ポイズンマザー(毒親)になってしまう訳

 不登校やひきこもりの社会復帰支援としてイスキアの活動をしていると、その要支援者の親の殆どがポイズンマザー(毒親)である。ポイズンマザーというように、その毒親は母親であるケースがとても多い。父親が毒親であるケースはないかと言うと、そうではない。父親が子育てに無関心なので、毒親として目立たないだけである。一方、母親というのは優しくて思いやりがあるという固定観念があるために、母親が毒親であるというのは際立つのであろう。毒親である当の母親は、自分が毒親であるという認識はあまりなさそうである。

 

 しかし、母親の中には自分が毒親だから子どもが不登校やひきこもりになったのではと、苦しんでいるケースがある。または、もしかして自分は毒親ではないのだろうかと、悩んでいる母親も存在する。いずれにしても、自分が毒親だとは認めたくないが、もし本当に毒親だとしたら、どうしたら毒親から抜け出せるのであろうかと苦悩していることだろう。または、望んでいた訳ではないのに、どうして自分が毒親になってしまったのだろうかと、一人で悩み続けているに違いない。ましてや、我が子から毒親だと宣言されたらショックだ。

 

 メンタルを病んでしまい、不登校やひきこもりを起こしている子どもたちは、父親のことを毒親だとはあまり思わずに、母親のことを毒親だと信じ込み執拗に攻撃するケースが多い。本当は、父親がしっかりと父性愛を注いでくれたら、母親が毒親になんかならなくても済んだのに、子どもが母親だけを責めるのはあまりにも可哀想である。勿論、母親にまったくその責任がないとは言えないが、毒親になってしまったそもそもの原因は、父親にもおおいにありそうだ。母親たちは、毒親になりたくてなった訳ではないのだ。

 

 毒親というのは、子どもに対する親らしい優しさや思いやりがなく、子どもを無条件に愛せない親である。子どもの幸せよりも自分の利益や豊かさを優先してしまう親でもある。子どもをあるがままにまるごと愛せない親だ。でも、本人にしてみれば我が子を愛そうと努力しているし、子どもを立派にしたいと思っている。しかし、子どもの愛し方が解らないし、どう扱っていいのか解らないのである。母親なら我が子を目に入れても痛くないというが、そういう実感が湧かないのだ。我が子なのに寛容と受容の態度が取れないのだ。

 

 何故、そんなふうに母親が毒親化してしまったかというと、端的に言えば必然の流れとしてそうなってしまったのである。自ら希望して毒親になる母親はいない。多くの毒親は、自分の母親もまた毒親であることが殆どである。過保護の母親を持つと、子どもが駄目になると勘違いする人が多いが、そんなことはない。過保護は良いのである。駄目なのは、母親が過干渉のケースである。または、ネグレクト(育児放棄)や虐待をされると、子どもは100%駄目になる。例外がない訳ではないが、酷い愛着障害を起こすのである。

 

 過干渉、ネグレクト、虐待をされて育った子どもは愛着障害を起こす。そういう子育てをする母親は毒親と呼ばれるが、自分自身もまたそのような毒親に育てられた体験を持つ。しかし、明らかに毒親だと解るケースなら少しは救いもあろう。自分が毒親に育てられて嫌だったから、自分はそんな母親にはなるまいと、反面教師に出来るからだ。ところが、自分の母親が毒親だと気付かずに育ち、母親になってしまったケースは深刻である。例えば、ダブルバインド(二重拘束のコミュニケーション)で養育されケースや、過干渉での子育てである。

 

 こういう過干渉やダブルバインドで育てられた子どもは、自分の親が毒親だとは気づかずに大人になる。そして、思春期から強烈な『生きづらさ』を抱えながら生きる。何とか結婚して母親になったとしても、同じようにダブルバインドや過干渉の子育てをする毒親になる。毒親の拡大再生産をすることになる。そして不思議なことに、こういう母親は発達障害の夫を持つことが多い。あまりにも過干渉だった母親だから、その反動で干渉しない寡黙な男性を選ぶのかもしれない。こうして、この毒親である母親は、誰にも助けてもらえず毒親を演じ続けしまうことになるのだ。

 

※自分が毒親ではないだろうか。自分の母親はポイズンマザーではないだろうかと苦しみ悩んでいる方は、イスキアの郷しらかわにご相談ください。どうしたら、毒親を乗り越えることができるか。または、毒親からどのように逃れられるかをアドバイスいたします。

ウィズコロナ時代の働き方イノベーション

 新型コロナウィルス感染症は、私たちの暮らしを一変させてしまった。そして、世界経済も多大な影響を受けている。とりわけ観光・運輸・飲食・娯楽産業では壊滅的な打撃を受けている企業や個人事業主が少なくない。事業継続できなくて、廃業したり倒産したりしているケースが非常に多くなっている。そういう産業で働く人たちの仕事が奪われてしまい、生活が破綻している人も多いと聞く。経済的な理由と将来に対する不安と絶望から、自らの命を絶ってしまう人もいるという。コロナ不況が深刻である。

 

 新型コロナウィルス感染症のワクチン接種が欧米や中国で始まり、間もなくコロナが終息するのではないかと予想する人々がいる。しかし一方では、感染症の専門家の中には、このコロナ禍は少なくても2~3年は終息しないと予想する人が多い。おそらく4~5年はコロナ禍が続くと見ている専門家が少なくない。新型コロナウィルスは、感染力も強いし、重症化する確率も高いうえに、死亡率だって他の感染症と比較しても異常に高い。後遺症も深刻である。新型コロナウィルス感染症を甘く見ている若者が多いが、楽観視していると大きな落とし穴にはまりそうである。

