いじめ自殺の損害賠償を認める判決

滋賀県大津市で起きたいじめによって自殺した中学生の事件について、民事訴訟でいじめた側に損害賠償を認める判決が出た。今までは自殺といじめの因果関係を認めようとしなかった司法が、初めて自殺といじめの関連性を認定して、原告の要求通りの損害賠償を被告に命じた。これは画期的な判決だと、報道各社は好意的に報じている。いじめじゃなくて単なる遊びや悪ふざけだと苛めた側は主張していたが、司法はいじめだと認定したうえで、自殺に追いやったのは苛めた側に責任があると認定したのである。

この判決は、非常に大きな意味があろう。いじめている子どもたちは、悪ふざけやいたずらという感覚でやっていることが、自殺までに追い込む悪質ないじめであり、損害賠償責任まで負うのだということを認識するきっかけになろう。また、自分たちのやっていることがとんでもなく悪いことなのだと反省して、自分たちの生き方を変える契機になるのであれば意味がある。この画期的な判決によって、悪質ないじめによる自殺が、少しでも減ることに繋がることを望んでいる。

しかしながら、このいじめ損害賠償の判決は相当な危険性を孕んでいるということを認識しなくてはならない。この損害賠償責任が認められたことで、学校におけるいじめが益々陰湿化すると共に、大人に知られないように秘密化してしまうという危険である。それでなくても最近のいじめは悪質なものになり、しかも自分は直接手を出さずに、巧妙に人を支配していじめを実行させるようになっている。SNSやツィッターなどで拡散させたり、間に何人も介在させたりして元情報を知られないように仕組むケースもあると聞く。これでは、いじめた本人が特定できないだろうと、益々いじめが過激になる可能性がある。

ましてや、いじめというのは受けた人を救うというのが第一次的な対処であるが、完全にいじめを無くすには、いじめた子どもを適切に指導しなくてはならない。罰則を強化したり損害賠償責任を負わせたりして、抑止効果を高めるだけでいじめがなくなる訳ではない。いじめを行うような子どもこそが救われなければならないのだ。いじめを行うような子どもは、自業自得なのだから罰を受けるのは当然だし救う価値もないという人がいるかもしれないが、けっしてそうではない。いじめをする人間こそ、心が傷ついているのである。いじめをする子どもがいなくなるような社会にしなければならない。

いじめをするような子どもは、適切で十分な愛を保護者からうけていない愛着障害や、人格に問題を抱えるパーソナリティ障害を持つことが多い。つまり養育環境に問題のある子である。結構裕福な家庭に育ち知能も高く、何をやらせても卒なくこなす器用な子どもが多い。親は社会的地位も高く、教養や学歴も高く、教育熱心な面もある。ところが、父性愛的な条件付きの愛が強過ぎて、母性愛的な無条件の愛に飢えている傾向がある。躾(しつけ)も厳しくて、親の価値観を無理やり押し付けられることが多い。

このように、親からの支配やコントロールを過剰に受けてしまい、主体性や自主性、または自由度が阻害されている家庭生活を送っていることが多い。家の中では非常に『良い子』である。ある意味、『良い子』を演じるように育てられていると言っても過言ではない。そして、親からの愛に飢えている。こういう子は家庭ではおとなしく過ごすが、学校ではその反動で自由を求めて暴れるし、いじめっ子に変化するケースが多いのである。人間は、ストレスやプレッシャーにさらされ、自分らしさを押し殺して生きていると、どこかで爆発せざるを得なくなる。それが他に対する暴言や暴力、いじめなどに変質するのである。

人間とは本来、自己組織化する機能を保持している。誰からも介入や干渉を受けず、自由に生きて主体性や自主性、自発性や責任性を自らが発揮するようになっているのだ。それが、過度に干渉や介入を受け続けて支配・制御を強くされてしまうと、正常な自己組織化を遂げずに、精神を病んでしまうばかりか発達が阻害される。利己的な人間になり、他者への愛を持てなくなる。生きづらくなるばかりでなく、その原因を他者にあると勘違いして、攻撃的な性格を持つようになる。いじめをする子どもの歪んだパーソナリティを、何とかして救ってあげないと、やがては社会に適応できない大人にしてしまう。いじめの損害賠償責任を認める判決は、こういう部分をきちんと理解したものならいいが、社会のいじめに対する反感に呼応したものであるなら、評価に値しないものと言えよう。

やはりアベノミクスは失敗だった!


厚労省による勤労統計の偽装事件では、官僚組織の隠ぺい体質も問われているが、もっと大変な問題に発展しようとしている。正しい勤労統計によって賃金動向を分析しなおすと、実質賃金が低下しているという事実が明らかになったというのである。アベノミクスによって、名目賃金が上昇しているし、実質賃金も増加していることから、経済政策は成功だったと政府は自画自賛していたが、それがまったく間違いだったということになる。つまり、アベノミクスは失敗だったということが証明された形になるのだ。

そんなことはないと思いたいが、厚労省と官邸は実質賃金が目減りしているという事実を掴みながら、それを隠ぺいするために勤労統計の偽装を続けたのではないかと主張する報道機関が多い。アベノミクスとは、金融政策によって経済全体を好況に導いて、それが賃金を底上げして国民を豊かにするというシナリオだったのに、それがまったく機能していなかったということになる。大企業の好況によって、中小企業で働く社員の所得上昇に結び付くという、トリクルダウンという手法は実現しなかったということになる。

