生活保護や貧困は自己責任か?

生活保護費の見直しがされて、減額されることになったというニュースが流れている。厚労省の発表によると、低所得世帯の消費実態と合わせるために、最大で5%程度の減額を18年10月から実施することにしたという。都市部に住む生活保護世帯の減額が一番大きく、逆に町村部の生活保護世帯は増額になったケースもあるという。いずれにしても、生活保護世帯に対する行政の対応は、厳しいものとなりつつある。その根底にあるのは、世間の人々からの生活保護世帯に対する批判の存在があるからと思われる。生活保護費を受給していない貧困家庭に対しても、同じように自己責任だと批判する人は少なくない。

年金受給生活をしている老齢者は生活保護の申請をしないで、何とか工夫しながら我慢して生活している。それなのに、生活保護費を受給している人は、努力もしないで国民年金よりも高い受給額を得ているというのはおかしいという批判にさらされている。生活保護費を受給することに対して、田舎では世間体があるし恥ずかしいからと、勧められても断るケースが多い。勿論、生活保護費を受給すると原則として財産や車を持てないし、すべての財産を処分して使い果たしてからでないと保護費を受給できないから、申請を嫌がる人が多い。それにしても、生活保護世帯に対する世間の風当たりは強い。

生活保護費を受給している家庭は、原則として医療費も無料であるし、保護費に対する所得税もないし、住民税なども非課税である。つまり、保護費はまるごと衣食住の生活費に充てることが出来る。一方、年金生活者は、年金受給額から国民健康保険料や住民税を支払うし、医療費の個人負担がある。単純に比較すると、年金生活者のほうが衣食住に対する支出は少ないケースが多いと見られている。こういう事情もあることから、生活保護家庭に対する批判が多いのではないだろうか。厚労省はこうした批判を意識して、保護費の減額を決めたのではないかと見られる。

生活保護受給世帯は、働いて収入を得ることが出来ないか、もしくは収入が支出に追い付かないから国が保護費で補填している。日本国憲法における基本的人権の生存権が、生活保護の法的根拠とされている。その趣旨から言うと、年金受給者の生活レベルが生活保護世帯よりも低いとすれば、問題なのは生活保護費が高いことではなくて、年金生活者が最低レベルの生活が出来ていないことに根源的な問題があるというべきであろう。いずれにしても、生活保護家庭や貧困家庭になるのは、病気や不遇な境遇も含めて、自己責任なのではないかと冷たく突き放す人々が少なくない。

これは保守系の国会議員たちも、同じ意見を持っていることが、普段からの発言内容から類推できる。時々、自己責任発言がぽろっと漏れ聞くことができる。確かに、生活保護を受けている人の中には、こんなにも元気で溌溂としているのに、病気のせいで働けないというようにはとても見えない人がいる。ましてや、生活保護費をギャンブルに浪費している人も少なくない。病気になっているのも、普段の生活習慣に原因があるのだから、自己責任だろうという人や、アリとキリギリスの逸話を上げて、若い頃に貯蓄をしないで浪費生活をしておきながら、いまさらなんだという批判をする人が多い。

おそらく、生活保護や貧困の家庭に対する批判的意見を持つ人は、想像以上に多いのかもしれない。問題なのは、生活保護や貧困の家庭に生まれた子どもたちは、やがて大人になっても同じような生活をする確率が非常に高くなるということである。つまり、貧困の世代間連鎖である。これも公的教育に原因があるのではなく、家庭教育に原因があるんだと言う人が少なくない。家庭においての教育で、しっかりとした健康意識と勤労意欲を持つための子育てをしていないから世代間連鎖が起きるという意味で、自己責任を問う人も多い。

確かに、自己責任論があるのは承知しているし、完全な間違いではないし、批判も的を射ている。だとしても、貧困になってしまったすべての責任が本人にあるというのは、乱暴過ぎると思うのである。何故なら、生活習慣病の原因が本人のルーズな生活だとしても、健康に対する意識が低いのは本人だけの責任ではない。便利であまりにも不健康な食品が世間には満ち溢れているし、農薬や化学肥料まみれの野菜・米・麦を食べさせられているのである。勤労や学習に対する意識向上、社会全体に対する貢献意識高揚、自己成長に努力する意識確立、このような価値観をしっかりと教育してこなかった我々に責任があるのではないだろうか。ましてや、貧困家庭には非常に複雑なメンタル障害が存在しているケースが非常に多いのである。これらの解決に向けて、積極的に果たして行くべき責任が社会にあるのだ。これらの課題を社会として解決しなければ、貧困はなくならない。

LOHASな生き方を目指す

LOHAS(ロハス)とは、Lifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字を取った略語であり、地球環境を保護すると同時に健康で持続可能な暮らしを目指すという価値観を共有した生き方、またはそのような考え方を共有した人々のことである。環境保護の立場から、自然と人間の共生を謳い、自然を大切にして守り育てて、皆で共有して分かち合うという考え方に立っている。当然、農薬の使用は差し控えるし、オーガニックでナチュラルな農業を目指している。産業廃棄物による汚染や水質汚濁についても、極力少なくするような生活をしようと提言している。

地球の温暖化対策にも取り組んでいて、省エネにも関心が高い。脱石油でしかも自然エネルギーの政策を進めるように提言もしているし、勿論脱原発も推進している。持続可能な生き方をしようというのだから、地球環境に負荷のかけない暮らしをして行こうと呼びかけている。健康面においては、人間が本来持っている自己免疫力や自然治癒力を高めていくような生活スタイルを志していて、西洋近代医学のように人間が持っている本来の機能を損なうような治療は、断固拒否する立場だ。遺伝子操作の農産物を作ることや、クローンの家畜を作り出すことの危険性にも警鐘を鳴らしている。

