異次元の少子化対策でも効果ない

 岸田内閣は、異次元の少子化対策を実施すると宣言した。このまま日本で少子化が進むと、生産力が激減して国内経済も成り立たなくなるし、日本という国が消滅するとさえ言われている。確かに、少子化が進んでしまえば、働く担い手と税の負担者がいなくなるのだから、国家として存続できなくなるのは当然である。今までも政府や地方行政による少子化対策は各種実施されてきたが、たいした効果を上げていない。そこで岸田内閣は、異次元という語句を用いて、思い切った少子化対策を実施するというのだが、果たして上手く行くのだろうか。

 少子化は国の根幹を揺るがす一大事だということを、多くの日本人は気付いていない。他人事として捉えていて、自分たちの未来が最悪のものになるという危機感がないといえる。それが少子化対策の進まない理由ではない。ましてや、金銭的な補助を増額したとしても、産み育てようという気持ちにはならない。そもそも、若い人たちにとって子を産み育てることが、自分とって必要不可欠なことだという認識がないのである。どちらかというと、出産育児とは大変なことであり、自分たちが大きな犠牲を払うことになるから嫌なのである。

 何故に若者が産み育てようとしないのかというと、世間一般的に言われているように、産み育てる経済的な余裕がないという理由だけではなさそうだ。さらには、働きながら産み育てられる環境が整っていないというのは、大きな阻害要因にはなっていない気がする。何故なら、江戸時代以前にはもっと貧しくて育児環境の悪い農村でも、育児出産をしていたのである。その頃には、児童手当や出産手当もなかったし、子どもが多いからと年貢を少なくしてもらえる優遇制度等もなかったのである。

 経済的な理由や育児環境が整備されていないから、若い夫婦たちは産もうとしない訳ではない。確かに、そういう理由で出産を控える人もいるだろうが少数である。異次元の少子化対策は、効果がないに違いない。今までだって、児童手当を増額したり保育所を増やしたりする対策を取ってきたのである。育児休暇も充実させてきたし、男性への育児休暇取得促進だってやってきたのである。それでも効果がまるで出なかったのは、もっと違う理由で少子化が起きているからである。その原因を明らかにしなければ、少子化対策も徒労になる。

 現代の若い夫婦が子どもを産みたがらない理由を聞いてみると、驚くような答が返ってくる。自分のやりたいことがあり、出産育児によってそれが障害となるから産まないと返答した人がいる。または、出産育児をすると人生を楽しめる時間がなくなると答えた人も少なくない。こういう答をした人は全体から見たら少ないのかもしれないが、このように答えた人は実に正直な人であり、他の人は本心を明らかにしなかっただけではなかろうか。出産育児に大きな価値や喜びを感じていないし、自分たちの楽しい生活が優先なのである。

 何故、子どもを産み育てるということに価値を感じないのであろう。それは、自分たちが幸福で楽しい生活を送るということが最優先の価値観だからである。自分たちが生まれて育ってきた意味は、豊かで幸福な人生を送るためという、実に低劣で恥ずかしい価値観を持っているのである。子を産みその子を立派に育てることは、大変なことである。でも、大きな喜びもある。何故なら、その子が大人になってから、社会に多大な貢献をすることが出来るからである。自分の人生でも大きな社会貢献の足跡を残し、さらには我が子も社会貢献したとしたら、二重の喜びになる。

 さらには、子育てには苦難困難を伴う。この苦難困難を通して、親が大きく成長させられるのである。子育ては親育ちと言われる所以である。子育てをしなくては、人間としての気付きや学びが得られないことが多いのだ。子どもを持たなくても立派な方はいる。しかし、子育てで得られる経験や体験は、何事にも替えられない大きな価値があるのだ。そして、子育てで学んだことが、職場や地域に貢献する糧にもなりうるのだ。このような全体最適の価値観、または全体貢献という意識が日本人には希薄なのではなかろうか。これは日本の学校教育から思想哲学を排除した悪影響に他ならない。少子化対策よりも教育の改革こそが、少子化にとって必要なのである。正しい価値観を教える教育改革しないと、異次元の少子化対策は無駄になる。

信仰を持たない日本人だから騙される

 安倍元総理襲撃事件を発端に、旧統一教会の強引な入会勧誘、マインドコントロールによる寄付、さらには宗教二世の問題までに発展して、大きな社会問題として連日マスコミを賑わすことになった。過去の例では、麻原彰晃教祖のオウム真理教に、多くの若者たちが洗脳されてしまい信者になって、凶悪犯罪に加担したケースもあった。いろんな新興宗教に勧誘されて多額の寄付をする例も少なくなく、どうしてこんなにも簡単に宗教に騙されてしまうのか不思議である。日本人はどうしてこんなにも洗脳されてしまうのだろうか。

 旧統一教会の韓国人代表とその幹部たちは、当初から日本人をターゲットにして、日本人の財産を韓国に吸い上げようと企図していたのではないかと言われている。まさに、宗教を隠れ蓑にしての集金システムを作り上げて、過去の恨みを果たそうとしていたのではないかと主張するアナリストも存在する。オウム真理教、旧統一教会、様々な新興宗教と、何故に日本人というのは、こうも簡単に宗教に取り込まれてしまうのであろうか。それは何故かと言うと、日本人が信仰を持たないからではないかと考えられる。

