ひきこもりの本当の原因

ひきこもりという状況に追い込まれてしまい、もがき苦しんでいる人はかなり多いと推測される。厚労省や市町村もその実数の把握が出来ないでいる。ひきこもりという統計上の定義も確立されていないし、ましてやひきこもりを家族がひたすら隠しているのだから、正確な人数を把握できる訳がない。さらに、当事者自身がひきこもりだと認識していないケースも少なくない。障害者として認定されていないし、精神疾患や精神障害でもないから、カウントする術がない。実態を把握できなければ、行政側としては積極的な対応も出来ないのかもしれない。

ひきこもりの子どもを持つ親は、どうしてこんな状況になってしまったのか、原因さえ掴めないでいると思われる。当事者自身もひきこもりになった確かな要因を認識できないでいる。不登校の原因が人間関係だとされているように、ひきこもりの原因も人間関係だとは何となく解ってはいるものの、何故社会に出て行けないのかが判然としない。原因が特定できなければ、対応策を考えることも不可能であろう。社会現象としてひきこもりが増えているという実態は何となく解っているし、何とかしなければならないと行政側は模索しているものの、抜本的対策を考える術を持ち得ていない。

ひきこもりの子どもを持つ親の苦悩は相当なものであろう。長年に渡りひきこもっている子どもを何とかしなければと思いながら、どうしようもない焦りや不安に苦しんでいる。将来は親自身が先に逝くのは間違いないのだから、その時がやってきたらどうなるかという不安は相当なものである。しかし、それ以上に苦しんでいるのは、当事者自身であろう。周りから見ていると、以外と呑気に見えるかもしれないが、ひきこもり本人の苦悩や不安は親以上にあるに違いない。自分の本当の気持ちを分かってくれる者はいないし、誰も助けてくれそうもないのだから、その孤独感は半端ない。

ひきこもりの原因は、人間関係における不都合だと思われているし、本人の資質やその性格にもその要因があると推測されている。親の子育てにおける偏りも指摘されている。親も含めた親族もそう思っているし、社会一般的にもそうだろうと認識されている。確かに、そういう要因やきっかけもあるだろうが、ひきこもりの本当の原因はそれだけではない気がしてならない。どちらかというと、ひきこもりという状況は社会システムの歪みが起こしているのではないだろうか。つまり、ひきこもりというのは個人的な要因によって起きているのではなく、社会全般に責任があるのではないかと思うのである。

ひきこもりの方々は、非常に大きな『生きづらさ』を抱えている。その生きづらさが何によって生じているのか定かでないが、何となく生きづらさを抱えるが故に、社会に出て行けないのであろう。つまり、強烈な生きづらさ故にひきこもりという状況を選ぶしかないのだ。そして、その生きづらさが発生する根源は、この社会そのものにある。誰でもひきこもりになるのではなく、特定の人しかならないのだから、生きづらさの原因は本人にあると思う人も多いだろう。しかし、生きづらさの原因は社会にあるし、その生きづらさを殆どの人は感じているが、我慢して生きているだけなのである。

それじゃ、社会そのものに原因がありそれにより生きづらさを感じるというのならば、その社会の歪みというのは何だろうか。社会というのはひとつのシステムである。様々なコミュニティが寄り集まって形成されている。家族、グループ、学校、地域、職場、市町村、県、様々なコミュニティが存在する。そのコミュニティというのは、共同体なのだから本来はお互いが主体的・自発的に支え合うものである。その構成要素であるそれぞれの人は、特定の人が優位性を持たず、公平で平等でなければならない。そして、基本的にお互いに介入し合わないのが原則である。そうでなければ、システムとして本来の機能を発揮できない。コミュニティも所属する人も自己組織性を失うからである。

家族というコミュニティにおいて、親が子に対してあまりにも優位な立場を保つ為に、所有・支配・制御を繰り返し、指示指導など行き過ぎた介入をしやすい。仲間のグループにおいても特定の人間が支配者として君臨し、他に対する強い介入をする。職場でも同じ状況が起きるし、学校という場所でも歪みが生じている。コミュニティという様々な共同体というのは、お互いが平等で争いのない平和で安心できる場所であるべきなのである。つまり、安心できる『居場所』が家庭・学校・職場・地域にないのである。これでは生きづらさを抱えてひきこもるしかないのである。この社会があまりにも歪んでいるが故に、ひきこもりが起きているのである。

 

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見返りを期待すると病気になる?

見返りを求めると病気になるなんていうと、大きな誤解をされそうだ。おそらく、私は見返りを求めたことがないのに病気になっていると、おおいに憤慨する人も多いに違いない。確かに、それぞれの行動する際に、見返りを期待している人はいないであろう。見返りというのは、そういう意味ではない。何かを期待して行動するということではなくて、知らず知らずのうちに、何らかの謝意や評価、または好かれたい自分を密かに期待しているという意味である。無意識における期待のことである。

家庭においては、子どもやパートナーに対して何も見返りなんか求めていないと言い切る人が殆どであろう。ただ、何も期待することなく世話をしたり家事育児をしたりしていると思っているに違いない。しかし、自分の心のうちを冷静に観察してほしい。どこかで、感謝の言葉や家族から好かれる自分をそっと期待していないだろうか。毎日せっせと家事育児をこなすとか、収入を得るのに仕事に精を出していても、それを当たり前のように思っている家族に何となく違和感を覚えていないだろうか。

