命短し恋せよ乙女♪という歌い出しで始まるのは、ゴンドラの唄という名曲である。最初は松井須磨子が劇中歌として披露したと伝えられる。その後はあまり流行しなかったが、黒澤明監督の映画『生きる』で主人公の志村喬が歌ったことがきっかけで、多くの著名な歌手がカバーして世に広く知られることになった。胃癌を告知され余命いくばくもない初老の志村喬が、夜も更けて誰もいなくなった公園のブランコに乗ってアカペラで寂しく歌うゴンドラの唄のシーンは、観る人をぞっとさせる。こんなにも悲しく聞こえる歌は他にない。
そんな有名な歌であるゴンドラの唄は、けだし永遠に歌い継がれる名曲だと思う。そして、乙女たちへの応援歌でもあり、若い女性が人生を生きるうえでの現代に通じる大切な教えでもあると思う。何故かと言うと、若い女性たちの多くが恋愛に対してあまりにも消極的でもあり、臆病なのではないかと思うからである。現代の若い女性にこそ、このゴンドラの唄を聞かせてやりたいと強く思う。そして、是非にも恋愛を経験してほしいと願うのである。結婚してほしいとか、子どもを産み育ててほしいと望む訳ではなく、ただ恋をしてほしいのだ。
勿論、乙女だけではない。妙齢の女性でも、ご高齢の女性であっても、燃えるような恋をしてほしいのである。何故かと言うと、人間と言う生き物は恋をすることで多くの気付きや学びを得られるし、人としての大きな成長を遂げられるからである。恋愛を経験していない人間は、人として一人前でないなどと極端なことを言うつもりはない。しかし、燃えたぎるように熱烈な恋愛を経験した人とそうでない人の間には決定的な違いがあるのは間違いない。そして、相手の何もかも許し受け入れて統合の実現をするには恋愛が最適なのである。
恋愛を経験しなければ統合の実現が不可能かと言うと、けっしてそうではない。恋愛の経験がなくても様々な統合が実現出来る。だとしても、それは非常に難しい。男性性と女性性の統合、または本能と理性の統合、自己(エコ)と自我(エゴ)の統合は、特別な人を除けば恋愛によって実現の可能性が高くなるということは確かである。特別な人というのは、例えば厳しい山岳修行や敢えて苦難困難の道を歩んで悟りを啓いた人という意味である。特に女性はそういう体験をすることが少ないので、恋愛経験が統合の後押しをするという意味だ。
恋愛というのは、自分の愛欲を満たすためにするようなエゴ丸出しの恋ではない。お互いの幸せや心の豊かさを実現するような互恵的恋愛のことである。身勝手で自己中の恋愛なら、何も学べないし成長もない。勿論、統合なんて到底及ばない。特に、性の営みにおいて自己満足だけを求めるだけで、相手の深い悦びを実現しようと努力しないなら、男性性と女性性の統合なんて実現する訳がない。、自分の悦びを犠牲にしても、相手の満足を限りなく高めようと精進するならば、真の統合が近づくであろう。これが自他一如の実感にもつながる。
このような素晴らしい体験が出来る恋愛を、初めから避けたいとか、心から求めることをしないというのは、実にもったいないことではないだろうか。男性と女性は、いろんな意味で大きく違っている。価値観や考え方しかり、使うコミュケーション手法も、そして、行動規範も違っている。だからこそ、その違いをお互いに深く認識して、相手の違いを受け入れて許すことで、相互理解が深まり統合に向かうことが可能になるのだ。そのような大切な経験を、最初から望まないとか避けたいとか思うのは、考えられない損失なのである。
とは言いながら、世の中の乙女の多くは魅力的な男がいないじゃないかと主張するかもしれない。確かに、それも一理ある。自分の事しか考えず、相手の女性の幸福や尊厳を認めず、自分に従属させようとするような男性に魅力を感じる訳がない。そういう意味では、価値観が低すぎる男性が多すぎるから、女性が恋に陥らないのかもしれない。個別最適ではなくて、全体最適を目指すために限りなく努力するような男性が多くなれば、恋する乙女も増加するに違いない。そういう意味では、恋する乙女を増やすには男性の高い価値観構築が必要だと言えよう。