どうして、人間はこんなにも効率優先の生き方をしてしまったのだろうか。生産性を上げることが至上命令だと言わんばかりに、農薬を大量に使用し化学肥料漬けの農産物を作り続けた。それが、人間の健康にだれだけ多くの被害を加えてしまったか、計り知れないものがある。「沈黙の春」(Silent Spring)という著作で、環境問題を初めて世界に訴えたレイチェルカーソンは、鳥が鳴かなくなった事例を嘆いてこの本を書いたのである。こんなにも環境と人間の健康に悪影響を与えている農薬と化学肥料の使用が、一向に減らないのは不思議な事である。

日本において、LOHASな生き方を目指しますと宣言すると、決まってこのような反論がある。農薬や化学肥料を使わないで農業をしたら、農産物の生産量が減少してしまい、飢え死にする人が出てきてしまう。高い農産物を買えない貧しい人もいることを考慮しないなんて、身勝手な論理だと言うのである。または、予防ワクチンや抗生物質などの薬品を使用しないと、健康を損なってしまうだけでなく乳幼児の生存率が低下してしまうと大騒ぎをする。最新の医学研究や農学によると、その批判は的外れだとされつつあるにも関わらず、いまだに古い考え方から抜けきれない。

LOHASを提唱され始めた時代は、そんな生き方をしたら生産効率が低下するばかりでなく、豊かな生活を捨てなければならないと批判されていた。そんな前近代的なLOHASは、科学的にも間違っているとの非難を受けていたが、最近なって科学的に見てもLOHASは正しいということが解明されてきたのである。科学的にも理がかなった、人間本来の生き方こそがLOHASであり、それに反した生き方をしているからこそ、環境問題や健康被害が起きているということがようやく証明されてきたのである。

産業革命以降、人間のあるべき生き方がどんどん否定されてきて、効率優先で物質的な豊かさ至上主義が蔓延してきた。おかげで、もっと大切な価値観である心の豊かさや自然の豊かさをないがしろにする暮らしが普通の社会になってしまったのである。生産性優先社会は、過度の競争を生み出すと共に、人間の労働力を使い捨ての時代にさせてしまった。当然、自分さえ良ければいい、身勝手で自己中心的な考え方に支配されてしまった社会は、お互いに支え合って生きるという大切な関係性を損なってしまい、全体最適ではなくて個別最適を目指してしまっている。

この世の中は、人間の身も心も病んでいる。それは、とりもなおさず人間の本来の生き方であるLOHASな生き方がされなくなったからである。縄文人のように、余計な富を持たず当たり前のように相手の尊厳を認め、お互いに支え合う社会があれば、争い事もなくて平和な世の中が1万年以上も続くのである。世界では紛争とテロが続いている。日本国内でも、毎日のように殺人事件や悲惨な事故が相次いでいる。LOHASな生き方をしていたら、起きない争いや事件・事故である。LOHASな生き方をしている限り、こんなにも心身を病んでいて不健康な世の中になる筈がない。人間本来の生き方であるLOHASな生き方を目指そうではないか。

心の病を治す

心の病を現代の近代西洋医学では完治するのは難しいということを前回のブログで記した。投薬によって一時的に症状を抑えることは出来たとしても、完全に投薬と通院から解放されることは殆どないのが日本の精神医療である。なにしろ、日本の保険診療制度が改正されまでは、精神科の入院患者は固定資産として認識され、余程の事情がない限り医師たちは退院を認めたがらなかったのである。入院の必要のない入院患者が、人権を認められない状態で留め置かれていた。イタリアの精神科長期入院患者はゼロだと言われている。日本の精神医療が遅れているのは、この事実だけをみれば明らかであろう。

心の病になる原因は、脳の器質異常や脳内ホルモンの分泌異常だけではなくて、人体全体の完全なるシステムが何故か誤作動や暴走をするからだということを前回のブログで記した。そして、そうなる根本原因は、この宇宙や社会に存在する万物が自己組織化されていて、全体最適と関係性によって成り立っているにも関わらず、その価値観に反する考え方と生き方をしているせいである。人体そのものが、全体最適と関係性のシステムで成り立っていることは、NHKスペシャルの人体シリーズでも明らかにしている。人間がその正しい摂理に逆らって生きているから病気になるのである。

人体は、常に人間全体の最適化を目指しているし、60兆個に及ぶ細胞どうしや人体組織どうしの良好な関係性によって完全なるシステムとして機能している。それなのに、人間どうしが関係性を無視して反発し合ったり、自分さえ良ければいいと身勝手な行為を続けたりすれば、社会全体が病んでしまう。地球という環境も、人間さえ良ければいいと環境破壊が進めば、そこに住む人間が健康破壊にさらされるのは当然である。心の病は、こうした本来のあるべき生き方に反した社会に対して、違和感を覚えた人々の心が痛み、人体のネットワークシステムが誤作動と暴走をしてしまったとみるべきであろう。

だから、自分だけでなく人類全体の豊かさや幸福を願う全体最適の価値観と、お互いの関係性を大切にする価値観がこの社会にしっかりと根付いていたら、心の病気にはならないのである。ところが周りを見渡すと、自分さえ良ければいいという身勝手で自己中心的な人間ばかりである。会社や学校は、関係性を損なうような行為を平気でするような人間ばかりである。心を病むような環境にあるのだから、純粋で感じやすく心根の優しい人間ほど、心の病になりやすいのである。それでは、こういうように心を病むような人は、社会が正しい姿に変革されない限り、心の病を完治させることは出来ないのであろうか。

