逆転しない正義とアンパンマン

 やなせたかし氏夫婦を描いた朝ドラ『あんぱん』は、今月末にて放映が終わる。とても面白いドラマであったし、時々素晴らしい台詞が散りばめられていて、多くの気付きや学びをさせてもらった。感謝の気持ちでいっぱいである。そんな珠玉の言葉がたくさんある中で、一番に印象に残ったのが『逆転しない正義』という言葉である。アンパンマンが誕生したのも、この逆転しない正義を追い求めた結果でもある。やなせたかし氏夫婦が、太平洋戦争によって人生が翻弄されて、正義という言葉に惑わされて行きついた境地なのかもしれない。

 正義という言葉は、時には暴走するし、周りの人々を傷つけることもある。勿論、正義という言葉に翻弄されて自分自身を傷つけることも少なくない。やなせたかし夫婦も、この正義という言葉に縛られ支配され、自分自身が苦しめられた経験を持つ。だからこそ、どんな時代であろうとも、どんな政治体制にあろうとも、絶対に逆転しない正義とは何かということを求め続けたのであろう。戦争という国家の極限状態に陥ると、正義という名のもとに為政者や権力者にとって都合の良い誤った解釈が横行する。

 ロシアによるウクライナ侵攻やパレスチナガザ地区へのイスラエルによる侵攻も、正義は我にありという誤ったプロパガンダによる影響である。正義というものが、ひとりでに暴走することがあり、為政者や権力者に都合良く拡大解釈されるので、その定義が揺れ動くのであろう。それだけ正義という言葉が危うい証左だと言える。しかし、それでも逆転しないというか普遍的に過ちのない正義は存在すると信じていたのがやなせたかし夫婦であった。その普遍的な正義を追求して生まれたのがアンパンマンである。

 アンパンマンはカッコよくないし、スーパーヒーローではない。どんな敵にも一発で倒してしまう必殺技や強力な武器を持たない。そして、どんな悪者であっても生命を奪わないし、徹底的にやっつけることはしない。ウルトラマンやマジンガーZのように、周りの建物や自然を破壊するようなことはしない。そして、お腹を空かした人に自分の顔(あんぱん)を食べさせるという、それまでのアニメのヒーローにはなかった救い方をする。この究極の自己犠牲を伴った正義を貫き通すのがアンパンマンなのである。

 自分は安全で命の危険のない場所に居て、兵士に命令して殺戮をさせたり自爆を強いるような指導者とは対極にあるのがアンパンマンである。自分の生命を削ったり賭したりすることがあるのが正義だということを、ゆなせたかし氏は朝ドラでも言っていた。世界各国のトップ指導者(為政者)たちは、正義は我にあると声高々に宣言する。でも、それは自分が権力を握り維持したいが為に利用している正義である。どんなに正義を振りかざしても、他国の市民の命を奪うことは、許されない筈である。これが逆転しない正義だ。

 逆転しない正義とは、どんな真理に基づいたものであろうか。それは、簡単に言えば形而上学に基づいた正義であろう。神の哲学である形而上学を根底にした正義であるなら、逆転することは絶対にない。アインシュタインが原子爆弾の製造に加担してしまったことを、戦後に悔やんで形而上学に傾倒したのは有名な話である。何度も日本にやってきて、原爆の被害者に心から詫びた。どんな理由があるにしても、科学を殺りく兵器の開発に利用してはならないと自分を戒めたのである。この形而上学に基づいた正義こそが求められるのだ。

 形而上学とは神の哲学であり、宇宙全体における普遍的な真理・法理である。慈愛・博愛・慈悲に基づく関係性重視の真理であり、全体最適と自己組織化を追求したパラダイムでもある。アンパンマンは、他の誰をも所有したり支配したりしない。力で誰かをコントロールしたり無理に何かをさせたりもしない。どんな相手をも尊重して、その考え方・生き方を認め受け容れる。これが人間本来の生き方である。やなせたかし氏夫婦は、その考え方を子どものうちから身に付けてほしいとアンパンマンに託したのだ。逆転しない正義を実践してもらう為に。

森のイスキアはビジネスにはそぐわない

 森のイスキアの佐藤初女さんに憧れて、自分も同じような活動をしたいと願っている人はとても多い。素晴らしいことだとは思うし、何とかその願いをかなえてあげたいと思ってサポートをしている。しかし、そのための研修や相談をさせてもらっているのであるが、何となく違和感を覚えることが多い。心身を病んだ人たちを救いたいという理念は素晴らしいのであるが、その活動に対する動機や想いというものに全面的に共感したいとは思わないのである。それは、森のイスキアをビジネスとして捉えている一面があるからである。

 人々を救うための社会貢献活動が、経営的にも担保されることで継続されるというメリットがあるのは当然である。だから、ビジネス面での採算が取れるというのは悪いことではない。しかし、森のイスキアの活動をビジネスとして成り立つように運営していくのは、極めて難しいのである。何故なら、佐藤初女さんのように自己犠牲の精神を発揮して人を救う活動を継続していくのは、採算などを考えたら絶対に不可能だと断言できるからだ。それぐらいに、森のイスキアはビジネスには不適なのである。

