最近になって、あるTVドラマで使われていて、いい言い方だなあと感心している格言がある。それは、『パーソナルはポリティカル』という言葉である。日本語に無理やり訳せば、個人的なことは政治的なことであるという意味になろう。米国で、1960代に学生運動及びフェミニズムの一環として盛んに唱えられたスローガンとして広まった。男性中心社会こそが女性の権利を奪っていることから、政治的な問題として解決しなければならないという主張だった。さらに、このパーソナルはポリティカルは、広い意味でも使われるようになった。
広い意味とは、個人的な要因によって起きている問題も実は、政治的に解決されるべきものであるという主張である。TBSテレビの『御上先生』で盛んに言われているのは、広い意味での個人的なことは政治的なことによるという主張である。個人的な問題と捉えられるような家族の問題も、実は政治的な課題として捉えるべきだという主張である。ドラマでも触れていたが、発達障害を抱えた青少年への支援は社会的課題として扱うべきだということも。相対的貧困がG7の中で最下位だし、格差社会が教育の貧困を産み出している。
小泉政権から安倍政権への時代には、『自己責任』という言葉が社会に対して盛んに発信されていた。経済的貧困や教育的貧困も、すべては自己責任だという主張だった。労働の流動化を図り労働コストを下げないと世界での競争に勝てないからと、非正規労働者を大量に生み出した。金融経済を活性化させて企業の総資産を増やせば、経済成長して国民の生活が豊かになると盛んに喧伝した。異次元の金融の量的緩和をして円安に誘導して、株価を高値に導き大企業の企業価値を高めた。すべての政策が相対的貧困と格差社会を産んだ。
そもそも政治の役割とは、すべての国民が健康で高福祉の生活を享受できるようにするということであり、その為には行き過ぎた格差社会を作らせないように富の再分配を行うことが必要だ。経済と教育の貧困層を作り出さないことが為政者の使命である。ところが、小泉政権から安倍政権における政策は、皮肉にもことごとくその逆の結果を産み出したのである。時の為政者たちが、自分たちの失政を棚に上げて、すべては自己責任だと強弁するのは、許せない所業である。パーソナルはポリティカルというスローガンとは真逆の主張である。
現代における他の社会問題にも言及したい。少子化の問題も、政治の無策が起こしたと言っても過言ではない。小中学生の自殺者が史上最多になったこと、不登校やひきこもりが激増している問題、教育格差が広がっていること、ヤングケアラーの問題、不適切指導や性加害を繰り返す教師の急増など、これらの教育の問題は個人の責任ではなくて、政治に責任がある。ところが、政治家はこれらの社会的な問題が起きていることを、自分たちの責任だとは思わず、個人的な問題と考えているのである。だから、本気で解決しようとはしていない。
また、政治家だけでなくて一般市民もパーソナルの問題だと思い、ポリティカルの問題だと認識していないことがある。例えば、学校や職場におけるいじめやパワハラ、家庭における毒親や虐待などの問題である。さらに、性加害行動やセクハラを何度も繰り返す男がいる。このような問題を起こすのは個人の資質の問題であり、社会的な課題とは思っていない人もあろう。しかし、これもまた社会的に問題があるから、いつまでも無くならないのである。このような問題を起こすような低劣な価値観を持つ人間が存在するのは、教育に問題があるからだ。
それは家庭の教育に問題があると思いがちだが、社会教育と学校教育にも根源的誤謬があるから、家庭教育に影響して起きている問題なのである。学校教育や社会教育において、本格的な思想・哲学や価値観の教育を避けてきた歴史がある。また、学校教育において形而上学を排除してしまった為に、低劣な価値観しか持てない人間に育ててしまったのである。本来は、全体最適や全体幸福の生き方を教えるべき学校教育と社会教育が、個別最適や個別幸福という低劣な価値観しか教えなかったのだ。自分の損得や利害を優先し、人の為世の為に尽くす生き方を教えなかったのである。この教育の間違いこそが、問題を起こす人間を育てた原因である。パーソナルはポリティカルという典型である。