夫現病を治す方法

ご婦人の不定愁訴症候群のうち、他の特定のストレス要因がなくて、夫が原因としか考えられないものを『夫原病』と呼ぶという。この夫原病が益々増加しているし、その症状が深刻化しているという。そして困ったことに、この夫現病がそのまま改善しないと、重大な免疫疾患や内分泌疾患にもなりやすいし、うつ病やパニック障害などの精神疾患に追い込まれることが多い。さらには、これらの症状を放置しておくと、乳がん、子宮がん、卵巣がんになるケースも少なくないから、軽症のうちに治す必要があるとみられる。

ところが、この夫現病を治癒させることが非常に難しいのである。元々、夫の言動や関わり合いが原因なのだから、投薬治療やカウンセリングで完全治癒することは期待できない。夫が変わらない限り、この夫現病は完全治癒することはない。または、夫と離婚すればこの夫現病から解放されるが、子どもが居れば踏み切れないし、離婚したあとの経済的な不安があると思いきれないものだ。自分が原因だと分かったとしても、夫は自分から変わろうとはしない。ましてや、ドクターから夫原病だと宣言されても納得できないのが人間だ。

だとすれば、夫原病になった妻は一生この苦しさに甘んじなければならないのか。ましてや、夫が高い社会的地位や立派な職業に就いていて、高収入で経済的にも裕福な暮らしを保証している夫婦関係であればあるほど夫原病を発症しやすいから複雑である。自分が我慢しなければならないと思うほど、そして良妻賢母ならなおさらこの夫現病になりやすいから、治りにくいのである。妻よりも夫の方が社会的成功者に見られていて、圧倒的に優位な立場であるほど、夫原病が完治することが少ないというのである。

ひとつだけ夫原病を治す方法がある。教養や学歴が高くて、プライドの高い夫が唯一自ら変化しようとする心理療法があるのだ。それは、オープンダイアローグという最新の家族カウンセリング療法である。フィンランドのセイックラ教授が開発した、難治性の精神疾患を完全治癒させるという精神療法のひとつである。これを夫婦に対する家族カウンセリング療法として実施すれば、かなりの効果を挙げることになろう。このミラノ学派の家族カウンセリング療法は、家族内に存在する病理を糾弾することはないし、介入することはない。だから、夫も協力的な態度をしてくれるし、自ら変わろうとするのである。

通常、メンタルの疾患の原因が家族にあるとすれば、家族に対するカウンセリングを行い、その病理を明らかにして、メンタル疾患の原因になっている家族の言動を変化させるという手法を取ることが多い。ただし、その場合家族の疾患の原因が自分にあると指摘された本人はどのように感じるであろうか。おそらく、原因が自分にあるとされたならば、当事者はおおいに反発するに違いない。ましてや、妻の病気の原因が自分にあると断言され、あなたは変わらなければならないと言われたら、相当なショックを受けるし、反論したがるのは目に見えている。自分だけの責任ではないと、変化するのを拒むに違いない。

オープンダイアローグ(以下ODと略する)という家族カウンセリングの手法は、今までのそれとはまったく違うのである。だから、治療効果が高いという。ODは基本的に確定診断をしないし、治療計画を示さない。当然、診断をしないのだから原因も追究しない。ましてや、特定の誰かに疾患の責任を負わせることをしないのである。どうするのかというと、当事者と家族に対してセラピストが開かれた対話を繰り広げるだけである。それも、当事者のつらくて苦しい状況とその気持ちを聞き取って明らかにするだけである。さらに、どのような時にそういう症状が起きるのかを否定せず共感的に傾聴するだけである。

ODをするセラピストは、家族関係に対して一切『介入』をしない。つまり、インプットをしないしアウトプットも求めない。あくまでも、家族が自分たちで現状をどのように認識して、自分がどうすれば良いのかを気付き学ぶ場を提供するだけである。ODのセラピストは、当事者が治癒することを求めないのである。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、人間というのは何か変化することを他人から求められると拒否するからである。人間が本来持つ『自己組織性』と『オートポイエーシス(自己産生)』を引き出すのが、ODなのである。ODを続けて行くと不思議なことに、本人自ら変わろうとするのである。当事者も含めた家族全員が、自分から変化したいと心から思うのである。これは、実に不思議な化学反応が起きると言えよう。夫原病を治すには、ODが最適だと言える所以である。

 

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主体性を喪失した指示待ち社員

ファーストフード店において、若いアルバイト店員が発する決まりきった質問に対して、突然予想外の質問やお願いをしてみると面白い。まずは、答に窮するに違いない。そして、自分で判断できず、誰かに応援を求めるか、もしくは黙り込んでしまうであろう。ファーストフード店で働く若いアルバイト店員は、細かいマニュアルに基づいて業務をこなしている。マニュアルで示された業務や受け答えは出来るものの、イレギュラーの対応ができる店員は殆どいない。そんな教育はされていなのだから当然だが、主体性がないのである。

他の会社でも、決まりきったルーチンの作業は出来るものの、何かイレギュラーな業務が発生すると遂行できない社員がいる。また、何かのトラブルが起きるとその対応や解決が出来なくて、おろおろしてしまう社員が存在する。上司や同僚から指示命令を受ければ動くが、自ら率先して動くことが出来ない社員も見受けられる。このような指示待ち社員は、想像以上に多いようだ。このような社員は、業務改善や問題解決に主体的に取り組むことはないし、問題に気付かないことも多い。このように主体性を持てない社員が増えている。

