引きこもりに対する父親の役割

引きこもりの子どもをどう扱ってよいか解らず迷っている両親は、相当に多いに違いない。叱って無理やり外に連れ出すのか、医療機関や専門家に任せるのが良いのか、それとも優しく諭すのがいいのか、そっと見守るしか術がないのか、悩んでいることであろう。勿論、同じ引きこもりの状態にあっても、子どもの性格から成育環境も含めて、みんな違っている。それゆえ、画一的な対応というか、正解だと言えるような対応の仕方なんてないと思っている人も少なくないと思われる。

引きこもりの子どもは、親にしてみれば実に扱いにくいことだろう。何を考えているか解らないし、予想がつかない行動をしがちである。また、気分もその日その時によって変化するし、突然キレたり怒り出したりするものだから、腫れ物に触るような対応をせざるを得ない。とは言いながら、親としてみればどうにかして社会復帰してもらいたい思いが強いことであろう。何故なら、どうみたって自分達のほうが先にお墓に行くことになる。自分たちが居なくなったらと思うと、その後の子どもの生活が不安でならないのは当然である。

引きこもりの子どもは、自分の人生や将来をどのように考えているのであろうか。本人に確認した経験はないものの、おそらくは今のままで良いとは考えていないのは確かであろう。そして、将来の不安も親と同等かそれ以上の不安を持っているに違いない。何とか現状を打破したいと思いながら、どうあがいても身体が動かないのである。社会復帰してほしいという親の願いは、痛いほど認識しているし、親が多大な不安を持っていることも先刻承知している。ところが、親が不安なればなるほど、不思議と子どもの不安も増幅してしまい、お互いにその不安を強化しあってしまうのだと思われる。

引きこもりが起きてしまっているのは、親に原因や責任がある訳ではない。勿論、本人にも責任はない。生きづらい世の中にしてしまっている我々の社会全体に責任があるのだと思っている。学校、地域、企業、職場に安心な居場所がないのである。家庭にも居場所がないけれど、自分の部屋だけがかろうじて認められるべき居場所なのだろう。引きこもりになってしまったのは、今の社会における人々の価値観が劣悪だからである。客観的合理性をとことん追求していて、行き過ぎた競争原理により関係性が破綻し、コミュニティが崩壊してしまっているこの社会には、安心する居場所がないに違いない。

勿論、家庭における父親もまた、そんな価値観に支配されてしまっている。それ故に、家族の関係性が希薄化してしまっている。家族の関係性が悪いのは、父親に正しい哲学や価値観がないからであると考えられる。しかし、そうなってしまったのも父親が誰からも正しい哲学や価値観を教えられていないのだから当然であるし、責められない。明治維新以降の近代教育導入から、正しい思想哲学の教育を排除し、それが戦後にさらに強化されてしまったのだ。親からもそして学校でも価値観教育がなくなってしまったことにより、人々は生きづらさを抱えてしまったのだと確信している。

それじゃ、引きこもりの父親はどうしたらいいのかというと、今からでも遅くはないから正しい価値観を学ぶことを勧めたい。それもこの世の真理に基づく正しくて普遍的な価値観を学ぶべきと考える。この世の中で、「父親学」というものが今必要なのではないか思うのである。イスキアの郷しらかわでは、この「父親学」をレクチャーしたいと考えている。単なる観念論ではなく、最先端の複雑系科学に基づいた真理である、システム思考の哲学という価値観の学びもするし、ノーベル賞を受賞したイリヤ・プリゴジンの提唱した自己組織化の理論学習をサポートしたい。そうすれば、子どもが尊敬して止まない父親の後ろ姿を見せられることであろう。

この関係性が劣悪化してしまった社会、つまり生きづらいこの世の中を変えない限り、引きこもりや不登校はなくならないかというと、けっしてそうではない。学校教育における価値観教育をしっかりするように、教育のイノベーションが必要だと思っている。しかし、この教育のイノベーションをするには、まだまだ世論が成熟していないこともあり、今すぐには難しい。家庭教育において価値観教育を始めるのは、父親が目覚めれば可能である。引きこもりの子どもは、父親に価値観教育に目覚めなさいと教えてくれているのかもしれない。父親が正しい価値観を確立して、引きこもりの子どもに対する価値観教育が出来れば、社会復帰が可能となるに違いない。社会が間違っていても、自分が正しいと確信する価値観を持っていれば、自信がついて社会に踏み出す不安がなくなるからである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「父親学」の講座を実施しています。ご依頼があれば、出張講座も承ります。父親が不在で一人親の場合は、母親学としてのレクチャーもします。

空の巣症候群かもしれない

空の巣症候群と呼ばれる不定愁訴の疾病があるらしい。メンタル疾患というか気分障害のひとつである。子育てを終わった40代後半から50代の母親が陥る、つらい精神状態と身体症状のことを言う。子どもたちが学校を卒業して、社会人として独立して家を出て巣立ちをしてしまうことが原因で起きると言われている。鳥の雛たちが大きく育ち巣立ちして、空になった巣のような状態と似ているので、空の巣症候群と呼ばれる。母親がずっと面倒みて育てた子どもたちが巣立って、母親の心の中にぽっかりと空いた隙間が起こしている症状であろう。

子供に対する、ありあまる愛情を注ぎ育てた親としての役割が終わり、子どもをまるで失ってしまったような虚無感を感じ、孤独感までも心を支配してしまうという。本来であれば、子どもに代わり新たな生きがいを見つけることが必要なのだが、すぐには見つけられないものである。したがって、その寂しさや喪失感によるストレスから、心身の不調を起こしやすい。とくに子育てに熱心な親ほど、喪失感が大きいという。子どもに関わる時間と機会が多いゆえに、母親のほうが空の巣症候群になりやすいと言われている。

