合わせをしてみてください。

行政とNPOの協働における課題

行政とNPO法人による協働事業は、全国でかなり実施されていて、多大な実績を上げている。とは言いながら、本来のあるべき協働になっているのかというと、かなり疑問に思えるような協働になっていると言えよう。どうしてかというと、協働というのは対等の立場が前提になるが、実際は行政側が主導権を持っていて、NPO法人側は行政の言いなりになっているからである。つまり、行政の完全な「下請け」のようになっていると言えよう。

業務委託契約において、受託者と委託者は本来対等の立場であるべきだ。しかし、例外はあるものの、殆どの委託業務は行政側の権限が強過ぎて、NPO側では行政の指示通りに動くようになってしまっている。何故、そんなことになっているかというと、お金を出すのが行政側であり、そのお金がないとNPO側で活動出来ないという事情があるからであろう。だから、どんな無理難題を押し付けられても、NOと言えない構図になってしまうのである。いや、そんなことはないと行政側では言うかもしれないが、現実は行政の言いなりになっていると言っても過言ではない。

NPO法人側にも、問題があると思われる。委託業務が受けられるかどうかがNPOの存続にも影響してくるから、行政側の無理難題にも対応せざるを得ない。これは出来かねるとして断るとか、自分達の主張を通すということが出来ないのである。NPO側の事情として、業務執行において行政マンと対等に交渉できる人材がいないのである。行政マンに対して、圧倒的な能力を発揮して、正しいことを正しいと主張できる人材がいないと言えよう。だから、行政マンはNPO法人の役職員を尊敬しないばかりか、どちらかといと内心では見くびっているのである。

こんな現状で、どうして対等な立場で協働が出来ようか。本来のあるべき協働が進んでいないから、社会はいつまで経っても変わらないのである。NPO側では、理念があるから、その理念に沿った社会を実現したいと協働を進めて努力する。一方、行政側ではあくまでも法律や条例に基づいて業務を遂行させたいから、今までの枠からはみ出させたくない。社会変革を目指したいNPO側では、今までのしばりから脱却したい。当然、グレーゾーンが生じるのであるが、行政側では保身のために、それは絶対に認めたくないのである。

このような態度を行政側が取るのは、とんでもないNPO法人が過去に存在していたからでもある。きちんと委託業務を実行しないばかりか、いい加減な経理処理するとか不正な支出をしてしまったという歴史があるからだ。このようなコンプライアンスを無視するようなNPO法人があったから、行政側としては神経質になり、グレーゾーンを認めたくないのであろう。会計検査院に指摘されないようにと、会計処理だけでなく業務実行についても、決められたことしか認めたくないし、余計なことをして欲しくないのである。

行政とNPOとの協働は、業務執行をなるべくNPO側に任せるというのが基本になるし、しかも行政側としては、業務執行がスムーズに行くように、各種関係機関への根回し等のサポートに徹するのが必要である。しかも、NPO法人の良い処を引き出せるように、アドバイスしたり何らかのヒントを与えたりすることも行政の役割である。金だけ出して口を出さないというのは、協働とは呼ばない。委託業務の執行について、良好なコミュニケーションを取り合いながら、より良い成果を上げる為にお互いが最大限の努力をするのが、本来の協働であろう。

NPOは固定観念や既成概念にとらわれず、大胆な発想と柔軟な思考を駆使して、行政では思いもつかないようなアプローチをすると共に、結果を怖れない大胆なチャレンジをすることが求められる。行政はなるべくブレーキをかけることなく、それをそっと見守って欲しいものである。法律や条例に違反する行為でなければ、業務の執行を縛ることはなるべく避けてほしいものである。そうすれば、大きな協働の成果が生まれるに違いない。そして出来得るならば、協働としての委託事業が終わっても、NP0が自力で継続していけるようなビジネスモデルとして確立してほしい。それが、本来協働の目指すところであろう。

