私憤を切り捨てて公憤にシフトする

 憤りの感情は、自分の脳を痛めつけるということを、何度も提唱し続けている。怒りとか憎しみの心を持つと、偏桃体が異常興奮をしてしまい、コルチゾールを大量に分泌してしまい、偏桃体が肥大化すると共に海馬と前頭前野脳を萎縮させる。つまり、正常な判断力や記憶力を低下させてしまうのである。セロトニンやオキシトシンの分泌まで抑制してしまい、幸福感や安心感までも奪い、いつも悲しくて不安な気持ちにさせてしまうのである。だから、憤りの感情は持ち続けずに、すぐに消化や昇華をさせなければならないのだ。

 特に、社会的な憤りは仕方ないけれども、個人的な憤りは避けなければならない。何故かと言うと、政治家や行政などに対する怒りと言うのは、公憤と言って自分の脳に対する影響は少ないのである。ところが私憤と言って、身近な家族・親族や職場の人に対する怒りというのは、自分の脳に対して深刻な影響を与えてしまうのである。何故、公憤と私憤は違うのかと言うと、公憤というのはその相手に対してSNSなどで批判や否定をしたとしても、相手に対する直接の攻撃は出来ないのである。私憤は、相手に相手に攻撃も出来るのである。

 公憤とは、当局というか政治や行政への怒りであり、ある意味仕方がないという怒りでもある。当然、どうにもならない怒りであり、その怒りの感情があったとしても折り合いをつけなければならないことを、なんとなく自分で納得するしかないのである。ところが、私憤とは特定の人物やグループへの怒りであるから、折り合いをつけることは極めて難しい。その怒りの感情は、ずっと脳に怒りや憎しみの感情と共に記憶される。ましてや、自分にとってあまりにも理不尽で辛い思いをさせられた記憶が、強烈な心的外傷として残るのである。

 例えば、その心的外傷が親からの虐待やネグレクト、または行き過ぎた支配や制御などの過干渉を受けて、毒親に対する怒りや憎しみを抱え続けている人がいる。また、配偶者からモラハラやパワハラを受け続けて、メンタルが落ち込んでしまって配偶者への恨みを持つ人もいる。職場で、パワハラやセクハラを上司や同僚から受け続けて、休職や離職に追い込まれて憤りを持ち続けている人もいる。さらに、青少年期に性被害を受けた為に、大きなトラウマを抱えてしまい、加害者に強い憎しみを抱き続けている人もいる。

 そんな特定の相手に対する怒りや憎しみは、私憤としてずっと記憶に残っていて、消し去ることが難しい。簡単に相手を許せるものではないし、そんな自分の人生を受け容れることが出来る訳がない。このような強烈なトラウマは、一度だけでもPTSDとしての症状も起こすし、何度も心的外傷を受け続けると複雑性のPTSDという深刻な精神障害を抱えることになる。なにしろ、生きる上でとても大切な脳にダメージを与えてしまうので、私憤を何とか消化・昇華させないと、長期間に渡り自分を苦しめることになってしまうのである。

 それでは、私憤を乗り越える為にはどうすれば良いのであろうか。医学的アプローチも効果が認められるし、他人による支援も必要である。しかし、何よりも大事なのは自分自身が私憤をどう乗り越えるのかである。いくら医学的なアプローチを受けたとしても、私憤をどのように認識するのかが問われるのである。私憤を乗り越えるためのヒントが、私憤を公憤に切り替えるということである。毒親やハラスメント配偶者、または問題上司などによる謂れなき虐待や攻撃に対して、加害者に対する憎しみや怒りを持つのは仕方ないとしても、そのハラスメントが起きるバックグラウンドやシステムを洞察することが必要なのである。

 まずは毒親というのは、自らが好んで毒親になった訳ではない。自分自身が毒親から同じように虐待や束縛を受けて、愛されずに育ったのである。ハラスメント配偶者や上司もまた、同じように問題ある社会によって生み出されモンスターである。そういう意味では、私憤でありながら教育や社会システムに問題があるから起きた公憤とも言える。パーソナルはポリティカルという言葉がある。私憤が起きた原因は個にあるのではなくて、政治や行政などの社会システムにあるのだ。家庭教育や学校教育に問題があるから、私憤を産み出したと言える。だからこそ、私憤を切り捨て、公憤にシフトすることが大切なのである。

登山によってメンタルが癒される訳

 メンタル疾患を治そうとすると、その治療には時間を要するし極めて治りにくいということで、一筋縄ではいかないということを当事者も治療者も認識している。投薬治療も劇的に効果が出るケースもあれば、まったく効かないという症例もある。ましてや、確定診断する事さえ難しいこともあれば、誤診だってある。最新医学を活用したとしても、その治療は難しいというのが共通認識である。そんな状況の中、自然体験などによって、メンタル疾患や難治性の精神障害が癒されることが少なくない。そして、本格的な登山経験によってメンタル疾患が治ったという経験を持つ人も少なくない。

 登山によって、癌が寛解した人も多い。癌患者が登山グループを作ってその病気を完治させているケースもある。登山をすることで、精神疾患が寛解するとか症状が軽くなるというのは、自分でも何度も経験しているのであるが、どうしてなのかその理由について考察してみたい。登山というとハイキングやトレッキングのレベルを超えた、2,000~3,000メートルの山登りであるから、メンタル疾患を抱えている人が単独で登るというのは不可能である。当然、誰かのサポートがなければ登れない。厳寒期の冬山登山やクライミング技術を要求されるような岸壁登山は無理だが、夏山であるならサポートにより殆どの山登りが可能だ。

