落語「厩火事」にみる夫婦愛

古典落語に「厩家事」という、夫婦愛を描いた名作がある。夫婦愛とはこうありたいものだという噺ではあるが、ユーモアを交えたほのぼのとした物語に仕立ててある。妻を愛する気持ちが夫にあるのか確認したいという人は参考になるだろうし、夫とはこういう時こそ妻への愛情が試されるということを心得るべきであろう。

髪結いをしているお崎が、仲人のだんなのところへ相談にやってくる。亭主の八五郎とは所帯を持ってかれこれ八年になるが、このところ毎日夫婦喧嘩に明け暮れている。お崎は八五郎よりも七つも違う姉さん女房である。何故二人が夫婦喧嘩を繰り返しているかというと、この亭主は同じ髪結いで、今でいう共稼ぎなのだが、近ごろ酒びたりで仕事もろくろくせずに、遊びまわっているという。女房一人が苦労して働いているというのに、仕事が長引いて少しでも帰りが遅いと、変にかんぐって当たり散らして暴力まで奮い、始末に負えないと訴える。

お崎はそんなだらしない亭主に対して、もういいかげん愛想が尽きたから別れたいというのだ。仲人であるだんなが「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」と突き放すと、お崎はうって変わって、そんなに言わなくてもいいじゃありませんかと、亭主をかばい始めた。あんな優しい人は他にはいないと、逆にノロケまで言いだす始末。呆れただんなは、それじゃ一つ、八五郎の料簡を試してみろと、参考に二つの話を聞かせる。

昔、唐(もろこし)に孔子(こうし)という偉い学者がいた。その孔子が旅に出ている間に、廐から火が出て、可愛がっていた白馬が焼け死んでしまった。どんなお叱りを受けるかと青くなった使用人一同に、帰った孔子は、馬のことは一言も聞かず、「家の者に、怪我はなかったか?」と聞いたという。これほど家来を大切に思って下さるご主人のためなら命は要らないと、家来たちは感服したという話。

麹町(こうじまち)に、さる殿さまがいた。お崎「猿の殿さまで?」だんな「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥様が運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。殿さま、真っ青になって、「皿は大丈夫か。皿皿皿・・・」と、息もつかず三十六回。あとで奥さまの実家から、妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれないと離縁され、一生寂しく独身で暮らしたという話。

だんな「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、何か大切にしている物をわざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」帰宅したお崎、たまたま亭主が、さる殿さまよりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出す。台所の踏み板をわざとずらして置いて、帰宅した亭主の前で、それを持ち出すと、台所で踏み板を踏み込んでわざと転ぶ。それを見た八五郎「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」お崎「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」八五郎「なんでえ、そのモロコシてえのは」お崎「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」八五郎「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒を飲めねえ」

この噺は夫婦愛の在り方を、深く考えさせてくれる。さて、この噺を聞いて、世の中の夫たる者、どんなふうに思うであろうか。この八五郎という亭主は、結局は自分中心じゃないか。自分が楽をして酒を飲みたいから、妻に対していたわるような言葉を発しただけじゃないか。なんのことはない、この亭主はもろこしの孔子ではなくて、やはり麹町の殿様と同じだな、と思うのならば、この夫は亭主失格だと言わざるを得ない。こんなふうに思う亭主ならば、妻への深い愛情はないから即刻別離したほうがよい。

一方、この噺を聞いて、自分の夫がこんなふうに解釈したのならば、亭主は妻への愛情があると思って良いだろう。この八五郎は、本当は女房のお崎の身体のことを心から心配するほど愛しているのだが、女房のお崎から「あたしの体のことを心配してくれるのかい」と言われて、あまりにも図星に言われ恥ずかしくて、照れ隠しに「遊んで酒を飲めねえ」と言ったのだと解釈するような亭主ならば、妻を愛しているに違いない。何故ならば、心理学的に分析すると、人間は物語の主人公に対して、自分の心情を投影しやすいものなのである。試しに、この噺を夫に聞かせて、どう解釈するのか聞いてみるとよい。でも、自分の夫が前者の解釈をするかもしれないのではと、怖くて聞けないかもしれない(苦笑)

視線恐怖症を克服する

他人の視線に対して異常に反応してしまい、恐怖に感じるメンタルの障害がある。対人恐怖症の一種であると定義されていて、それは視線恐怖症と便宜的に呼んでいる。正式な病名ではないらしい。日本人に特に多いという。『恥』の文化が浸透している日本人は、他人の目を気にする傾向にある。自分を見る目が、とても気になるのが日本人である。恥ずかしい装いや言動を避けたいという思いが強い。恥をかくという行為が万死にも値するという武士道の考え方が一般人にも浸透したのではないかと見られている。

さて、最近の青少年の間にこの視線恐怖症が広がっているという。10数年前にも視線恐怖症の若者がたまに見られたが、ここ数年にはとても多くの若者がこの症状に苦しんでいると言われている。他人が自分を見て笑っているとか、自分を侮蔑しているとか、自分の顔や姿がおかしいと噂し合っているということを主張するケースが増えている。したがって、多人数が出入りするコンビニやレストラン、スーパーマーケットに行くことを極端に嫌う。さらには、職場や学校でもそのような視線を感じ始めると、辞職や退学をせざるを得なくなるのである。不登校やひきこもりになるきっかけにもなっている。