 

 新型コロナウィルス感染症は、先ほども触れたが特定の産業に与える影響が大きい。そして、私たちの普段の生活も変えざるを得なくなった。そして、これから4~5年もこの状況が続くとすれば、ウィズコロナの生活そのものを抜本的に変えなければならないのではなかろうか。今までの生き方そのものを見直すべきではないかと思えて仕方ない。新型コロナウィルス感染症を完全に抑えるには、経済も暮らしも今までとまったく違うものに抜本的に革新する必要がある。つまり、ウィズコロナ時代のイノベーションが求められるのである。

 

 ウィルスというのは、生き物である。そして、ウィルスは自己組織化する生物なのである。ウィルス自身が生き延びようとするし、その感染力を強くして、仲間の数を増やそうとする。その為に主体性、自発性、発展性、進化性を発揮して、変異を繰り返す。そうなると、ワクチンが効かなくなる恐れもあるし、特効薬だって効果がなくなることも考えられる。今度の新型コロナウィルスは、今までのウィルスとは明らかに違う気がする。おそらく、今までのような感染症対策だけでは抑えきれないであろう。ウィルスを抑えるのではなく、ウィルスと共生する生き方を目指す必要があると考える。

 

 我々は、今までのような働き方と生活ではなくて、コロナに感染しない働き方と暮らしを実現したい。行き過ぎたグローバル化を見直して、なるべく地産地消を目指したほうが良いだろう。観光や娯楽も近くの場所で、アウトドア的な楽しみ方をすれば良いと思う。飲食店の利用も最小限度にして、安全な家庭での飲食にしたいものだ。可能な限りリモートでの仕事にして、IT化やAI化を図れば、出社するのも最小限で済む。家庭中心の生活にして、外食や飲酒はなるべく控え、ホストクラブ、キャバクラ、接待を伴う飲食店、性風俗店などは利用しないようにしたい。浪費的な生活を見直し、生産的な働き方をしたいものだ。

 

 そもそも、人間は明るくなると同時に活動し、暗くなる時間には安息と睡眠をするように創られている。本来人間は夜に働いたり活動したりしないものなのだ。深夜帯に飲食することは健康を損なう行為だし、深夜帯に飲食店で働くなんて命を削るようなものである。環境保護の観点からも、夜間の照明や空調の利用を控えれば、エネルギー使用を大幅に削減できる。働き方改革をさらに推し進めて、残業を無くせばよい。一次産業を推進するのも効果がある。マンパワーが足りないのであれば、飲食業やサービス業からの余剰人員を充てて、ワークシェアリングを進めればよいだろう。

 

 環境保護の観点からSDGsを推し進めるのは喫緊の課題である。カーボンフリー社会を目指すのは、我々の共通課題である。ウィズコロナの時代に応じて働き方や生活を革新するのは、まさしくSDGsにとっても必要不可欠のことなのだ。省エネルギーの為にも、深夜帯に働くことを避けたいものである。仕事を午後6時くらいまで終了して、まっすぐ帰宅したら公共交通機関だって、深夜運行は不要となる。働き方のイノベーションをして、家族の触れ合いを大切にすると共に、人間らしい生き方を取り戻してほしい。そうすればコロナは終息する筈だし、SDGsも推進できる。

鬼滅の刃が人気なのはシステム思考だから

 鬼滅の刃の映画興行収入額が史上最高を記録した。コロナ感染症という特殊な事情があったとしても、アニメ映画にこれほどの圧倒的な人気を博したのは不思議である。それも子どもや若者のアニメファンだけでなく、大人や高齢者にも絶大な支持を受けた。多くの老若男女が鬼滅の刃に魅せられたのである。どうして鬼滅の刃が人気になったのであろうか。いろんな理由をマスコミや評論家は上げている。しかし、本当の理由はそれだけでないように思われる。鬼滅の刃が人気を博したのは、システム思考を描いているからではないだろうか。

 

 鬼滅の刃を見た人は解るだろうが、この物語は人間としての正しい生き方を説いている。思想・哲学的であるし、見る人に高い価値観を示している。こんなにも鋭く人生哲学を描いたアニメは他にないだろう。しかも、それが押し付け的でなく、見る人すべてが素直にその哲学を受け要れてしまうような描き方をしている。この鬼滅の刃に終始流れている思想・哲学は、関係性重視と全体最適である。人と人との絆を何よりも大切にしているし、個人最適ではなくて、全体に対する貢献と最適化を描く。つまり、システム思考なのである。

 

 システム思考というのは、この宇宙における万物の真理に基づく価値観である。私たちがこの世界に生きている意味であり、生きる目的でもある。我々人間も含めたすべての生きとし生けるものだけでなく、物体が物体として存在する理由でもある。鬼滅の刃は、それを鬼退治、そして家族愛と人類愛の『ものがたり』として表現している。私たちの住む宇宙はシステムそのものであり、我々の住む地球そのものがシステムである。あらゆる植物や生物もシステムであるし、人間もそして鉱物さえもシステムとして存在している。

 