 ところが、森のイスキアの佐藤初女さんに憧れて活動を目指している人々は、何となくこの活動をビジネス的にも成功すると思い込んでいる節がある。だから、現在の勤務や経営活動を辞めてでも、森のイスキアの活動にシフトしたいと思うのではなかろうか。または、現在の仕事の傍らに森のイスキアを副業として、成り立たせようと考えるのかもしれない。佐藤初女さんの活動は、そんな生易しいものではない。自分の『いのち』を削るような覚悟で取り組んでいかなければならない活動、それが森のイスキアなのである。

 採算とか、損得、または利害を考慮して森のイスキアの活動をしたとしても、何の成果をも上げられる訳がない。よく目につくのは、佐藤初女さんのおむすびを広めたいからと、おむすびの講習会を盛んに開催している人達がいる。このおむすび講習会については、佐藤初女さんも苦々しく思っていたに違いない。ある時、佐藤初女さんに、おむすび講習会を開きたいけどいいですかと問い合わせた人がいたらしい。佐藤初女さんは、許可を出す立場にはないと大人の対応をしたのだが、「何のためにするの?」と不思議がっていたらしい。

 佐藤初女さんにとっておむすびは特別な意味を持っていたが、多くの人に食べてもらうとか世に広める事が目標ではなかった筈である。初女さんのおむすびは、ひとつの重要な癒しのツールではあったが、おむすびだけで人々を癒したわけではない。おむすびだけが世間で注目されて、おむすびによって奇跡を起こしていたというように誤解されていたのは、初女さんにとって不本意であったろう。ましてや、おむすびの握り方を学ぶことで多くの人々の心身を癒し救えるのではと期待させるような活動は望まなかった筈だ。

 初女さんの森のイスキアの活動を、ビジネスのひとつとして利用することは、初女さんは望まなかったに違いない。何故なら、初女さんは形而上学に基づいた理念を実践していたからである。おむすび講習会に参加する際に、どう考えてもあり得ない5,000円という参加費を徴収するやり方は、初女さんは許せなかったであろう。米や梅干しを持参してもらい、会場利用費だけを皆で負担するなら、せいぜい一人500円~1,000円で済む筈だ。この講習会で講師自身の収益を得るようなやり方は、形而上学としては認められないのだ。

 森のイスキアの活動について研修したいとやってくる方が、おしなべてその資格がないとは言いきれない。中には、自分のビジネスや生活を犠牲にしてでも、活動を開始したいと強い信念を持つ人もいる。そういう方には、生活にゆとりが出来た時、または活動の為の資金を充分に蓄えて、家族に迷惑をかけることなく活動に専念できるようになってからでも遅くないですよ、と優しく諭して励ましている。『いのち』を賭けて実践する活動であるからこそ、自分自身の心を整えてメンタライジング機能を習得してから活動してもらいたいのだ。中途半端な気持ちで取り組んでもらっても、人々を救えっこないのだから。

※今までは、研修・見学を希望する方々には無条件で、すべて受け入れてました。しかし、実際に研修をしてみて感じたのは、自分自身が癒されたくてやってくる人が多いという情けない事実です。自分自身の心が整っていないのに、他人の心を癒すことは絶対に無理なのです。ましてや、森のイスキアというブランドをビジネスに利用するのはもってのほかなのです。『いのち』を削る覚悟で、初女さんの活動を継承したいと思う方だけに、研修の受講をお奨めしています。

自分と他者、そして自他一如

 自分と言う言葉を私たちは何気なく普段から使っている。特に、自分と言う言葉そのものの深い意味を考える人は殆どいないことであろう。ましてや、自分と他者との関わり合いや繋がり、そして自分と他者とは本来どうあるべきかということを考える人間なんてそうはいない筈である。そもそも自分と言うのは「私」のことであろう。しかし、私という言葉と自分という言葉から受けるニュアンスは大きく違っているように思われる。自分という言葉は、自ずを分けると書く。つまり自ずと、他者とか社会とを分けるという意味なのであろう。

 全国の中には、私のことをわざわざ「自分」と呼ぶ地域や組織が存在する。何となく私と言わずにわざわざ「自分」と呼ぶことに、違和感を覚える人も多いように思える。軍隊における従順な部下が上官に「自分は〇〇であります」と返答するみたいに使いそうな一人称である。転じて、体育会系の上下関係において、目下の部員が上級生に対して、一人称を「自分」と言うケースが多いようである。いずれにしても、フォーマルな場面においては、自分と呼ぶ一人称は、あまり使用しないのが一般的である。

 さて、私のことを自分と呼ぶ人間の性格分析をしてみよう。他者と自分は違うという意識が強そうであり、自分はこうであるとか、こうしたいとかいう自己主張が強い傾向が見える。他者や社会のみんなとは、自分は一線を画しているという意識が強いように感じる。したがって、自分と他者を分けて認識してほしいし、自分だけを特別視してほしいという意識が強いのではないかと見られる。そういう意味では、自分と他者の間には大きな隔たりがあり、他者を受容したり寛容したりする気持ちが極めて少ないように思える。

 自分と他者は別だという社会的認識が広がっている中で、仏教では自分と他者は本来ひとつのものだという考え方がある。『自他一如』という仏教用語がある。簡単に説明するのは、非常に難しい。肉体的には自分と他者は別のものではあるが、精神的な部分では繋がっていてひとつのものだという考え方である。精神的な部分というのは、顕在意識ではなくて潜在意識ということである。つまり、無意識の部分で自分と他者は本来ひとつであるという考え方である。だからこそ、人間は自他一如を意識した生き方が求められるという教えである。

