発達障害とその家族の関わり方

一昨日、NHKTVで発達障害の保護者たちが集まって情報交換会をしている模様が放映されていた。発達障害を持つ母親6人の方々が出演していた。まず不思議だと思うのが、仕事があるとしても父親の出演者は居なかったという点である。そして、母親たちが口を揃えて言うには、あまりにも夫たちが発達障害に対する無理解があるという。それも、単に障害そのものが分かりにくいというなら理解できるが、それぞれの夫たちは理解しようとしないばかりか、障害に背を向けてしまい、わざと育児を避けているようにしか思えないということである。したがって、子育ての苦労と悩みは母親だけが一人で背負っていると口々に言っている。

 

勿論、夫たちは仕事が忙しいという事情もあるだろうが、あまりにも非協力的な態度が気になる。それに対して、母親たちは子どもの発達障害に真正面から向き合い、何とか子どもが幸せな人生を送るために、苦しみ悩みながら最大限の努力をしている。そして、限りない愛情を子どもに注いでいるのが、いじらしくも感じる。あまりにも父親との態度が対照的なので、見ていてびっくりする。出演した母親たちが特別なのかとも思いたくもなるが、このようなケースが実際少なくないという。発達障害の子育てにおいて、母親だけに負担がかかっているという実態があるらしい。

 

発達障害は脳の先天的器質障害が原因とされている。だから、母親の子育てによるものではない。それなのに、夫やその家族が妻の子育てが悪かったせいだと責めるらしい。これでは母親がやり切れない。母親があまりにも厳しい態度でしつけるから、こんな子どもになったと言うらしい。無理解からの発言だとしても、これは許せない。子育てをすべて母親に押し付けておいて、こうなったのはお前が悪いからだと責任放棄する姿勢は、頂けない。これでは、母親があまりにも可哀想である。しつけは本来父親が担当すべきである。母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけであり、条件付きの愛であるしつけをするのは父親の役割だ。父親が役割を放棄したから、仕方なく母親がしつけまで肩代わりしているのに、それを非難するなんて到底許せない。

 

今まで、ずっと障害のある子どもたちの子育て支援をさせてもらっていて、すごく感じたことがある。発達障害だけでなく、知的障害や身体障害、または脳性小児まひやダウン症のお子さんの子育てをしているケースでは、圧倒的にお母さんの負担があまりにも大きい場合が多い。あげくの果てに、父親が子育てを放棄するだけでなく、家族から離脱してしまうケースだって少なくない。したがって、発達障害だけでなく、お子さんが何らかの障害を持たれた際の子育ては、お母さんだけに負担が押し付けられる例が非常に多いのである。

 

勿論、収入を得るためには父親が仕事に専念しなくてはならないであろう。けれども、少なくても精神的な支柱になってほしいし、何かあったときは相談の際だけでも親身になって聞いてほしい。何も、母親たちは助言や解決策まで求めている訳ではなく、困ったり悩んだりしていることを黙って聞いて共感してほしいだけなのである。そして、妻の大変さを解ってあげて、妻の気持ちと同化して時折一緒に涙を流してほしいのである。他人ごとのように、冷たい態度で責任を放棄したり、主体性を持ちえないような態度をしたりすることだけは避けてほしいと思っているのである。

 

発達障害は、先天的な脳の器質障害であったとしても、周りの家族の適切なサポートがあれば、和らいでいくことが判明しつつある。その為には、家族の理解、とりわけ父親の深い理解と協力が不可欠である。そして、母親が発達障害の子どもたちへの深くて大きな愛情を注ぎ続けるためには、母親の精神が安定してしかも安心していなければならない。母親が不安であれば、子どもにもその不安が伝播してしまうからである。母親が安心して子育てに専念し、無条件の愛情である母性愛を注ぐには、やはり夫が妻を深く愛することが必要である。その愛は、自分に都合良くするための見返りを求める愛ではなく、与えるだけの無償の愛である。制御と支配の愛ではなく、寛容と受容の愛である。このような夫婦関係であれば、発達障害は必ずや和らいでいくと確信している。

食の好みとメンタル状態の相関関係

人それぞれに食の好みが違う。または嗜好品もその人それぞれによって違っている。野菜中心の食事を志向している人もいるし、高齢になっても肉食中心の人もいる。主食や副食だけでなく、お茶やコーヒーの好みも人それぞれであり、スウィート好きの人もいれば三度の飯よりも酒が好きだと豪語する人もいる。辛いものや塩味の強い刺激的な味を異常なほど求める人もいれば、薄味の優しい食味が好きだという人もいる。食の好みは、何故人によって違っているのであろうか。乳幼児期における食育によっても影響するであろうが、それだけではないような気がする。

 

先日、ある友人がこんなことをボソッとつぶやいていた。今まではずっと苦みが強くてコクの強い珈琲が好きだったらしい。最近は、深煎りよりも浅煎りの優しくてフルーティな味の珈琲が好きになってしまったと言う。どうしてこんなにも好みが変わったのか自分でも不思議だと言っていた。かの友人は、特に味の好みや味覚が変化したとは思わないが、自分の環境がかなり変わったという。2月末まではある介護施設に勤務していて、ものすごいストレスにさらされていたらしい。退職後4月から一人勤務の受付窓口業務になり、対人ストレスがまったくなくなったという。精神的にすごく落ち着いてきたら、刺激性の強い珈琲より、何故か優しい味の珈琲に好みが変わったのだという。

