コミュニケーションが苦手な子どもになる訳

 コミュニケーションが苦手な子どもが、異常な程増加している。子どもの時のコミュニケーション障害が若者になっても継続し、大学や職場においても継続しているケースが少なくない。コミュニケーションが苦手な子どもは、学校でいじめに遭ったり不適切指導の対象になったりするので、不登校になってしまう例も多い。友達も出来にくいので、不登校からひきこもりになってしまう一因にもなっていて、コミュニケーション障害は大きな社会問題にもなってきている。どうして、こんなにもコミュニケーション障害が増えたのだろうか。

 コミュニケーションが苦手な子どもは、場面緘黙症や対人恐怖症を併発することが多い。コミュニケーション障害が根底にあると、見知らぬ人と会うことがとても不安になるし、外に出ることが恐くなる。読み書きは出来るし、試験は乗り越えられる。大学や就職の面接試験は、何度もトレーニングをするので擦り抜けられる。コミュニケーションが苦手な若者だって、同じ場面を何度も訓練して、予想質問を完璧にこなせるようになれば、面接試験をクリアしてしまう。しかし、実際に仕事をするようになれば、たちまち馬脚を現す。

 決まり切ったやり方をするだけの定型の仕事なら、コミュニケーション障害を抱える若者でも問題なくこなせる。しかし、その仕事にイレギュラーの追加業務が発生したり、突発的な問題が発生したりすれば、コミュニケーションの苦手な社員はもうお手上げだ。一流大学を卒業して、優秀な成績で入社してきたエリート社員が、実際は使い物にならないポンコツだったというケースが多い。こういう社員は、すぐに辞職するが、自分で退社手続きさえできないので、退職代行にすべてお任せになる。実に困った事態である。

 コミュニケーション障害の子どもや若者が、こんなにも増えてしまったのは何故なのだろうか。その根底には、自己肯定感や自尊感情の欠落が存在する。不安や恐怖感が自分を支配しているので、言葉にして発声することが出来ないのである。それは、小さい頃から言葉を発する度に叱られ批判・否定をされるような体験を何度も積み重ねたからである。元々、言葉を発するのが遅い為に、保護者が言葉を先取したり代替コミュニケーションをしてもらったりする影響も、おおいにある。次第に言葉を発するのが嫌になるのも当然である。

 このように、不安や恐怖心がMAXになっている心を持つのは、HSPの影響であろう。自己肯定感や自尊感情を持てないのは、愛着障害のせいであると思われる。そして、HSPと愛着障害が根底にあると、心が傷つきやすくなる。安定型の愛着を持つ人なら心が傷つくような出来事にはならないのに、安易に傷ついてしまう体験になってしまう。そして、その心の傷がトラウマになっていく。そして、このトラウマが積み重なっていき、複雑性PTSDを抱えているが故に、コミュニケーション障害が起きていると考えられる。

 複雑性PTSDは実に複雑であるし、症状も様々である。症状がごく弱い人なら、複雑なコミュニケーションが不必要な業務をこなすことが出来る。複雑性PTSDの症状が強い人は、二次的な症状として様々なメンタル症状を起こす。双極性障害や統合失調症と誤診されるし、単なるうつ病として誤った治療を受けている人も多い。複雑性PTSDによるコミュニケーション障害の強い人は、不登校やひきこもりの状況が固定化されることも少なくない。コミュニケーション障害だと認識され、次から次へと転職して退職を繰り返し、複雑性PTSDが強化されることにもなる。

 何故コミュニケーションが苦手な子どもが増えているのか、結論を言えば愛着障害とHSPによる影響で、自己肯定感や自尊感情を持てないからである。その為に、不安と恐怖心がMAXになっているので、言葉を発するのが恐いのである。こんな子どもに育てようと思う保護者はいない。しかし、実際はコミュニケーションが苦手な子どもを育ててしまっている。『良い子に育てよう』という意識が強過ぎるのではなかろうか。その意識が強いので、あまりにも子どもに対して干渉や介入をしてしまうことで、愛着障害になるのであろう。子どもが本来持っている自己組織化をする能力を高める子育てに、大転換しなくてはならない。

不登校を乗り越えるのは父親の役割

 前回のブログで不登校が起きる要因には、父親に大きな責任があると論じた。とすれば、父親が我が子の不登校に真剣に向かい、自分の今までの行動を謙虚に振り返り反省し、ドラスティックに言動や思想哲学を変化させたら、見事に不登校を乗り越えることが出来ると言える。親が変われば子が変わると言うのは、本当である。不登校の当事者のお母さん方は、自分の責任を認めていくら変わろうと努力しても、限界がある。でも、父親が変われば子どもは見事に変わる。不登校を乗り越えるには、父親の果たす役割が重大なのである。

 不登校の真の原因は、愛着障害にある。当事者が愛着障害を抱えることで、不安や怖れがMAXになり、HSPを抱えてしまう。また、絶対的な自己肯定感や自尊感情が育っていないし、傷つきやすい子どもになっている。深刻なHSPにより、ちょっとしたことでも傷つく。普通の子なら何とも感じないし傷つくこともないが、自己肯定感が育っていないHSPの子どもは容易に傷つきトラウマを抱えてしまう。そのトラウマが積み重なり溜まりに溜まって限界まで到達すると、複雑性PTSDを発症してしまう。

