真実はあきらかにすべきか否か

 真実は明らかにすべきなのか?と問われれば、当然真実は明らかにしなければならないと殆どの人が答えるであろう。すべての国民・市民は真実を知る権利があるし、それを社会に対して明らかにする義務があると考えるのは当然だ。しかし、すべての真実を明らかにしなければならないかというと、それは原則としてという文言を付け加えるべきであろう。ましてや、世の中には真実を語る人とか真実ユーチューバーと呼ばれる人物が存在するが、そこで語られる真実というものは、科学的にも実証されていないから、注意が必要だ。

 真実というと簡単に信じてしまう人が多い。自分でも確認せずに、TVや新聞で報道されたりネットで配信されたりすると、妄信してしまう人が少なくない。特に、ネット上において陰謀論だとして、真実はこうだと配信されると信じてしまう人が多い。その確認されていない『真実』は簡単に拡散されてしまい、益々その『真実』はいかにも本当のことだと思い込まされてしまうのである。米国議会が暴徒に襲われて多くの犠牲者を出してしまった事件も、陰謀論によっていかにも『真実』だと思わされた人々が起こしたのである。

 これは真実だからと言われても、妄信してしまうのは危険である。ましてや、いくら真実だと言われても、深く洞察すればそれが嘘だと解る筈である。嘘なのに真実だと勘違いしてしまい、嘘を拡散したら大変なことになる。もしかすると、その嘘を信じた第三者の人生を台無しにすることだってある。陰謀論を信じてしまう人と言うのは、元々HSPの傾向にある人なので、不安や恐怖感が元々強い人である。トラウマを抱えやすい人なのに、益々その傾向が強くなり、PTSDやパニック障害を起こしやすくなる。不幸になることもある。

 陰謀論などで言われていることが、よしんば真実だとしよう。そのケースならば、人々を覚醒させてあげたのだから、良いことをしたことになると思う人も多いことであろう。陰謀論を拡散している人々は、自分が社会に対してすごく良いことをしているという自負もあろう。ところが、これもまた良し悪しなのである。例え真実であったとしても、人々を恐怖に陥れたり、結果として社会の分断を招いたりするような情報ならば、それは悪影響を与えるに過ぎない。お互いの関係性を損なわせることは、絶対に避けなければならない。

 今、米国ではトランプを信奉する人々と反トランプ派の人々との対立というか断絶が酷いレベルで起こり、強烈な敵対が進んでいる。これもQアノンの情報操作が強く影響していると言われている。陰謀論を妄信している人々が、トランプはその陰謀をたくらむ人々を駆逐してくれると固く信じているらしい。それがあの米国議会乱入事件を起こしたとも言われているのである。そして、さらにお互いの非難合戦はエスカレートして、国民の分断に発展している。同じ国民どうしが、暴力を用いてまで反発するというのは異常である。

 この世の中は、ひとつのシステムによって成立しているし、システムが世の中を予定調和や全体最適に導いている。これは、宇宙全体もそうであるし、ひとつひとつのコミュニティも同じだ。家族という共同体も、市町村や法人というコミュニティだって例外はない。これらのシステムの中のそれぞれの構成要素が、自己組織化という機能やオートポイエーシス(自己産生)という正常な働きを発揮するには、良好な『関係性』が根底にあらねばならない。この関係性が破綻すると、全体最適や全体幸福は実現せず、コミュニティは崩壊してしまうのである。システムである企業の破綻や家族崩壊も、すべては関係性の悪化によって起きるのだ。

 国家もひとつのシステムである。その構成要素である一人一人の国民どうしの関係性が悪化すると、内乱とか内戦が起きるのだ。地球もひとつのシステムであり、国どうしの関係性悪化により戦争が起きる。だからこそ、真実の情報だったとしても、国民の断絶や国どうしの関係性悪化を惹起するような情報を拡散することには、慎重であらねばならないのだ。陰謀論は、国民の分断を誘発させるリスクを持つ。だからこそ、陰謀論の拡散には慎重な態度が必要だし、真実かどうかの徹底的検証も必要なのである。真実だと思い込むのも危険である。真実を明らかにすることが、正義ではないケースがあるとも言えよう。

※イスキアの郷しらかわでは、心身を病んだ方々を個別サポートしていました。心身を病んだ方々に本当の疾患名と真実の原因を伝えてしまうと、家族の関係性を損なってしまい、症状の悪化を招いてしまうので、あえて真実を明らかにしない選択をすべきだということも学びました。そうした方が、クライアントが幸福になるし治癒するからです。本当だからと、疾患名や原因を安易に告げるべきではないのです。妄想性の障害の方に、それは妄想だと告げると益々頑なになり心を閉ざすので、敢えてその妄想に付き合うことも必要なのです。

裏金の金権政治を招いた張本人

 派閥の政治資金パーティを開催して、パーティ券売り上げの一部を議員にキックバックして裏金にしていたという、前近代的な金権政治の権化のような事件が発覚した。自民党安倍派の議員を中心に実施していたと伝えられるが、どうしてこんなにも破廉恥な行為をしていたのか、不思議に思う人も多いことであろう。誰がどのようにしてこんな金集めと裏金の捻出を企てたのか、いずれ検察によって明らかにされると思われる。国民は何故こんなにも裏金が必要とされるのか知りたいであろうし、そうさせた張本人も知りたいに違いない。