 また、メンタルを病んでいる人が山を登るなんて絶対に無理だと思っている人が多いであろう。勿論、自室に引きこもり寝たきりになり、起き上がることさえ出来ない人が登山をするのは無理である。外の散歩程度なら可能な体力があれば、簡単なトレッキングから始めれば可能だ。適切できめ細かなサポートがあればという条件付きながら、メンタルを病んだ人が登山をするのは可能である。実際に、メンタルを病んでいる方々を登山に連れて行った経験を持っている自分には、自信を持って登山することを薦めている。

 登山によってメンタル疾患や精神障害が癒されるのは何故かと言うと、まずは自然との触れ合いによる癒し効果が挙げられる。人間は自然が豊かで人工物がない空間に置かれると、自然のままの自分でいられる。他人や親族との関係性において、いい人でありたい嫌われたくないと無理したり我慢したりして本来の自分じゃない自分を演じなくても良い。これは非常に楽な気持ちになる。自分らしくありのままの自分でいられるというのは、気持ちが穏やかになる。そして、大きな自然の中に抱かれると素直で謙虚な気持ちにもなれるのだ。

 自然が豊かで樹木が豊富にある場所には、フィトンチッドと呼ばれるストレス軽減効果がある物質がたくさん漂っている。小川や渓流が流れる水辺には、マイナスイオンが多く存在して、自律神経のバランスが保たれるし酸化され過ぎた人体の細胞が生き返る。標高が少しでも高い山に登ると下界より気圧が低くなる。空気中の酸素量が減ると、自律神経の副交感神経が活性化して、ストレスが軽減されて自己免疫力が向上する。美しい眺望に感動して登山道わきに咲き誇る花々を愛でることで、心が癒されるし生きる勇気が湧いてくる。

 山岳修験者たちは、厳し過ぎるような体力の限界に挑むような登山を何度も繰り返すことで、自分の心に住んでいる邪気や弱気、穢れを振り払う事ができた。禊(みそぎ)と呼ばれる修行によって、自分の心身を磨いて清浄なる心を得たのである。我々も、体力の限界とは言えなくても、ちょっとだけ厳しい登山を継続すれば、穢れを払うことが出来るに違いない。まさしく禊のような効果で、清浄な心を持つことができる。そして、厳しくて長い登山道を重い荷物を背負って歩いて頂上に立てたなら、頑張った自分を誉めてあげられる。

 自分自身を心から誉めてあげる、そんな自分の事を心から愛せることが出来たなら、自尊感情が湧き上がってくる。そんな登山経験を何度も積み重ねることで、自分を受容し寛容の心を持って、自分に接することが出来よう。登山による大きな癒し効果だと言える。さらに、登山がメンタルを癒す一番の効果は、なんと言ってもマインドフルネスによるものだと言えよう。三昧(ざんまい)という仏教用語がある。何もかも忘れて目の前のことに没頭することである。まさに『登山三昧』という心境になることで、マインドフルネス効果が生まれる。登山によってメンタルが癒されるのは、以上のような理由からである。

※イスキアの郷しらかわでは、長い期間に渡り登山体験のサポートを通して、多くの悩み苦しむ方々を癒してきました。登りながらのカウンセリングは、自然の雄大さに心も解放されるので、大きな効果を生みます。中には、本格的な山登りである百名山の登山も支援してきました。岩手山、鳥海山、月山、燧ケ岳、会津駒ケ岳、磐梯山、安達太良山、男体山などの名山にもお連れしました。身近な低山のトレッキングから本格的登山まで、クライアントの力量に合わせて登山ガイドをいたします。是非、ご検討のうえ、お問い合わせください。

背外側前頭前野脳DLPFCがクラッシュ!

 DLPFC(背外側前頭前野脳)という医学専門用語が、最近注目されるようになった。最新医学における脳科学研究によって、うつ病はDLPFCの機能低下によって起きているということが判明したのである。以前から前頭前野脳の機能低下が影響しているのではないかと言われてきたが、その中の特定の前頭前野脳であるDLPFCの機能低下がうつ病の原因だと特定されたのである。そのうえで、直接DLPFCにピンポイントで電磁的刺激を与えることで、うつ病が劇的に改善するという治療効果を上げている症例が増えている。

 うつ病を患っている人にとっては朗報なのであるが、このγTMS療法がどこの医療機関でもこの治療が出来るかと言うと、残念ながらまだ普及していない。まだ保健診療で認められるには、二カ月の入院治療や様々制限があり、なかなか認められにくい。自由診療であれば通院治療でも可能だが、すべての医療機関でも簡単に治療を受けられるまでには至っていない。しかし、今まではうつ病の原因は解らないことが多くて、セロトニン神経が影響しているのではないかとの推測(仮説)しかなかったから、すごい発見である。

 以前から、長い期間うつ病などの気分障害を起こしている人の脳をCT画像で確認すると、偏桃体が肥大化して、海馬や前頭前野脳が萎縮していることが解っていた。その前頭前野脳のうちDLPFCに萎縮が起きてしまい、機能が低下しているものと思われる。DLPFCは、コンピュータにおけるフラッシュメモリーのような働きをしていると言われている。一時的に記憶をする機能と、演算機能のように様々な情報を複合的に処理しながら、合理的な判断をする機能を持つらしい。また、倫理的な判断機能も持つとも言われている。