職場において、家庭を犠牲にしても仕事第一で、身を粉にして働いているのに、正当な勤務評価を得ていないと不満を持つ人は多いことであろう。人一倍努力しているのに、待遇や昇進が思うように向上しないことに苛立つ人も多いに違いない。職場の同僚や上司には、いろんな気遣いや思いやりを持って接しているのに、どうして自分が他の人から疎まれるのは納得できないと思っている人もいることだろう。職場では何も見返りを期待する訳ではないが、無意識のレベルでは求めているものがあると思われるのである。

このように、職場でも家庭においても、意識して見返りを求めている訳ではないものの、無意識下においては淡い期待をしていることはあるだろう。実は、この淡い期待というのが叶えられないことによって、人間の心身にダメージを蓄積して行くのである。職場や家庭というには、日常性である。毎日、この淡い期待が裏切られていく生活の積み重ねこそが、心身の疾病に繋がっていくと想像する。意識していない怒りや憎しみ、悲しみや寂しさが、神経伝達系のシステム異常、自律神経の乱れや免疫システムの破綻を起こすと思われる。

どうして見返りを求める生き方が心身の疾病に繋がるのかを、科学的に解明してみたい。人間の細胞は60兆個あると想像されてきたが、どうやら37兆2千個だと解明されたようである。そして、医学や生物学、分子細胞学などの研究が飛躍的に進歩した。今までの医学常識が覆されるような大発見が起きているのである。それが、細胞の自己組織性である。近代医学においては、人体のシステムというのは脳からの指示命令によって各臓器や各組織がその機能を発揮しているものと思われてきた。その各組織や臓器を形成する細胞もまた、脳からの何らかの指示命令を受けているものと考えられてきたのである。

ところが人体システムが科学的に解明されてくると、どうやらそれは完全な間違いだったことが判明したのである。細胞そのものが、誰からも指示命令されずに、主体性・自発性・責任性を持って、人体全体の最適化の為に働いていることが解明されたのである。これをシステム論的に言うと、自己組織性と呼ぶのである。テレビ東京系列で放映されている「働く細胞」というアニメをご覧いただければ一目瞭然である。例えば白血球は、誰にも指示されていないのに、人体の生命システムを守る為に、自分を犠牲にしてでもウィルスやばい菌と戦うのである。つまり、『見返り』を一切求めず、自己犠牲を厭わずに日々働いているのである。

人体を構成する細胞が自己犠牲を厭わず、見返りを求めずに活動しているのである。それなのに、人間がたとえ無意識とはいえ、見返りを求める生き方をしたらどうなるのか。そして、その期待した見返りが叶えられないことを不満としたらどうなるであろうか。細胞や各臓器と組織が自己組織性を持って働き続けているのに、全体である人間がシステムに反する生き方をしたら、人体における免疫システムの異常や神経伝達系システムの破綻が起きるのは、火を観るより明らかである。見返りを無意識下でも求めない生き方、つまりは与え続けることを無上の歓びと感じる生き方をすれば、細胞の自己組織性と同じ生き方になる。そうすれば、心身がすこぶる健康になり疾病になることはないのである。

権力者こそ権威を捨てよ!

ボクシング連盟が揺れている。山根会長が連盟を私物化して、アマボクシング界を牛耳ってきたことが判明した。公的機関が一部の権力者によって、公平性や平等性を失ってしまうなんて考えられない。よほどの圧倒的権力を握っていたのであろう。文科省の汚職が止まらない。文科省の事務方トップの事務次官が接待を受けていたというのだから、唖然として口が塞がらない。権力者がその権威を利用して、行政や公的機関の業務遂行を歪めるなんて、絶対に許せないことである。

権力者がその権威を利用して、政治や行政を私物化して自分の都合よろしく捻じ曲げるのはよく起きることである。だからこそ、そうならないように透明性や公平性を保持すると共に、権力の集中化を防いできた。さらには、権力が永続しないような工夫をしてきたのである。権力者自らも、公明正大で清廉な運営を努力すべきであろう。ところが、現実には日本大学の理事長や東京医科大学の理事長のように、権力の集中が起きて大学運営が私物化されている。権力が集中すると、必ず内部腐敗が起きるものである。

どうして、こんなにも権力を乱用しての歪みが起きるのであろうか。行政や政治だけでなく、民間の組織運営でも起きてしまうのは何故であろうか。日本の政治・行政のトップがあまりにも権力を乱用しているから、その下部組織だけでなく民間さえもが真似てしまうのだと主張する人も多い。確かに、忖度したのか指示したのかは定かでないが、日本のトップがその権威で行政を歪めているのは間違いない。それが許されているのだから、自分たちもいいじゃないかと規律が緩むのは当然であろう。

江戸時代も、政治と行政と司法が武士に集中したが故に、権力の濫用が起きてしまった。その反省の元に、「武士道」という価値観を強く持ち、武士自身の生き方を自ら戒めてきた。その武士道の中で、特筆すべきなのは「惻隠の情」である。惻隠の情とは慈悲のことであり、社会的弱者に対する配慮をすべきであると説いている。自分たちの利益優先の個別最適ではなくて、全体最適を目指しなさいという哲学であろう。権力を自分たちの為に乱用してはならないと自らを戒めて、自浄作用を求めたのだと思われる。

