パーソナルはポリティカル

 最近になって、あるTVドラマで使われていて、いい言い方だなあと感心している格言がある。それは、『パーソナルはポリティカル』という言葉である。日本語に無理やり訳せば、個人的なことは政治的なことであるという意味になろう。米国で、1960代に学生運動及びフェミニズムの一環として盛んに唱えられたスローガンとして広まった。男性中心社会こそが女性の権利を奪っていることから、政治的な問題として解決しなければならないという主張だった。さらに、このパーソナルはポリティカルは、広い意味でも使われるようになった。

 広い意味とは、個人的な要因によって起きている問題も実は、政治的に解決されるべきものであるという主張である。TBSテレビの『御上先生』で盛んに言われているのは、広い意味での個人的なことは政治的なことによるという主張である。個人的な問題と捉えられるような家族の問題も、実は政治的な課題として捉えるべきだという主張である。ドラマでも触れていたが、発達障害を抱えた青少年への支援は社会的課題として扱うべきだということも。相対的貧困がG7の中で最下位だし、格差社会が教育の貧困を産み出している。

 小泉政権から安倍政権への時代には、『自己責任』という言葉が社会に対して盛んに発信されていた。経済的貧困や教育的貧困も、すべては自己責任だという主張だった。労働の流動化を図り労働コストを下げないと世界での競争に勝てないからと、非正規労働者を大量に生み出した。金融経済を活性化させて企業の総資産を増やせば、経済成長して国民の生活が豊かになると盛んに喧伝した。異次元の金融の量的緩和をして円安に誘導して、株価を高値に導き大企業の企業価値を高めた。すべての政策が相対的貧困と格差社会を産んだ。

 そもそも政治の役割とは、すべての国民が健康で高福祉の生活を享受できるようにするということであり、その為には行き過ぎた格差社会を作らせないように富の再分配を行うことが必要だ。経済と教育の貧困層を作り出さないことが為政者の使命である。ところが、小泉政権から安倍政権における政策は、皮肉にもことごとくその逆の結果を産み出したのである。時の為政者たちが、自分たちの失政を棚に上げて、すべては自己責任だと強弁するのは、許せない所業である。パーソナルはポリティカルというスローガンとは真逆の主張である。

 現代における他の社会問題にも言及したい。少子化の問題も、政治の無策が起こしたと言っても過言ではない。小中学生の自殺者が史上最多になったこと、不登校やひきこもりが激増している問題、教育格差が広がっていること、ヤングケアラーの問題、不適切指導や性加害を繰り返す教師の急増など、これらの教育の問題は個人の責任ではなくて、政治に責任がある。ところが、政治家はこれらの社会的な問題が起きていることを、自分たちの責任だとは思わず、個人的な問題と考えているのである。だから、本気で解決しようとはしていない。

 また、政治家だけでなくて一般市民もパーソナルの問題だと思い、ポリティカルの問題だと認識していないことがある。例えば、学校や職場におけるいじめやパワハラ、家庭における毒親や虐待などの問題である。さらに、性加害行動やセクハラを何度も繰り返す男がいる。このような問題を起こすのは個人の資質の問題であり、社会的な課題とは思っていない人もあろう。しかし、これもまた社会的に問題があるから、いつまでも無くならないのである。このような問題を起こすような低劣な価値観を持つ人間が存在するのは、教育に問題があるからだ。

 それは家庭の教育に問題があると思いがちだが、社会教育と学校教育にも根源的誤謬があるから、家庭教育に影響して起きている問題なのである。学校教育や社会教育において、本格的な思想・哲学や価値観の教育を避けてきた歴史がある。また、学校教育において形而上学を排除してしまった為に、低劣な価値観しか持てない人間に育ててしまったのである。本来は、全体最適や全体幸福の生き方を教えるべき学校教育と社会教育が、個別最適や個別幸福という低劣な価値観しか教えなかったのだ。自分の損得や利害を優先し、人の為世の為に尽くす生き方を教えなかったのである。この教育の間違いこそが、問題を起こす人間を育てた原因である。パーソナルはポリティカルという典型である。

問題社員を見分ける採用面接の質問

 国を代表する大企業やメガバンクなどで、驚くような不祥事が起きている。メガバンクの貸金庫の中の現金や貴金属が、ベテラン行員により窃取されていたというニュースには驚いた。採用時の面接は厳しいし、本来はしてはならない身元調査も、厳格に実施している筈だ。それなのに、こんな犯罪に手を染めてしまう社員・行員を採用してしまうなんて、人を見る眼まで企業の人事部社員は失ってしまっているのか。ましてや、役員だって最終面接には立ち会う筈なのに、見落とすとは何という大失態であろうか。


 民間企業だけではない。行政職員である公務員の不祥事だって後を絶たない。子どもを健全に育てる立場にある教職員が、子どもに対して暴言・暴力を振るうニュースは枚挙に暇がない程だ。陰惨な性加害を起こす教師も数多いし、校長などの管理職でさえ性加害事件を起こす始末だ。昇任・昇格試験の杜撰さが際立つ。司法警察官だけでなく、検事・判事の不祥事が多発するに至っては、採用面接での的確な人物判断をできる採用面接者がもはや存在しないということの結論に至る。人の本質を見抜く眼を持つ人がいなくなったということだ。