ところが、人間というのはそんなに柔軟性のない生き物ではない。そんな社会でも健康で生きることが可能なのである。それじゃ、社会の悪を見逃して感じないように鈍感になって生きればいいのかというと、そうではないのである。そのような社会的な間違いや悪を、受け容れて許すことが必要なのである。これは、相当に難しいことではある。でもよく考えてみてほしい。全体最適と関係性重視という大切な価値観を、現代の人々が忘れてしまい、それに反する生き方をしてまったのは、近代教育制度を西欧から導入した時からである。そして、現代人がこの正しい価値観を失くしてしまったのは、本人たちに責任はないのである。それを責めることはできないし、糾弾することも適切でない。

回り人々は全体最適と関係性の哲学を忘却しているのだから、自分に対して酷い扱いや冷たい対応をするのは当然である。それを怒り憎むのではなくて、こんなことも知らないとは『可哀想だな』と、一段も二段も高い位置から観察することである。自分はそんなレベルは通り越して、もっと高いレベルの宇宙意思(偉大なる創造主)に添った生き方をしているのだから、そんな詰まらない生き方に対していちいち反応などしていられないという考え方をすべきであろう。とすれば、自分に対してとんでもないことを強いて、自分を支配し制御しようとする人間にも、腹が立たなくなるし許せるようになるのである。

このような高い意識を持つには、正しい価値観であるシステム思考の哲学を学ぶ必要がある。そして、どんなことがあっても揺るがない自己をマスターすることも求められる。全体最適と関係性というシステム思考の哲学は、一朝一夕で身に付くものではない。それこそ、量子力学などの最先端の複雑系科学と人体のネットワークシステムも含めた、最先端の脳科学や分子細胞学、そして免疫システムを学ぶことが必要である。すべての学問を統合させなければ、正しい価値観を学ぶことは出来ない。さらには、自我と自己を統合させて、自己マスタリーを実現させないと、心の病は克服できない。このシステム思考の哲学と自己マスタリーを獲得できたら、心の病を完治させることが出来るのである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、心の病を起こすメカニズムとその対応策と治癒法を、詳しくしかも解りやすく解説しています。システム思考の哲学と自己マスタリーの研修を実施しています。心の病で苦しんでいらっしゃる方、そのご家族は是非ご相談ください。長い期間医療機関で治療しているのにちっとも改善しないという方は、ご検討ください。相談や研修費用は、今年いっぱいは基本的に無料です。食事代と宿泊料しかいただきません。無料で実施する訳は、ホームページの研修日程・費用の個所に詳しく記載してあります。

心の病が治らない訳

現代はうつの時代だと言われている。抑うつの症状を訴えて会社を長期に休んだり学校を休学したり人が増えている。30年前には考えられなかったことである。うつ病だなんてことを会社の人に知られたら、会社に在籍することさえ難しかった時代もあった。そもそも、うつ病という病気が世間に知られるようになったのも、ここ20年くらいのものであろう。うつ病の診断が普通の内科医でも出来る診断マニュアルが整備され、さらには抗うつ剤が安全でしかも副作用が少ないという売り込みが功を奏したこともあり、うつ病と診断されて治療を受けている患者さんは、爆発的に増えた。

しかしながら、いつも不思議に思うのは、これだけ精神科医療の診断技術が向上して誤診も少なくなり、画期的な治療薬も開発されているにも関わらず、完全に治癒して断薬にまで漕ぎつけた患者さんは、非常に少ないのである。いつまでも治療が続いていて、投薬量も少なくなっているケースはあるものの、完全に心の病気を克服したという例は極めて少ない。たまにうつ病から完全に抜け出せた人のケースも耳にするが、そういう人は例外なく自分の力で治癒させた人である。

多くの精神科の医師の中には、減薬というレベルまでは患者さんを導いてくれている優秀なドクターも存在する。しかし、多くの精神科医は減薬や断薬ということにさえ無頓着で、徐々に投薬の種類も増やし投薬量を増やし続けて行くというドクターさえ少なくない。「はい、あなたはこの病気は完治したので、明日からは通院しなくていいよ」と言われた患者さんがどれだけいるだろうか。昔の精神科の病院はそれこそ笑い話ではないが、患者さんは『固定資産』だと呼んでいた経営者もいたくらいである。通院している患者さんは、大切な経営資産だと言えなくもないのである。

勿論、精神科の医師が意識的に患者さんを完治させないで、ずっと通院させているという乱暴なことは言わないが、精神科の疾患が非常に完治しにくいのは事実である。どうして、こんな残念なことが起きるのかというと、近代西洋医学の矛盾点を一番反映しているのが、精神科医療だからではあるまいか。近代西洋医学はどちらかというと対症療法が中心である。現れた症状を抑えることが主眼になる。勿論、緊急避難的な対応として主症状を抑えることが大切で、その後落ち着いてから原因を究明し、その原因を取り除くことで完治する。ところが、精神科医療の分野では、この原因の特定とその原因を根本から取り除くという治療行為があまり実施されていない現状がある。

そんなことはないし、カウンセリングや心理療法を駆使して、原因を究明して解決する努力をしていると主張する精神科医もいることであろう。だとしても、現実的に治療効果が上がっていないのだから、何をかいわんかやである。とすれば、原因の究明にそもそも誤謬があるのか、それとも原因を取り除くという治療行為が不適切であるかのどちらかである。精神医療の心理療法のレベルアップや技法の進化は相当にしている。しかし、それはあくまでも技能の向上であって、そもそも精神疾患が起きる原因を特定できていないのではなかろうか。

精神疾患になるメカニズムは、例外はあるにしても、脳の器質異常と脳内神経伝達物質の異常な分泌によるものと見られている。そして、この脳内ホルモンの異常や器質的変化は、人体システムの誤作動と暴走によるものであろう。最先端の医学では、精神科疾患の原因は脳の誤作動だけでなく、人体という全体におけるシステムエラーだということを突き止めている。つまり、脳内神経伝達物質を正常にしたり補填したりしただけでは、精神疾患は治らないということが判明したのである。しかるに、殆どの精神科医は脳内ホルモンを正常に分泌させたり、または補ったりする投薬治療を繰り返しているに過ぎない。

