ネットの情報を盲信する危険

ネットの情報を盲目的に信じる人々がいる。そういう人々は驚くことに、まったく疑うことを知らないのである。明らかに科学的根拠がないのにも関わらず、100%信じてしまう人々がいる。まるで、新興宗教に洗脳された信者のように、盲信してしまうというのは驚きである。ケム・トレイルとかHAARPというようなもっともらしい名称に騙されるのかもしれないが、ほんの少しだけ科学的知識がありさえすれば、あんな馬鹿気た理論に翻弄されることはない筈である。

世の中に世界規模の陰謀がまったくないとは断定できないが、騙される人は陰謀という言葉に弱いようだ。そんな大規模で大胆な陰謀が、誰にもばれないで実行される筈がない。しかも、一度ならず何度も続けて成功するなんて、少しでも知恵が働く人間なら、誰でも嘘だと見破れる。インターネットの発達でフェイクニュースがあたかも真実のように流れて、それが拡散していく。そして、陰謀論も同じように垂れ流しされている。発信者はほくそ笑んでいるに違いない。

ケム・トレイルやHAARPを利用した陰謀を、最初にネット上に流したのは確信犯である。いかにも本当らしく写真を加工したりそれらしく偽造したりして、信じ込ませたに違いない。それを盲信して拡散してしまうような人々は、妄想性か統合失調症性のパーソナリティ障害ではないかと見られている。ある偏った情報を信じたいという隠された願望が根底にあり、一方だけの情報だけで盲信するのである。それらの陰謀が嘘だという明らかな証拠が他のネット情報で示されているのに、調べようとさえもしないのである。

とんでもないフェイクの情報を盲信するのは、その人の勝手である。他人がとやかく言うべきでないと思っている。しかし、その嘘の情報を拡散するのは、百害あったとしても一利さえない。多くの人々を惑わせるだけでなく、善良なる第三者を恐怖に陥れる。信じてもいいが、それを拡散することだけはしてはならない。ところが、これを盲信するのはパーソナリティ障害だから、人々を不幸にさせることさえ平気なのである。だから、まるで鬼の首を取ったように得意げに拡散してしまうのである。

ケム・トレイルやHAARPなどによる陰謀を信じている人は、反論検証をしているネット情報を見てみるといい。どちらが真実なのか、一目瞭然である。陰謀論がいかに非科学的であるのか、誰でも理解できるように説明されている。大切な情報ほど、反対の検証をすべきである。一方の情報だけを鵜呑みにして、盲信するのはとても危険なことである。もう一度言おう。信じたい気持ちも理解できるが、反論する情報も検証して、冷静に判断することを勧めたい。

こんな嘘の情報を巧妙に手間暇惜しまず作成して、人々を惑わせて何が面白いのであろうか。愉快犯と言えばそれまでだが、何も得るものはない筈だ。盲信する人々がいることを知っているのであろう。だから、こんな嘘まみれの情報でも拡散してくれると信じて、ネットに情報を流したのであろう。フェイクニュースというのは、情報がどこの誰が最初に発信したのか明らかにすることはけっしてない。後から調査されて何らかのペナルティを受けるのを避けたいからだ。

どちらの情報が真実なのか、簡単に判断できる方法がある。それは、情報発信者を明確に発表しているかどうかである。フェイク情報の最初の発信者は、絶対に特定されることはない。その反論検証者は、たとえハンドルネームやニックネームを使っていたとしても、自分の考えだと堂々と述べている。ところが、嘘の情報を最初に提供した人物が誰だかはまったく判らない。この事実だけ見ても、どちらがフェイクなのか解ろうというものである。発信者の判らないネット情報ほど信じてはならないのである。

SNS上で批判コメントをする人

世の中にはいろんな人がいるものだと、つくづく思う。周りの人々にいつも共感的態度で寄り添うような優しさを見せる人もいれば、何かと批判的な態度で実に冷たく接する傾向の人がいる。その態度は実際の生活だけでなく、SNSなどのネット上においても同様の対応をすることが多い。SNS上でブログや日常生活の機微などをアップすることをしている人は増えてきた。友人どうしの情報交換の場所として有効活用している女性も増えている。そのようなSNSの場で、批判的なコメントを載せる馬鹿者がいるのは情けない。

ブログというのは、あくまでも私見を述べたものであり、学会や研究機関における論文とは違う性格を持つ。一見すると、論文のような形で自分の意見を書き綴る人もいるが、それもまた単なる『日記』に過ぎないと見るべきであろう。ブログとはウェブログの略で、あくまでもウェブ上にアップしたログ(日記)である。とすれば、科学的根拠や社会通念で認められた真実であることは必要ない。あくまでも、自分なりに感じたことや考えたことを述べているに過ぎない。当然、エビデンスのないものだって構わないと思われる。

ブログを読むかどうかは、本人の選択肢の範囲内である。自分とは違う意見だし、読むのも嫌だと思えばスルーしてもいいのだ。中には支離滅裂な論理で、まったく的外れの意見を述べる人もいるが、それもその人の考え方だから他人はどうのこうの言うべきでない。中には、それは許せないとエキサイトして、変な正義感を振りかざして批判コメントを書き込む人もいるが、それも大人げないものである。そんなブログは素通りするのが良いだろう。批判をする時間がもったいない。日記なのだから、どんなことを書いても自由だ。