 

今、若者たちの間では激辛料理が流行っているらしい。激辛のスナック菓子も売れているという。さらに、炭酸飲料を好んで飲む傾向がある。それも、強炭酸のドライタイプ飲料が好まれているみたいである。二酸化炭素の含まれた飲料水を飲むと、自律神経の副交感神経が刺激されて、ストレスが和らぐからだと思われる。人間はストレスが溜まると、刺激的な食物を食べたくなるらしい。ストレスフルな社会で、心が疲れて折れてしまうと、刺激物や炭酸飲料を摂取したくなるのではないかと推測される。

 

さらに、人間は強いストレスにさらされると、肉や脂肪分の多い食事を好むようである。また、ストレスフルな日常生活で精神的に参ってくると、塩味や甘味の強い食事や嗜好品を好むらしい。カップ麵などの毒々しい味のものを食べたがる。しかも、精神的に疲れていると、アルコールに溺れたりヘビースモーカーになったりもする。一方、ストレスを乗り越えて精神的に安定してくると、野菜中心の食事になる傾向が強い。それも優しい味の食事を好む。さらに、マクロビや自然食を求める傾向になるし、人工的な食品添加物の入った食事を受け付けなくなる。健康的な精神は、健康的な食事を要求するのであろう。

 

このように精神状態と食事は密接に関連している。したがって、精神状態を安定させないと食が乱れると言える。そして、食の乱れはさらに身体を不健康にすると共に、精神状態までも悪化させてしまう危険を孕んでいる。つまり、メンタルの悪化と食事の劣化は、両輪の如く進んでしまい、両方とも益々強化されてしまうのである。それじゃ、メンタルの悪化から逃れる方法はないのだろうか。先ずは、強制的に健康的な食事を変えてしまうことで、精神的に安定の道を進めてみるという方法は取れないだろうか。

 

精神を病んでいる人の食事は劣化している。どんなに健康的な食事を作っても食べようとしない。ジャンクフードやファストフード、または甘いものや味の濃い刺激物を摂取したがる。何でも手に入る都会の自宅にいては、食を変えるのは難しい。だから、無理やりでも自宅から離れてしまい、コンビニのない田舎に滞在するとよいだろう。「イスキアの郷しらかわ」のような施設に1週間くらい滞在し、自然食の食べ物とおやつを食べることが必要である。そうすれば、悪い食事と嗜好品によった溜められた毒素がデトックスできる。そうすれば、徐々に精神的にも穏やかになってくる。驚くことに不眠も解消されるし、元気も出てくるのである。是非、試してみてほしいものである。

我が子を素直に愛せない母親

自分の子どもを素直に愛せない母親が多いらしい。虐待やネグレクトをするような母親は論外であるが、我が子に対して何となく違和感を持ってしまうというのである。本来、母親は我が子を目に入れても痛くないというように、無条件の愛を持つと考えられる。自分の子がどんなことをしても何を言っても、そのことを許せるし、我が子のすべてを受け入れる筈なのだが、今の母親たちは我が子を冷めたい目で見てしまうらしい。何となく我が子に対して、よそよそしく感じたり、逆に遠慮したりするような感覚を持つという。

だから、我が子をただ思いっきり抱きしめたり、一緒にお風呂に入りふざけ合ったりなどのスキンシップが苦手だという母親が多いという。そんなふうだから、子どものほうも何となく母親に対して遠慮がちになっていて、ついつい良い子を演じてしまいがちになる。または、母親に気に入られようと、無理してしまうことにもなる。そんなぎくしゃくしている親子関係が少なくないという。つまり、本来あるべき母性を、持てないでいる母親が多いみたいである。母性とは、本来無条件の愛である。言わば、絶対的な寛容と受容の愛である。すべてを許し、すべてを受け容れる愛なのだ。これが、母親として本来持つ愛情なのだが、それが出来ないらしいのである。

こういう親子関係であると、自分は愛されていないということを子どもは敏感に感じてしまう。子どもたちに個人アンケートを取ってみると、自分が愛されていないと感じる子どもはいじめに走ったり、いじめに加担したりしているケースが非常に多いという結果を示す。または、愛されていないと感じていると、自己肯定感が育たなくて不登校やひきこもりに陥りやすいとも言われている。自分が愛されないのは、自分が悪い子だからと勘違いするからであろう。つまり、親から愛されていないと感じる子どもは、問題行動を起こしやすいということである。

そんな親子関係に陥ったそもそもの原因は、父親にあるのではないかと想像している。つまり、夫が妻を深く愛してないから、妻である母親は我が子を深く愛せないのではないだろうか。愛は一種のエネルギーだと考えている。愛と言うエネルギーをたくさん注ぐ為には、そのエネルギーをたくさん受け取り続けなければならないし、枯渇してもすぐに補充できるという安心感が必要だ。人は無条件の愛というか、見返りのない愛を注がれたときに、我が子に対して至上の愛を与えることができる。でも、夫婦間にある愛は、条件付きの愛というか見返りを求める愛に陥ってしまっていることが多い。だから、我が子を素直に愛せなくなっているのではないかと思うのである。

