分離思考から統合思考へ

最新の物理学は、まさに神の領域に踏み入ろうとしている。なんてことを言い始めると、こいつおかしくなったんじゃないかと言われそうである。しかし、実際に物理学者、特に量子力学や複雑系科学分野における科学者は、こぞって宇宙全体をひとつの生命体、または集合意識として捉えざるを得なくなっていると説いている。つまり、宇宙全体をひとつの統合体として見て、それは一定方向に向かうシステムであると見るしかなくなっているというのである。しかも、その宇宙というシステムは全体を常に最適化してしようと、それぞれが一切無駄のない働きをしているというから驚きだ。

宇宙の構成要素を個別にみているときには、まったくそんなことに気付く科学者はいなかったのだが、全体として見たときに、どうもおかしいと気付き始めたらしい。そんな筈はありえないと、盛んにその否定する根拠を探そうとやっきになったのであるが、調べれば調べるほど、宇宙がひとつのシステムとして出来ているとしか思えなくなったということである。そして、形而上学と形而下学を統合してそのことを説明しよう、または証明しようとする科学者が増えてきたというのだ。つまり、哲学と科学の統合とも言える方法によってである。または、宗教と科学が統合されつつあるとも言い換えられる。

今までの科学は、様々なこの世の中に起きる現象を、すべて分離思考で分析する手法が一般的であった。それぞれ個別の対象を、客観的に分析評価をして、何故そういう現象が起きるのかの原因を探り、その対策を考えるというのが主流だったのである。つまり分離思考または要素還元主義とも言えよう。人間をひとつの固体と見て、その人間の性格・人格・認知傾向・行動心理を分析して、そのような行動を取るのは何故かという、評価分析を客観的に行っていたのである。しかし、この分析手法では、地球全体や宇宙全体の流れを理解出来ないのである。さらには、この地球で起きている様々な問題を、分離思考では解決することが出来ないということが解ってきたのである。

つまり、宇宙全体の流れを統合思考で考えると、実にすんなりとおさまりがつくということが判明したのである。宇宙の構成要素のひとつである人間は、どうやら宇宙のひとつのシステムの中で生かされていると考えたほうが、科学的合理性に合致しているということが証明されてきたのである。言い換えれば、人間それぞれが分離しているように見えるが、実は無意識の世界ですべてが統合されていて、そのシステムの中で様々な人間の行動がなされているということが明らかになってきたのである。このことはなかなか理解しにくいし、この場ですべてを記すのは難しいので割愛するが、これが科学的に証明されるということに驚くばかりである。

ということは、こういう結論も導き出されることにもなるのである。つまり、宇宙全体が何らかの意思によって動かされているひとつのシステムだとすれば、そのシステムに逆らって分離思考で生きている人間は、この宇宙からはじかれてしまうということになる。はじかれるということは、人間本来の生き方が出来ず、誰からも愛されず不幸な目に遭うということであり、この世界に存在できなくなるということである。逆に統合思考で生きている人間は、このシステムに則っているのだから、人間本来の心豊かな生き方が出来るし、皆から愛されて幸せな人生を歩むということである。

私たちは近代教育によって、この分離思考を学ばされてしまい、個としての存在を重視する生き方をするようになってしまった。すべてを分離思考で考えるクセがついて、いつも他人のような冷ややかな目で相手を見て、相手の悪い部分をとりあげて分析・批判を繰り返すばかりである。つまり関係性を深めるどころか、無意識的に相手との関係分断を図っているとも言えよう。ところが、その近代教育の間違いに気付き、統合思考で物事を考え、関係性を深めることが大切なのだと主張する人々が出てきたのである。つまり、思想・哲学をしっかりと学んで、高い価値観を持って生きることが人間本来の生き方だとする考え方である。私たちは、そのことをしっかりと認識し、分離思考から統合思考へのパラダイムシフトを自ら行うと共に、社会全体にこの考え方を浸透させていく責務を負っていると言えよう。

いじめがなくならない訳

じめによる自殺が止まらない。いじめ自殺問題がセンセーショナルに報道されて、文科省や教育委員会、そして学校でもいじめ防止対策が取られていながら、若くて尊い命がいじめによって失われてしまう事件が後を絶たない。何とも痛ましい事故が、起き続けているのだ。文科省からいじめに対する調査も徹底するよう指示されていた筈であるし、教師たちも二度といじめによる自殺をなくそうと努力したに違いない。それなのに、今でもいじめによる自殺が起きているのである。自殺とはいかなくても、全国にはいじめが続いていて、苦しんでいる児童生徒が沢山いる筈だ。いじめはなくならないのであろうか。

それにしても、いじめの自殺が起きる度に不思議だと思うことがある。学校の校長、教育長、そして担任までもが、いじめがあったのを知っていたかとの問いに、「いじめは認識していませんでした」と答えるのである。または、「いじめは把握していませんでした」とも答えるのが通例である。あたかも誰かが、そのように答えるようにと指示を出しているかのように、認識していない、または把握していなかった、と答えるのだ。絶対と言っていいほど謝罪はしない。もしかすると誰かが、いじめがあったとは認めてはいけないし、謝ってはいけないと、指導しているかもしれないと思えるほどである。

