ボランティアなんて呼ばないで

2020年東京オリンピックにおけるボランティア募集が始まった。TVの情報番組において、募集のやり方に対して批判的なコメントが多く寄せられている。ボランティアは無償が基本であるものの、地方から応募した人は宿泊所の確保と宿泊費の負担が自分でしなければならないのが、あまりにも厳しいという批判が多い。また、交通費が1000円までしか負担しないというのは、遠距離から通う人にとっては厳しいと意見がある。これではボランティアが確保できないだろうと思っている人が多い。

また、真夏の暑い時期にこんなにも多くの時間を拘束されるのだから、無償ではなくて有償にすべきだという意見も少なくない。さらには、ボランティアではなくて正式に雇用契約したスタッフを配置するべきだとの意見を述べるコメンテーターもいる。ボランティアを募集している意味や目的をまったく考えず、不見識な批判を繰り返すコメンテーターも酷いが、ボランティアの原則を無視して募集するオリンピック組織委員会も情けない。

最近のオリンピックにおいては、ボランティアスタッフが果たす役割が大きい。ボランティアの活躍によって大成功を収めたオリンピックが少なくない。一方でボランティアの募集をしても集まらず、苦しい運営を強いられたリオデジャネイロオリンピックのようなケースもある。ロンドンオリンピックでは、7万人のボランティアが集まり、友達の家に寝泊まりしながらボランティアを楽しんで、仲間との交流やネットワークが広がり、自己成長や自己実現が出来たと満足したボランティアが多かったと聞く。

東京オリンピックのボランティアが、ロンドンオリンピックのようなボランティアの理想に近いようなものになるのかどうかは分からない。しかし、東京都やオリンピック組織委員会が実施しているボランティア募集のやり方を見ていると、どうもそうではないような気がしてならない。どちらかというと、東京オリンピックのボランティアは、単なる人手不足を補う『無料スタッフ』という色彩が濃いのではないかと思える。開催コストをなるべく抑えるために、無料の開催支援員を集めているだけのように感じるのである。

東京都や組織委員会の人たちは、そもそもボランティアというものをどのように考えているのであろうか。ボランティアについての正しい認識を持っているのだろうかと危惧している。今まで20年以上もボランティアを続けている自分から見ると、東京オリンピックのボランティアは、ボランティアとして定義するには強引過ぎる。正しく清らかなボランティアを続けてきた人たちにしたら、ボランティアと呼ばないでほしいものである。

ボランティアとして定義するには、4大原則に合致しなければならない。一つ目は自発性・自主性・主体性である。二つ目は無償性であり、三つ目は連帯性・社会性である。そして、最後の一番大事な原則は、先駆性・社会改革性である。連帯性・社会性とは、その活動によって、社会のネットワーク・絆・関係性が深まり豊かになるということである。先駆性・社会改革性というのは、その活動によって社会がより良く変革するということである。

その4大原則に当てはめると、少し問題はあるにしても無償性は担保されていると言えよう。自発性・自主性・主体性という点については、かなり問題がありそうだ。最初から支援する内容ががっちり決められる。ましてや希望通りの支援内容を出来る訳でもなく、自由裁量にも制限がありそうだ。そうすると、都や組織委員会によって指示命令されて、やらされているという感覚になりそうである。それでは、ボランティアをする喜びや生きがいを感じることは少なそうである。これでは、自らの自己成長に繋がらない。

また、連帯性・社会性という面での仕組みが疑問である。ボランティアは仲間づくりや絆造りをして、お互いが支え合う社会を作るために実施するという観点が必要である。今回のオリンピックボランティアは、単なる業務遂行の代理者という性格が強いから、連帯性・社会性はかなり低いとみなされる。また、社会変革性・先駆性という点では、まったく評価されない。ボランティアとは社会の問題や課題を解決する手段であるのにも関わらず、そんな視点は皆無に近い。ボランティアなんて呼ばないでほしいと思っている人々は、非常に多いに違いない。都と組織委員会の見識が疑われる。

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