一般庶民に対してアンケートを試みると、経済状況が改善していると実感できないという回答をする人が殆どである。一部の大企業の役職員や投資家たちは好況の恩恵を受けていたが、我々一般人の暮らしは一向に良くならないと感じていた。それが政府の勤労統計によって、実質賃金が目減りしていることが証明され、正しかったということになる。アベノミクスによって経済は活況を呈し、実質賃金も上昇しているから、政府の経済政策は成功していると自信を持って喧伝していたが、すべて嘘だったことになる。

アベノミクスの成功を評価されて、何度かの選挙で自民党は大勝してきたが、それが国民を騙した勤労統計によっての投票だったとすれば、これは大問題になろう。安倍政権の責任は大きいと言わざるを得ない。政府が発表している情報よりも、我々が普段の生活で感じているものが正しかったのだ。好況を証明するという有効求人倍率だって、数字のマジックがあって、ミスマッチであっても求人を有効にしてしまい、数字を高く見せているに過ぎない。厚労省や財務省の官僚というのは、官邸の言うなりになっていて、統計偽装でも文書改ざんだって何でもありという体質なのだということが解ったのである。

アベノミクスという政策は、大企業や資産家、さらには投資家に圧倒的な支持を受けている。さらには、若者たちからも大きな支持をもらっている。ところが、年金生活者や高齢者、低所得者層からは不評である。円高誘導によって物価が上昇し、低金利金融政策によって貯蓄が目減りしている影響もある。トリクルダウンがいずれ起きる筈だと政府自民党は宣言していたのに、一向に起きる気配さえなかった。若者たちは、巧妙に偽装された賃金統計によって騙されていたと言えよう。政府の情報を鵜呑みにした愚かな行動だ。

アベノミクスという経済政策は、大胆な金融緩和による円高誘導と低金利政策によって、市場を活況化するものである。これは金融経済を活況にすれば、実質経済もよくなるに違いないという思い込みの政策である。勿論、第三の矢として実質経済を豊かにする政策も推し進められていたが、まったく効果を上げていない。実質経済というものは、一般の庶民の収入が豊かになって、一般消費支出が増えなければ、好況になることはない。金融緩和政策の恩恵は、大企業とその役員、投資家だけしか受けていないと言える。国民のうちのごく僅かの人だけが豊かになっても、全体の消費支出が伸びないのは当たり前である。貪欲な人間というものは、自分だけの利益や利権を抱えれば抱えるほど離したくなるものである。

アベノミクスの失敗が判明したのだから、これからは経済政策のドラスティックな舵切りが必要であろう。現在行っている経済政策では、一般消費支出が増えていないのだから、実質経済を立て直す必要がある。そのためには、実質賃金を上げなくてはならず、不正規雇用を減少させ、正規雇用にシフトさせる抜本的な労働政策が求められる。大胆なワークシェアを進める労働政策、労働生産性を高める抜本的な勤務時間の短縮政策などの正しい働き方改革が必要だ。そのうえで、所得再配分機能を高める政策が求められる。所得税累進課税の見直しなどの税制改革によって、貧困家庭を根絶して、所得格差を出来得る限り縮める所得再配分に努めるべきであろう。もはや、失政とも言えるアベノミクスを止める時期に来ているし、それを決断させるのは選挙民しかいない。



卒婚を密かに目論んでいる妻

日本人の夫婦のうち、約3分の1が離婚しているという。そして、その離婚を言い出すのは圧倒的に妻のほうが多いという。昔は、夫からの離婚申請が多かったのだが、現在は妻のほうから三行半を突き付けるらしい。そして、多くの妻たちは婚姻状態を続けることに疲れ果てていて、いつかは卒婚をしたいと密かに夢見ているという。夫はまったくそんな妻の心理状態に気付くこともないらしい。我が子が大学を卒業するまでの我慢とか、子どもが成人したらとか、子どもが結婚するまでとか、その時期をじっと待っているのである。

その卒婚さえ待ちきれず、もう夫との結婚生活には一刻も我慢できないと離婚してしまう若い妻も少なくない。昔ならば『子はかすがい』と離婚を踏みとどまる女性も多かったが、今は子どもが居ても離婚を踏みとどまる理由にはならない。それだけ妻たちは我慢し切れなくなっているのだ。離婚の理由はそれぞれあるだろうが、妻が望む夫婦関係や親子関係になっていなくて、改善の見込みもないので決断したのだと思われる。夫のほうでは、話し合いで問題決を図り、なんとか婚姻を続けたいと思うらしいが、妻の決断は変わらない。

妻が卒婚したいと思っていることさえ夫は知らないでいるし、卒婚を望む理由さえも夫は解らない。だから、その時が来るといきなり卒婚を言い出されて、夫はおろおろするばかりだという。妻は何故こんなにも卒婚を望んでいるのだろうか。妻たちが経済的に自立しているからだとか、財産分与や年金受給の分与が出来るようになったからだと思っているらしいが、それが卒婚の理由ではない。あくまでも、結婚生活における夫の態度に我慢がならないのである。我慢に我慢を重ねて熟慮した選択だから、決心は変わらないのだ。

妻が卒婚する原因は、夫のこんな態度や姿勢である。夫は家庭に安らぎを求めている。男は職場において全身全霊を傾けて仕事をする。男というのは仕事第一主義である。したがって、職場で仕事にエネルギーを使い果たしてしまい、家に帰るとのんびりと過ごしたがるし、家事育児に協力しようとしない。帰宅すると、テレビを見たりゲームをしたりするだけで、ソファに横たわっている。または、自分の趣味に没頭するか、PCやスマホに心を奪われている。家庭は自分だけの安らぎの場所だと勘違いしているのである。