今、離婚を決意する母親が多い。どうしようもなくて、シングルマザーを選択せざるを得ない母親が急増している。こういう社会になっている背景には、上記のような状況が要因としてあるのではないかと思う。本当の愛を受けられなくて、いつも惨めな思いをするなら、1人になって我が子を育てたほうがいいと思うのだろう。その決断はある意味正しいと思う。そして、新たな出会いを通して真実の愛を見出す人も中にはいる。しかし、なかなかそういう新しい伴侶に巡り会えない人が大多数だし、また同じような伴侶を選んでしまう女性も多い。何故なら、この世の中には圧倒的に、妻を支配して制御したがる男性が多いからである。

伴侶を自分の思い通りになるように、コントロールしたり支配したりする愛は、本当の愛ではない。これは相手からエネルギーを奪い取る、不当な愛である。本来は相手に与えるだけの愛を注ぎたいし、見返りのない愛を感じてもらいたいものである。そういう無償の愛というエネルギーは連鎖していく。豊かな愛は妻から子へと循環していく。こういう愛を豊かに注げるような男性を育ててこなかったのは、私たちの世代が子育てを間違ったせいかもしれない。今からでも遅くはない。家庭の中で豊かな関係性を築くことができる人間を育てる努力をするべきであろう。家庭教育だけでなく、学校教育においても人間教育を充実させたいものである。

日本農業を自然農法で再生する

田舎に行くと、青々と広がる田園風景に心が癒される。しかし、その田園風景であるが、山間のほうに行くと、耕作放棄地が急増していて、雑木林や荒地になってしまっている。由々しき大問題である。空き家になってしまっている農家も多いし、手入れされていない山林も増えている。農業では生計が立てられないと、集落から若者が街に出て生活し、年老いた老夫婦しか住んでいない農家が多いのだ。当然、老齢者だけでは手が回らないから、畑や田んぼは耕作されずに、荒れ放題になっているのである。

農地というのは農産物生産の役割と共に、本来水害を防いだりする効果もあるし、環境保全と国土保全という観点からも、耕作放棄地になるのは好ましくない。したがって、農水省・農政局や県の農林事務所も耕作放棄地対策を立てて、いろいろと苦労しているが、抜本的な改善方法が見つからず苦慮している状況にある。そもそも、農業を志す若者がいない。つまり、農業に対する魅力を感じる若者が少ないのである。何故かというと、苦労する割に収入が少ないし、農業だけで生計を立てるのが難しいからである。そんなこともあり、耕作を放棄した農地は益々増加している。

それでは、こんな農業にしたのは誰なのかというと、殆どの農家はこんなふうに言う。それは、国の農業政策が間違っているからだと。日本の農政は、まったく無策だと言う人もいる。または、工業製品輸出優先策の為の見返りに農産物輸入自由化をして、外国との競争にさらされてしまい、日本農業が壊滅的打撃を受けたと主張する人も多い。または、工業の労働力確保の為にわざと農家を疲弊させ、農村労働者を都会に呼び寄せたとも言う。果たして、本当にそうだろうか。日本の農政における失政が、農業を駄目にしたのであろうか。確かに、そういう側面もあるだろう。しかし、それだけが原因ではあるまい。もっと根源的な何か他の原因があるのではないだろうか。

最近、ユニークな農業が脚光を浴びている。奇跡のりんごと呼ばれる木村氏の自然農法の取り組みや、昔ながらの堆肥等の有機肥料や無農薬で農産物を生産しているケースである。そういう農家は、例外なく『土』を大事にしている。農業生産における労力の殆どを、土作りに注いでいるのが特長である。彼らは、声を大にして言う。化学肥料と農薬が、土を駄目にしてきたし、農業を駄目にして来たのだと。化学肥料と農薬を使わなければ、まともな農業生産は出来ないのだと、農家は思い込まされてしまい、土を駄目にしてきたのである。本来持っている土の生命力を台無しにしてしまったから、逆に化学肥料と農薬が大量に必要になってしまったのであると主張する。

化学肥料メーカーと農薬製造会社の巧妙な宣伝に騙され、その片棒を担がされた農協によって、日本農業が駄目になったと言う人々が増えてきた。農水省を初めとする行政も彼らに巧妙に騙されてしまい、悪乗りしたと見る向きも多いのだ。彼らは決まってこのように言う。化学肥料と農薬を使わなければ、生産量が低下して大変なことになると。日本農業が駄目になるというのである。まったく逆であろう。彼らが日本農業を駄目にしたのではあるまいか。そのことを知った、小数の志ある農家は、昔のようなやり方で農業を立派に復活させている。そして日本農業を立派に再生させた彼らは、こんなことも言っている。土の言い分に耳を傾け、そして野菜や果物の声を聞けと。つまり、土が何を求めていて、農産物が何をしてほしいのか、耳を澄ませば聞こえてくるのだと言うのだ。

だから、彼らは化学肥料や農薬を使わずに、土を健康にして野菜や果物を作っているのである。化学肥料と農薬を使用しないで生産した農産物は、健康である。味も格段に良い。ミネラルが豊富であり、大切な栄養素も高い。だから、子どもたちも野菜嫌いにならない。こういう野菜を食べていると、病気にもなりにくい。アレルギーにもなりにくいと言われている。いいこと尽くめなのである。当然付加価値が高いから、価格も高い。それなのに、今もって化学肥料や農薬に頼っている農家が多いのは、情けないことである。土や野菜の気持ちになりきり、彼らの声を聞けばいい。彼らの叫び声が聞こえてくる筈である。化学肥料や農薬はもう使わないでくれという悲痛な叫びが。