 様々な関係者の証言や政治アナリストの分析、そして政治記者の取材によって裏金の使い道が判明してきた。政治家のすべてが裏金を必要としている訳ではないが、その裏金の殆どが選挙の為に使われるらしい。その選挙というのは国政選挙のことであり、票集めの資金に使われるという。国会議員の選挙区には、選挙で選ばれた県会議員がいるので、その県会議員に票集めを依頼するらしい。保守系の議員は、押しなべて票集めの資金を必要としているという。地方議員の選挙資金にも必要なので、国会議員の裏金に頼るのではなかろうか。

 国会議員は公設秘書2名を雇う費用を税金によって賄える。しかし、国会議員の中にはそれだけでは選挙区の選挙対策を全う出来ないので、保守系の議員は公設秘書以外に4名~6名の私設秘書を雇わなければならないという。そして、その私設秘書を雇う資金は、国会議員が負担しなければならないので、裏金を必要とするのではないかと見られている。それにしても、私設秘書の選挙対策というのはどういうことであろうか。そのために、こんなにも多くの人数の私設秘書を必要とするのは何故であろうか。

 政治評論家や政治記者の情報によると、広い選挙区を持つ地方の国会議員は選挙区の有力者の住居や会社をこまめに個別訪問することが求められるという。ところが議員一人では回り切れないので、私設秘書がその役目を代わって行うらしい。また、選挙区における道路や公共交通施設の充実をしてほしいとの陳情を受けるのも私設秘書の役目だという。公共施設の新築や改築の陳情も受けるという。新規工場誘致や巨大レジャー施設の誘致の陳情を受けるのも私設秘書の貴重な役目だ。優秀な私設秘書を持てば、選挙に有利になるのだ。

 国会議員に対する陳情は、これだけではないという。有力者の子息の就職斡旋や行政職受験の際の口利きまで依頼されるらしい。それは今の時代は非常に難しいと思われるが、正職員の採用までは難しいものの臨時職員や関係機関の職員採用には有効だと、密かに囁かれている。地方の小さな町村役場の臨時職員からいつの間にか正職員になったケースもあると聞く。国会議員は、地方の町村首長や議員に大きな影響力を持つのである。その為に、彼らの選挙時には『陣中見舞い』と称して多額の裏金が使われるのは、言わずもがなであろう。

 裏金は国会議員どうしの間でも飛び交うと言われている。自民党の党首選挙は、首相を選ぶ選挙でもある。多数派工作は、足の付かない現金が使用されるのは当然だ。自分が所属する派閥の領袖が党首選挙に立候補したなら、派閥所属議員は他派議員への多数派工作に真剣に取り組むことになろう。超高級料亭に招待して、現金を渡して投票を依頼する構図は誰でも想像できる。大臣や副大臣になれたのも、裏金のお陰とも言える。保守系の政治評論家や政治記者も高級料亭や銀座の一流クラブに国会議員から招かれて、議員に有利な評論や記事を依頼されると言われている。これも裏金の一部だ。

 このように裏金の用途を見てきたが、国民や社会の為には一切使われることはないのである。日本の首相や大臣、国会議員は裏金の恩恵で選ばれていると言っても過言ではない。こんな金権政治のシステムを作り上げた責任は国民にあると言えよう。裏金による金権政治を招いた張本人は、我々国民なのである。自分の利益誘導の為に国会議員や地方議員を利用する企業役員や国民がいる限り、裏金を生み出すシステムがなくなることはないのだ。こんな私利私欲に塗れた議員たちを選んだのは我々国民である。国民が私利私欲に走るから、私利私欲の議員が選ばれるのだ。我々国民自身が公利公益を追求する姿勢に変わらない限り、私利私欲の金権政治がなくならないのだ。

年金の第3被保険者制度廃止への賛否

 いよいよ年金制度におけるおおいなる不平等だと批判されてきた、第3号被保険者制度の廃止が政府内で本格的に検討されるという。政府、とりわけ財務省では喫緊の課題として取り組んできた、年金の第3号被保険者制度の廃止が、ようやく実現されようとしている。この第3号被保険者制度というのは、サラリーマンの妻(夫)で一定の収入以下であれば、夫(妻)の厚生年金(共済年金)の保険料だけを納付すれば、妻(夫)の年金保険料は免除されるという制度だ。主婦年金制度と呼ばれ、日本特有の年金制度である。

 何故、不平等だと批判されてきたのかというと、国民年金に加入している世帯では、この制度は適用されず、配偶者も年金保険料の納付義務があるからだ。サラリーマンの配偶者だけが、この恩恵を受けているのだ。どうして、こんな不平等な制度があったのかというと、昔は厚生年金に加入している夫の配偶者は国民年金に加入する義務があったのだが、殆どの配偶者が国民年金保険料を納付せず、年金未加入の配偶者が多数存在してしまい、大きな社会問題になっていたからだと言われている。離婚した高齢者が無年金になってしまう。

 社会保障をすべての国民に行き届かせるという意味では、確かにの社会的弱者である女性の高齢者が無年金になってしまうのは困る。しかし、年金保険料をまったく納付していない国民が、65歳になると無条件で基礎年金を支給されるというのは、社会的公正さという点においては、おかしい制度だとも言えよう。ましてや、年金保険料収入が少なくて、年金支給財源が枯渇しようとしている現代に、年金保険料が免除されているというのは、国民年金の加入者や共働き世帯の人たちには、納得の行かない話である。