それぐらいなら妻はまあ仕方ないかと諦めているが、我慢ならないのは夫が妻の話を聞こうとしないし、妻に共感しないという点である。しかも、妻の気持ちを少しも解ろうともしない夫のことが許せないのだ。夫は妻に対して優しい態度を取ることもある。例えばバースデーの贈り物やクリスマスのプレゼントはしてくれるし、たまには豪華な食事にも連れて行ってくれる。しかし、そんな優しさは見せかけだけだと妻は知っている。そういう優しさを見せるのは、夫の自己満足に過ぎないことを百も承知なのだ。職場では無理して『いい人』を演じているのに、家庭では身勝手で自己中の夫なのである。

育児についても、夫の態度は我慢ならない。普段の子どもの世話は、殆どを妻がやっているが、何かのイベントだけは自分が中心的な役割を果たして、子どもの点数稼ぎをしたがる。育児はお前に任せたと、一切口出しをしないが、何か子育ての問題が起きると『お前の子育てが悪いからだ』と責める。学校で何か子どもの問題が起きると、仕事を言い訳にして逃げたがる。いじめや不登校などの問題が起きて、母親の手には負えないから父親になんとかしてほしいと頼んでも、仕事だからと学校に行きたがらない。こんな父親では、子どもは信頼しないし、妻も愛想を尽かす。

男は結婚するまでは、交際相手の尊厳を認め自由を認める。ところが結婚すると豹変する。自分の所有物だと勘違いし、自分の理想の伴侶であってほしいと強く思い、自分の価値観を押し付けたがる。自分に都合の良い妻になるように仕向けるし、妻の行動を制御したがるし支配する傾向になる。それが上手く行かないと、怒りを爆発させたり暴言を吐いたりする。そんなことを出来ないひ弱な夫は、自分の思い通りにならないと不機嫌になるし、黙り込んでしまう。まるでイプセンの戯曲『人形の家』のノラのようである。我慢に我慢を重ねてついにノラも家を出て卒婚する。人間とは、本来は自由に生きる生物である。あまりにも自由を制限され尊厳を認められないと、妻たちは卒婚する。

脱税経営者のお粗末な価値観と哲学

青汁王子と自ら名乗る三崎優太容疑者が、巨額脱税の罪で逮捕された。税金を納めるのは、国民の義務だから脱税をしてはいけないと、自らツィートしていたにも関わらずこんなにも大きな金額の脱税をしていたとは驚きだ。つい先日は、ここ白河の地で設備会社のオーナー経営者が、2億円という巨額の収益隠しをして逮捕されたという事件もあった。この経営者は、中小企業家同友会の地区会長を務めていた、名実共に地域の名士である。経営者の見本となるべき人物が悪質な脱税をするなんて考えられないことだ。

脱税をする資産家は後を絶たない。余計な税金を払いたくないのは人情である。だから節税をするための知恵を絞る。しかし、本来払うべき税金を払わないようにするために、偽装するなんてことは許されない行為だ。また、税金を払いたくないからと、海外に会社の登記を移すような卑劣な行為をする経営者もいるが、これも情けない行為である。そういえば、過去に居住地を海外にして税金逃れをした芸能人もいた。誰のお陰で儲けさせてもらったのだろうか。税金というのは、利益を提供してくれた国民に還元するという性格を持つのだから、感謝しながら支払うべきものだ。

日本において脱税をすることの罪の意識は、けっして高くない傾向にある。犯罪だとは知りながらも、税金を出来るだけ少なくしたいという、節税的な気持ちからついつい実行してしまうらしい。勿論、確信犯的な脱税ではなくて、間違って申告漏れをしてしまったというケースならば、申告漏れや申告ミスに対する追徴課税で済む。ところが意図的に収入を隠したり架空の経費を計上したりして納税を免れた場合は、刑事罰もあるし重加算税が課せられる。それは現金で納めなくてはならず、資金繰りが悪化する。また、これらの追徴課税や重加算税は損金処理が出来ないから、その分が二重に課税されるのである。

脱税をすると、社会的信用を失う。当然売上げに響くし、取引先からの信頼を失うだけでなく、脱税するくらい利益が上がっているのだからと足元を見られ、値引き交渉をされる。税金を納めたくないからと脱税をすると、とんでもないペナルティーを科せられることになり、経営破綻をするケースも少なくない。本当に賢い経営者ならば正しいリスク管理が出来るから、絶対に脱税なんてしないのである。そんな恐い脱税なのに、三崎容疑者のように悪質な脱税が後を絶たない。愚かな経営者でもないのに、どうして脱税するのだろうか。

何故、こういう経営者は脱税をするのかというと、価値観が劣悪で経営哲学がねじ曲がっているからであろう。自分の損得しか考えていないし、利己的であり身勝手な人間であると言える。お金の為になら、人を騙すことも平気でする劣悪な価値観を持った人間に違いない。つまり、生きるということ、または仕事をするということは、利益を受けて楽しいことをする為の単なる手段としか考えていないのである。仕事を通して地域貢献や社会貢献をするという使命感はないし、仕事をすることで人間性を磨くという観念もない。

人間とは、本来仕事や地域活動を通して、人々の豊さや幸福に寄与する為に生まれてきたのであるし、その為にも仕事を通して人間として成長することが求められる。仕事で収益を上げて個人収入を得るというのは、社会貢献や自己成長による副産物でしかないのである。自分の利益を増やすためという個別最適や個人幸福を、仕事に求めてはならない。あくまでも、会社全体の為、地域全体の為、社会全体の為という、全体最適を目指すのが、人間としての正しい価値観である。人間はこのような高邁な価値観に支えられて生きるのであるし、仕事をするべきなのである。