ひと昔前であっても、こういう困った社員がまったく居ない訳ではなく、僅かだがそれぞれの部署に少数だが在社していた。しかし、最近は自発性を発揮できない指示待ち人間が増えている。毎日決まりきった業務しかしないのであれば、何とか目の前の業務をこなすだけだからそれなりに役に立つ。しかし、日々の業務が臨機応変の対応が日々求められるような職場であれば、まったく役に立たない社員として烙印を押されてしまう。主体性や自発性だけでなく、自分の仕事に責任性を持たない社員が増えているのである。

このように主体性を持たない指示待ち人間が増えている原因は、教育における間違いであろう。学校教育では、知識や技能を詰め込むだけの教育であり、智慧を育てる教育をないがしろにしているからである。家庭教育では、子どもが行動を起こす前に親が先取りや先読みをしていて、子どもの行動を制御してしまうのである。親が事前に指示をしないと、行動できないし話せない子どもが増えているのである。しかし、知力だけは人並みに育つから、一定の学力は発揮して高校と大学は優秀な成績を残し、就職試験も突破する。

このように主体性を発揮できず指示待ち社員は、益々増えることになる。官公庁の職場で、マニュアル通りの業務しかしない特定の職場においては、何とか仕事は務まる。また、工場や現場作業において、マニュアル通りの業務しかしないケースならば、指示待ち社員でも困らない。しかし、複雑な顧客対応やイレギュラーな業務だらけの職場では、まったく使えない社員とされてしまう。上司からは毎日のように叱責されるし、同僚からは馬鹿にされる。自分がいじめにあっているように感じて、勤務できなくなり休職に追い込まれる。

主体性、自発性、自主性、責任性などを総称して『自己組織性』と呼ぶことにする。システム論において、ノーベル賞物理学者のイリヤ・プリゴジンが提唱した自己組織化の理論から導き出した説である。物体や生物など、そしてそれらの構成要素には、すべて自己組織性が存在する。当然、人間の構成要素である細胞にも自己組織性がある。誰からも指示命令しなくても、自己組織性を発揮して過不足なく全体である人間の最適化のために日々働いている。当然、人間は生まれつき自己組織性を発揮できるようになっている。ところが、間違った教育によって、不幸にも自己組織性を発揮できないようにされてしまっているのである。自己組織性が乏しく、主体性がなく指示待ち社員になっているのだ。

このように、間違った学校教育と家庭教育をされた為に、自己組織性を発揮できずマニュアル通りの業務しかできなくなった社員に、自己組織性を取り戻すことが可能なのであろうか。社員教育や職場指導で、自己組織性を取り戻すことは殆ど不可能であろうと思われる。何故なら、システム論を把握していて、本来人間の持つ自己組織性を引き出す術を知っている指導者・管理者はいない。ましてや、自己組織性を引き出すには当人に対して介入してはならないのに、知識や技能を強制的に植え付ける指導法を取るのだから、かえって逆効果なのである。ひとつだけ本来持つ自己組織性を引き出す教育指導の手法がある。それは、オープンダイアローグという心理療法を利用した指導教育である。

 

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どうしていいか解らないひきこもり

ひきこもりは、全国で54万人もいるという。しかも、これは39歳までの年齢層だけであり、40歳以上のこきこもりも加えたら、100万人を超える数字になるかもしれない。何故なら、ひきこもりの実態をひた隠しにしている家庭は多いし、自分の子どもがひきこもりだとは思いたくない親が多いのである。厚労省の調査統計上は、6ケ月以上に渡り家庭内にいるというしばりがあるので、その期間に少しでもアルバイトをすれば除外される。しかも、実質的にはひきこもりなのにその範疇にはじかれるひきこもりも多いと思われる。

ひきこもりの5人に1人近くは、不登校から移行するらしい。そして、ひきこもりになるきっかけは、学校でのいじめや職場における嫌がらせ・パワハラ・セクハラ・モラハラなどがあげられるという。特徴的なことは、それらのきっかけになったことを家族に相談しないというのである。一人でそれらの問題を抱え込んで、悩み苦しみ行き場もなくて、ひきこもってしまうらしい。家族はいたとしても、孤独感を抱えて生きているというのだ。

どうして、ひきこもりになるきっかけが起きた際に家族に相談できないのだろうか。その時に家族に相談してくれたとしたら、なんとか対応もできたに違いない。しかし、ひきこもっている人は、親に相談できない人が殆どである。ひとつは、親に心配をさせたくないという気持ちもあろうが、親に相談をしたいと思わないのではなかろうか。親を信頼していないなどというと少し乱暴であるが、親が解決してくれるだろうという確信を持てないからではなかろうか。親への絶対的な信頼感と敬愛感があるなら、相談するに違いない。

ひきこもりや不登校の方たちの相談を受けていて感じるのは、育児や家庭教育における父親の存在感が希薄であるケースが多いということである。父親の職業がハードな勤務状況にあるとか、単身赴任で不在であるようなケースならある意味仕方ない。しかし、子育てや教育に関与する時間があるにも関わらず、あまり父親が協力的でなく、母親だけにその役割負担が過大になっている例が多いのである。ましてや、夫婦関係が希薄化・劣悪化している場合が多いというのも特徴的である。

ひきこもりや不登校になる原因が父親だなんて極端なことは言わないが、その一因になっているように思えて仕方ない。そして、子どもに対して正しい思想や哲学を語ることが出来ない父親が多いのである。勿論、ひきこもりに陥っているケースで父親を心から信頼し尊敬しているというのは極めて少ない。だから、ひきこもりの人々は、相談もできず何をしていいか分からないのである。当然、ひきこもりから離脱することは出来ないし、長期化することが多い。とは言いながら、父親ばかりに責任を押し付けるのも正しくない。