 日本人が信仰を持っていないと言うと、そんなことはないだろうと思う人も多いことであろう。日本人の殆どが仏教徒だと思っている日本人は多い。しかし、それは完全な間違いである。確かに、日本人が亡くなると仏教寺院の僧侶がやってきてお経をあげて、戒名を与えてくれるし、その後も仏教の年忌で法要を営んでいる。でもそれは仏教徒だからではなく、過去の慣習にならってそうしているだけであり、仏教に帰依している訳ではない。その証拠に、仏教の教義を正確に認識している日本人は皆無だと言っても過言ではない。

 神道を信仰している人やキリスト教の信者がいると主張する人もいるが、神道とは言っても儀式を執り行う時だけの便宜的なものであり、殆どの人が神道を信仰しているとは言えないであろう。カソリックやプロテスタントの敬虔なクリスチャンとして、毎週の休息日に教会に行き、ミサや礼拝をしているのであれば、信仰を持っていると胸を張って言えよう。欧米人のように、小さい頃からキリスト教の信仰に慣れ親しんでいる人々ならば、とんでもない新興宗教に洗脳されて騙されるようなことはないと思われる。

 日本人が信仰を持たなくなったのは、いつ頃からであろうか。江戸時代から明治維新を迎えると、維新政府は国家神道として神道を国教として篤く保護した。仏教と神道が融合した神仏習合を許さず、神仏分離が行われて、廃仏毀釈運動が起きた。寺院が弾圧を受けて激減したのもこの頃で、仏教が廃れたのも明治維新の宗教政策によるものだと言えよう。その後、第二次大戦後にGHQから思想信条に関する教育を徹底的に排除された影響で、仏教的な教えが教育現場から無くなってしまい、日本人は無信仰になったのではなかろうか。

 そんな不幸な歴史があって、日本人が仏教を信仰することがなくなり、神道においても信仰と呼べるような教義や教本も存在しないことから、信仰心が薄らいでしまったと考えられる。人間にとって不幸なのは、生きるべき道しるべを持たないことだ。これだという真理や法則、または思想や哲学を持っていないことである。これでは、人間のあるべき姿や目標を見出すことが出来なくなる。日本人の多くが、何故生きるのかという根本的な目的意識を見失ってしまったが故に、強烈な生きづらさを抱えてしまい、そこに新興宗教が入り込む隙を与えてしまったと言えないだろうか。

 特定の宗教を信仰して、信仰心を持つことが必要だと言いたい訳ではないが、少なくても高潔で正しい思想や哲学を持つことが、生きる目的を確立するには必要であろう。そうしないと、とんでもないまやかしの宗教に洗脳されて騙されてしまう。信仰というのは、何も特定の宗教に入会や入信をしないと持てない訳ではない。自らが信ずる神や仏を信奉し、その教えや指導に帰依して、正しく生きるということである。信仰がないと、人間は生きるべき道を見失いやすい。そうすると、オウム真理教や旧統一教会のようなとんでもない宗教に騙されてしまうのである。日本人は信仰心について、今一度深く考えてみる必要があると思われる。

イスキアの活動方針を転換する決意

 令和5年の新春を迎えて、この新型コロナ感染症などの社会情勢と自分の年齢や環境を考えたときに、今までの活動方針をこのまま続けていくべきかどうかの岐路に立たされたような気がした。今までの活動方針は、ひきこもりや不登校の若者またはメンタルを病んで休職や退職に追い込まれてしまった社会人が社会復帰できるように、様々なサポートをしていくというものであった。しかし、この深刻な感染症は収束の兆しを見せないし、自分の年齢も68歳という高齢になり、今までのようなアクティブな活動が難しくなったのである。

 残された人生を考えた時に、全国の利用者の方々をお迎えしたり、全国各地に赴いたりして出張カウンセリングを続けることが、今の社会にとって一番効果的な活動なのかという疑問にぶつかったのである。それよりも、この社会にイノベーションを効果的に起こす方法が他にあるのではないかと考えついたのである。それは、佐藤初女さんのご遺志をこの社会に敷衍させるにはどうすれば良いかの答でもある。佐藤初女さんのファンは全国各地にいらっしゃる。そして、初女さんと同じような活動をしたいと望んでいるファンも多い。

 佐藤初女さんが心血を注いでいらした活動の輪を、日本全国に広めて行くことが自分の使命なのではないかという考えに落ち着いたのである。その為に、自分として何が出来るのかをこの年末年始にかけて熟慮していた。このイスキアの郷しらかわの活動をしてきて、自分ひとりだけで頑張ったとしても、救える人々は僅かしかいないということも思い知らされた。それよりも、これから森のイスキアと同じ活動をしようとする人たちの支援をして、第二第三の佐藤初女さんが育って行くことをサポートしたいと思ったのである。

 森のイスキアは、佐藤初女さんが亡くなってから休眠状態にある。森のイスキアの扉は閉じたままである。そして、全国においても森のイスキアと同じような活動をしている処は殆どない。あまりにも佐藤初女さんが偉大であったということもあるが、初女さんと同じような活動をするのは、それだけ非常に困難だと言えよう。自分も活動していて、初女さんと同じように心折れた方々を癒すのは、非常に難しいと実感している。自分の生活を殆ど犠牲にする覚悟がなければ、森のイスキアと同じように活動するは不可能だ。