この視線恐怖症という症状が何故起きてしまうのかというと、やはり成長期における様々な経験が影響しているのではないかと考えられている。養育者から育てられる際に、こんなことをすると周りの人から、恥ずかしいとか、批判されてしまうとか、何度も言われて他人の目を気にすることを強化され過ぎたせいかもしれない。または、何度も人前で恥をかく体験や、常に馬鹿にされて軽蔑されるような体験をしたということによる影響があるかもしれない。いずれにしても、あまりにも自己否定感情が強化されてしまったことによる影響が大きいと思われる。

この視線恐怖症を始めとした対人恐怖症に対する医療的治療は、困難を極める。投薬治療によって症状がある程度軽減されるケースもあるが、完全に恐怖感を払拭するのは難しい。カウンセリングや心理療法も、大きな効果を上げる例は極めて少ない。認知行動療法がある程度の効果があると言われているものの、効果は限定的であり、やはり完治は難しいと言われている。何故こんなにも治療が難しいのかというと、対人恐怖症を患う人は、自分の心の中に特定の『物語』を創り上げてしまい、この物語から脱却できないからである。脳科学的にいうと、頑固なメンタルモデルを創り上げているから、聞く耳をもたないのである。

この強固な『物語』は、心理学用語でドミナントストーリーとも呼ぶ。こういうことをした時には、必ずこんな結果になってしまい、極めて辛い悲しい思いをしてしまうというストーリーを自身の無意識下に創り上げ、そのストーリーに支配されてしまうのだ。だから、身内や他人からその考え方はどんなに間違いだと説得されても、頑固な物語に支配されてしまうのである。一度、そのドミナントストーリーを破壊して、完全に捨て去らなければならないが、聞く耳を持たないから、どんなに説得されても効果がないのである。

ただ一つ効果を上げられる治療方法がある。それはナラティブアプローチという方法である。他の治療は、視線恐怖症の症状が勘違いだとかあり得ないことだと納得させようとするのだが、ナラティブアプローチはまずその困った症状を、逆にまるごと肯定するのである。クライアントが感じる視線に対する恐怖の思いを一切否定せずに、まずはその感情に共感するのである。そうすると、自分の辛くて苦しい思いを共有してもらったという安心感から治療者に信頼を寄せるのである。そして、何度もその恐怖感にいたる思いを話してもらい共感してもらうことで、その考え方に対して自らが冷静な判断や分析が出来るようになるのである。

視線恐怖症の症状を解ってもらうことで、これらの症状に至った経過や原因を自分で振り返ることが出来る。そうすると、辛い症状が脳の誤作動であるのかもしれないと思い当たることが出来るのである。そして、間違った物語であるドミナントストーリーを捨て去ることが可能になり、新たな正しい物語であるオルタナティブストーリーが作られることになる。これがナラティブアプローチと呼ばれる心理学的治療法である。この治療方法は、コミュニケーション能力が卓越していて、人間性が高くて粘り強く我慢強く、人間的魅力がある治療者でないと成功しない。しかも、温かい物語を紡ぐ優秀なストーリーテラーでなければならない。だから、この治療方法は誰でも出来る訳ではない。この治療方法は、他のメンタル障害にも効果がある。しかし、残念ながらこの治療法を巧みに扱える治療者が極めて少ないのが現状である。

※イスキアの郷しらかわでは、このナラティブアプローチを駆使できる精神保健福祉士の専門家を紹介することができます。なお、このナラティブアプローチという心理療法について詳しく知りたいという方には、解りやすいように説明いたします。ご子息がこの視線恐怖症で悩んでいらっしゃる保護者へのご説明をさせて頂く用意があります。まずは問い合わせフォームから相談してみてください。

違いを怖れない

学校内などでの友達との関わりあいにおいて、皆と違う考え方や言動をすると、笑いものにされるらしい。それだけでなく、排除されたり虐められたりもするというから怖い。いじめの行為に対して、勇気を持って止めるように注意をすると、皆と違う行動する変な子として、次はいじめの対象者になることも多いと聞く。学校現場においては、皆が同じ方向を向いて、同じような考え方で行動することが、暗黙の了解らしいのである。したがって、それに背こうものなら、『変な人』というレッテルを貼られて、仲間外れにされるというから恐いことである。

他と違っているということだけで、疎外をしてしまうというのは、やり過ぎではないだろうか。そう言えば、皆と違うような意見を述べると、ネット上で炎上してしまうのも同じようなことかもしれない。なにしろ、皆が同じでないと安心できない人々がいるのは確かである。人は人、私は私と割り切れないものであろうか。そう言えば、あまりにも厳しい校則があり、生まれつき茶髪の子が黒く染めなさいと指導された学校があったと聞く。少しぐらい髪の毛の色が違うからと、目くじら立てて厳しく指導するというのも、違いを許せない性分から出た行為であろうか。

自然界の中で、多くの植物や動物が存在し、それぞれ同じものや生き物が二つとないことを知っているであろうか。勿論、人間も二つとして同じ人間はいない。何故かというと、それが生物の多様性であり、同じものだけだと種が滅びかねないからである。厳しい気候変動や地殻変動などで、その環境変化についていける動植物やついていけない動植物がある。種が生き残るためには、様々な環境にも適応した種が必要である。まったく同じ個体であれば、すべての種が滅んでしまうからではないかと見られる。人間だって例外ではない。種の保存には、多様性があったほうが生き残る確率は高くなる。

