メンタル疾患は適切なケアで治る

 精神疾患は完全に治癒するのが難しいと思われている。患者さんもそう思っているが、それ以上に精神疾患は治らないものだと思っているのが、精神科の医師である。さらに治らないものだと医師が認識しているのが、精神障害である。発達障害などの自閉症スペクトラムやパーソナリティ障害(人格障害)、摂食障害、パニック障害、PTSD、各種依存症などの精神障害は、医師たちは難治性のものだからと、最初から及び腰になる。患者さんにも、最初から治りにくいものだからと告知してしまう。本人も家族もそれで諦めてしまうのだ。

 

 確かに、重症の統合失調症や双極性障害は治りにくいと言われている。まだ発症してすぐの期間(2週間以内)ならば、完全治癒もあり得なくはない。しかし、発症して数年経ってから病気だと気付くケースも少なくなく、そういう場合は非常に治りにくいのも確かであろう。対症療法しか打つ手がないので、投薬治療しかないのが実情である。身体疾患と比較しても、治療期間が異常に長いのがメンタル疾患の特徴である。一旦投薬治療が始まってしまうと、減薬や断薬をするどころか、逆に薬量が増えていき、副作用も増大していく。

 

 また、定期的なカウンセリングやセラピーを受けているケースでも、治療が長期間に渡るケースが殆どである。それでも、劇的に改善するなら良いが、あまり効果が見られないケースが多い。患者さんにとっての一時的な安心の提供、または恐怖を取り除くことは一時的には可能だが、その効果は長続きしない。その証拠に、カウンセラーを次から次へと変更する患者さんが多いことが挙げられる。何故、精神疾患が治りにくいのかと言うと、本当の原因を究明しようとしていないからであり、原因を解決しようとしていないからである。

 

 また、精神障害が最初から治らないものだと匙を投げるのも、本当の原因を探求しようしていないからであり、原因を解決する術を知ろうとしないからであろう。日本の精神医療というのは、実にお粗末であって、本当に治癒させようと思っているのか疑いたくなるようなドクターが多いように思う。勿論、ドクター、セラピスト、カウンセラーはどんどんクライアントを完全治癒させてしまうと、患者さん(お客さん)が減っていってしまい、経営が成り立たなくなってしまう。日本の医療制度とは、そんなパラドックスを抱えているのだから、病人がどんどん増えていくのは当然であろう。

 

 薬品会社だって、完全に治癒させてしまう医薬品をどんどん開発したら、おまんまの食い上げである。以前、『生かさず殺さず』という言葉が使われていた時代があるが、まさに日本の医療は、生かさず殺さずに患者を繋ぎとめて行ったほうが、経営が安定していくというジレンマに陥っていると言えよう。病気になる真の原因を究明して、その原因をつぶしていけば、どんな病気だって治らない筈がないのである。それは、精神疾患だって例外ではないし、精神障害だって完全治癒とは行かないまでも、社会復帰程度まで寛解するのも不可能ではない。

 

 精神疾患や精神障害が根底にあり、不登校・ひきこもりの状態に陥ってしまっている方々を、永年に渡りサポートして気付いたことがある。それは、精神疾患と精神障害を起こしている方々は、殆ど例外なく根底に『愛着障害』があるという事実である。そして、この愛着障害が強く影響を及ぼしてしまい、二次的症状として精神疾患や精神障害を起こしているのである。それは、単純なものではなくて、もっと複雑なシステムエラーでもあるから、精神科医がこの根底となる原因を探り出せないのも当然である。

 

 ただ一人、この愛着障害が根本的な原因になって精神疾患や精神障害を起こしていると気付いていらっしゃる精神科医が存在する。それが、岡田尊司先生である。岡田先生は、適切なケアを施して見事に精神疾患や精神障害の方々を寛解させていらっしゃる数少ない精神科医だ。メンタル疾患やメンタル障害は、適切にケアすれば治るのである。愛着障害を適切な愛着アプローチで癒してあげれば、難治性のメンタル疾患だって寛解するのである。ただ、この愛着アプローチはとても難しい。専門の研修を重ねてきたセラピストやカウンセラーであっても、手こずることが多い。でも、適切なケアがされれば、メンタル疾患は必ず治るのである。

ネバーランドから出ておいで

 ネバーランドという国をご存知だろうか。勿論、実際に存在する島国ではなくて、架空の世界にある島国のことである。ピーターパンの戯曲に出てくる国のことだ。ピーターパンと同じように、ネバーランドに住む子どもたちは年をとらない。永遠の子どもなのである。と言うか、大人になりたくない子どもたちである。ピーターパン症候群というパーソナリティ障害があるが、ネバーランドに住む子どもたちは、ある意味ピーターパン症候群だとも言えよう。日本でも、ネバーランドから抜け出せない大人が沢山いることに驚く。

 

 ピーターパン症候群は、男性に多いと言われてきた。しかし、女性にも同じように大人になり切れず、子どものままの精神状態に置かれたままになっている人がいる。アダルトチルドレンと同じようなパーソナリティ症状を呈する傾向がある。ひきこもりの状態に追い込まれてしまっている人も、ネバーランドの住人だと言えなくもない。ネバーランドの住人達は、その精神が極めて強い幼児性を示す。回避性、または逃避性のパーソナリティを持つ。さらには、強い依存性のパーソナリティも示す。そして、ネバーランドから出て来ようとしない。