 ましてや、メンタルや身体を病んだ方々は、藁をすがる思いで頼ってくる。依存することもありえるし、転移をしてしまうケースもある。佐藤初女さんは、365日24時間に渡り電話応対をしていらしたし、イスキアの扉はいつも開けていたと聞いている。生きるエネルギーを喪失してしまわれた方は、無意識で相手のエネルギーを奪い取ろうとしてしまう。中には、すぐに効果が出ないからと責める方もいらっしゃる。クライアントからも恨まれることもあるだろうし、自分の無力感を思い知ってサポート者自身が心身を病むことさえある。

 心身を病んだ方々を癒してさしあげるという尊い活動をされている人は、外から眺めている以上に心身を痛めつけられている。自分の活動が上手く行かないことが多いからである。短い期間で成果が出ることが少ない活動だからだ。勿論、癒しの活動が効果をあげて感謝された時の喜びは大きい。しかしながら、それは一時的なことが多いし、心身の病が再発することが少なくない。このような活動は長い期間と多大な労力を要する。気の遠くなるような長い時間をかけて寄り添い支えて行く活動が必要なのだ。

 森のイスキアのような活動を引き継ぐ、第二第三の佐藤初女さんが生まれてこないのは、その活動が想像以上にハードであり自分自身の犠牲が多大なものであるからと言える。自分の生活をすべて捨てるという覚悟がなければ、出来ない活動だと言っても過言ではない。マザーテレサのように、信仰がなければあのような活動は難しい。佐藤初女さんが、信仰を持っていたから出来たとも言える。これから佐藤初女さんのような活動を志す人を、信仰のように支える存在が必要だと思った。故に、イスキアの郷しらかわは、これから佐藤初女さんを目指す方々を支援することにしたのである。見学や研修したい方々を受け入れる準備をしたいと思う。

発達障害の児童生徒が8.88%

 発達障害の児童生徒の割合が、8.88%だったという調査結果が出たという。これは、専門医の診断ではなくて、教師たちが発達障害だと確信した数字であり、果たしてこの割合が正しいかどうかは、はっきりとは解らないらしい。とは言いながら、学校で子どもたちと関わっている先生たちが直感でそのように思うのであれば、ある程度は的を射ているのかもしれない。ここでいう発達障害とは、ADHD、学習障害、高機能自閉症等を指している。また、この調査は特別支援学校や教室の子どもは含まれず、普通学級の子どもだけの調査だという。

 この数字は、以前の調査よりも高くなっているものの、文科省ではこの調査を担う教師たちの発達障害への認識が高まった結果であり、発達障害の子どもたちが増えている訳ではないと結論付けている。こういう認識こそが、文科省が抱えている極めて悪質なバイアスではないかと思われる。実際に子どもたちと接していない文科省の役人が、軽々しく発達障害の子どもたちは増えていないと断定しても良いのであろうか。そのような結論を出してしまうと、発達障害の子どもをこれ以上増やさない為の方策を取らないのではないだろうか。

 子どもたちと現場で向き合っている教師たちに質問すれば、正反対の返答が返ってくるに違いない。発達障害の子どもたちは、年々増えているという返答である。しかも、発達障害の子どもたちの扱いに困っているという先生は非常に多い筈だ。8.88%という割合は、明らかに発達障害だと確信した数字であり、グレーゾーンはその数倍になる筈である。文科省に申し上げたいのは、グレーゾーンの調査もすべきであり、グレーゾーンの子どもも含めた、抜本的な対策を早急に打たないと、とんでもない禍根を残すということである。

 ちなみに米国の最新の調査によると、子どもの6人に1人が発達障害であり、18%の割合で見られるという。そして、この20年間で確実に増えているとの見解である。日本の発達障害の子どもの割合が、9%未満だと言うのは信用できない。不登校やひきこもりのサポートを実際にしている者としての実感では、3割以上の子どもが発達障害であり、グレーゾーンを含めると、その割合は半数を優に超えていると思われる。そして、大人の発達障害の割合も、同じく3割を超えているという実感を持っている。

 さらに大事なことは、発達障害と推測される子どもと大人たちは、単なる発達障害ではなくて、愛着障害の二次的症状として表れている割合が非常に高いことである。発達障害は、脳の器質的な障害によるものであり、生まれつきの障害だとされている。当人に関わる人の対応の仕方で、症状が強く出たり弱く出たりはするが、完全に治癒することは見込めないとされている。しかし、愛着障害の二次的症状であるならば、親子の愛着が改善されると、驚くように症状が良くなる。実際に、親子の愛着が改善されて、発達障害の症状が軽くなった症例をいくつも経験している。

 発達障害だと診断したのは、ある程度の基礎知識を得た教師だとしても、その判断が間違っているケースも少なくない筈である。しかも、誤解を恐れずに申し上げれば、先生の約3割はグレーゾーンの発達障害という二次的症状を抱えていると思われる。つまり、教師の約3割以上は愛着の問題を抱えていると言っても過言ではない。そのような教師が自信を持って発達障害の診断が出来るとは到底思えないのである。障害者に同じ種類の障害者を診断せよというのは、あまりにも乱暴なのである。おそらく、無意識で見逃している例が多いに違いない。