 したがって、DLPFCが機能低下や停止に陥ると、一時的記憶というか最新の記憶が飛んでしまうということが起きやすい。まさにフラッシュメモリーがクラッシュしたかのような状況に陥るのである。正しく合理的な判断能力も失うし、倫理的な判断も苦手になるのである。まさに、うつ病患者が判断能力や記憶能力を失い、休職に追い込まれてしまうのは、このせいであろう。頭では分かっていても、心身がフリーズしてしまったかのように、身体も動かなくなり、脳も機能停止に陥るのである。まるでPCがフリーズしたかのように。

 何故、DLPFCが萎縮して機能が低下してしまうのかというと、そのメカニズムは完全に解明している訳ではないが、こんな推測がされている。強烈な悲しみや寂しさ、怒りや憎しみ、強大な不安や恐怖が次から次へと襲ってくると、ノルアドレナリンが大量に偏桃体に分泌されるし、コルチゾールというステロイドホルモンが大量に放出される。本来であれば、不安や怖れがあり異常興奮を起こしそうになれば、DLPFCが抑え込んでくれるのに、何度も何度も不安や怖れが積み重ねられると、限度を超えてしまい偏桃体が興奮してしまうのである。

 情動反応(逃避や闘争状況)が起きて偏桃体の異常興奮が長期間続いてしまうと、偏桃体が肥大化すると共に、海馬や前頭前野脳が萎縮してしまうのだ。DLPFCが機能低下を起こす。何故、そんな反応を人間の脳はしてしまうのであろうか。おそらく、人間の防衛反応が働くせいではなかろうか。闘う事もできず逃げる事もできなくなると、緊急避難的に心身がフリーズするのである。ポリヴェーガル理論における、背側迷走神経の過剰反応が起きて、自殺や精神の破綻を起こさないように、DLPFCの機能低下が起きて、自分の命を防衛するのである。

 このポリヴェーガル理論における背側迷走神経の過剰反応による心身のフリーズ・シャットダウン化は、トラウマの積み重ねによっても起きることもある。何度も何度も心的外傷を受けることで、徐々に背側迷走神経の過剰反応が溜まりに溜まって、限度を超えた際にフリーズが起きるのであろう。このフリーズをγTMS療法によるDLPFCの機能を復活させて中途半端に緩めてしまうと、自殺してしまう怖れがある。うつ病の回復期に自殺が起きるのは、背側迷走神経のせいである。故に、重症のうつ病にはγTMS療法は適応除外となっている。

※フリーズした心身を完全にしかもゆっくりと緩める為には、心理的安全性を確保してソマティックケアを併用しながら、カウンセリングやセラピーを実施する必要があります。しかし、その際に気を付けなければならないのは、DLPFCの機能低下が起きていると、認知行動療法においては合理的判断能力が出来ないし一時記憶が働かないので、極めて難しいということです。どちらかというと、ナラティブアプローチ療法やオープンダイアローグ療法の方が適用しやすいかもしれません。勿論、その際に簡単な絵や表を使ったりして、視覚にも訴える必要があると思います。

憤りの心は燎原の火の如し

 憤りの心は燎原の火の如しという格言がある。仏教において、憤り=怒りは煩悩のひとつであり、我が身を滅ぼす悪であるとして、どんな理由があろうとも怒りの感情は捨てなさいと説く。憤りの感情というのは、燎原(原っぱ)の火のようであり、自分が点けたその火に飲み込まれて焼け死んでしまうという意味である。徳川家康も同じような事を遺訓として後世に伝えている。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、と言い遺している。怒りと言う感情が、どれほど深刻な悪影響を与えるのかという警鐘を鳴らしているのである。

 怒りの感情というものが、どれほど自分自身に対して悪影響を与えるのかということを、科学的・論理的に考察してみたい。まず、怒りや憎しみという感情は、人間の正常な判断力を削いでしまうということを認識すべきである。怒りや憎しみの感情が高まってしまうと、人間はその感情の渦に飲み込まれてしまい、正しい判断力を失うばかりでなく、思いがけない言動に駆られてしまうことが多い。後から冷静になって判断すると、どうしてあんな愚かなことをしてしまったかと反省するのだが、怒りの感情は人間の冷静さを失わせるのである。

 怒りや憎しみの感情がどうして判断能力を奪うのかと言うと、それは脳中枢部である大脳辺縁系の偏桃体の過剰反応によるものと推測されている。本来は理性的判断能力を持つのに、憎しみや怒りの感情があまりにも頻繁に起きてしまうと、偏桃体が暴走してしまい判断能力が機能しなくなるらしい。怒りや憎しみをまったく否定するものではないが、ある程度に留めることが必要なのであろう。怒りや憎しみの感情を持ち続けると、偏桃体の興奮は止まらずに暴走し続ける。そうすると、脳はとんでもない変性を遂げることになる。

 ストレスホルモンの一種で副腎皮質ホルモンのひとつであるコルチゾールが過剰に分泌され続けて、偏桃体が肥大化してしまうのである。そうなると、自律神経のうち交感神経が過剰に活性化すると共に、それが過ぎてしまうと副交感神経まで影響を受けてしまう。迷走神経のうち背側迷走神経が暴走してしまい、心身のフリーズやシャットダウンに陥るのである。また、偏桃体の興奮が収まらず何度も暴走することで肥大化してしまった偏桃体が、海馬や前頭体にまで影響を及ぼして、萎縮させてそれらの機能低下を招いてしまうのである。