 人間が関係するすべての組織はシステムである。家族、企業、団体、地域、国家、地球、宇宙すべてがひとつのシステムである。そして、人体もまたひとつの完全なネットワークシステムだということが、医学的・生物学的にも判明している。人体を組成する37兆2000億個の細胞は、それぞれが自己組織化する働きがある。そして、オートポイエーシス(自己産生)の能力を持つ。誰からも指示命令を受けず、ひとりでに細胞分裂をするし、お互いが関係性を持ち、全体最適を目指す。過不足なく、少しも誤りなく人体を組成し活動する。

 

 ところが、この人間の完全無欠な人体と精神は、時折システムエラーを起こす。あまりにも外部から介入され過ぎたり強く制御され続けたりすると、システムエラーを起こして健康を損なう。メンタルが障害を起こすのも同じ理由からだ。鬼滅の刃というものがたりでは、人間の社会システムが関係性を損ない、全体最適でなく部分最適を目指してしまい、自らの自己組織化やオートポイエーシスの機能を失ってしまった状況を映し出す。鬼どもが人間を襲って殺したり操ったりする恐怖の世界である。

 

 鬼が生き永らえて強くなるために人を喰らい、さらに人間を襲う社会が現われるのはシステムエラーを起こしていると言えよう。人間が鬼になってしまうのも、家族というシステムが崩壊しているからであろう。鬼滅の刃に出てくる鬼たちは、家族から愛されず見離されて絶望し、絆や信頼する関係性を見失っている。一方、鬼殺隊の柱たちは自分の犠牲を厭わずに、愛する者を守るために勇気を振り絞って鬼と闘う。その決心はけっしてぶれることがない。炭次郎も命を賭けて全体最適のために死闘を繰り広げる。自分の私利私欲や損得のために、人間を殺していく個別最適の鬼とは根本的に違うのである。

 

 鬼殺隊の柱たちの絆は強いし、その関係性が損なうことはない。炭次郎、善逸、猪之助の友情は、何よりも固く結ばれていて、その信頼関係は揺らがない。柱たちや炭次郎たちの心にはシステム思考の価値観が強く根付いているからに違いない。炎柱煉獄杏寿郎は、自分の命を投げうってまで、無限列車から人々を救い出した。これはまさしくシステム思考の哲学に支えられた行動である。システム思考とは、人間が正しく生きるための哲学である。多くの人々は、自分たちが本来持っているシステム思考の価値観を、鬼滅の刃を鑑賞することによって目覚めさせるのであろう。だからこそ、鬼滅の刃がこれだけ熱狂的に支持されて人気を博しているに違いない。

自分の目で自分を見ていないから心が傷つく

 メンタルが傷ついているクライアントに、「自分のことを自分の目で見ていますか」と尋ねると、この人は何を言っているの?と不思議な顔をされることが多い。それで、「あなたはいつも他人の目を通して自分を観ているのではありませんか?」と聞いてみる。それで、ようやく質問の意図を理解してくれる。言われてみると、確かに自分はいつも自分のことを他人からの評価や批判を気にして観察してしまっていると気付いてくれる。自分を主体的に観察するのでなく、客観的もしくは第三者的に自分を観ているのである。

 

 こんな話をすると、自分を客観的に観るのはいけないのですか?と憮然としながら問われる。勿論、自分を第三者からの目で観ることも必要である。自分の基準だけで自分を見てしまうと、身勝手で自己中心的な見方になってしまう。他人からの目で自分を観るのも、時には必要である。だとしても、自分をまるっきり他人の目だけで見てしまうと、批判されているのではないかと、けなされているのではないかと、気になって仕方ない。そして、やがては他人の目が怖くて人目を避けたくなってしまう。

 

 どうして、そんなふうに他人の目で自分を観てしまうのであろうか。それは、小さい頃より親や祖父母から、そんなことをしてしまうとみんなから軽蔑されるよ、嫌われるよと、いつも他人の目を意識させられてきたからであろう。そればかりではない。こんなことしちゃ駄目じゃない、こうしないといけないよと言われ続けて、否定され批判されコントロールされて育てられたからである。小さい頃から、このように干渉や介入をされ続けて育てられると、『自己組織化』ができないばかりか、自己肯定感が育たないのだ。

 

 この自己肯定感や自尊心が健全に育たないと、自己の確立が不可能になるのである。つまり、アイデンテティが確立されないということである。アイデンテティとは『自己証明』とも訳され、自分が自分であることの証明であり、自分らしさを認め受け容れているということでもある。このアイデンテティの確立がされていないと、自分に自信が持てないし、自分の進むべき道や生きる確信が持てないから、いつも不安や恐怖を抱えながら生きてしまうのである。自分の目で自分を見られなくて、他人の目で自分を見てしまうのである。

 

 自己肯定感や自尊感情がなくて大人になってしまうと、いつも不安や恐怖にさいなまれ、社会に出ていくのが怖くなる。ちょっとした失敗や挫折でも、それがトラウマ化してしまうことになる。または、冗談めかしたセクハラやパワハラでもメンタルがやられてしまうし、メンタル疾患になりやすい。パニック障害やPTSDになることも多い。ましてや、世の中は不安だらけだし、人に出会うのも怖い。人の目にいつもびくびくしながら生きるようになる。しまいには、家庭や自分の部屋にひきこもってしまうことにもなる。

 