両親は通常、子供の自立を肯定し、積極的に勧めるものである。しかし、実際に手放してしまう段階になると、何とも言われぬ心痛を伴うことになる。子供が巣立ち、父親は仕事に打ち込んで不在がちとなり、家庭に取り残され一人になった母親は、生活にも張り合いがなくなり、孤独感に襲われるという。また、子どもの巣立ちの時期と、閉経や更年期の時期とが重なり、ホルモンのバランスが崩れて、体調不良が重症化しやすい。さらに、夫や自分の退職・異動などが重なる事態も起き、さまざまな原因がストレスや症状を増幅させ、総合的な影響を心身にもたらす。

世間的には子供の独立は当たり前であり、健全なことと受けとめられている。子を持つ親なら誰でも経験することであり、それを乗り越えて行くのが当然だという風潮があるため、悲しんだり寂しい気持ちを持ったりすることに罪悪感を持ち、我慢してしまう。その寂しさや苦しさを誰にも訴えられず、心に仕舞い込んでしまうことも重症化させやすい理由であろう。たとえば愛する人との死別のように、悲しみの感情が当たり前という認識がない。そのため、周囲をはじめ、ときには本人さえも気づかないことがある。

空の巣症候群は、身体症状が多岐にわたるため誤診されやすい。症状が進んでいくと、不眠や手の震えなどさまざまな症状が表れる自律神経失調症や、うつ病に発展してしまうケースも少なくない。身体症状としては、腰痛、肩こり、頭痛、吐き気、食欲低下、不眠などが現れる。このようなつらい状態から逃避するために、アルコール依存症に陥ってしまうこともよくあることだ。空の巣症候群は、本人も原因が思い当たらず、病院でも誤診されることがよくある。実際に、うつ病や自律神経失調症によく似た症状といえる。

この空の巣症候群にならない為に、どうしたら良いのであろうか。ならない秘訣のひとつは、子育て以外の生きがいを持つということである。子どもが巣立ちを迎える前から、子育てだけに心血を注ぐのでなく、趣味や地域活動、またはボランティアや市民活動にも生きがいを見つけておくことが肝要であろう。そして、子どもにだけ依存せず、または依存されず、徐々に自立を進めておくという配慮も必要である。さらには、子どもを所有物とせず、支配することなくコントロールするのを避けて、あくまでも子どもの尊厳を認めてあげることも、空の巣症候群にならない秘訣である。

もし、万が一空の巣症候群なったとしたら、一刻も早くその症状から抜け出さなくてはならない。その為に有効な方法は、自分の感じている寂しさ悲しさをけっして我慢しないことである。その苦しさをまるごと受け止めて、否定することなく寄り添い共感してくれる人に話すことだ。それも、何度も何度も同じことを言っても受け容れてくれる相手がいい。出来たら、それは自分に関係のない第三者がよい。しかも、家庭から離れた場所で、しかも自然が豊かな場所で何日か過ごすのもよい。そうすれば、少しずつ悲しみや寂しさが癒され、空の巣症候群から抜け出せるに違いない。

※空の巣症候群の症状に心当たりのある方は、イスキアの郷しらかわをご利用ください。まずは、問い合わせフォームからご相談ください。

    無言の説法

    無言の説法というのは、仏教用語のひとつである。無言の説法というのは、お釈迦様が弟子たちに対し行った説法のひとつとして有名である。ただし、この無言の説法には様々な逸話として伝えられている。ひとつ目は、仏陀が入滅される際に、弟子たちに何も説かず語らずに永遠の旅路に旅立ったと伝えられる。命というものは誰でも限りがあるし無常なのであるから、いつ命が途絶えるかもしれない。だからこそ、死ぬ間際に後悔することのないように、今この時に集中し、全精力を傾けてやるべきことに当たらなければならないということを、無言で説かれていたと言われている。

    二つ目の無言の説法というのは、16人いた仏陀の高弟(16羅漢)のひとり周利槃特についての逸話である。周利槃特という弟子は、物覚えが悪く何をやらせても上手く出来なかったという。そのため仏陀は、お掃除だけをやりなさいと命じた。周利槃特は、それこそ毎日ひたすら掃除を続けたという。誰が見ていなくても一心不乱に、誰よりも丁寧に心を込めて毎日休まず掃除したと言われる。その姿を人々は見て、感動し感心すると共に、このような人物に自分もなりたいものだと憧れたという。この姿を見て、これが無言の説法だと仏陀が説いたと伝えられる。

    三つの無言の説法は、このような逸話である。ある日の釈尊の説法に限って何も言わず、そばにあった一輪の花を取って弟子たちに示した。 弟子たちは意味理解出来ずにいたが、たった一人だけ、摩訶迦葉(まかかしょう) だけは、にっこりとほほ笑んで深くうなずいた。 それを見た釈尊は、静かにこういった。 「 私の説法が摩訶迦葉に伝わりました」と。これが以心伝心というものであり、無言の説法だと説いたとのこと。他にも、無慈悲な行為により悲惨な目に遭うイダイケ夫人に対する慈悲を、釈尊が無言で説いたという逸話もある。

    このように無言の説法についてのお釈迦様の逸話がいくつもあるが、京都の嵐山にある宝厳院というお寺に『無言の説法』を現した名庭園があるという。嵐山の景観を背景に取り入れた借景回遊式庭園がそれである。それは獅子吼(ししく)の庭と呼ばれ、そこでは無言の説法を感じると言われる。庭園内を散策して、鳥の声、風の通り過ぎる音、樹々の擦れ合う音を聴く事によって、人生の心理、正道を肌で感じるという。自然こそ、人間に何か大切なものを気付かせ学ばせるものである。自然というものは、存在そのものが心を癒し成長させくれるのである。

