暴力による指導をなくせ!

元横綱日馬富士の傷害事件が世間を賑わせている。生意気な態度を改める為に指導の一環として、やむを得ずしてしまったと弁解しているようだが、それは完全な間違いである。また、その暴行事件の場に居て止めなかった他の横綱たちにも責任があるのは明らかである。そもそも、人を教育指導する際には、どんな理由があったとしても暴力はいけない。あるミュージャンが、指導している中学生に暴力を奮った事件もあったが、やはりどれだけ止むを得ない事情があったとしても、暴力で人を指導するのは間違いである。

中高生を暴言や暴力によって指導教育したという事件が後を絶たない。悲惨な指導死も起きている。これだけ騒がれていても、相変わらず中学校や高校の部活においては、体罰による指導が横行している。それも名門と呼ばれるような中高校で、体罰的な指導が行われているケースが少なくない。体罰というのは、完全なる暴力である。どんな事情があったとしても、言葉の暴力や身体的な暴力はしてはならない。理由を問わず、これは法律違反の行為なのである。人を指導する立場にある教師が法律違反行為を生徒たちの目の前で実行するのは、異常な行為であるということを先ず持って認識するべきである。

さらに言えるのは、暴力で指導された生徒たちは目立った成長はしないということである。暴力で支配されコントロールされた人間は、指示されたことは出来るが、自分で創意工夫したり自発的に動いたりすることが出来なくなるのである。だから、ここぞという時に力が発揮できない。人は、暴力によって身体は支配されても『心』は支配されることを拒む。従っているように見せて、暴力で指導する人間を嫌い尊敬せず、しかも内心では軽蔑している。だから、大切な試合でしかもいざという刹那にミスをしてしまうし、身体が無意識で動かなくなってしまうのである。

人間は本来、全き自由に生きるものである。誰からも支配されず制御されず、自らの意思で行動する。それも自発的に、自主的に主体性を持って生きるのだ。それこそ、これが人間の自己組織性という、人間に賦与された機能なのである。それを暴力が伴う指導によって、人間から自主性や主体性を失わせるという行為は、創造主である神を冒涜しているようなものと言えよう。人を指導したり教育したりする際に、恐怖によって従属させるのは百害あって一利なしなのである。人間の主体性や自発性を伸ばす指導をすべきであり、暴力による指導は逆効果だと言えよう。

それじゃ、暴言や暴力を使わないで人を指導教育するにはどうしたらいいかというと、カウンセリングマインドを発揮する方法が有効あろう。最近は、コーチングと呼んでいる専門家もいる。つまり、指導される側の気持ちをまず理解することである。それも、表層の意識ではなく、深層の意識を理解しなくてはならない。その為には、指導される側の心に寄り添い、その人間の気持ちになり切ることが必要である。さらには、深層無意識のレベルでつながることも必要であろう。つまり、集合無意識でお互いの意識が統合されることが大切である。端的に言えば、傾聴と共感による無意識の統合ということであろう。

しかも、大切なのはお互いの絶対的な信頼関係がなければならないということであるし、関係性があって初めて指導が成り立ち効果を上げられる。そのうえで、指導者が適切な質問をすることで指導される人が自分の間違いに気付いて、自ら変化し進化しようと思うのである。それは、単なる教育ではなくて、共育ちという関係になるのである。教育ではなくて、まさに共育と言うべきであろう。暴力や暴言によって身に付いた技術・能力なんて、薄っぺらですぐに剥がれ落ちてしまうものでしかない。暴力による指導は絶対にしてはならないのである。この世の中から、暴力と暴言による指導が一掃されることを強く望んでいる。

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