 特に、DLPFCと略称で呼ばれる背外側側前頭前野脳の機能が著しくダウンしてしまうことから致命的な悪影響を起こす。DLPFCはフラッシュメモリーのような機能を持つ。一時的な記憶装置と演算を受け持つのだ。DLPFCの機能が低下すると、記憶が飛んだり間違った記憶を作り出すエラーを起こす。また、複雑な判断や理論の統合が上手くいかなくなるばかりか、倫理的な判断が出来なくなるし、他人との良い関係性が作れなくなる怖れがある。海馬は記憶を司るところであり、認知機能に著しい障害を起こしかねない。

 偏桃体を暴走させてしまうのは、怒り憎しみだけではなくて、多大な悲しみ寂しさや不安・恐怖感も同じである。さらには、過大なる痛みやストレスも同じように偏桃体と海馬・前頭前野に悪影響を与えてしまう。偏桃体の過剰な興奮を、本来は前頭前野が鎮めてくれる筈だが、何度も何度も繰り返して憎しみや痛み、そして過大なストレスを与え続けられると、不眠となりやがてはメンタル疾患を抱えてしまうことになる。だからこそ、過大なストレスになってしまう怒りや憎しみは、どんな理由があろうとも持ち続けてはならないのである。

 それでは、どんな理不尽なことをされても、人間は怒り憎しみを持ち続けないように我慢して笑顔でやり過ごせというのか。それでは、問題は解決しない。人間の記憶は、そんなに便利に抑えられるものではない。誰かにその怒りや憎しみを批判されることなく否定されずに傾聴されて共感されたら、怒りや憎しみは和らぎ偏桃体の異常興奮は抑えられる。それだけでは不十分で、「辛かったね苦しかったね」と抱きしめられたり背中を擦られたりすると、視床下部で合成され下垂体からオキシトシンを分泌させることにより扁桃体の興奮を鎮静化することが出来るのである。

縄文人は山登りをしていた!

 縄文時代というと、弥生人が農耕を始める前に、狩猟を中心にして生きていて、言葉もなくて文化もそんなに発達していない時代だと思われていた。したがって、お互いのコミュニケーションも不十分であり、文明なんてある訳がないと思われていたのである。ところが、縄文時代の学術的研究が進み、縄文人の暮らしぶりが判明してくると、高度な文化だけでなく美的な感覚も優れていて、自然の摂理に沿った合理的で環境保護に配慮した生活をしていたことが解ったのである。そして、なんと登山までもしていたということが解ったのだ。

 縄文時代というのは、およそ13,000年も続いたと言われている。それにしても、13,000年間もお互いに戦争や闘争もせず、平和で穏やかな生活をしていたことが、人骨の調査で判明している。狩猟を中心にしていたから、農耕はしなかったとされているが、山への植樹はしていたということが解っている。栗や胡桃などの木の実や果実が実る木々をせっせと植えていたことが解っている。木の実や果実が実る樹木だけを植樹した訳ではない。里山だけでなく、奥山にもせっせと広葉樹を中心に植樹したことが解ったという。

 洪水を防ぐため、豊かで安定した水資源の為にも豊かな広葉樹の森が必要だという事を認識していたらしい。それだけではないのだ。海の河口付近に生息する貝や魚類が豊かに育つ為には、広葉樹の豊かな森が必要だと理解していたと言うから驚きだ。その山からの恵みに感謝もしていたろう。当然、山に住んでいるであろう神々に感謝し、豊かな恵みを得るために山の神々に必死に祈ったに違いない。そんなアニミズムのひとつとして、登山をして神々に感謝をすると共に、自然からの豊かな恵みを得たいと祈ったのは当然である。

 どうして、縄文人が登山をしていたことが解ったかというと、山頂付近から縄文土器が見つかったからである。縄文土器を何のために山頂まで持って行ったかというと、数人の登山者(祈る人)が山頂で煮炊きをしたと思われる。神に供えたのだろうし、食料を煮炊きして食べたのではなかろうか。そして、便利なようにその山頂に備え付けて、定期的な祈りのために、その縄文土器を共有したと思われる。どこの山頂でそれらの縄文土器が見つかったのかというと、百名山の甲斐駒ヶ岳や日光男体山でも見つかったというから驚きである。

 当時は、登山靴もなく裸足である。機能的な登山服や雨具もない時代に、そんな高山に登ったのだ。途中までバスや車も使えないから、居住区域から延々と歩いたのだ。何日間も要したに違いないし、命がけの登山であったことだろう。そんな危険で大変な思いまでして山に登ったというのは、山頂で神に感謝をして祈る為だったとは言え、縄文人にとってそれが特別な意味を持っていたのは間違いない。弥生時代や古墳時代、大和朝廷から飛鳥時代には登山の形跡は残っていない。山岳修行や仏僧による開山の時代まで登山は休止する。

 高山に登る為には、天候を長期的に予測しなければならない。甲斐駒ヶ岳のような高山で暴風雨に遭ったら、テントもないから命を失くすことになる。勿論、地図はなかったとしても、方位や高度感覚は必要である。そんな登山に関する知識を持っていたというだけでも、知的レベルが高いと断言できる。それにしても、そんな危険まで冒して高山に登ったのは何故であろうか。麓で山の頂上に向かって感謝や祈祷をしても良いではないか。しかし、実際には山頂まで行って祈祷をしたのである。縄文人が高い山頂を目指した理由があるに違いない。