さらに言えば、この人体という完全なシステムが、何ゆえに誤作動や暴走をしてしまうのかという視点・観点が欠落しているのである。これは精神科医だけでなく他のドクターも似たり寄ったりである。だから、疾病を完治させられないのであろう。人体の完全なるシステムが誤作動や暴走を起こすのは、本来の人体システムの在り方に反する生き方や考え方を当の本人がしているからなのである。人体には、本来自己組織化というシステムがあり、人間そのものは全体最適と関係性によって成り立っている。この全体最適と関係性重視の価値観に則った考え方や生き方が出来ていないから、病気が発症するのである。いくら治療を受けても治らないのは、こういう理由だからである。

※明日のブログに続きを掲載します。

科学的根拠派VSスピ系

SNS上での様々なやり取りが実に面白い。何故かと言うと、あくまでも科学的な根拠、いわゆるエビデンスに基づいたものじゃないと真実ではないとするグループと、スピ系のグループがバトルを繰り広げているからである。勿論、双方共に大人だから、名指しをするとか面と向かって非難をするということはしないようだが、SNSの記事やブログを観察していると、明らかにあの人の記事に対する反論なんだなと確信できる。どちらかというと、科学的検証のグループのほうが、スピ系の記事に対してエビデンスがないと攻撃をするという図式が多いみたいである。

スピ系の方々の記事は、エビデンスらしきものはあるものの、科学的に明らかに正しいと言う根拠を示すことは難しい。どちらかというと、観念的・直観的な理論を展開している。なるほど、そういうこともあるだろうなとは想像できるし、実際に効果を上げているケースも少なくない。霊的な啓示、スピ系占い、アーユルヴェーダやホメオパシーなどの代替医療、レイキ、アロマテラピー、カラーセラピーなどをすべてスピ系として嫌悪感を示す人も少なくない。こういうスピ系の女子が多いせいか、教養と学歴が高くてエビデンスにこだわる男性や理系女子が攻撃するケースが多いようである。

確かに、科学的根拠派からエビデンスを示せと言われると、現代の科学では完全に正しいという論証を示せないのも事実である。ましてや、医学界や薬学会ではスピ系の蔓延に対して苦々しく思っていることもあり、その反証としてのエビデンスを、アカデミーの総力を挙げて研究し続けている。かたや、スピ系はそもそも科学的な検証を求めてはおらず、自分の直観や霊示を信じて行動しているのだから、エビデンスに対する反論が出来ない。しかし、実際に大きな効果は上げていることもある。しかし、間違ったスピ系のやり方によって悲惨な結果になる場合も少なくないから、それをあげつらって科学的根拠派は攻撃するのである。

科学的根拠派は、スピ系や代替医療の上げている効果や成果は、あくまでも偽薬効果(プラシーボ)でしかないと言い切っている。特にスピ系や代替医療に対する攻撃は、アカデミーの威信をかけた闘いの様相を示している。面白いのは、どちらの立場であったとしても、相手の反論や反証を認めない点である。これも、実に大人気ないことであるし、最初から相手の理論が間違っているという立場に固執しているのは、滑稽でもある。科学の研究者というのは、自分の仮説や想像を科学的に正しいかどうかを実験等により証明する形を取っている。こうして、学会で素晴らしい研究成果を上げてきた。

ところが、自分の仮説が正しい筈だという思い込みが強過ぎてしまうと、正しいと証明する証拠集めに奔走してしまい、反証に対する研究が疎かになる。ましてや、あまりも成果を求めるあまり、実験結果のねつ造も起きてしまっている。だから、科学者たる者は自分の考えや理論に対して、もしかして間違っているのかもしれないという謙虚さを忘れてはならないのである。ましてや、天動説がガリレオガリレイによって覆された実例や、ニュートン力学が量子力学で否定された歴史があるのだ。科学者たるもの、または科学的根拠を主論調にする者は、現代の科学では証明されないが、将来は真実だとされるかもしれないという観点を忘れてはならないであろう。

実際に、2500年以上も前にブッダは、この世の万物に実体はなく、人間の意識で実体があると思えば在るし、ないと思えばないと唱えた。こんなことは、完全なまやかしであり、科学的な根拠を示すことは到底出来ないと思っていたのである。ところが、量子力学の素粒子研究と実験によって、完全な真実だと判明したのである。ということは、スピ系や代替医療で主張していることは、科学的根拠がないのであるからすべて誤りであると主張するのは、乱暴な事ではないだろうか。科学的根拠がないのだから、こんな迷信じみたことは信じてはいけないとSNSで発信・攻撃するのは、傲慢ではないかと思うのである。

という自分も、科学的根拠のある真実しかSNSとかブログでは発信しないように心がけている。何故なら、多くの人々に対して心の豊かさや幸福を実感してもらう活動をする為には、ちょっとしたことで反論されて信頼を失くしてしまうことを怖れているからである。たまには、まだ科学的根拠に乏しいこともブログにアップすることもあるが、これは近い将来には科学的根拠が得られるという確信に基づいているからである。科学的根拠派の人たちは、スピ系の人たちの理論がすべて間違いだと攻撃するだけでなく、もしかすると近い未来は真実だとするエビデンスが得られるかもしれないという謙虚さを忘れないでもらいたい。逆にスピ系の人たちは、エビデンスが得られるように努力を怠らないでもらいたいし、論理的証明を心掛けてほしい。将来は間違いなく、科学的根拠派とスピ系の人たちの主張が統合される時代が必ずやって来ると確信している。

 