ただし、反社会的な行為を肯定したり助長したりする日記は許せない。または、特定の人、または明らかにこの人だと類推可能な人の個人批判をするようなブログもいけない。勿論、公的な立場にある政治家や経済人を批判することは、常識的な範囲では許される。だとしても、その政策や経営戦略を批判することは良いだろうが、人格や出自などの批判はすべきでない。いくら公的な人だとしても、個人生活の乱れや精神障害などを暴露して批判することも好ましくない。ウェブ上のマナーやエチケットを守るのは最低限のルールだ。

どうして、SNS上で批判コメントを繰り返すのであろうか。そういう人は正義感が強く見識が高くて、世の中を少しでも良くしようと実際に活動して努力している人なのだと思うだろうが、実は真逆の人であることが多い。自分では何もせず、ただ批判を繰り返すだけであることが多い。自分ではブログやツィッターを載せず、ネットサーフィンをして批判コメントを掲載することを生きがいのようにしているのである。さらに卑劣なのは、本名で批判することないし、匿名でのコメントだから保身意識が高いのである。

SNS上で批判コメントをする人は、実は可哀想な人である。誰にも好かれず愛されず、まったく相手にされない孤独な人が多い。中には家族がある人もいるが、家族から愛されていないのである。家族からも組織や会社の人からも認められていないし評価されていないのである。そういう満たされない思いから、他人を批判して自分を肯定したがっているだけなのである。つまり、自己尊厳意識や自己肯定感が極めて低いのだ。それでいて、自分は賢いし誰よりも優れているのだという万能感が強いのである。だから、自分の意見と違う他人の意見をスルー出来ずに、噛みつきたくなるのであろう。

言論の自由は、憲法の基本的人権で認められている。だとしても、公序良俗に反しない限りという制限条件があるのは、周知のことだろう。批判的コメントは、ブログやツィッターをしている人の心を傷つける。中には、怖くなってSNSから撤退せざるを得なくなるばかりか、トラウマになってしまう方もいることを認識すべきだ。つまり、批判コメントは心身を傷つける傷害罪にもなりうるのである。いろんな意見や言論があっていいのだと思う。自分と違う意見があるブログを見て、なるほどこういう意見もあるんだなと思えば、自己成長にもつながる。多様性を認め受け容れることで、自己実現に近づくことにもなる。批判コメントをしないでスルーをする『ネット大人』になりたいものである。

引きこもりを乗り越える

引きこもりは若者だけかと思っていた人も多いが、実は中高年の引きこもりのほうが多いことが判明したという。内閣府が引きこもりの調査をしていたが、それは15歳~39歳の若者が対象者だった。しかし、中高年者の引きこもりも多いのではないかという指摘があり、40歳~64歳の中高年者の引きこもりを調査したところ、なんと61万人もいると推計されたという。15歳~39歳の引きこもり推計数が54万人だから、それよりも多いということになる。若い引きこもりが高年齢化したとも言えるが、困った事態になっている。

引きこもりになるのは、圧倒的に男性が多いらしい。7割以上が男性だというから、驚きである。中高年の引きこもり男性は、老齢の母親と二人暮らしをしているケースが多いと言われる。中高年の引きこもりは、親と同居して養ってもらっている場合が多いが、親が他界したらどうするのであろうか。年金の受給権を持たない引きこもりは、やがて生活保護の受給者になることだろう。引きこもりの多くが5年以上に渡り長期化していることが多いことから、一旦引きこもりになると社会復帰は極めて難しいと思われる。

どうして社会復帰が難しいかというと、引きこもりを自分の力だけで乗り越えるのが難しいからである。かと言って、親などの家族がどんなに支援したり働きかけたりしても引きこもりを乗り越えることが困難である。行政も引きこもりを解決する働きかけを積極的にすることが出来ないし、メンタルを病んでいなければ医療の対象になることはない。つまり、引きこもりを解決する手立てがないのだ。だから、引きこもりが長期化するのである。社会復帰の支援をしている民間業者があるが、利用料が高額になるので、高額所得者しか利用することが出来ない。

引きこもりやニートを乗り越えるには、そもそも引きこもりやニートになった根本的な原因を探り出し、その原因を解決しなければならない。引きこもりになる原因は、彼らにとってあまりにも生きづらい社会だからであるのは間違いない。彼らにとっては学校や職場があまりにも冷たくて厳し過ぎるので、適応しにくいのであろう。しかしながら、生きづらさを抱えているのは引きこもりになっている人だけではない。生きづらさを抱えて居ながらも、社会に適応できている人もいる。とすれば、引きこもりになる人とならない人の違いはどこにあるのだろうか。

引きこもりになる人は、学校や職場で嫌なことが続いたり、失敗や挫折を繰り返したりした経験を持つ。そして、そうした体験から不安や恐怖感が極限まで高まり、また同じことが起きるのではないかと思い込み、外で活動することに臆病になり、引きこもりになるのではないかと想像されている。一方、引きこもりにならない人は、たとえ嫌なことに遭ったり失敗や挫折をしたりしても、不安や恐怖感でいっぱいになることはない。どこが違うのかと言うと、オキシトシンやセロトニンなどの脳内ホルモンの分泌異常が起きているのではないかとみられている。

そのような脳内ホルモンの分泌異常が起きるのかというと、乳幼児期から思春期にかけての養育環境、または育てられ方の影響が大きいとみられる。親の育て方が悪かったという訳ではない。あくまでも、親としては子どもの為にと精一杯努力したし、健全に育つようにと懸命に尽くしたのは間違いない。手抜きや育て方のミスがあったという訳ではなくて、あまりにも一生懸命過ぎたせいかもしれない。良い子に育てようという親の思いが強過ぎてしまい、介入し過ぎたというか干渉し過ぎた為に、人体システムの異常が起きて、子どもの自己組織化が阻害されたと推測される。