 メンタルを病んでいる方々は、自己肯定感や自尊心が育まれていないことが多い。そして、自分のことを自分の目で見ていないし、他人の目で自分を見ようとしてしまう。だから、他人からの評価や批判をいつも気にするし、地位とか名誉とかに固執することが多い。学歴、経歴、資格などにこだわる。自尊感情が低いからその反動で、自分を必要以上に大きく強く見せようとするし、他人を否定し蹴落としたくなる。学校や職場でいじめをする人というのは、実は自己否定感が強い人である。セクハラ、パワハラ、モラハラを繰り返す人というのは、自尊感情があまりにも低い人なのである。

 

 メンタル疾患になる人、不登校やひきこもりになる人というのは、自尊感情や自己肯定感の低い人である。いじめられる側といじめる側に分かれるのは、自己否定感から来る怒りや憎しみの感情が、自分に向かうか他人に向かうかの違いであろう。あまりにも自己否定感が強いから、その否定感を打ち消す為に、他人を否定しようとして攻撃するのだと思われる。一方、気が弱い人はその攻撃性が自分に向かうのであろう。いずれにしても、どちらも自分のこと自分の目で見ずに、他人の目で自分を見ている傾向がある。自分のことを自分の目で見ると言う習慣を意識して身に付けたいものである。

布マスクは効果がなく危険!

 

 新型コロナウィルス感染症の増加が止まらない。東京など首都圏を中心にして日々感染者が増えると共に、重症者や死亡者が増え続けている。三密が守られていないということもあろうが、気になるのが最近特に増えている布マスク愛好者のことである。もしかすると、感染者が増えている原因のひとつが、布マスクを使用する人が増えたことによるのではないか。不織布の三層マスクはある程度の防御効果が認められているが、布マスクは感染させないという効果が少しあるが、防御効果は殆どないと言っても過言ではない。

 

 この布マスクの防御効果が殆どないということを知らない人が多い。また、いい加減な作りの三層不織布マスクも防御効果はあまりないということを認識している人も極めて少ない。四層の不織布マスクや五層マスクであれば、ある程度の感染防止の効果がある。N95マスクは防御効果が高いが、高価であるし滅多なことでは手に入らないのが難である。五層のマスクでN95マスクと同等性能の不織布マスクがネットで購入できるので、私は感染の恐れがある場所では、それを利用させてもらっている。自分の身を守るには必要である。

 

 安価な三層の不織布マスクは感染予防の効果があまりないが、感染させない効果はある程度認められている。布マスクは、感染予防効果はまったくないと思っていいだろう。感染させない効果も極めて少ない。布マスクは付けていて息苦しさを感じない。ということは、ウィルスも通すということの証明でもある。職場や学校で布マスクを着けて過ごすというのは、自分自身も危険であるが、周りの人々に対してもリスクを負わせていることを忘れてはならない。ファッション性の高いマスクほど、危険性が高いということを認識すべきであろう。

 

 本日、ある全国チェーンの散髪店に行ってきた。そのお店では7人~8人の理容師が働いている。その中で、3名の技術者が鼻を出してマスクを着用していた。国会の中では議員さんたちも同じように鼻を出しているが、これも大変危険である。鼻を出してマスク着用しても、他の人に感染させることはないから大丈夫だと言う人もいるが、それは強弁である。自分が感染して、無症状で仕事をして、他の人に感染させる危険性がある。症状が出る前の2日間は、感染させる可能性が高い。こんな基本的なことを知らない人も多いのである。

 

 また、意外と多いのが不織布マスクの裏表を逆にして使用しているケースである。不織布マスクにはプリーツが付いている。金具が付いている方を鼻のところにするのは間違わないが、プリーツの折り返しの上下を逆にしている人が多い。ウィルスがプリーツに溜まらないように、プリーツの溝が下を向くように装着するのが正しい。また、布マスクをしている人の中で上下を逆にして着けている人も少なくない。ずり落ちてしまい、鼻が出ているのは逆に装着しているからだ。カーブする角度が急な方を鼻のほうに着けるのが正解だ。

 

 若い人たちほど、コロナに対する危機感がないようだ。基礎疾患がない若者は、無症状であることが多く、重症化しないからと感染対策をしない人が多い。夜の街に出かけてマスクを取って会食するし、酒に酔ってマスクを着けずに大勢で大騒ぎする姿が目に付く。自分たちだけは大丈夫だというような変な自信があるみたいで、安易な行動を繰り返しては感染する若者が多い。しかし、若者でも重症化するケースもあるし、酷い後遺症に長い期間悩まされることもあり、そのせいで職場を失っている人もいる。新型コロナウィルス感染症は、まだ後遺症も含めて解らないことが多いから、若者だろうとリスクを回避すべきだ。

 

 コロナ感染症で重症化する割合は少ないし、インフルエンザよりも死亡率が低いから大丈夫だと思い込んでいる人も少なくない。しかし、それはおおいなる勘違いだ。インフルエンザの死亡率というのは、感染した人全体に対する割合ではなくて、あくまでも症状が現れた人に対する割合だ。ところが新型コロナウィルス感染症の死亡率は、陽性者全体に対する割合なのである。症状が出た人に対する重症化率や死亡率にすれば、インフルエンザよりもはるかに高いのである。後遺症も恐怖である。だから、新型コロナ感染症はかなり危険であるから、布マスクを着用するのを避けて、感染予防に努力するべきなのである。