 

 ネバーランドの住人たちは、子どものようにプラモデルが大好きだったり、アニメやゲームに引き込まれていたりする。中には、大人になってもキティちゃんが大好きだったり、アニメに登場するフィギュアの収集癖もあったりする。心が子どものままだから、純粋なあまり潔癖症でもあり、完璧主義にも陥りやすい。付き合う相手にも純潔や母性・父性を求める傾向が強いから、恋愛が成就することはあまりない。どうして、ピーターシンドロームになってしまうのかというと、乳幼児期の育てられ方に問題があったせいではないかと思われる。

 

 今でもネバーランドに住んで、大人の社会に出て来られない人は、愛着障害だと思われる。つまり、乳幼児期に何らかの問題があって、十分な母性愛を与えられなかったのであろうと思われる。または、愛情が与えられたとしても条件付きの愛だったし、あまりにも介入や干渉をされ過ぎた愛だったのだと思われる。それ故に親との良好な愛着が構築されなかったので、甘え体質と依存体質を卒業できなかったのだと思われる。あるがままでまるごと無条件の愛をたっぷりと注がれないと、自己肯定感や自尊心が育たず愛着障害になるのだ。

 

 ネバーランドの住人たちは、自分がピーターシンドロームだという自覚がないし、愛着障害だとは思ってもいない。あまりにもネバーランドの居心地が良いものだから、ピーターパンのようにそこから抜け出ようとしない。当事者の自覚がなければ、いくらネバーランドから支援者が彼らを救い出そうとしても、徒労に終わってしまう。なにしろ、ネバーランドの住人は頑固であり拘りが強い。素直に聞き入れることが出来ない。中には、謙虚な気持ちで受け入れてくれる女性はいるが、殆どの男性は頑固であり、聞く耳を持たない。

 

 ネバーランドの住人がそこから抜け出すことは難しいが、ひとつだけネバーランドから出られる可能性がある。男性であるならば、母性愛豊かなウェンディのような女性に出会うことである。ネバーランドに住むのが女性ならば、ウェンディのような母性愛を注げる包容力の豊かな男性に出会うことである。まるごとあるがままに愛してくれる異性に出会い、支えてもらえたならネバーランドから抜け出せるかもしれない。しかし、残念なことにそういう人は稀有な存在であるし、ネバーランドの住人は恋愛下手なのである。

 

 ネバーランドの住人は、精神的に幼稚であるから気ままな性格だし、気分が不安定なので突然怒りを爆発させたり落ち込んだりする。自尊心や自己肯定感が低いから、自分に自信が持てない。対人恐怖症や対面恐怖症があるし、醜形恐怖症が伴いやすい。異性とコンタクトを取るのがそもそも苦手なのである。これでは、恋愛に発展しにくいのは当然である。そんな気難しいネバーランドの住人であっても、そっと支えてくれる異性が現われてくれたなら、勇気を振り絞って甘えてほしいのである。ネバーランドから抜け出せるのは、これしかないのである。さあ、ネバーランドから出ておいで、ピーターパンさん。

学問は誰のためのもの(優しく哲学を学ぶ)

 学問とは、誰の為にあるのだろうか。高度の専門的な学問は大学や研究機関のものであり、単純でしかも優しく学べるような学問は庶民のものというように思っている人が多いかもしれない。しかし、そんなことはあり得ない筈だ。どんなに高度で難しい学問だろうと、みんなの為に存在するし、学びたいと思うすべての人のものだろうと確信している。ところが実際は、アカデミックの世界での学問は、研究者や教授・助教授のための学問になっているように感じる。わざわざ難解で理解不能の言葉を操り、敢えて難しい理論展開にしているように思えて仕方がない。

 

 専門の知識や素養が必要な複雑系の物理学や化学、非線形数学などが、まるっきり理解不能なのは仕方あるまい。理解できそうなのに、なかなか理解できない学問の代表は、哲学であろう。哲学は、凡人が理解するのに苦労する。特に、哲学者とその学問を研究する人たちの、難し過ぎる言い回しが理解するのを困難にしていると思う。どうして、こんなにも難解な言い回しをするのだろうと、いつも不思議に思う。それに、専門用語を羅列することが多いし、その理論展開について行けそうもない。わざわざ難解にしているとしか思えない。

 

 そもそも大学教授たちの授業は、おしなべて難解である。教授が著した教科書・文献を読んでも、理解するのが極めて難しい。どうしてこんなにも難解にしなくちゃならないんだと、憤りさえ感じてしまう。敢えて言わせてもらうと、自己満足の世界だと思ってしまう。わざと難しくして、どうだ難しいだろ、バカなお前たちなんて解りっこねえんだよ、と言っているようなものだ。哲学を学ぼうとする学生が少ないのは、こういう馬鹿な教授たちのせいであろう。相手が理解しやすいように、優しい語句と言い回しで教えるのが賢い教授なのだ。

 

 仏教には、仏陀の尊い教えを伝えるお経というものがある。言わば、仏教の教科書みたいなものである。浅学菲才の私はそのお経を読めないし解説も出来ない。非常に難しいと思われているが、実はこのお経は仏陀自身が書き記したものではないという。アーナンダという第一弟子が、口述筆記したものだと言われている。仏陀が集まった人々に講演をして、その言葉を一言一句違わずに文字に起こしたのがアーナンダらしい。集まった人々のレベルに合わせて解りやすいように物語にして聞かせたという。