人間とは、このような高い価値観を持たないと、正しい生きる目的や生きる意味を見いだせない。つまり、正しく高潔な哲学というのは、高邁な価値観に目覚めた人にしか見いだせないことになっている。卑劣な脱税をする人は、低劣な価値観しか持たないから、正しい哲学なんて持ちえないのである。正しい理念を持てない人間は、経済的な豊かさは実現できるかもしれないが、やがて誰からも相手にされず孤独な人生を送ることになる。そして、重い病気やケガをしたり、事故に遭ったりするのである。三崎容疑者のような低劣な価値観を持つ人は、悲惨な人生を送ることになるのだ。

虐待を完全に解決する方法

千葉県で親が自分の娘を日常的に虐待していて、死に至らしめたという実に可哀想な事件が起きた。この父親は、児童相談所や教育委員会、さらには学校の管理者までも恫喝して、我が子を無理やり家庭に引き戻していたと報じられている。行政側の職員たちのあまりにも杜撰な対応が、この子を守り切れない結果を招いたとバッシングを受けている。しかし、児相の職員にしても、教育関係者にしても、このような問題のある扱いにくい保護者を、指導できる力量を持っている職員なんているのだろうかという疑問を持つ。

千葉の虐待死事件が明るみになってから、全国各地で同様の子ども虐待死事件がニュースになっている。不幸にも子どもが虐待によって亡くなるというあまりにも悲惨な事件が増え続けている。さらには、虐待だと児相に報告を受ける件数が年々、まさにうなぎ昇りに増えている実態がある。それでなくてもマンパワーが不足している児相が、対応しきれないのは当然であろう。児相職員の対応が不備だったという批判、児相の職員を増やせというマスメディアの指摘は的外れでないが、それだけで虐待が解決できるとは思えない。

確かに緊急避難的に児相が虐待されている子どもを保護して、虐待している親から引き離すことは必要である。しかし、一時的に虐待する親から引き離して、子どものケアをすると共に親の指導を同時並行的に進めたとしても、なかなかその効果は上がっていないのが現状である。「私が愚かでした。子どもに対する虐待をするなんて、とんでもないことをしてしまった。これからはこの子の親として、子どもを愛し慈しみ、いかなる場合も子どもを守り育てることを誓います」と心から悔い改める親なんて、そうはいないのである。

児相で保護した子どもたちが、虐待した親の元に戻り、平和で穏やかな暮らしを取り戻したという実例は、非常に少ない。何故なら、虐待していた親が自らの行動を心から反省し改心して、二度と虐待することなく子どもに豊かな愛情を注いで育てるように導くような指導力を発揮できる児相の指導員が殆どいないからである。ましてや、問題のある父親を改心させられる圧倒的な説得力があるはずがない。中には、説得力もあって圧倒的な指導力を持つ職員もいるだろうが、ごく少数であろう。

説得や指導に素直に応じるような親なら、虐待なんてしないだろう。頑固で、こだわりが強くて、低劣な価値観に縛られているであろうし、短気で攻撃性の高い性格だと思われる。子どもだけでなく、職場や行政の職員に対しても怒声を浴びせ恫喝さえもするだろう。そんな怖い男性に、毅然とした態度で平然と指導を行える職員なんていないに違いない。ましてや、問題ある父親の心を開かせて、穏やかに話を聞かせることは、同年代の40代未満の職員には至難の業であろう。かといって、経験豊かな中高年職員は体力的にも気力的にも無理だと思われる。

虐待事案を完全に解決したいが、問題のある親を改心させられる指導員がいないのなら、それを実現させるのは非常に難しいということになる。しかし、ひとつだけ虐待を解決する方法がある。民間企業において人材教育を長年経験した人物で、それも問題のある社員を指導して実績をあげてきた人材を活用する方法である。勿論、既に第一線をリタイアした人材で、残りの人生を社会貢献に捧げたいという志の高い人を嘱託職員で採用してはどうだろうか。そういう人材なら、虐待を繰り返すような問題ある親の話を傾聴し共感して、心の闇をそっと解きほぐすことが出来るのではないかと考える。

虐待をする親は、自分自身も幼い頃に虐待や育児放棄をされて、深い心の傷を負っていることが多い。または、親からの愛情が不足していたり、過干渉や過度の支配を受けたりしていたケースが多い。つまり、自分自身が育てられた環境に大きな問題があり、それが人格に大きな歪みを抱える要因になっていると考えられる。とすれば、虐待をする親を糾弾して矯正しようとするだけでなく、彼らを救う手立てを考えなければならない。それも、家族カウンセリングやオープンダイアローグ療法を駆使して、虐待する親を否定することなく、自分の間違った価値観に自らが気付くアプローチが求められる。人材育成のプロが、最新の心理療法や精神療法の研修を積めば、十分に虐待の親を指導することが可能になる。これが、虐待を根本から解決する最善の方法であると思われる。

※我が子をどういう訳か虐待してまっていて、悩み苦しんでいらっしゃる保護者の方の相談を「イスキアの郷しらかわ」では常時受けています。さらに、虐待をしてしまう理由の解明、虐待を解決するためのサポートをさせてもらいます。心ならずも虐待をしてしまう保護者は、ご自分自身をとても責めていらっしゃると思います。そのあまりにも大きな悲しみと苦しみを一人で抱え込まずに、ご相談ください。けっしてご本人を否定したり非難したりすることはしません。どう解決すればよいか、ご一緒に考えてみましょう。

