不登校は必ずなくせる

不登校がゼロの学校は、全国では殆どないという。ごく少人数の分校程度の小規模校や離島の学校なら不登校ゼロもありえるが、たいていの学校において不登校児童が存在する。文科省が不登校をどのように定義しているか、正確に把握している人は極めて少ないという。年間30日以上、病気や経済的理由以外で休んだ場合を不登校と定義している。

しかし、特記事項が付いていて、実際に30日以上休んでいても不登校と扱うかどうかは、当該学校の管理者の判断に委ねると記してある。しかも、保健室登校や放課後登校でも登校扱いされるのである。不登校児童の数が実際よりも少なくカウントされるというマジックが存在するのである。文科省、県や市町村の教委、そして学校の管理者も不登校が多いと自分たちの管理責任が問われるのだから、実数よりも不登校を少なく見せようという意思が働いても不思議でない。

不登校がゼロの学校が唯一存在する。それも大阪市立の公立小学校である。大空小学校という1学年1クラスの小規模学校であるが、不登校児童はまったくいない。何故、不登校児童がいないかというと、不登校ゼロを学校の絶対に達成すべき目標に設定していて、教職員が一丸となって努力しているからである。発達障害や知的障害の児童も普通学級で一緒に勉強しているが、不登校児童がゼロである。学校だけでなく地域の人々もボランティアで不登校を無くす努力をしているので、「みんなの学校」と呼ばれている。

この学校では厳しい規則はまったくないが、守るべき約束がある。『人が嫌がることをしない、言わない』というのがそれである。これを守らない児童は、校長室に呼ばれて自らの非を認めて、2度としないことを約束する。勿論、教職員も同じだ。子どもたちに対して不適切な指導をしたら、校長室に呼ばれて「教師なんか辞めちまえ!」と厳しく叱責される。児童中心の教育を徹底して実施しているのである。だから、教師による不適切な指導で子どもたちが学校に行けなくなることが皆無なのだ。

地元の小学校で、ある校長がこんな指導をしていた例があると聞いた。心優しく優秀な児童が不登校になった。この児童に対して、校長は放課後の時間に校長室に来て勉強するようにと提案した。心無い教師や他の児童が居ない環境で、安心して勉学に励んで、無事に卒業できたという。その子どもは、中学校に行っても不登校になった。校長は定年退職後に地元の公民館で社会指導主事をしていた。公民館に来なさいと子どもを誘い、可能な限り勉強を教えたという。この子どもは、地元で一番優秀な高校の特別進学クラスに進み、著名大学に進んだとのことである。

このような実例から導き出される結論は、不登校は学校関係者の対応が適切であれば、無くすことが可能だということである。学校関係者は、不登校の原因は本人とその家族にあると思い込んでいる。他の児童生徒は普通に登校しているのに、学校に来れない原因は本人にあると勘違いしているのである。これは、完全な間違いである。普通に登校している児童生徒が異常だと言えるのである。お互いの関係性が最悪で、悪意と攻撃性に満ちている学校の現状に、息苦しさを抱えている不登校児童が正常なのである。

不登校の子どもたちは、心優しく感受性が強いという特性がある。他人の悪意に満ちた言動に、心が傷つけられる。自分は虐められていないが、回りの子どもがそのような虐めに遭っているのに、自分がそれを助けられない自責の念にさいなまれていることが多い。自分が同じ目に遭うのではないかという不安もある。先生の心無い言動にも傷ついているのである。他の鈍感な子どもたちが気付かないことにも感じてしまい、いたたまれないのである。

このように不登校の優秀で心優しい子どもたちを、見殺しにしている学校とその教職員に責任があると言えよう。だから、学校が変われば、そして教職員の意識が変われば、不登校はなくなるのである。しかし、教職員や登校している子どもの保護者たちは、先生が忙し過ぎてそんなことは不可能だと口を揃えて言う。そんなことはない、やろうとしていないだけである。『なせばなる、なさねばならない何事も、なせぬは人のなさぬなりけり』と上杉鷹山は断言して、米沢藩の行政改革を成し遂げた。不登校をゼロにしようと努力もしないで、最初から出来ないと諦めるのは無責任であり、『悪』である。

※イスキアの郷しらかわでは、不登校の本当の原因を追究して、日本から不登校を無くす活動をしています。さらに、不登校の子どもさんのサポートと、ご両親への相談支援をさせてもらっています。下記の問い合わせフォームから相談を受けています。すべてボランティアでさせてもらっています。

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不登校児の親を悩ませる専門家

不登校とひきこもりの子どものお母様方から相談を受けているが、絶対に許せない対応をしている専門家がいることに驚く。ある臨床心理士(カウンセラー)に不登校の子どもの対応について相談すると、「卒業式に出られないようなら、もう望みはないから、絶対に卒業式だけには無理してでも出席しなさい」と子どもを説得したらしい。それも、50分のカウンセリング時間、ずっとそのことだけを言い続けたと言う。今時、そんな時代錯誤のことを子どもと親に言うカウンセラーがいること自体が不思議である。

カウンセラー(臨床心理士)は、それこそ大学院まで専門教育を受けて、著名な教授から認定を受けた専門家である。心理学を専門に勉強して、児童心理学だって相当深く学んだ筈である。不登校の子どもの心理が解らないことなんてあり得ない。カウンセリング後にこの子どもは、カウンセラーが大嫌いになり、他のカウンセラーであっても2度とカウンセリングに行かないと宣言したという。懸命な判断であろう。こんなカウンセラーに相談しても、悪化することはあっても良くなることは絶対にありえない。クライアントに信頼されないカウンセラーがいるなんて、信じられないことである。