 このような事態に陥った要因のひとつが、採用時における人権尊重の扱いである。人権をあまりにも意識するあまり、家族構成・家族の職業・出自・政治信条・信仰などを聞いてはならないと自主制限をしてしまう企業や行政が増えたのである。確かに、そういった人権を侵害してしまうかもしれないグレーゾーンの質問は、すぐにSNSで叩かれてしまうので、控え勝ちになるのも仕方ない。本人の能力や主体性・自発性・自主性・責任感・チャレンジ性についての質問なら問題ないが、性格や人格を問うような質問は避ける傾向にある。

 しかしながら、性格・人格・価値観・哲学・内発的動機度・チャレンジ精神などは、職業人としてはとても大切な要素である。それを明らかにして採用しないと、やがて活躍出来ないようなハズレ職員を採用してしまうリスクがある。ましてや、正義感・倫理観・慈愛・慈悲・博愛の心がない者を採用したら、とんでもない悪事を働く職員になってしまう。どうにかして、採用時の試験や面接において、それらの要素を確認したいのである。そういう採用時のチェックがなおざりにされて来たから、とんでもない悪事を働く職員が増えたのである。

 それでは、具体的にどんな質問をすれば人権に抵触せずに、正しい人物像を明らかに出来るのであろうか。その質問は実に簡単であり、この質問に対する応答を確認すれば、不祥事を起こす職員は排除することが可能だ。それは、このような質問をすればよい。「あなたと親や家族との関係性は良いですか?それともあまり良くないと感じていますか?➀とても良い関係性だ➁ありふれた普通の関係性だ➂あまり良い関係性だと言えない、の三択で答えてもらうことで解る。この三つの選択肢で答えてもらえば、問題になる職員は明確になる。

 まず、➀の親との関係性が極めて良好であると答えた人物なら、身元は間違いない。何故なら、家族の関係性がすこぶる良好であるなら、不祥事を起こすことは絶対にしない。➂の親の関係性が良くないという人物は、絶対に採用してはならない。自分の利益の為に平気で嘘をつくし、犯罪をすることに躊躇しない。➁の普通も同じで、採用してはならない。親や家族の関係性がすこぶる良好で、強い絆で繋がっているならば、不祥事を起こせば家族に迷惑が及ぶこと必定である。家族を大切に思う人は、罪を犯すことは絶対にしないものだ。

 もう一つ、出来得るならこんな設問をすればよい。あなたは何の為に働くのか?働くうえで大切にしている価値観は何であるのか?と質問してみればよい。会社や企業の為に働きたい、お金の為に働くと断言し、出世して地位や名誉を得たいと答えるような輩は、採用してはならない。そういう職員は、お金の為に平気で嘘をつくし、仲間を裏切ることに躊躇しない。お金や地位名誉の為なら、法律だって無視する。世の為人の為に働きたい、仕事を通して社会貢献したいという人材を雇えば、絶対に不祥事は起こさない。ただし、本心からそう言っているのかどうかは見極める観察眼が必要だ。

善きサマリア人の法

 善意からの行為をして、結果として善意の効果をあげることが出来ず、訴えられてしまうということがたまに起きてしまう。大丈夫だよ、心配いらないよ、良くなるからねと不安を払拭して安心させるために言ってあげた言葉が、効果がなかったのはあなたが悪いからだと責められるというケースは少なくない。だから、余計なことをして恨まれるのが恐いからと、あえて善意の手助けをしない人もいる。この善意からの行為をして、その結果がどうなろうとも善意の行為者は罪を問われないというのを『善きサマリア人の法』という。

 この善きサマリア人の法というのは、イエスキリストが語った話が元になっている。ある人が強盗に遭い、倒れているのを通行する人々は誰も助けようとしない。とあるサマリア人が通りかかり、そのサマリア人だけが被害者の救護に当たったという話である。そこから転じて、救護が必要な人に出会い、救護行為をする中で例え悪い結果を招いたとしても、誠実に懸命な努力(善管注意義務を怠らずにした行為)をしたなら、罪には問われないと規定する法律のことを指すようになった。実際に法制化されている国々も存在する。

 残念ながら日本では法制化されていないが、アメリカやカナダなどでは、法律として制定運用されている。民事的な責任も、刑事上での罪にも問われないと規定されている。日本では、民事的な請求が棄却できるという規定があるものの、刑事訴追までの免責は規定されていない。したがって、日本において救命措置が必要な場面に出遭い、医師の類似行為を民間人が行って、救命措置が成功したとしても、医師法違反になり刑事訴追をされることは免れないということである。理不尽だと思うかもしれないが、法治国家とはそういうものだ。

 善意の行為であり、無償の行為でもあるのだから、許されるべきだと考える人が殆どであろう。しかし、実際には医師法違反として厳しく罰せられる。それが法治国家としては、正しいのである。とは言いながら、減刑はされるだろうし、おそらく執行猶予判決になるのは間違いない。だとしても、前科持ちになってしまうし、SNS上で偽善者じゃないのとか謂れのない批判にさらされることもある。見ず知らずの人の為に、そんなリスクを負ってまで善意の行為をするのは、馬鹿らしいと思うのが当然である。

 善きサマリア人の法は制定されるべきだと主張する法律家が少なくないが、そんな法律が出来てしまうと、逆に名誉や賞賛を得ようとして、とんでもない行動をする人が増えかねないと心配する専門家も存在する。今は、何でもかんでもSNSで発信する時代である。SNSでバズることで得られるCM料欲しさに、知識も乏しいのに医師の真似事をするような人が増えてしまうと心配する人も多い。確かに、善意の行為というのは、純粋に人助けだけをする人だけがする訳ではない。名声を得るために偽善的行動をする人だっているのだ。