 

 集まった人々のレベルは千差万別である。仏教を習いたいという専門家(僧侶志願)も居れば、一般庶民も居たという。市井のおばちゃんたちの認知レベルに合わせて、話の内容を変えたという。なるべく理解しやすいように平易でストリー性を持たせて語って聞かせたというのである。仏教とは苦しんでいる人々を救う教えである。当然、悩み苦しむ人たちというのは、悟りを開いていないのは勿論だが、どちらかというと教養や学びの薄い人たちである。そういう人こそが救われるべきだと、仏教を学べるように優しく教えたのであろう。

 

 本来学問とは、仏陀のように優しい語句と言い回しで、誰でも学べるようにしなければならないのだ。それをわざわざ難解にして、賢い人だけが理解できればいいんだという態度や姿勢では、学問を詰まらなくするだけだ。そもそも哲学という学問は、人々を悩み苦しみから救う手立てとするものだ。物事の本質をどう見極めていくのかという、形而上学としての立場があるのだから、人間が人間らしく生きるために必要不可欠な学問なのである。わざわざ難解にして、人々を排除しようとするなんて愚の骨頂と言えよう。

 

 アカデミックの世界で教授と呼ばれる人たちは、どうして学問を難解にしてしまっているのであろうか。それは、ひとつには格調高い文章にしようとして、必要以上に難解にしなくてはならないと勘違いしていることに起因しているようだ。さらには、学歴や教養が高くなっている人ほど、身勝手で自己中心的になっているからだ。文章を読んだり授業を聞いたりする人たちの気持ちになりきれないのである。自分の言っている言葉を理解できないのは、聞くお前たちがバカなのだと突き離しているのである。学問を教える人は、学ぶ人の能力や力量に合わせて、解りやすいように物語にして聞かせ、理解してもらう努力をすべきなのである。

洗脳されやすいのは自己肯定感が低いから

 変なカルト宗教に騙されたり、とんでもない占い師に高額な寄付をさせられたりする人がいる。または、自己啓発セミナーに誘われて、高額な研修を次から次へと受講させられる人が少なくない。これらは、ある意味マインドコントロールや洗脳をされていると言えよう。厳密に言うと洗脳とマインドコントロールは違うものだと言われているが、社会一般では同じ意味で使用されることが多い。著名な芸能人もよく洗脳されているという話を聞くことが多いが、想像以上に多くの人々がマインドコントローや洗脳をされていると言えよう。

 

 フェイクニュースに騙され続けたり、間違ったインターネット情報に操られたりするのも、ある意味ではマインドコントロールと言えよう。トランプの熱狂的な支持者たちは、とんでもない陰謀論を信じ込まされて、マインドコントロールされていると言えなくもない。日本でも、陰謀論を信じ込んでしまい、とんでもない非科学的な証拠を鵜呑みにして情報発信する人がいる。こういう人に、騙されているんだよと優しく諭しても、マインドコントロールされているから無駄である。洗脳というのは無理に解こうとしても、解けないのだ。

 

 洗脳またはマインドコントロールを受けやすい人がいる一方で、どんなに巧妙な罠をかけられても一切騙されずに洗脳やマインドコントロールをされない人がいるのも事実だ。その違いはどこから来るものなのであろうか。イスキアの郷しらかわという不登校やひきこもりの子どもたちや若者たちを支援していて気付いたのだが、彼らもまた洗脳やマインドコントロールを受けやすいのである。そして、彼らに共通なのが自尊心や自己肯定感が異常に低いことである。その為に、騙されやすいし妄想を持ちやすいという共通項がある。

 

 どうして自己肯定感や自尊心が低いと洗脳やマインドコントロールされやすいのかといと、こういう理由からだろうと想像できる。自尊心や自己肯定感というのは、自分で努力して良い成績や実績を上げても、地位や名誉を得たとしても、一切高くなることはない。絶対的な自尊心や自己肯定感を得るかどうかは、小さい頃(2歳~4歳)の自我が芽生える時期における育てられ方に起因している。『あるがままにまるごと愛される』という育てられ方をしないと、自己肯定感や自尊心は育まれることはないのである。

 

 あるがままにまるごと愛されず、親から強く支配されたり制御されたりして育てられると、どんな時にも揺るがない自己肯定感は生まれない。言い換えると、あまりにも親から介入や干渉をされ過ぎてしまうと、自己肯定感は育たないのである。さらに、母親がひとりで子育てをしてしまうと、母性愛と父性愛の両方を同時に注いでしまうことになる。これは、ダブルバインドのコミュニケーションと言って、絶対に避けなければならない子育てになってしまう。そうすると、摂食障害や妄想性の障害などを起こすことにもなる。

 

 あるがままにまるごと愛されるという無条件の愛を注がれる子育てをされないと、子どもと親の豊かな愛着が結ばれない。つまり『愛着障害』になってしまうのである。愛着障害になってしまうと、絶対的な自己肯定感が確立されないで成長してしまう。絶対的な『安全基地』が存在しなくなってしまう。生きる上で必要な安全と絆が存在しなくなるのである。そうなると、いつも不安と恐怖感を抱えて生きることになる。見捨てられ不安やいつか見離されてしまうという怖れを抱いてしまう。回避性や逃避性のパーソナリティを持ったり、何かに依存しないと生きていけなくなったりする。