いじめによる自殺事件が起きたときの記者会見を見ていると、すごい違和感を覚えるのは私だけではあるまい。教育関係者が涙を流して、いじめを気付かなかった自分を悔いたり責めたりする姿を一度も見たことがない。大切な子どもさんを預かっているのであるから、いじめを気付かなかった自分が、情けないし親御さんに申し訳なくて、土下座しても足りないと思うのが、心ある人間だと思う。しかし、そんなふうに自分の責任を自ら問う態度を見せる教育関係者は皆無なのである。こんなに心の冷たくて責任感のない先生たちに、立派な子どもに育てる器量があるとは思えないのである。

勿論、文科省や教育委員会からの指示があって、裁判になった時に不利になるから、絶対に謝罪の言葉を言っちゃいかんと指示されているのかもしれない。しかし、尊い人命が亡くなっているのである。そんな裁判の勝ち負けや賠償金のことなんて考えてはいられないのではないか。真相をいち早く究明して、二度と不幸ないじめがないようにするのが大切なのではないだろうか。先ずは、ご遺族の悲しみに共感することと、ご両親に対して申し訳ないという態度を取るのが必要である筈だ。そして、自分に落ち度はなかっのか、自分が何故気付いてあげられなかったのか、自分自身に厳しく問いかけて、謙虚に自分を責めることをするべきではないかと思うのである。

認識していない、把握していないという言葉を用いるのは何も教育関係者の専売特許ではない。他の官僚や警察幹部、または政治家だって使用している。不祥事の記者会見や国会でも同じように、認識していない、把握していないと逃げまくっているのだ。つまり、我が国の官僚や政治家たちは、まったくもって責任感や主体性など持ち得ないのである。不祥事が起きても、自分の責任はまったくないし、再発防止を主体性を持って取り組む気持ちなんてさらさらないのだ。だから、認識するつもりもないし、把握するつもりもないということなのである。こんなとんでもない輩に国の行く末を任せているのだから、政治、行政、教育、そして医療も福祉も良くなる訳がない。

江戸時代は、一旦不祥事が起きると、その上役の武士は責任を取って腹を切ったか、潔く辞職したのである。自分は認識していなかったなんて言葉は、恥ずかしくて言えなかったのである。言い換えると、自ら進んでリスクとコストを負担する覚悟を持っていたのである。ところが明治以降、近代教育を受けた役人や政治家は、国民に対して責任は取らなくなったのである。責任を絶対に取らないし、保身に走る役人と政治家しか、一部の人を除き日本にはいなくなったらしいのだ。こんな役人や政治家を一刻も早く辞めさせないと、いじめは絶対になくならないに違いない。記者会見においていじめを認識していなかったなんて言葉は二度と聞きたくもないものである。

食事で気を付けていること

現在、62歳いたって健康である。人一倍健康には気を遣っていると自負している。運動も他の年配者と比較しても、そこそこにやっているし、食事にもある程度配慮している。ストレス解消も適当にしている。おかげさまで、今まで大病を患ったことは一度もない。現在、定期健康診断を受けても、ある一部の検診結果以外は正常である。異常値というのは、コレステロール値であるが、全然気にしていない。日本のコレステロール基準値は、あえて低く抑え過ぎているからであり、そんなまやかしの基準値に騙されないと思っている。

 

おかげで、医療費はほぼゼロ。医療機関には滅多に行かない。風邪もほとんど引かないし、もし風邪を引いてもすぐに治る。予防注射をしなくても、インフルエンザには罹らない。お酒は必要な時以外は飲まない。酒は身体に悪くないものだけを、お付き合いの為に必要な時だけたしなむ程度である。煙草は吸わないし、ストレス解消に良いとされているが、本当は逆にストレスのかかるギャンブルもしない。特に気を遣っているのは、食事であろうか。毎日、野菜中心の手作りの料理を頂いている。新鮮で旬の多品種の食材を使用して、自分で伝統的な和食を中心に作っている。

 

特に気を遣っているのは、食材だと思う。なるべく、植物油は摂らないように気を遣っている。料理に使う際、生で食べる食用油はオメガ3の入ったものを摂取するようにして、炒め物に使うのは菜種油等、オリーブ油やごま油は生なら身体に良いが、熱は加えないようにしている。お菓子類は食べない訳ではないが、含まれている植物油脂は、袋の成分表を確認して、なるべく少ない菓子を選ぶ。チョコレートだって、なるべくならカカオバターだけのものを選び、植物油脂を多量に添加したものは避けている。マーガリン、ショートニング、イーストフードなどが含まれたパン、ケーキ、クッキー類はなるべく食べないことにしている。

 

これだけ食事や菓子類にこだわっているのは、男性では非常に珍しいかもしれない。しかし、こういった食品がどれだけ健康被害をもたらすかを熟知したら、誰でも好んで食べようとはしないであろう。あまり知られていないから、これだけ多くの人が食してしまっていると思われる。食事や嗜好品が不健康であれば、間違いなく生活習慣病になるし、ガン、脳血管障害、心筋梗塞などの重篤な疾病を引き起こすリスクが非常に高まるのである。これだから、他人から面倒くさい人だなと思われているのだ。Wifeからもあんたなんかの食事を作るのは到底出来ないと匙を投げられている。したがって自分で作る羽目になってしまい、料理を純粋に楽しんでいる。

 