地球上には、実に様々な病原菌やウィルスが存在する。それらの病原菌やウィルスに強い人間がいないと全体が死滅してしまう。だから多様性を与えてもらったのかもしれない。さらに、人間に多様性が必要だった理由が特別に存在する。それは、人間がそれぞれに違うことによって、他人と自分の違いを認識できて、自分という存在がどういうものかということを知って認めることができる点である。人間全員が同じであったなら、他人との違いを認識できず、自分の存在意義を知ることが出来ない。自分はあってもなくても良くなってしまう。他人と違うから自分の必要性を感じることができるのではないだろうか。

さらに、自分と他人の違いがあることで、自分よりも優れていたり尊敬出来たりする部分を他人に発見すれば、自分もそうなりたいと努力すべき目標ができる。または、相手の中にとても醜いものや汚れた部分を発見すれば、そういう部分が自分にもあることを知ることで、そのマイナスの自己を乗り越えることができよう。だから、自己成長や自己実現の為にこそ、他人と自分が違うことが必要なのである。これこそが人間に多様性が与えられた理由ではないかと思うのである。それなのに、皆と同じように考えて同じことをしていたのでは、自らの成長がありえないし、人間の進化も停止してしまうのではないだろうか。

学校や職場で、発達障害や自閉症スペクトラムの人を排除したりいじめたりすることは、多様性の観点からも絶対にしてはならないことである。そして、その違いを認め受け容れることで、自分のさらなる成長も約束されるのであるから、違いを揶揄したり笑いものにしたりしてはならない。自分が他人と違っていることを、卑屈に感じたり恥ずかしいと思ったりしてもならない。堂々と違いを見せつけていいのである。違いを怖れてはならない。そして、その違いを認め受け容れられるような寛容社会を創り上げる努力を、我々は粛々と実行して行かなくてはならないのである。

このように皆が同じような考え方をして同じ行動をしたがるのは、絶対的な自己肯定感がないからではないかと見られている。何故、自己肯定感が育てられなくて、自己否定感が強いまま大人になっているかというと、生きていくうえでの確かな価値観が確立されていないからであう。例えば、システム思考という価値観がある。全宇宙におけるすべての物体と生き物、または人間そのものは、全体最適と関係重視の価値観によって存在している。自分もその全体最適と関係性重視の価値観に基づいて生きるという確固としたシステム思考の価値観が身についていれば、絶対的な自己肯定感が生まれる。そうすれば、他人と違うことを幸福に感じ、『変人』と呼ばれることを逆に喜びにできる。違いを怖れることはないのである。

不登校とひきこもりを考える会

不登校・ひきこもり・発達障害を考える会を開催します。翌日の26日にも開催しますが、土日にも開催してほしいとの要望を受けて、2月25日(日曜日)にも開くことにしました。是非、ご参加ください。質疑応答や個別相談会もお受けいたします。

食品ロスをなくそう

食品ロスという語句がネットニュースなどで、大きな話題になっている。2月3日の節分に、作り過ぎた恵方巻が大量に廃棄処分になったと話題になった。残ってしまった恵方巻の材料までも大量廃棄されたという。どうしてそんなに食品ロスが出るかというと、昨年に実際に売れた量よりもさらに追加した発注をするのが、コンビニやスーパー業界では通例になっているからだという。毎年、売り上げ目標を高く設定することが至上命題になっているから、どこのお店でも毎年発注量を増やし続ける。当然、売れ残ることになり食品ロスとして処理され捨てられるらしい。

こうした食品ロスは、恵方巻だけではない。大手スーパーに限らず、コンビニ、街の食料品店、飲食店、居酒屋、レストランでも大量に出ている。一般家庭ではあまりないと思われるが、食料品販売店や外食産業においては、食品ロスは仕方ないものとして、大量に廃棄処分されている。この食品ロスは、日本では特に多いという。生食を好む国民性もあるし、消費期限や賞味期限にこだわる国民の性格も災いして、大量に食品ロスが発生していると言われている。この食品ロス分の食糧を発展途上国に持っていけば、殆どの国民の飢餓状況を改善できるらしい。実に、もったいない話である。

食品ロスを減らす努力をそれぞれの担当者はしているらしいが、なにしろスーパーやコンビニでは欠品を出すのを極端に嫌うという。だから、どうしても完売予想量よりも多少多めの発注をするのが通例になる。ところで、食品ロスの分は廃棄されるのだから、どうしたって販売価格にその廃棄分を上乗せすることになる。だから、我々消費者はその食品ロス分も含めて食料品を高い金額で購入しているということだ。消費者の責任ではないのに、その失敗分までも消費者が負担するというのは、納得できないことでもある。

食品ロスは、高い食品代を支払らわせられるだけではない。食品ロスは、省エネや環境保護にも反するということになる。食品ロスは一部が飼料として利用されるが、殆どが廃棄物になり焼却されることになる。サステナブルな環境を維持するのに反する行為となる。どうにかして、この食品ロスを減らせないだろうか。飲食店や居酒屋において、注文して食べ残すという食品ロスだけは、絶対に減らせる気がする。食べ放題やバイキングなどで、大量に注文して食べ残すという行為は絶対に許せない。飲食業で食べ放題という安易な方法で顧客を取り込む行為は、あまり感心しない。