したがって、引きこもりを解決するには、子どもだけのカウンセリングやセラピーだけでは難しいと思われる。子とその親の両方との家族カウンセリングが、引きこもりを乗り越えるには必要だと考える。それもミラノ型の家族カウンセリングを利用したオープンダイアローグ療法が望ましい。親に対しても、当事者の子どもに対しても、けっして批判することなく否定もせずに、ただ優しく質問を繰り返すセラピーである。そして子どもが自分の幼児期や思春期に言えなかった親への思いを吐露し、その辛くて苦しかった気持ちを親が受け止めて共感する作業を通して、傷付いた心を癒していく。誰も傷つけないで、家族の関係性を再構築していくオープンダイアローグこそ、引きこもりを乗り越える為に必要なプロセスであると言えよう。

※「イスキアの郷しらかわ」では、オープンダイアローグ療法を駆使した引きこもり解決プログラムを実施しています。老齢の親だからといって、このオープンダイアローグが機能しない訳ではありません。いくつになっても親は親です。親子が共に変わることで、引きこもりやニートが解決します。不登校もまったく同じです。まずは、イスキアの郷しらかわに問い合わせフォームからご相談ください。

場当たり的不登校対策は効果がない

文科省や学校関係者の努力によって、不登校は減っていると言うが本当にそうであろうか。そもそも不登校という定義にこそ疑問がある。文科省の不登校の定義は、年間30日以上欠席した者で、経済的理由や病気が原因の児童生徒を除くとなっている。つまり、精神的な障害があって医師の診断書があれば不登校にはならない。しかも、保健室登校は何日に渡っても不登校とはならない。そして、少しでも学校に行けば、遅刻でも早退であっても不登校の欠席日数には含まれない。敢えて不登校を少なくする意思が働いているようだ。

不登校という問題が放置されていると、学校関係者だけでなく教育委員会や文科省の責任が問われる。したがって、不登校を少なくする努力が実っていると社会に対して発信したいから、不登校の数字を少なくカウントしたいのであろう。これは、自殺者の数を出来るだけ少なくカウントしたいとの思惑が働く厚労省と同じ構図である。官僚というのは、無能だと批判されるのを極端に嫌う。したがって、統計数字のマジックを使いたがる。これだけ努力していますよと、と示したいだけなのである。

文科省から各県の教育庁に対して、不登校対策をしっかりしなさいと激が飛ぶ。そして、県の教育庁から市町村の教育委員会へ、さらには各学校の管理者に伝達される。当然、校長や副校長は不登校の数を少なくする為の知恵を働かせる。何故ならば、不登校の多い学校管理者の評価が下がり出世できないからである。場当たり的な不登校対策が施される。保健室登校でも何でもいいから、1度だけでも学校に来させればよいと無理やり登校をさせる。不登校の原因なんてどうでもいいから、数字だけ減らせという厳命が飛ぶ。

不登校になる本当の原因を学校関係者は知らない。文科省も教委だって、不登校の本当の原因を掴めていない。不登校になる原因は、当事者の精神的な弱さ、強過ぎる感受性、発達障害、成績不振、いじめ、不適切指導、同級生の確執などにあると学校関係者は思いたがる。しかし、不登校の本当の原因はそんなことではない。これらは、あくまでも不登校の単なるきっかけでしかない。不登校の本当の原因は、『関係性』にある。つまり、本来良好にあるべき関係性が劣悪化、もしくは希薄化しているから不登校が起きるのである。

児童生徒と先生との関係性、同級生や先輩との関係性、教師どうしの関係性、保護者と教師の関係性、親と子の関係性、親どうしの関係性、その他の人間関係に問題があるから、不登校という事象が起きてしまうのである。ひきこもりも同じ原因でおきる。関係者がそれらの関係性に原因があると気付いて、良好な関係性を再構築できたとしたら、不登校やひきこもりは見事に解決するのである。その本当の原因である劣悪な関係性を放置したままで、場当たり的な不登校対策に終始しているから、いつまで経っても不登校は解決できないのである。実に情けない話である。

それでは、何故お互いの関係性が悪くなっているかというと、日本の教育制度にその根源がある。明治維新以降に、列強の欧米に追い付き追い越す為に富国強兵を推し進めた。その一環として、欧米の近代教育を取り入れた。この近代教育の理念は、徹底した個人主義と競争主義、実学主義、客観的合理性の教育だった。この近代教育の考え方が浸透して、あまりにも個人最適や個別最適が進み、自分さえ良ければいいという考え方が支配的になった。当然、このお陰でお互いの関係性が悪化したのである。行き過ぎた競争主義は、お互いの関係性を希薄化してしまったし、お互いが支え合うコミュニティも崩壊させた。

関係性が悪化してしまった学校では、平気でいじめはするし誰も助けようとしない。先生も子どもとの信頼関係を構築できないから、子どもはいじめを告白しないし、先生はいじめがあっても真剣に対応しようとしない。親子の信頼関係がないから、学校でのいじめを訴えられない。親どうしの夫婦関係が最悪でいつも言い争いしている家庭の子どもは、無意識のうちに不登校やいじめ等の問題行動を起こす。問題行動を起こせば、危機意識を持って夫婦の関係性が再構築できると、自分を犠牲にしていじらしい行動を取る。すべては、関係性が劣悪化・希薄化していることに原因があるのである。対症療法的で場当たり的な不登校対策なんて止めて、関係性の再構築に力を注ぐべきである。