    無言の説法というのは、このように実に興味深い教えの数々がある。この無言の説法を実体験できたのが、まさしく『森のイスキア』と佐藤初女さんだったように思うのである。心が折れてしまい、生きる気力さえ失ってしまった方が、イスキアの豊かな自然の中で無言の説法を感じて癒されたのであろう。樹々の中を通り抜ける風の音を聞き、鳥の声を聴いて、心が元気を取り戻したことであろう。自分からは何も言わずにただ話を聞いていた佐藤初女さんは、まさに無言の説法をしていたように思う。訪ねられた方々の為に、一心不乱にけっして手抜きせず料理をただひたすら作り続ける佐藤初女さんは、その後ろ姿で無言の説法をしていたに違いない。

    この森のイスキアと佐藤初女さんのように、『イスキアの郷しらかわ』でも無言の説法を見習いたいと思っている。無言の説法はカウンセリングの基本であろう。佐藤初女さんのように、助言や教訓など何も言わずとも、ただ寄り添い傾聴し共感することこそ、無言の説法であろう。田園風景が広がり、近隣にはハイキングやトレッキングするのに好適な場所がいくつもある。豊かな自然があるイスキアの郷しらかわは、獅子吼の庭のような効果が得られる。そして、農家民宿のオーナー吉田さんは、自然農法で作られた米と野菜で心の籠った料理を作ってもてなす。訪ねてきた方々が、無言の説法で必ず癒されることを約束したい。

     

    不倫報道の深層心理分析

    不倫報道は止まるところを知らない。連日に渡り芸能人や政治家・スポーツ選手など有名人の不倫報道が、マスメディアを賑わしている。特に、週刊文春と週間新潮はスクープ合戦を繰り広げており、それに乗じてTV各局のワイドショーがこれを取り上げている。今年は特に多いらしくて、計35~36回の不倫報道があったらしい。これらの不倫報道に対して、ワイドショーの出演者たちが、おしなべて批判的なコメントをする。少しでも擁護でもしようものなら、視聴者からの容赦ないバッシングが届くのだから、我が身を守るには批判的にならざるを得ない。

    それにしても、日本という国は平穏だというか、平和ボケした国民だと思われる。報道すべき大切なことが他に沢山あるだろうに、不倫報道にかかる時間は必要以上に多い。昔からゴシップ記事を載せた婦人週刊誌は売れていたし、不倫報道を扱うワイドショーは視聴率が高い。それだけ一般市民が知りたがっている情報だということで、週刊文春や週刊新潮という比較的お堅い週刊誌までが、不倫を扱うようになってしまった。芸能誌や写真週刊誌が扱うならまだしも、正統派の週刊誌までも不倫報道をするなんて、実に情けないことである。

    週刊文春や週刊新潮に、難関を突破して入社したエリート記者たちは、こんな下卑た記事を書いたり編集したりするとは夢にも思わなかったであろう。勿論、こんな不倫報道の記事は正社員が書くのではなく、外部の委託社員が持ち込む記事であろうが、こういう記事を買い取ったり編集したりすることを、正社員たちはどのように感じているのか興味がある。もしかすると、報道記者としての矜持さえなくしてしまっているとしか思えないのである。営利企業だとはいえ、こんな下劣な不倫報道を何度もスクープして喜んでいるというのは、彼らに報道哲学が存在しないという証左ではないだろうか。

    テレビ局の記者たちも同様である。こんな不倫報道のスクープ合戦に、嫌気がささないのであろうか。報道記者としてのプライドがないのに等しい。政治や経済関連の報道は、国民に正しい情報を伝えるという報道記者の使命を全うするので、報道のしがいもあろう。不倫報道をして、社会的にどんな意味があるのだろうか。無理やりこじつければ、不倫という行為が愚かなことであり、自分の身を亡ぼしてしまう行為だから、絶対にしてはいけないことを教示しているとも言える。しかし、一般人の不倫がばれることは殆どないのだから、不倫報道によって自分が不倫を止めるということは考えにくい。

    さて、このような不倫報道をする週刊誌やTV局の記者たちの心理を分析してみよう。彼らの深層心理においては、著名人の不倫報道にこれだけこだわるというのは、成功している者や富裕者に対する妬みや嫉みがあるからではなかろうか。勿論、このような不倫報道とその不幸な結果を知りたいと求める一般市民がいるからであり、このような市民もまた深層意識において、幸福な人に対するジェラシーがあるように感じる。幸福な人間を自分と同じ不幸な境遇に引きずり下ろしたい深層意識があるように思えて仕方ない。

    古来より他人の不幸は蜜の味と言われてきたが、自分が幸福だと実感している人はそんなことを求めない。真の幸福とは、物質的金銭的な豊かさではなくて、家族や周りの人から敬愛されて、必要な人として求められることであろう。それが満たされていなくて、愛されていない人が、不倫報道とその悲惨な結果を求めるし、不倫は許されないと憤るのではないかと思う。もしかすると、深層意識で不倫願望があって、それが叶えられないことの裏返しではなかろうか。実に卑劣で、情けないことである。