 いくら無意識の世界だとはいえ、自分と他者がひとつだなんてどうやっても認識できないと思う人は多いかもしれない。そんなことはあり得ないと思う事であろう。我々人間の無意識(潜在意識)という領域は、脳の中でどのくらいの範囲かというと、驚くことに約11%が顕在意識で、9割前後は潜在意識だというのだ。そして、有名な心理学者のカール・グスタフ・ユングは、この9割の潜在意識の領域においては、集合無意識というものがあり、自分と他者はこの集合無意識によって繋がっていてひとつだと主張しているのである。

 果たして、集合無意識というものが存在するのかと疑う人が多いかもしれないが、虫の知らせとかあり得ないようなメールの同時送信を経験している人は多いことであろう。何故か急に思い出したり気になって仕方ない人から電話が来たり出会ったりするのは、全くの偶然ではない。すべて、シンクロニシティ(共時性)と呼ばれる魂どうしの結びつきによって起きているとユングは説いている。自分と他者は、ひとつの魂の集合体から生まれてきた存在なのだから、潜在意識で繋がっていて、自他一如という存在なのである。

 だからこそ、他者を傷つけることは自分に対する攻撃となる。他者に対する深い思いやりは、自分への思いやりにもなる。自分と他者が一つなんかじゃなくて、別の存在だと考えるから、学校や職場でいじめや虐待が起きるし、世界で闘争や戦争が起きる。どこかの政治家は、自国民ファーストなんてとんでもない主張をしてしまう。自国民も他国民もないのだ。世界のすべての国民が幸福にならなければ、私の幸福は実現できないのだ。そんな当たり前の真理さえも知らないような政治家を我々は選んではならない。自他一如を深く認識して、他者への慈悲を持って生きて行くことが当たり前の社会の実現が望まれる。

命短し恋せよ乙女

 命短し恋せよ乙女♪という歌い出しで始まるのは、ゴンドラの唄という名曲である。最初は松井須磨子が劇中歌として披露したと伝えられる。その後はあまり流行しなかったが、黒澤明監督の映画『生きる』で主人公の志村喬が歌ったことがきっかけで、多くの著名な歌手がカバーして世に広く知られることになった。胃癌を告知され余命いくばくもない初老の志村喬が、夜も更けて誰もいなくなった公園のブランコに乗ってアカペラで寂しく歌うゴンドラの唄のシーンは、観る人をぞっとさせる。こんなにも悲しく聞こえる歌は他にない。

 そんな有名な歌であるゴンドラの唄は、けだし永遠に歌い継がれる名曲だと思う。そして、乙女たちへの応援歌でもあり、若い女性が人生を生きるうえでの現代に通じる大切な教えでもあると思う。何故かと言うと、若い女性たちの多くが恋愛に対してあまりにも消極的でもあり、臆病なのではないかと思うからである。現代の若い女性にこそ、このゴンドラの唄を聞かせてやりたいと強く思う。そして、是非にも恋愛を経験してほしいと願うのである。結婚してほしいとか、子どもを産み育ててほしいと望む訳ではなく、ただ恋をしてほしいのだ。

 勿論、乙女だけではない。妙齢の女性でも、ご高齢の女性であっても、燃えるような恋をしてほしいのである。何故かと言うと、人間と言う生き物は恋をすることで多くの気付きや学びを得られるし、人としての大きな成長を遂げられるからである。恋愛を経験していない人間は、人として一人前でないなどと極端なことを言うつもりはない。しかし、燃えたぎるように熱烈な恋愛を経験した人とそうでない人の間には決定的な違いがあるのは間違いない。そして、相手の何もかも許し受け入れて統合の実現をするには恋愛が最適なのである。

 恋愛を経験しなければ統合の実現が不可能かと言うと、けっしてそうではない。恋愛の経験がなくても様々な統合が実現出来る。だとしても、それは非常に難しい。男性性と女性性の統合、または本能と理性の統合、自己(エコ)と自我(エゴ)の統合は、特別な人を除けば恋愛によって実現の可能性が高くなるということは確かである。特別な人というのは、例えば厳しい山岳修行や敢えて苦難困難の道を歩んで悟りを啓いた人という意味である。特に女性はそういう体験をすることが少ないので、恋愛経験が統合の後押しをするという意味だ。

 恋愛というのは、自分の愛欲を満たすためにするようなエゴ丸出しの恋ではない。お互いの幸せや心の豊かさを実現するような互恵的恋愛のことである。身勝手で自己中の恋愛なら、何も学べないし成長もない。勿論、統合なんて到底及ばない。特に、性の営みにおいて自己満足だけを求めるだけで、相手の深い悦びを実現しようと努力しないなら、男性性と女性性の統合なんて実現する訳がない。、自分の悦びを犠牲にしても、相手の満足を限りなく高めようと精進するならば、真の統合が近づくであろう。これが自他一如の実感にもつながる。

