龍神と人間の精神的な繋がり

 前回のブログで龍神と人間の関りについて私的考察を試みたが、さらに精神的な部分についてもさらに深く掘り下げてみたい。龍(龍神)とは、水を司る(自由に操る)存在であり、人智の及ばないものでもあり、龍神を諫めて抑えてくれるのが不動明王であり、逆に龍神に元気と癒しを与えてくれるのが観世音菩薩だと古人は思ったらしいと説明した。だから、瀧の周辺には不動明王や観音菩薩が祀られているとも考えられる。さらには、人間の煩悩(欲望)とも言える自我は、龍神とも重ねられるともブログで記した。

 人間には煩悩が必ずあって、煩悩があまりにも強大になり暴走してしまうと、人間を苦しめる。仏教には四苦八苦という考え方があり、五蘊盛苦というのはそのひとつであり、燃え盛るような煩悩・欲望は自らをも滅ぼすし、大きな苦しみをもたらすと仏陀は説いている。まさに、時にはコントロールが出来ない程の煩悩を人間は持っているし、一度暴走してしまうともはや自分の力では抑え込むことさえ困難になる。食欲や性欲、物欲や金欲などもコントロールできなくなることもある。古人はそれらを龍神と呼んだのかもしれない。

 また、煩悩・欲望をまったく失ってしまった状態を考えてみよう。ある程度の物欲があるから、経済活動のモチベーションが得られるのであり、物欲をすべての人間が完全に失ったとしたら、経済は成り立たなくなる。経済発展は完全停止して、生産活動も滞ってしまい、物が売れなくなってしまう。性欲が完全に無くなったとしたら、雌雄間における生殖活動は停滞し生命の再生産は破綻して、動物は死に絶えてしまう。ある程度の適切な煩悩・欲望は生物にとって必要不可欠な物とだと考えられる。

 龍神が人間の生きる為のエネルギーだと考えると、過大になり暴走することもなく適切に高められている状態に置かれることが必要である。暴走した時にはブレーキを踏んでくれる存在が必要だし、あまりにも元気や勇気を喪失して生きるエネルギーが枯渇した際には、アクセルを踏んでくれる存在が求められる。人間の欲望が暴走した際は、不動明王が諫めて抑えてくれるし、欲望が低下して生きる気力さえ失くしてしまった時は、観音菩薩が自我を慈しみ癒して勇気付けてくれると、考えたのではあるまいか。

 人間には、自我(エゴ)と自己(エコ)がある。自我を乗り超えて昇華させて、自己と統合させて、真の自己確立を成し遂げれば、自我に翻弄されることもないし、自我を有効に役立てることも出来る。時には暴れたり元気を無くしたりする龍神を、自分の心の中で上手く飼い慣らしていければ、幸福で充実した人生を歩んで行ける気がする。その為の心の拠り所として、不動明王と観音菩薩の法力を頼ったではなかろうか。不動明王は父性愛でもあるし、観音菩薩は無条件の愛である母性愛を象徴しているのかもしれない。

 現代の日本人は、どちらかというとあまりにも龍神を押し込めてしまい自由を奪ってしまっているような気がする。本来であれば、瀧の周辺で自由に舞い遊ぶ龍のごとく、あるがままに誰からも支配されることなく遊ばせることが肝要である。そういう意味では、龍神はインナーチャイルドのような存在かもしれない。現代日本人、とりわけ真面目な生き方をしている人は、インナーチャイルドがあまりにも強い抑圧や制御による影響で、傷付き歪んでしまっている。本来の自由で闊達で天真爛漫なインナーチャイルドではなくなっている気がしてならない。

 純真であるがままの自由奔放なインナーチャイルドこそが、本来の龍神なのではないだろうか。龍神=インナーチャイルドが、誰にも支配されず抑圧されず本来の天真爛漫な状態に保たれているならば、暴走することもなく落ち込んで元気をなくすこともない。その為には、乳幼児期にあるがままにまるごと愛されるという経験が必要である。もし、それが体験出来ずに育ってしまい、自我の芽生えもなく自己の確立も叶わず、インナーチャイルドが歪んだまま大人になったケースでも、龍神が息を吹き返すことだってある。滝巡りのツアーをしたり、龍神由来の神社仏閣を巡り、龍神たちと触れ合うことで、インナーチャイルドが癒されるに違いない。

※メンタルが落ち込み過ぎてしまい、生きるエネルギーが枯渇してしまったと感じている方、または逆に自我(エゴ)が暴走してしまい、欲望・煩悩を制御できないとか、依存症で苦しんでいる方たちに、滝めぐりツアーや会津の神社仏閣巡りをお勧めします。問い合わせフォームからご連絡ください。日帰りでも行ける会津の不動滝巡り、山小屋に一泊しない行けないような尾瀬の三条ノ滝巡りなど、様々なコースがありますので、ご検討ください。

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