食べ放題やバイキングなどは、お客が喜んでいるかもしれないが、客の幸福には結びつかない。どちらかというと、不健康を促進してしまうからである。食べ過ぎになってしまい、メタボとなり生活習慣病まっしぐらになってしまう。目の前にたくさんの食べ物があれば、どうしたって欲望に負けてしまうのが、人間の性である。料理というのは本来、旬の食材、味と盛り付け、様々な調理の工夫、盛り付けられた容器などをじっくり楽しむものである。それなのに、そういう楽しみを奪ってしまうバイキングや食べ放題は、実に詰まらない。

料理というのは、食べる人の幸せを願いながら、誠心誠意自分の持つ技能を最大限に発揮して、心を込めて作るものである。バイキングや食べ放題では、作り手の心意気は込められそうもない。そして、結果として食品ロスを大量に生み出してしまうのである。和食というのは、食材の素晴らしさを生かして、少量でも食べる人の感動を呼び起こす。敢えて少量にして、もう少し食べたいなという余韻を残しながら、次の料理を想像して楽しむものである。最初から、すべての料理が揃ってしまっては、イマジネーションを働かす歓びがなくなってしまう。

食品業界や飲食業界の方には、食品ロスをなくす努力をしてほしいものである。勿論、業界の人々にそうさせてしまうのは、我々消費者の責任もおおいにある。余計なものを要求しないようにして、欠品になっても大騒ぎをせず、他のもので代用できるような柔軟性が求められる。無駄な生産を防ぎ、廃棄されないように料理や調理に愛情を込めて、食べる人の健康を願う行動を志してほしいものである。消費者も、食べ物を大切にする気持ちを持ち、少しの料理でも満足できるように、煩悩を抑えられる心を持ちたいものである。食品ロスなんて悲しい語句が、ネット上で踊らないような社会になってもらいたい。

休職を選択せざるを得ない訳

職場を休職している社員・職員は少なくない。正確な数字はなかなか掴めないので、その実態は明らかになっていない。何故なら、完全に1ケ月以上休んでいるケースもあれば、時々は出勤して休む例もある。または、医師から半日勤務などを指示される場合もあるので、どの休み方をすれば休職とカウントされるのかの基準があいまいである。さらには、企業、団体、行政側でも内外に対して積極的に情報公開をしたがらないという事情もある。ましてや、給料が支給されていて、健康保険料や年金保険料が納付されていると、厚労省としても把握することが出来ないのである。

休職をしている理由は、メンタル面での就業困難によるものが非常に多くなっているらしい。うつ病、抑うつ状態、双極性障害、適応障害、社会不安障害、パニック障害などのメンタル障害による休職が増加しているという。このメンタル障害になる原因は、職場環境、または仕事における過度のストレスやプレッシャーを感じたことによると見られる。特に多いのは、対人関係のストレスだと言われている。この社会は非常に生きづらい世の中だと言われているが、職場もまた同じように生きづらさを抱えてしまう場所らしい。どうしても、職場に出勤できなくなってしまい、休職を選択せざるを得なくなると思われる。

いくら対人関係のストレスが原因だと言っても、休職せざるを得ない人がいる一方で、普通に勤務している人もいる。どうしたって休職している人に対する風当たりは強い。同じ条件で働いているのに、どうして特定の人だけが出勤できないんだと、声には出さないけれど批判的な態度をする人は少なくない。メンタル障害に対する社会的な理解は進んでいると言っても、実際に自分が所属している職場における、限られたマンパワーが少なくなり、他のメンバーに負担がかかる状況がれば、不満は大きいであろう。休職者がなかなか復帰出来ない理由のひとつが、実はそのような圧力を感じるせいかもしれない。

さて、休職をせざるを得ない理由は、本人のメンタル障害だとしても、そうならざるを得ない事情が職場に存在すると思われる。それでは、同じような環境におかれているのに、メンタルを病んでしまう人とそうでない人がいるのはどういう訳だろうか。まずは、人それぞれの置かれた状況は同じようでも違う条件にあるということが言える。新人で仕事をまだ覚えていないのに、あまりにも過酷な仕打ちを受けてしまうケースもある。管理職になったばかりに、上にも気を遣うし、指示に従わず勝手な行動をする部下に振り回される例もある。部長になったお陰で、過酷な達成目標を設定され、役員から無理難題を突き付けられて滅入ってしまうケースもある。

それでも、そんな苦難困難を何とか乗り越えられる人もいたのにと息巻く人もいるだろう。では何故、そんな違いが出てくるのかというと、それはやはり本人の気質や認知傾向、そして自身の価値観に大きな違いがあるように思われる。酷い仕打ちや過酷ないじめを受けても平気な人もいる。しかし、心が優しくて思いやりがあり、他人の気持ちを敏感に感じる感性が鋭い人ほど、他人の悪意をまともに引き受けてしまう傾向にある。つまり、世の中には鈍感な人と他人の気持ちに対して敏感過ぎる人がいるということである。メンタルを病む人は、後者のケースが圧倒的に多いみたいである。だから、他人の悪意や身勝手で自己中心的な態度を取り続ける上司や同僚に我慢がならないのである。かくして、そんな職場環境に居場所がなくなり、メンタルを病んで休職するという選択肢しかなくなるのであろう。