さらに、このカウンセラーを不登校児の親に紹介したのが、学校の教頭だったらしい。その教頭は、このカウンセラーはとても優秀なので、是非カウンセリングを受けなさいと勧めたという。それで、相談後に教頭にくだんの話をして、酷いカウンセラーだったと伝え、とんでもない専門家を紹介してくれましたと苦情を言ったら、黙り込んで謝罪もしなかったということである。この教頭も最低の人間である。このカウンセラーは、以前から悪評で有名な人物である。教育の専門家ならば、事前にそういう情報の収集をしっかりとしてから紹介すべきであろう。

また別の発達障害の子を持つ親が、ある権威ある児童精神科医に診察してもらい相談したところ、「この子は高校に入学するのは難しいから、就労のための訓練を早々に始めなさい」と言われたらしい。いくら発達障害の専門家だと言っても、小学生のうちから将来を悲観するようなことを親に言う権利があるのだろうか。発達障害であっても、高校、大学を出て立派な職業に就いている人がいることを知らない訳でもあるまい。それなのに、可能性を否定するようなことを平気で言って、親を絶望させてしまうなんて許せない卑劣な行為である。

このように、医療や教育の専門家が不登校児や発達障害児の親を不安がらせ、益々悩ませるようなこと言うのは、本来あり得ないことである。不登校児や発達障害児の親が、子どものことをどれだけ心配して、とても不安な気持でいることを知らないのであろうか。その不安な心を逆なでするような行為は非道とも言えよう。実は、これらの専門家だけではなく、他にも沢山の酷い医療専門家がいるのも事実である。こんな問題のある専門家だらけであるから、不登校児や発達障害児の親たちは、安心して相談する相手がいないのである。多くの親たちが、困り果てて悩んでいるのは、こんな事情があるからである。

昨日と本日の2日間に渡り、イスキアの郷しらかわにて発達障害・不登校・ひきこもりについて学ぶ会を開催させてもらっている。発達障害・不登校・ひきこもりの子どもや若者たちが増加している要因とその背景、そして保護者がどのように関われば良いかを、解りやすく説明させてもらっている。適切な保護者の対応と支援、そして数多く自然体験や農業体験をすること、さらには食事や生活習慣を適正にすることにより、今の症状を緩和させることが出来る可能性があることを伝えている。親たちの将来に対する不安や恐怖感を和らげてあげることが、子どもたちの不安を取り除くのに有効であることを、今までの数多くの相談経験から学んでいるからだ。

不登校児と発達障害児の親に対する親身になった相談支援こそが、是非にも必要なのである。しかも、その相談はあくまでも、相手を否定しない傾聴と共感を基本にしたものであるべきだ。親たちの不安や恐怖感、または諦め感を助長させるような相談をしてはならない。不登校児と発達障害児の子育てで、それこそ悩ましく苦しく悲しい思いを沢山してきたのである。お母様たちに、「よく一人で頑張ってきましたね、さぞ辛かったことでしょう」とその苦労をねぎらい、悲しみや悩みに共感することで、お母さんたちの心は安らぐことができる。そして、すべてを受容して寛容の態度で接してもらえば、自らの自己成長を実現させることが可能になり、しいては子どもたちの心も変化する。これこそが、森のイスキアの佐藤初女が実施してきた相談支援である。とんでもない専門家によって傷つき心が折れてしまったお母さんたちを、これからも支援していきたいと思っている。

違いを怖れない

学校内などでの友達との関わりあいにおいて、皆と違う考え方や言動をすると、笑いものにされるらしい。それだけでなく、排除されたり虐められたりもするというから怖い。いじめの行為に対して、勇気を持って止めるように注意をすると、皆と違う行動する変な子として、次はいじめの対象者になることも多いと聞く。学校現場においては、皆が同じ方向を向いて、同じような考え方で行動することが、暗黙の了解らしいのである。したがって、それに背こうものなら、『変な人』というレッテルを貼られて、仲間外れにされるというから恐いことである。

他と違っているということだけで、疎外をしてしまうというのは、やり過ぎではないだろうか。そう言えば、皆と違うような意見を述べると、ネット上で炎上してしまうのも同じようなことかもしれない。なにしろ、皆が同じでないと安心できない人々がいるのは確かである。人は人、私は私と割り切れないものであろうか。そう言えば、あまりにも厳しい校則があり、生まれつき茶髪の子が黒く染めなさいと指導された学校があったと聞く。少しぐらい髪の毛の色が違うからと、目くじら立てて厳しく指導するというのも、違いを許せない性分から出た行為であろうか。

自然界の中で、多くの植物や動物が存在し、それぞれ同じものや生き物が二つとないことを知っているであろうか。勿論、人間も二つとして同じ人間はいない。何故かというと、それが生物の多様性であり、同じものだけだと種が滅びかねないからである。厳しい気候変動や地殻変動などで、その環境変化についていける動植物やついていけない動植物がある。種が生き残るためには、様々な環境にも適応した種が必要である。まったく同じ個体であれば、すべての種が滅んでしまうからではないかと見られる。人間だって例外ではない。種の保存には、多様性があったほうが生き残る確率は高くなる。