 善きサマリア人の法を国の法律として制定しようとすると、本来の意義に反しないようにするために、いろいろな制限を加えなければならないようである。しかし、そんな制限を加えるということは、本来の趣旨に反するような気がする。元々、善良なる市民を守るための法律なのに、偽善者や裏心を持つ人がいるという前提を基に法律を制定するというのは、とても悲しい気持ちにさせられる。元々、キリストだってサマリア人を賞賛する意思もあったが、見て見ぬふりをして通り過ぎる人の悪意について述べたかったに違いない。

 目の前で虐めを見ても、それを見て見ぬふりをしているのは、共犯と同じだと主張する人もいる。公共交通機関の中で、強面の屈強な男性がか弱き女性に絡んでいるのを、傍観するのも許せないと糾弾する人もいる。確かに、それは卑怯な行為だと言える。しかし、自分に攻撃が向かうかもしれないという恐怖に打ち勝てる人は、そんなに多いとは思えない。一人で立ち向かうのは空恐ろしい。こういう場面で、救護をしないと社会的に罰せられる、欧州のような社会通念が望まれる。そして、日本でも勇気を振り絞って善きサマリア人の行動をする人がいたら、一緒に行動をしてくれる人が出てくることを期待したい。

※イスキアの郷しらかわで、心身を病んだ方々の救済活動を実施していると、なかなか結果が出ない方から責められることもないとは言えない。長い期間に渡り心身をやられてしまわれた方は、癒されるのに時間がかかる。ましてや、複雑性PTSDのように何度もトラウマを経験して、ポリヴェーガル理論における背側迷走神経の暴走によりフリーズ・シャットダウン化が起きた方は、一筋縄ではその凍り付き状態から抜け出せない。そして、不安感・恐怖感からHSPになって起きた症状なので、安心させるために大丈夫だよ、良くなるよと不安を取り除けるように声掛けをするから、良くなる傾向がみられずあせって、支援者を責めることもある。それでも、くじけずあきらめず善きサマリア人のように粛々と救助にあたっていきたいと思っている。

SNS批判コメントは人殺しと同じ

 兵庫県の元県会議員が、SNS上で攻撃を受け続けたあげく自殺してしまった報道は、社会を震撼させた。自殺した原因が、果たしてSNS上での批判攻撃なのかは定かではない。しかし、多くの報道機関やアナリストたちは、謂れのない批判や否定をされ続け、自身の身の危険や家族の身辺にもで危険が及んだことで、県議を辞職したと推測している。辞職した後も執拗に攻撃され続け、しまいには警察に逮捕されるというありもしないフェイクニュースまで拡散され、もはやこれまでと悲観して自分自身を追い込んだあげくの自死と見ている。

 どうして、嘘の情報まで流し続けて元県議を攻撃をしたのか、実に不思議であるが、自死を遂げた後も嘘の情報を流して名誉までも傷付けたというのは、許せない鬼畜の所業である。そこまで元県議が憎かったのか、それとも徹底して追い落とさないと、やがて自分が攻撃されかねないと怖れたのか解らないが、まさしく人殺しと言われても反論できないであろう。日本人というのは、本来はもっと思いやりや分別があるかと思っていたが、優しさのかけらもない人間が増えてきたのかもしれない。情けないことである。

 SNSの世界は、実に恐ろしい。ロマンス詐欺や投資詐欺が横行しているし、フェイク情報が政治の世界を捻じ曲げることも日常茶飯事に起きている。アメリカの大統領選挙しかり、兵庫県知事選挙もしかり、嘘の情報があたかも真実のように大量拡散してしまい、選挙結果まで変えてしまうという時代なのである。今回の衆議院選挙でも、同じようにSNSやユーチューブのフェイクニュースが駆け回って、選挙結果にかなりの影響を与えていた。日本人も含めて、人間と言うのはSNS上に流れている情報を鵜呑みにしてしまうらしい。

 だからこそ、SNS上に流れた情報の真贋を確認せずに、殆どの人が無条件で信じて拡散してしまうという愚行を犯してしまうのだ。そのような個人の批判的・否定的な情報を最初に掲載した人間は罪深いが、それを無条件に拡散する人間にも大きな責任がある。ましてや、批判的・否定的な嘘の情報によって、該当被害者のメンタルが傷つけられてしまい、立ち直れないようなトラウマや精神疾患を起こしたとすれば、傷害罪にも該当すると言える。勿論、それを拡散した人間もまた同様の罪で訴えられることもあるということだ。

 もし、個人に対する批判的・否定的な情報アップやコメントによって、当該者が自死に追い込まれたとしたら、犯罪として立証されるかどうかは別にして、人殺しとして糾弾されても反論できないだろう。この否定的・批判的情報やコメントの拡散をした人々も道義的には人殺しの誹りを免れない。もしかすると悪質的な情報アップと拡散行動に対しては、犯罪として立証される怖れも十分考えられるし、少なくても損害賠償をされるリスクは非常に高い。社会的に『人殺し』の批判を受ける可能性が高い。その情報が嘘かどうかは関係ない。