 複雑性PTSDを抱えた子どもは、元々持っていた発達の凸凹が強化されるし、様々なメンタル障害を発症してしまう。ポリヴェーガル理論における迷走神経の遮断・フリーズが起きて、身体の緊張・硬直が起きるので、トラウマは固定化と深刻化してしまう。こうなってしまうと、投薬治療やカウンセリング・セラピーを受けても容易には回復しない。複雑性PTSDはいくら対症療法をしたとしても、限界がある。ましてや、今までの精神分析療法やトラウマの暴露療法をすれば、二次的被害が起きてしまい余計に悪化するのである。

 子どもが大きな不安や恐怖感を抱える原因は、愛着障害にあるものの、それだけではない。自分にどんなことがあっても、どんなことをやらかしても、自分のことをけっして見捨てない保護者がいること。どんなに強大な敵がやってきたとしても、自分のことを絶対に守り続けてくれる保護者が居るという安心感が必要である。それは母親には無理であり、強い父親がその役割を果たさなければならない。自分の命を賭してでも、敢然と敵に向かい怯むことなく、子どもと妻を絶対に守るという強い決意と行動が必要不可欠なのである。

 子どもはこのような強い守護神の元で、安心して外に出ることが可能になる。そして、このような強い夫を持つことで、妻は安心して子どもに無償の愛を注ぎ続けられるのである。このように強くて頼りになる父親を持った子どもは、どんなに酷いいじめや不適切指導に遭ったとしても、平気なのである。そもそも、このように絶対的肯定感や自尊感情を持つ子どもに対して、いじめなんて出来ないのである。自分よりも強いメンタルを持ち、大きく輝くオーラを持つ相手を攻撃するなんて、いじめっ子には怖くて出来ないのが当然だ。

 子育ての責任は母親だけが負うものではない。父親も率先して子育てに参加すべきだ。子育ては父親が中心なってすべきだし、子育ての最終責任は父親が負うべきなのである。子育ての大半を母親に任せたとしても、すべての責任は自分が取ると宣言して母親を安心して子育てに邁進できる環境を整えるのが、父親の役目である。夫が妻をまるごとありのままに愛することが出来てこそ、母親は子どもを無条件の愛で包み込むことが出来るのだ。そんな父親であれば、子どもと妻は安心して暮らせる。健全な愛着が育つし、HSPも和らぐ。

 ところが世の中の父親は、まったく正反対なのである。子育てにはまったく関わらないばかりか、リスク(責任)とコスト(犠牲)をまったく負担しない。不登校になったのは母親のせいだと言わんばかりに、実に冷たい目で批判的に眺めている。妻や子を守ろうとする気概は見えないし、問題から逃げ回っている。これでは不登校を乗り越えるなんて出来っこない。父親は子どもと妻に対して自分の非を認めて、今までの言動を謝罪すべきだ。そのうえで、心を入れ替えて言動を180度転換して、妻と子どもの守護神に徹するようにしなくてはならない。自分最優先ではなくて、家族中心の家庭を作るために誠心誠意で尽くすことが求められる。そうすれば、子どもは不登校から必ず乗り越えられる。

不登校の真の原因と深刻化は父親に責任

 不登校とひきこもりの保護者の中で、SNS等で我が子についての悩み苦しみを打ち明けているのはお母さんであり、お父さんが悩み苦しみを吐露するケースは皆無である。男性は、そもそも弱音を吐かない生き物だから当然だという意見もあろうが、果たして父親がSNSで子育ての悩みを発信しないのは、それだけの理由だろうか。SNSでの不登校の悩み発信をしたり、医療機関やカウンセリングに相談したりするのは、お母さんだけのケースが殆どである。不登校やひきこもりの家庭において、父親の影が薄いのはどうしてであろうか。

 不登校の子どものことを心から心配して、いろんな解決策を模索したり、医療機関や不登校児童の支援組織を探したりするのは、殆どがお母さんである。子どものことで、自分の育て方が悪かったのではなかろうか、自分がこのような不登校の状況を招いたのではと、自分自身を責めるのは母親だけであり、父親は自分自身を顧みることはまったくない。父親は仕事が忙しくて、母親に子育てを任せっきりにしているので、母親が子育ての方法が悪いから不登校になったと思い込み、妻を暗に責めるケースが殆どである。

 勿論、父親が不登校やひきこもりの原因を作っているのだと言うつもりはないが、そもそもの要因を作った責任が父親にあるのは間違いない。不登校やひきこもりの家庭における共通問題なのは、父母の夫婦関係がよろしくないことだ。不登校とひきこもりの家庭において、当事者の両親の人間関係が親密、もしくはラブラブな状態にあるというのは殆どない。どちらかというと、最悪の関係にあってコミュニケーションが上手くいっていないケースが多い。夫婦関係が破綻に近い場合が多く、母親が離婚を模索している例が少なくない。

 子どもというのは、お父さんもお母さんのことも大好きである。その両親の仲がよろしくないことは、どんなに隠していても子どもには伝わっている。もし、両親の不仲が最悪で、離婚の危機にあるなら、子どもは無意識で問題行動を起こして、離婚の危機を回避させようとする。子どもは自己犠牲を払ってでも、両親の関係を修復させようとするのだ。そんな自己犠牲による不登校やひきこもりを起しても、結果は最悪となる。お互いに、責任が相手にあると思い込み、問題を解決に向かわせないばかりか、逆に関係をこじらせるのである。