ひきこもり家庭の父親に事情を聞いてみると、子育ての仕方も解らないし子どもを愛する術を知らないと言うのである。勿論、子どもに語れる正しい思想や哲学も習ったことがないというのである。これでは、父親にひきこもりの原因を求めるのは酷である。父親自身も自分の父から教えられていないのである。とは言いながら、ひきこもりになった我が子を救う最大限の努力をしたかというと、そういうようには見えない。ひきこもりの我が子を本当に心配しているのは母親であるし、何とかしたいといつも心を砕いているのは父親よりも母親であるケースが多いのである。

ひきこもりや不登校の相談にいらっしゃるのは、圧倒的に母親が多い。そして、一人で悩んで苦しんでいるのは母親が多い。とは言いながら、ひきこもりをどうして解決していいか解らず苦しんでいるのは両親である。どう対応して解らず、差しさわりのない会話は出来るが、心を開いた本音での対話は出来ないでいる。ひきこもりの当事者は、解決したいと思いながら、どうしていいのか分からず苦しんでいる。相談するところもなく、解決をしてくれるところもないことから、現状に甘んじているのである。社会として、この状況を解決する手立てを見つけなければ、大変なことになる。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、ひきこもりの当事者からの相談、そしてご両親からの相談を受けています。また、どうしたらひきこもりの状態から離脱できるのかの研修を開催しています。さらに、家族と当事者に対するオープンダイアローグ療法を研修させてもらっています。ひきこもりには、このオープンダイアローグが高い効果をあげます。是非とも、ご利用ください。まずは、問い合わせフォームからご相談ください。

一芸に秀でる者は多芸に通ずる

京都大学特別教授の本庶佑氏が、ノーベル医学生理学賞に輝いた。彼は、実に多趣味である。一芸に秀でる者は多芸に通ずという諺があるが、まさにその諺通りの理想的な人物である。医学の分野、特に免疫学においては世界のトップクラスの研究者である。まさに一芸に秀でている。多芸においては、ゴルフと楽器演奏など多数の趣味を持つ。ゴルフはシングル並みの腕前で、ゴルファーなら憧れのエイジシュートを目指しているというからすごい。楽器演奏では、京都大学楽団で演奏の難しいフルートを吹いていたという。

ゴルフと言えば、やはりノーベル医学・生理学賞を取得した大村智北里大学特別栄誉教授もシングルハンデの腕前だと言われている。さらに、優れた経営手腕もあり、赤字続きだった北里研究所を黒字化したマネジメント力もすごい。経営改善のために、経営学を真剣に学んだと伝わっている。大村氏は、美術コレクターとしても玄人なみの眼力もあったらしい。また、温泉まで掘り当てることに成功したとのこと。ゴルフ好きのお陰で、名門コースの川奈ホテルゴルフ場から持ち帰った土で、エバーワクチンの開発に成功したという。

このように自然科学の学者というと、スポーツが苦手で超インドア派のガリ勉タイプを思い浮かべるが、世界に通用する超一流の学者は、多芸にも一流なのである。手前味噌になってしまうが、自分でも呆れるくらいの多趣味である。ゴルフ、登山、カメラ、料理、読書、テニス、PC、等々上げればきりがない。ゴルフはベストスコアが本庶氏と同じ78であるし、登山ガイドは10年以上続けている。残念ながら、器用貧乏というのか秀でた一芸はない。芸は身を助けるというが、趣味のお陰で充実ライフを過ごしている。

どうして多芸であることが一芸に秀でることになのか、詳しく考察してみよう。社会一般で言われているのは、いろんな趣味を楽しむことにより多眼的な視点と柔軟な思考力を持つことが出来るし、想像力と発想力が養われるということだろう。専門バカになることを防ぐことにもなろう。いずれにしても、昔からだいそれたことを成し遂げるような人物は、『遊び』が上手だった。その遊びが、泥臭くなくて洗練されてもいた。一流の人間は、遊びも一流なのであろう。遊びも出来ない人間が、世界的に認められる人物たりえないのだ。一流の人間は文武両道が基本であろう。

さらに、多芸ということを拡大解釈すれば、『統合』というキーワードに思いを馳せる。ノーベル賞の自然科学3分野である物理学、化学、医学・生理学は、現在はそれぞれの分野を分けるのが難しくなっているという。何故なら、それぞれの分野はお互いに影響し合っているし、3分野を統合しないと真理が明らかにならからである。最先端の科学研究では、すべての学問を統合して研究しないと、正しい法則を導き出せないことを科学者たちは認識せざるを得なくなっている。さらに、自然科学と社会科学も統合されつつある時代である。科学と哲学さえ統合され、科学哲学が最先端の学問になりつつある時代でもある。

古川学園高校(旧古川商業高校)の女子バレー部を率いて、当時無名の高校だったのに12回の全国制覇を成し遂げたのは国分秀男監督である。彼は、赴任当時バレーの技術と知識は素人同然だったが、猛勉強をしてバレーの指導術を得た。それと同時に、経営学を学んだ。選手たちの育成管理とチーム運営には、経営学が必要だと認識したからである。ドラッカーやジャック・ウェルチの本を読み漁って、チーム管理に生かした。かのアインシュタインは、科学の発展進化には形而上学(神智学)が不可欠だと主張していた。ノーベル賞を取るような最先端の欧米の量子力学の科学者たちは、押しなべて仏教哲学に傾倒しているという。