 確かに、昔は男が外で働いて家族を養い、妻は専業主婦や時間制のパートタイマーで家族の世話をするという家庭が殆どだった。共働きで夫婦が共に社会保険に加入するという世帯が少なかった時代だった。専業主婦の妻の国民年金保険料を支払う余裕もなかっただろうし、離婚をするなんて考えられなかったから、将来に対する不安もないから必要性も感じなかったに違いない。そして、あまりにも配偶者の国民年金保険料の未納付が多くて、当時の厚生省は緊急避難的に第三号被保険者制度を考えたと言われている。

 しかし、これはあくまでも表向きの話である。殆どの法律の原案はキャリア官僚が作成するのであるが、彼らの本音は違っていたのではなかろうか。この年金の第三号被保険者制度と配偶者特別控除の税制と併せて考慮すると、その本質が見えて来る。当時のキャリア官僚たちは、高給を受け取り贅沢な官舎に住んでいた。余裕のある生活を送っていた。妻たちを働かせる必要はなかった筈である。しかし、教養や素質のある専業主婦の妻たちの中には、子育てを終わると仕事に就いて、社会参加をしたいと願う人も多数いたと推測される。

 世の中の男性の多くは、本音では女性の社会参加を望まない。出来れば家庭に妻を縛り付けて、家事育児に専念してほしいと思っている男が多い。ところが、高学歴で教養があり、能力の高い女性は家庭に収まることに不満を持ちやすい。子育てが一段落すると、仕事に就きたいと願い、外で働く承認を得る交渉を夫に持ち掛けた。キャリア官僚たちの多くは、働きたいという妻たちを家庭に押し留めるのに苦労したと思われる。それで考え出されたのが、年金の第三者被保険制度と配偶者特別控除の制度である。つまり、働きたい妻たちを無理やり家庭に留まらせるために作った苦肉の策なのである。

 キャリア官僚たちは、妻たちを家庭に閉じ込めるため、またはパートタイマーで低収入の働き方をさせるために、年金の第三者被保険者制度と配偶者特別控除の制度を作ったのであろう。妻たちが経済的に自立してしまうと、自分を見捨ててしまうのではないかと心配していたのかもしれない。女性を家庭に押し込めて自立を阻害する、女性蔑視の悪法であると言える。したがって、一刻も早く年金の第三者被保険者制度と配偶者特別控除は廃止すべきなのである。これらの悪法の本質をいち早く見抜いていたのは、連合会長の芳野友子さんである。芳野友子さんは岸田首相に強く働きかけて、年金の第三者被保険者制度を廃止させようとしている。女性の真の自立のための第一歩である。

女性管理者が多い企業は収益率が高い

 女性管理者が企業全体でどの程度の割合を占めているのかを、女性活躍推進法は公表することを求めている。ただし、それは社員数301名以上の大企業だけであり、中小企業は義務化されていない。ましてや、この公表義務に違反しても罰則規定はないので、どれだけの企業が公表するか疑問視されている。なにしろ、中小企業よりも大企業のほうが女性管理職の占める割合が低いのである。元々、女性管理職を登用することに消極的な大企業が、公表に積極的になるかどうかは不透明である。

 日本の企業は、女性の企業進出に対して、極めて消極的である。それは、企業の男性側もそうだが、女性側でも女性進出に積極的でないという事情もあるみたいである。男性としてみれば、女性管理職が増えてくれば、自分たちの昇進も制限されてしまうと思うのは当然だろう。女性管理職に仕えることを、生理的に嫌だと感じる男性職員もいる筈だ。または、変なプライドで、女性よりも男性のほうが優秀だと勘違いしている人も少なくない。特に、日本の大企業の役員や管理職は、女性社員は使えないと思い込んでいる節がある。

 つまり、男性は女性よりも沢山働けるし優秀であるという思い込みである、ジェンダーバイアスがあるのだ。そして、女性自身にもそのジェンダーバイアスがかかっていることが多い。だから、女性自身も男性よりも劣っていると勘違いしていて、最初から管理職を望まない職員が多いのである。このジェンダーバイアスは、完全な間違いである。女性よりも男性のほうがリーダーとして相応しいなんて、単なる思い込みである。事実は男女同等であるし、ある意味男性よりも女性のほうがリーダーとして適任であることが少なくない。

 日本の企業では、女性に対する偏見が多い。しかし、西欧の企業や職域においては女性管理職を積極的に登用しているし、そのことにより生産効率を高めているという実態がある。だからこそ、西欧の企業では政府から指示・指導されずとも、女性管理職の割合を積極的に公表している。そういう企業のほうが、株価が高くなり企業価値が高められているのである。つまり、女性管理職が多い企業ほど生産効率が高くて、収益率も高いということが広く認識されているのである。そう聞いて、日本では驚く人が多いと思うが、事実なのである。

 何故、女性管理職が多いほど生産効率と収益率が高くなるかというと、女性が働きやすい職場というのは、男性にとっても働きやすいからである。仕事が定時に終わるように割り当てられているし、休日残業をしなくてもよいように業務分担がされている。女性が子育てしながらも働ける職場環境になっているというのは、男性がイクメンをできるということでもある。不思議なことだが、残業をしないようにと企業側で指示徹底すれば、残業をしなくても定時で帰れるのである。それによって仕事が滞ることは絶対にない。