不登校、ひきこもりをする子どもや若者も同じような傾向にあると言われている。つまり、感受性が強いばかりに周りの悪意に満ちた雰囲気に耐えられないのである。自分を権力や権威で無理やりに支配し制御しようと企む、周りの悪意を感じるのであろう。学校にも職場にも、そして家庭の居間にも、安心する居場所がないのだ。それじゃ、職場環境や学校の環境が変わらない限り、学校や職場に復帰できないのかというと、そうではない。先ずは、職場における他の社員や職員が間違った価値観に支配されているということを認識することが必要である。本来組織というのは、全体最適や関係性重視の価値観で管理運営されるべきなのに、実際はそうなっていないし、自分はその間違いを認識している数少ないエリートだと深く認識すべきである。

そのうえで、間違っている他の社員と職員を許し受け容れる、深い寛容性と受容性を身に付けることである。他の社員や職員は、全体最適と関係性重視の高い価値観を教えられて育っていない。学校でも家庭でも職場においても、そんな教育を受けていないのだから当然だ。自分さえ良ければいい、自分の幸福や物質的な豊かさが確保されれば、他の人がどうなっても関係ないと思い込まされてきたのである。個別最適の教育である。行き過ぎた個人主義と競争主義が生んだ弊害でもある。客観的合理性の近代教育を受け続けると、誰でもそうなるのだ。その間違いを何となく気付いているから生きづらさを抱えて、メンタルを病んだのである。その間違った低い価値観を、高い価値観を持った人は許せるし、慈悲の心で受け容れることが可能になる。そうすれば、必ず休職から脱却できる。これが休職から完全に社会復帰できる唯一の道だと言えよう。

 

※イスキアの郷しらかわでは、何故メンタルを病んでしまい休職を選択せざるを得なくなったのかを、詳しく解説しています。そのうえで、正しくて高いシステム思考の哲学という価値観を学び、自分は間違っていなくて周りが間違っているんだという確信を得る研修をします。そうすれば、間違った価値観に支配されて酷い仕打ちをする人たちを許し受け容れる心が芽生えます。そうすれば社会復帰が可能になるのです。これが社会復帰へと進む道です。休職者が大勢いて困っている職場の研修にもご活用ください。問い合わせフォームからまずはご相談ください。

働き方改革は意識改革から

政府主導で働き方改革を進め始めている。この働き方改革というのは、労働者視点からのものならば大歓迎である。しかし、産業界における労働力不足を解消するための方策としての働き改革であるとしたら、絶対に認められないものだと言えよう。労働力不足を何とかしたいし、安価な労働単価で働かせるには、子育て世代の女性をパート就労させるのが手っ取り早いと考えるのはあまりにも安直である。そのための働き改革ではないかと思えて仕方ない。こんなものが働き方改革だとしたら、絶対に賛成できない。

政府自民党は常に産業界・経営者団体にとって都合の良い政策を推し進める傾向にある。表面的には国民の利益を代弁しているように見せかけながら、実際は経営者側の観点から労働政策を進めているとしか思えない。みなし労働制の導入や派遣労働法の改正など、労働法制の改正はすべて労働者の不利益にしか思えない。配偶者控除の見直し政策も、安い労働力を得るための安易な方策であろう。厚労省のキャリア官僚は、おしなべて政府自民党の言いなりになっている。国民目線での法改正は、まったくないのが現状である。

本来、高級官僚を始めとした行政職というのは、国民の利益を守るべき立場にあるのが正しい。ところが安倍一極体制があまりにも強固であるが故に、官邸に対して何も言えなくなっている。何故かと言うと、官邸がキャリア官僚の人事権を掌握しているからである。しかも、退官後の再就職さえも官邸が主導しているのである。こんな国は、独裁国家以外には世界中のどの国にもない。これでは、官僚が国民の忠実な僕(しもべ)ではなく、政府官邸に従順な僕になるのは当然である。官僚としての矜持を持てと言っても、がっちり鎖でつながれて支配されているのだから、所詮無理であろう。

このような政治と行政なのだから、働き改革がどんなものになるか想像できよう。産業界・経営者団体から多大な政治献金を受けている自民党が、労働者と経営者のどちらに有利になる政策を推し進めるのか、自明の理である。働き方改革は、大賛成である。それが労働者の意欲や勤労意識を高めることに寄与し、働くことの喜びを享受することが可能になるならばである。ところが、政府自民党の推し進める働き方改革は、どうやらその反対の方向に向かっているとしか思えないのである。

本来の働き方改革というのは、現状の問題点を解決する方向に向かわなければならない。現在の日本における働き方で問題になっているのは、まずは労働分配率のあまりにも低さである。欧米の比率から見ると、明らかに低いのである。大企業の内部留保があまりにも多いし、役員報酬にばかり利益が分配され過ぎである。これをまずはどうにかしなければならない。労働者の基準賃金があまりにも低いから、長時間労働を余儀なくさらされ、残業手当で補わなければ生活が出来ない状況に陥っている。日本の第三次産業や事務一般職における労働生産性は、先進諸国の中で最悪である。これらの問題を優先的に解決するのが、本来の働き方改革であろう。