 ということからも、8.88%という数字がいかに信用ならないかと言うことが解るであろう。こんないい加減な数字を基にして、文科省が教育方針や指針を作成しているとすれば、あまりにも子どもたちと先生が可哀そうである。発達障害や愛着障害が一向に改善されないのだから、不登校や苛めがなくならないのは当然である。ましてや、愛着に問題を抱えた教師は不適切指導を起こしやすいし、うつ病などの気分障害を起こして、休職や退職に追い込まれやすい。日本の教育が成果を残せず、世界から取り残されるのは当然であろう。文科省の抜本的な改革(イノベーション)が望まれる。

国際ロマンス詐欺に騙されてしまう訳

 国際ロマンス詐欺が横行していて、想像している以上に多くの善良な人々が騙されているとのこと。目的はお金であり、巧妙な話術によって騙されて、多額の金品が騙されているとのことらしい。結婚詐欺というのは昔からあった。多くは日本人どうしのケースが多くて、言語障壁もあるので外国人による詐欺被害はあまり多くなかった。ところが、SNSが発達した現代においては、簡単に外国人と繋がれる気安さもあり、外国人による詐欺が増えているのである。しかも、ロマンスを装って金品を騙し取る手口が多いという。

 このように国際結婚を餌にして、金品を騙し取る詐欺を『国際ロマンス詐欺』と言うらしい。実際に、自分にもSNSで見知らぬ外国人女性からのアクセスが何度もある。若くて美しい女性の写真を掲載していることもあれば、50代から60代の女性の写真が載せているケースもある。外国に住んでいる妙齢の女性を装う場合もある。若くてハンサムな男性の写真を掲載して、裕福な女性をターゲットにすることも多いという。どうやら、別人の写真を掲載しているらしいが、すっかり当人の写真だと思い込んで親しくなるみたいである。

 実際に会ったこともないのに、言葉巧みに相手を騙して、恋愛関係に陥れてしまうという。そして、結婚する為にはどうしても必要だとお金を要求される。すっかり信用しているので、要求通りにお金を渡してしまうらしい。結婚を先延ばしにしては、何度もお金を要求されるままに振り込んでしまうという。それだけ巧妙な嘘だと言えるが、どうして容易く信用してしまうのであろうか。おかしいなと気付かないものだろうか。恋は盲目とよく言われるが、恋愛状態にあると舞い上がってしまい、正常な判断が出来なくなるのであろう。

 こういった国際ロマンス詐欺を含めた詐欺に騙されてしまう人というのは、どういうキャラクターの人なのであろうか。何も疑わずに相手を信用してしまうような、根っからの善人だと思うかもしれない。確かにそういう人もいない訳ではないが、こういった詐欺に騙される人というのは、実は疑い深い人なのである。そんな馬鹿なと思う人が多いかもしれないが、他人をあまり信用しないような人の方が、簡単に騙されるのである。いつも、客観的に冷静に判断している人ほど、詐欺に引っ掛かってしまうのである。

 いつも主観的に物事を見る人と、客観的に観察する人では、どちらが詐欺に騙されやすいかというと、圧倒的に客観的に分析をする人ほど詐欺に遭いやすいのである。しかも、客観的に物事を判断する傾向が強い人というのは、高学歴で聡明な人が多い。高い学歴で賢い人は騙されにくいと思われがちであるが、実際は詐欺に遭いやすいのである。実際に、自分では騙されないと思い込んでいる人ほど詐欺に遭っている。客観的に判断しがちな人は、相手の気持ちに共感しにくい。だからこそ、相手の嘘を見破れないのである。

 松下電器(パナソニック)の創始者で、一代で日本有数の巨大企業にした、経営の神様と呼ばれる松下幸之助氏は一度も人に騙されたことがないという。成功を納めた彼の元には、連日に渡り大勢の経営者たちが儲け話(ニュービジネス)を持ちかけたという。中には、詐欺まがいの話も多かったという。松下幸之助氏は、誰もが騙されてしまう巧妙な儲け話であったとしても、絶対にそんな話には乗らなかったという。何故ならば、人から話を聞くときはけっして批判的に聞かずに、真剣な気持ちで主観的に聞いたからだと言う。相手の気持ちになりきって、共感的態度で聞いた。そうすると、自ずと嘘だと分かったと言うのである。

 人は自分にとって得になる話や利益が出る話を聞くと、その話が真実かどうかを客観的に判断しがちである。批判的・否定的な固定観念に基づいて、深く分析する傾向にある。騙そうとする詐欺者は、その辺の機微を心得ていて、客観的合理性を主張するのである。それ故に、客観的合理性を追求する傾向が強い人ほど、見事に騙されるのである。主観的に、そして共感的に話を聞く人ほど、騙されないのである。何故なら、騙そうとする人の気持ちが良く解ってしまうからである。共感的に話を聞く松下幸之助氏は、騙そうとする人の気持ちを洞察できた。国際ロマンス詐欺に遭う人は、客観的合理性を持つ分析力の高い人だから騙されるのだ。

※国際ロマンス詐欺に限らず、結婚詐欺に遭ってしまうのは、基本的に寂しいからです。強烈な不安感や恐怖感、生きづらさを抱えていて、満たされない心をどうしていいか解らない日々を過ごしているので、その心の隙間に付け込まれてしまうのです。騙される人よりも騙す人が悪いのは当然ですが、騙されない心を確立することも必要です。その為には、「寂しさ」を解消しなければなりません。必要なのは『自己マスタリー』です。正しい価値観や哲学を持ち、自己の確立をすることが求められます。