権力者が自分の権威を振りかざして、自分の利益や豊かさを求めるだけでなく、権力者に媚びへつらう者におこぼれを授ける構図がある。コバンザメのように、権力者に付いていれば自分も利益を受けることが出来ると、派閥を形成する傾向がある。実に醜いし情けない。ボクシング連盟の山根会長が権力を持ち続け得たのは、取り巻き連中が派閥を作っていたからであろう。東京医大の理事長もしかり、日大の理事長も同じ構図である。相撲協会も同じだし、省庁も派閥を作って自分たちのトップを何としても事務次官にしようと運動している。

組織や団体の運営に関して、何故権力者に権威が集中するといけないのであろうか。観念論や倫理観だけでなく、論理的にしかも科学的に証明することが可能である。組織というのは、ひとつの「システム」である。その構成要素は、部・課・人である。そして、その構成要素の最低単位である人は、自己組織化する。組織(システム)を構成する人は自らが主体性・自発性・責任性を発揮して、全体最適を目指すものである。そして、自己組織性を持つには、その構成要素である人は、平等で公平な関係性(ネットワーク)を持たなくてはならない。権力を集中させてあまりにも一方的に優位な関係を作ってしまうと、良好な関係性を損ない、自己組織化しなくなりシステム(組織)は破綻する。

さらに、自己組織化しなくなったシステム(組織)は、オートポイエーシス(自己産出性)を失ってしまう。つまり成果を出せないということである。自己成長や進化をしなくなってしまった組織は生き残れない。このシステム論は、最先端の複雑系科学によって証明されている科学的事実である。量子力学や分子細胞学においても証明されつつある。こんな科学的事実を知らないでいるから、権力者が権威を持ちたがり、内部崩壊を招いているのである。昔から『実るほどこうべを垂れる稲穂かな』と言われているのである。権力者たる者は、すぐに権威を捨てて、組織の自己組織化を目指さなければならない。

 

妻の寿命は夫が握っている

妻の寿命は夫が握っているなんてことを言うと、世の中の旦那さまからクレームが来るに違いない。そんなことはない、寿命は自分が決めている、または神様がお決めになっていると主張する男性が多いと思われる。妻の立場にある女性の多くも、そんなことはあり得ないと反論することであろう。ところが、多くの奥様たちは知らず知らずのうちに、旦那さまの言動によって心身共に傷つけられ痛めつけられ、身体疾患や精神疾患に苦しんでいる。そして、旦那さまによって寿命が縮められているということさえ自覚していない。

奥様を傷つけている旦那さま自身も、自分がそうしていることを自覚していない。つまり、夫婦が共に傷つけて傷つけられていることを自覚していないことが問題なのである。例えば、女性特有の疾病である、子宮筋腫、子宮がん、卵巣嚢腫、乳がんなどは、夫からの行き過ぎた『介入』により発症していると言っても過言ではない。独身の方も発症しているケースもあるが、それは親か上司による介入で起きている場合が多い。『介入』していない場合もあるが、それは『無関心』という態度で傷つけているのである。

介入と無関心(無視)とはどういうことなのか、具体的に示すとこういう態度である。介入とは、指示、指導、圧力であり、それが酷くなると所有、支配、制御の態度になる。つまり、夫が妻に対して、様々な言動で自分の思い通りに操ろうとするのである。妻の自由を奪い、まるで操り人形のように支配するのである。そんなことはないと言うかもしれないが、当事者たちも気付いていないだけである。勿論、夫婦お互いが尊厳を認め受け容れて愛を与えている例外もあるが、殆どの夫婦は夫が妻を支配しようとしている。

無関心(無視)の態度とは、妻の話を聞かないとか妻の姿や行動に関心を持たないという態度である。そんなことはないと夫は主張するかもしれないが、多くの夫は「あんたは私の話をちっとも聞いてくれない」と言われていることだろう。聞いているふりははしているかもしれないが、傾聴と共感の態度で聞かなければ、聞いているとは言えない。また、妻が美容院に行ってきた際、精一杯おしゃれをした時に、「それ似合うよ」と言う夫がどれほどいるだろうか。または、自分の意に添わない時に不機嫌な態度や沈黙してしまうことがあるが、これが無関心・無視の態度である。

人間という生き物は、本来自由であり自律性を持っているし、関係性をもっとも大切にして生きる。それが、夫によって支配され制御され無視されたとしたら、妻の心身はボロボロに傷付いてしまうということは容易に想像できる。妻は、夫から愛されていないし嫌われているのではないかと思い込んでしまう。それは私が悪いからではないかと、自分を責めるのである。そうすると、メンタルはボディブローのように毎日痛め続けられる。そのため、身体の血流やリンパの流れの循環機能だけでなく、人体のネットワークの不具合を起こして、臓器や筋肉組織の石灰化が起きて病気になると考えられている。

これが妻の寿命を夫が握っているというエビデンスである。夫源病という疾病があると主張しているドクターが存在する。妻が夫の機嫌を損なわないように一喜一憂しながら生きていると、様々な不定愁訴が起きて、やがて重篤な身体疾患に発展するというのである。これもやはり夫が妻の寿命を決めている証左である。ということは、妻が病気になるかどうかは、夫の態度次第ということになる。介入と無関心の態度をすることを改めないと、夫は妻を早く失ってしまうということになり、孤独になるということだ。

老後を一人で生きるというのは寂しいものである。仕事をリタイアして夫婦で余生を楽しもうと思ったら、妻が他界していないとしたら、詰まらない老後を生きることになる。または、もう我慢がならないと妻が定年を機に家を出て行くことがあるかもしれない。そんなことがないように、夫は妻の話を傾聴し共感することから始めてみてはどうだろうか。妻の寂しさ悲しさ苦しさを我がことのように聴いて、自分のことのように悲しむことを慈悲と呼ぶ。まさに慈悲の心を発揮して、妻が喜ぶことや満足することを精一杯提供しようと心を入れ替えることを薦める。そして、妻を所有・支配・制御することなく、自由を満喫させることである。そうすれば、いつまでも妻は若々しく元気で健康で長生きすることだろう。