宇宙の万物がこの現実の世界に生成し、それが発展進化し存在するための法則(真理)を見極めるには、物理学だけでは困難である。化学、生物学、分子細胞学、医学、大脳生理学などの自然科学だけでなく、神智学、人智学、哲学、人間行動学、社会システム学などの社会科学にも精通していなければ普遍的な真理には到達できないことが判明しつつある。医学の世界では、脳外科、消化器外科、整形外科、精神科、循環器内科、眼科などの単科に精通していても、病気の原因は分からないことから、総合診療科や統合診療への流れが加速している。人体を全体の「システム」として考えないと、病気の原因と治療が出来なくなっているのである。これからの時代は、一芸だけを極めるには、まさに多芸としての『統合』が必要不可欠なのである。

僕らは奇跡でできている

一昨日から放映開始された『僕らは奇跡でできている』が実に面白い。関西テレビが作成したTVドラマであるが、とてもよく出来た物語である。午後9時からのゴールデンタイムの時間に民放テレビの初主演だそうだが、高橋一生という役者はどんな役をしても、奥行きの深い演技を見せてくれる。一生ファンにとってはたまらない魅力を感じることだろう。まだ初回なのでよく解らないが、明らかに主人公は発達障害かもしくは自閉症スペクトラムだと思われる。グッドドクターもそうだったが、フジ系列はなかなかやるものだ。

京都大学大学院卒業の主人公は、動物行動学の大学講師をしている。発達障害であるが故に、頓珍漢な会話や行動をして周りの人々を振り回す。歯に衣を着せぬ言動は、時には相手の痛いところをえぐり抜く。しかるに、その言動がやがて相手がしがみついている古くて低劣な価値観を壊して、新しくて高潔な価値観へといざなう。グッドドクターというTVドラマが描きたかったテーマと似通っている。もう一人発達障害であろう子どもが登場して、高橋一生演じる主人公と心を交わせる。お互いに成長する姿も見せてくれるだろう。

この『僕らは奇跡でできている』というドラマは、これからどんな展開を見せるか楽しみである。このドラマでイソップ童話の『ウサギとカメ』の物語を題材に取り上げていた。カメが寝ているウサギに、どうして声をかけずに追い越して先にゴールしたのか?と問うシーンが印象的だ。高橋一生はこんなふうに答える。カメは勝ち負けなんてどうでもよく、ただひたすら前に進むことが楽しいんだ。一方、ウサギは勝つことに執着していると。そして、榮倉奈々演じるヒロインに、「あなたはウサギだ」と言い放つ。榮倉奈々は、「自分はウサギではない」と反論するものの、自分の今までの行動に疑問を持つことになる。

発達障害や自閉症スペクトラムの方々が主人公として描かれるドラマは、これからも増えてくるに違いない。何故なら、現代の子どもたちの3割以上が発達障害だと言われているのである。当然、学校でも職場でも発達障害の方々との付き合いが出てくる。そのような発達障害の方々との交流において、自分たちよりも劣った存在として見下したりいじめたりするような社会であってはならない。ましてや、単に自分たちが支援すべき存在として、一方的にお世話するというような思いあがった気持ちで付き合うのも無礼である。

この『僕らは奇跡でできている』や『グッドドクター』などのTVドラマにより、彼らの素晴らしい能力や心の清らかさを素直に感じ取り、謙虚に自分の至らなさを気付かせてもらいたいものである。それが、彼らの『個性』を受容し、生かすことにもなろう。今まで多くの発達障害の方々と職場や地域で交流させてもらったが、多くの気付きや学びを彼らから受け取ってきた。そして、思いあがった自分や嫌らしい自分を叩きのめしてくれた。彼らがこの社会に存在している理由のひとつが、我々に大切な何かを教示してくれる為ではないだろうか。お互いに自己成長するには、違う個性を持った人との出会いが必要だ。

僕らは奇跡でできているというドラマの題名から類推するに、これから自然界における我々人間も含めた生き物が、この地球(宇宙)によって奇跡的に生かされているということもテーマになるのかとも思う。出来たら、最先端の物理学や分子生物学の観点からも、描いてほしいものだと期待している。特に、動物行動学という最先端の学問であれば、生物界におけるシステム論として描くのはどうだろうか。すべての生き物はシステムによって生かされているし、我々人間もシステムに基づいて生命が維持されている。当然、奇跡とも言えるような自己組織化やオートポイエーシスによって存在しているのである。

このドラマに原作はなく、橋部敦子さんのオリジナル脚本だという。どんな展開になるのか楽しみであるが、単なるラプストリーではなさそうである。この世界では人間も含めたすべての万物の存在そのものが奇跡であるし、すべてがある一定の法則によってその存在が認められている。そして、現代はその一定の法則に反するような生き方によって様々な問題が表れている。その法則の中の最も重要なものが、全体最適であり関係性である。障害者の人たちも含めた人類すべてが、幸福で豊かな社会を築くため、お互いに豊かな関係性を保ち支え合って生きることが肝要である。どこかの大統領や首相のように、自分たちだけの部分最適や個別最適を目指すことの愚かさも、このドラマで描いてほしいものである。僕たちは奇跡でできているというドラマから目を離せない。

ひきこもりは社会的な支援で解決

ひきこもりの状態に追い込まれてしまっている人が益々増えている。そして、その実態が明らかにされていない故に、ひきこもりの解決を遅らせてしまっているだけでなく、固定化させてしまっている。当事者の家族が、ひきこもりの実態をひた隠しにしていて、誰にも知らせないようにしているからだ。隣近所の方たちはひきこもりにあることを薄々感じているものの、支援することも相談に乗ることも出来ず、手をこまねいている。