 定時で業務を完了させると決めれば、残業しなくても可能になる。もし、定時に終わらなくても翌日に持ち越しできるように計画すればよい。顧客から無理な納品期日を指定されたら、事情を丁寧に説明して了解を得ればよい。日本の商慣習では、下請けや納品業者に無理を言って納品期日を厳しくすることが常態化している。しかし、西欧においては無理な納品期日を守らせるような横暴をする企業は、誰からも相手にされなくなり、衰退してしまう。日本でも、そのような横暴をすべての企業が許さないような商慣習にすべきであり、公取が積極的に動いて止めさせるべきである。法的な規制をかけることが望まれる。

 女性管理職が多くなると、生産効率と収益率が高くなる理由が他にもある。それは多様性である。多様性が認められる企業や職場では、社員の自己成長がとてつもなく高まる。男性だけが活躍する職場では、考え方や発想の『違い』を実感できないし、思考の柔軟性が発揮できない。女性管理職の発想力や柔軟思考が女性社員だけでなく男性社員をも成長させるし進化を遂げさせる。つまり、社員の自己組織化が起きるし、大胆なイノベーションが実現するのである。イノベーションは、多様性と社員の自己組織化が発揮されないと起きないのである。女性管理職が増えると、間違いなくイノベーションが起きて、企業の収益率が高くなるのである。

愛着障害の指導者に国を任せる危険性

 幼児期において、養育者から豊かな愛情を受けられずに育てられると、やがて深刻な愛着障害になりやすい。特に、無条件の愛である母性愛を十分に注がれないと、愛着障害で苦しむことになる。大人になっても強烈な自己否定感を抱えて生きるのであるが、自分に自信を無くしてしまい、強烈な不安感の故に社会不適応を起こして、不登校やひきこもりに陥ってしまう。ところが、中にはこの愛着障害による二次的症状として、強烈な自己愛のパーソナリティ障害を起こしてしまい、超攻撃的人格を持つ人間が生まれてしまうことがある。

 同じ愛着障害でも、この超攻撃的な自己愛性のパーソナリティ障害を持つ人間は、権力欲が非常に強いうえに、能力もある程度高いので、組織の中で頭角を現して昇り詰めることが多い。競争相手を巧妙に蹴落とすスキルも高いし、上に媚びへつらい忠誠を誓うので、上司から引き立てられるので出世が早い。職場においては、巧妙なパワハラやモラハラで、部下を潰してしまうことが多い。政治の世界では、忠誠心が強いのでトップから可愛がられ、競争相手を蹴落とす権謀術策に長けているから、トップに昇り詰めるケースが多い。

 愛着障害からの自己愛性のパーソナリティ障害を持つ政治家として一番有名なのは、かのアドルフ・ヒットラーである。彼は強烈な攻撃的な性格の持ち主で、競争相手を粛清して独裁者となった。とても強い性格であったと思われているが、実は小心者であったのではないかと言われている。本当は、不安感と恐怖感がいつも自分を支配していて、強い自己否定感を抱えていたと思われる。不安感と恐怖感が強くて、妄想性の障害をも抱えていたのではないかと見られている。強い愛着障害があったからこその症状であろう。

 アドルフ・ヒットラーは独裁者となってからも、自分の地位や名誉が奪われてしまうのではないかと常時恐れていた。だからこそ、自分に対する批判や非難を怖れ、極端な情報統制をしたのであろう。自己否定感が強くて不安・恐怖感が強いからこそ、その反動で自分が特別で万能であると思ってしまうのであろう。だから、マスコミが自分を非難・批判するのを許せないのだ。マスコミを統制する政策を実施する指導者は、おしなべて自己否定感が強い愛着障害と自己愛性のパーソナリティ障害を抱えていると言っても過言ではないだろう。

 過去の著名な為政者でも、同じような情報統制の政策を実施した人物が多数存在した。そして、現代の国のリーダーの中にも、同じ障害を抱えている人物は枚挙に暇がない。アジアにおいては、K氏やS氏も同様であるし、米国で圧倒的な支持者がいるT氏も同じだ。T氏は極端なマスコミ嫌いで、大きな圧力をかけていた。そして、今世界中で困惑している指導者P氏もまた、愛着障害と自己愛性パーソナリティ障害を抱えているのは間違いない。彼は、妄想性のパーソナリティ障害も抱えているので、非常に危険な人物だと言えよう。

 K氏やS氏は、普通選挙によって投票された訳ではないので、国民(選挙民)に選んだ責任はない。しかし、T氏やP氏を選んだのは国民である。強いリーダーシップを発揮して、強い自国を造ってくれる人物を選びたくなるのは仕方ないかもしれない。アドルフ・ヒットラーは演説の名手であったという。短い解りやすい言葉で、国民を熱狂させた。強くて大きなドイツを造ろうと演説して、多くの熱狂的支持者を得た。米国のT氏も、かつての強大な米国に戻すという演説で、熱狂的な支持者を得ている。P氏もまた同様である。