地球上には、実に様々な病原菌やウィルスが存在する。それらの病原菌やウィルスに強い人間がいないと全体が死滅してしまう。だから多様性を与えてもらったのかもしれない。さらに、人間に多様性が必要だった理由が特別に存在する。それは、人間がそれぞれに違うことによって、他人と自分の違いを認識できて、自分という存在がどういうものかということを知って認めることができる点である。人間全員が同じであったなら、他人との違いを認識できず、自分の存在意義を知ることが出来ない。自分はあってもなくても良くなってしまう。他人と違うから自分の必要性を感じることができるのではないだろうか。

さらに、自分と他人の違いがあることで、自分よりも優れていたり尊敬出来たりする部分を他人に発見すれば、自分もそうなりたいと努力すべき目標ができる。または、相手の中にとても醜いものや汚れた部分を発見すれば、そういう部分が自分にもあることを知ることで、そのマイナスの自己を乗り越えることができよう。だから、自己成長や自己実現の為にこそ、他人と自分が違うことが必要なのである。これこそが人間に多様性が与えられた理由ではないかと思うのである。それなのに、皆と同じように考えて同じことをしていたのでは、自らの成長がありえないし、人間の進化も停止してしまうのではないだろうか。

学校や職場で、発達障害や自閉症スペクトラムの人を排除したりいじめたりすることは、多様性の観点からも絶対にしてはならないことである。そして、その違いを認め受け容れることで、自分のさらなる成長も約束されるのであるから、違いを揶揄したり笑いものにしたりしてはならない。自分が他人と違っていることを、卑屈に感じたり恥ずかしいと思ったりしてもならない。堂々と違いを見せつけていいのである。違いを怖れてはならない。そして、その違いを認め受け容れられるような寛容社会を創り上げる努力を、我々は粛々と実行して行かなくてはならないのである。

このように皆が同じような考え方をして同じ行動をしたがるのは、絶対的な自己肯定感がないからではないかと見られている。何故、自己肯定感が育てられなくて、自己否定感が強いまま大人になっているかというと、生きていくうえでの確かな価値観が確立されていないからであう。例えば、システム思考という価値観がある。全宇宙におけるすべての物体と生き物、または人間そのものは、全体最適と関係重視の価値観によって存在している。自分もその全体最適と関係性重視の価値観に基づいて生きるという確固としたシステム思考の価値観が身についていれば、絶対的な自己肯定感が生まれる。そうすれば、他人と違うことを幸福に感じ、『変人』と呼ばれることを逆に喜びにできる。違いを怖れることはないのである。

不登校とひきこもりを考える会

不登校・ひきこもり・発達障害を考える会を開催します。翌日の26日にも開催しますが、土日にも開催してほしいとの要望を受けて、2月25日(日曜日)にも開くことにしました。是非、ご参加ください。質疑応答や個別相談会もお受けいたします。

父親が育児で学ぶ本当の優しさ

育児をする男性をイクメンと呼ぶのは定着してきたようで、非常に喜ばしいことである。とは言いながら、逆説的に考えれば育児に協力的な男性は、またまだ少数派であり、多くの男性はあくまでも仕事優先であるという証明でもある。殆どの父親は、空いた時間に申し訳程度に育児を手伝うレベルかと思われる。そもそも、育児は母親の役目だと思っている人が大多数であり、共働き世帯であったとしても、家事育児は女性のほうが圧倒的に担う割合が多い。だから、「お母さんをやめる」などと悲痛な叫びが起きてしまうのであろう。

専業主婦であったとしても、育児に対する負担は大きいのである。だから、出来得る限り育児や家事の役割分担を夫にしてほしいと思っている。ところが、仕事が忙しいし育児は苦手だと勝手な理由をつけて、育児を放棄する男性が多いのである。良妻賢母なんて言葉があるが、これはとても危険なワードだと思われる。家事育児は女性の役目だと言わんばかりであるし、女性たちに無言の圧力をかけている。家事育児を女性がするのは当たり前であり、良い妻であり賢い母であることが当然だと、女性たちに強制する悪魔の言葉であろう。こんな男性の立場から自分達に都合よく勝手に作った言葉に騙されてはならない。

さて、イクメンは素晴らしいことだと世間では賞賛されているが、なかなかイクメンになろうとしない人たちがいる。それは、やはり育児をしようという気持ちになるハードルが結構高いのではないかと見られる。育児は、非常に難しいと男性が思い込んでいる節がある。まず幼子が泣いていると、何故泣いているのかが解らない。オシメを替えたり授乳したりするのも難しそうであるし、うんちをした際にふき取るのは勇気がいる。遊んであげるのはいいが、むずがったり反抗されたりされたら、お手上げである。育児をするくらいなら、仕事をしていたほうが遥かに楽だと思っているから、仕事に逃げ込むのであろう。

ところが、男性がこの育児をすることで、驚くほどの自己成長を遂げることが出来るのである。それも、育児でしか気付くことが出来ないし学べないことがあるのだ。それは、人間として一人前になるために通過しなければならない『修行』みたいなものである。端的に言えば、心の成長である。男性は、どちらかとい言えば女性に比べると相手の心を読むことが苦手だ。相手の気持ちになりきって、相手の悲しみや悩み、苦しみを自分のことのように感じることが出来にくい。だから、よく言われるように男性は空気が読めないのである。話も聞かないし、相手に共感できないのだ。