 

 つまり、いつも強烈な生きづらさを抱えてしまい、何かに救いを求めたくなるのである。言い換えると、いつも心が満たされていないから、何か別のもので心を満足させようとしてしまうのであろう。何かにすがっていないと生きていけなくなってしまうのだ。そこに付け込まれてしまうのである。新興宗教やオカルト信仰に誘い込まれるのは、こういう愛着障害の人が多い。〇〇心理学を学ぶという自己啓発セミナーに騙されるのも同じ理由からだ。スピリチュアルなセラピーに誘惑されて、高いパワーストーンを買わされるとか、高額なアロマを購入させられるのも愛着障害の人が多い。洗脳やマインドコントロールから目覚めるには、誰からかあるがまままるごと愛されて、自尊心を高めるしか方法がない。

哲学を語れないのは父親失格

 小学生の高学年や中学生に対して、親が真面目に哲学の話をしても、けっして耳を傾けることはないと思っているに違いない。しかし、試しに子どもに哲学を語ってみてほしい。そうすると、意外に思うかもしれないが、子どもは熱心に哲学の話に聞き入るだろう。しかも、目を輝かせながら、時には涙を流しながら聞くのである。勿論、ただ単に哲学のエッセンスだけを語っても子どもは聞く耳を持たないかもしれない。あくまでも、物語化させた哲学を熱く語らなくてはならない。そうすれば子どもは生き生きとした表情を見せながら、その哲学的物語に耳を傾けることだろう。

 

 子どもは、基本的に哲学の話が好きなのである。何故かと言うと、人間というのは生まれながらにして、自分自身の哲学や価値観を求めているからだ。最新の医学的な所見に基づけば、人間の細胞どうしはネットワークによって連携している。さらに細胞は、ある意味哲学的とも言えるようなひとつの法則によって活動が行われていることが判明した。その法則とは、関係性の哲学であり、全体最適の価値観なのである。細胞は人体を網羅したネットワークを組んで、各種のメッセージ物質をやり取りしながら、全体最適を目指して活動しているのである。

 

 人間は、37兆2千億個からなる細胞で組成されている。当然、人間もまたその細胞の影響を受けているし、細胞そのものの哲学に反した活動をすると、深刻なシステムエラーを起こす。病気とか怪我もそのエラーのひとつであるし、家族崩壊や企業破綻などもシステムエラーである。親子や夫婦が破綻を起こすのも、関係性重視と全体最適の哲学を無視した生き方によるエラーである。子どもは純真で大人のように穢れていないから、関係性重視と全体最適の哲学を聞くと、すんなりと受け容れて感動するのである。

 

 この関係性重視と全体最適の哲学を『システム思考』の哲学と言う。このシステム思考のような正しくて高邁な哲学を子どものうちから父親は語って聞かせておかないと、子どもは大人になってシステムエラーを引き起こす。夫婦間における破綻、家族崩壊、企業破綻などを起こしてしまうからである。ところが、この哲学を語れる父親がいないのである。父親自身が哲学を知らないのだから、子どもに哲学を語れないのも当然である。父親が哲学を語って聞かせて、子どもが涙を流して感動する様を見たことがないだろう。

 

 子どもは哲学に飢えているのである。現代の学校教育では、先生が思想哲学の話をするのはタブーとなっている。終戦後、GHQは学校教育現場から思想哲学を排除した。天皇崇拝や全体主義につながると誤解した為である。今では、一部の大学にしか哲学科は残っていない。思想哲学の勉強をしても、全体主義には陥らないし、逆に全体主義には批判的になる。全体最適と全体主義とは、正反対の思想である。このような誤解があって、日本の教育から思想哲学が消えてしまい、哲学を知らない親たちは子どもに哲学を語れなくなった。

 

 父親が子どもに哲学を語れないというのは、由々しき一大事なのである。思想哲学と言う生きる上での道しるべというか航海における羅針盤が抜け落ちたまま大人になるのである。人生の大事な選択に際して、間違った生き方を志してしてしまうこともあるし、大きな過ちを犯すことも多々ある。こういう不幸な生き方を子どもにさせてしまったら、父親失格である。母親だって哲学を我が子に聞かせることが出来ると思うかもしれない。しかし、やはり母親では無理なのである。母親は、母性愛という無条件の愛で子どもを包むだけである。

 

 現代の父親が哲学を子どもに語れなくなったのは、本人の責任ではない。父親が自分の親から哲学を語って聞かせてもらえなかったからであり、学校教育で思想哲学を排除されてしまったからである。自分に責任がないと言いながら、子どもが不幸になるのは父親の責任である。とすれば、これからでも遅くないから、父親は正しくて高邁な哲学を学んで、子どもに語って聞かせるべきである。関係性重視と全体最適というシステム思考の哲学を、子どもに語って聞かせなくてはならない。父親失格の烙印を押されないように。