 日本でも、つい最近までマスコミに圧力をかけて、自分を批判する経営幹部やキャスターを追い落としたリーダーがいた。その彼もまた、強い愛着障害を持っていた。こんな指導者を選ぶ危うさを認識すべきであろう。P氏、T氏は、確かに優秀な政治家に見えなくもない。しかし、上手く行っている時は問題ないが、自分が人々から見離されられてしまったら、とんでもない行動をしかねない。実際に見捨てられてしまったら、自虐的・破滅的行動を取るだろう。自分だけが破滅するならいいが、こういう人間は善良な人々までも巻き込み国を滅ぼすこともする。そんなP氏が核のスイッチを握っているというのは、恐ろしいことである。

経済再生は教育のイノベーションで

 前回のブログにおいて、日本経済が低迷している原因は愛着障害にあることを明らかにした。そして、その愛着障害が多いのは教育に根本的な誤りがあるからだと説いた。教育の誤りは何故起きたのか、その教育の誤謬をどのように正したら良いかを今回のブログで明らかにしたいと思う。日本の教育を本来あるべき姿に戻さないと、このままでは日本経済は益々駄目になって行くだろうし、不登校やひきこもりだって増加の一途を辿るに違いない。いじめや児童虐待、貧困、格差は増大し、家庭崩壊だって進んで行き、取り返しがつかなくなる。

 いつから日本の教育が間違った方向に進んだのだろうか。江戸時代の教育は至極まともだったし、教育レベルも相当に高かった。明治維新後に、欧米列強に続けと欧米から近代教育を取り入れたのである。その時から日本の教育は劣化してしまったと言える。当時の明治政府で実権を握っていた大久保利通等が、西郷隆盛の反対を押し切って近代教育を強引に導入してしまったのである。西郷隆盛は、近代教育の欠点を見抜いていた。近代教育によって日本人の大切な『心』を失ってしまうと西郷は猛反対したのである。

 何故、近代教育によって心を失うのかというと、能力至上主義であり客観的合理性をあまりにも重視する教育だったからである。それ故に、技能や知識を取り入れることだけを目指し、大切な思想や哲学、価値観の教育を排除してしまったのである。もしかすると、権力者を批判するような人間を排除しようとして、価値観教育をさせまいとしたのではなかろうか。明治政府が導入した近代教育は、知識や技能だけを獲得するための教育だから、教え込む教育である。言わば詰め込み教育であるから、自ら考え決断し行動する力を削いでしまった。

 人間は、本来自分の行動をどうするか熟慮して決断して、自らの考えで主体的に行動する。ところが、過介入や過干渉の教育、支配と制御の教育を推し進めると、主体性や自発性を失ってしまう。人間は主体性、自発性、自主性、責任性、進化性を本来持っている。それは、自己組織化する能力と言い換えることができる。人間は誰からか指示・介入されなくても、自己組織化するのである。ところが、誰かによってあまりにも制御されたり支配をうけたりすると、自組織化能力を失い、操り人形やロボットのようになってしまう。

 そして、人間が自己組織化するためには、正しく高邁な価値観に基づいた「生きる目的」を認識しなければならない。ところが、明治政府は価値観教育を排除してしまったから「生きる目的」を子どもたちは認識できなくなってしまったのである。親たちも、そして教師たちも「生きる目的」を知らないのだから、子どもたちに「生きる目的」語り諭すことが出来ない。試しに、自分にあなたの生きる目的は何ですか?と問うてみればいい。殆どの人が正しく「生きる目的」を概念化する力がないことに気付くであろう。

 江戸時代の教育においては、「生きる目的」を自らが考えて導き出すための思想・哲学をしっかりと学んでいた。だから、自己組織化能力を持っていたのだ。父親が思想・哲学を子どもに対して語り諭し、子どもが正しい価値観を持ち「生きる目的」を自らが導き出せたら、人生に迷うこともないし生きづらさを抱えることもなかった。父親が条件付きの愛である父性愛を注いでしつけをしてくれたら、母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけで良いのである。母親がまるごとあるがままに我が子を愛し続けてくれたら、愛着障害になることはなかった筈である。

 欧米では、近代教育の欠陥をいち早く見抜いて、修正をしてきた。だから、自己組織化の能力を失うことがなかったのである。自己組織化する能力を開発する教育を取り入れているし、信仰を利用して価値観の教育をしっかり実施している。正しい価値観を失い「生きる目的」を失ってしまった日本人は、世界から取り残されてしまっているし、外国人から信頼まで失いつつある。家庭教育、そして学校教育の欠陥である客観的合理性偏重の教育を見直し、主観的共感性も重要視する教育に今すぐにでも改革しなければならない。そして、思想・哲学の教育を復活させて、正しく高い価値観を持てるようにすべきである。この教育のイノベーションを断行すれば、現代のあらゆる社会問題は解決し、日本は再生するに違いない。

日本経済低迷の原因は愛着障害

 日本の経済成長は、先進国の中で最低である。とりわけ低迷しているのは、実質賃金である。先進国の中で、実質賃金が下がっているのは日本だけである。この20年間で、10%以上も実質賃金が下がっているのは特異的である。何故、実質賃金が下がっているのかというと、デフレ傾向、低金利、生産性の低迷、所得分配率の低迷、非正規雇用者の増大などが原因だと言われている。本当にこれらが原因なのであろうか。だとすれば、政府の経済政策や金融政策で何とか出来る筈だが、20年間にも渡って改善されないのはどうしてだろうか。