どの家庭においても同じだと思うが、夫は妻の話を我がことのように思いながら話を聞くことはあるまい。優しいのだが冷たいとは、こういうことである。妻の辛くて悲しい話を聞いて、涙をぼろぼろ流しながら聞く夫がどれだけいるだろうか。こんな夫はそうそういない筈である。相手の話を自分のことのように聞いて、感情を共有することを、『慈悲』と呼ぶ。つまり、相手の悲しみをまるごと否定せず慈しみ、我がことのように涙を流して悲しむことを言うのだ。この慈悲の心を持つことが出来ないと、人間としては一人前とは言えない。

ところが、数人の子育てで苦労を経験した女性には、ありがたい慈悲の心が芽生えるのである。勿論、育児をしないと絶対に慈悲を獲得できない訳ではないが、極めて少ない。何故かと言うと、子育てをしている際に、泣いている我が子の気持ちや思いを汲み取ろうと真剣に努力するのだ。子どもが何故泣いているのか、何故怒っているのか、何故嫌がるのか、子どもの心になりきって心を読もうと必死になるのである。つまり、子どもの心と一体化させないと、子育ては上手く行かないのである。これが自他一如という極意でもある。自分と他人の心がひとつになるには、子育てを経験するのが一番である。

男性も子育てをたくさん経験することで、この『慈悲』の心を獲得する道が開かれるのである。この相手の気持ちを我がことのように感じられるようになると、自分の至らなさや未熟さもよく認識できるから謙虚になる。コーチングの基本は、傾聴と共感だと言われている。まさに、育児をすることで知らず知らずのうちにコーチングが出来るのである。これはビジネス場面においても、非常に有効である。会社のリーダーとして、なくてはならない能力である。慈悲を持つビジネスマンは、お客様にも部下にも好かれるから、敵なしである。だからイクメンは、会社で出世するのである。育児を経験することで、本当の優しさが生まれる。夫婦愛が強まるし、家族愛が高まるから不登校や引きこもりも起きない。こんなにも男性を成長させてくれる子育てを、しないという手はない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「イクメン研修」をしています。どうすれば子育てが上手く出来るのか、実例を上げながら学びます。旦那様が育児に対して非協力的で困っているという奥様、ご夫婦でいらっしゃれば、さりげなく子育ての魅力と必要性について話をさせてもらいます。是非ご検討くだい。申し込みと問い合わせは下記の問い合わせフォームからどうぞ。

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お母さんをやめる

「お母さんをやめる」と子どもに言ってしまったと、母親が後悔の念をSNSでつぶやいて、そのことに対する賛否のコメントが多数寄せられて話題になっているという。概ね共感と励ましが多いようで、「私も同じだよ」と言って慰めてくれる人が多いのには驚く。こんなにも子育てに悩みを抱えている多数のお母さんたちが存在するんだと、とてもびっくりすると共に、一人きりで悩み孤独感を抱えた母さんをほっといていいのだろうかという思いにかられた。良い母親と良い妻を演じることに疲れてしまったお母さんが、メンタルを病んでしまわないかと、とても心配している。

悩みを持つ多くの母親の家庭はこんな事情らしい。小さい子どもが複数いて、難しい反抗期を迎えている子どもに対応するのに悩んでいるという。親の言う事は聞かないし、ちっとも協力してくれない子どもに対して、毎日イライラするばかり。そして仕事ばかりしていて家事育児を分担してくれないばかりか、ちっとも悩みや苦しみを聞いてくれない夫。誰も助けてくれず、一人で思い悩む自分。誰かに訴えようか、または助けを求めたいと思いながら、共働きであるからママ友もいない。八方塞がりの状況に追い込まれ、こんな駄目な自分だからと、自らを責めているというようなことらしい。

共働きであろうとシングルワーカーであろうと、またはシングルマザーであろうとも、同じような子育てに関する悩み苦しみを抱えた人がとても多いのである。これは、日本の母親なら誰でも感じたことではないだろうか。あまりにも、夫や周りの人々が子育てに対して、協力してくれないのである。確かに仕事が忙しいというのは仕方ないかもしれないが、土日の休みまでも仕事の為に出勤するというのは考えられない。子育て中の父親にそんな働き方を強いるような会社は許せないし、こんな酷い会社なら即刻辞めればいい。妻をそんな状況に追い込むような働き方をしてはいけないのである。

安倍内閣は、働き方改革をすると意気込んでいるが、これが世の中の悲惨な状況だとすれば、先ずはこんな働き方をさせる会社を無くすことが先決である。厚労省は、それぞれの会社に対して、労働者の勤務状況を、外部委託会社を使ってアンケート方法で調査する。しかも、会社の総務部に対するアンケートである。こんな調査で誰が実情を話すだろうか。どうして、個々の労働者に直接調査しないのであろうか。厚労省の役人、とりわけ労働局や労働基準監督署の人間というのはこんなにも愚かなのかと呆れてしまう。こんな酷い労働環境の実態を知っているのに、見て見ないふりをしているのであろう。

まずは、世の中の小さい子どもを持つ父親の働き方改革を実行してほしい。少なくても、サービス残業をゼロにすること、そして月単位の残業時間を最大30時間まで、毎日の時間外労働は3時間以内と決めるべきである。そして、これ以上はどんな理由があっても認めないという労働基準法の改正を行うべきである。そして、その為に思い切ったワークシェアーを実施しなければならない。そうしないと、『お母さんをやめる』と悲痛な叫びをするお母さんを救えないからである。小さいお子さんを持つ父親は、少しぐらい待遇が悪くても即刻違う会社に転職すべきである。