量子力学的生き方をする

最近、量子力学的な生き方というのが注目を浴びているらしい。量子力学というと、物理学の最先端の科学である。それが何ゆえに生き方などという哲学になりえるのか、不思議に思う人も多いことであろう。本来、科学と哲学は相容れないものとして考えられている。科学と言うのは実証論であり、哲学は観念論だからだ。あくまでも、科学的な検証に基づいて現象を分析解明していくのが科学であり、論理的な手法によってあくまでも観念として構築されるのが哲学という考え方であろう。だから、科学者はおしなべて哲学には疎いということが言われてきたのである。

ところが、最近の科学者、とりわけ理論物理学者の間では、哲学が科学的にも正しいのではないかという考え方が支配的になってきているのである。特に量子力学を研究している科学者は、研究すればするほど哲学的な観念が科学的にも実証されつつあることに驚いているらしい。ノーベル賞を取るような欧米の最先端の物理学者は、特に仏教哲学に傾倒していると言われている。日本でも、科学と哲学を統合した『科学哲学』を研究テーマにしている科学者が出てきている。これらの研究は、日本ではまだまだ進んではいないものの、これからは間違いなく進むものと期待されている。

それでは、どうして量子力学の研究者は哲学、それも仏教哲学に注目しているのであろうか。量子力学とは、原子レベルにおける素粒子の研究をしている。物体の成り立ちや宇宙の成立を素粒子レベルで明らかにする研究をしている。宇宙における生命体も含めた物体は素粒子で出来ているのであるが、その素粒子のうち質量を持ち実体として存在しているのはほんの僅かしかなくて、99.99%以上は実体がないと言われている。この世の中に存在するすべての物体は、実体がないということが量子力学で解明されて、仏教哲学で主張しているこの世は『空』であるとする理論と同じなのである。

しかも、量子力学においては光というのは素粒子でもあり波というエネルギーだと判明しているが、二重スリット実験において人が見ているとその波動が変化するということが解ったのである。つまり、仏教哲学において、人間の意識によって実体があると思えばあり、ないと思えばないという理論が、量子力学によって証明されたのである。さらに、素粒子は関係性によって実体が存在するということも判明したが、仏教哲学では縁起律というもので明らかにしている。こんなにも量子力学と仏教哲学がリンクしているとは、実に不思議な事であるが、般若心経は量子力学的に見ても、科学的に真実だという事が解ったのである。

量子力学においては、我々の意識によってこの社会がどのようにも変容するのだから、喜びも苦しみもすべて自分の意識が引き起こしているということになる。だからこそ、我々の意識を清浄なるものにして、しかも全体の平和や豊かさを希求する意識に高めていかなければならないのである。自分や家族だけの豊かさや幸福を願うのでなく、量子力学に基づいた人類全体の最適化を目指す生き方が必要なのであろう。ノーベル賞を受賞した熱力学の権威イリヤ・プリゴジンは、宇宙の成り立ちや物体の生成と存在において、自己組織化という法則が存在していると説いている。自己組織化という概念は、全体最適化という考え方に近いと言ってもいいだろう。

最先端の医学研究によって、我々の人体もまた自己組織化の法則、つまりは全体最適のシステムによって保たれているということが解明された。そうすると、人体そのものが全体最適のシステムによって維持されているのだから、人間もまた社会で生きていくうえで、全体最適のシステムで行動すべきだということである。全体最適の生き方をしないと、大きなゆらぎが発生し、人体そのものが不健康に向かってしまうし、社会全体も不健康な存在になってしまうということである。平和が保たれず、争い事やテロ・戦争に満ちた世界になるということであろう。

だからこそ、我々人間は常に全体最適の量子力学的な生き方が求められると言っても過言ではない。量子力学においては、豊かな関係性があってこそ世界は成立しているし、我々の意識によってこの社会がどのようにも変化しているということを示している。とすれば、自分だけの豊かさや幸福を求める、言わば量子力学に反する個別最適の生き方こそが、この社会を駄目にしていると言えよう。大国のT大統領や原理主義に凝り固まったK指導者のように、自国の利益だけを追求するような考え方は、いずれ破たんを迎えるということになる。今こそ、量子力学の生き方である全体最適と関係性重視の価値観に添って生きようではないか。

 

見えない暴力に苦しむ妻

暴力事件が止まることがない相撲界であるが、暴力は困ったことに社会全般に蔓延している。学校教育現場にもあるし、企業内や行政組織内にも存在する。そして、家庭内にも暴力事案が起きているのである。この暴力という定義であるが、多くの人々は物理的な力を身体に加えたものと思っている。しかし、暴言やネグレクトなども立派な暴力であろう。パワハラ、セクハラ、モラハラなどのハラスメントは、もはや暴力として定義しても差し支えない筈である。心をいたく傷つけるのだから、被害者にとっては怖い暴力だと断言できる。

家庭内には、もっと恐ろしい見えない暴力が存在していることを認識している人は少ない。それは、夫から妻に対する卑怯で悲惨な暴力である。日常的にこの見えない暴力が妻を痛めつけている。妻とのコミュニケーションの中で繰り返される無言、無視、不機嫌な態度がそれである。そんなことが暴力とは言えないだろうと認識しているのは、夫ばかりではない。妻もまた、そんなことは暴力とは呼べないと思っているに違いない。始末に負えないことに、双方が暴力だと思っていないから、反省もせず毎日のように繰り返されるのである。だから、ボクシングにおけるボディブローのように、じわじわと妻の心を痛め続けるのである。