ひきこもりが増えて固定化しているが、行政は手出しが出来ないでいる。当事者や家族が支援を要請しない限り、行政は何らサポートが出来ないからである。もし万が一、支援を行政に願い出たとしても、ひきこもりを解決する有効な手立てはない。保健師や精神保健福祉士などの専門家が家庭に赴いて支援行為をしようとしても、当事者は面談を受けないであろうし、家族だって面倒なことになることを回避したいと思うに違いない。長年に渡りひきこもりの状態にあり、一応平穏が保たれていれば事を荒立てたくないからだ。

ひきこもりの方々は、今の状況に甘んじている訳ではない。なんとか現状を打破したいと思っているし、社会復帰したいと願っているのは間違いない。しかし、そんな心とは裏腹に身体は言うことを利かないのである。ましてや、ひきこもりになった原因は、社会における間違った価値観による関係性の歪みや低劣さである。人の心を平気で踏みつけ痛めつけるようなことを日常的にしている、学校現場や職場の人々の悪意に満ちた環境に身を置くことなんか出来やしない。こんなにも生きづらい世の中にどうして出て行けようか。

そして、ひきこもりの人々がそんな社会に対する不信感を持っていること、さらにはそんな気持ちを家族も含めて誰も理解してくれないことに対する焦燥感が著しいのである。行政や福祉の専門家たちは、そんなひきこもりの当事者の気持ちに共感出来ないのである。そればかりではなく、ひきこもりになったのは当事者のメンタルに問題があり、そのようにしてしまったのは家族に原因があると勘違いしているのだ。これでは、ひきこもりの当事者と家族だって、支援を求めたくなくなるのは当然なのである。

それじゃ、ひきこもりのからの脱却は、間違った社会の価値観を改革しないと実現しないかというとそんなことはない。適切できめ細かな支援がありさえすれば、ひきこもりを乗り越えることが可能になる。しかし、今の行政に身を置く専門家にとっては、そのような支援は難しい。また、医療や福祉の専門家にも、そのような大変な労力を要する支援を提供する余力はないし、技能もないに等しい。だから、ひきこもりというこんなにも大変な問題が、社会的に置き去りにされてしまっているのだ。

ひきこもりから脱却するには、どのような支援が必要かというと、次のようなものだと思われる。まずは、支援者はひきこもり当事者の心に共感をすることである。ひきこもりになったきっかけは、それこそ人それぞれで違っている。そういった過去の辛く苦しかった過去を否定することなく黙ってじっと聞いて共感をすることである。当事者のメンタルや価値観に多少の問題があるように感じても、その病理を明らかにしてはならない。ましてや、当事者の行動にこそ問題があったように思っても、批判的に聴いてはならない。あくまでも、本人の気持ちに成りきって傾聴することが求められる。

出来たら、両親などの家族と一緒に話を聞けるなら、なおさら高い効果が生まれる。ひきこもりの家庭では、家族間での心が開かれた対話が失われている。この聞き取りと共感的な対話が、家族間にあったわだかまりやこだわりを溶かすことに繋がるのである。しかし、支援者はそのような家族間に存在する『病理』を指摘してはならない。あくまでも、現状における困っている事実や症状を聞いて行くだけである。その際に、聞き取った内容を出来る限りストーリー性のある言葉で言い換え、詩的で柔らかな表現に置き換えるのである。悲惨なこととして話した内容、憎しみや怒り、妬みや嫉みをストレートに表現すると、相手を非難している感情が強くなり過ぎるからである。

このように『開かれた対話』を繰り広げて行くと、不思議なケミストリー(化学反応)が起きるのである。当事者とその家族がお互いに大好きで愛し合っているという事実に気付くのである。愛しているからこそ、憎しみという感情に転化している事実にも。そして、その互いの愛情表現がいかに稚拙であったかということに気付くと同時に、それぞれの深い関係性にも思いを馳せるのである。勿論、正しい価値観や哲学を学ぶことにもなるし、間違っている社会であってもそれに対処していける勇気を持つことが出来る。家族の豊かで強い愛が感じられれば、人間は強く生きられるのである。これが『オープンダイアローグ』という支援である。このようなオープンダイアローグにより、ひきこもりの当事者と家族を救えるように、社会的な支援として確立していきたいものである。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、このオープンダイアローグを活用したひきこもり解決の支援を実施しています。ご家族でイスキアにおいで頂ければ対応いたします。外出が出来ないという事情があれば、交通費をご負担していただければ、出張もいたします。まずは問い合わせフォームからご相談依頼のメッセージをください。ご親戚の方からのご相談も受け付けます。

京大卒のノーベル賞が多い訳

今年のノーベル医学生理学賞を本庶佑氏が受賞した。がんの免疫療法の画期的方法を開発した成果を認められたという。この免疫システムを利用して、がんの特効薬が開発されて既に臨床に用いられ、多くのがん患者を救っていると言われている。本庶氏は、京都大学医学部卒で、現在は特別教授を務めている。日本を代表する国立大学と言えば東京大学と京都大学であるが、自然科学分野のノーベル賞を取るのはどういう訳か京都大学出身者が多いのは不思議である。

ノーベル賞の受賞者が卒業した大学を調査すると、やはり東京大学と京都大学の出身者が図抜けて多い。どちらも8名ずつである。そのうち、人文科学分野は3人ですべて東京大学出身者である。ということは、自然科学分野の受賞者に限ると東京大学が5人、京都大学は8人になる。自然科学分野というと、物理学賞、化学賞、医学生理学賞であるが、科学者にとってはノーベル賞を取ることが世界で一流の研究者として認められるということなので大変な名誉である。それが東大卒よりも京大卒が多いというのは驚きである。