自己組織化を育む教育

自己組織化というのはシステム論を形成する重要な理論のひとつであり、簡単に言うと自律化と言い換えることもできよう。ノーベル賞を受賞した物理学者のイリヤプリゴジンが提唱した理論である。熱力学を応用した物理学の基礎理論であり、物体を形成する構成要素それぞれには自己組織化する性質があるという主張である。転じて、人体を構成する要素である細胞にも自己組織化する性質があるし、人間そのものにも本来自己組織化する性質を有していると考えられている。

この自己組織化する性質を、便宜的に自己組織性と呼ぶことにする。この自己組織性は自律性とも言い換えると前段で記したが、これは人間が生来有している主体性・自発性・自主性・責任性などと言えるものである。細胞の自己組織性については、最新の医学研究でも驚くような研究成果がもたらされている。人体というネットワークシステムは、細胞そのものが過不足なく全体最適を目指して活動していると共に、細胞によって組織化された骨格組織、筋肉組織、臓器組織などがやはり自己組織性をおおいに発揮していることが判明したのである。

この事実はどういうことを意味するかというと、人間という生物は生来自己組織性を持っていて、全体最適のためにそれぞれが豊かな関係性を発揮しながら活動する宿命を持って生まれているということである。全体最適というのは、自分だけの幸福や豊かさを求める個別最適ではなく、家族全体、地域全体、企業全体、国家全体、世界全体、宇宙全体の最適化のために貢献することを指している。言い換えると、人間とはみんなの幸福や豊かさ実現のために存在が許されているという意味である。したがって、自分だけの幸福や豊かさを追求するというのは、人間本来の生き方に反するということを示している。

したがって、あまりにも個別最適を求める生き方をすると不都合が起きるのである。例えば、自己中で身勝手な生き方をすると家族の中で孤立するとか、会社内で誰からも相手にされないとか、地域で評価されず見放されるようなことが起きる。さらには、主体性や自発性を失い、責任性も放棄するような生き方をするようになり、家族からも同僚や上司からも信頼を失ってしまう。自ら関係性を断ち切ってしまい、その影響で自己組織性も発揮できなくなるのである。本人だけでなく、周りの人々も身体の病気にしたりメンタルの病気にもなったりしてしまう危険が高まる。

人間という生き物は、本来自己組織性を持つ。この自己組織性を発揮するには、良好な関係性(ネットワーク)という条件が必要である。この自己組織性と関係性の大切さを認識して伸ばしてあげる教育をしないと、大人になってから不幸になる。したがって、幼児のときからこの自己組織性をしっかりと成長させる育て方が求められる。どんな育て方かというと、行き過ぎた『介入』をしないという姿勢である。なるべく本人が自ら気付き学び成長するのを待つという態度が大切である。そして関係性を感じられるように、愛情をたっぷりと注ぎ続けることである。

子育てほど難しいことはない。だからこそ、子育ては尊いことであるし自分を成長させてくれるミッションである。とかく、親というのは我が子の幸福を願うものである。ケガをしないようにとか病気にならないようにとか、細心の注意を払いながら育てる。それ故に、ついつい細かく事前に指示をしてしまうし、先回りをしてしまう。言いたいことやりたいことをついつい予測して助けてしまう。知能が高くて教養のある親ほど、こういう子育てをする傾向にある。こういう子育てが、実は自己組織性の成長を妨げてしまうのである。子どもが自ら考えて行動するという自己組織性を発揮することを阻害してしまうのである。

子どもが思春期になり反抗期を迎えたときに、あまりにも親に歯向かい反発する態度をした時に、ついつい父親は権力で子どもの反抗を抑え込む傾向がある。これも、子どもの自己組織性の進化を妨げてしまうことになる。学校においても、教師があまりにも子どもの自主性や主体性を無視して、すべて指示通りに行動させてしまうと、やはり自己組織性の成長を阻止してしまう。日本の学校教育というのは、この自己組織性を育てる教育をしていないと言える。中学校や高校の部活でも、自己組織化を妨げるような指導をしがちである。不登校やひきこもりが増加しているのは、自己組織化を認めない教育現場があるからではないかと考える。子どもたちの主体性・自主性・自発性を育んでいく教育をしないと、正常な自己組織性を発揮できなくさせてしまい、不幸にしてしまうことを認識すべであろう。

親族間殺人が5割を超えた訳

警察庁の発表によると、なんと発生した殺人事件のうち、親族間で起きた殺人事件が全体の55%近くに及んでいるらしい。他人に対する殺人事件だったら構わないとは言わないが、親族どうしが何故に殺人事件まで発展するのか、実に不思議である。そう言えば、最近TVのニュースで流れている殺人事件の多くが、親子間、兄弟間、夫婦間、祖父母と孫の間、などで起きている。家族・親族と言えば血縁や婚姻関係がある。他人よりも縁が深い。普通なら、殺人などというおぞましい行為は出来ない筈だ。

