現在の政界において、官邸が必要以上に党内統制を強めている。以前の自民党議員は、こんな党内統制に甘んじることはなかった。自らの矜持を持つ議員たちは、自分たちの持論を堂々と述べていたし、納得の行かない議案や法案の採決に反対しなかったものの、採決に加わらないという筋を通した行動をしたものである。現在は、そんなことをした議員は次回の選挙で党公認を外されるだけでなく、当該選挙区に刺客を送り込まれる。独裁政治ではないと新聞に投稿した高校生がいたが、これを独裁と言わないでなんと言うのか。
こういう状況は、世界共通の傾向らしい。米国や欧州でも、強硬姿勢の政治家が実権を持ったとたんに民意を無視した強権政治を実行している。中国や北朝鮮だって同じだ。政治の世界だけでなく経済や福祉の世界でも起きている。自分の絶対的権力を失うことが怖ろしくて、対抗勢力を徹底して貶める。自由闊達な討論を制限する。報道統制も徹底して行う。強大な権力を一度握ったら、その権力に執着するのは人間の性であろう。自分の立場や利権を守ろうとして、力での統制を強めるのは世の常であるらしい。
例えば民間企業において、カリスマ的な経営者がいて絶対的権力を握ったとしよう。最初は企業繁栄の為にと全力を傾注して結果を残す。ところが、やがて私利私欲のために公私混同を始める。しかし、あまりにも強大な権力を持つが故に、他の役員や管理者たちは黙認せざるを得ない。そして、言論統制を強いて社内での自由な発言を封じ込めるだけでなく、役員会でも反対意見を出せないような環境にしてしまうことがある。統制を強めることで、自分の地位を守ろうとするのである。言わば独裁である。
ヒットラーは恐怖を用いて内部統制を行った。自分に従わない者を徹底して粛清し、忠誠を誓う者だけを重用した。現代においては、あんな乱暴な手法は使えない。どんな手法で統制を行なうのかというと、人事権を独占することや言論の自由を制限することで実施する。首相官邸が一元的に官僚幹部の人事権を握っているのは、まさしく官邸による官僚への統制である。そして、官僚に対して人事権を盾にして徹底した言論統制まで行っている。こういうのは、『忖度』とは言わない。絶対的な強権による統制である。
太平洋戦争開戦に至る時代、軍部が対抗政治勢力をクーデターや軍事的圧力で独裁政治権力を握った。そして、報道管制を敷いて真実を国民に知らせず、自分たちの権力を守ろうとした。さらに、言論の自由を徹底して制限して、権力に対する批判をさせないようにしたのである。その結果、悲惨な戦争によって多くの国民の生命を奪ってしまった。あの時に、言論の自由が守られていれば、あんな悲惨な戦争を起こさなかったかもしれない。その反省を踏まえて、日本国憲法では基本的人権の中で、言論の自由を何よりも優先したのである。世界の先進国でも同様に言論の自由を最優先する憲法を制定している。
ところが、その言論の自由が日本では制限されつつあるのだ。NHKも含めた各放送局の経営幹部は、官邸に配慮した報道をしている。放送法を盾にして、いろいろな嫌がらせを官邸が実施するぞと、陰に陽に脅しているからである。各放送局は、放送法を後ろ盾にされて、電波を割り当てないぞと脅されたら従わざるを得ない。あの太平洋戦争での苦い経験を忘れているとしか思えない。国民を真実から目をそらさせてしまうと、独裁政治になってしまい、平和が脅かされて、国民は悲惨な目に遭ってしまう。統制が強すぎる組織は、内部崩壊を起こすのである。
言論統制を強めている他の国家も同じ運命を辿っている。トランプ大統領は、徹底した報道統制をしている。米国は危険な道を歩み始めていると言えよう。日産自動車がゴーン一強体制で統制を強め過ぎた結果、あんな出鱈目な経営をさせてしまい、結果として酷い低迷を招いたのは記憶に新しい。組織というのは、権力者が強いリーダーシップを発揮しないと運営が滞る。しかし、権力者が自分の権力を守るために言論統制を強め過ぎると内部崩壊を起こす。過去の歴史がそれを証明している。組織というのは、その発展と繁栄をするにためにこそ言論の自由を認めて、闊達な討論や対話をしなくてはならない。