確かに省力化をして、大量生産をする為には農薬・肥料を大量に使用しなければならない。しかし、適量を生産するならば、自然農法でも作物が出来ることが証明されている。発想の転換である。農地が余っているのだから、農家を増やせばよい。そもそも、農業というのは、大量生産には向かないものではないだろうか。今、ふるさと回帰を志向する人々が増えている。退職したら、農ある生活をしたいという方たちが多い。そういう方たちが、自然農法で安全安心な作物を作り、老後の生活をエンジョイしようとしている。そういう作物を利用して、直売所や農家レストランを開いているケースが多い。または、農家民宿を開業している例もある。今、団塊の人たちの自然農法によって、本来の農業が再生しようとしているのである。白河を初めとして福島県には、その為の安価な耕作放棄地が用意されている。

嫌な人と出会う訳と乗り越えるヒント

相談に乗って欲しいけれど、時間が取れますか?そんな依頼が突然舞い込んで来る。仕事を辞めたので、時間を何とか割くことができるようにもなり、出来得る限り相談に乗っている。SNSとかインターネット上での相談依頼も少なくない。相談内容の殆どは、人間関係の悩みである。職場・組織・家庭における人間関係で悩んでいる人が多い。どうしても考え方や価値観が合わないと言うのだ。顔を見るのも嫌だし、声を聞いただけで逃げたくなるというのだ。そりゃそうだ、人の考え方・感性・認知傾向なんて、百人百様なのだから、合わないのが当然である。

動植物は、実に様々な多様性を持っている。何故かというと、自然の猛威や大きな天変地異時さらされた時に、何とか種を存続させたいからである。同じ種でも、寒さに強いもの、暑さに強いもの、日照りに強いもの、湿気に強いものなど、様々な特長を持つものがある。つまり、どんな状況になろうとも、その種を残す為に、敢えて様々な特長を備えたもの、つまり多様性が必要だったのであろう。一方、人間も種族として生き残るため、そして進化するために、多様性を創造主が与えたのではないかと確信している。

人間がこの星・地球に生まれてきた理由は何かというと、進化を遂げるためであろうと推測される。その進化とは、肉体的なそれのみならず、精神的な進化をも目指しているのは間違いないことであろう。精神的なというのは、表面的な心だけでなく深いスピリチュアリティな部分も含めてという意味だと考える。だとすれば、同じような考え方、感性、想像性、認知傾向、行動傾向の人とだけ付き合ったのでは、精神的な進化が望めない。または、霊的・魂的な部分も磨かれない。だからこそ、人は多様性を持っているのではないだろうか。

自分自身を知る為には、自分とは違う他との交わりが必要だと言われている。他者との違いを認識して初めて、自分という者がどういう性格でどんな考え方の傾向やこだわりを持っているのだと認識できるのである。つまり、多様性のある人間社会に放り込まれて、切磋琢磨されて自分を知り本当の自分を肯定できるのであろう。だからこそ、自分と価値観の違う人や、どうしてもうまが合わないような人と敢えて出会わせてもらうのかもしれない。どうして、こんな嫌な人と出会うのだろうとやけを起こしたくなるのは当然であるし、逃げたくなってしまうのも解からないでもない。でも、その違いを受け容れてこそ、進化できるのではないだろうか。

 

さらに、嫌な人が持っているマイナスの自己という部分は、実は自分の中にもしっかり存在するのである。そして、自分はその嫌なマイナスの自己をないことにして生きている。つまり、自己中心的な自己、身勝手な自己、自分の利益や評価しか考えない自己、楽して結果だけを求めたい自己、大変なことから逃げ回っている自己、煩悩に燃え盛る自己、そんな自分にはないと思いたい恥ずかしくて嫌な自己を、相手の言動に発見した時に、自分は相手を許せなくなるのである。受け入れ難い自己を相手の心に発見した時にこそ、自分にある嫌な自己を発見するチャンスでもある。そして、そのことで本当の自己を確立することが可能になるのだ。

だからこそ、顔を見るのも声を聞くのも虫唾が走るというような人と、関わりを持ってしまうように、この世の中は出来ているのであろう。私自身も会社を変わっても、同じような人と関わることが多い。また、NPO活動や市民活動においても、そして趣味の世界でも嫌な人と出会う。NPO活動や市民活動ならまだよいが、会社の中でそういう人と出会い、しかも直属の上司なら辞めるという選択肢を考えなくてはならない。しかし、転勤したり辞めたりしても、同じような人とまた出会うものである。自分の進化と自己の確立の為には、どうしてもそういう人との関わりが必要なのかもしれない。だから、自分自身が嫌だと思うような人を無意識のうちに引き寄せてしまうのだ。

現在人間関係で悩み苦しんでいる人たちに、こんな話をしたら到底受け入れてはもらえない。嫌な人を無意識で自ら自分の世界に招いているのだとは、誰も思いたくはないであろう。でも、スピリチュアリティな考え方においては、そういう見方が出来るのである。自分の深層無意識、つまりは潜在意識が、そのような人々と出会うべくわざわざセッティングしているのである。だとすれば、そういう人たちと向き合い、臆することなく、おもねることなく毅然として対峙して、相手をしっかりと受け容れることで、二度とそういう人と出会うことがなくなるのではないだろうか。何故なら多様性を受け容れることによって、人間は成長して進化して行くのだから。