世の中は健康ブームである。食品添加物を一切含んでいないものや、農薬不使用で有機栽培の自然食品が好まれている。しかし、どうあがいてみても無駄なこともある。食品添加物不使用とか、輸入した遺伝子操作をした大豆不使用などと表示しなくてもよい食品が、多量にお店に並んでいる。成長ホルモン剤や抗生物質などを多量に与えた畜産物や乳製品は大量に出回っているのである。マクロビオティックの食生活だと言っても、完全なマクロビなんて所詮無理な話なのである。たとえ自給自足の生活をしても、空気や水の中に含まれる微量の農薬や人工肥料、ホルモン剤などの薬品は、どうしたって摂取してしまうのである。

 

食生活において、マクロビ食品や自然食品だけしか摂取しないという選択は、無理したり我慢したりしない程度では良いではないだろうか。なるべく健康的な食生活を目指す程度で良いと思うのである。身体に良いものだからと、我慢して不味いものを毎日摂り続けるというのはストレスがかかり、かえって不健康になりかねない。たまには、身体に良くないと分かっていても、脂肪の多いA5ランクの牛肉を食べるのだっていいだろう。砂糖が大量に含まれる甘いケーキやアイスクリームだって、特別な日には構わないと思う。大事なのは、身体が喜ぶ食べ物を食べることである。勿論、精神が傷ついていたり疲れたりしていると不健康な食品を求めてしまうので要注意だ。なるべく身体に害のない食品を美味しく頂くことで、健康を維持していきたいと思う。医食同源という考え方を、無理なく我慢することなく追及していきたい。

農家民宿は心を癒す

都会のIT企業でSEをしていた若者が心を病んだ。その若者が、1年間に渡り田舎で農業を体験していたら、メンタル障害が癒されて復帰できたという。それも、単なる復帰だけではなく、感性やイマジネーションの能力が高まり、新たな発想力が増して企画力さえも格段に向上し、有能な社員にレベルアップして戻ってきたという。以前から、メンタルを病んだ人々が、田舎の農家に滞在していると元気になるという話は少しずつ聞こえてきていたが、実際にこんな実例があったことをSNSで発信していることが解り、とても嬉しい限りである。

 

農業体験や自然体験をしながら農家に寝泊まりする滞在型の旅行をグリーンツーリズム(以下GT)と呼ぶ。ヨーロッパが発祥のゆとり型の旅行であり、長い休みが取れるバカンスに利用する人々が多いらしい。そもそも、ヨーロッパのGTは長期に渡る滞在型が多い。中には、仕事を退職または休職して1年間のGTをする若者たちが少なくない。それは、やはり都会のストレスフルな生活に心が疲れて折れてしまい、心の癒しを求めて田舎にやってくる若者が多いからだという。日本のような1泊か2泊のような短期滞在のGTとは基本的に違っているのである。

 

ヨーロッパのGTの歴史はそんなに古くはない。西欧で一番GTが盛んなのは、やはり農業国であるフランスであろう。フランスのGTも第二次大戦後に一般的にも本格的になったという。実は18世紀末から、GTらしいものが貴族の間で流行していたらしい。貴族という裕福な人々でさえ、農村に長期滞在するというのは贅沢であり、しかも貴族なので自分の土地を長く離れる訳に行かなかったらしい。それで、人工的な農園を城の敷地内に作ってしまったのである。これがアモーと呼ばれる農家付きの人工農園でもある。貴族たちはここにしばらく寝泊まりして、自ら農機具を使って農村生活をしたと言われている。

 

勿論、完全な農村生活ではなく疑似的なものであり、城に時折戻ったりもしたから、GTとは定義しにくいが、その走りではなかったろうか。実際に、マリーアントワネットも心が折れてしまったときは、農婦のような質素な恰好をして農村生活を楽しんでいたらしい。貴族たちもパリ郊外に住んでいて、いくら庶民とは違った生活をしていたとはいえ、都会に近い生活でストレスを抱えていたと思われる。だから、疑似農園であるアモーでの生活でストレス解消をしていたのではないかと推測される。ほぼGTと呼んでも差し支えないし、これがGTの発祥と言ってもかまわないように思う。

 

日本のGTも、最近なって心の癒しを求めてやって来る人々も増えてきたようである。心の癒しをテーマにしている農家民宿も増えてきた。しかしながら、西欧のように1ケ月や2ケ月までも受け入れてくれる農家民宿はごく少数である。日本の農家民宿は、ほとんどが農業の片手間に老夫婦が経営している状態を考えれば致し方ないと思われる。だから、農家民宿の宿泊をして、一時的に心が癒されたとしても、完全に元気が回復するとまでは行かないのであろう。ヨーロッパでは、GTの体験後に農村に移住する若者が少なくないという。完全移住をして、農業をしたり、農家レストランやカフェを営んだりする若者が少なくないという。

 

農業・自然体験によって心を癒し元気にするということは、科学的に考察しても間違いないようである。脳科学的や脳神経学的にみても、分子生物学に洞察しても、心身共に癒され元気になるのは、科学的根拠により説明できる。さらに、栄養学的にみると、農村の自然で新鮮な野菜、または伝統的な和食(乳酸菌の豊富な料理)によって、体内に溜まってしまった毒素がデトックスされる効果も大きいという。最近の研究では、腸内細菌が元気になると精神的な元気も取り戻せることが解っている。心が折れてメンタルを病んでしまって、不規則な生活になり睡眠障害を起こしてしまった方々が、農家民宿に長期間滞在すると、驚くように不眠が解消されるらしい。また、過食や拒食に悩む若者が、農家民宿で生活すると正常な食欲に戻ることも判明している。イスキアの郷しらかわは、そんな農のある生活を提供している。