親族間殺人が殺人事件全体の5割を超えてしまったのは、2016年からだという。年々割合が増えて、ついには半数以上になってしまったらしい。殺人事件の総件数は年々減少している。それなのに親族間の殺人事件は減らないばかりか増えているということであろう。家族や親族は、本来深い絆で結ばれている。そういう絆があるということは、他人よりもお互いに支え合う力は強い筈である。当然、親族間の愛情が溢れていると思われる。それなのに殺人を実行するほど憎しみを抱えていたというのは理解できないことである。

愛と憎しみは表裏の関係にあるということは、よく知られている事実である。愛があるからこそ憎しみという感情が湧いてくる。愛がないというのは、無関心ということである。親族だからこそ愛が根底にあり、その裏返しである憎しみが殺人に発展したと見られる。憎しみという感情が増幅して、殺人を起こしただけではないケースもあったろう。資産を奪い合ってのトラブルもあったかもしれない。いずれにしても、お互いの尊厳を認め合い、心から敬愛していたとしたら殺人事件にならなかったのは確かである。

親族や家族間において、金銭トラブルが発生するケースが少なくないようである。金銭トラブルは家族間にはよくあることであるが、それが殺人事件にまで発展してしまうのは、よほどのことであろう。家族の絆と金銭のどちらを優先するかというと、普通なら家族の絆が大事だと思うであろう。ところが、最近の家族どうしの殺人事件を分析してみると、お金のために家族を平気で裏切るような人が増えている現実があるようだ。なんとも情けない時代になってしまったみたいである。

家族や親族間における関係性が希薄していて、家族というコミュニティが崩壊していると言われ始めて久しい。本来は支え合うべき家族が、いがみ合い憎しみ合うような関係性になってしまったのである。殺人事件までも起こすというのだから、家族や親族の良好な関係性は既になくなってしまっているのかもしれない。機能不全家族という言葉が言われることが多いが、まさに家族というコミュニティの関係性がなくなり、機能不全に陥っているからこそ、これだけ殺人事件まで発展する家族トラブルが増えたのであろう。

家族という社会システムが崩壊している影響は、殺人事件の増加だけではない。家庭内における様々な問題を起こしているのは、まさに家族というコミュニティが崩壊しているからに他ならない。ひきこもり、不登校、家庭内暴力、パワハラ、セクハラ、モラハラなどが家庭内に増加しているのは、家族システムが機能不全を起こしているからであろう。勿論、これらの問題が起きているのは社会全体の機能不全も影響していることも付け加えておきたい。さらに、家族の中にうつ病などの精神疾患や精神障害が発生するのも、家族コミュニティに問題があることがひとつの要因である。家族という社会システムが壊れていることが、様々な問題を起こしている原因と言えるかもしれない。

何故、家族という社会システムが崩壊してしまったのかというと、関係性が劣悪化してしまったせいであろう。そして、関係性が劣悪化してしまった原因は、家族間における過剰な『介入』によって、一人ひとりの自己組織性(自律性)やオートポイエーシス(自己産出性)の機能不全が引き起こされた為とみられる。親が子どもに対して、圧倒的優位性を持って、必要以上に支配し制御し所有化してしまっているからではないかと思われる。または、逆に愛情をかけないという無視や無関心の状態に置かれたのではないかとみられる。これらの過剰な介入や無視が親子間、夫婦間などで起きていて、良好な関係性が壊れているように感じられる。関係性の大切さを再認識して、家族というコミュニティを再生させないと、家族間のトラブルや殺人事件はなくならないと思われる。

うつ病が発症する本当の原因

うつ病またはうつ状態に陥ってしまっている患者が激増している。うつ病は脳の機能障害だと思われている。神経伝達物質セロトニンの不足が影響して、神経伝達回路における不具合がうつ病の発症に関係しているらしいと思われている。だから、SSRIという選択的セロトニン再取り込み阻害薬がうつ病に効果があると言われている。このSSRIという画期的な抗うつ薬が発売された際には、これでうつ病患者は救われたと思った人も多い。ところが、うつ病患者は減少するどころか、逆に数倍にも増えてしまったのである。

そんな馬鹿なことはあり得ないと思うかもしれないが、実際にSSRIという薬が出来たお陰で、うつ病患者は激増したのである。しかも、SSRIという薬によってうつ病が完治する人は殆どいない。だとすれば、うつ病にSSRIは効かないし、うつ病の医療費だけが増加させる役割しかないということになる。ましてや、うつ病の発症が脳の神経伝達回路系の不具合によるものではなくて、違う原因らしいということが判明している。脳だけでなく、腸内細菌や人体全体のネットワーク回路の不具合もうつ病の発症に関わっている。だから、脳だけに働くSSRIの薬効がないというエビデンスが得られたのである。

それでは、何故腸内細菌などを含む人体全体のネットワークシステムが不具合を起こすのであろうか。ネットワークシステムの不具合は、システム論から観ると実に良く理解できる。複雑系科学におけるシステムとは、構成要素が全体最適を目指して、それぞれが関係性を発揮して自己組織性(自律性)とオートポイエーシス(自己産出)を機能させる。ところが、何らかの原因によって関係性を損なって個別最適を目指してしまうと、ネットワークシステムが破綻を起こす。これが人体というシステムにおける不具合(疾病)である。

人体における構成要素とは、60兆個に及ぶ細胞や100兆個以上あると言われる腸内細菌などであろう。ネットワークシステムの不具合は、構成要素そのものに問題の原因がある訳ではなく、それらの関係性(ネットワーク)の劣化にある。そして、その関係性の劣化や希薄化は、ストレスに起因しているというのが医療界における定説になっている。ストレスとは精神的なそれだけでなく肉体的ストレスも含まれる。食品添加物、化学肥料や農薬、クスリ、過大な飲酒や喫煙などが身体に過剰なストレスを与える。対人ストレスや過大過ぎるプレッシャーなども影響している。

