スタンドバイミーと言ってごらん!

スタンドバイミーというと、青春映画の傑作を思い出す人も多いし、あの哀愁が漂う旋律の主題歌を思い浮かべる人も多いことだろう。でも、このスタンドバイミーという言葉そのものの意味を深く認識している人は少ないのではなかろうか。直訳すれば「私の側にいて」という意味なのだが、それ以外に「私に寄り添って、支えて頂戴、私を支援して」という意味でもある。もっと深読みすれば、「私を好きでいてほしい、愛してほしい」ということを言っているようにも思う。単なる恋愛感情ではなくて、人間として愛してほしいと意味であろう。

 

 このスタンドバイミーともっとも言いたい相手は、おそらく母親ではないだろうか。映画の中では、少年たちどうしが大きく成長したとしても、スタンドバイミーと言いたいというふうに描かれていた。でも、誰でもそしていくつになったとしても、スタンドバイミーと言いたいのはお母さんのような気がする。太平洋戦争で特攻隊の隊員が敵艦めがけて突っ込み自爆する時に、最後に「お母さん」と言ったと伝えられる。それだけ、お母さんと言うのは特別なのではなかろうか。誰でも母親のことが大好きであり、かけがえのない存在なのだ。

 

 母親のことが大嫌いだという子どもや若者がいる。それは、本当に母親のことが嫌いなのではなくて、自分の理想とする優しくて思いやりのある母親像とあまりにも現実が違っているからそう思うのであろう。『嫌い』であり『憎い』という感情の裏側には、あまりにも大きな『愛』が存在する。愛憎と言うように、愛が満たされないからその裏返しとして憎しみという感情が起きるのであろう。心の奥底では、誰しも母親のことが大好きで愛しているのだ。どんなに酷い仕打ちをする母親でも、子どもはお母さんが大好きなのだ。

 

 そんなにも大好きな母親なのに、子どもをどのように愛していいのか解らない母親がいるのだ。子どもとどのように接していいのか解らないし、自分の思い通りにならない子どもの行動にイライラする母親もいる。本来母親は、我が子をまるごとあるがままに愛することで、子どもの健やかな成長を後押しするのだが、干渉や介入をし過ぎて子どもの自己組織化を阻害するケースも少なくない。このように自己組織化が出来ずに育った子どもは、正常な自我の芽生えも出来ず、自尊心や自己肯定感が育まれず、強烈な生きづらさを抱えて生きる。

 

 強烈な生きづらさを抱えて生きる子どもは、いじめや不適切指導を受けたり挫折を経験したりしてしまうと、そのことがきっかけで不登校やひきこもりになってしまうことが多い。いずれにしても、母親からまるごとありのままに愛されず育った子どもは、甘えることが下手である。母親も甘えさせることが下手なのだから当然である。甘えさせることが苦手な母親と言うのは、自分が子どもの時に甘えられなかったである。そういう意味で、甘えたくても甘えられなかった子どもなのだ。スタンドバイミーと言えない子どもである。

 

 スタンドバイミーと素直に言えなくて成長してしまい、少年から青年になってしまうと、益々甘え下手になってしまう。社会的ひきこもりをしている若者たちは、強烈な生きづらさを抱えている。そして、誰かに心から甘えたり頼ったりすることが出来なくなる。不安定な愛着、傷ついた愛着を抱えているからだ。愛着障害と言っても過言ではない。こういう若者はHSPでもあり、あまりも感受性が強いから、いつも人の目を気にするし、周りの人の思惑が気になって仕方ない。自尊感情が低いからこそ、こんなことを言ったら嫌われるのじゃないかと気になって、素直にスタンドバイミーと叫べないのだ。

 

 甘え下手で素直に支援を求めることが苦手な人が、自然体で甘えさせてくれる存在と出会えて、あるがままにまるごと受容してくれて支えてくれたとしたら、傷ついて不安定な愛着を癒すことができるに違いない。そのように人は、なかなかいないかもしれない。何故なら、そういう人は安定した愛着を持ち、共感的メンタライジング能力と認知的メンタライジング能力をバランス良く持ち得なければならないからだ。このようにメンター的な素養を持つ人は非常に少ない。しかし、まったく存在しない訳ではない。素直な気持ちにさせてくれて「スタンドバイミーと言ってごらん」と優しく囁いてくれる人を探し出してみてほしい。もしかすると、あなたのすぐ側にいるかもしれない。

                   ”悩み苦しんでいらっしゃるクライアントに捧ぐ”

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