引き寄せの法則はスピ系ではなく科学

引き寄せの法則を信じている人は少なくない。特に、スピ系の女性のほとんどが引き寄せの法則を信じて疑わない。だから、自分の周りに起きることはすべて自分が引き寄せていることだからと、前向きに考える傾向が強い。それはそれで、自分の心を平穏に保つ為には役に立っているが、あまりにも悲惨な状況に追い込まれた時には、逆に自分を責めてしまうことになる。特に自尊感情の低いスピ系の女性は、あまりにも不遇な境遇に置かれてしまうと、自分が悪いせいだと自分を追い詰めて、メンタルを病んでしまうケースが多い。

引き寄せの法則というのは、ある意味両刃の剣である。自分の思った通りに順調な人生を歩んでいる時は、自分が幸福を引き寄せたと思い、人生が楽しくて仕方がない。また、少しぐらいの不遇なことに遭ったとしても、自分が引き寄せた試練だから乗り越えられると信じて、苦難困難に立ち向かう勇気を持つことが出来る。ところが、あまりにも大きい苦難困難に遭ってしまい、乗り越えられない境遇に陥ると、自分自身が嫌になる。そして、その困難を引き寄せた自分を責め続けるし、乗り越えられない自分を否定してしまう。

引き寄せの法則は、スピリチュアルなどを活用した自己啓発のセミナーなどで教えられることが多い。個を超えた宇宙の意思(神の意思と呼ぶことが多い)があり、それらと関係する自分の意識と無意識、集合無意識があらゆる自分の周りに起きる現象を引き寄せているのだと説いている。自分が引き寄せているのだから、起きている苦難困難は必ず乗り越えることが出来ると主張する。どんな苦難困難を乗り越えるにはさらに上級のセミナーの受講、そして各種のスピ系グッズが必要だと売りつけるケースが多い。

人の弱みにつけ込んだビジネスは、極めて巧妙であると同時に卑劣である。藁にもすがる思いでスピ系の自己啓発セミナーに参加して、自分の不遇な人生を何とかしたいと思う人たちを巧みに騙す。そして、主催者や講師によって勧められる高額のセミナー受講料、著作やDVD、スピ系グッズを購入してしまう。けれども、これらのセミナーを受け続けても、スピ系グッズを活用したとしても、大きい効果が得られることが少ない。たまに自己啓発セミナーを受け続けて、セミナー講師になる人もいるが、中途半端な自己実現だから独善的な人格の問題講師となる。そして、多くのセミナー受講者を勧誘することになる。

引き寄せの法則をスピ系で納得する人は、殆どが自我と自己の統合が不完全であり、唯我独尊のパーソナリティを持ってしまう。すると、自分の意見を信じなさい、そうしなければ不幸のどん底に落ちてしまうよと、受講者に自分の価値観を押し付けることを平気で実行してしまう。恐怖や不安を植え付けてセミナー受講を強いるような講師は、意外と多い。自分では意識していないが、洗脳に近いようなことを平気でするようになる。引き寄せの法則をスピ系で理解しようとすると、こんな危険が伴うのである。

一方、引き寄せの法則を最先端の脳科学や量子力学を駆使して理解した人は、実に謙虚であり誠実であり続ける。人に自分の価値観を無理やり押し付けることもしないし、自己の統合を実現できるかどうかはあくまでも本人次第だと、行き過ぎた介入や干渉をしない態度を取る。何故なら、最先端の脳科学と量子力学、または第三世代のシステム論によって導き出した引き寄せの法則は、人間の深層無意識や自己組織化する本能から導き出した理論だからである。深層無意識は、自分の有意識からの働きかけで変革することは難しいことを知っている。ましてや、行き過ぎた介入や干渉は自己組織化を阻害することをシステム科学により認識しているから、引き寄せの法則を他人に押し付けることはしない。

最先端の脳科学や量子力学、第三世代のシステム科学を学んで、引き寄せの法則がこの世界における科学的真理だと悟った人は、自我と自己の統合である自己マスタリーを目指す。人を引き寄せの法則を用いて、他人を迷わせたり脅したりはしない。スピ系から引き寄せの法則を導き出した人は、自我と自己の統合が不十分であり、妄想や陰謀論に陥りやすい。自分を神だと名乗ったり、人々を導く守護霊だと主張したりする。そして、善良な人々を脅して巧妙に自分のビジネスに利用する。明らかな科学的検証や根拠に基づいて導き出した引き寄せの法則を身に付けた人間は、周りの人々に法則を信じるように無理に勧めたり洗脳したりすることはない。ましてや、ビジネスに悪用することはない。スピ系によって引き寄せの法則を提唱する人物を信用してはならない。

子どもの為と言いながら・・・

子どもの為にと、必死になりながら子育てをされているお母さん方に、そんなに頑張らなくてもいいんだよと伝えたい。そして、本当に子どもの為と思っているのか、自分自身にもう一度問い直してみてはどうかということも伝えたい。とかく、子育てはお母さんが中心になってするもの、という固定観念が支配している。実はそんなことはなく、父親だって中心になっていいし、祖父母も子育てを担うこともあり得る。さらには、地域全体で子育ての役割を負担することも必要であろう。子育てはみんなですればいいのだ。