 今回の元兵庫県議に対する嘘の情報を流した本人も、立派な人殺しであると思う人も多いことだろう。そして、その情報に対して同意のコメントを載せた人も同じく人殺しだと糾弾されても仕方ないし、無条件に情報拡散した人々も人殺しだと批判されるであろう。もう、こんな悲惨な出来事を二度と起こしてほしくないものである。SNS上のことであり、実名をさらしてないから自分が特定されることがないと安心しているかもしれないが、そんなことはない。SNSやユーチューブのコメントや拡散には、足跡がしっかりと残っている。

 つまり、インターネット上には訪問しただけでもアクセスログが残るし、コメントやシェアーをすればその人のIPアドレスが特定できる。複雑な海外サーバー経由だとしても、ある程度の特定は可能なのである。削除したとしても、足跡は消せない。損害賠償の請求は可能なのだ。フジテレビの元アナウンサーに対するセカンドレイプが盛んであるが、名誉棄損の訴訟を起こされたり、慰謝料や損害賠償を請求されたりすることもあり得るのである。殺人罪での犯罪立証は難しいとしても、名誉棄損罪は立証される。本人を特定して民事訴訟が可能であるし、自分がSNS上で批判される対象者になり得るということだ。人の命に関わることだから、軽々しく批判したり否定したりすることを控えるべきであろう。

被団協代表の受賞渡航時に機内CAの神対応

 被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル賞を受賞したというニュースで湧いた2024年であった。そして、その被団協代表者がノルウェーに赴いて授賞式に臨み、その帰路での飛行機内で起きた出来事にも驚かされた。80~90代の被団協代表者にとって、飛行機での長旅は堪えたに違いない。帰路の飛行機では、エコノミークラスでの長時間の飛行が高齢の代表者にはどれほど過酷であったことだろう。それを見かねた航空会社のCAが、会社の上司と直接交渉して、エコノミークラスからビジネスクラスに変更してあげたのだ。

 この素晴らしい神対応に驚いたのは日本人だけではない。世界の人々がとても素敵なプレゼントだとして称賛したのは言うまでもない。そのCAとは、渡辺さんという日本人で、スカンジナビア航空(SAS)の社員であった。直接交渉で許可を出したのは、なんとSASのCEOだったというから再度驚いた人も多かったに違いない、一介の社員が、社長に直接メールを送って許可を得るなんて考えられないことである。そんなことが他の会社で認められる訳がない。でも、実際にSASはそういう航空会社なのである。他の企業では絶対に不可能だ。

 どうしてSASだけが、そんな神対応が可能だったかと言うと、その企業の過去に遡らなければ説明できない。1981年というから、今から44年前のことである。当時、二年間に渡り巨大赤字経営に陥っていたSASの経営立て直しをするために、若干39歳の若き経営者が大抜擢をされた。当時、スウェーデンの国内航空会社リンネフリュ社の経営をV字回復させたのが、ヤン・カールソンという経営者だった。それで彼の経営手腕が買われて、スカンジナビア航空という、大きな航空会社の経営改革を託されて、見事に経営を立て直すのだ。

 何故に、そのヤン・カールソンの経営改革が、今回のCAによる神対応に繋がったのかというと、徹底的な現場主義によるものだからだ。ヤン・カールソンが著した有名なビジネス書がある。『真実の瞬間』(MOMENT OF TRUTH)という著作は全世界で翻訳されて、大ベストセラーとなった。その真実の瞬間という本は、顧客満足度の優秀な教科書として名を馳せた。何故、真実の瞬間という題名なのかというと、顧客と直接に対応する窓口係や客室乗務員が、わずか15秒間という短い時間に顧客満足度が決定づけられるというのである。

 ヤン・カールソンがSASのCEOに着任して、いろいろな経営戦略を立ててそれを実施した。ひとつは、ビジネス客の優先対応で、当時ビジネスクラスという概念はなかったが、ユーロクラスというビジネス客専門のサービスを開始した。徹底して、発着の時刻厳守とビジネス客の便宜を図った。その差別戦略のお陰で、SASの顧客は爆発的に増えると共に経営改善にも寄与した。ビジネスクラスの始まりであった。また、現場主義も徹底して、顧客と直接対応する社員に裁量権を与えるという、権限移譲を出来得る限り実行したのである。

 通常の顧客サービス対応社員に権限移譲をすると言っても、ある程度の限度がある。限られている裁量権と僅かなコスト支出しか認められていない。ところが、ヤン・カールソンは徹底した権限移譲を実行して、出来得る限りの支出を現場判断で出来るようにしたのである。しかも、中間管理職がそのサービスに反対したら、その上司に直接判断を仰いでも良いとするルールを定めたらしい。天候悪化で遅延した飛行機を待つ客に、自分の裁量でパンと飲み物を無償提供した窓口社員。ホテルにチケットを忘れた客の為に、ホテルに連絡してタクシーで届けさせた受付社員。そんな事例が激増したのだ。

 現場で、顧客満足度を高める対応を自ら進んで出来る社員が、社内に育たない訳がない。また、顧客サービスを実行する為に、自ら決定するにはあまりにも大きな支出を伴う場合は、中間管理職を飛び越してCEOと直接交渉するシステムを作るという社内風土が創られるのは当然である。今回の渡辺CAの判断は、スカンジナビア航空だから可能だったのであり、他の航空会社にはけっして真似のできないサービスだったのだ。そして、そんな社内風土を創り上げたのは、ヤン・カールソンという稀代の素晴らしい名経営者だったのである。

