理論物理学者と仏教学者がNHKEテレで唯識の科学性について対談をしていた。理論物理学者は、理論としては頭では理解したとしても、科学的に実証されなければ、事実だとはとても思えないということを話していた。一方、仏教学者が言うには、唯識論は科学的に証明することは出来ないが、結論としては正しいことが確立されていると主張していた。何故ならば、唯識論によって多くの人々が救われて、幸せを実感しているからだと言っていた。つまり、人間として生まれ生活していて、苦を経験して苦から解放されずにいた人々が、唯識論を知って実践したお陰で、多くの人が救われているし、幸福な気持ちになっていると言うのだ。確かに、そういうことは言えるだろうと思った。
仏教と科学はなかなか相容れることが出来ないというのが一般論としてある。科学が目指すものは、その発展により人々を幸福にしたり、生活を豊かに便利にしたりすることだろうと思う。仏教もまた人々の心を幸福なものにしていくという尊い使命がある。どちらも、目指すところは基本的に一緒なのである。ところが、科学の進歩が人々の幸福に寄与しないケースも少なくない。例えば、北朝鮮の核開発やICBMの進化は、世界平和に対して逆効果を与えている。また、欧米の主要国における核軍備における科学的進歩は、世界の終焉を迎えさせようとしている。さらには、科学の進歩が環境破壊を引き起こしている例も多い。仏教は、人々を幸福に導こうとしているのに、科学は逆に幸福を脅かす働きをすることがあるのだ。
科学が人々の幸福に寄与しなければならないという命題は、科学者はけっして忘れてはならないことである。アインシュタインが、結果として原爆の開発に協力してしまったと、一生涯悔やんでいたというのは有名な話として伝わっている。彼は、科学者としての研究の後半は、形而上学に則った科学の発展を目指していたということが明らかになった。つまり、科学の発展は人々の幸福に寄与しなければならず、科学は戦争に協力したり、個人の利益だけに寄与したりしてはならないということを、強く主張していたと言われている。現代の科学者は、その大原則を忘れている場合が少なくない。科学は哲学を基本にすることをけっして忘れてはならないのである。科学者たる者、科学哲学の立場を常に忘れることなく、科学の研究をすべきであろう。
理論物理学者と仏教学者の対談は、さらに幸福とは何か?という部分にまで進展した。幸福とは何ぞやという問いかけに対して理論物理学者は、人それぞれ幸福という物差しが違うから、一概には言えないという立場だった。その人によって幸福の捉え方が違うのだから、幸福はこうだと断言することは出来かねるという主張だ。ところが、仏教学者は幸福の定義をいとも簡単に断言したのである。幸福というのは、人の為世の為に貢献しようと精一杯努力して、それが叶えられて、その努力が報われることだというのである。それを聞いて、理論物理学者は唖然としてしまい、反論さえ出来なかったのが印象的であった。
幸福というのは、自分が豊かさや快楽、または人から高い評価を受けるとか、地位や名誉を高められたり尊敬されたりした時に感じるものだと思っている人が殆どであろう。ところが、仏教学者は自分の幸福というのは自分だけでは感じないというのだ。あくまでも他人との関わりの中で、相手を幸福にしてあげた時に感じるのが幸福だというのである。多くの人々、または社会に貢献し、人々を豊かにして幸福な気持ちにすることこそが、自分の幸福だという。確かに、自分が何らかの利益を得た時の幸福感は、あまり長続きしない。一方、他人を幸福にしてあげられた時に感じるものは、じわじわとずっと長く滲み出るように思う。幸福というものは、確かにそういうものかもしれない。
弘法大師空海は、人の生きる目的は衆生救済と即身成仏だと言ったと伝えられる。多くの人々を救うというのは、幸福にすると言い換えてもいいだろう。即身成仏というのは、生きたまま成仏するという意味で、仏性を得るような自己成長を遂げるということであろうか。仏性を得るのは、やはり人々をお救いするために必要だからである。人間の価値は、どれだけの人を幸福に出来たかということで決まるようだ。最新の医学研究で、幸福感をよく感じる人は、あまり幸福感を感じない人よりも、7年から10年長生きするそうである。人の為、世の中の為に貢献し、幸福感を感じて健康で長生きしたいものである。