子どもの幸福と豊かさの実現を願わない親はいない。健やかに育って、幸福な人生を送ってほしいと親は思うものだ。子どもの為なら、どんな苦労も厭わないと思っている。そして、子どもが日の当たる道を歩き続ける事を期待する。一流高校への進学から国公立大学の入学を願い、卒業後は官公庁もしくは一流企業への就職を後押しする。また、その為に塾通いをさせるし、有名な私立小中学校の受験をさせたがる。そういう教育熱心な親は、想像以上に多いと思われる。将来に渡り安定した生活を送ることを願うのである。

こういう教育熱心な親は、すべて子どもの将来の為を思っての行動であると思いたがる。そして、必要以上に子どもに頑張れと働きかけることが多い。しかし、よく考えてみてほしい。本当に子どもの為に教育熱心な親になるのだろうか。子どもが将来不幸な人生を送り苦しむ姿を見る自分が、辛い思いをするからではないのか。自分の子どもが幸福な人生を送る姿を見て、自分の子育てが間違いなかったと安心して、自分が満足したいだけではなかろうか。親というのは、周りの人々や親せきに我が子のことを自慢したがるし、自分の子どもが誉められるのが大好きだ。

たいていの場合、大人は子どもの学業成績が良くて優秀な高校や大学に入学したことを誉めたがる。しかし、よく考えてほしい。学校の成績が良いことや一流の学校に入学したことが、人間として素晴らしいことなのだろうか。そんなことが誉めて認めるかどうかの基準であるというのは、実に情けないことである。人間として大切なのは、物事に対する考え方や姿勢、または言動が崇高な価値観に基づいていることである。または、あらゆる場面で、主体性や自発性、そして責任性や自己犠牲性を発揮できることが、称賛されるべきである。さらに、弱きを助け強きにも怖気ることなく立ち向かう勇気を持つことも大事だ。

どんな時にも自分自身を見失わず、自利や損得にとらわれず、人々の幸福実現の為に苦労を厭わずに頑張れるような子どもを育てることが親の務めではないだろうか。そういう子どもに育てたなら、たとえ学業の成績が良くなくても、一流の学校に入学できなくても、官公庁や一流企業に就職できなくても、親として誇りに思うものである。子どもの為にと言いながら、学校の成績に一喜一憂して、必要以上勉強を強いる教育虐待をしている親は少なくない。自分には三人の男の子がいるが、どんな高校を受験するか、どこの大学に進学するか、本人にすべて任せたし、就職先についても一切口出しをしたことはない。

子どもは親の所有物ではないし、支配したり制御したりするべきでない。ましてや、親が思う通りの人生を歩ませるような干渉をしてはならない。子どもの人生は子どものものであるし、子どもが決めることである。例え不幸になったとしても、また辛い人生になったとしても、それは子どもの自己責任としてそっと見守る姿勢が必要だ。ただし、子どもから助けてほしいという依頼があれば、どんな犠牲を払っても守ってあげなくてはならない。そして、子どもに対して、いざという時は身を挺してでも守ってあげるよと伝えておくのは必要だ。そういう安心感があれば、子どもはどんな苦難困難も乗り越えられるものである。子どもの為にと言って、あまりにも子どもに介入する親になってはならない。

子どもの為と言いながら、子どもに自分の価値観を押し付けてはならない。ましてや、自分の損得や自己利益を求めるような低劣な価値観を持つ生き方を強要してはいけない。しかし、多くの親たちはいい高校や大学に進み、高収入の職業に就くことを子どもに薦めたがる。それも、子どもの為にという隠れ蓑を着て、実際は親の自己満足の為であり、自分が立派な子どもを育てたと社会に認められたいからである。子どもが大人になり、社会に貢献できるようにそっと見守り寄り添い、子ども自身が自己組織性を発揮できるように育てることこそが親の務めである。子どもの為になんて思うこと自体が、親の思い上がりなんだと気付く必要があろう。

体罰禁止を法制化する前に

体罰禁止を法制化する動きが加速している。内閣は体罰禁止を法律で禁止することを確認した。これから児童虐待防止法改正の手続きに入る予定である。東京都では一歩進んでいて、体罰を条例で禁止しようとしている。違反しても罰則はないが、児童虐待の防止に役立つのは間違いない。民法で親の子どもに対する懲戒権を認めているので、民法の改正も同時にしないと法律の矛盾が起きるであろう。今でも体罰は必要だと考えている前近代的な親がいるが、彼らの体罰に対する歯止め効果になるのは間違いないだろう。

体罰禁止を法制化することに対して反対ではないが、法律で体罰を禁止したからと言って、体罰が完全になくなることはないし、虐待がなくなることもないだろう。体罰や虐待を平気でするような親に対しての意識付けにはなるだろうが、体罰がより陰湿になるとか、秘密裡に体罰をするようになるのではないかという危惧を持つ。まずは体罰や虐待をするような親に対する教育や指導をする支援こそが、根本的に必要である。また、体罰や虐待をしてしまう親を生み出している社会の低劣な価値観を、変革することこそ求められる。

体罰を防止することを、可及的速やかに実行しなくてはならないことは言うまでもない。体罰から過激な虐待に発展することを防がなければならないからだ。だとしても、何故多くの親たちが体罰をしてしまうのか、本当の原因を探り当てないと、体罰を完全に防止することは出来ない。文科省、教委、行政、児相の担当者は、親たちが何故体罰をするのかを知る由もないし、知ろうともしないようだ。だから、体罰や虐待を防ぐ手立てを考えもつかないのだ。体罰や虐待が起きる原因は、システム論でしか解明できないからである。