ポイズンマザー(毒親)になってしまう訳

 不登校やひきこもりの社会復帰支援としてイスキアの活動をしていると、その要支援者の親の殆どがポイズンマザー(毒親)である。ポイズンマザーというように、その毒親は母親であるケースがとても多い。父親が毒親であるケースはないかと言うと、そうではない。父親が子育てに無関心なので、毒親として目立たないだけである。一方、母親というのは優しくて思いやりがあるという固定観念があるために、母親が毒親であるというのは際立つのであろう。毒親である当の母親は、自分が毒親であるという認識はあまりなさそうである。

 

 しかし、母親の中には自分が毒親だから子どもが不登校やひきこもりになったのではと、苦しんでいるケースがある。または、もしかして自分は毒親ではないのだろうかと、悩んでいる母親も存在する。いずれにしても、自分が毒親だとは認めたくないが、もし本当に毒親だとしたら、どうしたら毒親から抜け出せるのであろうかと苦悩していることだろう。または、望んでいた訳ではないのに、どうして自分が毒親になってしまったのだろうかと、一人で悩み続けているに違いない。ましてや、我が子から毒親だと宣言されたらショックだ。

 

 メンタルを病んでしまい、不登校やひきこもりを起こしている子どもたちは、父親のことを毒親だとはあまり思わずに、母親のことを毒親だと信じ込み執拗に攻撃するケースが多い。本当は、父親がしっかりと父性愛を注いでくれたら、母親が毒親になんかならなくても済んだのに、子どもが母親だけを責めるのはあまりにも可哀想である。勿論、母親にまったくその責任がないとは言えないが、毒親になってしまったそもそもの原因は、父親にもおおいにありそうだ。母親たちは、毒親になりたくてなった訳ではないのだ。

 

 毒親というのは、子どもに対する親らしい優しさや思いやりがなく、子どもを無条件に愛せない親である。子どもの幸せよりも自分の利益や豊かさを優先してしまう親でもある。子どもをあるがままにまるごと愛せない親だ。でも、本人にしてみれば我が子を愛そうと努力しているし、子どもを立派にしたいと思っている。しかし、子どもの愛し方が解らないし、どう扱っていいのか解らないのである。母親なら我が子を目に入れても痛くないというが、そういう実感が湧かないのだ。我が子なのに寛容と受容の態度が取れないのだ。

 

 何故、そんなふうに母親が毒親化してしまったかというと、端的に言えば必然の流れとしてそうなってしまったのである。自ら希望して毒親になる母親はいない。多くの毒親は、自分の母親もまた毒親であることが殆どである。過保護の母親を持つと、子どもが駄目になると勘違いする人が多いが、そんなことはない。過保護は良いのである。駄目なのは、母親が過干渉のケースである。または、ネグレクト(育児放棄)や虐待をされると、子どもは100%駄目になる。例外がない訳ではないが、酷い愛着障害を起こすのである。

 

 過干渉、ネグレクト、虐待をされて育った子どもは愛着障害を起こす。そういう子育てをする母親は毒親と呼ばれるが、自分自身もまたそのような毒親に育てられた体験を持つ。しかし、明らかに毒親だと解るケースなら少しは救いもあろう。自分が毒親に育てられて嫌だったから、自分はそんな母親にはなるまいと、反面教師に出来るからだ。ところが、自分の母親が毒親だと気付かずに育ち、母親になってしまったケースは深刻である。例えば、ダブルバインド(二重拘束のコミュニケーション)で養育されケースや、過干渉での子育てである。

 

 こういう過干渉やダブルバインドで育てられた子どもは、自分の親が毒親だとは気づかずに大人になる。そして、思春期から強烈な『生きづらさ』を抱えながら生きる。何とか結婚して母親になったとしても、同じようにダブルバインドや過干渉の子育てをする毒親になる。毒親の拡大再生産をすることになる。そして不思議なことに、こういう母親は発達障害の夫を持つことが多い。あまりにも過干渉だった母親だから、その反動で干渉しない寡黙な男性を選ぶのかもしれない。こうして、この毒親である母親は、誰にも助けてもらえず毒親を演じ続けしまうことになるのだ。

 

※自分が毒親ではないだろうか。自分の母親はポイズンマザーではないだろうかと苦しみ悩んでいる方は、イスキアの郷しらかわにご相談ください。どうしたら、毒親を乗り越えることができるか。または、毒親からどのように逃れられるかをアドバイスいたします。

ウィズコロナ時代の働き方イノベーション

 新型コロナウィルス感染症は、私たちの暮らしを一変させてしまった。そして、世界経済も多大な影響を受けている。とりわけ観光・運輸・飲食・娯楽産業では壊滅的な打撃を受けている企業や個人事業主が少なくない。事業継続できなくて、廃業したり倒産したりしているケースが非常に多くなっている。そういう産業で働く人たちの仕事が奪われてしまい、生活が破綻している人も多いと聞く。経済的な理由と将来に対する不安と絶望から、自らの命を絶ってしまう人もいるという。コロナ不況が深刻である。

 

 新型コロナウィルス感染症のワクチン接種が欧米や中国で始まり、間もなくコロナが終息するのではないかと予想する人々がいる。しかし一方では、感染症の専門家の中には、このコロナ禍は少なくても2~3年は終息しないと予想する人が多い。おそらく4~5年はコロナ禍が続くと見ている専門家が少なくない。新型コロナウィルスは、感染力も強いし、重症化する確率も高いうえに、死亡率だって他の感染症と比較しても異常に高い。後遺症も深刻である。新型コロナウィルス感染症を甘く見ている若者が多いが、楽観視していると大きな落とし穴にはまりそうである。