ある青年の勇気ある行動

 ある20代前半の青年が行なった、勇気ある行動である。ある日の土曜日の夜のことである。電車で40分ぐらいの地方都市に行って、職場の仲間と懇親会を開催して帰宅途中の電車の中で事件は起きたという。酔って若い女性にからんでいる30代ぐらいの男性が乗車していた。かなりしつこくまとわりついて、名前やメールアドレスを教えろと迫っていたという。その様子を隣の車両から何気なく見ていた青年は、こういう人間に関わりあうと、ろくな目に遭わないだろうと思い、誰かが助けてくれないかと願っていたという。

 

 ところが、困っている若い女性が回りを見渡しながら助けを求めて哀願している様子なのに、誰も助けようとしなかった。そこで、この青年は勇気を振り絞って隣の車両に行き、その困っている女性と男性との間に割り入って邪魔をしたらしい。この男性は、この女性と話をしているんだからお前は邪魔をするな!とわめき散らしたけれど、この青年は毅然とした態度で、この若い女性を庇い続けたという。この男性は、しまいにはぶち切れたみたいで、オレに喧嘩を売るのか!と恫喝したらしいが、ひるむことなく若い女性の盾になってあげたのである。

 

 その時の勇気ある若き男性の心情を後から聞いたら、本当はとても恐くて恐くて仕方なかったという。相手の男性は一見労務者風で、力も強そうで凶暴な目をしていたので、何をするか解らないという恐怖があった。ましてや、殴りかかって来たらどうしようかと迷っている自分がいたという。何故なら、その青年は県立高校の臨時講師を勤めて3年目なので、例え自衛のためとはいえ暴力事件は起こしてはならないと思っていたし、運動神経は抜群なのでよけることも出来たが、平和な解決をいつも志していたので、暴力に対して暴力で対応することは絶対に避けたかったというのだ。

 

 そうこうしているうちに、この若き女性が降りる予定の駅に着いて席を立ち上がった所、この凶暴ぶりを発揮している男性も後をつけて、駅を降りようとしたのである。この青年は、自宅がある4つ先の駅で降りる予定だったのだが、このままこの女性と凶暴な男性を二人にしたままでは、何をされるか解らないと、一緒にこの駅から降りる決断をした。案の定、この青年と女性を、くだんの男性もまたを追いかけて駅の改札口を出てきたらしい。この辺の駅は田舎なので無人駅であるし、周りに人家も少なく、薄暗い。どうにかしようと後をつけて来た男性は、二人の様子を伺っていたという。

 

 この青年は機転をきかして、この若い女性に電話をかけさせて、親に迎えに来るように指示したという。そして、迎えに来るまで傍に居てあげたらしい。例の男性は、ある程度の距離をとりながら二人の様子を伺っていたが、その待っている時間が長く感じられ、襲ってきたらどうしようかと気が気ではなかったという。20分くらいしてその女性の母親がやってきて、無事に車に乗せて母親に引き渡し、自分は家の近くまで送ってもらうのが申し訳ないと、次の駅まで送ってもらうことにしたという。この辺も、奥ゆかしいというかバカ正直なくらい人が好い。

 

 車の中で、今までマスクをしたままだった女性が顔を見せて、「私のこと解りますか?」と言われて、この青年は驚いた。何と、同じ高校に通う生徒でクラスは違うが教え子の1人だったのである。生徒から言われるまで、まったく気がつかなかったらしい。助けてあげて、本当に良かったと思ったという。実は後日談がもう一つある。この女性の父親とこの青年の父親は以前からの知り合いであり、この時はその事実を知らずいたのだが、あるきっかけでそのことが判明し、お互いに驚愕する。世の中というのは、実に不思議な縁で繋がっているのだと実感することになる。

 

 電車の中で酔っ払いにからまれて困っている若い女性を、正義感を持って助けるというのは、なかなか出来ない行為である。おそらく、このような青年は世の中にはあまり居ない気がする。実際に、同じ車両にいた乗客は皆見て見ぬふりをしていたのである。この青年は、実に勇気ある行動を取ったのものだと思う。今時の若者らしくないように思う。世の中には、若い女性に対してストーカーを行なったり、無理やり乱暴したり、平気で傷つけたりする若者が多い。でも、こんな素晴らしい若者もいるということがホッとするし、嬉しく思う。こういう若者が存在するなら、日本という国も、まだまだ捨ててもんじゃないと安心する。こんな若者をもっと多く育てて、社会に送り出さなくてはならないと強く思ったものである。

車を選ぶ心理から読み解く人格診断

 新車を選ぶのは、実に楽しいものだ。新車が納入されて、初めて乗る喜びも大きいが、それ以上に車種を選んで悩む時が一番楽しい気がする。性能、デザイン、価格、維持費、アフターサービスなどを総合的に分析し、車種を決定することになる。いろんなカタログを取り寄せて、穴が開くほど見つめる。さらには、ディーラーを訪れて実際に見て触れて試乗して確認する。そして、車種が決まると最終的に色やグレードを決めることになる。カラーを第一選択肢とするケースもあるだろう。家族構成も選ぶ際の大事な要素である。乳幼児や家族が大勢いれば、ワゴン車を選ぶだろう。あれがいいこれがいいと選んでいる時が一番楽しいのである。

 