それらのストレスが原因になり、人体ネットワークシステムの不具合を起こし、身体的疾患や精神疾患を起こすと考えられている。それでは、何故人間はこんなにもストレスに弱いのであろうか。ストレスを乗り越えることが出来るなら、システムの不具合が起きないからうつ病にはならない筈である。人間には、そもそもある程度のストレスなら乗り越えることが出来る自己組織性とオートポイエーシスを持っている。ところが、多重ストレスや連続したパワハラ・セクハラ・モラハラを受けると、それらの機能が劣化してしまうのである。それも人間関係が破綻しているとなおさらである。

うつ病などの精神疾患が発症する本当の原因は、本人だけでなく社会システムそのものの不具合にある。家族という社会システム、会社や各部門における社会システム、地域社会のシステムなどにおいて、ネットワーク(関係性)の不具合や破綻を起こしていると、その構成要素である人間にも大きな影響を与えてしまう。人間の精神そのものにも自己組織性がありオートポイエーシスが本来備わっている。つまり、主体性・自発性・自主性・責任性などの自律性があるし、自らが価値を生み出すオートポイエーシスを持つ。家族どうし、社員どうし、住民どうしの関係性が希薄化したり劣悪化したりしていると、精神の自己組織性とオートポイエーシスが機能劣化を起こしてしまうのである。

人間という生き物は、様々な社会システムの中で、どれかひとつのネットワーク(関係性)悪化だけならば、何とか乗り切ることができる。ところが家庭でも、そして会社や地域社会でも関係性を無くしてしまうと、ストレスを自ら乗り越えることが出来なくて、人体のネットワークシステムの不具合を起こす。これがうつ病発症の本当の原因である。企業における関係性を改善することはなかなか出来ないが、家族というシステムの不具合なら、家族どうしが努力して協力し合うことで改善することは可能だ。勿論、身体的ストレスを解消する食生活の改善も可能だ。食生活も含めた生活習慣を改善し、家族という社会システムを本来あるべき姿(介入せず・支配せず・制御せず・攻撃せず)に改善して、関係性を良好なものにすればうつ病は完治できるのである。

 

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精神疾患が薬で完治しない本当の訳

精神疾患は投薬では治らないなんてことを言うと、とんでもない間違いだと怒りを露わにして抗議する精神科医がいることだろう。そんなエビデンスのない戯言を言って、人々を惑わすのはとんでもないと言うに違いない。確かに、精神疾患に対する投薬治療による改善効果はエビデンスがあると信じられてきたのは事実である。しかし、ここにきて投薬治療による薬剤の作用機序が、薬品会社によって巧妙に仕込まれたものではないかという疑いが出てきたらしい。ましてや、治験結果そのものがかなり怪しいと言われているのである。

うつ病の特効薬として現れたSSRIの作用機序は、正常な理解力がある人間ならば、まったく納得できない説明である。セロトニン濃度が上がる筈だという思い込みだけである。しかも、脳の働きそのものがまだ解明されていないのに、まったくの想像による仮説でしかないのである。誰も実際に確認していないのに、効く筈だと勝手に思い込まされて処方された患者が、実に可哀そうである。薬品会社の治験によるとかなりの効果があるとされているのに、第三者が効果判定をすると、優位性が認められないという結果が出ているという。これこそ、エビデンスが保証されていないのだ。

他の抗うつ剤や向精神薬も、実は似たり寄ったりなのである。すべて仮説に基づいた薬効であり、誰も明らかな具体的科学的根拠を示せないという。確かに、向精神薬によって一時的な改善はみられるケースもあるようだ。しかし、しばらくすると薬効が感じられなくなり、さらに増量するか別の向精神薬に変更せざるを得なくなったりする。多剤投与という最悪の結果になることもしばしば起きるらしい。これでは、精神疾患が投薬治療によって完治するなんてことは起きる筈がないであろう。

そもそも、精神疾患は脳の神経伝達系の異常によって起きると考えられてきたが、最新の医学研究では脳だけの異常ではないということが明らかになってきた。ということは、脳の神経伝達系統に働く薬を処方されても、そんなに効果が上がらないのは明白である。とすれば、これだけでもエビデンスは崩壊しつつあるという証左になる。しかも、投薬治療が精神疾患には不要だとする、もっと確かな科学的根拠が存在するのである。それだけでなく、かえって投薬が悪影響を及ぼすというエビデンスがあるということが判明した。

最新の複雑系科学におけるシステム論がある。その最先端の第三世代のシステム論においては、システムそのものには自己組織性(自律性)だけでなくオートポイエーシス(自己産出・自己産生)があることが解明されている。社会もシステムであるし、宇宙全体もシステムである。勿論、人体そのものもシステムである。家族というコミュニティもひとつのシステムとして考えられている。地域コミュニティ、そして企業も、そして国家もシステムとして捉えられる。地球もひとつのシステムであり、自己組織性とオートポイエーシスが存在していることが判明している。