 このような素晴らしい体験が出来る恋愛を、初めから避けたいとか、心から求めることをしないというのは、実にもったいないことではないだろうか。男性と女性は、いろんな意味で大きく違っている。価値観や考え方しかり、使うコミュケーション手法も、そして、行動規範も違っている。だからこそ、その違いをお互いに深く認識して、相手の違いを受け入れて許すことで、相互理解が深まり統合に向かうことが可能になるのだ。そのような大切な経験を、最初から望まないとか避けたいとか思うのは、考えられない損失なのである。

 とは言いながら、世の中の乙女の多くは魅力的な男がいないじゃないかと主張するかもしれない。確かに、それも一理ある。自分の事しか考えず、相手の女性の幸福や尊厳を認めず、自分に従属させようとするような男性に魅力を感じる訳がない。そういう意味では、価値観が低すぎる男性が多すぎるから、女性が恋に陥らないのかもしれない。個別最適ではなくて、全体最適を目指すために限りなく努力するような男性が多くなれば、恋する乙女も増加するに違いない。そういう意味では、恋する乙女を増やすには男性の高い価値観構築が必要だと言えよう。

何のために生きるのか

 NHK朝ドラ『あんぱん』が面白い。前期の『おむすび』があまりにも詰まらなかったという反動もあるが、朝ドラを鑑賞するのが楽しみになっている。ご存知の通り、漫画『アンパンマン』の作者やなせたかし氏とその妻の物語である。あのアンパンマンの主題歌の歌詞「何のために生まれて、何をして生きるのか」というのは、やなせたかし氏の育ての親である叔父さんが、いつも口癖のように言っていた言葉である。ことあることに、やなせたかし氏と弟に対して、「何のために生まれて、なにをして生きるのか」と問うていたようだ。

 ドラマだから父親代わりの叔父さんを美化して描いているのかもしれないが、それにしても素晴らしい父親であったと思われる。理想の父親像を実践していたようだ。子どもの生き方や将来を、親の都合や思いを一切押し付けることなく、子ども自身が望むように生きることを認めてあげたようである。自分が医院を経営しているのだから、息子たちのどちらかに後を任せたいと思うのが常だ。医師にさせたいと親なら強く思うに違いない。しかし、子どもの進路は子ども自身が選択していいよと、叔父さんは優しい眼差しを向け続けたのだ。

 世の中には、親の思うとおりの生き方をしてほしいと子どもの学校や職業までも押し付ける親さえいる。教育虐待と呼べるような厳しい養育をする親も増えている。子どももまた、親の期待に応えようと必死になって勉強やスポーツに取り組んでいるケースが多い。それがすべて間違っているとは言い切れない。しかし、親が子どもに対してあまりにも指示や指導を強くし過ぎてしまうと、子どもの自主性や自発性、主体性が育たない。つまり、自分で自分の進む道が決められなくなるのだ。自立が阻害されるだけでなく、生きる目的を見失う。

 朝ドラ『あんぱん』のやなせたかしの親代わり役の叔父さんは、二人の甥の進路に対して何も口出しをせず、二人の考えを尊重する。それだけではない、「何のために生まれて、何をして生きるのか」と二人の甥に問い続ける。子どもの教育において、もっとも大事なことは哲学である。何のために生きるのかを子どもに大人が示して、正しい生き方の後ろ姿を見せてあげなければ、子どもたちはどのように生きていいのか解らなくなる。生きる意味や生きる目的を大人が子どもに語らなければ、子どもはどのように生きていいのか迷うだろう。

 やなせたかし氏は、アンパンマンで子どもたちに人間としてどう生きるべきかを問い続けた。けっして強くはないし、悩みや苦しみを抱えるヒーローであるアンパンマンは、自分を犠牲にしてでも困った人々を助け続ける。悪さを働くバイキンマンをパンチで懲らしめるけど、けっして必要以上にダメージを与えることはしない。私利私欲や自己満足の為に生きるのでなく、人々を救いその幸福実現とのために生きることの大切さを教えてくれるアンパンマンは、叔父さんがその原型を作ってくれたのではなかろうか。

 現代の若者たちの死因第一位は、自殺だと言われている。自殺の『きっかけ』は、人様々である。自殺をしてしまう原因については、いろんな見解があろう。若者が未来に希望を見いだせないということであり、そんな失望する社会を作ってしまった我々大人に責任がある。それ以上に我々が若者たちに対して責任を負うべきことは、子どもたちに対して「何のために生きるのか、何をして生きて行くのか」ということをしっかりと伝えて来なかったことにある。生きる意味や目的を子どもに示していないし、正しく生きるための哲学を実践する姿を見せていないのだから、子どもたちが生きるのに迷うのも当然である。

 やなせたかし氏の叔父さんが、何のために誰の為に生きるのか、どのように生きるのかを自分自身の生き方でもってやなせたかし氏に示したからこそ、アンパンマンの物語が生まれたと言えよう。子どものうちは、哲学なんて語って聞かせても理解できないし無駄だと思う人は多いかもしれない。しかし、子どもたちは哲学が大好きである。子どもたちに哲学の話をすると、目を輝かせて聞き入るものである。子どものうちにこそ正しくて高い価値観の話を聞かせてあげなくてはなない。是非にも、何のために生きるのかを子どもたちに伝えてほしい。そうすれば、自殺をする若者を減らせるに違いない。