 岸田政権は、安倍と菅が推し進めた政策を見直し始めている。所得の分配率を高めようと、税制を変更までして、企業に昇給圧力をかけている。しかし、この税制改革が成功するとは到底思えない。また、いくら設備投資をさせようと企業に圧力を加えたとしても、企業経営者たちは応えようとはしないだろう。何故ならば、企業経営者並びに幹部たちは、新規設備投資をするとか、イノベーションにチャレンジをするなどの積極的な企業経営をする筈がないのである。経営者たちはおしなべて不安感や恐怖感を抱いており、臆病だからである。

 大企業の経営者たちは、新たな設備投資をすることに対して慎重姿勢を崩さない。賃金を上げることにも消極的である。さらに、利益が確保されているし株価は安定しているから、無理をしてイノベーションをしなくても良いだろうと考えている節がある。これでは、絶対に好況になることはない。さらに企業における日本の生産性が、他の先進国と比較して、極めて低いという問題もある。特にホワイトカラー労働者の生産効率が低いと言われている。これもイノベーションが実行出来ていないせいだと思われる。

 大企業の経営者だけでなく、日本国民全体が将来に対する不安を抱えているとしか思えない。良く言えば慎重だということだが、新しいことに挑戦する勇気がないのである。不安や恐怖感が拭えず、無難な考え方や生き方しか出来ないのである。何故、そんなに臆病なのかと言うと、絶対的な自尊心が育ってないからと言える。青少年の意識調査を国際比較してみると如実なのであるが、日本の青少年の自己肯定感が異常に低いのである。さらに、主体性や自発性、責任性が他国の若者と比較すると極めて低いということが解っている。

 主体性、自主性、自発性、責任性というのは、人間が生まれつき持っている『自己組織化』の働きのことだ。現代の日本人は、この自己組織化する働きが著しく低下しているのである。つまり、日本人は自己肯定感が低下しているし、自己組織化する働きが低迷しているので、企業におけるイノベーションが進まず、生産効率が低いのであろう。何故に日本人の自己組織化の働きと自己肯定感が低いのかというと、それは端的に言えば『愛着障害』を抱えているからである。愛着障害が根底にあるから、将来に対する不安が強く勇気が持てないのである。

 根底に愛着障害があると、オキシトシンが不足するのでいつも不安が強くて、無難な生き方しか出来なくなる。新たなチャレンジにも挑戦出来なくなるし、現状を守りたいという意識が強く保守的になる。現代の若者が政治的に保守的なのは、愛着障害を抱えているからに他ならない。消費意欲が湧かずに貯蓄が増えるばかりなのは、愛着障害による不安のせいである。大企業経営者が新規の設備投資意欲がないのも、そしてイノベーションに踏み切れないのも愛着障害だからである。自己組織化の能力が低いからイノベーションが実行できないのであろう。

 日本人の大多数が愛着障害であると言っても過言ではない。何故、そうなってしまったかと言うと、学校教育と子育ての間違いからである。自己肯定感と自己組織化を育てる教育をしてこなかったせいである。自己肯定感は、0歳から3歳くらいまでの間、母親が我が子をありのままにまるごと愛さなければ育たない。つまり無条件の愛である母性愛を注ぎ続けなければ自尊心は芽生えない。さらには、自己組織化を阻害するような教育ばかりを家庭も学校もしたのだ。強い干渉や介入をして、支配し制御する教育をしたのだから、自己組織化する筈がない。故に多くの日本人が愛着障害を抱えているせいで、日本経済は低迷しているのである。教育のイノベーションが必要なのは言うまでもない。

自助共助公助を政治スローガンに?

安倍内閣が総辞職して、菅内閣が新しく発足した。その新内閣のスローガンが、自助・共助・公助の社会を目指すということらしい。多くの人々はこのスローガンを聞いて、当然なことだと思うことであろう。まずは、自分でできることをしてみる。つまり自助だ。それでも不可能なことは、地域やNPO法人やボランティアなどの力を借りる。これが共助ということだろう。そして、自助・共助でどうしようもないことを公的機関で支援する。これが公助ということだろう。いたってまともな理論で、賛成する人も多いに違いない。

 

この自助・共助・公助の理論の根底にあるのは、小さな政府と自己責任論である。最初から公的サービスを宛にしないで、自分にできることは自分たちでしようということだ。さらに行政改革を推し進めるに当たって、公的サービスを肥大化させず、財政を健全化したいとの思惑も働いているに違いない。確かに、あまりにも福祉サービスを限りなく広げてしまうと、自助努力を怠ってしまう傾向があるだろう。だとしても、基本は自己責任であり、あまりにも人に頼ってはいけないと政治の長が声高々に叫ぶのはどうかと思うのである。

 

安倍政権は7年以上続いた安定した長期政権である。その政権中枢にいた人、安倍総理、麻生副総理、菅官房長官たちは、自己責任論を振りかざすことが少なくなかった。つまり貧困、病気、介護、失職の状態に追い込まれるのは、自分たちの努力が足りなかったからであるし、それを政府のせいにするなんてとんでもないと言いたかったように思えて仕方ない。経済的に恵まれて、何不自由ない豊かな生活をしている人は、自分で努力したからだと主張する。恵まれない生活をしているのは自己責任だと、本音ではそう思っていたに違いない。

 