貪欲な生き方は身を破滅させる

個性派俳優で人気のあった新井容疑者が暴行の容疑で逮捕されたニュースは、実に衝撃だった。どこか陰のある脇役がとても似合う、根強いファンのいる渋い俳優であったが、とんでもないことをしたものだ。被害に遭われた女性が実に気の毒であり、暴力や恐怖感を用いて相手を自分の思うままに弄ぶなんて、絶対に許せない行為である。彼の心無い行為によって、多くの作品が放映や上映が出来なくなり、多大な迷惑と損失を与えている。目先の欲望に押し流されたというような弁明で、許されるような行為じゃない。

自宅にセラピストを派遣する、癒し系のサービスをする店があるということにもびっくりした。いくら性的サービスはしないと謳い、性的な行為はしないという確約書を書いたとしても、自宅という密室に異性どうしが二人きりになるのだからリスクは高いだろう。ましてや、身体に直接触れるのだから、性的欲望が高まるだろうとの予測は誰でも可能だ。以前に新井容疑者にサービスをした女性は、インタビューで彼から股間のマッサージを要求されたと答えている。おそらく利用料金は1回20,000円を超えていたであろう。この驚くような高料金も、過剰サービスを求めることに繋がったのではなかろうか。

お店におけるサービスでなく、あえて自宅というリラックスできる場所でセラピーを受ける意味はあると思われる。これだけの高ストレス社会だから、ストレス解消の為に自宅でセラピーを受けたいと思う人も多いに違いない。女性を派遣するサービスではなくて、男性をセラピストにして派遣するなら理解できる。それなら危険性は低くなるし、事故が起きることは限りなく少なると想像できる。それを、男性のお客に対して、あえて若い女性を派遣して、法外な料金を設定してビジネスに利用するというのは如何なものだろうか。こういうビジネスをする経営者の見識を疑いたいし、事件を起こした責任も問われる。

勿論、このような事件を起こした最大の責任は新井容疑者にあるのは間違いない。いくら欲望をそそられるシチュエーションだったとしても、踏みとどまる理性をなくしてはならない。どうして、こんな破廉恥な行為をしてしまったのかというと、彼が欲望を押さえつけることが出来る確かな理性を持っていなかったと言える。それは新井容疑者の価値観にも問題があるだろうし、普段の生活態度にも影響を受けていると推測される。酒に酔っていての犯行らしいが、お酒に溺れるなんて最低の人間である。

よく酒に溺れて身を崩す、または酒の勢いで愚行をしでかした、などということを聞き及ぶことが多い。酒さえ飲まなかったら良い人間なのに、という評価をされる人間がいる。普段はおとなしいのに、酒を飲むと人間が変わって暴れる人間がいる。しかし、脳科学的に検証すると、それは間違いである。お酒によって人格が変わるのではなく、元々持っていた人格が、お酒によって現れるだけなのである。普段は抑え込んでいる本能が、お酒に酔って大脳辺縁系や前頭前野が麻痺することで抑えが効かなくなり、本来の欲望が顔を覗かせるのである。酒を飲まない時は、本来の醜い人格を隠しているだけなのだ。

このようなアルコールを飲酒しての事件、または覚せい剤・麻薬の使用事件を起こすような人間の日常の行動をよく観察してみると、タバコを吸う、過剰飲酒をする、ゲームに溺れる、ギャンブルをする、セックスにまみれる、というような行動を取っていることが多い。つまり、日常からして欲望に溺れてしまうような行動を取っているのである。新井容疑者もまた、このような行動を取りがちだったと報道されている。自分の欲望をしっかりと抑えきれず、煩悩の渦の中に埋没している感さえある人物こそが、人生を破滅させてしまうことが多いのは歴史が証明している。

何も聖人君子たれと言っている訳ではない。過度に欲望を貪るような生活を続けると、危ないぞと警告しているに過ぎない。糖分や栄養を摂り過ぎると糖尿病などの生活習慣病になるし、やがては脳血管障害や心臓血管障害を起こして寝たきりになる。過度の飲酒によって、アルコール依存症や肝臓疾患の危険性が高まる。なにしろ、普段から煩悩を抑えきれない生き方をしている人は、新井容疑者のように欲望に溺れてしまうし、とんでもない身の破滅を生むことになろう。けっして貪欲な日常生活を続けてはならないということを心に刻んで生きていきたいものである。

介護されない老後を目指す

介護施設において、短期間で多くの利用者が死傷する事件が起きている。それも、特定の男性介護職員が関わっているのではないかという疑惑に発展している。それにしても、介護施設では高齢者虐待や窃盗事件が多発するようになっている。介護施設で働く職員が過重労働の割に待遇も悪く、評価されないという特有の事情もあると言われているが、明らかになっていない虐待や殺人事件も他にもあるのではないかと想像されている。日本の介護制度に、大きな欠陥や制度設計のミスがあるから、こんな事件が起きるのだろう。

介護される対象者が増え過ぎてしまい、介護に携わる職員が絶対的に足りなくなってしまっているという問題がある。介護職員の定着率が非常に悪く、介護施設や介護組織を渡り歩く転職組が多いし、介護職から離職する人が少なくない。よく言われていることだが、あまりにも介護職員が足りないので、どんな人間でも採用してしまうことから、介護職員の質が低下しているという。介護という職業を自ら希望して選ぶのではなく、消極的な選択として介護職を選ぶしかない人間が多いと聞いている。日本の介護制度が根本的に間違っているから、こんなミスマッチが起きてしまっているに違いない。