これらの諸問題を抜本的に解決する働き方改革をするには、どうしたらよいであろうか。それは、経営者と労働者双方の抜本的な意識改革がまず必要であろう。生産性を向上するには、労働者と管理者の意識を大改革しなければならない。残業は必要悪なんだという考え方をまずは払拭しなければならないし、休日残業はしなくても必要な業務は遂行できるという意識を持つことが必要である。初めから残業ありきで仕事をすることが脳に刷り込まれている日本人が殆どである。それを、残業しなくても仕事を遂行するにはどうしたら良いかと考えるのである。欧米のビジネスマンは、夕食は家族そろって団らんする時間をどのように確保するのかが絶対的命題である。それを成し遂げるために労働スケジュールの配分をする。日本人だけが出来ないということはあり得ない。

日本人労働者は、残業労働するのを美徳と考える向きがあり、サービス残業を喜んでする社員を重用したがる。朝から、終業時刻を目安として働くのではなく、午後11時から12時を退社時刻設定にしてスケジュールを組むのが常である。この間違った意識を破壊することが必要であろう。喜びを感じながらイクメンに勤しんでいるビジネスマンは、実際に残業をせずとも他の労働者と対等の労働成果を上げている。そういう管理職も増えてきている。それが出来ないビジネスマンは、これからは落ちこぼれになっていくだろう。労働生産性を上げる為には、抜本的なイノベーションが必要である。それで労働生産性が上がれば、基準内賃金を高めることに経営者も着手しなければならなくなる。残業手当がない労働報酬を基準にする働き方をすべきである。経営者自ら意識改革に取り組み、労働生産性を上げる努力をすることこそが、真の働き方改革につながることだろう。

父親が育児で学ぶ本当の優しさ

育児をする男性をイクメンと呼ぶのは定着してきたようで、非常に喜ばしいことである。とは言いながら、逆説的に考えれば育児に協力的な男性は、またまだ少数派であり、多くの男性はあくまでも仕事優先であるという証明でもある。殆どの父親は、空いた時間に申し訳程度に育児を手伝うレベルかと思われる。そもそも、育児は母親の役目だと思っている人が大多数であり、共働き世帯であったとしても、家事育児は女性のほうが圧倒的に担う割合が多い。だから、「お母さんをやめる」などと悲痛な叫びが起きてしまうのであろう。

専業主婦であったとしても、育児に対する負担は大きいのである。だから、出来得る限り育児や家事の役割分担を夫にしてほしいと思っている。ところが、仕事が忙しいし育児は苦手だと勝手な理由をつけて、育児を放棄する男性が多いのである。良妻賢母なんて言葉があるが、これはとても危険なワードだと思われる。家事育児は女性の役目だと言わんばかりであるし、女性たちに無言の圧力をかけている。家事育児を女性がするのは当たり前であり、良い妻であり賢い母であることが当然だと、女性たちに強制する悪魔の言葉であろう。こんな男性の立場から自分達に都合よく勝手に作った言葉に騙されてはならない。

さて、イクメンは素晴らしいことだと世間では賞賛されているが、なかなかイクメンになろうとしない人たちがいる。それは、やはり育児をしようという気持ちになるハードルが結構高いのではないかと見られる。育児は、非常に難しいと男性が思い込んでいる節がある。まず幼子が泣いていると、何故泣いているのかが解らない。オシメを替えたり授乳したりするのも難しそうであるし、うんちをした際にふき取るのは勇気がいる。遊んであげるのはいいが、むずがったり反抗されたりされたら、お手上げである。育児をするくらいなら、仕事をしていたほうが遥かに楽だと思っているから、仕事に逃げ込むのであろう。

ところが、男性がこの育児をすることで、驚くほどの自己成長を遂げることが出来るのである。それも、育児でしか気付くことが出来ないし学べないことがあるのだ。それは、人間として一人前になるために通過しなければならない『修行』みたいなものである。端的に言えば、心の成長である。男性は、どちらかとい言えば女性に比べると相手の心を読むことが苦手だ。相手の気持ちになりきって、相手の悲しみや悩み、苦しみを自分のことのように感じることが出来にくい。だから、よく言われるように男性は空気が読めないのである。話も聞かないし、相手に共感できないのだ。

どの家庭においても同じだと思うが、夫は妻の話を我がことのように思いながら話を聞くことはあるまい。優しいのだが冷たいとは、こういうことである。妻の辛くて悲しい話を聞いて、涙をぼろぼろ流しながら聞く夫がどれだけいるだろうか。こんな夫はそうそういない筈である。相手の話を自分のことのように聞いて、感情を共有することを、『慈悲』と呼ぶ。つまり、相手の悲しみをまるごと否定せず慈しみ、我がことのように涙を流して悲しむことを言うのだ。この慈悲の心を持つことが出来ないと、人間としては一人前とは言えない。

ところが、数人の子育てで苦労を経験した女性には、ありがたい慈悲の心が芽生えるのである。勿論、育児をしないと絶対に慈悲を獲得できない訳ではないが、極めて少ない。何故かと言うと、子育てをしている際に、泣いている我が子の気持ちや思いを汲み取ろうと真剣に努力するのだ。子どもが何故泣いているのか、何故怒っているのか、何故嫌がるのか、子どもの心になりきって心を読もうと必死になるのである。つまり、子どもの心と一体化させないと、子育ては上手く行かないのである。これが自他一如という極意でもある。自分と他人の心がひとつになるには、子育てを経験するのが一番である。