何故、殺人と自殺はしてはならないのか

相模原の施設で障害を持たれた方々の殺傷事件が起きた時、世の中の人々は戦慄した。しかも、この犯人はまったく事件を起こしたことを今でも反省することなく、自分の行為を正当化しているのである。重度の知的障害を持たれた方々は、この世に不要な存在だから抹殺してもいいという、とんでもない論理に毒されている。優生思想という間違った考え方に凝り固まっているのが、実に情けない。それにしても、平気で人を殺すという行為をすることが理解できない。この事件が起きた時に、あまりにもセンセーショナルな事件が故に、人が人を殺すという行為に対する分析と洞察がなされなかったのが残念である。何故、人を殺してはいけないのかという観点から分析し報道しているマスコミはなかったように記憶している。

若者も含めて一般の人々に「何故、人を殺してはいけないのか」という質問をして、明確に答えられる人は殆どいないことだろう。勿論、法律違反で犯罪になるからという理由というのは当たり前のことで、法的な意味での問いではない。形而上学や形而下学的に考察して、何故人を殺してはいけないのかを明確に答えてほしいのだが、誰にも解る言葉でその理由を語れる人はごく少数であろう。人を殺してはいけない理由を、単なる精神論で述べたとしても、誰も納得しないだろう。やはり、科学的にその理由を明確に述べてこそ、多くの人々を納得させるに違いない。社会科学的に、人間科学的に、そして最先端の自然科学的に述べてほしいし、それを皆が納得出来てその価値観を持って生きられたら、あんな悲惨な凶悪事件は二度と起きないであろう。

この人間社会全体は、人間というひとりひとりの構成要素で成り立っている。つまり人間である『部分』が寄り集まって人間社会という『全体』が形作られているのである。そして、その人間は一人として同じ人間は存在しない。ひとりひとりの遺伝子DNAは勿論のこと、姿かたちも性格も考え方も違っている。いわゆる多様性を持っているのである。多様性があるからこそ、私たち人間すべての一人ひとりに存在価値があるのである。人間それぞれ違いがあるからこそ、自分と他人の違いを認識できで真実の自分を知ることが出来るし、違った価値観や人格があるからこそ、お互いの出会いの中からその違いを学んで自己成長を遂げることができるのである。自己成長をさせてくれる為に出会う他人を殺してこの世から抹消することは、自分の自己進化や成長を妨げることにもなるのである。

また、人間社会全体の中に、部分である一人ひとりの人間がすべて含まれるのは勿論だが、カール・グスタフ・ユングの説いた心理学においては、そのひとりの人間の中に全体が含まれていると説かれている。さらに、ひとりの人間の中の自己人格の中に、世界すべての人間の自己人格が含まれているとも説明している。そして、この理論は単なる観念論ではなくて、事実であることが様々な検証によって明らかにされつつある。ということは、他人を傷つけたり殺めたりするということは、自分を傷つけ殺すということにもなるのである。つまり、他人を殺すことは自分を殺すことになるので、絶対にしてはならないのである。

このように、自分にとって出会う他人という存在は、自己成長や自己進化を遂げさせてくれる貴重な存在だから、けっして抹消してはならないし、自分自身を否定することにもなるから、出会う他人を殺してはならないのである。仏教においては、このことを自他一如(じたいちにょ)という言葉で言い表している。縁起律(えんぎりつ)=関係性によって存在するこの宇宙全体は、人間だけでなくすべての存在そのものが尊いものなのである。例え草木一本とて、そのひとつでも無くしてしまうということは、自分の存在をも否定することになるのである。驚くことにこの真実が、最先端の宇宙物理学、量子力学、脳科学、細胞学、分子生物学、などによって明らかにされようとしているのである。人を殺してはならないというパラダイムが、自然科学によっても証明されつつあるのである。

 

この大切なパラダイムは、もっと重要なことも示唆している。人を殺すことは自分をも否定し殺すことになるということは、逆に言うと自分を殺すということは他人を殺すということと同じだということである。自分はこの世の中を構成する一員であり、関係性によって存在し全体を構成するのになくてはならない貴重な存在なのである。自分を抹消してしまうと、他の人が幸福で心豊かに生きるのを阻害してしまうばかりか、社会全体の進化や成長をも停滞させてしまうのである。自殺してしまうということは、自分ばかりでなく多くの人々をも不幸してしまうことなのである。人間には、すべて生まれてきた意味があり、それぞれの存在価値がある。だからこそ、他人を傷つけたり殺したりしてはならないし、自分を自分の手で抹殺してはならないのである。

命の大切さと「心のノート」

子どもたちの間で、たいした理由もないのに殺人事件や傷害事件が起きている。怒りや憎しみが高まっての犯行なら理解できる。または自分が攻撃されたから、その対応策として仕方なくということなら納得もする。しかし、最近の子どもたちの凶悪事件の理由を見ると、実に不思議な理由で凶行に及んでいるのである。例えば、ただ単に人を殺してみたかったとか、うざったい存在だったからとかの理由で犯行に及んでいるのである。子どもたちが集団でリンチ殺人を起こしているケースでも、生意気だったとか自分達を無視したからという些細な理由で殺人を起こしている。人の命をどのように考えているのだろうか。命の大切さを知らない訳ではあるまいに、どうしてこんな無残なことをするのであろうか。