陰謀論にはまった人を救い出す方法

 家族が陰謀論や妄想に取りつかれてしまったので、何とか救いたいのだが、どうすれば良いのかという相談依頼があります。家族は、何とか本人を妄想から目覚めさせたいと、科学的な反論を試みるのだが、どんなに必死になって何度も説得するのに、まったく聞く耳を持たないので無駄になるらしい。陰謀論はフェイクニュースだと、説得しようとすればするほど頑なになってしまい、一切耳を貸さないばかりか騙されているのは家族なのだと、逆に説得されてしまうという。こんなにも頑固ではなかったのに、どうしてなのか不思議らしい。

 陰謀論に固執する理由について、まずは考察したい。陰謀論に嵌まってしまう人は、日常的に不安が強い人である。それも得体の知れない不安に苛まれている傾向がある。また、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)の傾向が強く、神経学的過敏や感覚過敏があり、心理社会学的過敏も強い。不安型愛着スタイルのパーソナリティを持つ。それは、親との良好な愛着が形成されなかったせいもある。陰謀論を妄信してしまう人は、安全と絆を提供する『安全基地』(心理的安全性)が存在しないのである。

 安全基地(安全な居場所)を持たない人は、強烈な生きづらさを抱えている。そして、自尊感情や自己肯定感を持てていない。自己愛性の障害を抱えているが、自覚はない。それ故に、自分は正常な認知機能を持っているし、正しい判断が出来ると思い込んでいる。ところが、満たされない思いを抱えていて、どちらかというと不遇な境遇に置かれていて、愛情に恵まれていない。このような状況に追い込まれているのは、社会が悪いし、闇の勢力が社会を捻じ曲げているからだと、他人のせいだと思い込み自己を正当化するのである。

 自尊感情が低い人は、変なプライドが高い。だから、自分だけは正しいし一般の人は知らない情報を人一倍早く仕入れていると、皆に自慢したいのである。故に、科学的根拠のないとんでもない似非情報に飛びついてしまうのである。そして、人からの批判や否定に対して、極めて強い反撃的態度を取る。さらに、自説を曲げようとはせず、拘りが強い。柔軟性や可塑性が極めて低いパーソナリティを持つ。このような人には、間違いを正そうとしても無理だし、陰謀論をあらゆる根拠を示して否定しても聞く耳をもたなくなるのである。

 こういう人を真実に覚醒させて救う方法はまったくないのかというと、一つだけ方法がある。それは、ナラティブアプローチ療法という心理学的方法である。妄想性障害にも唯一効果のある療法である。陰謀論にはまっている人は、間違った物語(ドミナントストーリー)を信じ切っている。このドミナントストーリーを信じてしまうと、正しい物語(情報)は一切拒否する。だから、まず支援者(治療者)はこのドミナントストーリーに付き合う必要がある。けっして否定せず批判せず共感するだけの態度を取り続けるのである。

 これは言葉では簡単に言えるが、支援者(治療者)にとっては辛いものがある。明らかに誤解していると分かっているのに、その間違いに付き合うのだからストレスがかかる。それでも、陰謀論の主張に批判することなく、ただ寄り添って傾聴して共感するだけの態度を取り続ける。何か月かかるか解らないが、共感して聞くことに徹することが必要である。そうすることで、陰謀に嵌まっている人は自分の理解者がようやく現れたと思い喜び、支援者を心から信頼する。そうすれば、陰謀論者は心を開き、少しは支援者を信用して耳を傾けるようになる。ようやくニュートラルな状態になるのだ。

 陰謀論者は、何度も自説を語り続け、批判や否定をされることなく聞いてもらっているうちに、自分の主張していることが本当に正しいのかと、かすかな疑問を持つようになる。そうしたうえで、少しずつ論理の矛盾点や破綻点を、優しい態度と言葉で支援者は陰謀論者に質問するのである。そして、ようやく陰謀論がフェイクニュースではないのかと思い始める。そして、陰謀論を否定したネット情報を積極的に取り入れるようになる。そして、陰謀論が明らかに論理的破綻を起こしていることに自ら気付くのである。正しい物語のオルタナティブストーリーを確立したのである。支援者が安全基地として機能して、見事に陰謀論から抜け出せるのである。

もはや陰謀論は依存症になった

 陰謀論にはまってしまった親族に非常に困惑してしまっている人々が多数存在する。親とか配偶者とか、実の我が子が陰謀論を信じ切ってしまい、生活にも大きな影響を受けてしまっているというケースが少なくない。そして、一旦陰謀論を信じてしまった人というのは、助言や正しい情報にも聞く耳を持たなくなる。親の言葉にも耳を貸さなくなるのである。陰謀論は唯一の真実であり、一切疑う事をしないし、科学的な根拠を示しても耳を傾けようともしない。もはや陰謀論依存症と言えるような状況である。不安感や恐怖感が強いので、自分が不遇なのは社会のせいで、自分の責任ではないと思ってしまうのだ。

 陰謀論依存症から抜け出すのは、とてつもなく困難である。何故なら、依存症だという自覚がないからである。アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症などその他の依存症ならば病識がある。しかし、陰謀論依存症は自分がフェイクニュースに騙されているという感覚がないので、どんなに嘘なんだと説得されても、自分の認識を変えることはない。陰謀論を信じない人こそが騙されていると思い込んでいるのだから、どうしようもないのだ。特殊詐欺がなくならないのとまったく同じ構図で、騙されている認識が全くないのである。