学校教育で自己肯定感を育てるのは困難

 学校教育を管理指導する立場にある文部科学省は、子どもたちの自己肯定感(自尊感情)を育む学校教育を目指しているという。どうすれば、自己肯定感が高まるのか、調査研究を進めているし、教師にも子どもたちの自己肯定感や自己有用感を育てる教育の進め方を指導している。そして、自分たちの活動が恰も成功しているかのように、自尊感情を持つ高校生が増えているとの調査結果さえ、公表している始末である。でも、相変わらず不登校の子どもは存在しているし、いじめや無視などが多数起きている。自尊感情が高まっているとは思えないのである。

 ましてや、学校現場における不祥事は後を絶たない状況にある。不適切指導や教師による暴力事件・性被害は少なくないし、不適格教師として処分をされたり中途離職をしたりする教師も多い。そもそも、絶対的な自己肯定感(自尊感情)を持つ教師が少ないのではないかと思えて仕方ないのである。自分に自己肯定感が育っていない教師が、どうして子どもたちの自尊感情を育むことが出来ようか。ましてや、自尊感情や自己有用感をしっかりと持っている教師なら、子どもたちの不適切指導や性被害行動を起こす訳がない。

 ダイヤモンド社のプレジデントという雑誌で、誉めることの特集記事を掲載したことがある。その際に、各企業の社員や管理者にアンケートを実施したそうである。その結果、よく誉められる人は、自分でも他人をよく誉めることが解ったという。教育の極意は、よく誉めて育てると言われているが、学校現場で誉められることや認められることが極めて少ない教師が、子どもたちを認めて誉めることが出来るとは思えない。ましてや、現代の教師たちの殆どが生きづらさを抱えているのに、子どもに生きる楽しさを伝えるのは難しいであろう。

 学校の先生たちの中で、何かしら心を病んでいる人は想像以上に多い。何らかの気分障害により、治療を受けている先生は多いし、休職している先生も少なくない。一般企業と比較しても多い筈である。どうして教師が心を病んでしまうのかというと、特殊な職場環境だからという理由だけではない。心が折れやすいという何か特別なパーソナリティを抱えているとしか思えない。その特別なパーソナリティとは、不安や恐怖感を抱えやすいというものではなかろうか。あまりにも神経が過敏で、心理社会的な過敏性を持っている気がする。

 そのパーソナリティは、小さい頃の育てられ方に起因しているのではないかと思われる。教師になる殆どの方たちは、親が教師であることが多いし、親の教養や経歴が立派だということが多い。勿論、教育熱心な親も少なくない。家庭における躾は厳しい傾向が強い。つまり、母性愛よりも父性愛が強い中で育てられるケースが多いということである。自己肯定感を持つには、三歳頃までの育てられ方で決まる。あるがままにまるごと愛されて育てられれば、自己肯定感が確立される。残念ながら、条件付きの愛である父性愛の強い育児では、自己肯定感が育たないのである。

 すべての教師が父性愛の強い中で育てられたという訳ではない。比較的多いという意味である。そして、そういう父性愛の強い家庭で育てられた教師ほど、とても優秀なので出世して学校や教委の管理職になる。だから、管理職は部下の教師を誉めることが不得意なのである。誉め上手は誉められ上手であり、誉められ上手は誉め上手である。誉められることが少ない教師は、子どもを誉めることが得意でない。誉め方も稚拙で、結果だけを誉めてプロセスを誉めることがない。これでは、子どもの自尊感情が育つ訳がない。

 文科省は、こういった大事なことはさておいて、自然体験やボランティア体験などが自尊感情を育てると主張する。または、多世代の交流や読書をしている子どものほうが、自尊感情が高いと分析している。この主張はある意味正しいと言えるが、自尊感情の高い子どもほど自然体験やボランティア体験をするし、多世代の交流や読書を良くすると言ったほうが正しい。自己肯定感を育てる教育は、家庭教育のほうの比重が遥かに高いし、自己肯定感の高い教師に出会った子どものほうが、自尊感情が高まると言える。文科省は、絶対的な自己肯定感を持つ教師を採用すれば、健全な子どもを育成できると心得たい。

保育士が園児に暴力を振るった訳

 静岡県裾野市の認可保育園で起きた事件は、社会に大きな衝撃を与えた。女性保育士というと、子どもには優しく接してくれる存在だと世間一般では思われているのに、子どもを吊り下げるというとんでもない暴行を加えていたとは、すごい驚きである。それにしても、そのような暴行に及んでいたのは、一人ではなくて複数いたというから、驚愕の極致である。保育園側ではそれを知りながら、隠蔽しようとしていたというから呆れる。このような暴行が日常茶飯事に行われるようになったのは、新しい園長に交替してからだという。

 保育園などでは、慢性的なマンパワー不足により、大変な思いで保育士さんたちが働いているという事情もあろう。または、難しい対応が迫られるような園児も大勢いたであろう。だとしても、虐待をしたりカッターナイフで園児を脅したりして、園児を自分たちの思い通りに操ろうとするのは、大きな間違いだ。暴力や罰でもって、自分たち保育士に従わせようとするのは、絶対にしてはならないことである。園児の心に大きな傷をもたらすし、彼らの性格や人格にまでも大きな影響を及ぼすからだ。