    不倫と言うのは、本来は秘め事である。その秘め事は、絶対に他人には知られてはならないことであるし、その秘め事により周りの人々を不幸にしないという暗黙のルールがあった筈である。とすれば、その秘め事をあたかもスパイのような行為で明らかにして、それを記事にしたり報道したりするのは、ルール違反だと言えないだろうか。勿論、不倫はしてはならないことである。だとしても、その不倫行為は本人が罪悪感を持ちながら、または自己責任を取る覚悟で実行する行為であり、他人がとやかく言うべきものではない。不倫報道により、たくさんの人々の不幸を招いたり不信感を植え付けたりするのは、報道に携わる人間としてやってはならないことであろう。報道哲学と社会正義を発揮し、森友・加計問題や検査偽装事件が何故起きたのか、再発防止に向けた課題を真剣に掘り下げるなどの報道を強く望むものである。

     

    子どもの愛し方が解らない

    子どもの愛し方が解らないという親が増えているという。勿論、子どもを愛していないのではないのだが、愛情の掛け方が解らないのである。そして、好きで好きで堪らないという感覚はなくて、嫌いではないという程度の感じだというのである。とても微妙な感覚なのであるが、子どもをどう扱っていいのかも解らないし、子どもに対してどのような態度をとっていいのかが判然としないらしい。どのような言葉をかけるのが好ましいのか、まったく解らないのだろう。親子の関係性は、残念ながら非常に希薄なものとなると思われる。

    何故、子どもの愛し方が解らないかというと、あくまでも想像でしかないが、乳幼児期に自分自身が親から充分に愛されたという経験がないからではないだろうか。人間という生きものは、様々な経験から学ぶものである。見本となる人の模倣を通じて、自己成長を遂げていく生物である。とすれば、乳幼児期に愛される体験が不足してしまうと、我が子をも愛せないという事態に陥るのである。こういう親が、現代に意外と多いのである。だから、親子の関係性が希薄になり、養育上の諸問題が起きやすいと言われている。

    それじゃ、何故自分が親から愛情を注がれなかったというと、実はその親もまた自分の親から愛されたという経験が欠如していることに原因がある。つまり、我が子を愛せないのは、先祖からのずっと続いている負の連鎖なのである。我が子を心から愛することが出来ないという症状が、先祖からずっと続いているという悲惨な事実が判明するに至り、これ以上ないという不幸に突き当たってしまうのである。勿論、愛したくなくて子どもを愛さないのではなくて、愛したくても愛する方法が解らないのであろう。

    どんな子どもであっても、親が大好きである。表面的には憎しみを持つ場合もあろうが、それは愛があるからこその感情であり、嫌いな感情があったとしてもそれは本心ではない。子どもは親から心から愛されたいと思うのである。しかも、兄妹が他にいたとしても、自分が他の誰よりも愛されたいと思うのが子どもの心理でもある。ところが、親が子どもを愛する術を知らないと、その本心が子どもに伝わらないという不幸が起きてしまう。愛に飢えた子どもが育ってしまうのである。そうすると、親からの愛を過剰に求めてしまうので、不登校、引きこもり、DVなどの問題行動に発展しやすいのである。

    この子どもの愛し方が解らないという不幸な歴史は、何時から始まったのかと言うと、少なくても江戸時代の親子の情愛はあったのだから、明治維新以降ではないかと見られる。あまり知られていないことだが、江戸時代の父親はイクメンであったのである。当時の職人たちは、朝の早い時刻から仕事をした。4時か5時には仕事を開始して、お昼過ぎくらいには仕事を終えて自宅に帰るという日課であった。残業なんて滅多にせずに家に真っすぐ帰り、幼い子どもと一緒に銭湯に行ったらしい。そして、帰宅したら家事育児を自ら進んでやったという。だから、子どもは父親が大好きであったし、父親も豊かな愛情を子ども注いだのだろう。

    子どもというのは、何かを買ってもらったり何かをしてもらったりすることで、親の愛情を実感することはない。一緒に遊んでもらったり本を読んでもらったりの行動を共にして、その行動を親が心から楽しんで笑顔が溢れていると分かった時に、子どもは自分が愛されていると実感するものである。行動を一緒にする関わりあいや支え合いを通して、子どもと親が幸福感に包まれた時に、愛を実感するのだ。まずは、一緒の行動をしなくてはならないし、しかも子どもを支配したり制御したりせずに、ただ見守って寄り添うだけで良い。これが子どもを愛するということである。

    江戸時代には豊かな愛情を注げた父親たちが、明治維新以降の近代化により、家族に関わる時間や機会がなくなった。したがって親の愛情をたっぷりと子どもに注げないばかりか、父である夫が妻を心から愛することも叶わなくなった。愛は連鎖して循環するものである。夫からの妻への愛が不足して、我が子への愛も注げなくなるのである。明治維新後の富国強兵策によって、働き方が変わってしまうことで家族との関わりあいが減少して、家族の関係性が希薄化してしまったのが、子どもの愛し方が解らなくなった元凶であろう。日本人は働き過ぎだろうと思う。家族や地域との関わりあいの時間が、たっぷりと持てる働き方を推進すべきである。子ども愛し方が解らないという親が、これ以上増えないためにも。

     

    ※イスキアの郷しらかわでは、父親学や母親学を学ぶ講座をしています。子どもへの愛情のかけ方、接し方、親子の情愛を深める方法などを学びます。原則として、講義料はいただきません。昼食代や宿泊料だけを頂戴するだけです。基本的にボランティアでやらせてもらいます。なお、出張講座もいたします。ご用命ください。