 NHKスペシャルのドキュメントでも放映されていたが、陰謀論にはまってしまった親族をどうにか現実に引き戻そうとするが、非常に困難である実例が示されていた。冷静に考えると、陰謀論は極めて矛盾している論理であるから、その嘘に誰でも気付く筈なのであるが、まるでカルト宗教のように信じ切ってしまうのである。あたかも、オーム真理教における洗脳のような状況に置かれているのである。洗脳をしたのは、特定の誰かではない。不特定多数のネットにあげられた情報によって洗脳されているのだから、始末に悪い。

 実在の人物によって洗脳されているというのなら、その特定の人物に洗脳を解かせるということも出来よう。しかし、不特定多数の者がこれでもかというくらいに嘘の情報を次から次とあげている。しかも、それを拡散している者が真実だと思い込まされているのだから、なおさらフェイクニュースに引っ掛かりやすいのである。陰謀論はスピ系の人たちがはまりやすいということもあり、スピ系の情報発信をしている人たちも偽情報の拡散をしている。スピ系の人たちは元々科学的検証を信じようとしないから、困るのである。

 陰謀論が科学的、または論理的に破綻しているということを簡潔に証明してみよう。陰謀があるという人の主張は、闇の勢力(闇の政府=ディープステート)が存在していて、自分たちの利権や権益を守る為に、様々な政治や経済面での陰謀を起こして世の中を操作しているというものである。そして、闇の勢力は社会の善良な市民たちを分断させて、権力に歯向かないようにするばかりか、お互いに協力させないようにしていると言っている。しかし、こういう情報を垂れ流すことは、逆に社会の分断や断絶を起こしているのである。

 もし、これらの陰謀が本当にあったとしても、陰謀論者の主張は社会の分断と不信を招いてしまっているのは事実である。もし、陰謀を企む人がいたとすれば、逆に陰謀があるという情報を流されて社会の不信と分断を起こすのは好都合ではなかろうか。権力者や為政者というのは、市民が団結したり統合したりすることが、何よりも避けたいことである。陰謀論を展開してもらうのは、闇の勢力にとってもありがたいことなのである。まんまと彼らの術中にはまってしまっていると言えよう。陰謀の真偽は解らないが、陰謀の片棒を担いでいるのが陰謀論者なのである。

 もうひとつ陰謀論が破綻していることを、量子力学で解き明かしてみよう。量子力学(量子物理学&システム思考)で考察すると、この世(地球を含む宇宙全体)は、構成要素である素粒子(量子)が自己組織化とオートポイエーシスの機能を持ち、全体最適(全体幸福)や予定調和を目指す。すべての物体(生物)は、個別最適や個別幸福を追求すると、自己破綻(自己破滅)を起こしてしまう。地球の歴史においては、個別最適を目指し過ぎると揺り戻しが起きているのである。どうみても、大地震や台風などの自然災害は、人間とって必要だから起きていると考えられていて、けっして陰謀などによるものではない。陰謀論の論理は既に破綻しているのである。

批判的な見方をする人ほど騙される

 世の中では、インターネット上でフェイクニュースや巧妙な詐欺サイトが横行している。リアルの世界においても結婚詐欺や投資詐欺は、より巧妙になっている。最近は、AIを利用した投資詐欺がSNSを舞台にして実行されていて、被害者が激増しているらしい。これだけマスコミやネット上で、詐欺のことが騒がれているのにも関わらず、詐欺被害者が一向に減らずに増えているとはいうのはどういうことであろうか。騙されない為には、いつも批判的に物事を見なくてはならないと言われている。本当にそうだろうか。

 それとは真逆の主張をしている著名な人物がいる。物事を客観的に、そして批判的に見てしまうと、騙されてしまう。物事を主観的に、共感的に眺めると、嘘だということが解り騙されない。このような提言をした人物とは、経営の神様と呼ばれた松下幸之助氏である。彼の元には、儲け話を持って大勢の人たちがやってきたらしい。投資話や新規事業の提案、または新製品の売り込みなど、いかにも多額の利益を生み出しそうな美味しい話を持ち込んだと言う。しかし、松下幸之助氏は一度も騙されなかったというのである。

 一代で松下電器産業という巨大企業を作り上げた松下幸之助氏の元には、多くの人々がいろんな儲け話を持ち込んでは、巧妙に脚色してリスクが少なくリターンが大きいと説明したらしい。その際に、松下幸之助氏は冷たい態度で来客に接したことはなかったらしい。いつも温かく優しい態度で、共感的に傾聴したという。けっして胡散臭い目で来客に接しなかった。そして、先入観を持って話を聞かずに、まっさらな気持ちで、相手の話に耳を傾けたというのである。だから、相手の嘘を見破ることが出来たという。

 相手は自分を騙そうとしているのではないかと、猜疑心を持って話を聞き、客観的に、そして批判的に分析的に相手の話を聞いてしまうと、逆に騙されてしまうのだと松下氏は警鐘を鳴らしている。松下氏は、主観的にそして共感的に相手の話を聞いた。相手の身になって真剣に話を聞いたのである。まるで自分のことのように、相手の気持ちを自分の気持ちに重ね合わせて共感して話を聞くと、辻褄が合わないぞとかどうも変だぞという点が見えてくるという。自分だったらこんな話をするだろうかと考えたという。だから生涯一度も騙されなかったというのである。