分離思考から統合思考へ

最新の物理学は、まさに神の領域に踏み入ろうとしている。なんてことを言い始めると、こいつおかしくなったんじゃないかと言われそうである。しかし、実際に物理学者、特に量子力学や複雑系科学分野における科学者は、こぞって宇宙全体をひとつの生命体、または集合意識として捉えざるを得なくなっていると説いている。つまり、宇宙全体をひとつの統合体として見て、それは一定方向に向かうシステムであると見るしかなくなっているというのである。しかも、その宇宙というシステムは全体を常に最適化してしようと、それぞれが一切無駄のない働きをしているというから驚きだ。

宇宙の構成要素を個別にみているときには、まったくそんなことに気付く科学者はいなかったのだが、全体として見たときに、どうもおかしいと気付き始めたらしい。そんな筈はありえないと、盛んにその否定する根拠を探そうとやっきになったのであるが、調べれば調べるほど、宇宙がひとつのシステムとして出来ているとしか思えなくなったということである。そして、形而上学と形而下学を統合してそのことを説明しよう、または証明しようとする科学者が増えてきたというのだ。つまり、哲学と科学の統合とも言える方法によってである。または、宗教と科学が統合されつつあるとも言い換えられる。

今までの科学は、様々なこの世の中に起きる現象を、すべて分離思考で分析する手法が一般的であった。それぞれ個別の対象を、客観的に分析評価をして、何故そういう現象が起きるのかの原因を探り、その対策を考えるというのが主流だったのである。つまり分離思考または要素還元主義とも言えよう。人間をひとつの固体と見て、その人間の性格・人格・認知傾向・行動心理を分析して、そのような行動を取るのは何故かという、評価分析を客観的に行っていたのである。しかし、この分析手法では、地球全体や宇宙全体の流れを理解出来ないのである。さらには、この地球で起きている様々な問題を、分離思考では解決することが出来ないということが解ってきたのである。

つまり、宇宙全体の流れを統合思考で考えると、実にすんなりとおさまりがつくということが判明したのである。宇宙の構成要素のひとつである人間は、どうやら宇宙のひとつのシステムの中で生かされていると考えたほうが、科学的合理性に合致しているということが証明されてきたのである。言い換えれば、人間それぞれが分離しているように見えるが、実は無意識の世界ですべてが統合されていて、そのシステムの中で様々な人間の行動がなされているということが明らかになってきたのである。このことはなかなか理解しにくいし、この場ですべてを記すのは難しいので割愛するが、これが科学的に証明されるということに驚くばかりである。

ということは、こういう結論も導き出されることにもなるのである。つまり、宇宙全体が何らかの意思によって動かされているひとつのシステムだとすれば、そのシステムに逆らって分離思考で生きている人間は、この宇宙からはじかれてしまうということになる。はじかれるということは、人間本来の生き方が出来ず、誰からも愛されず不幸な目に遭うということであり、この世界に存在できなくなるということである。逆に統合思考で生きている人間は、このシステムに則っているのだから、人間本来の心豊かな生き方が出来るし、皆から愛されて幸せな人生を歩むということである。

私たちは近代教育によって、この分離思考を学ばされてしまい、個としての存在を重視する生き方をするようになってしまった。すべてを分離思考で考えるクセがついて、いつも他人のような冷ややかな目で相手を見て、相手の悪い部分をとりあげて分析・批判を繰り返すばかりである。つまり関係性を深めるどころか、無意識的に相手との関係分断を図っているとも言えよう。ところが、その近代教育の間違いに気付き、統合思考で物事を考え、関係性を深めることが大切なのだと主張する人々が出てきたのである。つまり、思想・哲学をしっかりと学んで、高い価値観を持って生きることが人間本来の生き方だとする考え方である。私たちは、そのことをしっかりと認識し、分離思考から統合思考へのパラダイムシフトを自ら行うと共に、社会全体にこの考え方を浸透させていく責務を負っていると言えよう。

いじめがなくならない訳

じめによる自殺が止まらない。いじめ自殺問題がセンセーショナルに報道されて、文科省や教育委員会、そして学校でもいじめ防止対策が取られていながら、若くて尊い命がいじめによって失われてしまう事件が後を絶たない。何とも痛ましい事故が、起き続けているのだ。文科省からいじめに対する調査も徹底するよう指示されていた筈であるし、教師たちも二度といじめによる自殺をなくそうと努力したに違いない。それなのに、今でもいじめによる自殺が起きているのである。自殺とはいかなくても、全国にはいじめが続いていて、苦しんでいる児童生徒が沢山いる筈だ。いじめはなくならないのであろうか。

それにしても、いじめの自殺が起きる度に不思議だと思うことがある。学校の校長、教育長、そして担任までもが、いじめがあったのを知っていたかとの問いに、「いじめは認識していませんでした」と答えるのである。または、「いじめは把握していませんでした」とも答えるのが通例である。あたかも誰かが、そのように答えるようにと指示を出しているかのように、認識していない、または把握していなかった、と答えるのだ。絶対と言っていいほど謝罪はしない。もしかすると誰かが、いじめがあったとは認めてはいけないし、謝ってはいけないと、指導しているかもしれないと思えるほどである。