今から25年前に、自分は以前務めていたある団体を辞めた。何故なら、子育てを最優先に考えたからである。残業が多くて休日もまともに取れず、看護師をしていた妻だけに育児の負担と不安を抱えさせることは出来なかったからである。3年に一度転勤があり、次は単身赴任をしなければならない状況にあったことも理由のひとつだ。収入は激減したが、人間らしい生活が可能になり、子育てや家事を分担できるようになり、親子の触れ合いも可能になった。収入や待遇は大事であるが、子育てよりも大切なことは他にない。それ以来、台所を守るのは妻の役目ではなくて、自分になった。料理をすることや子育てを、心から楽しんできた。

人生において、何を最優先にするかは人それぞれである。ただし、少なくても仕事がすべてだと思う価値観は危険であろう。私は仕事・家庭・地域の3つの柱を三等分にして、それぞれに貢献したいと思い努力してきた。妻にお母さんをやめたいと思わせるような夫は、夫婦失格であり父親失格、いや人間失格だと思う。行政や政治も『お母さんをやめたい』と思わせないような社会を創り上げる努力をしてもらいたい。夫はイクメンを心から楽しめる価値観を持ってほしいし、それが可能となる働き方改革を最優先で実行してもらいたい。おそらく『お母さんをやめたい』などと思うお母さんがこんなにも多い国は、世界広しと言えど、日本だけだろう。政治主導で一刻も早く悩めるお母さん救ってほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、若いお母さん方たちの悩み相談を受けています。良い母親や良い妻でいることに疲れ切った方々が、一時的に家庭を離れて心身を癒す時間を持てるように支援しています。イスキアで何もせずぼーっとした日を過ごしませんか。無農薬でオーガニックのお米と野菜で作った健康的で美味しい料理を食べながら、傾聴と共感のカウンセリングを受けませんか。ご夫婦とお子さん連れでいらっしゃれば、父親に対して、楽しく学べんで、イクメンを進んでしたくなる研修を実施します。

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科学的根拠派VSスピ系

SNS上での様々なやり取りが実に面白い。何故かと言うと、あくまでも科学的な根拠、いわゆるエビデンスに基づいたものじゃないと真実ではないとするグループと、スピ系のグループがバトルを繰り広げているからである。勿論、双方共に大人だから、名指しをするとか面と向かって非難をするということはしないようだが、SNSの記事やブログを観察していると、明らかにあの人の記事に対する反論なんだなと確信できる。どちらかというと、科学的検証のグループのほうが、スピ系の記事に対してエビデンスがないと攻撃をするという図式が多いみたいである。

スピ系の方々の記事は、エビデンスらしきものはあるものの、科学的に明らかに正しいと言う根拠を示すことは難しい。どちらかというと、観念的・直観的な理論を展開している。なるほど、そういうこともあるだろうなとは想像できるし、実際に効果を上げているケースも少なくない。霊的な啓示、スピ系占い、アーユルヴェーダやホメオパシーなどの代替医療、レイキ、アロマテラピー、カラーセラピーなどをすべてスピ系として嫌悪感を示す人も少なくない。こういうスピ系の女子が多いせいか、教養と学歴が高くてエビデンスにこだわる男性や理系女子が攻撃するケースが多いようである。

確かに、科学的根拠派からエビデンスを示せと言われると、現代の科学では完全に正しいという論証を示せないのも事実である。ましてや、医学界や薬学会ではスピ系の蔓延に対して苦々しく思っていることもあり、その反証としてのエビデンスを、アカデミーの総力を挙げて研究し続けている。かたや、スピ系はそもそも科学的な検証を求めてはおらず、自分の直観や霊示を信じて行動しているのだから、エビデンスに対する反論が出来ない。しかし、実際に大きな効果は上げていることもある。しかし、間違ったスピ系のやり方によって悲惨な結果になる場合も少なくないから、それをあげつらって科学的根拠派は攻撃するのである。

科学的根拠派は、スピ系や代替医療の上げている効果や成果は、あくまでも偽薬効果(プラシーボ)でしかないと言い切っている。特にスピ系や代替医療に対する攻撃は、アカデミーの威信をかけた闘いの様相を示している。面白いのは、どちらの立場であったとしても、相手の反論や反証を認めない点である。これも、実に大人気ないことであるし、最初から相手の理論が間違っているという立場に固執しているのは、滑稽でもある。科学の研究者というのは、自分の仮説や想像を科学的に正しいかどうかを実験等により証明する形を取っている。こうして、学会で素晴らしい研究成果を上げてきた。

ところが、自分の仮説が正しい筈だという思い込みが強過ぎてしまうと、正しいと証明する証拠集めに奔走してしまい、反証に対する研究が疎かになる。ましてや、あまりも成果を求めるあまり、実験結果のねつ造も起きてしまっている。だから、科学者たる者は自分の考えや理論に対して、もしかして間違っているのかもしれないという謙虚さを忘れてはならないのである。ましてや、天動説がガリレオガリレイによって覆された実例や、ニュートン力学が量子力学で否定された歴史があるのだ。科学者たるもの、または科学的根拠を主論調にする者は、現代の科学では証明されないが、将来は真実だとされるかもしれないという観点を忘れてはならないであろう。