この不思議さというのは、たまたま偶然であろうと思う人も多いに違いない。しかし、考えてみてほしいのだが、京都大学に在学している方と卒業している方には失礼だが、東大のほうが入学試験の偏差値は高い。それなのに、ノーベル賞の自然科学分野で圧倒的に東大よりも京大が多いと言うのは考えられないことなのである。東大といえば、卒業後にキャリア官僚になる人が圧倒的に多いし、自然科学分野の研究者も優秀な方が多いのは当然であろう。それなのに、自然科学分野で京大の後塵を拝するのは考えられないのである。

何故、京都大学卒のほうが東京大学卒よりも自然科学分野でノーベル賞を取る人が多のか、やはりそれなりの訳があるとみたほうが自然であろう。自然科学分野において、東大と京大の学生及び研究者における違いは何なのであろうか。そのことが明らかになれば、東大の研究者がこれからノーベル賞を取るような研究成果を上げることが可能になるに違いない。ひとつのヒントとしてあるのは、湯川秀樹氏は西田幾多郎教授にかなりの影響を受けたという事実である。西田哲学と言えば世界的にも誇り得る足跡を残している。

湯川秀樹博士は、西田幾多郎教授の講義を誰よりも真剣に聴講していたと伝えられる。それが、ノーベル賞の受賞につながる研究に繋がったというのは、京大関係者ならたいていの人が知っている事実である。科学者が哲学を好きだったなんて、普通なら考えられない。ところが、伝統的に京都大学の科学者は、哲学が好きなのである。京都大学には、他の大学にはない価値観が存在する。それは、科学哲学という価値観である。科学は哲学という基本のうえに成り立つものであり、哲学を忘れた科学は危険だという価値観だ。

同じことを主張していた世界的に著名な科学者がいた。それは、かのアインシュタインである。アインシュタインは原子爆弾を開発する提案書に署名してしまったことを、一生後悔していた。彼は、科学を志す者は形而上学(哲学)をしっかりと学んだうえで、研究に邁進すべきだと考えていたと伝えられる。そうでないと、科学研究は暴走してしまい、人間の幸福に寄与しないばかりか、戦争や殺戮の為に利用されてしまう危険があると主張していたのである。何の為に科学を研究するのかという大事な哲学を忘れてはならないのだ。

西田幾多郎教授は、禅などの仏教哲学と西洋哲学を統合させたという功績だけでなく、多くの科学者の卵である理系の学生に哲学を教えて、日本の基礎研究の発展に寄与する成果を上げたと考えられる。西田幾多郎教授は、京都大学における科学哲学の基本を作ったのは間違いないであろう。IPS細胞の山中伸弥教授や本庶教授も、西田哲学の科学哲学の影響を受けたのは想像に難くない。ノーベル賞につながるような研究成果を上げるには、科学哲学という価値観が必要なのである。これが京大卒の科学者がノーベル賞を取る訳である。

本庶佑教授が、今回のノーベル賞を取る研究成果を上げるに至った動機は、同級生が病気で亡くなったことを契機に、こんな不幸な目に遭う人々を少しでも救いたいというものだったと伝えられる。つまり、科学研究を通して人々の幸福に寄与したいという強い決意を持って、研究に邁進したのである。東大の研究者にそのような哲学がないというような乱暴なことは言わないが、東大に科学哲学という概念が京大よりも希薄なのは確かであろう。文科省のキャリア官僚は、国立大学に哲学なんて要らないと嘯いているが、科学研究にこそ哲学が必要不可欠なのである。

ボランティアなんて呼ばないで

2020年東京オリンピックにおけるボランティア募集が始まった。TVの情報番組において、募集のやり方に対して批判的なコメントが多く寄せられている。ボランティアは無償が基本であるものの、地方から応募した人は宿泊所の確保と宿泊費の負担が自分でしなければならないのが、あまりにも厳しいという批判が多い。また、交通費が1000円までしか負担しないというのは、遠距離から通う人にとっては厳しいと意見がある。これではボランティアが確保できないだろうと思っている人が多い。

また、真夏の暑い時期にこんなにも多くの時間を拘束されるのだから、無償ではなくて有償にすべきだという意見も少なくない。さらには、ボランティアではなくて正式に雇用契約したスタッフを配置するべきだとの意見を述べるコメンテーターもいる。ボランティアを募集している意味や目的をまったく考えず、不見識な批判を繰り返すコメンテーターも酷いが、ボランティアの原則を無視して募集するオリンピック組織委員会も情けない。

最近のオリンピックにおいては、ボランティアスタッフが果たす役割が大きい。ボランティアの活躍によって大成功を収めたオリンピックが少なくない。一方でボランティアの募集をしても集まらず、苦しい運営を強いられたリオデジャネイロオリンピックのようなケースもある。ロンドンオリンピックでは、7万人のボランティアが集まり、友達の家に寝泊まりしながらボランティアを楽しんで、仲間との交流やネットワークが広がり、自己成長や自己実現が出来たと満足したボランティアが多かったと聞く。

東京オリンピックのボランティアが、ロンドンオリンピックのようなボランティアの理想に近いようなものになるのかどうかは分からない。しかし、東京都やオリンピック組織委員会が実施しているボランティア募集のやり方を見ていると、どうもそうではないような気がしてならない。どちらかというと、東京オリンピックのボランティアは、単なる人手不足を補う『無料スタッフ』という色彩が濃いのではないかと思える。開催コストをなるべく抑えるために、無料の開催支援員を集めているだけのように感じるのである。