そもそも、厚労省が介護保険制度を設計する際に、寝たきりになってしまう高齢者を皆無することが目標だった筈である。ましてや、介護施設で高齢者を介護させる為に介護保険制度を作ったのではなく、自宅で自らの老後を自分の力で健康で暮らすために作った制度である。施設で介護するのは、緊急避難的な措置として必要なケースだけだった筈だ。ところが、実際は本来介護されなくてもいい高齢者を自宅から施設へという流れが起きてしまった。それも、QOLが改善して自宅に帰る人は皆無で、亡くなって退所する人が殆どである。厚労省が予想した介護制度とは、まるっきり正反対になっている。

厚労省だけが悪い訳ではない。高齢者とその家族が、大きな誤解をしているからである。そんなふうに誤解させてしまった厚労省にも責任があるが、国民が勘違いしているのである。高齢者になってしまうと、何らかの障害を持ったり認知症になったりするのは、当然だと思い込んでいるのである。厚労省の役人だって、介護される高齢者、寝たきりの高齢者をゼロにするのは難しいと諦観さえしている。しかし、自分の生活を抜本的に見直せば、要介護や寝たきりになることは予防できるのである。

それでは、介護されない老後を目指すには、どんな生活をすれば良いかというと実に簡単である。まずは、食生活を抜本的に見直すことである。腸内細菌を健康にするような食事にすることが肝要である。出来る限り添加物、農薬、化学肥料の少ない野菜中心の食事にすると、腸内フローラが実現する。さらに、脂肪分、糖分、乳製品、牛肉や豚肉を控えると共に、バランスの良い食事を心がけることが求められる。過食もよくないし、インスタント食品やスナック菓子、ジャンクフードやファストフードを食べないようにするべきだ。

介護されない老後を実現するには、休養や運動などの生活習慣も大切である。特に良質な睡眠を取ることは、認知症予防や高齢者のメンタル障害を防ぐのに有効である。良好な睡眠には、昼間に太陽光を浴びて運動をするのが必要である。認知症を防ぐには、骨に負荷をかける運動が必要不可欠だ。骨に衝撃を加える運動を日常的に実施すると、骨粗しょう症を防止するだけでなく、認知症を予防し、筋肉増強もするし、免疫力を高めることが判明している。つまり、骨にとって少しハードな運動を続けることが寝たきりを予防するのだ。介護されない老後を続けるには、アウトドアのスポーツが最適である。

さらに、介護されず寝たきりにならない大事な予防策がある。それは、精神的なタフさであり、しなやかな心である。つまり、プレッシャーに打ち勝てる心と、ストレスを乗り越えることができる精神の柔軟性である。このような健全な精神性を発揮することが可能になるには、高齢者になってもボランティア活動や市民活動を心から楽しめる価値観を持つことである。他人の幸福を心から願うことが出来て、豊かな社会の実現に自らが進んで尽力できる精神性があれば、身体が健康で元気な老後を過ごせるのである。介護をされずに老後を生きることは、自分の努力次第なのだと認識するべきであろう。

すべての問題の根源は関係性にあり

社会生活を営んでいると、様々な問題に遭遇するのが常である。家庭内(家族)の問題、職場の問題、地域の問題、広くは国家や地球規模の問題、実に様々な問題が起きている。それらの問題は、我々の生活に大きな苦難困難をもたらすだけでなく、生活の基盤さえ揺るがすような影響さえ与え兼ねない。特に、家庭や職場の問題は、生活に密着しているから余計に深刻である。家族の問題は家庭全体を崩壊させることもあるし、職場の問題は収入に関わってくるから、問題を先送りすることが死活問題になることもある。

家庭の問題と言うと、夫婦や親子間における不仲や軋轢があげられる。または子どもの不登校やいじめ、ひきこもりなどの深刻な問題もある。家庭の問題がこじれてしまうと、離婚や家庭崩壊まで到達してしまうことも少なくない。職場での問題では、パワハラ、セクハラ、いじめ等などが表面化するケースがある。経営不振や経営破綻という問題は深刻である。最悪の場合、会社そのものが倒産して、収入が途絶えることにもなる。それぞれの問題が起きれば、問題の解決対応策が必要となるし、問題が起きない予防も大切だ。

家庭において、学校でのいじめ、不登校やひきこもりが起きると、その問題が起きた原因を追究する傾向がある。そして、そうなった原因は、学校、学友、教師、教委等にあると思いがちであろう。つまり、問題が起きた原因の少しは家庭内にあるものの、大きな原因は外にあると分析したがるものである。また、職場の問題が起きた時に、起きた原因はそれぞれの社員や管理職、特定の部門にあると分析評価し、原因をつぶす作業をすることになる。経営不振や経営破綻の原因は、外因にあると思うのが普通であろう。

家庭内の問題が起きた原因は、外因や特定の『個』にあると考えがちである。特に、不登校やひきこもりになったのは、そうなった当事者という『個』に問題があったからだと思いたくなるものである。職場の問題が起きるのも、特定の個人や部門という『個』に問題があったからだと思う人が殆どであろう。しかし、これは完全な間違いである。少しは『個』にも問題があったとしても、本当の原因は構成要素である『個』にはなく、個と個を結びつける『関係性』にこそ存在するのである。

家庭の問題が起きると、問題を起こしている当事者やその母親、または父親に原因があるのではないかと思いがちである。そのうえで、問題があるとされた人を変えようと周りは考えるし、自分でも変わろうとする。しかし、いくら問題があるとされた人が変わる努力を続けても、変わるように指導教育しても、問題は一向に解決しない。何故なら、家族個人だけの問題ではなく、家族間の関係性にこそ問題があるからである。家族間の関係性の希薄化や劣悪化によって問題が起きているのだから、問題が解決しないのは当然だ。