いじめによる自殺事件が起きたときの記者会見を見ていると、すごい違和感を覚えるのは私だけではあるまい。教育関係者が涙を流して、いじめを気付かなかった自分を悔いたり責めたりする姿を一度も見たことがない。大切な子どもさんを預かっているのであるから、いじめを気付かなかった自分が、情けないし親御さんに申し訳なくて、土下座しても足りないと思うのが、心ある人間だと思う。しかし、そんなふうに自分の責任を自ら問う態度を見せる教育関係者は皆無なのである。こんなに心の冷たくて責任感のない先生たちに、立派な子どもに育てる器量があるとは思えないのである。

勿論、文科省や教育委員会からの指示があって、裁判になった時に不利になるから、絶対に謝罪の言葉を言っちゃいかんと指示されているのかもしれない。しかし、尊い人命が亡くなっているのである。そんな裁判の勝ち負けや賠償金のことなんて考えてはいられないのではないか。真相をいち早く究明して、二度と不幸ないじめがないようにするのが大切なのではないだろうか。先ずは、ご遺族の悲しみに共感することと、ご両親に対して申し訳ないという態度を取るのが必要である筈だ。そして、自分に落ち度はなかっのか、自分が何故気付いてあげられなかったのか、自分自身に厳しく問いかけて、謙虚に自分を責めることをするべきではないかと思うのである。

認識していない、把握していないという言葉を用いるのは何も教育関係者の専売特許ではない。他の官僚や警察幹部、または政治家だって使用している。不祥事の記者会見や国会でも同じように、認識していない、把握していないと逃げまくっているのだ。つまり、我が国の官僚や政治家たちは、まったくもって責任感や主体性など持ち得ないのである。不祥事が起きても、自分の責任はまったくないし、再発防止を主体性を持って取り組む気持ちなんてさらさらないのだ。だから、認識するつもりもないし、把握するつもりもないということなのである。こんなとんでもない輩に国の行く末を任せているのだから、政治、行政、教育、そして医療も福祉も良くなる訳がない。

江戸時代は、一旦不祥事が起きると、その上役の武士は責任を取って腹を切ったか、潔く辞職したのである。自分は認識していなかったなんて言葉は、恥ずかしくて言えなかったのである。言い換えると、自ら進んでリスクとコストを負担する覚悟を持っていたのである。ところが明治以降、近代教育を受けた役人や政治家は、国民に対して責任は取らなくなったのである。責任を絶対に取らないし、保身に走る役人と政治家しか、一部の人を除き日本にはいなくなったらしいのだ。こんな役人や政治家を一刻も早く辞めさせないと、いじめは絶対になくならないに違いない。記者会見においていじめを認識していなかったなんて言葉は二度と聞きたくもないものである。

農家民宿は心を癒す

都会のIT企業でSEをしていた若者が心を病んだ。その若者が、1年間に渡り田舎で農業を体験していたら、メンタル障害が癒されて復帰できたという。それも、単なる復帰だけではなく、感性やイマジネーションの能力が高まり、新たな発想力が増して企画力さえも格段に向上し、有能な社員にレベルアップして戻ってきたという。以前から、メンタルを病んだ人々が、田舎の農家に滞在していると元気になるという話は少しずつ聞こえてきていたが、実際にこんな実例があったことをSNSで発信していることが解り、とても嬉しい限りである。

 

農業体験や自然体験をしながら農家に寝泊まりする滞在型の旅行をグリーンツーリズム(以下GT)と呼ぶ。ヨーロッパが発祥のゆとり型の旅行であり、長い休みが取れるバカンスに利用する人々が多いらしい。そもそも、ヨーロッパのGTは長期に渡る滞在型が多い。中には、仕事を退職または休職して1年間のGTをする若者たちが少なくない。それは、やはり都会のストレスフルな生活に心が疲れて折れてしまい、心の癒しを求めて田舎にやってくる若者が多いからだという。日本のような1泊か2泊のような短期滞在のGTとは基本的に違っているのである。

 

ヨーロッパのGTの歴史はそんなに古くはない。西欧で一番GTが盛んなのは、やはり農業国であるフランスであろう。フランスのGTも第二次大戦後に一般的にも本格的になったという。実は18世紀末から、GTらしいものが貴族の間で流行していたらしい。貴族という裕福な人々でさえ、農村に長期滞在するというのは贅沢であり、しかも貴族なので自分の土地を長く離れる訳に行かなかったらしい。それで、人工的な農園を城の敷地内に作ってしまったのである。これがアモーと呼ばれる農家付きの人工農園でもある。貴族たちはここにしばらく寝泊まりして、自ら農機具を使って農村生活をしたと言われている。

 

勿論、完全な農村生活ではなく疑似的なものであり、城に時折戻ったりもしたから、GTとは定義しにくいが、その走りではなかったろうか。実際に、マリーアントワネットも心が折れてしまったときは、農婦のような質素な恰好をして農村生活を楽しんでいたらしい。貴族たちもパリ郊外に住んでいて、いくら庶民とは違った生活をしていたとはいえ、都会に近い生活でストレスを抱えていたと思われる。だから、疑似農園であるアモーでの生活でストレス解消をしていたのではないかと推測される。ほぼGTと呼んでも差し支えないし、これがGTの発祥と言ってもかまわないように思う。