 

 新型コロナウィルス感染症は、先ほども触れたが特定の産業に与える影響が大きい。そして、私たちの普段の生活も変えざるを得なくなった。そして、これから4~5年もこの状況が続くとすれば、ウィズコロナの生活そのものを抜本的に変えなければならないのではなかろうか。今までの生き方そのものを見直すべきではないかと思えて仕方ない。新型コロナウィルス感染症を完全に抑えるには、経済も暮らしも今までとまったく違うものに抜本的に革新する必要がある。つまり、ウィズコロナ時代のイノベーションが求められるのである。

 

 ウィルスというのは、生き物である。そして、ウィルスは自己組織化する生物なのである。ウィルス自身が生き延びようとするし、その感染力を強くして、仲間の数を増やそうとする。その為に主体性、自発性、発展性、進化性を発揮して、変異を繰り返す。そうなると、ワクチンが効かなくなる恐れもあるし、特効薬だって効果がなくなることも考えられる。今度の新型コロナウィルスは、今までのウィルスとは明らかに違う気がする。おそらく、今までのような感染症対策だけでは抑えきれないであろう。ウィルスを抑えるのではなく、ウィルスと共生する生き方を目指す必要があると考える。

 

 我々は、今までのような働き方と生活ではなくて、コロナに感染しない働き方と暮らしを実現したい。行き過ぎたグローバル化を見直して、なるべく地産地消を目指したほうが良いだろう。観光や娯楽も近くの場所で、アウトドア的な楽しみ方をすれば良いと思う。飲食店の利用も最小限度にして、安全な家庭での飲食にしたいものだ。可能な限りリモートでの仕事にして、IT化やAI化を図れば、出社するのも最小限で済む。家庭中心の生活にして、外食や飲酒はなるべく控え、ホストクラブ、キャバクラ、接待を伴う飲食店、性風俗店などは利用しないようにしたい。浪費的な生活を見直し、生産的な働き方をしたいものだ。

 

 そもそも、人間は明るくなると同時に活動し、暗くなる時間には安息と睡眠をするように創られている。本来人間は夜に働いたり活動したりしないものなのだ。深夜帯に飲食することは健康を損なう行為だし、深夜帯に飲食店で働くなんて命を削るようなものである。環境保護の観点からも、夜間の照明や空調の利用を控えれば、エネルギー使用を大幅に削減できる。働き方改革をさらに推し進めて、残業を無くせばよい。一次産業を推進するのも効果がある。マンパワーが足りないのであれば、飲食業やサービス業からの余剰人員を充てて、ワークシェアリングを進めればよいだろう。

 

 環境保護の観点からSDGsを推し進めるのは喫緊の課題である。カーボンフリー社会を目指すのは、我々の共通課題である。ウィズコロナの時代に応じて働き方や生活を革新するのは、まさしくSDGsにとっても必要不可欠のことなのだ。省エネルギーの為にも、深夜帯に働くことを避けたいものである。仕事を午後6時くらいまで終了して、まっすぐ帰宅したら公共交通機関だって、深夜運行は不要となる。働き方のイノベーションをして、家族の触れ合いを大切にすると共に、人間らしい生き方を取り戻してほしい。そうすればコロナは終息する筈だし、SDGsも推進できる。

鬼滅の刃が人気なのはシステム思考だから

 鬼滅の刃の映画興行収入額が史上最高を記録した。コロナ感染症という特殊な事情があったとしても、アニメ映画にこれほどの圧倒的な人気を博したのは不思議である。それも子どもや若者のアニメファンだけでなく、大人や高齢者にも絶大な支持を受けた。多くの老若男女が鬼滅の刃に魅せられたのである。どうして鬼滅の刃が人気になったのであろうか。いろんな理由をマスコミや評論家は上げている。しかし、本当の理由はそれだけでないように思われる。鬼滅の刃が人気を博したのは、システム思考を描いているからではないだろうか。

 

 鬼滅の刃を見た人は解るだろうが、この物語は人間としての正しい生き方を説いている。思想・哲学的であるし、見る人に高い価値観を示している。こんなにも鋭く人生哲学を描いたアニメは他にないだろう。しかも、それが押し付け的でなく、見る人すべてが素直にその哲学を受け要れてしまうような描き方をしている。この鬼滅の刃に終始流れている思想・哲学は、関係性重視と全体最適である。人と人との絆を何よりも大切にしているし、個人最適ではなくて、全体に対する貢献と最適化を描く。つまり、システム思考なのである。

 

 システム思考というのは、この宇宙における万物の真理に基づく価値観である。私たちがこの世界に生きている意味であり、生きる目的でもある。我々人間も含めたすべての生きとし生けるものだけでなく、物体が物体として存在する理由でもある。鬼滅の刃は、それを鬼退治、そして家族愛と人類愛の『ものがたり』として表現している。私たちの住む宇宙はシステムそのものであり、我々の住む地球そのものがシステムである。あらゆる植物や生物もシステムであるし、人間もそして鉱物さえもシステムとして存在している。

 