実際に、2500年以上も前にブッダは、この世の万物に実体はなく、人間の意識で実体があると思えば在るし、ないと思えばないと唱えた。こんなことは、完全なまやかしであり、科学的な根拠を示すことは到底出来ないと思っていたのである。ところが、量子力学の素粒子研究と実験によって、完全な真実だと判明したのである。ということは、スピ系や代替医療で主張していることは、科学的根拠がないのであるからすべて誤りであると主張するのは、乱暴な事ではないだろうか。科学的根拠がないのだから、こんな迷信じみたことは信じてはいけないとSNSで発信・攻撃するのは、傲慢ではないかと思うのである。

という自分も、科学的根拠のある真実しかSNSとかブログでは発信しないように心がけている。何故なら、多くの人々に対して心の豊かさや幸福を実感してもらう活動をする為には、ちょっとしたことで反論されて信頼を失くしてしまうことを怖れているからである。たまには、まだ科学的根拠に乏しいこともブログにアップすることもあるが、これは近い将来には科学的根拠が得られるという確信に基づいているからである。科学的根拠派の人たちは、スピ系の人たちの理論がすべて間違いだと攻撃するだけでなく、もしかすると近い未来は真実だとするエビデンスが得られるかもしれないという謙虚さを忘れないでもらいたい。逆にスピ系の人たちは、エビデンスが得られるように努力を怠らないでもらいたいし、論理的証明を心掛けてほしい。将来は間違いなく、科学的根拠派とスピ系の人たちの主張が統合される時代が必ずやって来ると確信している。

 

家では良い子を演じさせない子育て

若者が起こした凶悪事件の保護者にインタビューすると、こんな話を聞くことが多い。「こんな怖れ多い事件を起こすような悪い子じゃなかった。とても素直で良い子だったんですよ」と語る例が殆どである。また、家庭の周りに住んでいる住民も同じような感想を漏らす。特に同居する祖父母は、「本当に優しい孫で、こんな悪いことをするとは信じられない。何かの間違いじゃないのでしょうか」と孫を庇うことが多い。身内を過大に良い評価をしやすい傾向はあるとしても、どうしてこんなギャップが生まれるのか、不思議だと思う人が多いと思われる。

学校で他の児童生徒をいじめるなどの問題行動をする子どもが、家庭ではまったくの良い子で、従順で素直な子どもであるケースもまた多い。学校では、陰湿でしかも陰に隠れて表舞台に立たず、裏で指図する悪質ないじめの首謀者の子どもは、家庭では良い子を演じていることが多い。だから、その悪質ないじめがばれて親が学校に呼ばれて、その事実を告げられると、どうしても信じられないと親は主張するらしい。このように、学校での行動と家庭における言動のギャップが見られるのである。

子育てというのは、非常に難しい。これが正解だというマニュアルは存在しない。それぞれの子どもの性格や人格も違うし、親もそれぞれ違っているから、育つ環境は違っている。日々いろんなことが起きるし、その場面場面で子どもに対してどのような言動をしていいか迷うことがしばしばある。自分でも、子育ての様々な場面でどんなにか迷い、苦悩したか解らない。育児というのは、この世の中で一番難しいことである。そして価値がある。だから、子育ては親を成長させる糧ともなるのである。

少しは身の回りの片づけをしたらいいんじゃないかと、珍しく当時小学生高学年だった三男の息子に苦言を呈したことがある。その言葉に対して、息子はこんなことを言い放った。「あのね、僕は学校ではすごく良い子で通っているんだよ。それは、家庭で無理して良い子を演じないでいるからだよ。家にいる時は、誰からの支配も受けず、無理な生き方をせずにのんびりと過ごしているから、外では良い子でいることが出来るんだよ。だから、そんなことを言わないでほっといてよ」それを聞いて、私たち夫婦はお互いの目を見て、苦笑いをするだけで、何も言い返せなかった。

我々夫婦は、お互いに子育てについて話し合っていた。育児とはどうあるべきか、子育ての方針はこうしようああしようと意見交換をしていた。子どもたちがいる食卓でも、育児について話し合っていたのである。そして、息子が言い放ったこの言葉は、まさしく自分たちが常日頃言っていたことである。聞いていないと思っていたのに、息子はしっかりと心に刻んでいたのである。そして、それを実践していたのである。確かに、どの先生たちからはすごく良い子だと言われ続けてきたし、先生の手助けを自分から進んでしてくれて、学級をまとめるリーターシップが取れると子どもだと誉められていた。

その息子が高校から進学する際、国公立の大学に推薦してもらえる成績がありながら、親が期待する道は歩まないと宣言し、敢えて自分の信じた道を進みたいと東京の私立大学を選んだ。我々は子どもたちに、こういう進路を進んでほしいと、高校や大学を押し付けたことは一度もないし、就職も自分で選ぶのをそっと見守るだけだった。上の二人は、親の経済状態を考えて地方の国公立大学を選んでくれた。三男は兄二人とは違う道を選びたいと、親の期待を見事に裏切ってくれたのである。精神的に完全に自立していたのだと思われる。主体性と自発性を常に発揮して、様々な苦難も自分で乗り越えている。