男性も子育てをたくさん経験することで、この『慈悲』の心を獲得する道が開かれるのである。この相手の気持ちを我がことのように感じられるようになると、自分の至らなさや未熟さもよく認識できるから謙虚になる。コーチングの基本は、傾聴と共感だと言われている。まさに、育児をすることで知らず知らずのうちにコーチングが出来るのである。これはビジネス場面においても、非常に有効である。会社のリーダーとして、なくてはならない能力である。慈悲を持つビジネスマンは、お客様にも部下にも好かれるから、敵なしである。だからイクメンは、会社で出世するのである。育児を経験することで、本当の優しさが生まれる。夫婦愛が強まるし、家族愛が高まるから不登校や引きこもりも起きない。こんなにも男性を成長させてくれる子育てを、しないという手はない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「イクメン研修」をしています。どうすれば子育てが上手く出来るのか、実例を上げながら学びます。旦那様が育児に対して非協力的で困っているという奥様、ご夫婦でいらっしゃれば、さりげなく子育ての魅力と必要性について話をさせてもらいます。是非ご検討くだい。申し込みと問い合わせは下記の問い合わせフォームからどうぞ。

お母さんをやめる

「お母さんをやめる」と子どもに言ってしまったと、母親が後悔の念をSNSでつぶやいて、そのことに対する賛否のコメントが多数寄せられて話題になっているという。概ね共感と励ましが多いようで、「私も同じだよ」と言って慰めてくれる人が多いのには驚く。こんなにも子育てに悩みを抱えている多数のお母さんたちが存在するんだと、とてもびっくりすると共に、一人きりで悩み孤独感を抱えた母さんをほっといていいのだろうかという思いにかられた。良い母親と良い妻を演じることに疲れてしまったお母さんが、メンタルを病んでしまわないかと、とても心配している。

悩みを持つ多くの母親の家庭はこんな事情らしい。小さい子どもが複数いて、難しい反抗期を迎えている子どもに対応するのに悩んでいるという。親の言う事は聞かないし、ちっとも協力してくれない子どもに対して、毎日イライラするばかり。そして仕事ばかりしていて家事育児を分担してくれないばかりか、ちっとも悩みや苦しみを聞いてくれない夫。誰も助けてくれず、一人で思い悩む自分。誰かに訴えようか、または助けを求めたいと思いながら、共働きであるからママ友もいない。八方塞がりの状況に追い込まれ、こんな駄目な自分だからと、自らを責めているというようなことらしい。

共働きであろうとシングルワーカーであろうと、またはシングルマザーであろうとも、同じような子育てに関する悩み苦しみを抱えた人がとても多いのである。これは、日本の母親なら誰でも感じたことではないだろうか。あまりにも、夫や周りの人々が子育てに対して、協力してくれないのである。確かに仕事が忙しいというのは仕方ないかもしれないが、土日の休みまでも仕事の為に出勤するというのは考えられない。子育て中の父親にそんな働き方を強いるような会社は許せないし、こんな酷い会社なら即刻辞めればいい。妻をそんな状況に追い込むような働き方をしてはいけないのである。

安倍内閣は、働き方改革をすると意気込んでいるが、これが世の中の悲惨な状況だとすれば、先ずはこんな働き方をさせる会社を無くすことが先決である。厚労省は、それぞれの会社に対して、労働者の勤務状況を、外部委託会社を使ってアンケート方法で調査する。しかも、会社の総務部に対するアンケートである。こんな調査で誰が実情を話すだろうか。どうして、個々の労働者に直接調査しないのであろうか。厚労省の役人、とりわけ労働局や労働基準監督署の人間というのはこんなにも愚かなのかと呆れてしまう。こんな酷い労働環境の実態を知っているのに、見て見ないふりをしているのであろう。

まずは、世の中の小さい子どもを持つ父親の働き方改革を実行してほしい。少なくても、サービス残業をゼロにすること、そして月単位の残業時間を最大30時間まで、毎日の時間外労働は3時間以内と決めるべきである。そして、これ以上はどんな理由があっても認めないという労働基準法の改正を行うべきである。そして、その為に思い切ったワークシェアーを実施しなければならない。そうしないと、『お母さんをやめる』と悲痛な叫びをするお母さんを救えないからである。小さいお子さんを持つ父親は、少しぐらい待遇が悪くても即刻違う会社に転職すべきである。

今から25年前に、自分は以前務めていたある団体を辞めた。何故なら、子育てを最優先に考えたからである。残業が多くて休日もまともに取れず、看護師をしていた妻だけに育児の負担と不安を抱えさせることは出来なかったからである。3年に一度転勤があり、次は単身赴任をしなければならない状況にあったことも理由のひとつだ。収入は激減したが、人間らしい生活が可能になり、子育てや家事を分担できるようになり、親子の触れ合いも可能になった。収入や待遇は大事であるが、子育てよりも大切なことは他にない。それ以来、台所を守るのは妻の役目ではなくて、自分になった。料理をすることや子育てを、心から楽しんできた。