人体システムは、60兆個に及ぶ細胞という構成要素によって人体という全体が形成されている。そして、60兆個の細胞には自己組織性があるしオートポイエーシスという機能が存在している。100兆個以上ある腸内細菌にも自己組織性がありオートポイエーシスがあることが解明されつつある。腸が第二の脳とも呼ばれるのは、そのせいである。これらの細胞や腸内細菌は、過不足なく人体という全体の最適化を目指して働いている。勿論、細胞によって自己組織化されている筋肉・骨・臓器などのネットワークシステムは、人体の健康とその維持のために過不足なく働いている。人体というネットワークシステムは恒常性や自己免疫などの自己組織性を発揮しているし、自らのシステムにおいてオートポイエーシスを発揮している。つまり、人体とは本来、外からの介入(インプット)をまったく必要としない完全なシステムなのである。

人体は、外部からの不必要で過度の悪意に満ちたインプットを受けてしまうと、機能不全を起こしてしまう。例えば、社会的なストレスや人間関係における過度のプレッシャーなどのインプットをされ続けると精神的な障害を起こす。または、家族からの過度の介入や支配を受け続けると、ストレスによる身体疾患や精神疾患を発症する。免疫系や自律神経にも悪影響を及ぼして、重篤な身体疾患さえも起こす。これがシステム異常である。そして、このシステム異常は人体に対する過度の介入で起きているのだから、それを投薬という過剰介入をすることは、さらに人体システムを悪化させてしまうことになる。自己組織性とオートポイエーシスを機能低下させるからである。精神疾患は、社会システムの機能不全が起こしているのだから、そのシステムを正常に戻すことでしか治癒しないのである。投薬は治癒を妨げるだけでなく、過度の介入が精神疾患をさらに悪化させるだけであると言えよう。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、精神疾患が何故投薬によって完治しないのかを、科学的検証をもとにして詳しく解説しています。さらに、投薬をせずに精神疾患完治させることが可能となる「オープンダイアローグ」という精神療法の研修会を開催しています。

占いが当たる理由と危険性

占いブームがまたやってきているようである。世の中、スピリチュアルブームでもある。特に若い女性を中心に、スピリチュアルな物品購入、パワースポット巡り、各種のスピリチュアルを利用した占いなどにはまってしまっている人が多い。ひとつの心の拠り所として活用している分にはまったく問題ないであろう。しかし、守護霊や指導霊からの指示だと言って、本人の重要な人生の選択肢まで決めてしまう占いをする人物がいるのには、驚愕してしまう。それも具体的にこうしなさいと細かく指示をするというのだから、恐怖感さえ覚えてしまう。

日本の過去の歴史の中で、呪術者やシャーマン、そして巫女や霊媒師などが存在した。そして、そういう人物が政治の中枢に入り込み、日本の未来を歪めてきた歴史がある。人の未来が見えると占いで生計を立てている人物もいる。とても当たると評判の占い師がいて、TVのワイドショーでも取り上げられている。そういう占い師が芸能人に対して具体的にこうしろああしろと、自信を持って指示している姿を放映している。こういう占い師は益々繁盛することであろう。しかし、こんな占い師に人生を任せてよいのであろうか。

あなたの将来はこうなると占い師に言われて、実際にそうなることが圧倒的に多いのも事実である。どういう訳か、その人の未来を的確に当てる占い師がいるし、過去の経歴や親族のことを正確に言い当てる占い師がいる。評判の占い師に自分の未来を占ってもらい、不安を打ち消したいと思うのも当然である。自分の人生について、どうするのか迷っている人ならなおさら当たると評判の占い師に聞いてみたいと思うであろう。しかし、9割以上の占い師はまやかしである。人間の無意識を巧妙に利用して操っているだけである。しかも、その占い師自身が本物だと思い込んでいるから深刻なのである。

占いが何故当たるのかというと、占ってもらった本人の無意識がそうさせるからである。また、自分の生い立ちや親族のことを的確に占い師が当てるのは、占ってもらっている自分自身が占い師にヒントを与えさせられているだけである。占い師は、実に巧妙に言葉を操りながら質問しているように思わせずに、本人に答えさせているだけなのである。そして、本人の迷っていることにこうしなさいと実に潔く言い切る。迷っているようなそぶりは絶対に見せず、自信満々に断言する。

何故もそんなに自信満々に言い切るのかというと、本人の無意識を操るには断言しなければならないからである。あまりにも自信満々な占い師だから、本当にそうなるのだと本人が信じ込むのである。これが、もしかするとこうなるかもしれないなどとあやふやな言い方をすると、本人も半信半疑になるから、未来は言われた通りにはならないのである。人間の無意識というのは、こうなると100%信じたとしたら、無意識の意識がそうなるように行動をさせてしまうのである。しかも、集合無意識が働くので、他の人もそれに応じるから、占い通りの未来になっていくのであろう。

殆どの占い師は明るい未来や輝かしい未来しか占わないので、それで幸福になるのだから問題ないと言う人が多いかもしれない。実は、こういう考え方が極めて危険なのである。何故ならば、人間本来の持っている天性の機能を台無しにしてしまうからである。人間には本来、自己組織性(自律性)とオートポイエーシス(自己産出・自己産生)が備わっている。つまり、人間というのは自分が主体的にしかも自発的にものごとを決断して、自らが進んで主人公になって人生を歩んで行くものである。しかも、人生の選択をするうえで必要なその人の価値観や哲学は、自らが血の滲むような苦労して気付き学び習得していくものである。