体罰や虐待が起きるのは、人間が生まれつき持っている自己組織化する働きが関係している。システム論的に分析するなら、人間という生物はひとつの完全なるシステムである。完全なシステムである人間は、生まれながらにして主体性・自発性・責任性を持つのである。つまり、自らが主人公として自主的に考え決断して行動するのが人間である。子どもは自我が芽生えて、この自己組織化する働きが強くなってくる。親からの指示や命令に背きたくなるのは、自我が芽生えるということ=自己組織化するからなのだ。

この自己組織化の働きが強くなる自我の芽生えを、親は無理やり押さえつけてはならない。何故なら、人間が健全に成長する為には、自己組織化する働きを阻害してはならないからである。反抗期を親が押さえつけたり出さないように仕向けたりしてはならない。または、反抗期を一切出さないような『良い子』を演じさせてはならない。子どもの時に自我を安心して表出させて上げないと、やがて自我と自己の統合が上手く出来ずに、生きづらい生き方を強いられるからである。やがて重篤なメンタル障害を起こしかねない。

実は、体罰を行うような親は、小さい頃に親から支配・制御・所有を繰り返しされていたと思われる。自我の芽生えを許されないような親に育てられた可能性が高い。虐待に近いような体罰で、反抗することを抑えられた経験を持つ。だから、その裏返しで反抗する子どもが許せないのである。それで無意識のうちに、しつけとして必要なんだと勘違いして、体罰をしてしまうのである。このような体罰は、多世代に及ぶ負の連鎖でもある。このような虐待や体罰は、世代間で継続していくので、絶対に断ち切らなくてはならない。

明治維新以降に欧米の客観的合理性を重視する教育理念を、日本の教育界は導入した。それは列国の学術水準や技術レベルに追いつくために必要な能力至上主義でもあった。この要素還元主義とも言い換えられる分離分析主義は、物事を客観的に冷静に観察し問題解決するには重宝したのである。しかし、弊害も生んだ。あまりにも批判的否定的に相手の人間を観ることを強いた為に、実に冷酷で思いやりや優しさを欠如した人間を育ててしまったのである。つまり、相手の悲しみや苦しさに共感できず、相手の嫌がることも平気で実行するような冷たい人間を育成したのである。学校や職場で平気でいじめをするのも、そして家庭で虐待や体罰をするのも、この近代教育の影響が大なのである。日本の教育理念を見直して、客観的合理性の教育から共感的関係性の教育に変革することこそ、体罰禁止を法制化する前に必要なことである。

陰謀論とスピ系主張の矛盾点

陰謀論を唱える人たちは、この世に起きる悲惨な事故や思いがけない事件を、すべて闇の存在が起こした陰謀であると主張したがる。そして、不思議なことに陰謀大好きの人間は、おしなべてスピ系の人が多い。科学的な検証をすれば陰謀論なんていう荒唐無稽な理論は通用しないのだから、スピ系的な理論に頼らざるを得ないのだから当然であろう。そして、面白いことに、陰謀論を主張すればするほど、自分たちが普段から信じるスピリチュアルの理論とかけ離れてしまうというパラドックスに陥ってしまうのである。

スピリチュアルを盲目的に信奉する人たちは、引き寄せの法則を主張する。この世に起きることは、すべて私たちが思っていることが現実化しているだけだと言う。つまり、私たちが強く願うと、その願いが現実になるというのである。ところが、実際は思ったことがすべて現実化する訳ではない。そうした現状に対して、スピ系の人々は当事者が心から確信していないせいだという。潜在意識が半信半疑である場合、顕在意識だけでは現実化しないのだと主張する。また、集合無意識が関係しているから、個人の意識だけでは難しいのだとも弁解するのだ。

スピリチュアル系の人々は、こういう主張もしている。この世に起きていることは、我々の集合無意識が起こしていることなのだから、皆の意識をこの世が平和で幸福になるのだという確信に近いものに近づけることが必要だと説いている。つまり、我々の存在するこの世界は実体ではなくて、意識が実体であると思い込むからそう見えているだけである。我々の集合無意識が、平和な世界だと思えば平和になり、争いの世界だと心から認識してしまうと争いが蔓延する世界になると主張し、平和な願いや祈りが大切だとも説いている。

ところが、こういう主張しているスピ系の人たちは、面白いことにこの世に起きる大災害は闇の人々が起こしているのだと言い張っている。東日本大震災はある闇の機関が人為的に起こした人工地震であり、局地的な豪雨災害が起きる原因は、特殊粉末を飛行機で撒き散らしたことによるものだと主張するのである。なんだか訳のわからないような陰謀論をネット上に拡散して、皆が知らないこんな秘密を自分は知っているのだからすごいだろうと自慢しているのである。すべての大災害や大事故は、人為的な陰謀だと主張する。

そうすると、冷静に考えることができる人なら、陰謀論を主張することとスピ系の引き寄せの法則を信奉することは、大きなパラドックスを抱えていることに気付く筈である。この世に起きる大災害や大事故を陰謀だという主張する人々は、さらなる陰謀による大災害や大事故が起きるから気をつけろと警告している。引き寄せの法則によると、そんな不幸なことが起きてしまうと考えると現実化するから、思ってはいけないと説く。それが真実ならば、陰謀論をネット上に拡散すると、大災害や大事故が実際に起きてしまうに違いない。これは大きく矛盾している論点なのだが、どう説明するつもりだろう。