 子どもが不登校やひきこもりになるそもそもの原因は、母親の子育ての誤りにあると思っている人が多い。それは、正しくない。そして、不登校の子どもは様々な発達の凸凹を抱えているケースが少なくない。ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD、アスペルガー症候群などを起している。生まれつき脳の神経伝達回路に異常があり、育てにくさを抱えているケースも多い。その育てにくさや育児の困難さがあるのだから、母親だけのワンオペで育てることがそもそも無理なのである。夫婦が共に支え合わなければ健全な育成は叶わない。

 不登校の子どもたちは強烈な不安や怖れを抱いている。その原因は、親との安定したアタッチメントが形成されていないからである。アタッチメントとは『愛着』とも訳されるので、不安定なアタッチメントは愛着障害とも言える。愛着障害を抱えるが故に、不安や怖れが常に子どもの心を支配している。心が傷付けられるような体験がトラウマとして積み重ねられる。そして、そのトラウマの積み重ねが心の限界を越えてしまうと、複雑性PTSDとして先鋭化してしまい、その二次的症状として発達の凸凹が強化されてしまうのである。

 親との安定した愛着が形成されない原因は、『あるがままにまるごと愛される』という経験を0歳~3歳の間に積んでいないからである。どちらかというと、無条件の愛である母性愛よりも父性愛が強い子育ての影響がある。つまり、過干渉や過介入の子育てをされてしまうと、子どもは不安を抱えてしまうし、自分は愛されているという実感を持てないのである。絶対的な自己肯定感や自尊感情が育まれない。しかも、父親が自分を犠牲にしても守ってくれるという実感を子どもと母親が持てないと、母子は共に不安になる。父親が家族に対して絶対的な守護神としての役割を果たさないと、子どもと母親が強烈な不安を抱えてしまい、不登校の深刻化と固定化が起きるのである。

安易で激しい筋トレはケガと老化を招く

 健康志向の高まりから、トレーニングジムに通ったり筋トレ用のグッズを利用して自主トレをしたりする人たちが急増している。また、ボディビルダーのジムに通って、筋肉隆々の身体を手にしたいと、激しいトレーニングに汗を流している人も少なくない。スポーツ選手もパワートレーニングと称して、瞬発力を高める訓練をする人たちも増えている。相撲の力士たちやプロの野球選手たちも、こぞって筋トレに励んで強靭でパワーを発揮できる筋肉を作り上げている。そのお陰なのか、日本人の選手たちも世界で活躍している。

 ところが、そのせいで多くのプロスポーツ選手たちには、皮肉にも故障が続出しているという現実に苦しんでいる。肉体の限界に挑むようなプロスポーツの世界では、怪我や故障は避けられないものだと思っている指導者も少なくない。瞬発力のパワーが出るような筋肉を作れば、怪我に繋がってしまうことは、トレーナーなら既に認知している筈だ。それでも、そのギリギリのところで怪我をしないパワーの出る筋肉を作り上げるというのは、それこそ薄氷を踏むような思いでトレーナーは筋トレをさせるしかないのだろう。

 大相撲はパワー全盛の時代を迎えたので、筋肉をこれでもかというように大きくさせた力士が多くなっている。しかし、その代償として怪我に悩ませられる力士が異常に多くなった。殆どの力士はどこかの故障を抱えて、テーピングだらけの姿で相撲を取る。プロ野球選手は怪我が多いので、故障者リストに入る選手が急増している。プロゴルファーは、殆どの選手が怪我や腰痛等を抱えながらプレーしている。怪我とか痛みがまったくないというプロスポーツ選手を探すのは、至難の業である。これも行き過ぎた筋トレのせいであろう。

 こんなパワー筋肉全盛の世界で、ウェイトトレーニングをまったくさせないのに世界のトップアスリートを生み出しているトレーナーがいたのである。それは、MLBドジャースの山本由伸投手の球団トレーナーをしている矢田修氏である。彼の理論は独特であり、筋トレをさせないしパワーを酷使させないという特別な理論である。欧米のアスリート界隈においては、ムキムキの筋肉をハードなウェイトトレーニングによって作り出す手法が主流となっている。日本のアスリート界でも、その流れに乗り遅れないようにと筋トレをしている。

 山本由伸の身体は、スマートであり筋肉ムキムキの体形をしていない。そして、けっして力感のある投球フォームではないし、パワーを込めた投げ方をしている訳ではない。それなのに、ストレートは150キロ台後半のスピードであり、スプリットであっても150キロ近くのスピードがある。流れるようなスムーズな一連の投げ方は、毎回同じであるし球種によって変わらないから、打者はタイミングがとりにくい。あの筋肉の使い方、回転軸のしっかりした体幹の使い方こそ、矢田修トレーナーの指導によるものなのである。

 上半身のパワーをあまり使わずに、下半身のキレや体幹を軸にした反転で溜めた力を一気に開放する回転スピードによって、あのスピードと球のスピンの多さが生まれていると言える。スポーツの基本は、スピードをどのように生み出すかにかかっている。縦と横に動くスピードを上げるにはパワーが必要であるが、回転スピードを上げるにはそんなにパワーを必要としない。それも、体幹を固定したうえでムチのように体にからみつくように手足が動けば、とてつもないスピードが実現する。山本由伸のスピードはこうして生まれたのであろう。