共助の在り方について、少し考えてみたい。政府や財務省は、共助の社会を作りたいと思っているらしい。年々増加する公的支出を抑えたいからであろう。共助社会を目指す理由が、財政支出を少なくする為なら、他人任せの政策であり情けない。人間というのは、本来お互いに支え合いながら生きるものである。お上の財政事情から国民に共助を強いるというのは、本末転倒であろう。共助は自らが主体性を持ってするべきであり、政府から指示されるものではない筈だ。政府や行政が共助を声高に叫ぶのは、自分たちの無策ぶりを露呈するものだ。

 

自助・共助を先にして公助を最後に持ってきたのは、菅政権が公助を出来るだけ避けたいという思いが現われている。しかし、政府の役目は国民に自助・共助を勧めることではない。自助・共助は国民自らが主体的に選択して実行するものだ。政府が考えるべきは、公助の無駄・無理・浪費を防ぐことであり、より効率の高い公助の在り方を考えることである。そして、縦割り行政によって公助が滞っているケースを改善することである。さらには、本来受けるべき公助を受けられていない人々に、しっかりと公助を届ける役割を果たすべきだ。

 

共助の果たす役割というのは、単なる公助の手助けということではない。そのことを菅政権が認識していないのは、実に情けないことである。共助というのは、本来は公助で行うべきことを公的機関が取り組むシステムがないから、その先取りとしてNPO法人やボランティアが共助として実施しているのである。つまり、この先取りの共助システムをやがては公助で実施すべきなのである。さらには、共助を行うのは単なる支援が目的ではなくて、共助のシステムを作り実践することで、お互いが支え合う社会を実現するプロセスなのである。つまり、お互いの関係性や絆を深めて、心豊かな社会を実現するのが共助の真の目的である。

 

安倍政権下で所得格差が広がり、絶対的貧困が増加して公的扶助が増加した。それは、公助のやり方を間違ったとも言える。安倍政権の失政を反省することなく、菅政権も自助や共助を優先させて、公助を削減しようとするのは許せない暴挙だと言えよう。政治の役目というのは、自助や共助なんていう言葉が存在しない社会を作ることだと言える。つまり、国民全員が自立できて、お互いが当たり前のように支え合う社会の実現こそ、目指すべきなのである。自助・共助を政治のスローガンにするというは、本来あり得ないことなのである。

起業女子こそイノベーションが必要

起業女子という語句がネット上で踊っている。自分の得意とする分野で、個人起業をしてビジネスに参入している女性が増えているという。その形は、実に様々であって、本格的な株式会社を設立して会社経営に専念している人もいれば、法人を設立しない個人営業で、しかも副業的にビジネスを楽しんでいる人もいる。特に若い主婦がはまっているのが、自分で作成したアクセサリーや雑貨などをネット販売するケースが多い。ネット上での販売なので、イニシャルコストと管理費がかからないので、簡単に起業する女性が激増していると思われる。

一方、もう少し本格的なビジネスとして起業する女性も増えてきた。小さいながらもお店を出して、自分の得意とする分野の営業商品を売るケースである。または、自分が好きな料理やスィーツを提供するカフェやレストランを出店する場合もある。そういう場合、自宅や倉庫などを利用するから、たいしてイニシャルコストや人件費もかからずお店を開店できるので、勢いでビジネスを開始してしまうことが多い。こういう時に、銀行から借り入れをするのであれば、資金計画書(採算管理)や営業計画書が必要となるが、自己資金で間に合わせるから、何のチェックもなくてスタートしてしまう。

勿論、こういう起業女子のビジネスが成功するケースもなくはないが、ごく少数である。ほとんどのビジネスは、数か月であえ無く頓挫する。ネット販売だけであれば、細々と続くことがあるが、これで飯を喰うレベルまで到達できる訳ではない。小遣い程度の収入でしかなく、自分の人件費計算をしたら大赤字である。それでも、成功する夢にあこがれて起業する女子は後を絶たない。それだけ現状の生活で満たされていないのだろうが、ビジネスの基本も知らないでお店を始めるというのは乱暴な話だ。

ビジネスが成功するためには、イノベーションが必要なのは言うまでもないが、起業女子たちにイノベーションとはなんぞやと問い質してみるといい。正確に答えられる人はいない筈だ。技術革新でしょうと答えるならまだましなほうだが、その言葉さえ聞いたこともない人もいるに違いない。イノベーションとは、単なる技術革新ではない。イノベーションとは抜本革新または抜本改革のことである。オーストリアのシュンペーターという経済学者が唱えた理論で、ノイア・コンビチアーノ(新結合)という概念である。

それでは「新しい結合」とはどういう意味なのかというと、違う顧客価値どうしを結合、または統合するという意味だ。具体的に言うと、エンジンの出力と電気モーターの出力を結合させ、さらにブレーキという今まで捨てていたエネルギーを電気エネルギーに転化して推進の力にするような画期的なことである。つまり、TOYOTAのハイブリッドシステムが、まさしくイノベーションである。さらには、農福連携という言葉が最近聞かれるようになったが、農業生産(農産物加工)と福祉事業を組み合わせて、福祉施設を運営することもイノベーションである。

このように、違う顧客価値どうしを統合させて新しい顧客価値を生み出すことがイノベーションなのである。そして、この新しい顧客価値が新しい顧客を獲得することになるのだ。こういうイノベーションによる価値創造がなければ、新しい顧客を生み出すことが出来ない。当然、価格競争の海に飲み込まれて、新しいビジネスはあえなく沈没することとなる。イスキアの郷しらかわは、農家民宿という観光と農業の統合分野に、さらに福祉的価値を統合させて新たな価値を生み出した。そして、今まで農家民宿の顧客にならなかったひきこもりや不登校、または休職者という顧客を新たに生み出した。だから成功したのだ。