子どもは親の所有物ではないし、子どもを支配しコントロールしないことを子育ての基本に据えてきた。しかし、けっして放任主義ではない。人に迷惑を掛ける行為や、自分さえ良ければいいというような行動は慎まなければならないということは伝えてきた。さらには、子どもたちの弱いものに対する慈悲の心を育んできた。勿論、人の生きる意味や目的という価値観の教育もしてきた。言葉だけでなく、親の正しい生き方の後ろ姿も見せてきたつもりである。家庭であまりにも良い子を演じさせてしまうと、子どもが安心していられる居場所がなくなってしまう。だから、良い子であることを無理強いしたことはない。このような子育てを、子どもたちもまた孫たちに実践してくれると信じている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、子育てに関する様々な悩みや心配なことに関する無料相談を承っています。発達障害やパーソナリティ障害のお子さんを育てていらっしゃる保護者の相談にも対応させてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。さらには、これから子育ての研修会や相談会も開催して参ります。是非、合わせてご活用ください。

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教師の不適切指導にどうするか?

教師と言っても、経験が豊かで教える技能も確かな素晴らしい先生もいるし、経験が浅くて指導技術もまだまだの先生もいる。それぞれの先生は独立していて、学校内の先生どうしがそれぞれの指導について、注意し合う風土は醸成されていない。独立心が旺盛で、依存性がないと言えばそれまでだが、管理職でない先生が他の先生に対して助言したり意見したりすることは殆どないのである。児童生徒に対して、明らかに不適切な指導をしているのを目撃したとしても、まず注意することはない。先生どうしが指導面で協力し合うということも極めて少ないのである。

何か不適切な指導が問題になっても、それを隠したがる。ましてや、内部告発することはまずない。それだけ、閉鎖された空間でもあり、内部の事情が外に漏れにくい。その証拠に、これだけ多くの教師によるいじめ事件や指導死事件が起きていても、問題が大きくならないうちに、内部告発があって事なきを得たという事例は皆無である。自分たちの身内を守るという意識が強いのか、隠ぺい体質が強いのか、教師中心の環境が学校に存在する。問題があっても、見て見ないふりをしている先生が殆どなのである。だからこそ、いじめや不登校、そして悲惨な指導死がなくならないのであろう。

ただ、素晴らしい先生もいらっしゃるということも付け加えなければならない。本当に子ども中心の教育を徹底して、子どもたちからの信頼も厚く、保護者の尊敬を集めている先生も何人かいらしたのは事実である。ただ残念なのは、そういう先生は圧倒的に少数なのである。そういう素晴らしい先生が、昇任試験を突破して、校長や副校などの管理職になってくれたら嬉しいのだが、残念ながらそういうケースはけっして多くはない。これも不登校やいじめ、そして指導死が一向に減らない要因でもある。

ある教師が極めて不適切な指導をするのを、過去に実際に経験した。帰宅したら中学1年の息子が、「僕は明日から学校に行けなくなったから」と言うのである。どうしたんだと聞くと、薄暗くなった駐輪場で学友と談笑していたら、担任の先生が玄関先に見えたらしい。それを見かけた息子が、「あっ、〇〇だ」とその先生を呼び捨てにしたという。先生に向かって言った訳ではなく、あくまでも子どもどうしの会話である。ところが運悪く、その言葉がその先生に聞こえたらしい。しかし、その場で指導されたのなら理解できるが、帰宅した後でその先生が自宅に電話してきたのだという。

その先生が言うには、「先生に対して呼び捨てにするとは何事だ。絶対に許さない。謝りなさい。謝らなければ学校に来るな!」と激高して電話をしてきたらしい。息子は先生に対して直接呼び捨てにした訳ではない。したがって、謝らないと学校に来るなという理屈に合わない理不尽なことに納得できないので、謝ることができなかったという。その先生は、30代の男性で、どちらかというと体育系の頑健な身体を持ち、スポーツ系の部活の顧問をしていた。短気な性格であったと思うが、一度興奮してしまうと自分を抑えることが出来ず、体罰が常態化していたらしい。

翌朝、学校に行けないという息子を無理に登校させず、私が学校に向かった。校長と担任の先生と話がしたいと申し出た。先ずは昨日の息子からの話を伝えて、間違いはないかどうかを確認した。大きな違いはないとの返答であった。そのうえで、日本国憲法における教育を受ける権利という基本的人権の尊重に違反しているのではないか。教育基本法の趣旨にも反するのではないかと伝えた。どんな理由があるにせよ、学校に来るなという言葉は、教育上の指導として相応しいとは思えないと話した。校長は、謝罪すると共に、今からすぐに自宅に赴いて子どもに謝罪してきなさいと、その教師に指示した。その教師はその後に、体罰事件を起こして異動させられた。

このような不適切な指導に対して、子どもを守ってあげられるのは親しかいない。このような不適切な指導があったことを、親に対して素直に告げる信頼関係が必要である。親は自分の味方であり、必ず守ってくれるんだという子どもの確信がないと、親には話せない。親子の関係性は、努力しなければ深まらない。常日頃からの親子の触れ合いとコミュニケーションが必要だろう。そのうえで、どんなことがあったとしても、子どもを守る為に命を賭して行動することを宣言することが肝要だ。勿論、普段の行動においても、子どもを最優先で守り育てることを実感してもらうことが大切である。実際にこの例のように、どんな相手であっても臆せず対決して、問題解決する勇気も要求される。仕事や多忙を理由に、問題から逃避するような親では、子どもは不安になり不登校を選ばざるをえない。子どもが安心して学校に行けるのは、親からの絶対的守護が実感できるからだ。特に父親の役割は大きいのだと認識すべきである。