 ウェイトトレーニングによって作られた筋肉は、とてつもないパワーを生み出す。しかし、それは諸刃の剣であり、無理に作られた固い筋肉は脆い。断裂しやすいし、疲労しやすい。酸化しやすい筋肉は老化する。山本由伸の筋肉は多少の無理をさせても壊れない。中0日登板が可能になり、WシリーズでのMVPを受賞した。怪我もしにくい。我々のようなアマチュアスポーツを楽しむシニアは、ウェイトトレーニングをしてはならない。若い人も同じだ。長い期間に渡りスポーツを楽しみたいのなら、筋トレは絶対に避けたいものである。体幹トレーニングや平衡感覚を磨くトレーニングをしたいものである。

素粒子と友達になればゴルフが上達する

 ゴルフ熱が再燃していて、大きな経済効果を上げているらしい。どうしてかというと、コロナ禍が一段落したということもあるが、若い人たちにもゴルフの人気が高まっているからだという。また、爆発的に増えているのが女性ゴルファーらしい。若いレディースゴルファーは勿論のこと、60代から70代のシニアレディが始めるケースも多いと言われている。それこそ、多くの老若男女の方々がゴルフに勤しむのは、ゴルフファンとして嬉しくなる。しかし、ゴルフほど難しいスポーツは他にない。上達するのは至難の業である。

 何故、ゴルフが難しいのかというと、それはメンタルスポーツだからであろう。他のスポーツにおいてもメンタルが影響を及ぼすことは少なくない。どんなに技術があっても、高度な戦略を駆使できても、メンタルが乱れたらまともなプレーは出来なくなる。特に、ゴルフというスポーツはメンタルがプレーの良し悪しに直結してしまう。どんなに技術や経験があってもメンタルが乱れたら、ゴルフのプレーは台無しになる。それは、どんなに上級者であっても、トッププロゴルファーでもメンタルがプレーに左右してしまう。

 それじゃ、どんなにフィジカルトレーニングを積んでも、初心者がゴルフの力量を上げるのは無理じゃないのかと思うかもしれない。確かに、上達するには技術面と同時にメンタル面での訓練も必要だと言える。それでは、どんなメンタルトレーニングをすれば上達することが出来るのだろうか。単なるメンタルコーチでは、上達は叶わないであろう。今どきのプロゴルファーだってメンタルコーチに指導を仰いでいる。しかし、いざ試合となるとメンタル面が安定せずに、自滅してしまうケースが多い。それだけメンタル面が不安定なのだ。

 それでは、ゴルフが上達するにはどんなメンタルトレーニングが良いのであろうか。最新の科学的なゴルフトレーニングの理論で考えると、『素粒子』を利用すると上達するのが確実だと言える。素粒子というと、量子物理学とか量子力学における、量子のことである。素粒子とは、物質を組成する最小単位とみなされている。物質とは、生物や鉱物などすべての『もの』のことを言うので、人間の細胞も素粒子で作られている。ゴルフクラブやボール、フェアウェイやグリーン、ホールもまた素粒子で組成されている。

 量子力学を学んだ人なら、素粒子そのものは本来質量を持たず、実体がないことを知っている。素粒子どうしの関係性が深まり協力し合って初めて実体化する。素粒子どうしが繋がってお互いに支え合うことで、目指すことが現実化するということだ。つまり、ゴルフをする人間、ゴルフクラブ、ゴルフボール、芝生、ホールカップなどすべて同じ素粒子で成り立っている。とすれば、そもそもすべて同類であり、お互いに繋がり合って協力し合うことで、目指すことが実現するということになる。お互いに友達になり親しくなれば、ゴルフは飛躍的に上手くなる。

 さらに付け加えると、最先端の脳科学とシステムダイナミクスを駆使すると、ゴルフはさらにレベルアップすることになる。素粒子は自分のために利用しようとすると、願うように実現しなくなる。つまり、ゴルフが上達しないし上手くいかない。自分が、周りからの賞賛や尊敬を得たいとゴルフをプレーすると、失敗するのである。脳科学やシステムダイナミクスに基づいて行動しないと、上手くいかない。自分の損得や利害をモチベーションにして行動すると失敗する。周りの人々の豊かさや幸福を目指して行動すると成功するのである。

 自分自身の細胞を組成する素粒子と、ゴルフに関係するすべての環境とアイテムを組成する素粒子が友達になる感覚を持てたら、ゴルフがびっくりするほど上達するし上手くいくようになる。そして、個別最適(個人最適)目指してゴルフのトレーニングするのではなくて、全体最適や全体幸福を目指して訓練を積んだら、飛躍的にゴルフは上達できる。プレーもすべて思ったように成功するようになる。自分の心を支配する不安から解放されるからである。もし、このようなことを指導できるメンタルコーチに出会えたなら、ゴルフだけでなく人生も好転すること間違いない。

※いくら練習を積んでもゴルフが上手にならないとか、技術的にも体力的にも問題ないのに、プレーすると上手くいかないと悩んでいるゴルファーがいたら、ご相談ください。プロゴルファーでスランプに悩んでいたり、頻繁に怪我や痛みが起きてプレーが思うように出来なかったりして苦しんでいるなら、ご相談ください。ゴルフ以外のスポーツのメンタルコーチもいたします。すべて、ボランティアでサポートしていますので、料金は発生しませんので、まずは問い合わせをしてみてください。