 ここのメーカーでないと駄目だというユーザーもいる。または、ディーラーに対して絶対的な信頼を置いているので、そのお店以外では車を買わないと決めている人もいる。当然、限られた車種から選ぶことになる。環境保護や燃費の観点から、電気自動車やハイブリッドの車を選択する人が増えてきた。SUV車やワンボックスカーでもハイブリッドの低燃費車が増えたせいもあろう。でも、一方では相も変わらず、図体の大きい燃費の悪いRV車を購入する根強いファンがいる。面白いのは、アウトドア派でもないのに大型のRV車を選ぶ人がいるということである。自分のライフスタイルに合わせて車選びをするのでなく、ただ単に見栄や自己満足の為に車を選択しているとしたら、実に愚かしい行為である。

 

 最近の車のデザインを観察すると、流行りなのだろうが、ほとんどの車でフロントマスクに特徴が出ている。きりっとしたフロントマスクというよりは、どちらかというと見る人を威圧しそうなデザインが多い。ヘッドライトは外側のほうがつり上がっていて、まるで怒って目を吊り上げた顔のようなフロントマスクになっている。歌舞伎役者のような顔を思わせる。狭い道でこんな車に出会ったら、思わず道を譲るだろう。デザイナーの好みなのか、それともこのようなデザインにしないと車が売れないのか分からないが、流行しているのは間違いない。美しいとはお世辞にも言えないデザインだが、このようなフロントマスクの車に乗っている人々は、このデザインを気に入っているようである。

 

 さらに、どうしてこんな色の車を選んでしまうのだろうかと思うのだが、黒色の車を選ぶ人が多い。黒ではなくて微妙に紫色や茶が入っているらしいが、まるで黒色にしか見えない。歌舞伎役者のように怒ったようなフロントマスクといい、黒色の車といい、どうしてこのようなデザインと色の車を人は選んでしまうのか不思議としか思えない。必要以上に大型の車もそうだし、人に威圧感を与えるようなデザインと色の車を何故乗りたがるのだろうか。あまりにも強そうな車を選ぶのは、潜在意識がこのような車を選ばせているのかもしれない。このような車を選ぶ人は、何らかの精神的な偏りがあり、その深層意識がわざと人を威圧するような車を選ばせていると考えたほうが自然であろう。

 

 それはどんな潜在意識かというと、強烈な自己否定感情であろう。または、自分に対する自己承認力の低さであろう。その反動で、自分を大きく強く見せようと無意識下で思うに違いない。攻撃的な性格を見せることも多い。だから、必要以上に大きい車、あえて注目を浴びるような車、自慢できるような車、自己顕示が出来る車、自分を強く見せられるようなデザインと色の車を選ぶのだ。心理学的に分析すると、車やファッションで必要以上に自分を偉大に見せようとするに違いない。ということは、自己否定感情の巨大化と自尊心の低さが、巨大なRV車や黒い車の選択をさせていると言えるだろう。

 

 すべての人がそうだとは言えないが、自己否定感や自己不承認感の強い人というのは、自己の確立が出来ておらず、自我の段階に留まっている人である。いわゆるアイデンテティーが確立されていない人間であろう。こういう人は、身に付けるファッションにも同じ傾向がある。黒い色の服や派手色の洋服を選ぶし、人を威圧するようなデザインのファッションにしやすい。ブランドもので着飾ることも多い。時計や装飾品も、ブランド品やギラギラするようなものを身に付ける。髭を生やす人も少なくない。こういう人は、強引な運転や威圧的な運転をしやすい。このような人間が増えているというのは危険なことであり、実に情けないことでもある。こういう車が後ろからやって来たら、事故に巻き込まれたりあおり運転をされたりするから、先を譲ったほうが賢明だ。

どん底に大地ありとU理論

「どん底に大地あり」と言ったのは、長崎の原爆被爆者で放射線医の永田隆先生である。奥さんを原爆で失い、本人も原爆後遺症の白血病で苦しみながら、原爆病の研究を続けた。その永田先生は、苦しい境遇の若者から「神は本当にいるのですか?」と問われ、「どん底まで落ちろ」と答えたらしい。そして、「どん底に大地あり」と続けた。どん底にも自分の足で立つ地面がある。一度どん底に落ちて、そこで大地を踏みしめた人にしか、本当の幸福は感じられないし、得られないという意味であろう。けだし名言である。

 

永井先生はクリスチャンで、あの名曲「長崎の鐘」が出来るきっかけを作った人物でもある。永井博士の病室兼書斎を「如己堂」と言う。自身の生きる指針としていた新約聖書の一説 「己の如く人を愛せよ」からその名がつけられたと伝えられる。放射線医として、原爆で大けがを負いながらも被爆者たちの治療を続けて、43歳という若さで力が尽きた。永井先生の言いたかったのは、人間が真の自立を確立するには、精神的にどん底に一度落ち込む必要があるということではなかろうか。それは心理学でも、U理論として確立されているものだ。

 

そのどん底というのは、とことんまで不幸な境遇のことだと思いがちだ。しかし、そのどん底というのは、精神的にどん底に落ち込むという経験のことである。人間というのは、本来誰にも知られたくない醜さや弱さを持っている。身勝手で果てしない欲望を持つし、汚れた心を持っている。このようなマイナスの自己を自分が持っていることを認めたくないし、ないことにしまっている。ところが、苦難困難や人間関係での破綻を経たり、メンタルをとことん病んだりして、このマイナスの自己を自分が持っていることをある時に気付くのである。これが精神的などん底である。

 