東京都や組織委員会の人たちは、そもそもボランティアというものをどのように考えているのであろうか。ボランティアについての正しい認識を持っているのだろうかと危惧している。今まで20年以上もボランティアを続けている自分から見ると、東京オリンピックのボランティアは、ボランティアとして定義するには強引過ぎる。正しく清らかなボランティアを続けてきた人たちにしたら、ボランティアと呼ばないでほしいものである。

ボランティアとして定義するには、4大原則に合致しなければならない。一つ目は自発性・自主性・主体性である。二つ目は無償性であり、三つ目は連帯性・社会性である。そして、最後の一番大事な原則は、先駆性・社会改革性である。連帯性・社会性とは、その活動によって、社会のネットワーク・絆・関係性が深まり豊かになるということである。先駆性・社会改革性というのは、その活動によって社会がより良く変革するということである。

その4大原則に当てはめると、少し問題はあるにしても無償性は担保されていると言えよう。自発性・自主性・主体性という点については、かなり問題がありそうだ。最初から支援する内容ががっちり決められる。ましてや希望通りの支援内容を出来る訳でもなく、自由裁量にも制限がありそうだ。そうすると、都や組織委員会によって指示命令されて、やらされているという感覚になりそうである。それでは、ボランティアをする喜びや生きがいを感じることは少なそうである。これでは、自らの自己成長に繋がらない。

また、連帯性・社会性という面での仕組みが疑問である。ボランティアは仲間づくりや絆造りをして、お互いが支え合う社会を作るために実施するという観点が必要である。今回のオリンピックボランティアは、単なる業務遂行の代理者という性格が強いから、連帯性・社会性はかなり低いとみなされる。また、社会変革性・先駆性という点では、まったく評価されない。ボランティアとは社会の問題や課題を解決する手段であるのにも関わらず、そんな視点は皆無に近い。ボランティアなんて呼ばないでほしいと思っている人々は、非常に多いに違いない。都と組織委員会の見識が疑われる。

未婚男性が増えている本当の原因

結婚できない、または結婚しない男性が猛烈に増えているという。なにしろ、生涯未婚男性(生涯に渡り一度も結婚しない男性)が、全男性の25%にも上るという。えっ、そんなに多いの?と疑問に思う人が多いかもしれないが、これが事実である。なお、生涯未婚女性だって14%いるという。男性の4人に1人が一生独身だというのは大問題である。戦前から戦後20年くらいまでなら、特別な理由があるケースを除いて、男性が一生独身を通すなんてことはあり得なかった。それがこんなに独身男性が多いと言うのは情けない。

何故、独身男性が多いのかというと、それぞれ様々な要因がある。ひとつは、貧困化という経済的な要因がある。全体の平均年収は低下していないものの、若者の年収が二極化していて、200万円から300万円の低収入の若者が増えている。そして、定期昇給やベアが期待できない会社や職種で働いている。これでは結婚して子どもを生み育てることができる訳がない。竹中平蔵と小泉首相が結託して、国際競争力を高める為にと法制化した派遣労働法が正規労働者を激減させて、雇用の不安定化と低賃金化をさせたのだ。

さらに、すべての結婚のうち再婚であるケースが全体の4分の1にもなっているという事情がある。その再婚のうち、男性が再婚で女性が初婚というケースが急増しているという。男性は離婚してもその後に何度も結婚するし、その際に初婚の女性と結婚する場合が多いと言うのだ。女性は一度離婚すると、男なんてもうこりごりだと思い、再婚するケースが少ないという。そして、その再婚する場合の男女の年齢は、7歳以上の年齢差があるという。一人の男性に複数の女性が取られて、一度も結婚できない男性が多くなることになる。

生涯未婚男性は、都会ではその割合が少なくて地方に多いらしい。何故かと言うと、地方にある工場に勤務するのは、跡取りの男性が多いという。一方、事務職に就職を希望する女性は、地方では事務職の求人が圧倒的に少ないので、都会に出て就職する。当然、結婚適齢期の女性は、地方には圧倒的に少なくなり、未婚男性が多くなる。TV番組で、都会に住む女性を地方の男性に紹介する集団見合いイベント番組を放映している。地方では、行政が都会の未婚女性を呼び込んで、集団出会いのイベントを仕掛けている。

このような事情もあり、男性の未婚化が進んでいるし、適齢期で結婚を希望する女性が激減していて、晩婚化が進んでいる。男性は35歳を過ぎると、妊娠させる能力が衰えることが判明している。女性も晩婚化によって、妊娠する確率が低下することになる。このままで何も対策をしないと、日本の少子化は益々深刻になってしまう。それでなくても、貧困家庭が増えていて、子どもを産み育てたいけど産める経済状況にないと出産を断念する家庭も少なくない。これでは、将来日本の公的保険と年金を負担する若者が少なくなり、保険・年金制度が破綻してしまう危険性が高まってしまう。

このように生涯未婚男性が増加している各種要因を挙げてきたが、結婚できない男性がいる本当の原因は他にある。それは、男性の価値観があまりにも低劣で、女性が尊敬し信頼できる男性が極めて少ないという事情である。女性は、男性の優秀で持続可能なDNAを瞬時に見抜くことができるのである。優秀で持続可能なDNAというのは、社会的に成功を収めて経済的にもある程度恵まれて、将来に渡り幸福な人生を歩めるという遺伝子である。それは、技術・能力や知能が高く体力があるというDNAではない。自分の損得や利害にだけこだわらず、社会貢献や公益活動をすることを進んで実行し、それを喜びと思う遺伝子である。そういう男性こそが、社会的に評価され成功するからである。

こいいう全体最適を目指す遺伝子を持った男性の価値観は、すこぶる高くなる。このような男性は、個別最適よりも全体最適を大切にする価値観を持つ。その全体最適を目指すには、関係性を豊かにするために最大限の努力をする。互恵的関係性を大切にする価値観を持つ男性は、女性にとって魅力的に映る。だから、女性にモテモテなのである。そして、女性はこのような高い価値観の男性に惚れるし、この遺伝子を後世に残したいと無意識で強く思い、その男性に心も体も開きたくなるのである。ところが困ったことに、このような高い価値観を持った男性が激減しているのである。それが、生涯未婚男性が増えている本当の原因である。

 

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骨が人間の寿命を決めている?