V・E・フランクルのロゴセラピーが人々を救う

 ヴィクトール・E・フランクルという精神医学者&心理学者をご存じであろうか。精神科医としての認知よりも、あの悪名高きアウシュビッツから奇跡の生還を果たして、名著「夜と霧」を著した人物として世間に広く知られている。でも、精神医学者&心理学者としての功績も大きいし、ロゴセラピーという効果の高い心理療法の考案者としても名高い。夜と霧だけでなく、他にも数々の精神医学の専門書も書いていて、その研究成果は多大なものがある。そして、多くの自殺志願者を救ったという功績は、他の精神科医の追随を許さない程大きい。

 どんなに著名な精神医学者であろうとも、実際に臨床での経験や実績がなければ、いくら論理的に正しいと言っても、信頼するにあたらない。いくら科学的な根拠があると力説して、論理的にも正しいと主張したとしても、実績がなければただの空論でしかない。フランクルの提唱したロゴセラピーは、エビデンスに乏しいとか、あまりにも宗教的であり違和感を覚えるというような批判にさらされることが多いが、実際に多くの自殺志願者を救っているという点において、信頼に値する正しい理論だと言える。

 ヴィクトール・E・フランクルは、オーストリアに生まれたユダヤ人である。ヒットラー率いるナチスにとって、ユダヤ人はゲルマン民族の人々から搾取をしている守銭奴という敵である。一人残らず根絶やしにしなければならないと、ドイツやオーストリアに住むユダヤ人を違法措置で捕虜にした。ユダヤ人はアウシュビッツに代表される強制捕虜収容所に連れて行き、ガス室に送り殺戮した。フランクルもその一人であった。彼の両親、妻、兄もまた強制捕虜収容所に送られ、命を落とした。フランクル一人だけが奇跡的に生き残った。

 フランクルは、収容されながら何度も死と隣り合わせの体験をするが、奇跡的に命を長らえることが出来る経験をする。助かった要因について、奇跡の生還を遂げた後に述懐している。ひとつは、どんなに危機的状況に遭おうとしても、けっして自分を見失わず精神的な安寧を保ち続けられたせいだと言っている。そして、どんな目に遭おうとも生き延びて、収容されながら書き留めた原稿を世に発表しなければならないという使命を持っていたからだという。つまり生き延びる意味と目的を持ち続けたからこそ、助かったと言うのである。

 この生きる意味と目的を持つことの大切さを認識したことが、その後のロゴセラピーという理論の根拠になったと言えよう。自らが実証したとも言えるし、その後も自殺志願者を救うのに役立ったと言えよう。ロゴセラピーというのは、生きる意味や目的を持つことで、苦難や困難にも打ち勝ってストレスにも負けない心を持つことになり、メンタル疾患を回復させる療法である。勿論、それだけでメンタル疾患が完全治癒をする訳ではないが、回復へのプロセスに欠かせないのが正しい思想哲学であるのは間違いない。

 今まで、多くのメンタルを病んで不登校やひきこもりになってしまった方々をサポートしてきたが、その人たちのすべてが正しい思想哲学を持っていなかったし、生きる意味や目的を認識していなかったのだ。つまり、そもそもメンタルを病んでしまう重要なファクターが、正しい思想哲学を持てていないからだとも言える。それでは、思想哲学を持って生きる意味や目的を持てればそれでいいのかというとそうではない。その意味や目的というのは、特に形而上学に基づいた正しい人生の意味と目的なのである。

 その生きる意味や目的が、自分や家族の豊かさとか幸福というのであれば、それは間違いである。あくまでも世のため人のために貢献するというものであり、全体最適を目指すものでなければならない。個別最適の生きる意味や目的では、人々の心を救う効果はない。フランクルは、人智を越えた見えない力を持つ存在(神や宇宙意思)によって助けられたと語っている。つまり、全体最適&全体幸福を願うような生きる意味や目的を持つことが、ロゴセラピーの基本と言える。さらに言えば正しい目的を持つには、形而上学が必要なのである。

里山に小型で凶暴な熊が現れる訳

 各地で熊による人的被害が止まることなく、益々増えている。10月29日現在12名の方が熊による危害で命をなくされている。過去最多の尊い人命が失われていて、これからも増え続ける勢いである。どうしてこんなにも人的被害が増えているのか、動物の生態に詳しい専門家たちはそれぞれ分析して原因をあげている。しかし、どうも今までの理由だけでは説明がつかない状況が起きているとしか考えられない。これまでの熊に対する常識や定説では、どうにも解らない不思議なことが起き続けていて、新たな分析が必要になっている。

 そんな状況の中で、大型野生動物の生態に精通している専門家が、新たな分析をして定説を覆すような分析をしたのである。今まで、原則として熊は人を恐れていて、出会うことを避けていると見られていた。思いがけず出会ったり、子熊を育てている雌の親熊が人間に出会ったりした場合に、人を襲うことがあると分析していた。だから、熊鈴、ホイッスル、爆竹、花火などを鳴らして、人間の存在を熊に知らせることで熊との出会いを避けられると分析していた。しかし、そんな熊だけでなく敢えて人間を襲う熊が出現したというのだ。