入社後すぐに退職してしまう本当の原因

 新年度を迎えて、希望に満ちて意気揚々として入社した新卒者が、僅か1日か2日を経過しただけで、退職代行の会社を通して離職してしまう若者が激増しているらしい。退職代行の会社を通しての離職届だから、本当の離職理由も解らず、人事担当者たちは困惑していると言う。離職した当人は、退職代行の担当者に対して、上司や同僚からパワハラまがいの対応を受けてしまい、心が折れてしまったと主張しているとのこと。これだけ、職場のパワハラ・セクハラに厳しくなっているのに、実に不思議である。

 パワハラやモラハラをされたかどうかで、退職するかどうかを決断しているというのならば、益々上司や先輩社員は臆病にならざるを得ない。ちょっと厳し過ぎる指導の言葉をかけたり、批判や否定をしたりすれば、それはパワハラだと認定されてしまう。それでなくても人手不足であり、新卒社員が定着してもらわないと困る。指導教育を担う社員は大変なストレスを抱えてしまう事になる。しかし、辞められるのが恐くて厳しい指導を遠慮すれば、社員の成長が期待できないというパラドックスに陥るのである。

 新入社員がすぐに退職してしまう理由が、果たしてパワハラやモラハラだけなのであろうか。表面的にはその通りなのであるが、パワハラやモラハラで退職した訳ではなく、本当は別な原因があるとしか思えない。何故なら、パワハラやモラハラをする上司なんて以前はどこの職場にも存在していた。パワハラやモラハラに極めて近いような案件は、日常茶飯事で起きていた。それでも退職する社員は殆どいなかった。だとすれば、すぐ離職に追い込まれる原因は雇用側だけでなく、雇用者側にもあるに違いない。

 まず退職代行の会社に離職手続きを依頼するという、離職者のメンタルの弱さに注目したい。自分の気持ちや意見を雇用者側に伝えられないというのは、単なる心の弱さだけではない。社会的なルールやマナーを知らないか、守ろうとしない性格や人格だということであろう。ルールやマナーではないと主張する人もいるかもしれないが、人間として恥ずべき行為だということさえ認識していないのである。社会人として失格であろう。そんな当たり前のことさえ教えられていないということに戦慄を覚える。

 さらに言えば、すぐに離職してしまうような社員は、どんな職場に転職したとしても長続きしない。周りの人々やお世話になった方々に対する気遣いや思いやりを持てないのである。どんな酷い仕打ちを受けたとしても、社会的礼儀は尽くさなければならない。それが社会人として必要な常識なのである。そして、もしパワハラやモラハラを受けたとしたら、後に続く新入社員に同じ思いをさせないよう、再発防止策を企業側に提言するべきである。そんな社会人としての義務を果たさず黙って退職するのは卑怯だ。

 このように、すぐに離職して退職代行に手続きを委託するような社員は、そもそも入社させるべきではないし、それを見抜けなかった企業側に社員選別の能力がなかったという証左である。新入社員の学歴や学力だけに目を奪われてしまい、人間としての本質を見抜けなかったのである。何よりも、人間力や忍耐力、人間関係調整能力などが欠如しているような社員を採用した採用担当者と役員の責任が大きいと言える。採用面接に携わる役職員は、企業内で一番秀でた人間力や人格を持つ人を当てなければならないのだ。そんな基本的な認識を持っていないのは、経営者として落第だ。

 思想哲学、生きる目的、働く目的や使命感を持ち得ない青年が多くなってしまった。学校でもそれを教えないが、家庭で形而上学を語り導けない父親がいる。こんな親がすぐに離職してしまうような社員を生み出したのである。そして、そんな腑抜けのような社員を採用してしまっている企業経営者が増えてしまったのである。一昔前のソニー、本田技研、松下電器では考えられなかった大失態である。これらの会社では、以前は日常的に思想哲学の対話を社員同士が目を輝かして実践していたという。盛田さん、宗一郎さん、幸之助さん等経営者トップが思想哲学を持っていたからである。

老害とはすさまじきもの

 老害はすさまじきものである。現代日本におけるすさまじいという形容詞とは意味が違う。平安時代に使われていた意味であり、現代訳すれば、不似合いなもの、興ざめするもの、出来ればあっては欲しくないし見たくはないもの、という意味であろう。著名な随筆である枕草子の中で、清少納言が書いたすさまじきものというのがある。まさしく、老害というのはすさまじきものと言えよう。最近、ある全国ネットの某テレビ会社での老害が話題になっているが、これこそがすさまじき老害の典型と言えるのではなかろうか。

 このテレビ会社では、87歳にもなった取締役相談役が、今もなお絶大な権力を保持していると言われている。何故、一人の取締役相談役がそんなにも強大な権限を有しているのか不思議である。代表権を持つ社長や会長もいて、取締役会だって開催しているし、表面的には株式会社として機能しているかのように思える。しかし、相談役はかつての天皇家が院政を敷いたように、今でも会社の人事権を持っていて、他の取締役は逆らえないというのである。なにしろ、30年余りに渡りそのテレビ会社を絶大なる権限で掌握しているというのだ。

 87歳になった今でも、かくしゃくとしているといえども、こんな高齢で会社の重要決定と進路を決めているというのならば、空恐ろしいことである。個人差のあることだから一概には言えないが、人生70歳を越えれば記憶力や判断力、そして決断力が衰えるものだ。ましてや80歳を過ぎたら、益々能力は低下する。いくら若い時から能力は低下していないと強弁したとしても、加齢による影響は大きい。故に、定年制がある。取締役には定年がない。だからこそ、高齢になった役員は自らの進退を決めるべきなのである。