職場の問題も同様である。問題を起こす社員個人や問題があるとされた部門を改善しようとしていくら努力を続けても、問題は一向に解決されない。社員どうしの関係性や部門間の関係性に問題があるからだ。この関係性が悪化して、お互いの信頼関係や協力関係がなくなっていれば、問題は起こり続けるし、成果が上がらないのは当然だ。何故、関係性が悪いのかと言うと、各社員と各部門が全体最適でなく、個別最適を目指しているからである。お互いが競い合い争い合っていて、全社最適を忘れ自分最適を志向してしまうのだ。

家庭内において、家族全員の幸福や豊かさを目指すのが、家族としての本来の役割である。ところが、家族の関係性が悪くなると、自分だけの幸福や豊かさを優先してしまう。そして、お互いの気持ちに共感しようとせず、対話も喪失してしまう。家族という全体システムは、その構成要素であるそれぞれの家族がお互いに支え合うという豊かな関係性が根底に保証されていなければ、システムは機能しない。会社も同じである。だからこそ、関係性こそが問題が起きるすべての根源なのである。家庭でも、そして会社内でも問題が起きないようにするには、豊かで良好な関係性が必要である。そして、問題を解決するには、本来あるべき良好で豊かな関係性を取り戻せばよいのだ。そのためには、個別最適ではなくて常に全体最適を目指さなければならないのは言うまでもない。

仕事よりも育児を優先する父親

子どもを取るか、それとも仕事を取るかという二者択一を迫られたとしたら、親としてどちらを選ぶだろうか。母親ならば、よほどの事情がなければ殆どが仕事を犠牲にして、子どもを優先する選択をするに違いない。それだけ子どもに対する思いが強いし、母性愛というのは何よりも子どもを優先するものだ。ところが、父親というのはちょっと違うようだ。父親は一家の収入を支えるケースが多いし、仕事に対する責任を感じる傾向が強い。ましてや、男というのは仕事によってだけ自己実現するのだと、おおいなる勘違いしているからだ。

仕事に専念するあまり、妻にだけ子育てを任せてしまい、育児に対して積極的になれない父親は多い。そんな父親なら、育児のために仕事を犠牲にするなんて考えられないだろう。例えば、育児のために残業がない勤務部署・勤務体制・職制に自ら変更してもらうケースは殆どないであろう。ましてや、子育てを優先して転職するなんてことはないに違いない。子育と仕事のどちらかを優先するかという究極の選択をどうするかなんて、乱暴なことを言うつもりはないが、父親が仕事を優先するのは圧倒的に多い。

子育てを最優先にして仕事を犠牲にする父親なんていない筈だと思っている人は多い。しかし、世の中には仕事よりも子育てを大事にする行動をとる父親も皆無ではない。私自身も、実はそのひとりだ。大学卒業後から地元の農協が経営する医療機関に勤務していた。県内に6病院を設置経営していたが、経営の重要な部分を担っているのは事務職員である。各病院の院長人事さえも、事務職員が決めているのだから、実質的なトップ管理者と言えよう。県内でも有数の安定企業だから、人気があり待遇だって悪くなかった。

しかし、県内の各地域に6病院は点在していたし、本部は県庁所在地の福島市にあった。幹部候補の事務職員は3~4年に一度転勤をするのが常だった。当然、自分も15年間に転勤させられて4つの病院を経験した。子どもが小さいし、妻ひとりで育児するのも負担になるから、一緒に転勤転居した。子どもは転居する度に転校を強いられた。長男は、最期の転校の際に、「僕はもう2度と転校しないからね」と宣言した。せっかく出来た友達と別れるのが辛かったし、新しい学校や環境に慣れるのが大変だったと思われる。この言葉を聞いて、決心した。次の転勤からは、単身赴任をするしかないと。

ところが、単身赴任をするには問題があった。看護師をしている妻も仕事を続けたい希望があり、夜勤や休日出勤がある今の職場で、一人で子育てしながら仕事を続けるにはハードルが高過ぎる。ましてや、2歳、7歳、11歳の手のかかる3人の男の子をひとりで面倒見るのは不可能に近い。妻が仕事を辞めるという選択肢もあったが、仕事に生きがいを感じている妻に仕事を辞めろというのは酷だった。したがって、転勤のない職場に自分が転職するしか方法がなかったと言えよう。それで、いずれ定住するであろうと求めていた土地に家を建てて、地元の会社に転職することにしたのである。

正直に言うと、子どもの為に仕事を辞めるのは辛かった。ましてや、それまで在職した医療経営の組織では、誰よりも若くして係長になり課長に昇進していた。自分でも言うのもおこがましいが、将来が嘱望されていて、事務職のトップになるだろうと言われていた。それでも、敢えて退職して、転勤がなく残業も少ないビルメンの会社に転職することにした。給料などの待遇面でも低下したし、仕事内容もまったく違っていたから慣れるまで苦労した。でも、家族一緒に暮らせて、子どもたちの笑顔に包まれる生活を選んだことを少しも後悔していない。