 

日本のGTも、最近なって心の癒しを求めてやって来る人々も増えてきたようである。心の癒しをテーマにしている農家民宿も増えてきた。しかしながら、西欧のように1ケ月や2ケ月までも受け入れてくれる農家民宿はごく少数である。日本の農家民宿は、ほとんどが農業の片手間に老夫婦が経営している状態を考えれば致し方ないと思われる。だから、農家民宿の宿泊をして、一時的に心が癒されたとしても、完全に元気が回復するとまでは行かないのであろう。ヨーロッパでは、GTの体験後に農村に移住する若者が少なくないという。完全移住をして、農業をしたり、農家レストランやカフェを営んだりする若者が少なくないという。

 

農業・自然体験によって心を癒し元気にするということは、科学的に考察しても間違いないようである。脳科学的や脳神経学的にみても、分子生物学に洞察しても、心身共に癒され元気になるのは、科学的根拠により説明できる。さらに、栄養学的にみると、農村の自然で新鮮な野菜、または伝統的な和食(乳酸菌の豊富な料理)によって、体内に溜まってしまった毒素がデトックスされる効果も大きいという。最近の研究では、腸内細菌が元気になると精神的な元気も取り戻せることが解っている。心が折れてメンタルを病んでしまって、不規則な生活になり睡眠障害を起こしてしまった方々が、農家民宿に長期間滞在すると、驚くように不眠が解消されるらしい。また、過食や拒食に悩む若者が、農家民宿で生活すると正常な食欲に戻ることも判明している。イスキアの郷しらかわは、そんな農のある生活を提供している。

何故、殺人と自殺はしてはならないのか

相模原の施設で障害を持たれた方々の殺傷事件が起きた時、世の中の人々は戦慄した。しかも、この犯人はまったく事件を起こしたことを今でも反省することなく、自分の行為を正当化しているのである。重度の知的障害を持たれた方々は、この世に不要な存在だから抹殺してもいいという、とんでもない論理に毒されている。優生思想という間違った考え方に凝り固まっているのが、実に情けない。それにしても、平気で人を殺すという行為をすることが理解できない。この事件が起きた時に、あまりにもセンセーショナルな事件が故に、人が人を殺すという行為に対する分析と洞察がなされなかったのが残念である。何故、人を殺してはいけないのかという観点から分析し報道しているマスコミはなかったように記憶している。

若者も含めて一般の人々に「何故、人を殺してはいけないのか」という質問をして、明確に答えられる人は殆どいないことだろう。勿論、法律違反で犯罪になるからという理由というのは当たり前のことで、法的な意味での問いではない。形而上学や形而下学的に考察して、何故人を殺してはいけないのかを明確に答えてほしいのだが、誰にも解る言葉でその理由を語れる人はごく少数であろう。人を殺してはいけない理由を、単なる精神論で述べたとしても、誰も納得しないだろう。やはり、科学的にその理由を明確に述べてこそ、多くの人々を納得させるに違いない。社会科学的に、人間科学的に、そして最先端の自然科学的に述べてほしいし、それを皆が納得出来てその価値観を持って生きられたら、あんな悲惨な凶悪事件は二度と起きないであろう。

この人間社会全体は、人間というひとりひとりの構成要素で成り立っている。つまり人間である『部分』が寄り集まって人間社会という『全体』が形作られているのである。そして、その人間は一人として同じ人間は存在しない。ひとりひとりの遺伝子DNAは勿論のこと、姿かたちも性格も考え方も違っている。いわゆる多様性を持っているのである。多様性があるからこそ、私たち人間すべての一人ひとりに存在価値があるのである。人間それぞれ違いがあるからこそ、自分と他人の違いを認識できで真実の自分を知ることが出来るし、違った価値観や人格があるからこそ、お互いの出会いの中からその違いを学んで自己成長を遂げることができるのである。自己成長をさせてくれる為に出会う他人を殺してこの世から抹消することは、自分の自己進化や成長を妨げることにもなるのである。

また、人間社会全体の中に、部分である一人ひとりの人間がすべて含まれるのは勿論だが、カール・グスタフ・ユングの説いた心理学においては、そのひとりの人間の中に全体が含まれていると説かれている。さらに、ひとりの人間の中の自己人格の中に、世界すべての人間の自己人格が含まれているとも説明している。そして、この理論は単なる観念論ではなくて、事実であることが様々な検証によって明らかにされつつある。ということは、他人を傷つけたり殺めたりするということは、自分を傷つけ殺すということにもなるのである。つまり、他人を殺すことは自分を殺すことになるので、絶対にしてはならないのである。

このように、自分にとって出会う他人という存在は、自己成長や自己進化を遂げさせてくれる貴重な存在だから、けっして抹消してはならないし、自分自身を否定することにもなるから、出会う他人を殺してはならないのである。仏教においては、このことを自他一如(じたいちにょ)という言葉で言い表している。縁起律(えんぎりつ)=関係性によって存在するこの宇宙全体は、人間だけでなくすべての存在そのものが尊いものなのである。例え草木一本とて、そのひとつでも無くしてしまうということは、自分の存在をも否定することになるのである。驚くことにこの真実が、最先端の宇宙物理学、量子力学、脳科学、細胞学、分子生物学、などによって明らかにされようとしているのである。人を殺してはならないというパラダイムが、自然科学によっても証明されつつあるのである。