 政界もまた、老害がはびこっている。高齢の元総理とか派閥の領袖が影のキングメーカーとして君臨している。一国の政治を担うトップが、老害のすさまじき政治家によって作り出されているとしたら、国の行く末も危ういと言える。高齢者が働いてはならないとは思わない。ひとりの技術者や労務提供者、または助言者や技術指導者としての任務なら、まったく問題はないだろう。しかし、管理者やトップ経営者は避けるべきである。高齢になると、どうしても謙虚さを失うし、柔軟性や発想力は著しく衰える。瞬発力は消滅する。

 高齢者は、おしなべて頑固である。固定観念や既成概念に縛られる傾向にある。どんなに説得されたとしても、けっして自説を曲げないし自分が正しいと言い張る。自分の非を認めず、問題が起きたのは他人のせいにしたがる。今回の某テレビ会社の相談役も、あれだけ騒がれて自分のせいで有名企業各社がCM見合わせをして会社が大打撃を受けているのに、辞めようとしないのは呆れるばかりだ。持ち株会社の大株主から辞任を突きつけられても、平気で居座るというのは、空恐ろしささえ感じる。他の取締役に、矜持は存在しないのか。

 このテレビ会社の相談役、そして政治家や企業経営者たるもの、所属している組織や国民に対して、老害を与えてはならない。自分の引き際こそ、大事だ。後進が育つまでは自分が引退することが出来ないと主張する高齢者がいる。確かに、すべてを任せるには心配なケースもあろう。しかし、自分と同じレベルまで後進が育つのを待ってから引退するのでは、一生辞めることができない。何故ならば、任せられないと育つことが出来ない部分があるからだ。すべての責任を持つという立場にならないと、人間は成長できないのである。

 人間には、自己組織化(内発的動機等)が生まれつき備わっている。誰でも、この自己組織化を自分の力だけで成し遂げられるのかというと、そうではない。いろんな人生の師や所属組織、そして関わり合う人々によって、育てられる点がある。ましてや、責任性や自己犠牲性というものは、責任ある代表管理者という立場にならないと、身に付かないと言える。そして、老害になってしまうような高齢者の立場になると、その心地よい地位にしがみつき保身に走り、責任性や自己犠牲性を発揮しなくなるのである。だからこそ、自らの判断で老害を食い止めなくてはならないのだ。すさまじき人だと後ろ指さされないように。

女性性と男性性を統合する方法

 前回は女性性と男性性の統合について考察した。もう少しこの統合について補足してみたいと思う。仏教の世界において、女性性と男性性を代表する仏像は何なのかと言うと、女性性は観音菩薩であり男性性を表すのは不動明王であろうか。また、女性性を表す仏像としては愛染明王をあげる人がいるかもしれない。男性性を表す仏像として、毘沙門天などの四天王を思い浮かべる人がいるかもしれない。さらには、女性性を代表するのは慈悲の世界に君臨する阿弥陀如来であり、男性性を代表するのは薬師如来だとする人も多いだろう。

 現役の僧侶であり寺の住職で、芥川賞作家の玄侑宗久氏は、人間として生きる上で阿弥陀如来と薬師如来の良さをバランス良く発揮することがとても大切だと説いておられる。まさしく、女性性と男性性の統合を上手に言い表していよう。ありのままで素晴らしいのだいう慈悲の心を持つ阿弥陀如来と、こうありたいものだと強く願い成長進化を常に追い求める薬師如来を、一人の人間にバランス良く取り入れて生かすのは、まさに女性性と男性性の統合だと言える。女性と男性もこのような生き方をしたいものである。

 女性性というのは、無条件の愛である母性愛とも言い換えられるし、男性性というのは条件付きの愛である父性愛だとも言える。子どもが身も心も健全に育成していくうえで、母性愛と父性愛は共に必要である。この母性愛と父性愛を共に発揮して人々をお救いする為にこの世に遣わされた仏像がある。それが両頭愛染明王である。お身体は愛染明王であるが、愛染明王の頭の部分と不動明王の頭の部分の両方を持つ仏像なのである。現存する仏像や仏画は極めて少ないが、これがまさしく女性性と男性性の統合を成し遂げた御姿であろう。

 さて、いよいよこれからは女性性と男性性の統合を実現する方法について述べてみたい。女性性と男性性の実際の知識と大切さを頭で理解したとしても、その能力を身に付けることは難しい。実際に何度も体験してみないと身に付かないし、その能力を発揮できない。だからこそ、男性も家事育児に積極的に取り組むべきだろうし、女性も社会進出を果たして活躍することが求められる。とは言いながら、それを義務感や使命感を優先して取り組んではならない。あくまでも、家事育児や社会貢献を心から楽しんで生きがいにできるレベルまで到達しなくてはならない。