 すべてに対して、批判的に見てはならないということを言うつもりはない。時には批判的に客観的に論理的に分析的に見なくてはならないケースもあろう。主観的にも客観的にも、そして批判的にも共感的にもバランスよく見なくはならないということである。あまりにも批判的に見てしまうと、騙されやすいのだということを認識すべきだということを松下幸之助氏は伝えたかったのであろう。これは、日本人の男性、または男性脳を持った女性にとっては難しいことである。何故なら、客観的合理性の学校教育を受けたからである。

 明治維新後に大久保利通を中心にした元勲たちは、欧米の教育制度を真似た近代教育を取り入れた。この近代教育は、論理的思考を子どもたちに教え込み、客観的合理性をあまりにも重視した教育をしたことにより、主観的にものごとを見て共感的に人の心を読むことを一切排除したのである。このことにより、ものごとだけでなく人をも批判的に見るような人間に教育してしまったのである。日本人の多くは、人の話を客観的に批判的にしか聞けなくなり、真実を見抜けなくなってしまったのだ。だから、簡単に詐欺に騙されるようになり、陰謀論にも騙されることになったのである。

 陰謀論に取り込まれたり、オカルト宗教に洗脳されたりするのは、ものごとを批判的に見ずに盲信するからではない。あまりにも批判的に客観的に見るから、騙されるのである。騙そうとする人は、批判的に見ている人ほど騙しやすいことを知っている。特殊詐欺を計画するような人間は、批判的にものごとを見るような人ほど仲間に引き込みやすいことを解っているのである。相手の気持ちになって共感的に話を聞けば、自分のことを騙そうとしているんだなと、必ず気付く筈である。ネットで流行る陰謀論もそうだが、フェイク情報を流している人の気持ちに共感しようとすればするほど、違和感を覚えるに違いないのである。

真実はあきらかにすべきか否か

 真実は明らかにすべきなのか?と問われれば、当然真実は明らかにしなければならないと殆どの人が答えるであろう。すべての国民・市民は真実を知る権利があるし、それを社会に対して明らかにする義務があると考えるのは当然だ。しかし、すべての真実を明らかにしなければならないかというと、それは原則としてという文言を付け加えるべきであろう。ましてや、世の中には真実を語る人とか真実ユーチューバーと呼ばれる人物が存在するが、そこで語られる真実というものは、科学的にも実証されていないから、注意が必要だ。

 真実というと簡単に信じてしまう人が多い。自分でも確認せずに、TVや新聞で報道されたりネットで配信されたりすると、妄信してしまう人が少なくない。特に、ネット上において陰謀論だとして、真実はこうだと配信されると信じてしまう人が多い。その確認されていない『真実』は簡単に拡散されてしまい、益々その『真実』はいかにも本当のことだと思い込まされてしまうのである。米国議会が暴徒に襲われて多くの犠牲者を出してしまった事件も、陰謀論によっていかにも『真実』だと思わされた人々が起こしたのである。

 これは真実だからと言われても、妄信してしまうのは危険である。ましてや、いくら真実だと言われても、深く洞察すればそれが嘘だと解る筈である。嘘なのに真実だと勘違いしてしまい、嘘を拡散したら大変なことになる。もしかすると、その嘘を信じた第三者の人生を台無しにすることだってある。陰謀論を信じてしまう人と言うのは、元々HSPの傾向にある人なので、不安や恐怖感が元々強い人である。トラウマを抱えやすい人なのに、益々その傾向が強くなり、PTSDやパニック障害を起こしやすくなる。不幸になることもある。

 陰謀論などで言われていることが、よしんば真実だとしよう。そのケースならば、人々を覚醒させてあげたのだから、良いことをしたことになると思う人も多いことであろう。陰謀論を拡散している人々は、自分が社会に対してすごく良いことをしているという自負もあろう。ところが、これもまた良し悪しなのである。例え真実であったとしても、人々を恐怖に陥れたり、結果として社会の分断を招いたりするような情報ならば、それは悪影響を与えるに過ぎない。お互いの関係性を損なわせることは、絶対に避けなければならない。

 今、米国ではトランプを信奉する人々と反トランプ派の人々との対立というか断絶が酷いレベルで起こり、強烈な敵対が進んでいる。これもQアノンの情報操作が強く影響していると言われている。陰謀論を妄信している人々が、トランプはその陰謀をたくらむ人々を駆逐してくれると固く信じているらしい。それがあの米国議会乱入事件を起こしたとも言われているのである。そして、さらにお互いの非難合戦はエスカレートして、国民の分断に発展している。同じ国民どうしが、暴力を用いてまで反発するというのは異常である。

 この世の中は、ひとつのシステムによって成立しているし、システムが世の中を予定調和や全体最適に導いている。これは、宇宙全体もそうであるし、ひとつひとつのコミュニティも同じだ。家族という共同体も、市町村や法人というコミュニティだって例外はない。これらのシステムの中のそれぞれの構成要素が、自己組織化という機能やオートポイエーシス(自己産生)という正常な働きを発揮するには、良好な『関係性』が根底にあらねばならない。この関係性が破綻すると、全体最適や全体幸福は実現せず、コミュニティは崩壊してしまうのである。システムである企業の破綻や家族崩壊も、すべては関係性の悪化によって起きるのだ。