 おそらく、神々が住むのは山頂付近の岩々であると思ったのであろう。麓の森や岩場にも神は住んでいると、縄文人は思っていただろう。しかし、人々が容易に近づけない山の山頂にこそ、偉大なる神がいたと確信していたに違いない。そして、天におわす神に少しでも近い所から祈りたいと思ったのかもしれない。そして、そんな険しい高山に登り祈ることを許されるのは、神に許された人だけだと確信していたからだと思われる。高く険しく危険な山を登れる人は、穢れのない清らかな心身を持つ選ばれた人間だけだという思いもあったであろう。現代にも通じるのであろうが、山に登るのは禊でもあったのだ。

パーソナルはポリティカル

 最近になって、あるTVドラマで使われていて、いい言い方だなあと感心している格言がある。それは、『パーソナルはポリティカル』という言葉である。日本語に無理やり訳せば、個人的なことは政治的なことであるという意味になろう。米国で、1960代に学生運動及びフェミニズムの一環として盛んに唱えられたスローガンとして広まった。男性中心社会こそが女性の権利を奪っていることから、政治的な問題として解決しなければならないという主張だった。さらに、このパーソナルはポリティカルは、広い意味でも使われるようになった。

 広い意味とは、個人的な要因によって起きている問題も実は、政治的に解決されるべきものであるという主張である。TBSテレビの『御上先生』で盛んに言われているのは、広い意味での個人的なことは政治的なことによるという主張である。個人的な問題と捉えられるような家族の問題も、実は政治的な課題として捉えるべきだという主張である。ドラマでも触れていたが、発達障害を抱えた青少年への支援は社会的課題として扱うべきだということも。相対的貧困がG7の中で最下位だし、格差社会が教育の貧困を産み出している。

 小泉政権から安倍政権への時代には、『自己責任』という言葉が社会に対して盛んに発信されていた。経済的貧困や教育的貧困も、すべては自己責任だという主張だった。労働の流動化を図り労働コストを下げないと世界での競争に勝てないからと、非正規労働者を大量に生み出した。金融経済を活性化させて企業の総資産を増やせば、経済成長して国民の生活が豊かになると盛んに喧伝した。異次元の金融の量的緩和をして円安に誘導して、株価を高値に導き大企業の企業価値を高めた。すべての政策が相対的貧困と格差社会を産んだ。

 そもそも政治の役割とは、すべての国民が健康で高福祉の生活を享受できるようにするということであり、その為には行き過ぎた格差社会を作らせないように富の再分配を行うことが必要だ。経済と教育の貧困層を作り出さないことが為政者の使命である。ところが、小泉政権から安倍政権における政策は、皮肉にもことごとくその逆の結果を産み出したのである。時の為政者たちが、自分たちの失政を棚に上げて、すべては自己責任だと強弁するのは、許せない所業である。パーソナルはポリティカルというスローガンとは真逆の主張である。

 現代における他の社会問題にも言及したい。少子化の問題も、政治の無策が起こしたと言っても過言ではない。小中学生の自殺者が史上最多になったこと、不登校やひきこもりが激増している問題、教育格差が広がっていること、ヤングケアラーの問題、不適切指導や性加害を繰り返す教師の急増など、これらの教育の問題は個人の責任ではなくて、政治に責任がある。ところが、政治家はこれらの社会的な問題が起きていることを、自分たちの責任だとは思わず、個人的な問題と考えているのである。だから、本気で解決しようとはしていない。

 また、政治家だけでなくて一般市民もパーソナルの問題だと思い、ポリティカルの問題だと認識していないことがある。例えば、学校や職場におけるいじめやパワハラ、家庭における毒親や虐待などの問題である。さらに、性加害行動やセクハラを何度も繰り返す男がいる。このような問題を起こすのは個人の資質の問題であり、社会的な課題とは思っていない人もあろう。しかし、これもまた社会的に問題があるから、いつまでも無くならないのである。このような問題を起こすような低劣な価値観を持つ人間が存在するのは、教育に問題があるからだ。

 それは家庭の教育に問題があると思いがちだが、社会教育と学校教育にも根源的誤謬があるから、家庭教育に影響して起きている問題なのである。学校教育や社会教育において、本格的な思想・哲学や価値観の教育を避けてきた歴史がある。また、学校教育において形而上学を排除してしまった為に、低劣な価値観しか持てない人間に育ててしまったのである。本来は、全体最適や全体幸福の生き方を教えるべき学校教育と社会教育が、個別最適や個別幸福という低劣な価値観しか教えなかったのだ。自分の損得や利害を優先し、人の為世の為に尽くす生き方を教えなかったのである。この教育の間違いこそが、問題を起こす人間を育てた原因である。パーソナルはポリティカルという典型である。

発達障害がこんなにも激増している訳

 発達障害の子どもが年々激増している。以前なら発達障害の子どもは、ほんの数%しかいなかったのに、いまや30%の割合で存在すると思われる。特に男の子にはその傾向が強く、約半数に発達の凸凹があると推測される。それほどまでに発達障害の子どもが増えたのは何故であろうか。発達障害というと、様々な障害があげられる。自閉症スペクトラム障害(ASD)、アスペルガー症候群、ADHD、各種の学習障害(LD)がよく知られている。それぞれ、先天的な脳の機能障害であり、子育ての仕方が悪くて起きるのではないというのが定説である。