 具体的に述べると、男性が料理や掃除を極めてプロの領域にまで到達しないと、それが楽しいというレベルまでは行けないし、子育てをすることによって自分自身の成長が実感して仕事に生かせると確信するレベルまで到達しないと、女性性を身に付けたとは言えないのである。女性も、仕事が楽しくて自己実現の可能性に気付かされるレベルまで行かないと、男性性が身に付いたとは言いにくい。そうでなければ、女性性と男性性の統合なんて、到底おぼつかないと言える。とは言いながら、置かれた環境もありそれは非常に難しいことではある。

 統合が実現するかどうかは別にして、男性が日々努力をして家事育児に勤しむ、女性が社会における活躍を目指して資格取得の勉学に励んだり仕事の効率化を提言したりすることは必要であろう。そうした努力をコツコツとするプロセスこそが大事なのであり、頭で考えて行動をしないというのは統合の実現が遠ざかるだけである。また、何よりも大切なのは体験することにより、女性が日々淡々と果たしている役割、男性が日々組織の中で苦労している役割、どちらも体験することでお互いの大変さを深く認識することは大切だ。

 その大変さに共感することが、女性性と男性性の統合の第一歩ではなかろうか。体験しなければ見えないことである。もうひとつ女性性と男性性の統合をする手助けになる行為がある。地球交響曲(ガイアシンフォニー)を撮った監督である龍村仁さんが、地球のささやきという著作で述べられている。女性と男性がお互いの男性性と女性性を強く感じて、それをまるごと受容して寛容することは、性的な交わりにおいて実現すると。柔軟で極めて薄くてもろい皮膚1枚での深い接触を通して、相手の女性性と男性性の素晴らしさを実感して、相手のすべてをまるごとありのままに愛するという瞬間に、統合が実現すると主張されている。いろんな意見もあるとは思うが、女性性と男性性の真の統合を実現したいなら、試してみる価値はあろう。

※いろんな誤解を産む怖れがありますので、補足説明します。女性性と男性性の統合には性的な交わりが必要不可欠だとは考えていません。あくまでも、統合に向かうためのひとつの手段として紹介しただけです。ましてや、相手に対する深い敬愛や心の結びつきが存在しない性の交わりでは、統合が成し遂げられる訳がありません。さらに言うと、快楽を一方的に求めるような行為は逆効果ですし、義務的な行為では心は開きません。身も心も開き、相手の嫌な処や醜い所も含めてすべて受け入れて、相手にこれ以上にない幸福感を与えるような交わりでないと、統合には向かわないと思います。勿論、自分の方のマイナス要素もすべて、相手にさらけ出す勇気も必要です。条件と心を整えることが出来たら、その行為の中で、宇宙との統合さえも実感できるのではないかと思います。

女性性と男性性の統合とは

 最近のスピ系SNS界隈で盛んに取り上げられているのが、『統合』というワードである。いろんな統合が論じられているが、その中でも大きくトレンド入りしているのが『女性性と男性性の統合』というワードである。いまさら何をと言う人々もいると思われるが、実はこの女性性と男性性の統合という概念を、正確に認識している人はけっして多くない。多くの誤解もあるだろうし、何となく理解していると思い込んでいる人は少なくない筈だ。女性性と男性性の統合なんて必要ないと豪語する男性もいるだろうが、それは間違いである。

 自己の確立を実現させて、大人としての立派な人格を形成して、人間としての成長進化を成し遂げる為には、女性性と男性性の統合は避けては通れないものなのである。言い換えると、女性性と男性性の統合を実現していない人は、人間として不完全だと言ってもいいだろう。さらに言えば、女性性と男性性の統合を実現するというのが、生まれてきた意味や生きるうえでの大切な命題ではなかろうか。だからこそ、女性性と男性性の統合ということの真の意味を知るべきだろうし、実現することが必要不可欠なことなのである。

 さて、女性性と男性性との統合とはどういうことなのであろうか。女性性とは、家事育児を上手にこなせるように、家族の気持ちや状態を把握できる為、感性や想像力を働かせられるようにとか、思いやりや共感力と傾聴力が発揮できるようにするという天賦の能力のことだと思っているであろう。一方、男性性とは家族を守る為に敢然と敵と対峙できる強い精神性や、社会悪に立ち向かう正義感、身を粉にして企業戦士となり社会貢献に寄与する強い使命感、そのための創造性や企画開発の能力という捉え方をする人が多いことだろう。

 そして、そのどちらをも大事だと思い、女性も男性もその女性性と男性性を豊かに取り入れて、身に付けて人生において発揮するということが統合だという意味だと思うに違いない。果たして、女性性と男性性の統合とは、それだけなのであろうか。そんな単純なことではなかろうし、そんなに簡単に女性性と男性性をひとりの人間が身に付けられると考えにくいし、もっと深い意味が隠されているような気がするのは自分だけではない筈だ。ましてや、女性性と男性性を見事に取り入れて、それを発揮できている人間が極めて稀なのである。

 つまり、女性性と男性性の統合の重要性を、真に理解している人は極めて少ないし、その価値を過小に評価しているのではなかろうか。だから、女性性と男性性の統合に、真剣に取り組んでいる人が少ないし、実現している人はほんの一握りしかいないのだ。女性性と男性性の統合とは、単なる能力の取り入れと発揮ではない。その統合により、人間としての新たな大きな価値を創造することなのである。男性性までも取り込もうと努力している女性は多いが、女性性をも身に付けたいと切に願う男性は極めて少ないのである。