無言、無視、不機嫌な態度を夫がするのは、自分が悪いからだと妻は自らを責める。またもや、夫を怒らせてしまったのは自分の何がいけなかったのかと、自分を振り返り反省する。そして、自分さえ我慢すればすべてが上手く行くのだからと、例え夫が悪くても自分の言いたいことも心に仕舞い込むのである。女性というのは、微妙な表情やそぶりで相手の心を読むことができる。一方、男性はそういう感情の機微を推測できない鈍感な生き物である。だから、夫の微妙な目の動きや表情の変化を、妻は素早く敏感に感じ取り、機嫌を損なわないように努力する。ところが、妻の心が傷ついていることを感じ取れない夫は、益々見えない暴力を奮い続けることになる。

家庭内の日々のコミュニケーションを振り返ってみてほしい。妻は、お互いの気持ちを理解しようと、なるべく会話をしようと夫に話しかける。ところが夫は、男性脳を持っているから、女性脳とは違い一度に二つのことが出来ない。新聞を読んでいるとかTVを観ていると、妻との会話に集中できない。パソコンに集中していると、他のことが出来ないのが男性脳の特徴なのである。当然、妻の会話は殆ど聞いていないということが起きる。聞いていたとしても、上の空である。そうすると、ねえ聞いているの!と妻は怒る。夫は、黙ってしまい、不機嫌な態度を取る。これが、見えない暴力の一端である。

男性は、しばらく会話などしなくてもストレスは感じないし、問題なく生きられる。しかし、女性は社会性の高い生き物であるから、会話をしていないとストレスが高まるし、黙ったままの夫婦生活には耐えられない。夫が職場から帰宅するのを待ちかねていて、いろいろとその日の出来事や心配事について話したいのである。それを、無視、無言、不機嫌な態度で阻止されたら、妻には大変な暴力になってしまうのである。妻が病気になるのは、夫が原因だとして、『夫源病』と名付けられたが、目に見える暴力や暴言だけでなく、目に見えない悲惨な暴力の影響も大きいと言わざるを得ない。

男性と言うのは、非常に身勝手な生き物である。特に婚姻関係を結ぶと、妻は自分の所有物だと勘違いし、自分にとって都合のよい行動を妻に強いることが多い。それがかなわないと見るや、目に見える暴力や暴言によって、妻を支配しコントロールしようとする。さらに、陰湿な目に見えない暴力によってそれを強化する。特に独占欲の強い男性は、他の異性との接触や深い関係を嫌い、異性と同席する会合や懇親会に出さなくなるケースが多い。夫は、一人の人間としての妻の尊厳を、一切認めようとしないのである。

妻は、このような見えない暴力に屈してはならない。ましてや、夫がそういう態度を取るのは、自分が悪いからだと自らを責めてはならない。無言、無視、不機嫌な態度を取るほうが絶対的に悪いのであり、卑怯なのである。妻を心から愛するのであれば、夫はきちんとした言葉で説明すべきであろう。妻の言いたいこと訴えたいことを解ろうとする努力を惜しまず、妻の会話を真剣に傾聴し共感しなくてはならない。そして大事なのは、妻の気持ちになり切って会話することである。妻の悲しみを自分のことのように悲しみ、涙のひとつもこぼすくらいの態度を取ってほしい。そうすれば、見えない暴力を奮うこともなくなるに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、このような見えない暴力も含めて、夫からの暴力についての無料相談を受けています。または、このような暴力を未然に防ぐ対策の研修を承ります。遠慮なく「問い合わせフォーム」からご相談ください。

家では良い子を演じさせない子育て

若者が起こした凶悪事件の保護者にインタビューすると、こんな話を聞くことが多い。「こんな怖れ多い事件を起こすような悪い子じゃなかった。とても素直で良い子だったんですよ」と語る例が殆どである。また、家庭の周りに住んでいる住民も同じような感想を漏らす。特に同居する祖父母は、「本当に優しい孫で、こんな悪いことをするとは信じられない。何かの間違いじゃないのでしょうか」と孫を庇うことが多い。身内を過大に良い評価をしやすい傾向はあるとしても、どうしてこんなギャップが生まれるのか、不思議だと思う人が多いと思われる。

学校で他の児童生徒をいじめるなどの問題行動をする子どもが、家庭ではまったくの良い子で、従順で素直な子どもであるケースもまた多い。学校では、陰湿でしかも陰に隠れて表舞台に立たず、裏で指図する悪質ないじめの首謀者の子どもは、家庭では良い子を演じていることが多い。だから、その悪質ないじめがばれて親が学校に呼ばれて、その事実を告げられると、どうしても信じられないと親は主張するらしい。このように、学校での行動と家庭における言動のギャップが見られるのである。

子育てというのは、非常に難しい。これが正解だというマニュアルは存在しない。それぞれの子どもの性格や人格も違うし、親もそれぞれ違っているから、育つ環境は違っている。日々いろんなことが起きるし、その場面場面で子どもに対してどのような言動をしていいか迷うことがしばしばある。自分でも、子育ての様々な場面でどんなにか迷い、苦悩したか解らない。育児というのは、この世の中で一番難しいことである。そして価値がある。だから、子育ては親を成長させる糧ともなるのである。

少しは身の回りの片づけをしたらいいんじゃないかと、珍しく当時小学生高学年だった三男の息子に苦言を呈したことがある。その言葉に対して、息子はこんなことを言い放った。「あのね、僕は学校ではすごく良い子で通っているんだよ。それは、家庭で無理して良い子を演じないでいるからだよ。家にいる時は、誰からの支配も受けず、無理な生き方をせずにのんびりと過ごしているから、外では良い子でいることが出来るんだよ。だから、そんなことを言わないでほっといてよ」それを聞いて、私たち夫婦はお互いの目を見て、苦笑いをするだけで、何も言い返せなかった。