 人間を恐れずに敢えて襲う熊というのは、里に追いやられてしまった個体だという。奥山に住む熊の好物である食糧は木の実であるが、そこにテリトリーを持つ熊というのは、大きくて強い熊で縄張り競争に勝った個体である。この奥山に住む熊は、豊富な食糧があるので、敢えて里山に降りなくても良いし、人間を怖い存在だと認識し、出会うことを避けている。奥山まで登山したり山菜採りをしたりしている人は体験して知っているが、人間が熊のテリトリーに近づくと、唸り声を出して人間が近寄らないように威嚇するのである。

 ところが、縄張り競争に負けたひ弱な熊は、奥山に住むことを許されず、里山まで降りて食べ物を探すしかなくなる。あまりにも個体数が増え過ぎたので、テリトリーを持たない熊が増えて、里山の木の実は足りなくなる。空腹に耐えきれなくなった熊は、野生動物を食べるか家畜を襲うことでしか空腹を満たせなくなる。または、畑の野菜や果樹を食べるようになる。そうすると、人間と出会う頻度は飛躍的に増える。ゴミ置き場を漁ることもあるし、人家に入ることもあろう。人間の食べ物を一度食べると、その味を忘れられなくなる。

 人間は恐ろしいものだという遺伝記憶は、銃で撃たれるという体験もないから、怖さが子孫に伝わらなくなり、人間の姿を見ても逃げなくなる。ましてや、人間と一度出会って闘って勝った経験をした熊は、人間は獲物だという認識をすることもあろう。最近の里山に住む熊は、人間を獲物にしたような痕跡が多く見られる。襲った人間をひきずって行き、自分のテリトリーに確保しているような痕跡があると言われている。里山に住む熊は、奥山に住む熊とは明らかに違い、小型であり食べ物が不十分で飢えの為に痩せているという特徴がある。

 熊による人的被害のある事故は、おしなべて民家の近くか里山で起きている。登山口近くの登山道で人身被害があるが、奥山の登山道では殆ど起きていない。知床半島の羅臼岳で起きた不幸な人的被害の事件は、登山口に近い登山道で起きている。奥山にテリトリーを持ち、食糧が足りている大きくて強い熊は、人間を襲う必要がないのである。生きていくにはどうしても食べ物が必要なので、里山に住む熊は人家近くに出没して人間を襲ってしまうのであろう。個体数が許容範囲以上に増え過ぎてしまった故に、凶暴な飢えた熊が出現したのだ。

 里山に住んでいて、食料が不足して人家近くに時折現れる小型で凶暴な熊は、今までのような常識は通じない。熊鈴、ホイッスル、ラジオ、爆竹などでは逃げない。出会ったときには後ろを向かずに熊の目をじっと見つめたままで、後ずさりして遠ざかるということをしても、襲われる怖れがある。熊が襲ってきたら、腹ばいになり首を手で覆い、攻撃をやり過ごすしかない。しかし、一度人間を獲物にした体験を持つ熊は、引きずって自分のテリトリーに運ぶかもしれない。それ故に、熊の人的被害を防ぐには、里山に住む飢えた熊をすべて駆除するしか、他に方法がないのである。熊との共生なんて、ありえない時代になったと言える。

孤育てor共育てかで子の幸福度が決まる

 孤育てという言葉が、ネット上で最近は使用されているケースが多い。子どもが孤独という意味ではなくて、親が単独で子育てをしているケースで使われる。勿論、ひとり親家庭もその範疇に入るが、どちらかというとこの孤育てというのは、父親もいるけれど母親だけが子育てを担当している場合に用いられる。つまり、家庭にお父さんがいるけれど子育てに対する協力が得られず、お母さんが子育てに孤軍奮闘している時に孤育てと呼ぶ。そうではなくて、父親が子育てに積極的に協力していて、夫婦が協力している場合に共育てと呼ぶ。

 それぞれの家庭において、様々な事情があるのは当然である。夫が単身赴任をせざるを得ない場合も多いし、ハードな勤務状況の故に家庭不在にならざるを得ないケースもあろう。だとしても、母親だけで子育てするというのは、その負担はあまりにも大きいと言わざるを得ない。どんなに素晴らしい能力をもち、安定したメンタルを持った母親でも、孤育てというのは、母親にもそして子どもにも悪い影響を与えるのは防げない。共育てならば、母親の身体的負担も少ないし、精神的な安定を持てるが、孤育ては辛いものがあろう。

 孤育てによる子どもへの悪い影響というは、世間の人が考えている以上に大きい。何故かというと、母親が孤育てしている時の精神面での不安や怖れが、子どもにダイレクトに伝わってしまうからである。つまり、母親の不安が子どもに対してもろに伝播して、子どもの不安が強くなってしまうのである。ましてや、子どもというのは豊かな母性愛(無条件の愛)をたっぷりと注がれてから、父性愛(条件付きの愛)でしっかりと躾をすることで健全な育成が可能となる。どちらか一方が欠けても、子どもは健やかに育ちにくい。

 今、青少年が不登校やひきこもりになるケースが非常に多くなっている。その根底になっているのが、子どもたちの生きづらさである。それは、根底に愛着(アタッチメント)の不完全さを抱えているからである。問題行動を起こしている子どものほぼ100%と言っていいほど、不安定の愛着が根底にある。問題ある殆どの子どもが不安型の愛着、または愛着障害と言っても差し支えなく、それが二次的な症状としてメンタルの不全さを起している。そうなってしまっている原因の多くが孤育てにあると言っても過言ではない。