 脳科学的に考察すると男性性と女性性の働きが理解しやすいかもしれない。平和と幸福、豊かな関係性と共感性を司る脳内ホルモンとして、セロトニンがあげられる。セロトニン神経は、組織内の人間関係を円滑にして協力体制や支援体制を築き上げるには必要不可欠なものである。一方、報酬系のホルモンであるドーパミンは、成果達成や子孫繁栄、組織統括管理や成長意欲にとって必要不可欠なものである。このドーパミンホルモンとセロトニンホルモンは、人間が生き生きと自分らしく人生を全うするには、共に必要なものなのである。

 セロトニンとドーパミンをバランスよく分泌させて、それを生活により良く生かしていくことが、人間として生きて行く為には必要であり、それがワークライフバランスにも繋がることである。このワークライフバランスこそが、真の男女共生の理想の姿であり、家族と言うひとつのシステムが良好に機能する大切な統合である。そうすると、この女性性と男性性の統合により、オキシトシンホルモンが十分に分泌されて、不安や恐怖感を払拭して、安心で楽しい社会が形成されるのである。これが統合による新たな価値の創造と言えよう。

※次回は、女性性と男性性の統合についてもう少し深堀りして、どうすれば実現できるのかについて考察してみます。

女の幸せという呪文から解き放て

 男性から、または両親や親族から、女の幸せを求めなさいと説き伏せられることが多くないだろうか。女の幸せを求めることが、世の中の共通価値観だと、小さい頃から思い込まされてきたに違いない。男の幸せを求めなさいと諭されることはないのに、どうして女の幸せだけを追求せよと指示されるのか、とても不思議である。女の幸せという言葉は、いつの間にか当たり前のように私たちの心を支配してしまっている。だから、女の幸せを求めようとしない女性は、社会からは落伍者のような扱いをされるのだ。

 ところで女の幸せというと、どのような生き方を思い浮かべるであろうか。まずは結婚して良妻賢母を全うすることがあげられよう。さらには、自分の欲望を満たす事や自己実現よりも、家庭を守り家族の幸福を実現することが最優先の生き方としてあげられる。つまり、男は外で働いて、女性は家庭を守るという生き方こそが、女性としての幸せだと、子どもたちに言い聞かせて育てたのではないだろうか。だから、息子も娘も女の幸せを実現しようという考え方を知らず知らずのうちに擦りこまれてしまったように思う。

 この女の幸せというワードは、至極当然であり誰もがこの生き方を求めるべきだという価値観を押し付ける。言わばマインドコントロールではないかと気付き始めた人も多いように感じる。だからこそ、社会的な価値観に縛られず、自分らしく生きたいと思う女性も増えて来たし、親からの古い価値観による支配を逃れようとする女性が現れたのではなかろうか。男女共同参画社会の実現を謳いながらも、まだまだ日本における男女の平等性は低いと言わざるを得ない。特に、家庭において果たす男女の役割分担については問題がある。

 家事育児の役割分担における男女の比率が、日本人という国民性もあるからと言えようが、女性の負担割合が極めて大き過ぎるという実態がある。そして、女性は仕事よりも家庭をなによりも大事にすべきだという価値観が、女性だけでなく男性をも支配するのである。だから、女の幸せとは家庭を守り子育てすることを最重要課題として全うし、旦那様の仕事と成功を支えることが女性としての幸福なんだと思い込まされてしまうのだ。男性もそれこそが女の幸せなんだと勘違いすることから、女性の不幸が始まるのだ。

 日本人の多くがというよりも殆どが女の幸せという言葉に違和感を持たないであろう。それが日本人の殆どが持つジェンダーにも繋がっている。そもそも女の幸せなんていう言葉そのものが、女性を家庭に縛り付けるためのプロパガンダであると言えよう。女性の人権を侵害するばかりでなく、女性の社会における活躍を阻害させてしまう言葉を使うべきではないのである。この女の幸せという言葉に惑わされてしまい、本来の自分らしい生き方を諦めてしまった才能ある女性が、どれ程いたかと思うと悔しい限りだ。

 女の幸せという概念を創り上げたのは、誰であろうか?それは、女性自身が創り上げたものではないだろう。女性を見下していて、家庭に縛り付けて夫にとって都合の良い妻であり母であり続けることを望んだ男性が、女の幸せという概念を創造したに違いない。なんと低劣な価値観であろうか。家事育児は女性が担当して、男性が仕事に専念しやすいように、または女性を社会に進出させないようにして、夫が妻を独占しようしたのではないかと思われる。妻は夫から一方的に所有・支配されてコントロールされる存在ではないのだ。

 女の幸せという概念を排除してしまったら、結婚しない女性が増えるし、出産しない女性が増えてしまい、少子化が一層進んでしまうと保守層は反対するに違いない。それはまったく的を射てない考え方だ。女性がもっと社会に進出して活躍して、仕事においても輝き出したとしたら、少子化は止まる。何故なら、人間本来の自分らしい生き方が出来るようになり、自分自身を愛せるようになった女性は、自分の分身をこの世に残したいと思うからだ。ましてや、積極的に家事育児を分担しようとして、社会で活躍する妻をサポートしようとする男性は、女性から見ても魅力的だから、この人の子孫を残したいと思うのである。女の幸せという呪文から解き放たれた社会を実現したいものだ。