本能と理性について

本能と理性というのは本来相容れないものであり、対立的なものとして捉えられている。本能に支配されてしまうと理性を失ってしまうし、理性が正常に働いている場合は本能をある程度抑えることが出来ると考えられている。理性が勝ち過ぎると、実に詰まらない人間に見られたり、精気が感じられなくなったりもする。ましてや、根源的な本能である食欲や性欲がまったくなくなったとしたら、生命の維持や種の保存さえも危うくなるだろう。一方本能が暴走すると、反社会的な行動をしがちになり身勝手な人間だと思われてしまい、社会生活が成り立たなくなる。そこで、多くの人々は本能と理性をバランス良く取りながら生きるべきだと考える。確かに、理性が勝ちすぎてもいけないし、本能に弄ばれるのも良くない。ある程度の折り合いが必要なことは言うまでもない。

暴走しやすい本能を法律や宗教などによって、コントロールしてきた歴史がある。それでも、時折世間では欲望が暴走したかのような事件が頻発する。芸能人の覚せい剤事件などは、まさに欲望という本能が暴走してしまった一例であろう。覚せい剤は脳に通常放出される何十倍何百倍の快楽ホルモンと同じ効果を産み出すのだから溜まったものではない。シャブのとりこになってしまったら、なかなか抜け出せない。身を滅ぼすしかない。こういう場合、理性は完全に本能に飲み込まれてしまうのである。最近は、パチンコなどのギャンブル依存症にはまってしまって、個人破産に追い込まれている人間も多いらしい。これも、理性を本能が凌駕してしまっている例であろう。

それでは、人間という動物は基本的に本能を理性によって押さえ込むことは難しいし、理性と本能をバランスよく生きることが困難なのであろうか。倫理観や道徳観念を子どものうちから厳しく指導教育したとしても、理性は本能によって駆逐されてしまうのであろうか。実に情けない話ではなかろうか。世界における様々な宗教の殆どが、やはりこれらの欲望である本能を抑えるべきだということを説いている。一部の新興宗教に例外はあるものの、おしなべて欲望である本能を押さえ込むことの大切さを力説している。身を滅ぼすことになるからであろう。仏教も「足るを知る」という言葉で欲望を抑えることを説いているし、苦の源が煩悩により生まれて来るものだとも言っている。四苦八苦の中には、求不得苦や五蘊盛苦という苦しみがあるのだと説いている。

ところが、仏教の経典の中で唯一欲望さえも、ある意味では肯定しているものがある。「理趣経」と呼ばれる経典である。この経典は非常に誤解を受けやすいので、厳しい修行によって悟りを開いた人でないと、読んではならないという制限があり、唐から持ち帰った弘法大師空海は、門外不出としたらしい。本来は生きるうえでは制限されるべき愛欲という煩悩さえも、清浄なる菩薩の境地のひとつであるから、あるがままで良いと説いている。言い換えると、人々の幸福を願いその実現の為に愛欲というエネルギーを有効に働からせるのであれば、それを肯定することもあろうとする考え方である。つまり、本能と理性が統合された生き方こそが、求められるのだと言っているようだ。

 

理趣経は、誤解を生みやすい。何故なら、煩悩を肯定するという自分に都合のよい部分だけをことさらに強調して、自分の貪欲さを肯定してしまったら、苦を招くからだ。ただ単に煩悩を肯定するのではなく、あくまでも衆生救済のエネルギーとして活用するという点が重要なのであろう。こんなケースが考えられる。公益活動をしている素敵な女性がいたとする。その魅力的な女性から誘われて、公益活動に取り組むようになった。そのうちに、公益活動が楽しくなり本来の理念に目覚めて、その公益活動をさらに発展させる原動力になり大活躍したというような例がある。最初の動機は愛欲からのものであり不純ながら、結果として社会にたいしておおいに貢献したのであるから、愛欲も必要だったのである。

 

このように、人の為世の為に貢献する為に、本能というエネルギーを上手に活用していくのであれば、本能が暴走することもあるまい。本能を社会全体の最適化(幸福実現)の為に活用することで、本能と理性を統合させることになるように思う。本能と理性というのは、本来対立するものであるが、理趣経が説くように、本能を自分の欲望を満たすためだけでなく衆生救済の為に使うのであれば、意味のあることである。煩悩という不純なものを、そのような活用をして清浄なる菩薩の境地に高めることが求められているように思う。本能と理性をこのように統合させてバランスを取りながら生きていけば、人間としての道を誤ることもないであろう。

 

 

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