それから15年後にもう一度転職した。これもある意味では、子どもの生活を守る為の転職だった。子どもが地元の行政職に就職していて、会社の仕事で大きな迷惑をかける危険があったからだ。子どものせいで親が職を失うのは仕方ないが、親の影響で子どもが職を失うなんて、絶対に許せないことだ。子どもの為だけとは言えないが、2度転職を経験している。子育てほど社会とって貴重で大切なことはない。将来の社会を担う子どもを育てられる喜びほど大きいものはない。単身赴任しなかったからこそ、度々あった子どもの不登校危機やいじめ事件、不適切指導事件にも自分で対処して乗り越えられた。単身赴任していたら、妻や子どもたちにどれほどの苦難困難を与えていたことだろう。お陰で、子どもたち3人は無事に大学を卒業して、行政職と教職に就いている。妻も、看護師を今も続けている。私自身は、家族の為に犠牲を強いられたとは思っていない。子育てによって、自分自身が大きな気付きと学びをさせてもらい、かけがえのない自己成長を遂げられたからだ。そんな素敵なギフトをくれた子どもたちに、おおいに感謝している。

※「イスキアの郷しらかわ」では、不登校、いじめ、教師による不適切指導等子育てに関する悩み・苦しみに対して、実体験を通した助言をしています。問題行動は何故起きるのか、どうしたら乗り越えられるのかを、実例を上げながらアドバイスをしています。問い合わせフォームからご相談ください。

いじめによる自殺を防ぐには

子どもが学校でいじめを受けて苦しんで、お母さまが親子無理心中をしてしまったという事件の報道がされている。お母さんは育児ノイローゼが原因で心中したのだとご近所の方たちが誤解しているのはたまらないと、お父さまがそうではないと否定するために記者会見を行ったという。お母さまは子どもからいじめの相談を受けて、何度も学校側と善処するよう交渉したが、いじめは一向に止まず、子どもはいじめられ続けたという。そんな状況に追い込まれて、やむにやまれず心中するしか方法がなかったらしい。

実に悲惨な出来事である。学校でのいじめにより子どもだけでなく母親の命までも奪ってしまうなんて、許せないことである。一方的な話だけなので学校の対応が適切だったかどうかは解らないが、心中するまで追い込まれてしまった母子を救うことができなかった教育関係者の責任は大きいだろう。結果だけを見れば、学校や教委の対応が問われるのは間違いない。このような悲しい出来事が起きる度に、いじめの撲滅が叫ばれて文科省を始めとした教育関係者は、各種の再発防止策を実行するのだが、効果は限定的でしかない。

いじめによる自殺は、一向になくならない現実がある。いじめの自殺を皆無にするには、この世からいじめを無くすことが必要である。しかし、文科省・教委・学校はいじめを完全に無くす手立てを考えつかないようだ。よって、場当たり的な対応をせざるを得ず、対症療法しか出来ないでいる。いじめが起きるそもそもの原因を無くすことが必要なのだが、いじめの本当の原因を掴めていない。文科省・教委・学校の現状そのものが原因のひとつなのだから、自浄能力の極めて低い教育関係者が抜本的解決策を取れるとは思わない。

このようないじめの自殺を防ぐ手立てはないのだろうか。完全にいじめを無くすには、抜本的な対策や解決法を見つけて実践したとしても、何年もかかるに違いない。とすれば、現在いじめを受けている子どもたちを緊急避難的に救う手立てを考えなければならない。それは、学校・教委・文科省に期待しても叶えられそうもない。となれば、保護者が子どもを救う役割を果たすしかないだろう。としても、今回母子が無理心中をしてしまったように、保護者がいじめによる自殺を完全に阻止するのは極めて難しいと思われる。

何故子どもを親が救うのが難しいかと言うと、まずは子どもがいじめの実態を打ち明けられないでいるケースが多いからである。いじめを親に打ち明けると、親の対処の仕方が悪いと、逆にいじめを巧妙に隠されてしまい、より過激になりやすいからである。または、いじめを親にチクった卑怯者としてさらに多くの学友から情けない人間だと蔑まれる怖れも感じるのであろう。さらには、大好きな親に心配をかけまいと我慢をするいじらしい子どもさえいる。何かあったら必ず親に素直に告げる、絶対的な信頼関係が必要であろう。

また、日頃から学校の様子を家庭内で話し合える環境づくりが必要である。心を開いて家族どうしが話し合う普段からの親しい関係性が求められる。特に大切なのは、夫婦が子どものことについて情報を共有することである。母親に子どものことをすべて任せきりにすることが、一番避けなければならないことと言えよう。子どもの前では、夫婦が本音でなんでも話し合えているという雰囲気を見せることが大切である。しかも、夫婦共にお互いの尊厳を認め受け入れ、けっして自分の考えや価値観を押し付けてはならない。相手を支配しようとしないし、制御しようとしない態度が必要だ。そうすれば、子どもは親になんでも言えるようになるのである。けっして否定せず、相手のすべてを受け容れるような態度を普段から示すことで、子どもが安心して話せる家庭環境になる。

さらにもう一つ、いじめによる自殺を防ぐ大事な対処がある。それは、父親が果たす役割である。母親でもその役割を果たせる可能性はあるが、日本は男性中心社会であることから、父親が動かないと学校・教委は対応してくれないのである。母親がいくら学校・教委側と交渉しても、いじめに対する真剣な対応をしてくれるケースは少ない。今回の母子心中事件だって、父親が学校と交渉していたら、違った対応をしたに違いない。また、父親が子どもを守る為に学校と交渉して、身を挺して自分を守護してくれるんだという安心感が大切なのである。いじめをされている子どもは、自分のことを守ってくれる強い存在があるという安心感によって、自殺を思い止まると思われる。この役目は、男性しか負えないということを認識すべきである。父親、もしくは父親に代わって子どものいじめに真剣に対応してくれる存在が、自殺を防いでくれるのである。