 とは言いながら、発達障害の子どもを実際に支援している人々は、先天的な脳の機能障害だけに原因を特定するには無理があると思っている。勿論、先天的な異常があり、育てにくさがある為に強化されたとも考えれるが、それだけではないように思える。後天的に症状が現れたりする発達障害のケースもある。どちらかというと後者のケースが多いような気がする。そのうえで、誤解や批判を受ける覚悟で言えば、発達障害の多くのケースでは、親の育て方によって症状が強化・固定化されているとしか思えないのである。

 遺伝的な脳器質の異常で起きる発達障害は、確かにある。しかし、大多数の発達障害は後天的な要因によって起きていると推測される。どういうメカニズムと要因によるのかというと、誕生後の対応による影響があると推測される。赤ちゃんが生まれると産声をあげる。あの赤ちゃんの第一声は、胎内から外に出てから肺呼吸を始める時の苦しさからだと推測されている。でも、その苦しさからの泣き声だけではない気がする。胎内で母親から守られている環境から、母体と切り離される大きな不安と恐怖から泣くのではないかと思われる。

 今でこそ誕生後すぐに母親の胸に抱かされるようになったが、以前はすぐに引き離されて新生児室にて育てられた。この誕生後すぐに母親の胸に抱かれて、ずっと母親の傍に置かれて母乳で育てられたら、赤ちゃんの不安や怖れは払拭される。母親にずっと抱かれることが続けば、オキシトシンという安心ホルモンが十分に分泌され、オキシトシンレセプターが大量に形成される。ところが、何らかの理由で母親と引き離されてしまい、スキンシップが不十分だとオキシトシンホルモンが分泌されず、レセプターも未形成のままになる。

 このオキシトシンレセプターが不足することで、赤ちゃんの不安や恐怖感が増大してしまい、HSCになってしまうのである。このHSCによる影響で、脳にも甚大な被害を与えてしまう。不安に苛まれ偏桃体が肥大化すると共に、前頭前野脳、とりわけDLPFCと呼ばれる背外側前頭前野脳の機能低下を産むのである。また、25野脳にも機能低下が起きるのではなかろうか。こうして、脳の壊滅的な器質的変化が起きてしまい、発達の凸凹と育てにくさの症状が起きると考えたほうが、論理的である。さらには、二次的な症状も起きるのである。

 HSCによる聴覚過敏が強く出て、周りの音や話し声が雑音にしか聞こえなくなり、周りの人の声が聞けなくなってしまい、ASDのような症状を起こすのである。さらには、あまりにも不安や恐怖が強く感じて、何気ない言葉や態度に酷く傷付いてトラウマ化してしまい、何度もトラウマを積み重ねられて、複雑性のPTSDを起こすのである。このC-PTSDの二次的症状として、ASDのような症状が出てしまうとも考えられる。母親も同じように子育ての不安を抱えているので、子どもの不安と共鳴して増幅してしまうと考えられる。

 HSCによる聴覚過敏などと並行した育てにくさがあり、親は子どもに対して必要以上に干渉と介入を繰り返してしまう。つまり、子どもが本来持つ自己組織化する働きが育つのを待てなくて、ついつい子どもに支配的な態度をしてしまうのである。それも、こうしないと将来とんでもない不都合や不具合が起きると、恐怖を与えて指導教育をしてしまうと、不安や怖れが益々強くなり、HSCが強化されてしまい、発達障害の症状が強化される。それでなくても、主体性・自発性・自主性・責任性・発展性・自己犠牲性が乏しい子どもなのに、益々この自己組織化が阻害されることになる。このようにして、発達障害は激増しているのである。

※イスキアの郷しらかわでは発達障害の青少年を長年に渡りサポートしてきました。その経験から実感しているのは、以前のような発達障害は一定程度存在していますが、二次的症状としての後天性の発達障害が異常に増えているということです。不登校やひきこもりになっている方は、二次的な発達障害を抱えていることが多いのです。そして、この二次的な後天性の発達障害は、適切なケアにより症状が緩和されます。

問題社員を見分ける採用面接の質問

 国を代表する大企業やメガバンクなどで、驚くような不祥事が起きている。メガバンクの貸金庫の中の現金や貴金属が、ベテラン行員により窃取されていたというニュースには驚いた。採用時の面接は厳しいし、本来はしてはならない身元調査も、厳格に実施している筈だ。それなのに、こんな犯罪に手を染めてしまう社員・行員を採用してしまうなんて、人を見る眼まで企業の人事部社員は失ってしまっているのか。ましてや、役員だって最終面接には立ち会う筈なのに、見落とすとは何という大失態であろうか。


 民間企業だけではない。行政職員である公務員の不祥事だって後を絶たない。子どもを健全に育てる立場にある教職員が、子どもに対して暴言・暴力を振るうニュースは枚挙に暇がない程だ。陰惨な性加害を起こす教師も数多いし、校長などの管理職でさえ性加害事件を起こす始末だ。昇任・昇格試験の杜撰さが際立つ。司法警察官だけでなく、検事・判事の不祥事が多発するに至っては、採用面接での的確な人物判断をできる採用面接者がもはや存在しないということの結論に至る。人の本質を見抜く眼を持つ人がいなくなったということだ。

 このような事態に陥った要因のひとつが、採用時における人権尊重の扱いである。人権をあまりにも意識するあまり、家族構成・家族の職業・出自・政治信条・信仰などを聞いてはならないと自主制限をしてしまう企業や行政が増えたのである。確かに、そういった人権を侵害してしまうかもしれないグレーゾーンの質問は、すぐにSNSで叩かれてしまうので、控え勝ちになるのも仕方ない。本人の能力や主体性・自発性・自主性・責任感・チャレンジ性についての質問なら問題ないが、性格や人格を問うような質問は避ける傾向にある。