    夫婦喧嘩は子どもの脳を破壊する

    夫婦喧嘩は犬も喰わないと言われていて、何となく微笑ましい光景に映るような印象を与えるが、実は子どもの脳に深刻なダメージを与えるという調査結果が出たという。昨夜のNHKクローズアップ現代で放映されていた内容は、実にショッキングだった。夫婦喧嘩を日常的に行っているのを目撃している子どもの心が、とても傷ついているというのだ。しかも、子どもの心のダメージは脳の器質障害までに及んでいて、記憶障害を起こすだけでなく、性格まで変えるという。たかが夫婦喧嘩ではなく、実に由々しき大問題なのである。

    夫婦喧嘩というと、いろんなケースがあるだろう。江戸時代におけるドラマなどを見ていると、昔の夫婦喧嘩というのは、微笑ましいようなじゃれ合いというような性格だったように思える。あくまでも虚構の世界なので、実際はどうだったかは判然としないが、おそらくは『犬も喰わない』ような、お互いの信頼関係がある中での触れ合いではなかったかと思われる。ところが、現代の夫婦喧嘩は実に深刻だというのである。お互いをどうやってやり込めるのか、どうすれば自分が優位に立てるか、どのように相手をギャフントさせようか、というパワーゲームに陥っているのである。

    日常的に夫婦喧嘩を目撃している子どもの心理状態を調査した結果によると、意外な結果が現れた。暴力を伴う夫婦喧嘩による影響はさほどないが、暴言による影響が非常に大きいという。しかも、夫婦喧嘩においてよく使われる方法が危ないというのだ。大きな声で罵り合うのも勿論駄目であるが、皮肉たっぷりの言葉、無視する態度、不機嫌な態度、無言の圧力、このような言動も影響が大きいと言われている。こういう両親の行動が、子どもの心を傷つけているらしい。毎日毎日このような暗くて陰湿な夫婦喧嘩がある環境に置かれた子どもの心と脳はズタズタにされているのである。

    このような環境に長くさらされた子どもの脳は、実に深刻なダメージを受けてしまう。なんと子どもの海馬が委縮したり前頭前野が破壊されたりするというのである。そうすると、記憶障害や学習障害が起こり、学校の成績が急降下してしまうだけでなく、学習意欲もなくなり不登校になるケースもあるらしい。さらに深刻な悪影響もある。夫婦喧嘩のある環境に長く置かれると、子どもは強い暴力性を持つというのである。親と同じように暴言を吐くし、キレやすく、他者に対する反抗的な態度をしてしまうらしい。つまり、学校内でも問題行動を起こすというのだ。

    これは大変な事態を起こすという意味である。子どもが家庭内暴力を始める要因のひとつが夫婦喧嘩にあるということだ。さらには、学校内においていじめという行為をしやすい子どもになってしまう危険性を持つという意味でもある。キレやすい子どもの要因のひとつが親の夫婦喧嘩にあるというのは、ショックなことである。DVやいじめが、親の夫婦喧嘩にも原因があるとしたら、重大事である。心当たりがあると思う親も多いに違いない。

    陰湿で汚い心理戦のような夫婦喧嘩は、子ども脳をどのように変えてしまうのであろうか。これらの子どもの脳をCTスキャンで確認した訳ではないが、おそらく脳の器質変化があると見られている。陰湿な夫婦喧嘩の環境にさらされると、子どもの脳の偏桃体は肥大すると言われている。そうすると、偏桃体からコルチゾールというステロイドホルモンを大量に放出するようにと腎臓の副腎に指示する。このコルチゾールは海馬に届き、海馬を委縮させる。さらに前頭前野にまで影響し、記憶障害や学習障害を起こし、キレやすい子どもにしてしまうと言われている。

    夫婦喧嘩は子どもにとって、絶対にしてはならないものである。夫婦喧嘩をしなければならないような夫婦の関係性に陥ってしまい、関係性の修復が絶対に不可能であるなら、別居や離婚をしたほうが子どもの健康にとっては好ましいと思われる。とは言いながら、経済的な問題があるから難しいのであるなら、夫婦が徹底的に対話をして関係性を改善すべきであろう。偏桃体が肥大化して、海馬や前頭前野が委縮した脳であっても、生活環境が改善すると、脳もまた元通りになるのが確認されている。とすれば、一刻も早く夫婦の仲直りをして、睦まじい夫婦になる努力をすべきであろう。

     

    ※夫婦喧嘩をしてしまうような環境に置かれている子どもさん、または夫婦仲が悪くていつも言い合いをしてしまうご両親の方々、どのようにすれば夫婦の関係性改善が出来るのかを、イスキアの郷しらかわはサポートします。まずは問い合わせフォームからご相談ください。相談は、メールでも対面であっても無料です。

    女が男を捨てる『男捨離』

    三行半(みくだりはん)は、今や男性からではなくて女性から突きつける時代らしい。そもそも三行半とは、江戸時代に女性が再婚する為に必要だった離婚証明書という性格を持ち、男性が別れる妻に書くものであったらしい。だから離婚をするという宣言書ではないから、女性から三行半を書くことはあり得ない。とは言いながら、ここ数年では離婚を切り出すのは、圧倒的に女性が多いということだ。現在は男性から離婚を言い出すのは僅か3割弱で、女性から離婚を申し立てるケースは実に7割近くの高率に上るという。つまり、離婚の3分の2は女性から言い出すということだ。

    NHKTVの情報番組では、これらの事実を受けて特集を組んでいた。ショッキングな題名が付いていて、男を捨てるという意味で『男捨離』という言葉が最近とみに使われているという。自ら申し出た離婚を経てシングルマザーの生活をしている数人の女性がインタビューに応えていたが、おしなべて離婚して良かったという感想を述べている。ある女性は共働き家庭においての家事育児の負担があまりにも妻だけに偏り過ぎていて、我慢できなかったと主張していた。専業主婦の一人は、専業主婦なのだから家事・育児を妻がするのは当然であり、養われているのだから家事は妻の役割だという態度が許せなかったという。