 いくら小さい子だとしても、日常的な暴力や虐待は子どもの心身に大きなダメージを与えてしまう。暴力暴言や虐待を受けて育つと、子どもの脳は取り返しのつかない損傷を受ける。記憶を支えている海馬が委縮してしまうし、前頭前野脳が成長しないばかりか退化してしまうこともある。また、脳の中にある偏桃体が異常に肥大化してしまい、不安・恐怖・怒りの感情がコントロールできなくなり、異常なパーソナリティを持ってしまう怖れもある。こうなってしまうと、やがてうつ病などの気分障害を発症することもある。

 暴力や虐待を受けなかった子どもは影響がないかというと、そうではない。それを日常的に見せつけられた子どものほうが、大きな心のダメージを受ける。自分も同じ目に遭うかもしれないという恐怖が大きいからだ。酷いトラウマを抱えることもある。心的外傷(トラウマ)を受けた子どもは、やがて大きくなってからパニック障害やPTSDを起こす可能性だってある。特に乳幼児期に虐待や暴力を振るったり、そういう場面を見せられたりするのは、絶対にあってはならないのである。保育士は暴行罪だけでなく、傷害罪も負うことになる。

 彼女らは『躾』の一環として虐待や暴行をしたとの認識だという。学校現場においても、指導の一環だとして悲劇的な不適切指導が起きている。虐めに加担するような教師もいるし、自らが暴言や暴行を繰り返す教師もいる。たまたま保育士が、今回は同じ行為をしてしまっただけである。他の保育園や教育現場でも起こりうるのである。保育士たちは、目の前の園児たちの言動が許せなかったのである。乳幼児が皆、自分たちの願うように、大人しく聞き分けのある子どもである筈がない。中には、騒ぎまわって指示をまったく受け付けない子どももいるし、反抗的な態度をする子もいたろう。

 多くの大人は、自分の思い描いたように子どもを支配して制御したいものである。特に小さい頃に、あるがままにまるごと愛されて育てられなかった大人は、自己肯定感が育ってないから、子どもの言動に対して寛容と受容が出来ない。すぐに切れてしまう。虐待や暴力を振るわれて育つと偏桃体が肥大化すると記したが、まさしく同じように育てられたのではなかろうか。怒りのコントロールが出来なくなっているのだ。自分は、インナーチャイルドが傷つけられて育っているから、子どものような純真さを表に出せない。その純真さを思いっきり表出させて騒いでいる園児が余計に許せないのだ。

 すべての人間がそうだとは言えないが、大きな愛で包まれて心が満たされている人は、他人に対して攻撃を加えることがない。豊かな愛を注がれ続けている人は、他人の言動を許せるし受け容れられる。小さい頃にあるがままにまるごと愛されて育った人、いわゆる豊かな母性愛に包まれて育った人は、自分より小さくて弱い存在をまるごと愛することが出来る。例え、自分の思い通りに行動しない園児だとしても、優しく接する。園児を暴行した保育士たちは、おそらく自我と自己の統合が出来ていなかったのではなかろうか。自己肯定感がなくて、自己の確立が不完全だったように思う。罪を償ったうえで、自己マスタリーを実現して、社会復帰してほしいと願う。

神は細部に宿る~森保監督の名言~

 サッカー日本代表の森保監督の座右の銘の一つが、『神は細部に宿る』だという。三苫選手の諦めない折り返しボールが、1.88ミリの差でラインを出ずに得点として認められ、その事実とリンクされて、神は細部に宿るという言葉がネットで拡散されている。この神は細部に宿るという言葉は、誰が最初に言い出したのかということも議論されている。世間一般では、ローエという著名な建築家が使い始めたというのが通説になっている。しかし、それ以前にもアインシュタインなど沢山の人が使っていたことが記録されている。

 この神は細部に宿るという言葉は、誰が最初に言い始めたのかということと、その真意はどういうことかということが盛んに議論されている。英語では、悪魔は細部に宿ると記されているので英語圏の人物ではないだろうと結論付けされている。神は細部に宿るという語句は、元々ドイツ語であるから、ドイツ語圏で最初に提唱されたのではないかというのが定説である。そこで有力なのが、ドイツの著名な数学者で神学者・哲学者でもあった、知の巨人と呼ばれるライプニッツではなかろうかという説である。

 ライプニッツは微積分の法則を導き出したことでも有名であるし、モナドロジーと呼ばれる『モナド理論』や『予定調和説』が斬新であり、現在にも通じる学説であると思われる。科学と哲学を統合させないと真理に到達しないと言っていることから、最先端の考え方である科学哲学を先取りしていたとも考えられる。予定調和説とは、宇宙におけるすべての事柄は、最終的に全体最適となるように神が予め調整しているという考え方である。神というのを宇宙意思とも読み替えれば、最先端の量子物理学や宇宙物理学の理論にも通じている。