そういう大切なプロセスを誰かに委ねてしまうのは、自らが持っている機能を低下させたり劣悪にしたりするので、大変危険なのである。最先端の複雑系科学で明らかにされつつあるシステム論、その中心になるのは自己組織性とオートポイエーシスである。人間そのものも複雑な関係性(ネットワーク)を持つシステムのひとつである。だから、パワーもエネルギーも、そして自己治癒力や自己産生能力も自分で引き出す能力を持つのである。他からインプットされるべきものではないし、内なる自己から自然と産み出されるものである。それを他人から介入(指示・指導・制御)されてしまったら、自分が自分でなくなるに違いない。占い師による傀儡に成り下がってしまう。占い師に自分の人生を委ねることだけは絶対に避けなければならない。

 

夫婦の対話がなくなる時

夫婦の会話がないという話をよく聞く。勿論、必要最小限の会話はするらしい。例えば、「飯」とか「風呂」とかの短く味気ない単語の羅列である。それ以外は、「今日の夕飯は要らない」とか「昼は外で食べる」といった手合いものである。こういう会話は、『対話』とは呼べそうもない。どちらかというと『独白』というようなものであろう。気持ちとか心は通っていそうもない。対話はダイアローグというが、独白はモノローグともいう。夫婦のダイアローグがもはや失われてしまっている家庭が非常に多い。

何故、夫婦間に対話(ダイアローグ)が失われてしまっているかというと、お互いに仕事を持っていて、妻は家事や育児に追いまくられる生活をしているという事情もあるという。夫は仕事で早朝から深夜まで働き尽くめ、家事育児には参加せず、たまの休日は一人で遊びに出かけるか家でゴロゴロしている始末。妻だけが一人で家事育児をさせられる、いわゆる「ワンオペ」の状況になっていて、妻のストレスと不満は頂点に達している。そんな状況の中で、どうして穏やかな対話が出来ようか。愚痴や不平の言葉しか出ないし、それを聞き流すしかないというモノローグ(独白)の世界に陥るのは当然である。

これは働き盛りの若い夫婦の例であるが、熟年や老年の世帯でもやはりモノローグの世界に陥っているケースが少なくない。妻が夫と一緒の空間に存在することを嫌っている。稀にその逆のケースもあるが、殆どの夫婦は妻が夫を避けている。夫と同じ趣味や運動を避ける妻が多い。同じスポーツをしていても一緒にプレーすることを避けたがるのである。夫婦ともにゴルフをするのにも関わらず、妻が夫とは一緒にラウンドしたくないという。さらには、女子会の旅行なら喜んでどこにも行くが、夫婦だけの旅は絶対にしたくないという妻が圧倒的に多い。そして、そう思っている妻の心情を、理解さえしていない。

どうしてこんな夫婦になってしまったのであろうか。夫は、妻子のために身を粉にして働いてきた。ようやく定年を迎え、子供たちも巣立っていき二人きりの生活になった。これからは夫婦で共通の趣味を持ち、温泉旅行を楽しみながら余生を送ろうと思っていたのに、妻がそれに応えてくれないのだ。例え一緒に旅行に行ったとしても、会話が続かないし、楽しそうな笑顔さえ見せてくれない。不機嫌な顔をずっと見せつけられたら、対話しようとする気持ちにもなれないだろう。どうしてダイアローグにならず、モノローグになってしまうのだろうか。夫には、その原因がまったく見当もつかないのである。

このような働き盛りの若い夫婦でも熟年夫婦でも、対話がなくなってしまった原因は、どちらか一方にある訳ではない。夫にも妻にもありそうだ。そして、夫婦ともに相手に原因があると思い込んでいるのである。だから始末に負えないし、対話の喪失が改善することはない。どちらか一方が重篤な疾病に罹ったり、介護の必要な状況に追い込まれたりしない限り、夫婦の対話は生まれないであろう。実に悲しい現実である。夫婦の対話がないというのは、共通言語がないということである。話が通じないのは当然である。

このように対話を失ってしまった夫婦は、何故そうなってしまったのかの本当の原因を知らないでいる。対話がなくなる真の原因は、夫や妻のどちらかに非があるからではない。夫婦の『関係性』が損なわれているからである。勿論、この関係性が希薄化もしくは劣悪化するそもそもの原因はある。どちらかというと、夫側にそのきっかけを作った責任はあるかもしれない。何故かというと、客観的合理性の近代教育を受けたお陰で、学業優秀な男性ほどこの影響を受けたからである。身勝手で自己中心的で、相手の気持ちに共感できない人間に成り下がってしまったのである。妻の気持ちに成りきって話を聞かないから、妻は話すことを止めてしまったし、対話しようとしなくなったのである。

こうした相手に共感しないただのモノローグ的会話になってしまい、夫婦の関係性は最悪のものなってしまい、お互いを支え合うという家族というコミュニティが崩壊することになる。当然、子どもにも悪い影響を与えてしまい、不登校、ひきこもり、家庭内暴力などの問題行動を引き起こす要因ともなる。家族という関係性は破綻して、機能不全家族になってしまう。対話が夫婦間になくなったことを端緒にして、こういう機能不全家族が始まると言っても過言ではない。だからこそ、夫婦はお互いの関係性に注目して、お互いの共通言語を紡ぎ出す努力を続けなければならないのである。それも、傾聴と共感がキーワードである。相手の悲しみや苦しみを、我がことのように感じられる感性と想像力が求められる。夫婦の関係性をどのように再構築すれば良いのか、真剣に考え直してみてはどうだろうか。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、機能不全家族に対する支援をしています。または、対話がなくなってしまわれた夫婦への支援もしています。オープンダイアローグという心理療法によって、それらを改善することが出来ます。まずは「問い合わせフォーム」からご質問ください。