 離婚してのひとり親による孤育ての場合よりも、ふたり親なのに母親だけが孤育てをせざるを得ないケースのほうが、問題が起きやすい。それも、父親が家庭にいるのにも関わらず子育てに携わるのを拒否しているか、もしくは子育てから逃避している時にこそ問題が起きると言える。何故なら、父親がのっぴきならない理由で子育てに関われない時は、母親は覚悟を決めて孤育てに取り組める。ところが、子育てに協力することが出来るのにも関わらず、子育てから逃げている父親が家庭内にいることが、母親の心を疲弊させるのである。

 孤育てをしている母親は、まさに孤独感があり家庭内で孤立している。こうなると、子どもだけが自分と繋がるたった一人の絆である。しかし、幼い子どもは相談相手にならないし、悩みを打ち明けることもできない。ましてや、子育ての悩みは自分だけで解決するしかないのだ。家庭内に父親がいるにも関わらず相談相手にならないのだ。特に、父親が発達障害であるケースは最悪だ。まるで、話を聞こうとしないし、会話が嚙み合わないばかりか、とんでもない反応をする。子どもに悪影響を与える言動を繰り返すから、困る存在である。

 孤育ては、子どもを不幸にし、共育ては幸福感を持つ健全な子どもを育成できる。だから、父親は仕事をある程度犠牲にしてでも、共育てをすべきなのである。自分の趣味や遊びを、子育て期間は我慢すべきだと考える。何故なら、母親はすべてを犠牲にして子育てに専念するのだから、父親だって自己犠牲が必要だ。この世の中で、一番尊くて価値のあることは、次世代を担っていく優秀な子孫を育成することだ。この世の中で一番価値があるのは仕事だと思っているなら、それは完全な間違いだ。だからこそ、共育てに力を注ぎ、孤育てにならないように、父親たるものは最善の努力をすべきなのである。

『アストリッドとラファエル』は最高のドラマ

 NHKでは海外の人気ドラマを輸入して放映するケースが少なくないが、『アストリッドとラファエル』というドラマはフランスで作成された推理ものである。以前はNHKの地上波で放映されていたみたいだが、現在はNHKのBS4Kで鑑賞できる。最初は単なる刑事ものだと思っていたのだが、その予想は見事に覆された。それは良い意味でのまったくの想定外であり、びっくりすると同時に鑑賞できる喜びに浸ることが出来た。推理ドラマではあるものの、深淵なるヒューマンドラマでもあったのだ。

 主人公のアストリッドは、警察署の犯罪資料局に在籍する女性事務員であり、もう一人の主人公ラファエルは優秀な女性刑事である。日本でいうところの警視庁捜査第一課(殺人事件を扱う課)の係長といった役割である。アストリッドはフランス警察全体の過去の犯罪資料を扱う保管庫で、文書の管理係をしている。アストリッドは深刻な自閉症(ASD)を抱えていて、コミュニケーション障害があり、対人恐怖症があるので対人対応力に乏しい。偶然にもそのアストリッドとラファエルがとある事件を通じて出会い、交流が始まるのである。

 アストリッドは、母親が自分を捨てて逃げたという体験から見捨てられ不安が強く、重い愛着障害を抱えている。それ故に、強いHSP(神経過敏)を抱えて聴覚過敏で悩まされている。幼児期から強烈な不安を抱えていて、その傷つきやすさから、何度もトラウマを受けて積み重なり、複雑性PTSDを発症してしまい、二次的症状としてASDとコミュニケーション障害を起したと考えられる。見事な人物描写であると言える。ここまで深く人間の裏側までも描き出したドラマや映画は経験したことがない。素晴らしいヒューマンドラマである。

 アストリッドの記憶力は途方もない能力を秘めている。犯罪資料局にある過去の犯罪資料を全て読んでいて、必要な書類がどこにあるのかを特定でき、いつでもすぐに取り出せるようにファイリングしている。ある程度の資料の内容や犯罪の容疑者・関係者はすべて記憶している。ASDの人に備わっている能力であることが多いのだが、ギフテッドと呼ばれる天才なのである。おそらく、彼女の視野に入ったものはすべて画像として記憶され、いつでもその情報が引き出せる。あらゆる芸術にも精通していて、その感性は極めて豊かである。

 一方、女性敏腕刑事のラファエルは、想像力や柔軟思考性に優れていて、発想力にも秀でている。つまり、アストリッドとラファエルは正反対の能力を持っていると言えよう。本来は文書係だから、アストリッドは捜査には加われない。しかし、アストリッドの高い能力を認めて捜査に協力を求め、ラファエルと二人三脚で難事件を次から次へと解決していくのである。それも迷宮入りになっていた難事件までも見事に解き明かす。アストリッドの感覚は敏感過ぎるほど研ぎ澄まされている。その優れた感覚と記憶力で解決に導くのである。