被害者意識を解放して復興を

3.11から今日で早7年。未曾有の災害による爪痕はまだ深く残っている。原発事故の被害は想像以上であることから、福島県内各地の復旧さえままならない実情がある。したがって、復旧さえできていない現状で、復興なんてまだまだと思っている県民も多い。ましてや、原発事故による汚染除去もまだ完了せず、風評被害は根強く残っていることもあり、復興なんて無理だと諦めている県民も少なくない。

震災避難者は全体で7万人を超えて、県外避難者も5万人もいるというから、原発事故による心的な被害は想像以上に大きいのであろう。そういう状況で復興しようという掛け声ばかりで、遅々として復興が進まないのは、強烈な被害者意識が強いからではあるまいか。こんなことを記してしまうと、避難者の方々からお叱りを受けることになるかもしれないが、被害者意識を持ち続ける限り、復興は進まないように思うのである。

災害復興とは、災害による被害をすべて復旧してうえで成り立つものであるという主張は間違っていない。しかし、これから20年くらい風評被害は完全になくならないし、原発の事故処理は、あと30年以上はかかるであろう。だから、あと30年以上も復興が実現しないという結論になりはしまいか。つまり、早く復興をしようとすれば、完全復旧を待ってはいられないのである。ましてや、被害者意識から解放されないと、いつまでも前には進めないような気がするのである。

原発事故が起きた責任は、原発立地の住民には一切ない。東電と原発政策を推進してきた政府に、原発事故発生の責任がある。しかし、原発の恩恵を受けていたのは関東地区の住民だけではない筈である。原発立地の住民も、いろんな原発立地の課税収入による公共インフラの充実をさせてもらったし、関連産業の就職などで経済的な恩恵も受けていた。原発推進をしていた政府自民党を政権与党として選んだのは自分自身である。ましてや、原発を推進してきた首長を選んだのも自分達なのである。

だとすれば、原発による災害や風評被害をすべてマイナスの要素として捉え、だから復興は無理だと諦めてしまうことは、自分自身を否定することに繋がりはしないだろうか。それよりも、この原発事故と風評被害から目を背けずに、まずは認め受け容れて、このマイナスをプラスに転換することを真剣に考えるべき時期に来ていると考えようではないか。悩み苦しんだ7年という月日を無駄にしないように、そのことを糧にして真の復興に突き進むことを、今日この日に共に決意したいものである。

風評被害は、まだまだ根強い。イスキアの郷しらかわで宿泊する農家民宿「四季彩菜工房」には、原発事故以前は年間400人から500人のお客様がお泊りにいらしていた。それが、風評被害によって年間20人から30人に激減してしまった。経営的には大打撃である。この状況を嘆くだけでなく、イスキアの郷しらかわとして活用させるという、マイナスをプラスに大転換させる意識改革を、農家民宿経営者と共に実施したのである。まだ利用者はそんなに増えてはいないが、おかげで少しずつ問い合わせや見学者が増加しつつある。被害者意識に縛られていては、出来なかった意識改革と価値観の大転換である。

福島県内で復興を見事に成し遂げている企業をみてみると、実に興味深い共通点がある。それは、原発事故による風評被害による損失補填を申請し続けている企業は遅々として復興が進まず、いち早く損失補填申請をすることを止めて、自力再建を決断した企業は復興を成し遂げているということだ。社員が一丸となり、被害者意識を捨てて努力した企業は、震災よりも多くの収入を上げているのである。個人でも、被害者意識を捨てて新たな道を切り拓いた人は、見事に復興しているのである。そして実に生き生きとして人生を送っていらっしゃる。もう原発事故から7年である。誰かを恨んだり憎んだりすることはもう止めて、自分の本当の自立を共に目指そうではないか。

 

NPOを辞めた本当の理由

NPO法人に最初に関わったのが平成11年だから、昨年まで実に18年もの期間に渡りNPO法人活動をしてきたことになる。その間に、3つのNPO法人で設立当初から理事になり、中心メンバーとして運営に携わってきた。それらのNPO法人では、副理事長という立場で経営にも参画していたし、企画や管理、そして教育という重要な部門での担当をさせてもらい、NPO活動に邁進してきた。そのNPO法人を昨年で、すべて辞めさせてもらった。あれほど情熱を注いできたNPO法人から、すべて手を引いたのである。