我々夫婦は、お互いに子育てについて話し合っていた。育児とはどうあるべきか、子育ての方針はこうしようああしようと意見交換をしていた。子どもたちがいる食卓でも、育児について話し合っていたのである。そして、息子が言い放ったこの言葉は、まさしく自分たちが常日頃言っていたことである。聞いていないと思っていたのに、息子はしっかりと心に刻んでいたのである。そして、それを実践していたのである。確かに、どの先生たちからはすごく良い子だと言われ続けてきたし、先生の手助けを自分から進んでしてくれて、学級をまとめるリーターシップが取れると子どもだと誉められていた。

その息子が高校から進学する際、国公立の大学に推薦してもらえる成績がありながら、親が期待する道は歩まないと宣言し、敢えて自分の信じた道を進みたいと東京の私立大学を選んだ。我々は子どもたちに、こういう進路を進んでほしいと、高校や大学を押し付けたことは一度もないし、就職も自分で選ぶのをそっと見守るだけだった。上の二人は、親の経済状態を考えて地方の国公立大学を選んでくれた。三男は兄二人とは違う道を選びたいと、親の期待を見事に裏切ってくれたのである。精神的に完全に自立していたのだと思われる。主体性と自発性を常に発揮して、様々な苦難も自分で乗り越えている。

子どもは親の所有物ではないし、子どもを支配しコントロールしないことを子育ての基本に据えてきた。しかし、けっして放任主義ではない。人に迷惑を掛ける行為や、自分さえ良ければいいというような行動は慎まなければならないということは伝えてきた。さらには、子どもたちの弱いものに対する慈悲の心を育んできた。勿論、人の生きる意味や目的という価値観の教育もしてきた。言葉だけでなく、親の正しい生き方の後ろ姿も見せてきたつもりである。家庭であまりにも良い子を演じさせてしまうと、子どもが安心していられる居場所がなくなってしまう。だから、良い子であることを無理強いしたことはない。このような子育てを、子どもたちもまた孫たちに実践してくれると信じている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、子育てに関する様々な悩みや心配なことに関する無料相談を承っています。発達障害やパーソナリティ障害のお子さんを育てていらっしゃる保護者の相談にも対応させてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。さらには、これから子育ての研修会や相談会も開催して参ります。是非、合わせてご活用ください。

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PTSDは自分で癒せる

PTSD(心的外傷後ストレス症候群)は、一度なってしまうとなかなか離脱することが出来ず、長い期間に渡り苦しめられると言われている。愛する家族を震災や大事故で失った際に起きやすく、ましてや自分が助けることが出来たのにも関わらず、助けられなかったというようなケースは重症化しやすいという。兵庫淡路島の大震災や東北大震災で家族や愛する人を亡くされた方で、PTSDになられた方が多かったのではないかと思われる。また、予想以上のあまりにも悲惨な出来事に遭遇してしまい、自分の生命が脅かされるような体験をしても、重症のPTSDになりやすいとも言われている。

また、PTSDになりやすいのは、犯罪被害者やその家族である。さらに、公共交通機関を利用している時に事故に遭ってケガをしたような場合もPTSDになりやすい。交通事故のもらい事故も同様である。何故かというと、自分にはまったく非がなくて、理不尽な原因で被害を受けたからであろう。自分にある程度責任や原因がある場合は、この失敗を二度と起こさないように注意すれば、事故再発は予防できる。しかし、不合理な原因や理不尽なことで被害者になるような事件事故は、自分の力では予防できない。したがって、また被害者になるのではないかという不安感や恐怖感はなかなか消し去ることができないのであろう。

ところで、PTSDになりやすい人となりにくい人がいる。同じような辛い体験をしたとしても、立ち直りが早い人といつまでもショックを引きずる人がいる。または同じように理不尽な目に遭って被害者になっても、まったく気にしない人もいれば、不安感と恐怖感がいつまでも消え去らず、PTSDになってしまう人もいる。これは何故かと言うと、おそらくは脳内ホルモン、つまり脳内神経伝達物質が分泌されている量の差ではないかと思われる。PTSDになりやすい人は、オキシトシンやセロトニンの分泌量が少なく、ノルアドレナリンの分泌がそもそも多い人ではないかと思われる。

この辺に、PTSDを和らげるヒントがありそうだ。つまり、オキシトシンとセロトニンの分泌量を増やし、ノルアドレナリンの分泌量を抑制すれば、不安感や恐怖感を払拭することが可能になり、PTSDを癒せるのではないかと思われる。セロトニンやオキシトシン、ノルアドレナリンなどの脳内ホルモンを正常に分泌するには、腸内環境整えるのが良いと言われている。腸内細菌の善玉菌が増えるような食生活が良いだろう。食物繊維の多い野菜や海藻を食べ、発酵食品を摂るのがよい。食品添加物の入った食品は避け、伝統的な和食を勧めたい。そうすれば、交感神経のバランスが取れるし、脳内ホルモンは正常になり、PTSDを和らげることに繋がる。

PTSDを自分で癒せる心理療法もある。それはマインドフルネスというコーピングである。抱え込んでいる心的外傷に心が支配されているから、いつも苦しんでいる。考えないようにすればするほど、そのトラウマが自分の心に重くのしかかる。だから、少しの時間でもいいから、この心的外傷を忘れることが出来たら、人間の脳は活性化する。しばしの時間であっても、トラウマの思考を停止させることで、自分でその解決に向かって進めるのである。言い換えると、自分の心をトラウマの記憶が支配する限り、他の有効な解決策を考えられないが、トラウマを一時的に手放すことが出来たら、冷静に判断できるようになるということである。その方法がマインドフルネス、つまりは他の思考で心をいっぱいに満たすことで、トラウマの記憶を停止させる方法なのである。