いや違うのだと陰謀論を唱える人は反論するかもしれない。陰謀が実際にあることをこの世に知らしめることが出来たら、陰謀を企てる人たちが事故を起こすことが出来なくなるのだから、阻止するために陰謀を明らかにする活動をするんだと主張するであろう。そう主張する人たちは、よく考えてほしい。引き寄せ法則からすれば、そもそもこの世に陰謀なんていうことがないと皆が確信するなら、陰謀による事故はけっして起きないのである。この世はすべて人々の善意によって現実化すると確信して、平和で皆が豊かな生活を実現できると心から信じた時にこそ、全地球や全宇宙が幸福で平和な世界になるのだ。

陰謀論大好きな人は、この世には様々な陰謀が張り巡らされていて、一部の権力者や財力を持つ特権階級が、自分たちの利権を守る為に暗躍していると主張している。おそらく、自分たちが不遇な暮らしや待遇を受け、評価されず地位や名誉も得られない境遇にある人が陰謀論を展開するらしい。そういう人は、不遇な境遇に遭い続けているのは、自分たちがそれを引き寄せているだけであり、他の人たちの陰謀ではないのだということを考えられないのだろうか。こんな矛盾を気付けないというのは、あまりにも情けない。陰謀論を展開して、善良なる市民を惑わすことは止めてほしいものである。もし、陰謀を企む人たちが実際にいるとすれば、陰謀論を拡散することで彼らの術中にはまるだけだと心得たいものである。

摂食障害を乗り越える

摂食障害に苦しんでいる人たちは、世間で想像している以上に多い。何故ならば、当事者は勿論のこと保護者も内密にしているので、文科省や厚労省はその実数が掴めていないからである。児童生徒の時から摂食障害の辛い症状が始まる場合もあるし、青年期に起きるケースもある。いずれにしても、圧倒的に青少年の時期に摂食障害が始まることが多い。摂食障害の症状は、過食、拒食、そして過食の後に嘔吐するという特徴的な状態が続くのである。最初は拒食から始まることが多く、その後過食の症状になり、拒食と過食を繰り返し、最後は過食後に吐くという症状を長く続けるケースが多いと言われている。

摂食障害は病気ではないと思っている人が多い。だから、治療も受けず当事者と家族は苦しみ続けている。確かに厳密に言うと病気ではないが、メンタル障害であるのは間違いない。心療内科などのクリニックに通院している人もいるし、重症の場合は極端な栄養障害に陥り、入院するケースもある。投薬治療も行われるが、あまり効果は期待できない。劇的に症状が改善する場合もあるが、治癒することなく長い期間に渡り摂食障害の症状で苦しんでいる人が多い。20年以上の長きに渡り摂食障害で苦しんでいる人も少なくない。

摂食障害が治りにくいのは、そのはっきりした原因が掴めていないからである。これだけ医療や精神医学が発達しているのに、まだ摂食障害の原因は謎の部分が多い。例え原因が特定されても、その原因を解消することが極めて難しいというケースが多い。つまり、摂食障害というのは難治性の症状だと言えよう。摂食障害の症状が起きるのは、脳の神経伝達回路の異常ではないかと考えられている。それでは、この神経伝達回路異常が起きるそもそもの原因は何かと言うと、完全には解明されていない。だから治りにくいのである。

摂食障害の症状が現れる子どもや若者に共通していることがある。それは、とても生きづらい生活を送っているという点である。その生きづらい生活というのは、言い換えると愛に飢えているということが言える。つまり、溢れる愛によって満たされていて、人生を楽しんでいるような子どもや若者は、摂食障害の症状が起きにくいということである。また、必要以上に無理したり我慢したりしている子どもや若者も摂食障害になりやすい。あるがままというか、自然体で生きているような人は摂食障害になりにくいのである。

すべてがあてはまるという訳ではないが、摂食障害を起こすのは、どちらかというと『良い子』である子どもが多い。無邪気でやんちゃで、自分の思いを親に素直にぶつけるような子どもは摂食障害になりにくい。手がかからず、親には一切反抗せず、親の機嫌を損なわないようにおとなしくしていて、我慢強くわがままを言わないような子どもが摂食障害を起こしやすい。そして、親からいつも「早くしなさい」「こうしないと駄目よ」「こうしたいんでしょ、こう言いたいんでしょ」と言動を先取りされて育った子どもが多い。さらに、自尊感情が育っていなくて、自己否定感が強い子どもというのが特徴である。

摂食障害という症状が起きるのは、心が不安でいっぱいになり恐怖が次から次へと押し寄せて、このままだと心が壊れてしまうのではないかという時に起きることが多いらしい。つまり、心が壊れてしまうのを防ぐのに、摂食障害という辛い症状を起こして防いでいるかのようである。心のバランスが崩れていくのを防衛するかのような不思議な働きと言えよう。だから、治りにくいのである。つまり、この崩れそうな心のバランスを正常に戻さないと治らないし、不安や恐怖感を収めないと完治しない。さらに、自己否定感情を払拭して、自尊感情を高めないと摂食障害の症状は収まらないのである。