人生において、何を最優先にするかは人それぞれである。ただし、少なくても仕事がすべてだと思う価値観は危険であろう。私は仕事・家庭・地域の3つの柱を三等分にして、それぞれに貢献したいと思い努力してきた。妻にお母さんをやめたいと思わせるような夫は、夫婦失格であり父親失格、いや人間失格だと思う。行政や政治も『お母さんをやめたい』と思わせないような社会を創り上げる努力をしてもらいたい。夫はイクメンを心から楽しめる価値観を持ってほしいし、それが可能となる働き方改革を最優先で実行してもらいたい。おそらく『お母さんをやめたい』などと思うお母さんがこんなにも多い国は、世界広しと言えど、日本だけだろう。政治主導で一刻も早く悩めるお母さん救ってほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、若いお母さん方たちの悩み相談を受けています。良い母親や良い妻でいることに疲れ切った方々が、一時的に家庭を離れて心身を癒す時間を持てるように支援しています。イスキアで何もせずぼーっとした日を過ごしませんか。無農薬でオーガニックのお米と野菜で作った健康的で美味しい料理を食べながら、傾聴と共感のカウンセリングを受けませんか。ご夫婦とお子さん連れでいらっしゃれば、父親に対して、楽しく学べんで、イクメンを進んでしたくなる研修を実施します。

直観を活用するために

大事な人生の岐路に立った時、どの道を選ぶのか迷う時がある。その際、拠り所とする直観力が鋭い人と鈍い人がいる。また、直観に従って何事も上手く行く人と、直観に従うとどうしても失敗してしまう人がいる。さらにどういう訳か解らないが、直観を大切にして直観に従う人がいる一方で、直観をあまり重視しないで、論理的に検討して次の行動を決める傾向の人がいる。自分に自信がないのか、直観に従う事に対して臆病で、他人の助言や指示を重視する人がいるのである。いずれにしても、直観を大事にする人と、宛にならないと軽視する人がいるのは確かだ。

直観をとても大切にしている人は、他人の意見や助言にあまり捉われず、直観に従って上手く行くことが多いみたいである。一方、直観をあまり信用せずに、敢えて直観に従わずに、論理的に科学的に深く考察して自らの行動を決める人は、意外と後で後悔することが多いらしい。直観に従って何度も失敗するので、もう信用しなくなったという人の直感というのは実は本来の直感ではないかもしれない。それは直観というよりは、単なる不安感や恐怖感であろう。こういうものは直観とは呼ばないと心得るべきである。

本来の直感とは、『ひらめき』であり、何かを真剣に集中して考える時にはひらめくことが少ない。どちらかというと、ぼーっとしている瞬間のほうがひらめくことが多い。または、散歩している時や黙々と登山をしている際にひらめきがやってくるという。あとは意外に多いのが、お風呂に入って湯舟に沈んでリラックスしている時である。中には、トイレに長い時間入っている時にふとひらめくという人も少なくない。どうやら、直観というのは深く意識している時はなかなかやって来なくて、無心や無我の境地にある時に、突然やってくるらしい。

直観とは、何ものなんだろうか。どうして、無心や無我の境地にやってくるのであろうか。それは、直観というのは、意識している脳、つまりは表層意識ではなくて、無意識の脳であるところの、深層意識により感じるものではないかと考えられている。表層意識というのは、有意識とも呼ばれていて、人間の脳のうち約1割前後しか使用していないと言われている。一方、無意識とも呼ばれる深層意識は、脳の9割前後を占めていると言われている。つまり、私たちの脳というのは殆どが無意識によって支配されていると言っても過言ではないのである。

ということは、私たちは普段自分でこうしたいという意識に従って行動していると思っていたのに、どうやら無意識の脳によって行動させられているらしいのだ。実際に脳神経学の実験によって、このことが明らかになったのである。人間の脳は、ある行動をしようと意識するその瞬間の少し前に、既に脳は勝手に行動させる脳波を出しているというのである。そんな馬鹿なことがある訳がない。私たちは自分の意識によって行動しているのは間違いないと誰しも言う事であろう。ところが脳神経学の実験では、誰でもどんな時にも、脳波は行動しようと思い立った時のすぐ前から、既に出ていることが解ったのである。

結論から言うと、我々は有意識により行動しているのではないのだから、無意識をもっと活用するようにすると共に、無意識を正しく機能させるようにしなければならないということである。先ほど記したように、直観が不安感・恐怖感とは違うという点も認識すべきだ。不安感・恐怖感に捉われてしまうと、それが直観だと勘違いしてしまうことになる。無心、無我の境地に入り、自分の深い心に存在する直感と素直に向き合い、その直観に従うことが自分にとって正しい道を歩むことになるのだ。無心、無我の境地というのは、スポーツの世界ではZONE(ゾーン)と呼ばれている。この心を無にすることが求められている。

この無心、無我の境地に入るコツは、マインドフルネスである。仏教では唯識と呼んで、座禅、写経、読経、あらゆる修行の極意でもある。ヨガも実は瑜伽行から発していて、この唯識からのものである。マインドフルネスとは、自分の意識を何か別の何かで心を満たして、捉われている思考の一時停止をすることである。だから、何も考えずにぼーっとしている時に人間はひらめくのである。この時にふと思いついた直観が大事である。この直観が正しく思い立つ為には、普段より無意識から穢れを排する努力をして、深層意識を清浄なるものにしなくてはならない。それは、清浄なる行動によって成し遂げられる。修行僧が心の穢れを除く為に、掃除や修行に勤しむのは、身も心も清浄なるものにする為だ。正しい直感を得るには、これしかないと確信している。

 

イスキアの郷しらかわでは、マインドフルネスの研修と共に直観力を磨き高める方法をレクチャーしています。研修費用については、今年いっぱいはボランティアで実施しています。日帰りでのレクチャーも実施いたします。是非、ご活用ください。問い合わせフォームからご相談ください。