 人間が関係するすべての組織はシステムである。家族、企業、団体、地域、国家、地球、宇宙すべてがひとつのシステムである。そして、人体もまたひとつの完全なネットワークシステムだということが、医学的・生物学的にも判明している。人体を組成する37兆2000億個の細胞は、それぞれが自己組織化する働きがある。そして、オートポイエーシス(自己産生)の能力を持つ。誰からも指示命令を受けず、ひとりでに細胞分裂をするし、お互いが関係性を持ち、全体最適を目指す。過不足なく、少しも誤りなく人体を組成し活動する。

 

 ところが、この人間の完全無欠な人体と精神は、時折システムエラーを起こす。あまりにも外部から介入され過ぎたり強く制御され続けたりすると、システムエラーを起こして健康を損なう。メンタルが障害を起こすのも同じ理由からだ。鬼滅の刃というものがたりでは、人間の社会システムが関係性を損ない、全体最適でなく部分最適を目指してしまい、自らの自己組織化やオートポイエーシスの機能を失ってしまった状況を映し出す。鬼どもが人間を襲って殺したり操ったりする恐怖の世界である。

 

 鬼が生き永らえて強くなるために人を喰らい、さらに人間を襲う社会が現われるのはシステムエラーを起こしていると言えよう。人間が鬼になってしまうのも、家族というシステムが崩壊しているからであろう。鬼滅の刃に出てくる鬼たちは、家族から愛されず見離されて絶望し、絆や信頼する関係性を見失っている。一方、鬼殺隊の柱たちは自分の犠牲を厭わずに、愛する者を守るために勇気を振り絞って鬼と闘う。その決心はけっしてぶれることがない。炭次郎も命を賭けて全体最適のために死闘を繰り広げる。自分の私利私欲や損得のために、人間を殺していく個別最適の鬼とは根本的に違うのである。

 

 鬼殺隊の柱たちの絆は強いし、その関係性が損なうことはない。炭次郎、善逸、猪之助の友情は、何よりも固く結ばれていて、その信頼関係は揺らがない。柱たちや炭次郎たちの心にはシステム思考の価値観が強く根付いているからに違いない。炎柱煉獄杏寿郎は、自分の命を投げうってまで、無限列車から人々を救い出した。これはまさしくシステム思考の哲学に支えられた行動である。システム思考とは、人間が正しく生きるための哲学である。多くの人々は、自分たちが本来持っているシステム思考の価値観を、鬼滅の刃を鑑賞することによって目覚めさせるのであろう。だからこそ、鬼滅の刃がこれだけ熱狂的に支持されて人気を博しているに違いない。

自分の目で自分を見ていないから心が傷つく

 メンタルが傷ついているクライアントに、「自分のことを自分の目で見ていますか」と尋ねると、この人は何を言っているの?と不思議な顔をされることが多い。それで、「あなたはいつも他人の目を通して自分を観ているのではありませんか?」と聞いてみる。それで、ようやく質問の意図を理解してくれる。言われてみると、確かに自分はいつも自分のことを他人からの評価や批判を気にして観察してしまっていると気付いてくれる。自分を主体的に観察するのでなく、客観的もしくは第三者的に自分を観ているのである。

 

 こんな話をすると、自分を客観的に観るのはいけないのですか?と憮然としながら問われる。勿論、自分を第三者からの目で観ることも必要である。自分の基準だけで自分を見てしまうと、身勝手で自己中心的な見方になってしまう。他人からの目で自分を観るのも、時には必要である。だとしても、自分をまるっきり他人の目だけで見てしまうと、批判されているのではないかと、けなされているのではないかと、気になって仕方ない。そして、やがては他人の目が怖くて人目を避けたくなってしまう。

 

 どうして、そんなふうに他人の目で自分を観てしまうのであろうか。それは、小さい頃より親や祖父母から、そんなことをしてしまうとみんなから軽蔑されるよ、嫌われるよと、いつも他人の目を意識させられてきたからであろう。そればかりではない。こんなことしちゃ駄目じゃない、こうしないといけないよと言われ続けて、否定され批判されコントロールされて育てられたからである。小さい頃から、このように干渉や介入をされ続けて育てられると、『自己組織化』ができないばかりか、自己肯定感が育たないのだ。

 

 この自己肯定感や自尊心が健全に育たないと、自己の確立が不可能になるのである。つまり、アイデンテティが確立されないということである。アイデンテティとは『自己証明』とも訳され、自分が自分であることの証明であり、自分らしさを認め受け容れているということでもある。このアイデンテティの確立がされていないと、自分に自信が持てないし、自分の進むべき道や生きる確信が持てないから、いつも不安や恐怖を抱えながら生きてしまうのである。自分の目で自分を見られなくて、他人の目で自分を見てしまうのである。

 

 自己肯定感や自尊感情がなくて大人になってしまうと、いつも不安や恐怖にさいなまれ、社会に出ていくのが怖くなる。ちょっとした失敗や挫折でも、それがトラウマ化してしまうことになる。または、冗談めかしたセクハラやパワハラでもメンタルがやられてしまうし、メンタル疾患になりやすい。パニック障害やPTSDになることも多い。ましてや、世の中は不安だらけだし、人に出会うのも怖い。人の目にいつもびくびくしながら生きるようになる。しまいには、家庭や自分の部屋にひきこもってしまうことにもなる。

 