 神は細部に宿るという言葉は、現在どんな意味で使われているかというと、ライプニッツが言いたかったこととは違うような気がする。ローエという建築家が用いたせいもあるが、建築物や芸術品を作り上げる時には、細部に渡り気を抜かずに細心の注意を払いながら創造することが重要である、というように捉えられている。どこか小さなところに不具合や駄目なところが一つでもあると、全体の価値さえも損なってしまうから、すべてに完璧を求めなさいというように考える人が多い。または、どんな些細なことも疎かにしないようにという戒めとして用いられる。

 まさに、あの1.88ミリのボールの折り返しは、最後まで諦めずにどんな小さなことにも真剣に努力してきた成果であり、森山監督が選手に対して『神は細部に宿る』と言い聞かせていたことが実を結んだと言えなくもない。日本の諺に『画竜点睛』というものがある。竜の絵を描いていて、眼を描き入れない絵を不思議に思った人が、どうして眼を描き入れないのかと詰め寄り、仕方なく作者が眼を描いた途端に、竜が絵から飛び出て天に登ったという逸話から来ているらしい。神は細部に宿るともリンクしているように思えなくもない。

 さて、神は細部に宿ると最初に言い始めたライプニッツは、どんな意味でこの言葉を使ったのであろうか。ライプニッツをよく知る人なら、現在の意味とはかけ離れているのではないかと思っているに違いない。彼のモナド理論と予定調和論に基づくと、神は細部に宿るという意味はまったく違うものとなる。モナド理論は、最先端の量子力学によって証明されつつあると言える。モナドというのは量子(素粒子)と同じだと推測できる。その量子は、まさに神の意思を持っているかのような働きをする。量子どうしが統合してネットワークを組んで、全体最適(予定調和)のような働きをする。それは、自己組織化するというのが定説であり、イリヤ・プリモジンがこれでノーベル賞を受賞した。

 本来の深い意味での『神は細部に宿る』の教えは、日本代表サッカー選手の活躍だけでなく、我々の正しい生き方さえも示しているのではないかと思う。勿論、ビジネスの世界においても有効である。人間も素粒子で組成されているのだから、人体の細部に神が宿っていると言える。人体のネットワークが正しく機能することによって全体最適=予定調和(心身の健康)が守られる。企業組織や国家も、それを組成する人間どうしの関係性と協調により、全体最適や予定調和が実現する。ジャパンブルーの選手たちの活躍も奇跡や偶然ではなく、森保監督を中心にしたチームの関係性と調和によって、神がもたらした必然であろう。

サッカー日本代表の勝因をシステム科学で読み解く

 ワールドカップでサッカー日本代表チームが強豪のスペインとドイツを破って、一次リーグをトップで通過した。どちらか一方を破るかもしれないと予想した人は少なくないかもしれないが、両方のチームを負かして予選リーグをトップで通過すると予想した日本人は少なかっただろう。ましてや、世界のサッカー界を牽引するスペインとドイツを敗戦に追い込むと予想した両国のサッカーファンは皆無に違いない。言わば奇跡とも言えるような番狂わせを演じた日本の強さは、どうして生まれたのかをシステム科学で分析したいと思う。

 サッカー日本代表チームはサムライブルーとも呼ばれている。サムライブルーが勝てたのは、世界でも活躍できる選手を招集することが出来たからだというのは間違いない。しかし、想像した以上に活躍できたのは、森保監督の采配の的確さと指導力の賜物だという人は多い。誰もが、森保監督の手腕を認めているであろう。その戦術は、的確であり効果的であったと思われる。特筆すべきは、森保監督の指導力(教育力)の素晴らしさであろう。科学的な根拠に裏付けされた指導力と選手の育て方は、世界でもトップクラスと言える。

 森保監督の指導と育て方は、心理学と教育学、さらには脳科学的にもエビデンスに伴ったものだと言えよう。故に、選手の個々の能力を発揮することが可能になったし、実力以上のものが引き出せたに違いない。最先端のシステム科学に基づいたような采配と指導を行えば、大きな成果を産みだすのは当然である。人間はひとつのシステムであるし、チームという組織もまたシステムである。このシステムの機能を最大限に発揮するには、システム科学の思考が必要である。そのシステム思考に基づく指導をしないとシステムは機能しない。

 森保監督の指導方法は、実に科学的でありシステム思考の哲学に則った選手の育て方をしたのである。だから、選手たちは実力以上の能力を発揮したのであるし、チームがまとまって結果を残したのである。システム思考に則った指導法とは、自己組織化と関係性を重視した育て方のことである。この指導を行えば、オートポイエーシス(自己産生・自己産出)が起きる。つまり、個々の選手が大きな成長をするし、チームが大きな結果を産みだすことになるのだ。まさしく、森保監督はこの科学的な手法を用いて結果を残したのである。

 スポーツの指導者はともすると、選手を成長させようとして、厳しく選手に接しがちである。規則やルールで縛ろうとするし、勝手に行動しないように制御しがちである。監督が思い描いたように、選手を動かそうとする。確かに、監督が描いた戦術通りに選手を動かしたくなるのは当然である。ところが、選手をコントロールしようとすればするほど、選手は動かなくなる。練習の時には上手く動いてくれるが、緊張したり興奮したりする場面や大事な試合になればなるほど、身体が動かなくなったりミスを犯したりするものなのだ。