    一方、突然離婚を言い出された男性は、まったく離婚の原因に心当たりがないという。ギャンブルや不倫をしている訳でもないし、真面目に働いて浪費することもないから、どうして離婚を言い出されたか理解できないという。離婚する理由を確認すると、やはり妻側として家事・育児の負担が自分に偏り過ぎていることと、自分の話を聞いてくれないことが我慢できないと主張するらしい。特に、否定せずに黙って聞くという傾聴の態度がないし、妻の話に共感してくれないのが不満だという。妻は、別に助言や解決策を求めている訳ではなく、ただ黙って頷くか相槌を打ってくれるだけでいいというのだ。

    男性と女性の感性はまったく違うということが、夫はまったく理解していないらしい。特に高学歴で教養が高い男性ほど、傾聴と共感が出来ないという。さらに驚きなのは、高学歴で高収入の男性が結婚して子どもが生まれた途端に、離婚を言い出される例があるという。まるで、種馬として利用されたのではないかとしか思えないと、愚痴る男性もいる。高収入な故に、高額の養育費を要求されるのだ。まさか、種馬として利用する為に結婚までするなんて考えられないが、結構このようなケースが増えているという。

    このように、実に様々な離婚のケースがあり、妻のほうから離婚を申し出る場合が急増しているのは間違いなさそうだ。男性にとってはあまりにも衝撃的な言葉、『男捨離』が、これからも増え続けそうである。ただでさえ結婚できない男性が多いこの社会で、折角苦労して伴侶になるべき人と巡り合い結婚できたのに、簡単に男捨離されてしまうなんて、由々しき大問題である。それも離婚を言い出されるのは、30代が一番多いらしい。離婚した妻の方も、幼い子どもを抱えたシングルマザーのケースが多いということだ。離婚出来たとしても、経済的な課題を抱えることになりそうである。

    男性のほうが離婚の原因だとすれば、離婚されないようにするにはどうすれば良いのだろうか。女性の心を、深く理解するしかないであろう。女性は、デリケートな心情を持つ。感性も豊かである。一方男性は鈍感なところがある。特に、相手の気持ちに共感し、その気持ちになり切って、相手を心から思いやることが苦手である。慈愛とか慈悲という心を発揮できないから、子育てや家事を自ら分担する気持ちが起きないのであろう。慈悲というのは、相手の悲しみを我がことのように悲しむという意味である。この慈悲の心を持つことが肝要だということであろう。

    高学歴で教養が高い男性が離婚を切り出されやすいというのは、近代教育の悪い影響だと思われる。客観的合理性の教育を受けているが故に、人の悲しみや苦しみに共感しにくくなってしまうのであろう。相手の悲しみに対して客観的なり過ぎて、自分の悲しみとしてとらえることが出来ないのではないかと思われる。家事育児で苦労している妻に、感謝と慰労の言葉をかけてあげられる夫になりたいし、出来得る限り家事育児の分担を自ら進んで果たせる夫になりたいものである。慈しみの心を惜しげもなく発揮できる、大人の男性になるということである。そうすれば、男捨離なんて言葉は死語になってしまうと確信している。

    不登校の責任は親にはない

    不登校と引きこもりの原因は何かというと、育てた親にあると思っている人が多い。何故かというと、学校、教師、学友に原因あるとすれば、他の子どもたちも皆不登校になるのにそうなっていないからである。とすれば、不登校になるのは特定の子どもであり、それは親の子育てに何か問題があったに違いないと類推するのであろう。ほとんどの教師と学校関係者はそう思っているし、スクールカウンセラーが親のカウンセリングをするのも、そう確信しているからだと思われる。そして、親たちも自分たちに不登校の責任があるのではないかと思い、自分を責めるのである。

    学友によるいじめ、学業不振、部活における不振や挫折、教師による誤った指導、発達障害、メンタルの障害等が不登校になった直接原因だと思いがちである。そして、不登校になってしまった本人の心に問題があるし、そのように育ててしまった親に根本的な原因があるとみている学校関係者が多い。スクールカウンセラーだけでなく、民間のカウンセラーや専門の児童精神科医も、親に対するカウンセリングを重視して実施しているのも、同じ理由からであろう。他の子どもたちの親や社会一般も、不登校になった責任は親にあると思っているみたいである。

    果たして、本当に不登校の責任の大半は親にあるのだろうか。この世において、一番難しいのが子育てである。子育ての教科書やマニュアルがあったとしても、個別の問題に関してはまったく役に立たない。ましてや、日々刻々と様々な問題・課題が子育ての最中に置き続ける。子どもだって画一的でないし、いろんな子どもがいる。兄弟であってもまったく違う性格にもなる。環境も違うし、社会的背景もその時代で違っている。核家族の社会であるから祖父母と同居していないから、子育ての経験者が傍に居ない。子育ての指導者もない状況で、手探りの子育てをせざるを得ないのである。

    子育てをしている親たちにインタビューをすると、子育てに悩んでいる人が殆どである。子育ての悩みや問題に対して誰も適切な解決策を示してくれない。自分達で考えて対応するしかない。当然、失敗を繰り返しながら学んでいくしかないのである。それなのに、子育ての失敗は親にあるなどと軽々しく言うのは、実に残酷だと言わざるを得ない。無難に子育てできたのは、たまたま好運だったに過ぎないと思うべきだろう。だから、不登校になった責任を親に押し付けるべきではないのである。