 メンタルを病んでいる方々は、自己肯定感や自尊心が育まれていないことが多い。そして、自分のことを自分の目で見ていないし、他人の目で自分を見ようとしてしまう。だから、他人からの評価や批判をいつも気にするし、地位とか名誉とかに固執することが多い。学歴、経歴、資格などにこだわる。自尊感情が低いからその反動で、自分を必要以上に大きく強く見せようとするし、他人を否定し蹴落としたくなる。学校や職場でいじめをする人というのは、実は自己否定感が強い人である。セクハラ、パワハラ、モラハラを繰り返す人というのは、自尊感情があまりにも低い人なのである。

 

 メンタル疾患になる人、不登校やひきこもりになる人というのは、自尊感情や自己肯定感の低い人である。いじめられる側といじめる側に分かれるのは、自己否定感から来る怒りや憎しみの感情が、自分に向かうか他人に向かうかの違いであろう。あまりにも自己否定感が強いから、その否定感を打ち消す為に、他人を否定しようとして攻撃するのだと思われる。一方、気が弱い人はその攻撃性が自分に向かうのであろう。いずれにしても、どちらも自分のこと自分の目で見ずに、他人の目で自分を見ている傾向がある。自分のことを自分の目で見ると言う習慣を意識して身に付けたいものである。

布マスクは効果がなく危険!

 

 新型コロナウィルス感染症の増加が止まらない。東京など首都圏を中心にして日々感染者が増えると共に、重症者や死亡者が増え続けている。三密が守られていないということもあろうが、気になるのが最近特に増えている布マスク愛好者のことである。もしかすると、感染者が増えている原因のひとつが、布マスクを使用する人が増えたことによるのではないか。不織布の三層マスクはある程度の防御効果が認められているが、布マスクは感染させないという効果が少しあるが、防御効果は殆どないと言っても過言ではない。

 

 この布マスクの防御効果が殆どないということを知らない人が多い。また、いい加減な作りの三層不織布マスクも防御効果はあまりないということを認識している人も極めて少ない。四層の不織布マスクや五層マスクであれば、ある程度の感染防止の効果がある。N95マスクは防御効果が高いが、高価であるし滅多なことでは手に入らないのが難である。五層のマスクでN95マスクと同等性能の不織布マスクがネットで購入できるので、私は感染の恐れがある場所では、それを利用させてもらっている。自分の身を守るには必要である。

 

 安価な三層の不織布マスクは感染予防の効果があまりないが、感染させない効果はある程度認められている。布マスクは、感染予防効果はまったくないと思っていいだろう。感染させない効果も極めて少ない。布マスクは付けていて息苦しさを感じない。ということは、ウィルスも通すということの証明でもある。職場や学校で布マスクを着けて過ごすというのは、自分自身も危険であるが、周りの人々に対してもリスクを負わせていることを忘れてはならない。ファッション性の高いマスクほど、危険性が高いということを認識すべきであろう。

 

 本日、ある全国チェーンの散髪店に行ってきた。そのお店では7人~8人の理容師が働いている。その中で、3名の技術者が鼻を出してマスクを着用していた。国会の中では議員さんたちも同じように鼻を出しているが、これも大変危険である。鼻を出してマスク着用しても、他の人に感染させることはないから大丈夫だと言う人もいるが、それは強弁である。自分が感染して、無症状で仕事をして、他の人に感染させる危険性がある。症状が出る前の2日間は、感染させる可能性が高い。こんな基本的なことを知らない人も多いのである。

 

 また、意外と多いのが不織布マスクの裏表を逆にして使用しているケースである。不織布マスクにはプリーツが付いている。金具が付いている方を鼻のところにするのは間違わないが、プリーツの折り返しの上下を逆にしている人が多い。ウィルスがプリーツに溜まらないように、プリーツの溝が下を向くように装着するのが正しい。また、布マスクをしている人の中で上下を逆にして着けている人も少なくない。ずり落ちてしまい、鼻が出ているのは逆に装着しているからだ。カーブする角度が急な方を鼻のほうに着けるのが正解だ。

 

 若い人たちほど、コロナに対する危機感がないようだ。基礎疾患がない若者は、無症状であることが多く、重症化しないからと感染対策をしない人が多い。夜の街に出かけてマスクを取って会食するし、酒に酔ってマスクを着けずに大勢で大騒ぎする姿が目に付く。自分たちだけは大丈夫だというような変な自信があるみたいで、安易な行動を繰り返しては感染する若者が多い。しかし、若者でも重症化するケースもあるし、酷い後遺症に長い期間悩まされることもあり、そのせいで職場を失っている人もいる。新型コロナウィルス感染症は、まだ後遺症も含めて解らないことが多いから、若者だろうとリスクを回避すべきだ。

 

 コロナ感染症で重症化する割合は少ないし、インフルエンザよりも死亡率が低いから大丈夫だと思い込んでいる人も少なくない。しかし、それはおおいなる勘違いだ。インフルエンザの死亡率というのは、感染した人全体に対する割合ではなくて、あくまでも症状が現れた人に対する割合だ。ところが新型コロナウィルス感染症の死亡率は、陽性者全体に対する割合なのである。症状が出た人に対する重症化率や死亡率にすれば、インフルエンザよりもはるかに高いのである。後遺症も恐怖である。だから、新型コロナ感染症はかなり危険であるから、布マスクを着用するのを避けて、感染予防に努力するべきなのである。