 

それにしても不思議なのは、学校では命の大切さの教育をしているのかという点である。そういえば、自らの命を絶ってしまう可哀想な中学生・高校生も毎年かなりの数に上る。こういう事件が起きる度に、学校や教委は命の大切さの教育はしていると主張し、これからも命を大切にする教育を充実したいと述べている。本当にそうなのであろうか。数年前に佐世保市の高校生によるバラバラ殺人事件が起きた際に、同市の教育関係者はインタビューに応えて、10年前に起きた小学生の殺人事件以来、命の大切さを子どもたちに教えてきたと語った。しかし、佐世保市の教育関係者が命の大切さを訴える教育を続けてきた努力が、結果として報われなかったのである。もしかすると、命の大切さの教育に重大な欠陥があったのではないかとも思えるのである。

 

さて学校現場で、命の大切さを教育する際に、どんな教育をしているのかというと、文科省が発行した「心のノート」という道徳教育の副読本が基本になっているのではないかと見られる。この「心のノート」を見れば、どんな教育をしてきたのかが、およそ見当が付くと思われる。この「心のノート」については、いろいろな批判が寄せられてきたのも事実である。日教組は心のノートに批判的であるし、リベラル派と呼ばれる人たちは、その導入に反対してきた歴史がある。確かに部分的には、時の権力者に有利な内容が記載されていると見ることも出来なくない。しかし、それはたいした問題ではない。「心のノート」に記載されている命の大切さを伝える部分は、かなり充実しているし内容的にも素晴らしい。

 

実際に「心のノート」小学生5・6年生版を見てみよう。この心のノートでは、多くのページを割いて、命の大切さについて語っている。代表的なものに『生命を愛おしむ』という記述や『かけがえのないいのち』という記載がある。内容は、本当に素晴らしいと言えよう。マザーテレサの言葉「この世に必要のない命などひとつもないのです」なども引用して、命の大切さを切々と訴えている。この命の大切さを説くだけでなく、友達との関わり合いや社会での支えあい、そして自然からの恵みによって生かされている自分、人間の力を超えたものがある、というような生きるうえで大切なメッセージが、宝石箱のように散りばめられている。こういった内容が子どもたちにきちんと伝わっていれば、悲惨な事件が起きる筈もないのである。

ところが現実に事件は起きているのである。それじゃ、何が足りなかったのか、何が間違っていたのか、ということが問われる。おそらくは、この「心のノート」を正しく、しかも子どもたちの心に響くように伝えられる教師が居なかったのだと思う。この心のノートの真の意味を知り、高い価値観を持って深く認識し、子どもたちに自分の言葉で語りかけられる哲学を持たなかったのであろう。何故なら、先生たちもまた心の教育がなおざりにされてきたからである。自分が正しい心の教育を受けていなければ、子どもたちに対して、間違いのない心の教育が出来る筈もないであろう。文科省が義務教育と高等教育において、価値観の教育をなおざりにしてきた弊害が出たのである。

この「心のノート」は、あの神戸の連続殺傷事件が起きたことを受けて、当時の政治家たちが危機感を持ち、官僚主導ではなくて政治主導で作り上げたものである。文科省の官僚だけでは作りえなかった、貴重な教材なのである。バカな民主党は、この心のノートを仕分けで廃止してしまったが、自民党は復活させた。悲惨で凶悪な少年事件を二度と起こさない為にも、そして自殺しようとする青少年を救う為にも、心のノートの内容を正しく子どもたちに伝えられる教師を育ててほしいものである。もし、それだけの力量を持ちえない教師しか居ないのであれば、外部から積極的に学校に講師を招聘してほしいものだ。命の大切さを一刻も早く子どもたちに伝えないと、このような命をないがしろにする事件が後を絶たないと警告したい。

教育とは誰のためにするのか?

学校教育とか家庭教育、社員教育であろうと、教育をする者としてのその使命と役割が重大であることは、誰しも共通の認識であろう。しかしながら、その重大な使命と役割が何であるのか、正確に認識している教育者は殆どいないのではなかろうか。その証拠に、教育を受ける側が、学ぶことに対してけっして能動的とは言えない態度であり、学ぶことの楽しさを味わっているとは思えないからである。それ故に、教育効果があまりにも低いばかりか、誤った教育に対する考え方が蔓延し、社会への悪い影響を与えているように感じる。あまりにも自己本位で、責任感もなく自発性と主体性のない、自分のことしか見えず目の前の欲望に押し流される人間があまりにも多いのである。それは教育の不備や失敗によるものだと断言してもよいだろう。

そもそも、何のために教育をするのかという理念さえも誤解している教育者が多いことに驚く。子どもたちに何のために学ぶのか?と聞くと、自分の為と答える子どもが多数を占める。ここからして間違っているのだから、教育の理念などないに等しい。保護者も含めて多くの教育者は、良い高校大学に入って安定した優良企業に就職することを目標にしなさいと子どもたちに言い聞かせ、勉強は自分の為と公言して憚らないのである。これでは、子どもたちが勉強を好きになる筈もないし、勉強の成果などあがることなど期待できないであろう。何故なら、学ぶ本当の目的は他にあるし、なにしろ人間という生き物は、自分の為には頑張れないように出来ているからである。