 しかしながら、性格・人格・価値観・哲学・内発的動機度・チャレンジ精神などは、職業人としてはとても大切な要素である。それを明らかにして採用しないと、やがて活躍出来ないようなハズレ職員を採用してしまうリスクがある。ましてや、正義感・倫理観・慈愛・慈悲・博愛の心がない者を採用したら、とんでもない悪事を働く職員になってしまう。どうにかして、採用時の試験や面接において、それらの要素を確認したいのである。そういう採用時のチェックがなおざりにされて来たから、とんでもない悪事を働く職員が増えたのである。

 それでは、具体的にどんな質問をすれば人権に抵触せずに、正しい人物像を明らかに出来るのであろうか。その質問は実に簡単であり、この質問に対する応答を確認すれば、不祥事を起こす職員は排除することが可能だ。それは、このような質問をすればよい。「あなたと親や家族との関係性は良いですか?それともあまり良くないと感じていますか?➀とても良い関係性だ➁ありふれた普通の関係性だ➂あまり良い関係性だと言えない、の三択で答えてもらうことで解る。この三つの選択肢で答えてもらえば、問題になる職員は明確になる。

 まず、➀の親との関係性が極めて良好であると答えた人物なら、身元は間違いない。何故なら、家族の関係性がすこぶる良好であるなら、不祥事を起こすことは絶対にしない。➂の親の関係性が良くないという人物は、絶対に採用してはならない。自分の利益の為に平気で嘘をつくし、犯罪をすることに躊躇しない。➁の普通も同じで、採用してはならない。親や家族の関係性がすこぶる良好で、強い絆で繋がっているならば、不祥事を起こせば家族に迷惑が及ぶこと必定である。家族を大切に思う人は、罪を犯すことは絶対にしないものだ。

 もう一つ、出来得るならこんな設問をすればよい。あなたは何の為に働くのか?働くうえで大切にしている価値観は何であるのか?と質問してみればよい。会社や企業の為に働きたい、お金の為に働くと断言し、出世して地位や名誉を得たいと答えるような輩は、採用してはならない。そういう職員は、お金の為に平気で嘘をつくし、仲間を裏切ることに躊躇しない。お金や地位名誉の為なら、法律だって無視する。世の為人の為に働きたい、仕事を通して社会貢献したいという人材を雇えば、絶対に不祥事は起こさない。ただし、本心からそう言っているのかどうかは見極める観察眼が必要だ。

源氏物語は愛着障害のものがたり

 源氏物語というと、あまりにも有名な平安時代の本格長編小説であり、しかも紫式部という女性作家の最初で最後の作品だということで知られている。紫式部という女性がどのような生涯を送ったのか、その小説を書こうと思い立ったモチベーションは何かということが気になる。それ以上に興味が湧くのは、源氏物語に描かれた世界観はどのようにして彼女の心に生まれたのかという点である。主人公である光源氏のあの強烈過ぎるキャラクターとは、どこから着想したのか、何を描きたかったのかが注目されるところである。

 NHKの大河ドラマ「光る君へ」を鑑賞させてもらったが、史実とフィクションを適当に織り交ぜながら、紫式部という女性をとても魅力的に描いていたように思える。勿論、もう一人の主人公である藤原道長も、栄華を極めた権力者という描き方ではなく、悩み多きひとりの男性として描かれていて、好感が持てる描き方だった。ドラマでは、光源氏という主人公と権力の中枢まで上り詰めた藤原道長を、重ね合わせて描いていて、それはそれで面白いアイデアだと感心したが、あまりにも違う境遇なので、あり得ないだろうとも考える。

 とは言いながら、藤原道長たちのように権力を求める飽くなき野望を持つ貴族と、権力や地位を求めながらも果たすことの出来ない苛立ちが異性へと向かう光源氏の根っこは同じではないのかとも思える。何か満たされない思いを政治の中枢に立ち権力を振るうことで満たそうとする藤原貴族、そして満たされない思いを性愛によって昇華させようとする光源氏は、根源とするものは一緒なのではと思えるのである。それはうがち過ぎだと言われそうであるが、権力欲や支配欲と性欲は同じ根源にあるような気がする。

 それにしても、源氏物語に描かれた主人公の光源氏は、稀代の女たらしである。こんなキャラクターを持つ主人公を、どういう心理状態から描こうとしたのであろうか。この源氏物語は、夫を亡くした紫式部が寂しさや悲しみを紛らわせようとして書かれたと伝わっている。その源氏物語が評判を得て、左大臣藤原道長の耳に入り、一条天皇の后である娘の彰子付きの女房として招かれる。一条天皇の寵愛を彰子が得る為に、この源氏物語が利用されたらしい。この源氏物語が、一条天皇と彰子中宮の仲を取り持ったと伝わっている。

 確かに、光源氏が様々な女性との恋物語を展開していくストーリーは、読む人の心をときめかせたに違いない。男女の仲が、魅惑的な恋物語を共通話題にして深まるというのはあり得ることである。それも、不義密通や呪縛による殺人というセンセーショナルなストーリーである。一条天皇と彰子中宮との夜話は盛り上がったに違いない。藤原道長は自身の出世と権力掌握の為に、紫式部と源氏物語を利用したとも言える。とは言いながら、この源氏物語が多くの人々の共感を呼び、大きな感動を与えたのは間違いない。

