偽善者だと言われても

 ボランティア活動や市民活動をしていると、どうせ売名行為だろうとか、自己満足でしかないとか、はたまた偽善者じゃないのと言われることが少なくない。または、自分でも自己満足や偽善行為ではないかと悩むこともあるに違いない。ボランティア活動に対して、そんなことをするのは、偽善者だと切り捨てられてしまうからである。ボランティア活動や社会貢献活動に真面目に取り組んでいる人ほど、自分の活動は偽善ではないかという考えが頭から離れないのである。ボランティア活動をしている人は偽善者なのであろうか。

 ボランティア活動というのは、人の為世の為に我が身を犠牲にしても働くことだと思われている。この人の為という漢字は、合わせると『偽』(いつわり)となる。本当の心は自己中心的で汚いのにも関わらず、自分と他人を偽り、善人を演じているだけだと主張する人は少なくない。特に、ボランティア活動なんて経験してなく、社会貢献活動に批判的な人ほど、偽善者だと思いたがる。だから社会貢献活動をしない自分は、自分に正直だけなのだと思いたがる。そして、自分はそんな偽善者にはなりたくないのだと主張する。

 ボランティア活動や社会貢献活動に対して、そんなのは偽善だろうと批判している人は、社会貢献活動を経験していないのである。実際に体験していないのにも関わらず、偽善者として批判するのはどうかと思う。自分でも社会貢献活動やボランティア活動をしてみてほしいものである。それも1回や2回ではなく、少なくても数年に渡ってボランティア活動してみてはどうか。そうすれば、偽善かどうかが判明するに違いない。ボランティア活動に一切かかわりもせず、外側から眺めていただけでは、偽善かどうかの判別なんてつく筈がない。

 厄介なのは、ボランティア活動に懸命に取り組んでいる人が、自分の活動が所詮は偽善なのではないか、自己満足に過ぎないのではないかと落ち込んでしまい、ボランティア活動を止めてしまう人のことである。実は、若い頃からボランティア活動に勤しんできた自分も、一度そんな気持ちになり、ボランティア活動が出来なくなった時がある。偽善者である自分が恥ずかしくて、そして自分自身が許せなくて、ボランティア活動に取り組めなくなった。そんな経験をするボランティア活動家が少なくないのである。

 自分が偽善者ではないかと思い悩んでいる人には、こんな話をしてあげることにしている。善と悪はどちらが良いか?と問うと、もちろん善だと答える。偽善と偽悪は、どちらが良いかと質問すると、迷う人がいるかもしれない。それでは偽善と悪は、どちらが良いかと尋ねると悪よりは偽善のほうがましだと答えることだろう。それが答である。気持ちは偽善であろうとなかろうと、善を実践することに違いはない。人の為世の為に何かしら貢献しているということは否定できない。そして、偽善を何度も積み重ねれば、いつかは限りなく善に近づくのである。

 偽善を数年に渡り、または数十年も続けて行けば、これは既に偽善ではなくなるに違いない。行動をせずに批判するよりも、例え偽善の心を持っていても、善の行動をするほうが遥に尊いと言える。『善』というのはそういうものではなかろうか。最初から見返りを一切求めないで、純粋な心でボランティア活動をするなんて出来そうもない。人間は、やはり認めてもらいたいし誉めてもらいたいのである。そんな不純な思いが少しでもあれば『偽善者』と軽蔑するというのは、あまりにも冷たい仕打ちじゃないかと思う。

 かの弘法大師空海は、中国に渡って『理趣経』というお経を初めて日本に持ち帰った。この理趣経では、本来仏教では否定される愛欲さえも肯定している。たとえ愛欲がモチベーションとなる偽善的な行為であっても、人々の幸福実現の為に貢献しようとするエネルギーになるならば、愛欲もまた否定されないという教えである。例えば魅力的な異性からボランティアに誘われて、親しくなれるかと思い込んでボランティアに取り組んだとする。数年間ボランティアを経験したら、ボランティアが好きになり、愛欲をすっかり忘れて、ボランティアに没頭するようになった。これも偽善から善に変わったケースと言える。偽善でも良いだろう。偽善をおおいに楽しもうではないか。

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