という私も小さい頃から、勉強は自分の為にするんだと親や教師から言われて育った。おかげで、勉強が大嫌いでいつも落第すれすれの点数であったが、かろうじて高校を卒業後に私立大学を出て、地元の安定した団体の職員として就職した。当然、自ら勉強する気持ちにもなれず、就職した後も人間として大切な思想哲学の勉強さえしない、まったくのお気楽人間として人生を送っていた。かろうじて好きな読書は続けていたが、本来学ぶべき人間の生きる目的や理念を学ぼうとしなかったのである。今から思うと、まったく恥ずかしい限りであり、若いときにもう少し勉強すれば良かったと思っても、今さら後の祭である。そんな馬鹿な自分も、我が子の子育てをして行くうちに、教育の真の目的と役割を気付かせられたのである。

教育は何の為にするかと言えば、周りの人々を幸福にする為、つまり社会貢献をするのに必要だからである。この世の真理である全体最適という人間全体の命題を実現する為にこそ、人間は学ぶのである。人の為世の中の為に学ぶのであるから、勉学を怠けてはならないのだ。自分の為だけなら、将来困るのは自分だけだから、自己責任なので勉強しないのも許される。しかし、この世界全体や宇宙全体の為に学ばなければ、自分のせいで社会全体を不幸にするかもしれないのだ。責任が重大なのである。IPS細胞を発見した山中教授が、もし若い頃勉強しなかったら、研究の成果を得られずに、多くの人々を幸福に出来なかったかもしれない。エジソンやビルゲイツが青少年時代に勉強しなければ、私たちの生活はこんなに便利にはならなかったかもしれないのだ。

学ぶ目的が明確になれば、子どもたちは生き生きとした勉学態度に変化する。そして、第2第3の山中教授も出現するであろう。そのような学びに対する考え方、つまりは思想哲学を子どもたちや社員たちにしっかりと伝えるのが、教育者としての使命であり、大きな役割だろうと考える。そして、自ら進んで学ぶ姿勢を持ち、喜びを持って社会のために働くという、自発的で主体性を持ち、しかも自らの責任感をしっかりと持った人間を育てることが、教育者としての大きな使命であり役割でもあると考える。恥ずかしながら還暦過ぎた年齢になった今、勉強が楽しくて仕方がない。思想哲学の勉強を日々楽しく続けさせてもらっている。どうしたら多くの人々を混迷の世界から救い出せるか、そして真の幸福を多くの人々にもたらすことが出来るか、浅学菲才の私なので成果はあまりあがらないが、毎日勉学に勤しんでいる。おかげさまで、何の為に学ぶのかという真理を、少なくても自分の子どもたちには伝えることが出来たと自負している。正しい教育をすることが、人間としての大きな社会貢献なのだと確信している。

間が悪い人

世の中には、何をやってもタイミングが悪いというのか、どんなケースでも満足の行くような結果を出せない人がいる。そういう人は、普通の人と比較すると、何かがずれているというのか、何をやっても上手く行かないのである。そういう人を、総称して『間が悪い人』と呼ぶことが多い。私の周りにも、そのように間が悪い人が沢山いる。こういう人は、何が悪いとか、能力が劣っているとかいう訳ではないのに、不思議なことにどうしても拙いことが起きることが多いのである。おそらく本人も原因が解らず、困っているだろうが運がないなあと思っていることだろう。

そういう間が悪い人というのは、何をやっても結果が思わしくないことが多い。タイミングが悪いせいなのか、フライングみたいなことをしたり、時期を失したりして後手に回ることが多い。物事というのは、ベストタイミングというものがある訳で、その時期を上手く見極めないと、物事は上手く進まないのである。そのタイミングをどうしても外してしまう傾向がある人は、どういう訳か何度もそういうことを繰り返すのである。実に不思議なことであるが、非常に不器用でもあるのだ。周りから見ていると、何であのタイミングでするのかと、危なっかしいのであるが、本人はまったく気付いていないのである。

さて、そういう間が悪い人は、何が原因でそうなっているのであろうか。タイミングをずらしてしまうとか、適確な選択肢を選べないというのは、何に由来しているのかを知りたいに違いない。こういう間が悪い人に共通なことは、まずは不器用でありさらには決断力がないというのか、何かを実施する際に迷ってしまうことが多い。つまり、一旦こうと決めたら、何が何でもやり遂げるという決断力と実行力があまり感じられないのである。そして、本人の自主性や自発性、さらには責任感や主体性も持ち得ないケースが殆どである。どんな結果になろうとも、すべての責任は自分で取るという強い決意が感じられないのも特徴的である。

おそらくこのように間が悪い人というのは、単に運が悪いということだけではなく、本人のメンタルモデルに原因がありそうである。ここでいうメンタルモデルというのは、単なる思考の癖とか性格という意味だけでなく、もっと根源的な本人の生きる上での価値観や、思想哲学的な言動のパラダイムを含んでいる。別な言葉で言い換えると、間違っている『ドミナントストーリー』を抱えているのだ。だからこそ、間違ったタイミングや選択肢を取ってしまうという致命的な誤りを何度も繰り返すのであろう。そして、こういう間が悪い人に限って、その根本的な原因を追究することなく、ただ単に運が悪いとか周りの人々や環境のせいにしてしまっているのである。