人間という生き物は、うつ状態や抑うつの心理状態に追い込まれるのを避けたがる。自分に対する否定感情を持ちたくないのだ。だから、自分自身の中に存在する醜くて弱い心をないことにして生きている。または、敢えてそういうマイナスの自己を持っていることを気付かないようにしているのである。つまり、自分はプラスの自己だけを持っていると思いたがるのだ。マイナスの自己を持っている自分のことがとことん嫌になって、精神的などん底に追い込まれるのを避けたいのである。例え落ち込んだとしても、どん底までは落ちず、中途半端なレベルで浮き上がろうとする。

 

このように、中途半端な落ち込みで浮き上がってしまうと、その後何度も落ち込みを経験することになる。何度も何度も辛い目に遭ったり、苦しい経験を繰り返したりするのは、どん底の精神状態まで落ちこまずに逃げていたからである。自分のマイナスの自己である醜さや弱さを、認め受け容れて、とことん追求して糾弾することは、ある意味恐怖である。自分の嫌な部分を素直に認めると、自分を嫌いになり立ち直れなくなる。生きる意味や生きる目的を見失うことになるかもしれないからだ。ところが、それはまるで逆なのである。

 

人間は、誰でも自分自身の心の奥底に醜さや弱さを持っている。汚れた自己を持つ。それを心から認め受け容れて、自分自身が嫌になり精神的などん底に落ち込まないと、真の自己確立が出来ない。何故ならば、自分の中にそんなマイナスの自己をないことにしてしまっていると、関係する相手にそのマイナスの自己を発見した時に、相手を赦せないし、受け容れることができない。例えば、配偶者や恋人、自分の親や子に、そんなマイナスの自己を発見したら、嫌いになってしまうし愛せなくなる。マイナスの自己を持つ自分を赦し愛せないと、自分に関わる相手をまるごと愛せなくなるのだ。

 

U理論というのは、一度精神的にとことん落ち込んで、どん底であるUの底から這いあがることである。つまり、自分の醜さや弱さ、そして心の穢れを認め受け容れて、精神的にとことん落ち込んでから、浮かび上がる(立ち直る)ということである。このように自分のマイナスの自己を素直に認めることができる人は、日本人では極めて少ないような気がする。だから、自分をまるごとありのままに愛せないのかもしれない。日本人は、自分を振り返ることが苦手だし、自分と素直に対話することさえしないように思う。日本人の多くの人に、U理論を知ってほしいし、どん底にこそ大地があることを認識してもらいたい。怖がらずにどん底まで落ちてみようではないか。

優しいだけの男は女性を幸せにできない

「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」と言ったのは、レイモンド・チャンドラーの小説に登場する主人公のフィリップ・マーロウ探偵である。20代の頃にこのマーロウ探偵の台詞を読んだ時、すーっと心に染み込んでしまい、こういう男になりたいと思った。男はタフでなければ、か弱き存在を守れないし、限りなく優しい気持ちがなければ、女性の気持ちに寄り添えない。最近の女性は、優しい男を求める傾向がある。ところが、優しいだけの男では、女性を幸せにはできないということを知らない人が多いのである。

 

男も女も優しいほうがいいに決まっている。でも、優しさだっていろいろある。芯の強さを根底に持った優しさならいいけど、優柔不断的な優しさは不安を与えるだけだ。相手の言いなりになるのが優しさだと思っている男もいる。ましてや、自分が嫌われることを避けるために、周りに迎合するような優しさを発揮する男性もいる。何のことはない、自分のしっかりした価値観や哲学がないのだ。だから、少しぐらい強く女性に言われると、例え自分の考えと違っても言いなりになってしまう。これが優しさだと勘違いしている男が多いのだ。

 

女性は、優しいだけの男性を求めてはいない。やはり、強さを持った男でないと女を幸せにはできない。その強さというのは、肉体的な強さや精神的なタフさだけではない。どんなことがあってもぶれない精神性である。そして、いざとなったら自分を犠牲にしてでも、愛する女性を守ってくれる強さである。強大な敵に出会った時に、愛する女性を見捨てて、我先に逃げてしまうような男性は駄目なのである。苦難困難に立ち向かっても、けっして逃げずに乗り越える強い精神力も必要である。

 

ところが、若い女性は見かけだけの優しさを持つ男に惹かれてしまう傾向がある。何を言っても「いいよ、いいよ」と女性の主張に従う男を選ぶ。例え自分の意見に合わなくても、相手の言いなりになるような男と付き合いたがる。こういう優しさというのは、まったくのまがい物である。自分を女性に気に入ってもらおうと我慢をして、優しそうに見せるだけなのである。こういう男性は、結婚した途端に豹変する。あれ程優しい態度を取っていたのに、自分の思い通りに妻をコントロールしようとして、不機嫌な態度を見せるし横暴にもなる。

 

離婚する夫婦が激増している。熟年離婚も増えているが、若い子育て世代の夫婦もあっさりと別れるケースが増えている。子はかすがいと言われているが、子どもがいても離婚を踏み止まる理由にはならないらしい。離婚の申し立ては、以前は夫からしていたものだ。ところが最近は、夫のほうからでなくて、妻側から離婚を申し出るケースがすごく多いらしい。その離婚の理由は、表向きは性格の不一致となっているが、実は見せかけの優しさだったと気付いたのだろう。そんな夫だから見切りをつけたとのだと思われる。

 