スモールビジネスというような起業だから、イノベーションなんて所詮無理だと、最初から諦めている人のなんと多いことか。そんなことはないのである。スモールビジネスだからこそ、イノベーションは必要であるし、イノベーションなくしては成功しないのである。スモールビジネスのほうが、イノベーションは起こしやすいのである。違う顧客価値どうしを統合させて新しい顧客価値を生み出し、新しい顧客を生み出すという観点を見失しなわなければ、ビジネスは必ず起こせる。そしてそのビジネスは必ず成功するのである。

※イスキアの郷しらかわでは、新たに起業をする方に向けての『イノベーション講座』をレクチャーしています。起業女子、スモールビジネス、スモールオフィスを目指して計画している方は、是非受講してみてください。受講料は無料です。レンタルルーム料金2000円の負担だけで済みます。

言論統制が強すぎると内部崩壊する

現在の政界において、官邸が必要以上に党内統制を強めている。以前の自民党議員は、こんな党内統制に甘んじることはなかった。自らの矜持を持つ議員たちは、自分たちの持論を堂々と述べていたし、納得の行かない議案や法案の採決に反対しなかったものの、採決に加わらないという筋を通した行動をしたものである。現在は、そんなことをした議員は次回の選挙で党公認を外されるだけでなく、当該選挙区に刺客を送り込まれる。独裁政治ではないと新聞に投稿した高校生がいたが、これを独裁と言わないでなんと言うのか。

こういう状況は、世界共通の傾向らしい。米国や欧州でも、強硬姿勢の政治家が実権を持ったとたんに民意を無視した強権政治を実行している。中国や北朝鮮だって同じだ。政治の世界だけでなく経済や福祉の世界でも起きている。自分の絶対的権力を失うことが怖ろしくて、対抗勢力を徹底して貶める。自由闊達な討論を制限する。報道統制も徹底して行う。強大な権力を一度握ったら、その権力に執着するのは人間の性であろう。自分の立場や利権を守ろうとして、力での統制を強めるのは世の常であるらしい。

例えば民間企業において、カリスマ的な経営者がいて絶対的権力を握ったとしよう。最初は企業繁栄の為にと全力を傾注して結果を残す。ところが、やがて私利私欲のために公私混同を始める。しかし、あまりにも強大な権力を持つが故に、他の役員や管理者たちは黙認せざるを得ない。そして、言論統制を強いて社内での自由な発言を封じ込めるだけでなく、役員会でも反対意見を出せないような環境にしてしまうことがある。統制を強めることで、自分の地位を守ろうとするのである。言わば独裁である。

ヒットラーは恐怖を用いて内部統制を行った。自分に従わない者を徹底して粛清し、忠誠を誓う者だけを重用した。現代においては、あんな乱暴な手法は使えない。どんな手法で統制を行なうのかというと、人事権を独占することや言論の自由を制限することで実施する。首相官邸が一元的に官僚幹部の人事権を握っているのは、まさしく官邸による官僚への統制である。そして、官僚に対して人事権を盾にして徹底した言論統制まで行っている。こういうのは、『忖度』とは言わない。絶対的な強権による統制である。

太平洋戦争開戦に至る時代、軍部が対抗政治勢力をクーデターや軍事的圧力で独裁政治権力を握った。そして、報道管制を敷いて真実を国民に知らせず、自分たちの権力を守ろうとした。さらに、言論の自由を徹底して制限して、権力に対する批判をさせないようにしたのである。その結果、悲惨な戦争によって多くの国民の生命を奪ってしまった。あの時に、言論の自由が守られていれば、あんな悲惨な戦争を起こさなかったかもしれない。その反省を踏まえて、日本国憲法では基本的人権の中で、言論の自由を何よりも優先したのである。世界の先進国でも同様に言論の自由を最優先する憲法を制定している。

ところが、その言論の自由が日本では制限されつつあるのだ。NHKも含めた各放送局の経営幹部は、官邸に配慮した報道をしている。放送法を盾にして、いろいろな嫌がらせを官邸が実施するぞと、陰に陽に脅しているからである。各放送局は、放送法を後ろ盾にされて、電波を割り当てないぞと脅されたら従わざるを得ない。あの太平洋戦争での苦い経験を忘れているとしか思えない。国民を真実から目をそらさせてしまうと、独裁政治になってしまい、平和が脅かされて、国民は悲惨な目に遭ってしまう。統制が強すぎる組織は、内部崩壊を起こすのである。

言論統制を強めている他の国家も同じ運命を辿っている。トランプ大統領は、徹底した報道統制をしている。米国は危険な道を歩み始めていると言えよう。日産自動車がゴーン一強体制で統制を強め過ぎた結果、あんな出鱈目な経営をさせてしまい、結果として酷い低迷を招いたのは記憶に新しい。組織というのは、権力者が強いリーダーシップを発揮しないと運営が滞る。しかし、権力者が自分の権力を守るために言論統制を強め過ぎると内部崩壊を起こす。過去の歴史がそれを証明している。組織というのは、その発展と繁栄をするにためにこそ言論の自由を認めて、闊達な討論や対話をしなくてはならない。