こういう間が悪い人は、人生を送る中で変な人と出会い苦労する。それは恋人だったり配偶者だったりするし、会社の上司や同僚、または嫌な部下だったりもする。恋人ならば別れれば済むのだが、配偶者になってしまえば簡単に離婚する訳にはいかない。会社の上司や同僚も自分で選べないし、部下だって基本的には会社から押し当てられるだけである。何故、こんな変な人と自分は巡り会う運命なんだろうと自分を呪うかもしれないが、それもこれもすべて自分のメンタルモデルが引き起こしているとするなら、自分の悲運を恨んでだけいられない。自分のメンタルモデルを変革すれば、劇的に運命は好転するのだから、運命を嘆いてはいられないのである。

それでは、メンタルモデルをどのように変革できたら、「間が悪い人」を卒業できるのであろうか。マサチューセッツ工科大学(MIT)の上級講師であるペーター・センゲ氏は、メンタルモデルの変革はこのようにしなさいと助言している。氏は複雑系科学に根ざしたシステム思考の哲学を推奨しているが、簡単に言えば「全体性と関係性」を根幹にした価値観・思想・哲学を持つことだと論じている。人間は、どうしても自我の欲求に惑わされる。つまり、自分の損得や利害を優先させて物事を進めてしまうのだ。しかし、世の中の仕組みや法則は、常に全体最適を目指しているし、関係性によってそれが保証されているのである。それが最先端の科学により真実だと証明されつつある。私たち人間も、個別最適でなくて全体最適(人類全体の幸福追求)を目指して行動すべきなのである。その為に、他人との関係性を大切にして生きていくことが求められている。このような生き方が無理せず当たり前のように出来たならば、嫌な人とも出会わないし、間が悪い生き方からも解放されるのである。

ごめん、愛してる

「ごめん、愛してる」は韓流ドラマのリメイク版らしい。反韓感情が盛り上がっているこの時期ということもあって、視聴率はいまいちらしいが、実に感動的な人間ドラマに仕上がっている。韓流ドラマらしくご都合主義的な筋書きではあるが、純愛や家族愛をけれんみなく描いていて、好感が持てる。何よりも素晴らしいのは、単なる恋愛や家族の絆をテーマにした物語ではなく、人間哲学を主題にしているという点である。主人公がドラマの中で自問自答をする「俺は何の為、誰の為に生まれてきたんだ?」という台詞に共感を得る。人間にとって永遠のテーマである、自分が生まれてきた意味や生きる目的を熱く語るドラマには、なかなかお目にかかれないからである。

 

今時の若者は、自分の生まれてきた意味や生きる目的について深く考える機会に恵まれないこともあり、避けて通ってきたのではなかろうか。深く考え過ぎて悩み苦しみ、メンタルを病んでしまう若者にもたまに出会うが、こういう難しいテーマよりも面白おかしく生きたいと考える若者のほうが多いように思う。そんな七面倒なことを考えるより、ゲームに興じて、お笑いやバラエティ番組にうつつを抜かしていたほうが、人生は楽しいと考える輩が多いことだろう。人生の目的についてブログを書くと、人生の目的なんてなくても生きられると平気でコメントを入れてくる愚か者がいる。確かに生きる目的なんてなくても、生きられるのは当たり前である。

 

生きる目的のある人生と、目的のない人生ではとんでなく大きな違いが出てくることを知らないから、そんな馬鹿げたことを平気で言うのであろう。実に情けないし、可哀想なことである。明治維新よりも前に生きた若者たちは、生きる目的について深く考える機会を持てたし、悩み苦しんできた。本来、青春とか思春期というのは、そういうことを悩み苦しむ時期なのである。日本人は、生きる目的を持たないから、実に薄っぺらな人間に成り下がってしまった。考えてみるがいい、目的のない人生というのは、海図のない航路に船出したようなものである。行先がないのだからいずれ迷い、難破するのは当然である。

 

「ごめん、愛してる」の主人公リョウは、自分を産み捨てた実の母親を憎み、仕返しをしようと企み、実母の家族に近づく。憎しみ恨みで凝り固まったリョウは生きる目的もないから、マフィアという裏社会で暴力的で刹那的な人生を歩んできた。そして、実の母親に名乗れず蔑まれながらも、自分の母と弟との関わりあいを持つうちに、自分の生まれてきた本当の意味を知ることになる。自分の命を捨てても、誰かの為に役に立つ喜びを知るのである。自分の幸福や豊かさの為だけに生きることの愚かさ、そして悲しさをも認識するのである。

 

主人公リョウが面倒を見ている知的障害の母とその子が出てくる。池脇千鶴がその母親を好演している。実に純粋な人間であり、嫌みなところがこれっぽっちもない。自分のことよりも、周りの人々の幸福を願い、他人のために尽くすことを喜びとしている。こういうピュアな心を持った人を見ると実に嬉しくなる。自分もこうありたいと強く思うが、出来ないもどかしさと恥ずかしさを感じる。主人公のリョウも、このような純粋な親子に出会ったことで、生まれてきた意味や何のために生きるのかということを考えるきっかけになった気がする。

 

次週はいよいよこのドラマは最終回を迎える。韓国では、冬ソナを超える視聴率だったという。儒教のお国柄ということもあり、こういう人間ドラマが好まれるのかもしれないが、韓国のテレビ界もなかなかやるではないか。主人公リョウが果たしてどんな結末を迎えるのか興味深いが、悲劇の主人公となるのは間違いないであろう。ただし、このドラマを単なるお涙頂戴の純愛ドラマとしてだけ見るのではなく、自分が生まれてきた意味や生きる目的を考えるきっかけにしてほしいと強く思う。自分が誰のために生きるのか、何のために生きるのかを教えてくれる素晴らしい物語に出会ったことを幸せに思いたい。