 国家もひとつのシステムである。その構成要素である一人一人の国民どうしの関係性が悪化すると、内乱とか内戦が起きるのだ。地球もひとつのシステムであり、国どうしの関係性悪化により戦争が起きる。だからこそ、真実の情報だったとしても、国民の断絶や国どうしの関係性悪化を惹起するような情報を拡散することには、慎重であらねばならないのだ。陰謀論は、国民の分断を誘発させるリスクを持つ。だからこそ、陰謀論の拡散には慎重な態度が必要だし、真実かどうかの徹底的検証も必要なのである。真実だと思い込むのも危険である。真実を明らかにすることが、正義ではないケースがあるとも言えよう。

※イスキアの郷しらかわでは、心身を病んだ方々を個別サポートしていました。心身を病んだ方々に本当の疾患名と真実の原因を伝えてしまうと、家族の関係性を損なってしまい、症状の悪化を招いてしまうので、あえて真実を明らかにしない選択をすべきだということも学びました。そうした方が、クライアントが幸福になるし治癒するからです。本当だからと、疾患名や原因を安易に告げるべきではないのです。妄想性の障害の方に、それは妄想だと告げると益々頑なになり心を閉ざすので、敢えてその妄想に付き合うことも必要なのです。

裏金の金権政治を招いた張本人

 派閥の政治資金パーティを開催して、パーティ券売り上げの一部を議員にキックバックして裏金にしていたという、前近代的な金権政治の権化のような事件が発覚した。自民党安倍派の議員を中心に実施していたと伝えられるが、どうしてこんなにも破廉恥な行為をしていたのか、不思議に思う人も多いことであろう。誰がどのようにしてこんな金集めと裏金の捻出を企てたのか、いずれ検察によって明らかにされると思われる。国民は何故こんなにも裏金が必要とされるのか知りたいであろうし、そうさせた張本人も知りたいに違いない。

 様々な関係者の証言や政治アナリストの分析、そして政治記者の取材によって裏金の使い道が判明してきた。政治家のすべてが裏金を必要としている訳ではないが、その裏金の殆どが選挙の為に使われるらしい。その選挙というのは国政選挙のことであり、票集めの資金に使われるという。国会議員の選挙区には、選挙で選ばれた県会議員がいるので、その県会議員に票集めを依頼するらしい。保守系の議員は、押しなべて票集めの資金を必要としているという。地方議員の選挙資金にも必要なので、国会議員の裏金に頼るのではなかろうか。

 国会議員は公設秘書2名を雇う費用を税金によって賄える。しかし、国会議員の中にはそれだけでは選挙区の選挙対策を全う出来ないので、保守系の議員は公設秘書以外に4名~6名の私設秘書を雇わなければならないという。そして、その私設秘書を雇う資金は、国会議員が負担しなければならないので、裏金を必要とするのではないかと見られている。それにしても、私設秘書の選挙対策というのはどういうことであろうか。そのために、こんなにも多くの人数の私設秘書を必要とするのは何故であろうか。

 政治評論家や政治記者の情報によると、広い選挙区を持つ地方の国会議員は選挙区の有力者の住居や会社をこまめに個別訪問することが求められるという。ところが議員一人では回り切れないので、私設秘書がその役目を代わって行うらしい。また、選挙区における道路や公共交通施設の充実をしてほしいとの陳情を受けるのも私設秘書の役目だという。公共施設の新築や改築の陳情も受けるという。新規工場誘致や巨大レジャー施設の誘致の陳情を受けるのも私設秘書の貴重な役目だ。優秀な私設秘書を持てば、選挙に有利になるのだ。

 国会議員に対する陳情は、これだけではないという。有力者の子息の就職斡旋や行政職受験の際の口利きまで依頼されるらしい。それは今の時代は非常に難しいと思われるが、正職員の採用までは難しいものの臨時職員や関係機関の職員採用には有効だと、密かに囁かれている。地方の小さな町村役場の臨時職員からいつの間にか正職員になったケースもあると聞く。国会議員は、地方の町村首長や議員に大きな影響力を持つのである。その為に、彼らの選挙時には『陣中見舞い』と称して多額の裏金が使われるのは、言わずもがなであろう。

 裏金は国会議員どうしの間でも飛び交うと言われている。自民党の党首選挙は、首相を選ぶ選挙でもある。多数派工作は、足の付かない現金が使用されるのは当然だ。自分が所属する派閥の領袖が党首選挙に立候補したなら、派閥所属議員は他派議員への多数派工作に真剣に取り組むことになろう。超高級料亭に招待して、現金を渡して投票を依頼する構図は誰でも想像できる。大臣や副大臣になれたのも、裏金のお陰とも言える。保守系の政治評論家や政治記者も高級料亭や銀座の一流クラブに国会議員から招かれて、議員に有利な評論や記事を依頼されると言われている。これも裏金の一部だ。

 このように裏金の用途を見てきたが、国民や社会の為には一切使われることはないのである。日本の首相や大臣、国会議員は裏金の恩恵で選ばれていると言っても過言ではない。こんな金権政治のシステムを作り上げた責任は国民にあると言えよう。裏金による金権政治を招いた張本人は、我々国民なのである。自分の利益誘導の為に国会議員や地方議員を利用する企業役員や国民がいる限り、裏金を生み出すシステムがなくなることはないのだ。こんな私利私欲に塗れた議員たちを選んだのは我々国民である。国民が私利私欲に走るから、私利私欲の議員が選ばれるのだ。我々国民自身が公利公益を追求する姿勢に変わらない限り、私利私欲の金権政治がなくならないのだ。