 

この大切なパラダイムは、もっと重要なことも示唆している。人を殺すことは自分をも否定し殺すことになるということは、逆に言うと自分を殺すということは他人を殺すということと同じだということである。自分はこの世の中を構成する一員であり、関係性によって存在し全体を構成するのになくてはならない貴重な存在なのである。自分を抹消してしまうと、他の人が幸福で心豊かに生きるのを阻害してしまうばかりか、社会全体の進化や成長をも停滞させてしまうのである。自殺してしまうということは、自分ばかりでなく多くの人々をも不幸してしまうことなのである。人間には、すべて生まれてきた意味があり、それぞれの存在価値がある。だからこそ、他人を傷つけたり殺したりしてはならないし、自分を自分の手で抹殺してはならないのである。

命の大切さと「心のノート」

子どもたちの間で、たいした理由もないのに殺人事件や傷害事件が起きている。怒りや憎しみが高まっての犯行なら理解できる。または自分が攻撃されたから、その対応策として仕方なくということなら納得もする。しかし、最近の子どもたちの凶悪事件の理由を見ると、実に不思議な理由で凶行に及んでいるのである。例えば、ただ単に人を殺してみたかったとか、うざったい存在だったからとかの理由で犯行に及んでいるのである。子どもたちが集団でリンチ殺人を起こしているケースでも、生意気だったとか自分達を無視したからという些細な理由で殺人を起こしている。人の命をどのように考えているのだろうか。命の大切さを知らない訳ではあるまいに、どうしてこんな無残なことをするのであろうか。

 

それにしても不思議なのは、学校では命の大切さの教育をしているのかという点である。そういえば、自らの命を絶ってしまう可哀想な中学生・高校生も毎年かなりの数に上る。こういう事件が起きる度に、学校や教委は命の大切さの教育はしていると主張し、これからも命を大切にする教育を充実したいと述べている。本当にそうなのであろうか。数年前に佐世保市の高校生によるバラバラ殺人事件が起きた際に、同市の教育関係者はインタビューに応えて、10年前に起きた小学生の殺人事件以来、命の大切さを子どもたちに教えてきたと語った。しかし、佐世保市の教育関係者が命の大切さを訴える教育を続けてきた努力が、結果として報われなかったのである。もしかすると、命の大切さの教育に重大な欠陥があったのではないかとも思えるのである。

 

さて学校現場で、命の大切さを教育する際に、どんな教育をしているのかというと、文科省が発行した「心のノート」という道徳教育の副読本が基本になっているのではないかと見られる。この「心のノート」を見れば、どんな教育をしてきたのかが、およそ見当が付くと思われる。この「心のノート」については、いろいろな批判が寄せられてきたのも事実である。日教組は心のノートに批判的であるし、リベラル派と呼ばれる人たちは、その導入に反対してきた歴史がある。確かに部分的には、時の権力者に有利な内容が記載されていると見ることも出来なくない。しかし、それはたいした問題ではない。「心のノート」に記載されている命の大切さを伝える部分は、かなり充実しているし内容的にも素晴らしい。

 

実際に「心のノート」小学生5・6年生版を見てみよう。この心のノートでは、多くのページを割いて、命の大切さについて語っている。代表的なものに『生命を愛おしむ』という記述や『かけがえのないいのち』という記載がある。内容は、本当に素晴らしいと言えよう。マザーテレサの言葉「この世に必要のない命などひとつもないのです」なども引用して、命の大切さを切々と訴えている。この命の大切さを説くだけでなく、友達との関わり合いや社会での支えあい、そして自然からの恵みによって生かされている自分、人間の力を超えたものがある、というような生きるうえで大切なメッセージが、宝石箱のように散りばめられている。こういった内容が子どもたちにきちんと伝わっていれば、悲惨な事件が起きる筈もないのである。

ところが現実に事件は起きているのである。それじゃ、何が足りなかったのか、何が間違っていたのか、ということが問われる。おそらくは、この「心のノート」を正しく、しかも子どもたちの心に響くように伝えられる教師が居なかったのだと思う。この心のノートの真の意味を知り、高い価値観を持って深く認識し、子どもたちに自分の言葉で語りかけられる哲学を持たなかったのであろう。何故なら、先生たちもまた心の教育がなおざりにされてきたからである。自分が正しい心の教育を受けていなければ、子どもたちに対して、間違いのない心の教育が出来る筈もないであろう。文科省が義務教育と高等教育において、価値観の教育をなおざりにしてきた弊害が出たのである。

この「心のノート」は、あの神戸の連続殺傷事件が起きたことを受けて、当時の政治家たちが危機感を持ち、官僚主導ではなくて政治主導で作り上げたものである。文科省の官僚だけでは作りえなかった、貴重な教材なのである。バカな民主党は、この心のノートを仕分けで廃止してしまったが、自民党は復活させた。悲惨で凶悪な少年事件を二度と起こさない為にも、そして自殺しようとする青少年を救う為にも、心のノートの内容を正しく子どもたちに伝えられる教師を育ててほしいものである。もし、それだけの力量を持ちえない教師しか居ないのであれば、外部から積極的に学校に講師を招聘してほしいものだ。命の大切さを一刻も早く子どもたちに伝えないと、このような命をないがしろにする事件が後を絶たないと警告したい。