人間の寿命は骨が決めていると言ったら、医学的常識では考えられないことであるし、そんなこと絶対ありえない話であると思うことだろう。世の中の医療関係者、特に殆どの医師は寿命を骨が決めているというエビデンスがないと主張するに違いない。人間の寿命が骨によって決められているというのは、今までは考えられなかったことである。しかし、最新の医学研究によって、人間の寿命を『骨』が決めているという衝撃の事実が判明した。

最先端の医療研究で、骨が人間の寿命を決定していることが証明された。その科学的根拠も明らかになっている。勿論、寿命は骨だけで決めている訳ではない。けれども、骨の状況が寿命を延ばすか、それとも寿命を縮めるべきなのかの重要な決定をしているというのは確かなのである。骨密度が高いのか、それとも骨密度が低いのかによって、人間の老化を進めるのか、それとも老化を阻止するのかを決めているというのは事実である。

人間の老化を促進させてしまうシステムは、骨に関連するホルモン(神経伝達物質)によって動いているという。そのホルモンとは、スクレロスチン、オステオカルシン、オステオポンチンという三つの神経伝達物質である。スクレロスチンは骨芽細胞を増やすか減らすかの決定をしている。そして、その骨芽細胞からは人間の老化に関係するオステオカルシンとオステオポンチンというホルモンが作られているのである。

骨芽細胞から産出されたオステオカルシンが、血液によって脳の海馬まで運ばれて、海馬を刺激する。そうすると海馬の働きが活性化するだけでなく、海馬の細胞も増加して大きくなるという。反対に骨芽細胞が少なくてオステオカルシンが分泌されないと、海馬の働きは衰え、海馬の体積も縮小するという。極端に海馬が委縮すると、記憶力が極端に低下してしまい、認知症にもなりやすい。つまり、骨芽細胞の多い少ないが、脳の老化を進めるかどうかを決めているというのである。

それだけではない、オステオカルシンが筋肉組織に届くと、筋肉組織の細胞を増加させて、筋力アップにも寄与するらしい。さらに驚くのは、オステオカルシンが精巣に届くと、なんとテストステロンというホルモンを活性化させ、精子の生産力を向上させるというのである。また、骨細胞から分泌されるオステオポンチンというホルモンが、人体の各組織に送られて、免疫力を高めるのに役立っているというのだ。オステオポンチンが不足すると免疫力が低下して、ガンや生活習慣病、または重篤な感染症を引き起こすのである。

どうして骨が人体の老化に関係しているのかというと、どうやら骨の状況によって寿命を延ばすかどうかをコントロールしているのではないかと見られる。どういうことかというと、骨の密度が低下してスカスカの状況になってくると、もう無理して長生きさせる必要がないと記憶力や免疫力を下げるのかもしれない。さらには、筋力も低下させてしまうし精力も必要ないと判断するとみられる。骨の状態から判断して、少しずつ老化をさせて死に至らせる作用が働くのではないかと推察できる。ある意味、残酷なシステムとも言える。

その際、オステオカルシンやオステオポンチンというホルモンを出す骨芽細胞を増やすかどうかをコントロールするのが、スクレロスチンというホルモンだという。このスクレロスチンが骨細胞を作るかどうかのアクセル役とブレーキ役を果たしている。スクレロスチンが多いと破骨細胞が多くなり骨芽細胞が減少する。逆にスクレロスチンが少ないと破骨細胞が少なくなり骨芽細胞が増加する。つまり、スクレロスチンが少ないと骨細胞が増えるし、スクレロスチンが多くなると骨細胞が少なくなることが判明したのである。

ということは、スクレロスチンというホルモンを少なくすれば、骨細胞を増やして老化を防げるということである。もし、スクレロスチンを減少させることが出来たら、若返りすることも可能になるのである。このスクレロスチンをどうしたら減少させることが出来るのかを研究したら、運動することでそれが可能になるということが判明した。その運動も、骨に対してショックを与えるような運動こそ効果が高いということが解った。つまり、ただ歩くだけでなく、走る、ジャンプする等、骨に対して負荷をかけることで、スクレロスチンが少なくなることが判明したのである。骨に強い刺激を与える運動が老化と死を防止して、健康で長生きさせるのである。

 

※スクレロスチン、オステオカルシン、オステオポンチンというホルモンの詳しい働きと、どうしたらこれらのホルモンを調整することができるかの研修を「イスキアの郷しらかわ」で実施しています。オステオカルシンは、すい臓に届くとインスリンを出す機能を高める働きをします。糖尿病も防止します。糖尿病の方々が散歩する姿を見かけますが、あれではあまり効果がないことが解りました。骨に刺激を与える運動が必要なのです。生活習慣病を初めとした各種疾患を予防したり完治させたりするのに効果的な運動をレクチャーしています。認知症予防に効果的なライフスタイルも提案しています。問い合わせフォームからご相談ください。