 推理ドラマとして超一流なのであるが、二人の魂の成長を描く人間ドラマでもある。ラファエル刑事はASDのアストリッドとの触れ合いを通じて、精神障がい者との友情を育むことの喜びを知る。アストリッドはASDである自分の特性を受け入れてくれるラファエルに、生まれて初めての友情を抱く。それぞれの感性の違いを認め受け入れることで、人間としての成長を成し遂げていく感動のドラマなのだ。そして、びっくりするのがアストリッドの演技力である。ASDの言動の特徴を見事に演じている。そのリアリティは、見るものを勘違いさせるほど素晴らしい。

 日本でもASDなどの発達障害や知的障害を持つ人々を描いたドラマや映画は存在する。しかし、こんなにもASDの人物が生き生きとして社会に貢献しながら活躍していく物語を見たことがない。勿論、アストリッドも捜査をする経過において悩み苦しむことがあるし、酷く傷つくこともある。それでも、アストリッドは自分が社会に役に立つ喜びを抱きながら、ラファエルに協力することを続ける。このドラマを観た多くの精神障がい者や発達障がい者に勇気を与えてくれるだろう。また、障がい者に対する偏見が少しでも少なくなることと、障がい者の社会参加が進んでいくことを願わずにはいられない。

エディプスコンプレックスが自立を阻む

 エディプスコンプレックスという心理学用語を、最近の精神医学界隈では使用することが少なくなってきた。マザーコンプレックスという用語も使わなくなっているので、その対語であるエディプスコンプレックスも話題に登らなくなったのも当然だ。マザコンというのは、母親に対するコンプレックスであり、エディプスコンプレックスというのは父親に対するそれである。ファザコンという用語もあるのに、どうしてエディプスコンプレックスというのかというと、ファザコンよりも強烈で敵対心がある言葉だからだろう。

 ファザコンというのは、どちらかというと女の子が父親に持つ憧れや依存心を意味する。エディプスコンプレックスというのは、男の子が父親に対して殺意までも持つような敵対心を抱えたコンプレックスを言う。どうしてエディプスと言うのかというと、ギリシャ神話であるオイディプス王(エディプス王)の悲劇から名づけられた。その神話とは、オイディプス王子が父親の王様のお妃である母親に横恋慕して、父親を殺して王様になり、母親を自分の妃にしたという悲劇からの命名だという。

 男の子というのは、思春期を迎えると父親が克服すべきライバルでもあり、潜在意識で好意を持つ母親の恋敵と思い込むケースが少なくない。ましてや、人生でも成功者であり厳格な性格を持つ父親なら、殺したいほど憎むケースも多い。特に、自分のように人生の成功者たりえるように、子どもを見下して支配して強く干渉するようなら、その支配から逃れるには殺すしかないと思い込むこともあろう。逆に、父親の支配から逃れないと諦め屈服するようなら、父親の操り人形のようになり、精神的に自立出来なくなることも少なくない。

 実はこういう親子関係に陥り、自立が出来なくて依存関係を継続してしまう若者が増えているのである。父親を憎みながらも屈服してしまうという無念さとつらく苦しい葛藤に、子どもは悩み苦しむ。特に完璧さや潔癖さを求めていて、それを自分の子にも要求し続ける父親に育てられると、子どもは逃げ場がなくなる。父親の見えない圧力に押し潰されることが少なくない。完全無欠な父親は、子どもにとって乗り越えられないあまりにも強大な存在であり、逃げることも闘うことも出来ない場合は、子どもは自立できなくなり閉じこもる。

 子どもは、本来は父親を乗り越えて自立していく。父親を潜在意識下で殺して存在を消してでも克服していくのである。それなのに、何もかも完璧でスキがなく強過ぎる父親では、逆に返り討ちになってしまい、乗り越えられる筈がない。だから、父親は子どもの前で完璧な父親を演じてはならないし、あまりにも強い圧力を掛け続けてはならないのである。時には、だらしなく不完全な父親を演じることも必要である。お酒を飲んでグズグズになったり、情けないような姿も見せたりすることで、子どもは安心して父親を乗り越えられるのだ。

 さらに、完璧な大人の姿だけではなくて、時にはインナーチャイルドを発揮して天真爛漫で無邪気な父親の言動も見せなくてはならない。インナーチャイルドをけっして見せない親に育てられると、子どもがインナーチャイルドを出してはいけなんだと思い込む。そうすると、本当の自分をさらけ出せなくて、自分らしさを楽しめなくなってしまう。これも、精神的な自立を阻む要因になってしまう。人間が大人になっても遊び心を失わない為には、インナーチャイルドを慈しむ心が必要なのである。

 このように子育ての中で父親が果たす役割は、想像している以上に大きい。子どもは父親の後ろ姿を注目していて、模倣をしながら成長していくし、その父親を乗り越えて自立していくのである。だからこそ、父親はエディプスコンプレックスを子どもが乗り越えられるような配慮をしなくてはならないのである。そして、父親たるものは、インナーチャイルドを発揮する姿を、子どもに時折見せなくてはならない。そうしないと、健全に子どもは自立できないばかりか社会に適応せず、不登校やひきこもりになってしまうこともある。父親は子育てに対して、もっと積極的にそして真摯に取り組んでいかねばならない。

※イスキアの郷しらかわでは、父親が対象の子育て講座を実施しています。不登校のお子さんがいて悩んでいらっしゃる家庭へのサポートを長年体験してきて、お父さんの役割がとても重要だと認識しています。父親講座と子育て悩み相談を随時開催しています。個別開催も可能ですからご相談ください。