脳摂食障害を治すのは、当事者の努力だけではなしえない。やはり、経験豊かで優秀なカウンセラーやセラピストの助けが必要だと思われる。そして、こういう摂食障害を乗り越えるには、家族も変わらなければならない。何故かと言うと、家族との関係性にこそ摂食障害が起きた原因が隠れているからである。何も親の子育てに問題があったという訳ではない。あくまでも、親子の関係性や両親夫婦の関係性にこそ、摂食障害を発症した原因があるということだ。という意味で、ミラノ型の家族療法である『オープンダイアローグ』が効果を発揮すると思われる。ご両親と当事者を含めたオープンダイアローグ療法が、家族の関係性における課題に気付かせ、自ら変わり関係性を修復することにより摂食障害を乗り越えることが出来よう。

※イスキアの郷しらかわでは、摂食障害の症状の克服に、オープンダイアローグを駆使しての対応をしています。出来る事なら親子一緒にオープンダイアローグを体験していただくのが最適です。家族療法というと、親が批判されたり子育ての拙さを指摘されたりするのではないかと危惧される方が多いと思います。しかし、オープンダイアローグは特定の誰かに原因や責任を押し付けることはしません。安心して、問い合わせをしてください。

教員の働き方改革こそ喫緊の課題

公立学校でも民間の学校でも、教職者の働き方改革は非常に難しいと思っている人が多い。現在、教職にある人たちは殆どが超過勤務手当をもらわずに残業を強いられている。よく解らないような規則があって、長時間勤務をしても一定額以上は残業手当が支給されない制度になっている。いくら超過勤務をしても、みなし時間外手当を支給しているからという理由で、支給しないようになっている。だから、教職者は実際に何時間残業しているか記録されていない。こんな制度だから、残業時間は一向に減らないし、働き方改革なんて無理なのである。限りなくグレーな労働基準法違反の規則である。

ましてや、教師は皆が想像している以上に超多忙なのである。子どもたちを教えること、子どもたちの相談相手になったり指導をしたりする本来の業務以外に、様々な業務を抱えている。そして、先生たちはこれらの業務をすべて自分一人でこなしているし、他の先生が業務を手伝うことは殆どない。支援を申し出る先生もいないが、支援をお願いする先生も皆無なのである。自分で仕事を抱え込んでいて、他の先生にお願いするのはしない決まりでもあるかのように、一人で完結しようとしている。

そして、意外と教職者は事務処理が苦手であるし、パソコンなどの操作が不得手の人が多い。当然、教職者の業務はパソコンでの事務処理が多いので、処理時間を多く要する。当然、本来の大切な指導教育の時間が足りなくなるし、残業時間も多くなる。さらに、スポーツ系の部活顧問をしている先生は、超多忙となる。どの先生も共通して訴えるのは、事務処理などの雑務が多くて忙しいという点である。文科省からの統計調査や実態調査などの依頼が多く、その対応に時間を割かれる。実にもったいない時間である。

超多忙で仕事に追いまくられている教師は、悲鳴を上げている。そして、あまりにも頑張り過ぎてしまった先生は、しまいには心を病んでしまう。普段の忙しさと、難しい児童生徒の指導と扱いにくい保護者への対応により、過重ストレスとなって精神的に参ってしまうのである。そして、やがて出勤できなくなり、休職という状況に追い込まれる。そして、何度か復帰と休職を繰り返して、完全に離職してしまう。忙しさが解消されることがないし、職場環境は良くなるばかりか悪化する一方なのだから、そうなるのは仕方ない。

こんな超多忙な実態を何とか解決しようと教育委員会や学校管理者は心を砕いているが、まったく解決策が浮かばないみたいである。勿論、教師の数を増やせばいいのだが、教育予算がぎりぎりに削られている現状では難しい。防衛予算は年々増えているのに、教育予算は増えないのである。となれば、限られた予算の中でどうにか対応しなくてはならない。そもそも柔軟な考え方が出来ない文科省のキャリア官僚や教育委員会の幹部は、ドラスティックな発想が出来ない。先生の定員は決まっていて、絶対に増やせない。となれば、定員以外の職員を採用すればよい。パートの教員補助職員を採用するのは可能なのである。

教員免許がないと出来ない業務がある。実際に授業をする行為や指導をすることである。それは、他の職員が代行することは出来ない。しかし、雑務の事務処理業務は誰でも出来る。優秀なパート女性事務職員を雇用すれば、事務処理業務は短い時間で済ますことができる。さらに、少しだけ指導すれば、テストの原案作りや採点もできる。また、採点されたテストの集計とその評価の原案作成もできる。先生が最終チェックをして微調整すればいいだけである。スポーツの部活においても、ボランティアコーチを積極的に活用すればよい。そうすれば、先生は本来の授業や個別指導に力を注ぐことが可能となる。

しかも、コスト面においても正式雇用の教諭だと、社会保険や賞与と退職金引き当ても含めると、年間の平均人件費コストは一人当たり1,000万円を超える。ところがパート事務職員だと、一人年間120万円程度で雇えるのである。教師一人雇う人件費コストで8人以上のパート補助員を雇うことが可能になる。そして、一人の優秀なパート事務職員がいれば、3人の教諭の補助業務だって出来るに違いない。県や市町村独自の人件費負担で、雇用することも可能だ。このように雑多な事務処理などを教諭に負担させなければ、本来の指導教育に専念できるから、いじめや不登校も激減する。そして先生たちの休職や離職を防ぐことができる。先生の業務は他の人が代行出来ないという思い込みを払拭することがまず必要だ。