 

※イスキアしらかわの郷では、教師による不適切な指導やいじめがあった際に、親がどう対応すればよいのか、相談を承ります。親の役割も含めて、どうすれば問題が先鋭化せず、さらには長期化しないで問題解決できるのかを助言させてもらいます。ひとり親の場合、または父親が対応がしてくれないケースでも支援させてもらいます。遠慮なくご相談ください。

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子育てにおける父親の役割

イクメンが増えているという。それはそれで好ましいことである。父親が育児を分担してくれていることにより、母親の家事負担が減少して、余裕のある育児ができるから、子どもに対して豊かな愛情を注ぐことが可能となる。そして、父親が育児を経験することで、子どもの微妙な心の動きを解ろうと努力することにより、共感の心が育まれる。さらに、両親が協力して育児をすることによって、夫婦お互いの支え合いの気持ちが生まれるので、家族の絆が強まることであろう。これらの理由から、イクメンがもっと増えてほしいと願っている。

しかし、イクメンという言葉が何となく軽々しい感じがするし、子育てにおける父親の本来の役割が果たせているのかという不安がある。イクメンというファッショナブルな言葉で、育児を喜んでする父親が増えるというメリットがあるとしても、何となく違和感を覚えるのである。何故かというと、子育てにおける父親の役割とは、根本的に母親のそれとは違っていると思うからである。ましてや、イクメンというと乳幼児期の育児参加という意味合いが強い。父親の子育てにおける本来の役割が発揮されるべきなのは、乳幼児期を過ぎた頃からではないかと思うのである。だから、イクメンだけで子育ての役割を果たしたと満足してほしくないのである。

三人の息子たちを育てた経験から、過去を振り返ると実に様々なシーンが甦る。家族5人揃って車に乗って外出した時のことである。車中で、いろいろな会話をしていた時のことである。助手席に座っていた当時小学生高学年の長男が涙を流しながら、嗚咽しているのに気付いた。どうしたんだいと問うと、「お父さんの話に感動したあまり、泣けてしまったんだよ」と言うのである。確かに、その時に人間として生きる意味やあるべき生き方の話をしていたので、感動するというのは解るが、感涙するまでに心に染みるというのは意外でもあった。それを聞いた自分も涙を流して喜んだのを鮮明に覚えている。

子どもに対して、父親がいろんな教訓や教示を話すケースは少なくない。しかし、子どもがそれらの話を聞いて、感涙するまでのレベルまで到達するのは、そんなにないだろうと思われる。手前味噌の話ではあるが、父親と言うのはそれぐらいの話を子どもに出来ないというのは、情けないことだと思う。小学高学年の子どもが哲学的な話をしても解らないだろうと思う人が多いかもしれないが、子どもというのは、この手の話を渇望しているのである。試しに、子どもに哲学や思想、または価値観の話をしてみてほしい。子どもはこのような話を、それこそ目を輝かせるほど生き生きとして聞くことであろう。

近代教育を受けている子どもたちは、学校教育で思想・哲学の学びをしていない。何故なら、明治維新以後に西欧から近代教育を導入して以来、思想哲学は富国強兵の近代国家の設立には不要なものとして排除された。そして、戦後はGHQ政策により、家長制度と軍国主義を崩壊させる為、思想哲学を学校教育で禁じたのである。さらに、日教組は価値観の教育こそ民主主義の敵だと勘違いしてしまい、教室で人間の生き方やあるべき人間教育までも止めてしまったのである。だから、愛国心という言葉さえ死語化させてしまったのである。これが日本人を不幸にさせてしまった根源的問題であろう。GHQにより日本人は洗脳されてしまったのである。

今、学校で的確で適切な道徳教育ができる教師は殆どいない。恐る恐る「心のノート」を棒読みして倫理観や心の在り方を教える先生が少しは存在する。しかし、日教組は「心のノート」を、国家権力を強めるものだとして排除しようとしているし、道徳教育に懐疑的である。小さいところの問題に固執して、大局を見失ってしまっているのだ。ということは、思想哲学や価値観の教育を子どもたちは渇望しているのに、応えられていないのである。とすれば、父親かそれに代わる誰かが、子どもたちに価値観教育をしなければ、子どもたちが生きる道標を見失ってしまうのは当然である。

現在、不登校や引きこもりという大きな教育的問題が存在する。その原因は、社会の制度や学校の環境そのものの問題にあるとしても、そんな中でも根本的な生きる価値観を持てたとしたら、苦難困難にもチャレンジできる勇気を奮い立たせることができるに違いない。そして、その価値観教育をする役割こそ、父親かその代役が務めなければならない。子育てにおける本来の父親の役割が、思想哲学、そして価値観の教育である。社会には様々な苦難困難が待ち受ける。それらの苦難困難に逃げることなく立ち向かっていく強い精神は、価値観の教育で養われるのである。その父親の役割を全うしてほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、この思想哲学や価値観の教育を父親または母親に対して実施します。ご希望される方があれば、お申込みください。1泊2日コースか2泊3日コースで価値観教育を重点的にさせてもらいます。なお、家庭の都合で日帰りの研修をお望みであれば、数日間を要しますがご相談ください。子どもに幸福な人生を歩んでほしいと思うなら、是非ともご利用ください。

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