勿論、マインドフルネスでトラウマの記憶を完全に消し去ることは不可能だ。しかし、トラウマの記憶を右脳から左脳に移し替えることは可能である。マインドフルネスを実践して、冷静に自分を見つめることが出来て、トラウマの記憶を客観的に観察すると可能になる。トラウマの記憶が右脳にある時は、悲しい、苦しい、辛い、憎い、怒る、そういうマイナスの感情と共にある。だから冷静にしかも客観的に観察できないので苦しむ。ところが、何度もマインドフルネスをすることで、自分の記憶を右脳から左脳に移し替えられる。そうすると、トラウマの記憶に対する不安感や恐怖感も和らげられるのである。マインドフルネスだけでなく、適切なカウンセリングも同じように右脳から左脳に記憶の移し替えができる。ブログや日記を書くことでも可能だ。PTSDは自分でも癒すことが出来るということである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、PTSDを自分で癒す方法をレクチャーしています。食生活もそうですが、マインドフルネスの実践法、右脳から左脳へのトラウマ記憶の移し替え方法、不安感や恐怖感を捨て去る認知行動療法、様々な実践編をお伝えします。これは、ストレス解消法にも通じます。なお、PTSDに苦しんでいらっしゃる方を、メッセージのやり取りでもある程度癒すことが可能です。是非、お問い合わせをしてください。

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パニック障害の原因と対策

パニック障害は、なかなかやっかいな精神障害である。薬物療法によってある程度症状は抑えられるものの、完治するには長い年月を要するケースが多い。中には、完治することなくずっとパニック発作に苦しめられている患者も少なくない。緊急避難的に薬物療法に頼ったとしても、完治するためには適切な心理療法が必要だと思われる。パニック障害の原因は、完全に解明された訳ではなく、通称脳内ホルモンと呼ばれる脳内神経伝達物質の分泌異常だと推測されている。

関係している脳内ホルモンは、次の三つだと言われている。ノルアドレナリン、セロトニン、GABAであり、そのうちノルアドレナリンが過剰に分泌されることが一番影響しているらしい。セロトニンとGABAの分泌は少なくなるという。何故、ノルアドレナリンが多くなりセロトニンが少なくなるかというと、偏桃体が過剰に興奮するからだと推測されている。海馬などの大脳辺縁系の異常も指摘されている。つまり、大脳辺縁系などの脳が誤作動することによるものではないかと考えられている。

何故、脳が誤作動を起こすのかと言うと、自分で処理するのが不可能な急激で巨大なストレスがもたらされたからではないかと思われる。脳のシステムは複雑である。乗り越えることが不可能な強大なストレスやプレッシャーにさらされると、自分の心身を守るために防護システムを作動させる。ところが、その防護システムというのは両刃の剣であり、その防護システムが暴走してしまい、過剰反応、いわゆる誤作動を起こすらしい。これが、パニック障害などの精神障害を起こすシステムだろうと推測されている。

さて、パニック障害を乗り越えるには、この誤作動を正常に戻してあげれば良いのだが、これはなかなか難しい。しかし、けっして不可能ではない。まずは、脳内ホルモンの異常分泌を和らげる方法であるが、腸内環境を改善することで可能となる。パニック障害を起こしやすい人、またはパニック障害になった人の食生活は乱れていることが多い。自律神経のバランスも崩れて、交感神経が異常に興奮しやすくなっている。野菜や海藻が中心の食事、それも食物繊維が豊富な食材を利用した食事を摂るとよい。特に発酵食品が最適である。乳酸菌、特にビフィズス菌などは善玉菌と呼ばれている有用な腸内細菌である。

肉類はあまり摂らないほうが良いと言われている。腸内細菌の悪玉菌を増やすし、自律神経の交感神経を興奮させやすい。肉類を常時大量に取る人は、どうしてもキレやすくなる。粉食を避けて粒食を推奨したい。パンや麺類はなるべく摂らずに、米食中心で伝統的な和食を勧める。特に悪いのはカップ麵である。ジャンクフードやファストフードは避けたい代表的な食品である。添加物が多く入った惣菜や加工食品も避けたい。お酒は、飲み始めの時間は交感神経の副交感神経を優位にするが、2時間を過ぎると逆に交感神経を興奮させてしまう。出来たら、毎日飲むような習慣性の飲酒は慎みたい。

最近になってパニック障害に影響する新たな脳内神経伝達物質が注目されている。それは、幸福ホルモンや安心ホルモンと呼ばれているオキシトシンである。このオキシトシンが不足すると、不安や恐怖感がマックスになりやすい。オキシトシンというホルモンは、別名愛情ホルモンと呼ばれ、愛情不足になると分泌されなくなる。したがって、豊かな愛を実感することで増える。しかも、愛を体感することが必要である。愛する人とのスキンシップやハグ、または手をつなぐという行動がオキシトシンを増やす。それ以上の激しい愛の行為もお勧めである。さらには、見返りを求めないボランティアや市民活動もオキシトシンを増やす。このボランティアは、セロトニンも増加させるから一石二鳥である。

パニック障害になった人は、どうしても将来に対する不安が大きい。何がどうのということではなく、漠然とした未来への不安がある。その不安をないことにしたくて、考えたくないと封印するケースが多い。実は、これが逆にやっかいな突然の発作を起こすのである。本当は、この不安に対して逃げずに向き合い、不安を認め受け容れることが必要なのである。その為には、マインドフルネスという手法を利用したストレスコーピングや、適切なカウンセリング支援が必要であろう。いずれにしても、パニック障害はライフスタイルを抜本的に変えて、認知傾向を変化させなければ乗り越えることが出来ない。逆に言えば、これが実施できたらパニック障害を乗り越えられるということである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、パニック障害の方々に対するサポートをしています。まずは数日間イスキアの郷しらかわに宿泊して、食生活などのライフスタイルを抜本的に変えます。その間、ストレスコーピングの方法や認知行動療法の仕方を学びます。マインドフルネスの実践もします。是非、ご利用ください。まずは問い合わせフォームからご相談ください。