真の優しさとは、ただ単に優しい言葉をかけたり物腰の柔らかい態度をしたりすることではない。自己主張せずに、反論せずに相手に迎合することでもない。自分の確固たる信念は曲げることなく、駄目なものは駄目だと相手に厳しく接することも時には必要だ。例え自分が嫌われても、相手のためになるなら苦言を呈することも大切だ。そのような強さを兼ね備えた優しさが必要なのである。そういう強さに裏打ちされた優しさこそが、安全安心を相手の心に提供することが出来る。

 

子どもや女性の中には、いつも得体の知れない不安を抱えている人が相当数いる。そういう不安を払拭してくれる絶対的な守護神としての『安全基地』が存在しないと、安心して社会に踏み出していけない。子どもが不登校になるのは、安全基地の存在がないからである。父親がどんな場合にも身を挺して我が子を守るという気概を見せないと、子どもは安心して学校に行けなくなる。家庭内で安全基地としての機能を夫が発揮してくれなければ、妻は不安を抱えてしまう。その不安が子どもにも伝わり、子どもはいつも不安を覚えながら生きる。母と子は、お互いに不安を増幅させてしまうのである。これでは、子どもはやがてひきこもりになる。男は優しいだけでは家族を幸せにはできないのだ。

自己マスタリーとは

自己マスタリーという言葉は、あまり聞きなれないかもしれないが、とても大切で生きるには必要不可欠なことである。自己マスタリーを実現していないと、人生において間違った生き方をすることにもなるし、企業や組織への貢献が出来ないばかりか、社会的な存在価値を失いかねない。一人前の人間としての成長や進化ができなくなるのである。この自己マスタリーという言葉を生み出したのは、MITの上級講師ピーター・センゲという人である。学習する組織を確立するための5つのディシプリンのひとつが自己マスタリーである。

 

ピーター・センゲという人物は、システムダイミクスを学び、ビジネスにシステム思考を活用することを提案した。そして、学習する組織という書物を著し、5つのディシプリンを提起して、企業が発展して永続性を持つには、学習する組織にすることが肝要であると説いた。自己マスタリーを実現するには、根底にはシステム思考が必要だとも主張している。自己マスタリーというと、自己練達とか自己熟達と訳されるが、単なる技術や能力が熟練することではない。もっと深い精神面における自己確立のことを指している。

 

自己マスタリーとは、自己をマスターすることであり、自分自身を把握し深く認識するという意味でもある。自己という言葉にこそ意味があると思われる。我々は、自分のことをすべて理解していると誤解している。しかし、それはまったくの幻影であり妄想であると言える。おそらく日本人の中で、真の自己を理解し受容して、自己をマスターしているのは、ほんの一握りしかいないであろう。『自分』を理解している人はいるかもしれないが、『自己』を深く理解している人は、殆どいないと言っても過言ではないのである。

 

自己と対比されるのが、自我である。自我とはエゴとも言われ、どちらかというと自我が強い人はあまり好かれない。しかし、自我の確立は人間の成長期において必要なことであり、自我が確立されていないと自分を主張できなくなってしまう。反抗期というのは自我が芽生えてきて起きると考えられている。現代の子どもは、反抗期を迎えずに大人になってしまうケースが多く、愛着障害になってしまうことも少なくない。あまりにも親から執拗に介入され続けると、自我の確立がされない。

 

本来は、自我が確立されて、その後に自己が確立されるという経過を辿るのが望ましい。自己の確立というのは、自我と自己を統合させるという意味もある。自我と自己の両方をバランスよく発揮できると、自分らしく生きることが可能となる。現代の日本人は、それが出来ないで大人になっている人が多い。だから、自我が強過ぎてしまい、自己中や身勝手な人が多いし、自分の利益や損得しか考えない人も少なくない。個別最適しか考えず、全体最適の生き方が出来ないから、企業内、組織、家庭の中で孤立する。

 

自己マスタリーは、努力をすれば誰でもできるのかというとそうではない。自我と自己を統合すれば、自己マスタリーが可能になるという単純なものでもない。システム思考を身に付けるというのも大事であるが、それはマストでありイコールではない。どのように自己マスタリーを実現するかを説明するのに、『U理論』を使うと理解しやすいと考えられる。一旦Uの底まで落ちて落ちて落ち込んでしまい、自分の内なるマイナスの自己(エゴ)を徹底して認め受け容れることが必要となる。醜く穢れて私利私欲にまみれた自己を発見して、それを自己糾弾するのである。そうして初めて自己が確立できて、Uの底から浮き上がれる。

 

認めたくない酷いマイナスの自己を発見すると、人は愕然とする。だから、マイナスの自己は自分にはないものとして生きている人間が殆どである。こういう人間は、100年経っても自己マスタリーを実現できない。マイナスの自己を自分の心に発見して、とことん糾弾して、そのうえでマイナスの自己を慈しむことが求められる。そうすると、マイナスの自己をプラスの自己に転化させて、全体最適の価値観に基づいた生き方にシフトできるのである。マイナスの自己が大きければ大きいほど、プラスに転化したときのエネルギーは強大になる。自分の深い心を素直に謙虚に見つめることが出来る人しか、自己マスタリーを実現できない。

 

※自己マスタリーを実現するための学習・研修を受けたいと思う方は、イスキアの郷しらかわにご相談ください。コロナ感染症が収まれば、研修の受講をお受けします。資料や参考図書を紹介してほしいという方には、お知らせしますので問い合わせフォームからご相談ください。