母性と父性

母性と父性の違いについて、正確に述べられる人はそんなに多くない筈である。そもそも、母性と父性を勘違いしている人も少なくないし、現在の日本において母性と父性を的確に生かしながら子育てをしている家庭は非常に少ないと思える。母性愛と父性愛を豊かに注いでいる子育てなら、子どもたちも健全に育つし、様々な教育上の問題を起こさないばかりか、家族というコミュニティも一つにまとまって、良好な絆を保ち続けることだろう。逆に母性愛と父性愛を不的確に捉え、しかも豊かに発揮できない家庭では、不登校、ひきこもり、DV等のいろんな家庭内の問題が起こることであろう。それなのに教育問題の研究においても、母性と父性にあまり注目されていないのは実に不思議なことである。

日本の一般的な家族に、母性と父性を意識したことがありますか?と質問したとしたら、おそらく半数以上の家庭はNOと答えるに違いない。そんなこと、両親からも伝えられていなかったし、ましてや学校教育では母性と父性の大切を教えている訳がない。仏教哲学が広く普及していた江戸時代以前は、母性と父性について実に解りやすく教えていたように思う。つまり、仏教哲学においては仏像という偶像を利用して、誰にでも理解できるように伝えてくれていたのだ。観音様は母性を代表する仏像であり、対比しての仏像として弥勒菩薩や勢至菩薩がある。また、父性を表す不動明王に対比して、愛染明王がある。さらには、母性を示す阿弥陀如来に対して、父性の象徴とも言える薬師如来がある。こうして、母性と父性を衆生に解りやすく教示していたに違いない。

そもそも母性と父性というのは何であろうか。父性は条件付の愛であり、母性は無条件の愛と言われている。または、仏教的に言えば母性は慈悲や情であり、父性は智慧や法理であろう。つまりは、互いに相反することであるから、大人であれば両立は可能であるものの、子どもにしたら迷いが生じるのであろう。間違いなく言えることは、子どもに取って先ず必要なのは母性(無条件の愛)であり、それが満たされて初めて父性(条件付の愛)である躾を受け容れることが出来るのである。この順序を間違えると、子どもは一生苦しむことになる。つまり、最初に父性を発揮して育てられた子どもは、自我を克服出来ずに、自己の確立がなかなか出来ずに、真のアイデンティを持てなくなるのである。実は、現代における大多数の人々は、このアイデンティの確立が出来ずに大人になっている。それは、とりもなおさず母性と父性が正しく発揮されずに育てられているという証左でもあろう。

現代の子ども、または若者たちは大きな生きづらさを抱えて生きている。その訳は、やはり母性愛と父性愛を的確にしかも豊かに与えられていないからではなかろうか。どちらかというと、父性愛である条件付きの愛ばかりを受け取り、母性愛をあまり与えられているとは思えない。条件付きの愛である「躾」ばかりを押し付け、子どもを支配し制御しているように感じる。「どんなあなたでも、どんなことがあっても永遠に愛します」というメッセージや意識を注いでいるようには思えないのである。親は子どもを愛しているのは間違いないが、子どもの精神的自由を奪ってまで、自分の思い通りの理想の子ども像を押し付けてはいないだろうか。

 

それでは両親揃っていないと母性と父性を活用した子育てができないかというとそうではない。一人親子育てでも、母性と父性を共に上手に成功している例は少なくない。しかし、それはあくまでも表面上のことであろう。その子どもの心の内面に迫ると、実は多くの問題課題を抱えていて、実に生きづらい人生を送っていることが少なくない。何故なら、そもそも母性と父性というのは相反するものであり、1人の人間の中に両立させたとしても、その母性と父性を受け取る子どもに取っては、どちらの母親が本当の母親なのか、微妙な迷いや不安が生じるのである。やはり、両親またはそれに替わる誰かの一方が母性を演じ、もう片方が父性を演じるほうが、子どもは納得しやすいのだ。子どもの心にしてみれば、1人の人間が両方発揮するというのには相当理解に苦しむことであろう。祖父母、または叔父叔母のどちらかが片方の愛を発揮してもいいし、地域の誰かがその役割を担うことも考えられる。

両親が揃っていても、母性と父性がうまく発揮できていなのは何故かというと、一番問題があるのは父親であろう。父親が正しい父性(条件付の愛)を発揮出来ていないからである。子どもに気に入られようと、妙に子どもにおもねるというかご機嫌取りに終始して、本来の正しいしつけが出来ていないのである。当然、母親は安心して母性を発揮出来ずに、しつけである父性を最初から発揮する羽目になる。さらに、子どもに対して思想哲学を教えるのは、やはり父性(法理)であるから父親である男性の役目であろう。しかし、自分自身のしっかりした哲学を持ちえていない父親であるから、情けないことに世の中の理(ことわり)を教えられないのである。母親は、子どもに対してしっかりした思想や哲学を教えられる父親だと確信できたら、安心して無条件の愛である母性愛だけを発揮できるのである。さらに言えば、夫が妻に対して無条件の愛で包み込んで上げられた時に、妻は子どもに対して豊かな母性愛を注げるということも付け加えておきたい。