何故、NPO法人の活動から身を引いたのかというと、表立った理由としては、イスキアの郷しらかわの活動に専念したいからと宣言してきた。しかし、それも辞めた理由の一つではあるが、本当の理由はNPO法人活動では、社会変革や人々の意識改革が難しいと確信したからである。NPO法人活動をする目的は、活動を通して崩壊してしまったコミュニティを再構築して、お互いを支え合う地域社会を創り上げることであろう。言い換えると、全体最適を目指し、関係性の豊かな社会を創ることだと認識している。それが、NPO活動だけでは、実現するのが無理だと感じてしまったのである。

NPO活動を始めた平成11年から約15年間は、人々の意識改革を実現して、望ましい社会を創造して行けると確信していた。その為に、NPO活動に心血を注いできたつまりだ。ところが、自分の力量が足りなかったせいかもしれないが、人々の意識が変革できたという実感がまったくない。そればかりか、社会における人々の意識は益々低劣化へと向かっているとしか思えない。さらに、NPO活動の経済的自立が出来ないから、活動が先細りしているのである。NPOの将来への展望が見い出せなかったのである。

特定非営利活動促進法が出来た平成10年には、社会変革を可能にするのはNPO活動しかないと、心が躍ったものである。ところが、NPO法人が誕生して既に20年になるが、職員の給与は殆どが最高でも大卒初任給レベルであるし、役員報酬が年間500万円以上の理事は皆無である。ということは、専任の理事はNPOの報酬だけでの生活が困難だし、NPOの職員が結婚して子どもを育てるというのは、極めて難しいということである。福祉系のNPO法人では例外もあるが、殆どのNPO法人で、専任の優秀な役職員が集まらないのは当然である。

NPO法人の役職員で、経営のセンスや実務能力を持っている人は極めて少ない。ましてや、マネジメントの諸原則を一般企業の役職員のように真剣に勉強している人は殆どいない。理念は立派でも、経営能力を持たない役員が多いのが実情である。マーケティングの基本原則やイノベーションの基本さえ知らないのである。そもそもNPO活動にとって、社会的イノベーションを起こすというのも本来の役割の一つである。しかしながら、イノベーションの基本原則さえ知らないのだから実にお粗末である。

NPO活動における経営と財務の自立が出来ていないのは、委託事業や補助金に頼り切っているからであろう。または、公的収入に依存せざるを得ないからである。拡大再生産の為の自主財源を確保できるほどの収入を得るようなNPOは皆無である。内部留保を持たなければ、設備投資や人材育成に対する先行投資ができない。しかるに、委託業務や補助金業務に依存していては、優秀な人材を育てることは出来ないし、委託費には満足な管理経費さえ認められないから、NPO活動が活性化する望みはないのである。

結論として導き出されるのは、地域活性化やまちづくりは民間の営利企業でしかなしえないということである。仮定の話として、過疎地域の法人の殆どが、NPO法人や市民活動団体になったとしよう。そうなれば、法人税や役職員の所得税などの税収は上がらず、地方自治体の存続すら危ぶまれる。地域経済の浮沈は民間企業の活性化にかかっているのである。したがって、我々が今なすべきなのは、優秀な若者が地域で活躍するビジネスモデルを創り上げることである。都会の優れた若者が地域に移住して活躍したいと思うようなビジネスモデルを、どのようにシステム化するかである。「イスキアの郷しらかわ」は、実はそんな役割も担っていると思っている。地域の問題や課題を解決しながら、ビジネスとしても成り立つことが出来て、子を産み育てられるような個人収入も確保できるようなビジネスモデルを創造することを成し遂げたい。それが、崩壊してしまった地域コミュニティの再構築と市民の意識改革、そして社会的イノベーションをも実現させると信じている。