    家庭における子育てにおいては、兼業主婦であっても、子育ての大半を母親が担っている。ましてや専業主婦の家庭であれば、母親が子育ての役割をすべて果すケースが多いだろう。だからこそ、母親に対する責任を問う声が大きくなるという悲惨なことが起きてしまうのである。父親は仕事が忙しいからと家庭の役割を果していなくて、何か問題が起きると妻を責めるというケースが多くなる。それでは、父親が悪いのかと言うとそうではない。不登校の根本的な責任は、両親にはないと断言してもよい。

    それでは不登校になってしまうのは何故かというと、教育の制度やシステムそのものに問題があるからだ。さらには、社会全般における人々の価値観の間違いが教育の諸問題を起こしていると言えよう。江戸時代まで延々と続いてきた、システム思考の哲学を基本とした教育制度を明治維新政府が完全否定をしてしまったのだ。欧米から仕入れた近代教育を導入したのである。この近代教育は、客観的合理性の教育であり、しかも要素還元主義の教育である。この教育は、全体最適を目指すことを忘れ、あくまでも個別最適を優先する教育であり、行き過ぎた競争主義を生んでしまった。自分さえ良ければよいという個人主義に走らせたのである。さらに、関係性をないがしろにして、お互いに支え合うという大切な価値観を人々から忘却させたのである。だから、コミュニティが崩壊したのである。

    お互いが支え合うという関係性豊かな共同体をなくして、家庭、学校、地域、国家というコミュニティを崩壊させしまったのである。自分さえ安全で豊かであれば他はどうなっても良いという学校の劣悪な環境にいたたまれず、不登校という選択肢を選ぶしかなかったのが、心優しく思いやりのある児童生徒なのである。家庭でも近代教育の間違った価値観を強いてしまう親もまた、その両親、祖父母から個別最適、関係性を無視する教えを受けたのであるから、間違った価値観を持つに至ったのである。だから、学校でも家庭でも自分中心の価値観がはびこる環境に耐えられないのである。ひきこもりもこうして起きているのである。最後にもう一度言うが、不登校の原因は親にはないのである。

     

    ※イスキアの郷しらかわでは、不登校とひきこもりの保護者に対する個別研修を実施しています。何故不登校・ひきこもりが起きるのか、本当の原因について認識してもらい、正しい価値観であるシステム思考の哲学を学ぶことで、子どもに自信と勇気を持って応対ができるようになります。まずは、子育てに対する悩み相談をしてみてください。

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    よいお母さんをやめる日

    不登校や引きこもり、またはDVなどの問題行動を起こすお子さんを持つお母さんは、極めて真面目で素晴らしいお母さんが多い。つまり、日本の典型的な『よいおかあさん』なのだ。こんなにもお子さん思いで、誰もが認める良いお母さんなのに、どうしてお子さんが不登校になるんだと不思議に思う関係者が多い。例外もあるが、おしなべて良いお母さんで、しかも教養が高くて見識も高い。お母さんの学歴が高いケースが多い。そして、子どもの教育に懸命であり、息抜きや手抜きが出来ないし、いい加減な処がないのである。

    さらに、不登校や引きこもり、またはDVなどの問題行動を起こしていることに対しての捉え方、考え方がまた良いお母さんなのである。たいていのお母さんは、こういう状況になってしまったのは自分のせいだと思い、自分を責めるのである。誰かの責任にしたり、子どもが悪いなどとは露ほど思ったりせず、自分の責任だと自らを責めるのである。さらに、父親はというと、やはりこうなったのはお前の子育てが悪かったのだと妻を責めるケースが多いのである。言葉に出して言わなくても、不機嫌な態度や表情をして妻を暗に責めることが多い。こうして、やはり自分が悪いんだと母親は落ち込むことになる。

    よいお母さんは、子どもが不登校や引きこもりになってしまった原因をあれこれと考える。自分が甘やかしすぎたせいであろうか、過保護し過ぎたのが悪かったのだろうか、そんなことを考えるケースが多いという。夫からも同じことを言われることが多いし、真面目なものだから、自分を責めるのである。しかし、甘やかし過ぎて不登校になることはけっしてないし、過保護が原因で引きこもりになるケースは殆どない。不登校になるのは、親子、夫婦、家族の関係性が希薄化、もしくは低劣化しているからである。

    結論的に言えば、不登校、引きこもりになる原因は、お母さんにはないと言ってもよい。世間では、不登校はお母さんが甘やかし過ぎたせいどこうなったとか、過保護が原因だと思っている。お母さんも、それが原因だと思い込んでいて、悔やむ。しかし、過保護が原因で不登校になるケースは殆どない。過保護というと悪というイメージがあるが、幼少期には必要なことである。子どもというのは、無防備で危険な事も解らないし、ちょっと目を離すととんでもないことをやらかしてしまう。だから、母親は常に子どもを守らなければならない。沢山の愛情をかけ続けなければならない。

    ただし、よく勘違いされるのは過保護と過干渉を同じものと捉えていることである。これは、まったく違う概念である。過干渉というのは、子どもの言動に対して何でもかんでも干渉したり、先回りしてすべて子どもの言動を先取りしたりすることである。根底には、無意識で子どもを自分の所有物と勘違いして、支配し制御を繰り返してしまう心が存在しているのかもしれない。そうなってしまう原因は、父親が子育てに非協力というか、子育てに必要で大事な父性愛を発揮できていないからであろう。したがって、母親が母性愛だけでなく父性愛まで発揮せざるを得なくなり、過干渉になっているのではないかだろうか。