 という事は、光源氏の気持ちが当時の人々にも共感できたので、フィクションとは言いながら現実にもあり得ると当時の読者が思えたのであろう。つまり、光源氏が母親の愛情に飢えていて、その満たされない思いや生きづらさをエネルギーにして、異性を虜にする原動力になったと読者も感じたのである。権力への飽くなき追求も、母親から愛されなかった思いを政治に反映させたのだと読む人を共感させたのだ。愛着障害による影響が強く出て、あまりにも激しい生き方や行動をさせた人物を紫式部が描き、それが世の中に支持されたのだ。

 愛着障害は、大人になってからも生きづらさや辛くて苦しい人生を強いてしまう。平安時代においても、既に愛着障害によって人生を狂わされた人々が貴族にもいたのだ。愛着障害を抱えた人々の中で、現代の日本においても光源氏のような生き方をしている人物も少なくない。愛着障害が根底にあり、政界での権力闘争でしか自分を表現できないからと、政界でトップに上り詰めた人物もいる。愛着障害を抱えるが故に、性被害の加害者になる人もいるし、リスクある行動をして被害者になってしまうケースもある。源氏物語は愛着障害のものがたりだと言えるし、現代人の生きづらさにも通じる名作だと言えよう。

夫婦の相性が最悪だったと後悔する訳

 ピッタリの相性だと思って結婚したのに、いざ一緒に住んでみると、どういう訳か思い違いだったと後悔する夫婦がなんと多いことだろう。中には、仲睦まじく一生添い遂げるカップルもいない訳ではないが、そんなケースはごく稀である。殆どの夫婦は、こんな筈じゃなかったと後悔する日々を送っている。結婚する前は、この人だったらお互いの価値観や性格は申し分ないからと、結婚に踏み切ったのである。ところが、結婚生活を送るうちに、何でこんなにも相性が悪いのだろうと後悔するようになり、その思いが益々強くなるのだ。

 中には、もう我慢できないと離婚したり別居したりするカップルも少なくないし、そこまですると世間体が悪いと我慢して、家庭内別居や仮面夫婦の日々を送る人が殆どである。どうして、こんなにも相性が悪い結婚相手を選んでしまうのであろうか。どうやら、脳科学的もしくは遺伝子学的に考察すると、敢えて相性の悪い相手と結婚して子孫を設けようとするのが生物としての本能らしい。動物どうしのカップルでも同じことが起きるのであるが、人間の場合はもう少し複雑であると共に、より深刻な相性の悪さを抱え込むらしい。

 それが証拠に、何度も結婚を繰り返してしまう人が多い。一度結婚に失敗したとしたら、二度目はより慎重になる筈である。ところが、二度目も失敗すると、三度目も同じように結婚生活が破綻するのである。こんどこそは上手く行くはずだと思って結婚したら、やはり最悪の相性だったと後悔することになるのだ。離婚する原因は、性格の不一致だとするケースが殆どである。つまり、夫婦の性格は不一致になるのが当たり前なのである。相性が最高で、仲睦まじく過ごして一生を過ごす夫婦なんて、例外中の例外なのである。

 さて、寄りによってどうして相性が最悪の結婚相手を選んでしまうのかを、遺伝子学的と脳科学的に考察する。人間という生物は、より優秀な遺伝子を持ち生命力が誰よりも強い子孫を残すという宿命を負っている。自分の遺伝子を後世に残すには、自然淘汰されず生き残っていくような心身がタフな子孫を産み育てなければならない。社会の荒波にも負けずに、様々な生存競争にも打ち勝つ遺伝子を持つ子孫を作ることが必要なんだと、無意識のうちに認識している。その為には、自分とはまったく違う遺伝子を持つ異性を選ぶのである。

 つまり、自分と同じような遺伝子どうしの異性を選んでしまうと、遺伝子の多様性という面では少々物足りなくて、いざという極限状態が起きた時に生き残れなくなるのである。例えば、精神的に繊細で感受性が強過ぎて神経があまりにも過敏な女性がいたとする。そういう女性が、同じようにセンシティブな男性を選んで結婚したとする。そうすると、子孫はより強いセンシティブなパーソナリティを持つことになり、このあまりにも思いやりがなくて平気で相手を傷つけるような社会では、生きて行けなくなってしまうのである。

 その為に、センシティブな女性はどちらかというと鈍感で空気の読めないような男性を結婚相手に選んでしまうのである。その逆のケースもあろう。精神的にか弱い男性が、物事に動じない強いメンタルを持つ女性に惹かれることもある。だから、昔から『破れ鍋にとじ蓋』という諺があるのだ。自分にない遺伝子を持つ相手を、どうしても選んでしまうのである。特に女性は、出会って僅か数秒で遺伝子の違いを体感するというのである。これが、一目惚れである。そして、結婚してからことごとく意見が違う事に気付くのである。

 こんな最悪の相性を持つ伴侶を選んでしまったら、どうしたら良いのであろうか。離婚するという選択肢もあることにはあるが、違う相手を選び直してもどうせまた相性の悪い相手を選んでしまうのだから、諦めて家庭内別居とか仮面夫婦を演じて過ごすという選択肢もある。それは寂しいと思う人も多いかもしれない。所詮、どのような夫婦も同じようなものなのだから、割り切って過ごすのもありかもしれない。ちょっと親切なお隣のおじさん(おばさん)だと思って生活するも良いし、宇宙人と暮らしていると思えば腹も立たない。どうしても、相思相愛の恋愛をしたいと思うなら、あまり薦められないが伴侶以外の相手しかいないだろう。