 人間と言うのは、一方的に支配されて所有されたりすると、本来の機能を発揮できなくなる。または、強い干渉や介入を繰り返して、制御をし過ぎると、自己組織化の能力を発揮できなくなる。チームもやはり強すぎる干渉や制御により、自己組織化できなくなるしオートポイエーシスが働かなくなる。森保監督は、選手に対して干渉や介入を極力避けていたようであるし、選手個人の主体性や自主性、さらには責任性を尊重していたらしい。さらには、選手との関係性、またはチーム員どうしの和(関係性)を高める言動を心掛けていた。

 絆(関係性)が強ければ、個人や組織の自己組織化が高まる。個性豊かなサムライブルーだが、選手どうしと監督との関係性は、世界でもトップクラスの豊かさだと思う。その絆の強さは、監督の人柄と言動によるものだと思われる。指導力は高いし戦略性のある外国人監督だが、残念ながら言葉の違いもあるし日本人独特の文化・習慣に疎いので、関係性を高めることは出来なかったように思う。誰よりも優しく思いやりのある日本人らしい森保監督だからこそ、関係性が豊かになりシステムの機能が高まって、結果を残したのである。決勝トーナメントでも、今まで通りに選手を指導してくれることを期待したい。

牛肉を食べると地球温暖化が進む

 牛肉を食べると地球温暖化を招くと聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。牛肉と地球温暖化にどのような関連があるのか、不思議に思うことであろう。牛が呼吸をすることで二酸化炭素を増やすから、または飼料作成の段階で二酸化炭素を放出することにより、地球温暖化が進むと考えるのは、普通に考えられることだ。しかし、牛を育てると二酸化炭素だけでなく、地球温暖化の物質が大量に出るという事実があるのだ。その地球温暖化の元凶とはメタンガスである。牛はメタンガスを大量に出す生き物なのだ。

 牛には、胃が4つあるということは広く知られている。第一胃に入れた食物を、第二、第三、第四の胃へと反芻しながら移していく。牛は第一の胃に入れて、食物を消化する為に腐敗を起こさせる。この腐敗させる段階で、メタンガスが大量に作成されて、反芻の際にゲップをして外に放出されるのである。メタンガスは、二酸化炭素よりも遥に高い温室効果ガスになってしまうのである。二酸化炭素の28倍もの高い温室効果があると言われている。牛の反芻のゲップだけが、メタンガスの発生源ではないが、かなりの量が発生している。

 メタンガスの発生源は、牛の他に反芻をする羊もゲップをすることが知られているが、牛ほどのメタンは発生させていない。化石燃料を燃焼させる時にもメタンは発生するし、ゴミの集積所でも生じる。田んぼでもメタンの発生が確認されている。発生源のうち、牛の発生量はかなり多いらしい。牛だけを地球温暖化をさせている悪者にするつもりはないが、実際に東南アジア、アフリカ、南米でメタンガスが大量に増えている。これらの地域では、牛肉を食べる食習慣が増えていて、ここにきて牛の飼育が急増しているのも事実だ。

 SDGsを推進するために、牛の飼育頭数を減らす努力が求められる。温室効果ガスだけの問題だけでなく、省エネや健康増進の観点からも牛肉を大量に消費する食習慣を見直すべきではないだろうか。牛を飼育する為には、大量の穀物を食べさせる必要がある。先進国が牛を食することで、飼料である穀物を大量に消費してしまい、発展途上国で穀物が足りなくなって飢餓が起きているのである。日本でも牛肉を必要以上に消費するようになった。牛丼やハンバーガーが大量に消費されるようになったからだ。

 元々日本においては、牛肉を食する習慣はあまりなかった。明治維新の文明開化によって、牛鍋、すき焼き、焼き肉、ステーキの食文化が広まった。富国強兵策と肉食がリンクしたのであろう。戦後には欧米の食文化がさらに広まり、ハンバーガーが大量に消費されると共に、牛丼がファストフードとして定着し、大量の牛肉が消費されている。ハンバーガーや牛丼は廉価であるし、手軽にどこでもいつでも入手できることから、大量に食されるようになった。このようなファストフードの食習慣は、伝統的な和食文化を廃れさせている。

 牛乳を飲むという食習慣も、戦後に米国がパン食を日本に広めるための戦略が機能して、広まってしまった。牛乳が健康を増進するというプロバガンダが成功したのであろう。日本では、牛乳を飲むという食習慣はなかったが、学校給食において牛乳を飲ませることで、日本の子どもたちの食習慣を洋風に変えたのである。牛肉を食べることと牛乳を飲むという食習慣が日本に広まったことで、牛を飼育する農家が急激に増えたのである。さらに、牛肉の輸入自由化によって、安価な牛肉が米国や豪州から大量に輸入されるようになった。

 このまま牛肉を大量に食べ続ける食習慣と牛乳をたくさん飲む食生活を継続すると、世界で牛を大量に飼育することになり、SDGsを進めるうえで問題となる。地球温暖化に悪影響を与えるのは間違いない。だとすれば、完全に牛肉を食べないようにするとか、牛乳を飲まないようにするということは難しいが、大量消費だけは避けたいものである。ましてや、牛肉や牛乳を摂り過ぎると健康上の問題が起きると主張する専門家が多い。元々日本の伝統的な食文化においては、肉を食べるのはハレの日だけだった。日常的に大量の牛肉を食べる食習慣を見直して、地球温暖化を防ぎたいものである。