    過干渉にならないようにする為には、父親に本来の役割を果してもらうことである。そのうえで、母親は子どもが自分で判断し行動するのをそっと見守り続けるだけでよいのではないだろうか。さらに、母親があまりにもよいお母さんを演じるのを、少し控えてみてはどうかと思う。子どもと母親というのは、非常に強い関わりと絆が存在する。無意識で深く繋がっている。母親が不安になったり元気がなくなったりすると、子どもにもその気持ちが伝わり同じような状態になりやすい。母親が怒りや憎しみを持ち、それを我慢していると、不思議と子どもがそれをまったく同じように感じて、不機嫌になってしまうのである。だから、母親は平穏で安らかな気持になったほうが良いのである。

    母親は、今まで良いお母さんとしてずっと頑張ってきたのだから、少し息抜きをしてもいい。子どもと夫とも一時的にでも完全に離れて、休暇を取ってもいいだろう。あまりにもよいお母さんを続けてきたものだから、心が一杯一杯になってしまい、かえって不安になったり恐怖感を持ったりしまったのではないかと思われる。その不安が子どもにも伝播したのかもしれない。たまには、よいお母さんを止めて、子どもの人生は子どもにすべてを任せてもいいんじゃないかと思う。よいお母さんを一切やめてもいいし、ちょっといい加減なお母さんでもいい。子どもが自分でしっかりしなくちゃと思うようなお母さんでもいいではないかと思う。思い切ってよいお母さんをやめてみたらどうだろうか。

     

    ※子育てに疲れ切ったお母さん、家族との関係で悩み目いっぱいになってしまったお母さん、子育ての悩みでどうしようもなくなったお母さん、一時的に家庭のすべての問題から離れて自分を見つめ直してみてはどうでしょうか。イスキアの郷しらかわでは、そんなお母さんに1泊してもらい、マインドフルネスを実践してもらったり、悩み苦しみをまるごと受け止めてもらったりして、元気さを取り戻し、不安から解放されるサポートをしています。まずは下記からご相談ください。

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    暴力による指導をなくせ!

    元横綱日馬富士の傷害事件が世間を賑わせている。生意気な態度を改める為に指導の一環として、やむを得ずしてしまったと弁解しているようだが、それは完全な間違いである。また、その暴行事件の場に居て止めなかった他の横綱たちにも責任があるのは明らかである。そもそも、人を教育指導する際には、どんな理由があったとしても暴力はいけない。あるミュージャンが、指導している中学生に暴力を奮った事件もあったが、やはりどれだけ止むを得ない事情があったとしても、暴力で人を指導するのは間違いである。

    中高生を暴言や暴力によって指導教育したという事件が後を絶たない。悲惨な指導死も起きている。これだけ騒がれていても、相変わらず中学校や高校の部活においては、体罰による指導が横行している。それも名門と呼ばれるような中高校で、体罰的な指導が行われているケースが少なくない。体罰というのは、完全なる暴力である。どんな事情があったとしても、言葉の暴力や身体的な暴力はしてはならない。理由を問わず、これは法律違反の行為なのである。人を指導する立場にある教師が法律違反行為を生徒たちの目の前で実行するのは、異常な行為であるということを先ず持って認識するべきである。

    さらに言えるのは、暴力で指導された生徒たちは目立った成長はしないということである。暴力で支配されコントロールされた人間は、指示されたことは出来るが、自分で創意工夫したり自発的に動いたりすることが出来なくなるのである。だから、ここぞという時に力が発揮できない。人は、暴力によって身体は支配されても『心』は支配されることを拒む。従っているように見せて、暴力で指導する人間を嫌い尊敬せず、しかも内心では軽蔑している。だから、大切な試合でしかもいざという刹那にミスをしてしまうし、身体が無意識で動かなくなってしまうのである。

    人間は本来、全き自由に生きるものである。誰からも支配されず制御されず、自らの意思で行動する。それも自発的に、自主的に主体性を持って生きるのだ。それこそ、これが人間の自己組織性という、人間に賦与された機能なのである。それを暴力が伴う指導によって、人間から自主性や主体性を失わせるという行為は、創造主である神を冒涜しているようなものと言えよう。人を指導したり教育したりする際に、恐怖によって従属させるのは百害あって一利なしなのである。人間の主体性や自発性を伸ばす指導をすべきであり、暴力による指導は逆効果だと言えよう。

    それじゃ、暴言や暴力を使わないで人を指導教育するにはどうしたらいいかというと、カウンセリングマインドを発揮する方法が有効あろう。最近は、コーチングと呼んでいる専門家もいる。つまり、指導される側の気持ちをまず理解することである。それも、表層の意識ではなく、深層の意識を理解しなくてはならない。その為には、指導される側の心に寄り添い、その人間の気持ちになり切ることが必要である。さらには、深層無意識のレベルでつながることも必要であろう。つまり、集合無意識でお互いの意識が統合されることが大切である。端的に言えば、傾聴と共感による無意識の統合ということであろう。

    しかも、大切なのはお互いの絶対的な信頼関係がなければならないということであるし、関係性があって初めて指導が成り立ち効果を上げられる。そのうえで、指導者が適切な質問をすることで指導される人が自分の間違いに気付いて、自ら変化し進化しようと思うのである。それは、単なる教育ではなくて、共育ちという関係になるのである。教育ではなくて、まさに共育と言うべきであろう。暴力や暴言によって身に付いた技術・能力なんて、薄っぺらですぐに剥がれ落ちてしまうものでしかない。暴力による指導は絶対にしてはならないのである。この世の中から、暴力と暴言による指導が一掃されることを強く望んでいる。